Episode3
朝。勢いよく俺の右腕にヒットしたテレビのリモコンが床に音を立てて落ちた。投げられた方向を見るといつにもまして壊れている母が俺をにらみつけて立っていた。
母はとても不思議なのだ。俺のことがとても嫌いで、俺に手を出す癖に追い出しはしない。多分俺を傷つけて自分の心の穴を満たしているのかもしれないから、俺は耐えるしかなかった。
見捨てられないから。たった一人の肉親だから。
玄関で使い慣らされた茶色のローファーを履き、大手スポーツメーカーの白いロゴが大きくプリントされた黒いリュックサックを背負って俺は家を出る。
徒歩2分の場所にある、海岸に面した道路でバスを待つ。日本史の教科書を片手に一人でバス停の列に並んでいると、背後から肩をたたかれ振り返る。するとそこには俺の幼馴染・宗像かなのが笑みを浮かべながら立っていた。
「なんでまた教科書なんか手にもって…まさかっ!雪でも降るのか!?」
そう口にした途端、さっきまでのかわいらしい笑みはどこやら、絶望したようなこの世の終わりのような顔を向けてくる。「うわあ、日本史だけは負けたくない…!」ともこぼす。
「大丈夫だよ、かなのは頭良いからまだ追いつかないよ」
そう言っていると、両手をパチンと鳴らしながら合わせると、「それもそうか!」と納得した様子を見せる。ちょっと傷ついた。
そんな会話をしていると、定刻通りにバスはやってくる。俺らはバスに乗り込み、いつものように後部座席の入って左側に座る。このバスの客はほとんどうちの学校の生徒なので、みな指定席のように毎日同じ椅子に座っている。窓側にかなのが座り、俺はその隣に座る。朝家を出る前、母が俺にリモコンを投げた場所に、たまたまかなののスクールバックが俺の右腕にあたり思わず、
「いてっ!」
と若干おおげさなくらいに声をあげてしまい、近くに座っていた人たちの視線を集めてしまう。俺は何もなかったかのように平然を装っていると、隣に座っていたかなのが負傷部に手を触れながら、
「またおばさんが?」
と、距離をゼロセンチにして、耳打ちしてきた。吐息が耳にあたりぞわぞわとして気持ち悪い。俺の右腕に触れていた手をゆっくりと動かすと、俺の右手と絡める。少し不快感を覚えた俺は「まあ」とそっけなく言うと、それ以上は何もなかった。
宗像かなの、ただの幼馴染では無い。俺と彼女は数ヶ月前まで付き合っていたのだ。今思えば、俺がかなりの割合で悪い、自覚はある。
基本的に、周囲の人には虐待を受けていることはばれたくない。それは、自分が憐みの視線を向けられることが嫌だというのもそうだし、母の行為が露呈して目の前から去ってしまうのも嫌だったからだ。だからずっと我慢してきた。
かなりうまく隠していると思っていたのに、かなのにだけはばれていた。俺はその時に、唯一自分をわかってくれる人はかなので、自分にはかなのしかいないのだと思い込んだ。そうやって彼女に依存してしまった。
もともと,かなの自体が依存気質だったから二人で堕ちるとこまで堕ちてしまった。
数か月前にこの状況がよくないことにようやく気づいた俺は別れ話を切り出したが、もちろん聞き入れてもらえてないので、あちらは付き合っていると思っていて俺は別れていると思っているという状態で現在に至る。元々幼馴染ではあるので、そこに関しての対応は変わらないが、幼馴染としてではなく恋人同士のような距離感で詰められるのはかなり嫌なので、それなりの対応をしてしまう。
かなのからのちょっかいを軽くあしらっていると、バスは学校前のバス停に着いた。立ち上がるとそのまま出口へ向かう。いつものごとく「ちょっと待って!」とバタバタして俺の後をついてくるかなのは、親のアヒルの後ろをついてくる子アヒルみたいだ。そしてその列を崩さずに俺たちは校門をくぐった。
「みなとー!お前最近なんでそんながり勉になってんの」
そういって俺の髪をわしゃわしゃしながら前の席に座ってきたのは、小学校の頃からずっと一緒にいる春日 大成であった。大成は俺と同じく日本史選択者なのに日本史が苦手で、二人でいつもワースト1位を競っていた。まあもう競うことはないが。
「がり勉になってないよ、日本史だけだし。まあ人に教えるようになったから、自分ができなきゃ意味ないし勉強してるだけだよ」
「人に教える~?教える相手なんかいるのかよ、まさか彼女できたのか!?…あ、いや、んなわけないか、宗像がいて手出せる奴なんかいねえよな」
と、大成はだんだん声を小さくして耳元でささやく。まあ、俺とかなのが付き合っているのはもはやクラスどころか学校公認みたいな部分がある。そして、俺が別れたことを大成に打ち明けた時に聞いた話だが、俺は別にモテるなんてことはその前も今もないけど、かなのがほかの女の子が近寄らないようにしていたらしい。
かなのの本性を知っているのは数少なく、基本男子だけでなくもちろん女子にもいい顔する。ほかの女子が近寄らないようにしたと言っても、ただ惚気を周囲に漏らしてた位らしいが。
「元カレを前にして言いたくはないが、俺にはあの女の良さわかんねーな!顔と身体だけだろ!」
という大成に思わず「いや十分だろ」とツッコミを入れる。こうやって学校にいる間も、頭の片隅にはあの子の顔が浮かんで。
早くいつもの場所に行きたくて、俺は学校に行っては放課後を待ちわびる毎日を送っていった。