【護衛】再来
那津と別れてからも、俺の鬼退治の旅は続いた。
それでも、この世のどこかに思う人がいるという事は、いつも俺を安心させた。一人思う時には胸に下げている翠玉を握りしめた。滝壺の色の翡翠が、その水のように、俺の心を清めてくれると思えた。
そうこうする間に八年が過ぎた。俺は鶴を思い出しては、那津のところに赴こうかと思い、かと思えば他の用事をこじつけては、逃げ道を作った。
そんな折だった
神から啓示が降りた
与津の都へ行け
その声と同時に肌身離さずにずっと身に着けていた翠玉の紐が切れた。
嫌な予感しかしなかった。俺は急いで近くの木に駆け登った
導きの鳥が降りて来る。俺はその後を追った
夕闇が迫る中、峠にある木立の枝を渡っていく。結った髪が、風に煽られ靡いて獲物を追う虎の尾のように激しく揺れているのはわかっているが、それに構っている暇はない。導きの鳥は何時も以上に疾く飛んでいる。今回は燕だ。燕は神の眷属であり、只ならぬ事が起きていると思われる。那津と別れてから今まで、度々気にはなっていたが訪れることはなかった。俺はそのことを後悔しつつも行かなかった言い訳を考えている己を恥じる。鬼が完全にいなくなった訳ではない事を知っていたにも関わらず放置したのだ。八年もあれば何か起きても不思議ではない
与津の都が見えてくる。鬼は想像以上にたくさんいる。人や家屋を襲い、あちこちで建物に火がついている。鬼を払う為に使った松明から、家屋に燃え広がったのかも知れない
「燕、導きを頼む」
燕は一声鳴くと更に疾く飛ぶ。俺はその後について行きながら邪魔になる鬼を斬っていく。燕が目指した先は那津のいる宮地家だった。屋敷の門前にご当主がおり、閃光のごとく鬼を斬り倒している
「ご当主、逸彦が助太刀いたす!」
俺は叫ぶ。
「逸彦殿か!久しいのう」
当主は刀を持つ手を少しも緩める事なく俺を見た
当主に懐に入れていた丸薬の紙包みを押し付けた
「それは柿渋。飲めばしこ(鬼)になるのを遅らせる効果がある」
それを聞いたご当主が俺を見て笑う
「承知。都の東から押し寄せて来たのだ。ここは守る。済まぬが周りのを頼む!」
俺は頷くと当主に近づこうとする鬼を斬った
俺は己を許せなかった。この状況は俺に責任がある。どんな恨みを買おうと俺はここにいる鬼を殲滅することを己に課した。これまでよりもより早く多くを。燕は俺を誘導し、都の中だけでなくその周辺の森の中にも分け入った。それは日が沈んでも続く。俺は星明かりを頼りに鬼の居場所を探る。小さい村や岩室、洞窟などにも入る。俺は何も見えなくても鬼がいる場所がわかった。
そうして鬼を斬り続けて、燕が俺の前に降りたのは翌日の昼前だった
俺は意識と身体が一致するまで少し待った。それから、意識はゆっくりと、俺にとって最も重要な事を思い出した。那津の元へ行かねば
宮地家の屋敷に戻る。都の中は荒れていたが火は消し止められており、生き残った人々が片付けをしている。宮地家に入ると那津に付いていた女子が出迎えてくれ、再会を喜んだ。那津が無事だと教えられて安堵する。ご当主は守り通してくださったのだ
「御当主は居られるか」
女子は困ったように
「居られますがお会い出来るかどうか。那津様に聞いて参ります」
「いや、お忙しいならまた別の機会に致す」
「いえ、どうかそのまま。逸彦殿をお帰ししたら我が叱られます」
土間で待つ俺の肩に燕が止まった。こんな事は初めてだが、導きなので何か理由があるのだろう。そのまま立っていると那津がやってきた。別れた時と何も変わらないように見えた
「逸彦殿、お久しぶりにございます。鶴の齢は千年には満たないとは思い及びませんでしたか」
まさかいきなり鶴の話しが出るとは思わず、俺は思わず顔を赤くした
「いや、その…これまでご無沙汰しており申し訳ない」
怒っていたのかと思ったが、那津は笑う。そう、那津は俺の隙を突いてはこういう笑顔を見せたものだった。
「相変わらずお変わりない逸彦殿で安心しました。まずはお上がり下さい」
俺は客間へ案内される。燕は肩に乗ったままだ。屋敷の中は片付けや修繕などで慌ただしいが、どこか皆、意気消沈しているようだった。俺は那津の様子が心配だったのでその安否を聞きたいと思ったのだが、やはり気が急いていたと反省する
少しすると当主の元へ案内すると小間使いが声を掛けてきた。俺はその後に続く
「逸彦殿が参られました」
案内された先はどう見ても納戸だった。戸板が開くと昼なのに閉め切って、灯が灯されていた。部屋の中に入ると俺の後ろで小間使いが戸を閉めた。誰かが床に伏していて、側に那津とその夫が座っていた。先程の戦いでご当主が何か負傷されたのかと思い中に入り顔を見ると、体毛が濃くなり角が出始めている顔があった。ご当主だった
よく見るとご当主の身体が横たわっているのは畳ではなく戸板で、戸板ごと荒縄で締められている。完全に鬼になった時の用心だろう。
ご当主は己を危ういと思い、渡した柿渋の丸薬を自ら飲んだのだ。柿渋の効能と強い精神力で、今まで持ち堪えたのだ。俺はもっと早く戻れたなら、と後悔した
「逸彦殿、よく参られた。この度の助太刀、誠に有り難く御礼申し上げる。この有様で起き上がる事も出来なんだが、お許し頂きたい」
俺は何と答えて良いか分からず困惑した。
「神の啓示があり、この地に参った。燕が導いたのだ」
燕はそれに応えるかのように、一声鳴いて俺の肩から降りた。那津もその夫も驚いて燕を見る。燕は俺の顔と皆の顔を交互に見る。紹介しろという事らしい
「これがその燕だ」
燕は飛び立ちご当主の身体の上にとまる。丁度胸の辺りだろうか。ご当主の顔がやわらくなり、涙を流し始める
「おお、何ということか。神の愛に包まれておる。我は天に召されるのだな」
「父上、しっかりなさってください。まだお元気で頂かないと」
「もう良い。後はそちに任せる。那津、此奴を支えこの地を守れ。心配いらん。逸彦殿もおるからな」
ご当主は俺の顔を見る
「さあ逸彦殿、その腕、見せてくれ。己が体験できるとは何と愉快か」
俺は己の内側に繋がり神に問う
斬れ
俺はご当主の命の尊厳を守り、最大の敬意を払う。その決意をもって刀を抜いた。苦しまずに死ぬるよう、心の臓を一太刀で貫いた
俺は涙が止まらない。これ程斬るのが辛い事は未だかつてなかった。だが俺は己の責任を取る為に斬った。これが俺が為した結果なのだから
刀を鞘に戻すとご当主は人の姿に戻っていた。燕は一声鳴くとご当主の身体を強い光が包む。燕が飛び立つと、それと同時に光も上昇し、天井に吸い込まれるように燕と共に消えた。戸板にはご当主の亡骸がある。眠るような顔だった
茫然と見ていたご当主の息子は文机を掴んで持ち上げた。文机の上に置いてあった行李から硯や筆箱が勢いで飛び出した
「おどれ!父上に何を!」
息子は力任せにその机で俺を殴りつけた。俺はそれを見事に喰らって、倒れた。文机はばらばらに砕け散じた。
避けられなかった訳ではない
俺は息子殿の大切な人の命を奪ったのだから、今ここでその報いを受けて死んだとしても構わないと思ったのだ。
頭から床に叩きつけられ、目の前が暗転した。遠のく意識の中、那津の声がした
「なりませぬ、恩人です!」
俺は道を歩いていた。両側に緑の草が生い茂り風に揺れている。平な道で誰かに手を引かれている。あちこちに青色の花が咲いている
「かか様。青の花が綺麗です。何という名ですか」
俺が見上げると美しい女が優しく微笑んでいる
「それはツキクサです。昼になると花は萎んでしまいます。草は煎じると熱を下げます。喉が痛い時はうがいをすると良いですよ」
俺は何か嬉しくなり
「かか様はなんでもご存知ですね」
母を見上げる
「汝も薬師になるのなら覚えておくと良いでしょう」
俺は元気よく返事をすると目が覚めた
目を開けると俺を覗き込む女の顔があった。
「かか様」
夢の中の母様とそっくりで、思わず言ってしまった
「良かった、生きていて」
その顔は那津だった。頰に笑みが浮かんでいた
那津は潤んだ瞳で俺の目を見た
「思い出して頂けたのですね」
冷たい衣の感触が頭に当てられた。那津は汲んだ水で俺の頭を冷やし続け、また湯冷ましで口を湿していてくれたのだった。那津はもう一方の手を伸ばして、赤児の頭を撫でるように、俺の髪を撫でた。殴られた衝撃で髪は解けたようで、散ばらに床に乱れていた。那津に失礼だと思い起き上がろうとするが、身体は重くその手の心地良さと頭痛で身を起こせなかった。
「ぬしは我が愛児、そうであった。宿世で何度も何度も」
那津は俺の顔を見ながら、その奥にあるものを見透かすように、目を細めた
「されど、ぬしは我との毎度の別れが寂しうて、我の元へ生まれぬように願った。だから今世は、何としても会いたかった」
俺は何も言えず、ただ、頭を撫でられるまま、赤児のように那津を見上げた。その手を通じて伝わるぬくもりが、俺の心に満ちた。那津の口から出る言葉の一つひとつが、真実だと感じていた。俺は覚えていないが、確かに俺が会わない事を願ったのだった。俺の存在がやがて重荷となって、集落で母の立つ瀬がなくなり、必ず去る事になる。その体験を母にさせたくないと思ったのだった。
「我がどれ程ぬしの身を案じ、どれ程待っていたのか、まだわからぬか」
この清い人に、俺は何故愛されるのか。ただひたすらに鬼を斬る存在。俺が子であるなら親に顔向けできるような事は何もしていない。それでも愛されるのか。それを許されるのか。わからない。何故だろう。己はいつの間にか神に問うていた。何故俺は愛されるのか
命のままに道をゆくものは愛である
愛は愛しき子を抱く
「わからぬようでしたら、あの時石頭を扇いで燃やした位では足りぬようですね」
あの旅籠の庭での出来事の事か。俺は我に返る
「あ、いや、誠に遅くなって済まぬ、此度は頂いた玉の紐が切れ…」
俺は叱られた子のように焦って言い訳する。那津は声をあげて笑う。俺は赤くなって顔だけ横を向いた。いつもの那津に戻ったようだった。そうして見ると、夢に出てきた母様と顔は違うように思えた
「お加減はいかがですか。まだ痛みますか」
頭はまだ痛いが身体の重苦しさは今の出来事で吹き飛んでしまった
「頭は少し痛い、だが大丈夫だ」
那津は少し身を引いて後ろに下がり、背筋を改めた
「己夫が恩人である逸彦殿に狼藉を働いたこと、謹んでお詫び申し上げます」
那津は手をついて頭を下げた
それから那津は夫に俺が来なければこの地は全滅していたこと、俺が鬼だけ斬ったからご当主は鬼から解放され亡骸は人の姿に戻ったこと、俺から渡された柿渋を飲んだのでご当主は直ぐに完全な鬼にならず、家族全員が命を拾ったことを話し、大恩ある俺を殴り倒すとはいかなる所存かと問い詰め、ぬしも同じ思いをなさいと張り手で頰を打ったそうだ
「逸彦殿にも非はあります」
俺には思い当たる非が沢山あるので、一体どれのことかと考えていると、那津が言った
「何故あの程度、避けられぬのですか。腕で庇いもせず」
那津の気迫にたじろぐ。来るのが遅れたとか、ご当主を一人残したとか、考えていた事は全部外れていた。俺が答えに窮していると
「大方、父の命を奪ったのだから、死んでも良いとでも思われたのではありませぬか」
那津は俺の顔を見据えて黙す。俺も何も言えない。まさにその通りだったからだ
「何故己が命を大切にされぬのです。どれだけ心配させれば気がすむのです」
那津の目から涙が落ちる
叱られて嬉しいと思う事があるのだと初めて知った。叱るというのが、俺の過ちを正すためではなく、俺の身を案じての事だというのは新鮮な喜びだった。俺は愛される事が何かを少しわかったように思った。
俺が生きることを喜ぶ人がいるということが、胸を熱くさせた。鼻の奥が突かれたような感覚を覚えた。
那津の喜びを見て、生きていて良かったと初めて思った。俺はいつ死んでも良いと思って生きていた。生きる事に喜びがあるなんて考えたことも無かった
「何故叱られて嬉しそうな顔なさるのです」
顔に出ていたようだ。恥ずかしくなって横を向く。鼻の刺激がそのまま目に涙を滲ませた
「もし身を起こせるようなら、重湯を召されませ」
那津が重湯を取りに台所に行く間に、俺はゆっくりと身体を起こしてみた
身体のあちこちが痛かった。その件で、というよりも、身体が安堵したせいで自分があちこち痛いところがあった事を思い出し、一斉に言い出したかのようだった。
重湯を飲むと、もう少し横になって、できるなら眠るように勧められ、俺はそうする事にした。悪さしでかした子のように、俺はもう那津には何も逆らえないのだった