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スワロウ・サロン

作者: 吉田逍児

 妻の自殺。

私には考えられないことであった。私はニューヨークでの仕事を中途で切り上げ、急いで日本に帰った。成田空港では、会社の車が待っていた。私の事を心配して、『和光商事』の本庄高行社長が、わざわざ車を準備してくれたらしい。横川運転手が運転する会社の車で、自宅へ帰る途中、私は妻の様子がどうだったかなど、迎えに来た部下の寺山正雄から聞いた。すると寺山君は、次の報告をしてくれた。

「あの日、午後二時半頃だったでしょうか。課長の隣の家の奥さんから電話があったのです。課長に急いで連絡を取りたいって。課長は海外出張中でだと、広瀬君が答えると、そんな事、分かっていますと叱られたんです」

「当たり前だ。俺が海外に出張する時は、いつも隣の家に挨拶して出かけるからな」

「そこで、僕が電話を替わって、どうしたのですかと訊くと、奥様が亡くなられたとの知らせだったのです。僕は先ず、総務部に連絡し、広瀬君にアメリカへの連絡を依頼し、この車で横川さんと課長の家まで猛スピードで行きました。課長の家の前では警察官が柵を張り、野次馬を近づけぬよう、数人、立っていました。主人の会社の者だと話すと、刑事さんが家の中に入ることを、許可してくれました。横川さんには、少し離れた所で車を待機していただきました」

 私は、その時の様子を想像した。

「それは大変だったな」

「僕が家の中に入って行くと、弘君が僕の顔を発見し、〝おじちゃん〟と言って跳び付いて来ました。弘君を抱きしめた途端、僕は涙が溢れ出ました。たった一人で、今までの時間、よく頑張ったと、弘君を褒めてやりました。隣の家の奥さんが、弘君から教えてもらって、親戚の人たちには連絡済みとのことでした」

 私は、その話を聞いて、涙が出そうになった。成田空港から都心へ向かう高速道路の街灯は私の涙を覗き込むように時々、瞬いた。

「いろいろと世話になったな」

「弘君に案内され、奥の部屋に行くと、奥さんは検死の医師によって、綺麗に処理してもらい、眠りについていました。奥さんのお兄さんが駆けつけたのは、刑事さんから状況報告を訊こうとしていた時です。僕はお兄さんと一緒に状況報告を受けました。

 ●第一発見者は弘君

 ●第二発見者は隣りの高橋さんの奥さん

 ●亡くなられた場所はバスルーム

 ●死因は手首自傷による大量出血

 細かなことは僕から話すより、後で警察の方から正確なところを聞いて下さい」

「そうか。分かった」

「お通夜は明日になっております。葬儀は明後日です。総て奥様のお兄さんと、会社とで相談して進行しておりますので、ご安心下さい」

「ありがとう」

 そこで会話は途切れた。私は誰も発言しようとしない時間の中で考えた。本当に則子は自殺したのだろうか。



        ○

 午後九時前、自宅に到着し、私は寺山君を横川運転手の車で帰した。それから自宅に入ると、総ては寺山君の報告通りであった。自宅では経堂の実家の兄、山村忠生と則子の母、川崎瑞枝と則子の兄の一郎たちが、待っていた。弘は私を見るなり、私に跳び付いて来た。

「お父さん!」

 その叫びの中に私は数百、数千の言葉が込められているのを感じた。

 ▲お母さんが死んだ。

 ▲自殺だよ。

 ▲何故、アメリカから、もっと早く帰れなかったの?

 ▲僕は一人でいたんだよ。

 ▲学校から帰って、僕が発見したんだ。

 ▲風呂場が血の海になっていた。

 ▲とっても怖かったよ。

 ▲隣りの聖子おばさんに直ぐに知らせたんだ。

 ▲救急車を呼んだんだ。

 ▲聖子おばさんが、110番してくれたんだよ。

 ▲会社にも連絡してくれた。

 ▲世田谷の伯父ちゃんには僕が電話した。

 ▲刑事さんが来て、僕にいろんなことを訊いたよ。

 ▲僕は細かなことを訊かれたけど、よく覚えていない。ただ風呂場が血の海だったと話したんだ。

 ▲隣りの聖子おばさんだって、同じことだ。

 ▲刑事さんに、いろいろ訊かれた。

 ▲僕たちは電話ばかりしたんだ。川崎の家にも電話した。

 ▲会社から寺山さんが来てくれた。もう心配いらないよと言ってくれたんだ。

 ▲世田谷の伯父ちゃんも来てくれた。

 ▲川崎の伯父ちゃんたちも来てくれた。

 ▲鈴木先生も来てくれた。

 ▲ケン太は今井俊ちゃんの家に預けてるよ。

 私は弘をぎゅっと抱きしめてやった。それにしても、則子は何故、自殺なんかしたのだろう。私の二十日間のアメリカ出張などで、ノイローゼになるような則子ではない。この百合ヶ丘の家を長期ローンで購入してはいるが、返済も私の給料で、何とかやって行けてる筈だ。何故だ。何故、自殺などしたのだ。健康上の問題も無い。弘のことで悩むようなことも無い。弘は成績の良い、真面目な子供に育っている。何故だろう。何故だろう。もしかして、ロスにいるナンシーのことが、発覚したのだろうか。まさか、そんな馬鹿な。ナンシーのとのことは、私とナンシー以外、誰も知らない筈だ。その誰も知らないナンシーを、英語の出来ぬ則子が調べられる筈が無い。別件だ。だとすると、それは何か。今、流行のサラ金に手を出したか。そうであれば借金返済の要求が、夫である私宛にあっても良い筈だ。だがそれも無い。一体、何があったと言うのか。遺書も残さず、則子よ。何故に死を選んだのか。



        ○

 私は葬儀の間も、葬儀が終わってからも、妻の自殺の原因を考えた。しかし、その原因なるものは、何処にも見当たらなかった。謎と時差ボケが私を滅入らせた。会社に出勤したものの、仕事には手がつかなかった。自宅でも弘の面倒を充分、見てやることが出来なかった。初め、近所の人たちの助けを借りて、小学校に通わせていたが、一週間と続かなかった。結局、経堂の実家に弘を預けることに決めた。経堂の家には私の母が健在でいたし、兄嫁の晴子さんは明るい人で、弘のことを、簡単に引き受けてくれた。則子の実家からも、同様な申し出があったが、経堂の実家を選んだ。私は弘の転校手続きや友達との送別会、役所での手続きなど諸々あって、会社を休むことが多かった。従って会社内での立場も悪くならざるを得なかった。則子の死亡により、総てが上手く行かなくなってしまった。かって妻を病気で亡くした同期の仲間が、ミスを多発させて、退職せざるを得ない立場になった時、何故、そんなミスをしたりするのか信じられぬ自分であったが、いざ、自分が同じ立場に遭遇して、初めて妻を失った人間の心理状態が正常でなくなることが分かった。百合ヶ丘の自宅で、たった一人で暮らす生活など、全く考えてもみなかったことである。核家族というものが、一人を失ったことで、どんなに荒んだものに変貌してしまうものか、今まで考えてもいなかった。大家族でいたり、親戚が隣り近所にいることが、どんなに仕合せなことか、則子を失って初めて分かった。親と子でありながら、妻一人を失った為に、可愛い息子と離れて暮らさなければならない。何という悲劇か。何という運命か。大袈裟なことを言う男だと、笑う奴がいるかも知れないが、私にとって、この事は人生の破滅にもなりかねない大事件なのだ。私だけではない。一等、被害を被っているのは弘だ。親戚とはいえ、他所の家庭に預けられ、勝手も言えず、困っていることだろう。学校でも転校生ということで、いじめられているかも知れない。彼は幼くして、これからずっと独立独歩の人生を味わうのだ。その上、あの忌まわしい光景が、脳裏から離れなかったら、どうなってしまうのか。生きて行くことが、嫌になってしまうのではないだろうか。日曜日ごとの私との出会いも、楽しいものでは無くなってしまうのではないだろうか。父親も母親と同様、無に等しい遠い存在になってしまうかも知れない。私は一時も早く弘と暮らさなければならないと思った。そして百合ヶ丘の自宅を売りに出す決心をした。



        ○

 私は百合ヶ丘の家を売りに出し、経堂の実家の近くのマンションに引っ越すことになった。弘は、それを、とても喜んだ。引っ越しの日は六月の第二日曜日を選んだ。私の品物の他、弘の品物や則子の品物もあり、弘や則子の親戚の人たちの都合が、日曜日が一等、良かったので、その日にした。私は引っ越しの前日、会社を休み、百合ヶ丘の家で引っ越しの準備をすることにした。朝早く起きて、弘の部屋以外の小物や自分の書籍類や衣服類をダンボールに詰める作業をした。午前十時頃になって、私はふと、隣り近所に引っ越しのことを告げていないことに気づいた。それで、先ずは高橋さんの家に挨拶した。高橋さんの奥さんはとても残念がった。それから田中さんの家に出かけた。チャイムを鳴らすと、ドアが直ぐ開いて、田中さんの奥さんが出て来た。

「あっ。山村さん」

 私は彼女のそばに若い男が立っているので、びっくりした。

「お客さんですか?」

「いいえ、不動産屋さんです」

 若い男は愛想よく頭をちょいと下げて微笑んだ。私は、その男のことを気にせず、弘が綾乃おばさんと呼んでいる彼女に引っ越しのことを伝えた。

「実は明日、世田谷へ引っ越すことになりました」

「えっ。それは本当ですの。少しも知りませんでした」

「突然のことで、お知らせするのが遅れてしまい申し訳ありません。長い間、大変親しくしていただき、お世話になりました」

 私は彼女には本当に世話になったと思っている。特に則子を失ってからの三週間、高橋さんと一緒になって、弘の面倒を良くみてくれた。私は心から彼女たちに感謝している。

「明日、また御礼にお伺い致します。本当にお世話になりました」

 私は挨拶を終えると直ぐに家に戻り、洋服ダンスを開けた。ある疑惑が頭を横切ったからだ。無い。無い。私が香港で作った薄皮のブレザーが無い。これは、どういうことか。先程、愛想良く微笑んだ若者が着ていたものは、余りにも私の薄皮のブレザーに似ていた。一体、どういうことなのか。彼が則子を殺し、あのブレザーを盗んだのだろうか。そんなことはあるまい。彼がもし盗人の犯人であるなら、この近所で、あのブレザーを着たりする筈が無い。しかし、これはどういう事だろう。一度、確認する必要がある。彼が現れるのを待とう。私は田中さんの家に訪問していた彼が出て来るのを庭掃除をしながら待った。しかし、彼は中々、田中さんの家から出て来なかった。何をしているのだろう。自殺のあった我が家の隣りに住むのが嫌になって、隣りもまた我が家同様、売却しようとしているのだろうか。隣りの田中さんの奥さんは、彼のことを不動産屋だと言ったが、何処の不動産屋だろう。もしかして彼は隣りの奥さんと特別な関係なのかも知れない。



        ○

 彼は午後一時頃、隣りの田中さん宅から出て来た。私と視線が合うとギクッとした。だが直ぐに姿勢を正し、私をじつと見た。

「午前中はどうも」

 彼の方から頭を下げて来た。私は親しみを込めて、彼に言ってやった。

「不動産の商売も大変でしょう」

「ええ」

「地元の不動産屋さんですか?」

 私は彼の正体を確認する為、念を押すように言った。彼は自信たっぷりに胸ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を差し出した。

 清和不動産株式会社

  営業部係長

   塩田 秀樹

  住所:東京都新宿区西新宿2丁目

  電話:03-348-000X

 その名刺を私が受取ると、彼は笑顔を見せた。

「会社は新宿です。よろしくお願い致します」

 私は彼との会話を中断してはならないと思った。間髪を入れずに次の質問をした。

「隣りは売りに出されているのですか?」

「はい。まだ正式ではありませんが、一軒家でなくマンションに移りたいと、買い替えを希望しておられます」

「うちの事件に関係あるのでしょうか?」

「どういう意味でしょう?」

 私は返答に窮した。彼から質問されるとは思ってもみなかったからだ。

「いや、その、自殺のあった家の隣りに住んでいるのが、嫌になったとか・・・」

「ザックバランに言って、少しは関係あるかも知れませんが、根本的には、旦那さんが船乗りなので、横浜港に近い場所に移り住みたいという考えだと思います」

 塩田という青年はテキパキと答えた。怪しい所があるが、好感の持てる青年だった。私はもう一つだけ質問してみることにした。

「今日は暑いですね。商売柄とはいえ、ネクタイ姿も大変ですね」

「そうですね」

「そのブレザーお似合いですね」

「これは香港製という話です。うちの社長には大きすぎたので、社長が私にくれた物です」

「でも、それは、御誂えでしょう。大き過ぎるというのは不思議ですね」

「うちの社長は、背が低いですが色男ですから、何処かの女性にプレゼントされたのでしょう」

 私は塩田青年の言葉に何か自分の知らない世界が、薄ぼんやりと見えて来るような不思議を感じた。

「色男は良いですね」

「旦那さんも色男ではないですか。隣りの奥さんが言ってましたよ。アメリカによく行っているってハイセンスな旦那さんだと・・・」

「そんなことまで話されているのですか?」

「これはイケないことまで喋ってしまいました。これ以上、話していると田中さんの奥さんに叱られそうなので、これで失礼します」

 塩田青年は頭をちょこっと下げると、道路の脇に停止させておいたスポーツカーに乗って、住宅街の坂道を下って行った。私は、そんな彼を茫然と見送った。あの薄皮のブレザーは間違いなく、私が余り着ないでいたブレザーに似ている。あのブレザーは間違いなく、私が香港で誂えた物と同一のものだ。



        ○

 第二日曜日、息子の弘が世田谷の兄、忠生や甥たちと一緒に、住み慣れた百合ヶ丘にやって来た。しかし、弘は家に入って来ると、あの日のことを思い出してか、バスルームに近づこうとしない。自分の部屋の大事な物だけをかき集めると、早く世田谷へ戻ろうと言った。しかし、私は則子の母、瑞枝や姉、珠江や兄、一郎が来ているので、そう簡単に引き上げる訳に行かなかった。則子の洋服やアクセサリー、人形などを則子の形見として川崎家の人たちに受け取ってもらった。川崎家の人たちが帰ってから、不要な物を庭で焼却することにした。それで弘と甥の信一と栄二の三人を電車で先に帰らせた。午前中で、荷物の梱包も終わり、兄、忠生とコンビニで買って来たおにぎり、コロッケ、漬物、プリンなどで、昼食を済ませた。午後一時半、引っ越し業者のトラックがやって来た。荷物は六トン車いっぱいになった。そのトラックを見送ってから、私は近所に挨拶をして、二時過ぎ、白い百合丘の家を後に、自家用車に乗って、世田谷に向かった。則子との思い出の残った、この町とは、もうこれ限りかも知れない。そう思うと何故か涙が溢れ出た。運転する兄に気付かれぬよう、窓外をみやりながら、私は涙をぬぐった。登戸から多摩水道橋を越えると、もう狛江。そして世田谷通りを走り、途中から、小田急線に沿って進むと、午後三時には新規契約した経堂のマンションに到着した。経堂のマンションでは、兄の妻、晴子さんが既に弘たちと来ていて、日通の人たちと私たちの到着を待っていた。引っ越し作業を依頼した日通の人たちは、私たちが到着したのを確かめると、手際よく荷物をトラックから降ろした。それから私の指示に従い、食器棚、洋服タンス、本棚、洗濯機、冷蔵庫、テーブルなどの大物を部屋の配置位置に設置してくれた。皆が協力的だった。引っ越し業者が帰り、一段落すると、晴子さんが紅茶を淹れてくれた。弘は甥の信一と栄二と一緒にカステラを口にして、何時もに無く明るく笑った。私はこんな日が来ようとは思ってもみなかった。暗い毎日の連続であるとばかし考えていた。しかし、この明るさは何か?則子を失ってから二ヶ月程度で、こんなに浮き浮きした気分になって良いのだろうか?私は自分を含める人間の心に疑問を抱いた。夜になっての母、光代を加えての引越し祝いの席でも、この疑問は頭をもたげた。ビールやジュースで乾杯しながら、則子のことが頭に浮かんだ。寿司と蕎麦を食べながらも、則子のことが思い出された。弘もそうであるに違いなかった。自分の身内の者に祝福され、ワイワイ騒いでいるものの、心の中で弘は、あの優しかった母親の白い手を追想しているに違いなかった。また反面、親戚の家を離れ、父親と同居することが出来て、安堵しているようでもあった。鍵一つで自宅を留守に出来るマンション生活。それが始まるのだ。私は自分たち親子の、この浮き浮きした気分は不道徳だろうかと何度も自問自答した。本当に不道徳なことなのか?教えてくれ、則子よ。



        ○

 弘とのマンション生活が始まると、仕事も再び軌道に乗り始めた。私は何時の間にか、また仕事の虫になり始めていた。しかし弘にとって、毎日が、今までとは全く違っているということを、私は理解していなかった。私は或る日、兄に説教された。

「お前は弘のことを、どのように考えているんだ。あいつにとって今が一等、大事な時なのだ。転校しての苦労もあろう。学校から帰宅して、自宅に誰もいないという寂しさもあろう。あるいは俺の家に来て、俺の息子たちに虐められながら夕飯を食う、辛い事、嫌な事もあろう。宿題や学校へ持参するもののことも、自分で考えて、実行せねばならぬという、困る問題もあろう。クラブ活動もそうだ。弘は内心信一たちのように、野球部で活躍したいと思っているかも知れない。しかし、母親がいないということで、弘はそれを口に出して言えない。クラブに入ったら洗濯物等、自分でやることが沢山、増えるからだ。晴子は、弘がその気になれば、信一たちと同じようにユニホームの洗濯から靴の掃除まで、喜んでして上げると言っている。しかし、晴子が訊いても、信一が質問しても、弘は涙ぐんで、クラブに入らないという。このような弘の悩みを、お前はもっと真剣に考えてやるべきだと思うが・・・」

「弘が野球のクラブに入りたいと思っているのか」

「栄二にはそれらしき事を漏らしたらしい。弘は崖っ淵に立っているのかも知れんぞ」

「そ、そんな」

「兎に角、今は弘のことを最優先に考えるべきだ。会社の仕事など適当にやって帰って来れば良いのじゃないか。今まで以上に早く帰宅して、弘と一緒にいる時間を増やすべきではないだろうか。そうでないと、弘が増々孤独な奴になってしまいそうで、見ていられない。しまいには駄目になってしまうかも知れないぞ。お前にエプロンを着て家にいろとは言わないが、それに近いことを考えても良いのではなかろうか」

 兄、忠生の言う通りであった。私は自分の事ばかりを考え、弘の事については、余り深く考えていなかった。弘の立場になって考えてみると、確かに兄の言う通りである。弘は父親である私の事をどう思っているのであろうか。父親は今までと同じように会社の仕事に頑張っている。母親を失ったからと言って、自分の事で父親に負担をかけてはならない。親戚の人たちにも迷惑をかけてはならない。何事も我慢しなければならないと弘は思っているのか。息子の学校内のことにも、宿題にも、クラブ活動のことにも、無感心で、全く息子の心中を読めない私の態度は、深く反省せねばならない。もっと弘と一緒になって、肌と肌を触れ合って、相互の思いを出し合うべきである。私は自分のことばかり考え、弘のことを考えるということが無かったと兄に指摘され、深く反省した。母親を失い、途方に暮れている少年に対し、何の愛の手をさしのべていない父親。その姿は少年を錬磨する為の良い方法だなどと言う人もいるが、本当にそれが、少年の自主独立に役立つであろうか。私は親を失い強く生き抜いて成功した人の話を知っている。しかし、ぐれてしまい、つまらぬ人間になった人の話も聞いている。どちらの確率が多いか知りはしないが、私は父親として矢張り、弘に対し愛の手を優先的に差し伸べるべきであると教えられた。兄嫁は私に後妻を考えるよう勧めたが、そういう訳にはいかない。私の心は則子を忘れることが出来ない。弘だって同じ気持ちに違いない。この苦しみは、私と弘親子が二人して抱きしめて行かねばならぬ辛い宿命なのだ。



        ○

 夏休みになると当然のことながら、弘は自宅で留守番することになった。朝食はマンションの部屋で私と一緒だが、昼食、夜食は実家に行って、私の母、光代と兄嫁に世話してもらっている。ところが或る日、弘は実家に行かなかったと言った。

「お父さん。今日、僕、お婆ちゃんの家へ行かなかったんだ。晴子伯母ちゃんに電話して、今井君の家に行く約束したから、今日一日、お婆ちゃん家へは行けないよと言ったんだ。そしたら、晴子伯母ちゃんが、〝いいわよ〟と言ったので、僕は今日、今井君の家に行ったんだ」

「そうか。今井君は元気か?」

「うん。今井君は身体が弱いから、何時も家にいるんだ。普通だと、男の子は野球やサッカーの練習で、夏休みも休みが無く、大変なんだけど、僕みたいに弱い所があるから、今井君も家にいるんだ」

「お前には弱い所なんか無いではないか」

「あるよ。お母さんがいないということだ。それが僕の弱点さ。でも僕はお母さんなんかいらない。お母さんがいなくったって、僕はちゃんと立派にやって行けるんだから・・・」

 私は弘の言葉に涙が出そうになった。しかし、私のそんな女々しい態度は父親としてあるまじき態度であると自覚した。私は弘に質問した。

「昼御飯はどうした?」

「今井君の家でもらって食べた」

「夕御飯は?」

「ハンバーグを自分で作った。ほら、御飯だって炊けてるよ。お母さんに教えて貰ったんだ。自分で作って自分で食べた。お父さんの分もあるよ。食べてみて・・・」

「おおっ、美味しそうだな。じゃあ、お父さんもいただくか」

 私がそう言うと、弘は嬉々とした顔を私に見せた。そして、私が着替えをしている間、食卓の上に食事マットを敷き、箸と茶碗を準備してくれた。それから、炊飯器から茶碗に御飯を盛って、インスタント味噌汁も作ってくれた。

「さあ、どうぞ」

「いただきます」

 私は、駅前で、うどんを食べて来たのであるが、弘が準備してくれた夕御飯を食べた。弘が準備してくれた夕御飯はとても美味しかった。

「御飯、お母さんが炊いたみたいだよ。それにハンバーグ、上手に出来たじゃあないか。美味しいよ」

 私には、弘が作ったハンバーグとは思えなかった。今井君の母親が持たせてくれたのではないかと疑った。だが、弘が作ったことは真実らしかった。

「お父さん。これからは僕が夕御飯を準備するよ。何もお婆ちゃんの家で夕御飯を食べることなんか無いと思うんだ。僕はお婆ちゃんの家で、信ちゃんたちと夕御飯を食べても、少しも美味しいと思ったことが無いんだ。お父さん。明日から僕は自分の家で御飯を食べるよ。お父さんも夕御飯を僕と一緒に食べようよ。そう晴子伯母ちゃんに言って。信ちゃんの家の子供でも無いのに、信ちゃんの家に行って食事をするのは、気分良い事じゃあ無いからね」

「気分が良い事じゃあ無い?」

「そうだよ。何故か余所の家で食べさせてもらっているみたいで、御飯が美味しくないんだ。自分で作って食べた方が、ずっと美味しい。お願い。晴子伯母ちゃんに、そう言って・・・」

 私は弘の気持ちが分かるような気がした。子供ながら、お代わりの御飯をそっと要求する、弘の辛い気持ちが、手に取るように分かった。私は弘を信じた。弘に食事の仕度を一任することに決めた。晴子姉さんには、夕食を終えてから、電話した。彼女が私の電話の要旨をどのように受け取ったかは分からぬが、何とか承知してくれた。



        ○

 私は毎日、食事の材料費として、二千円を弘に渡した。大物は休日に近くのスーパーでまとめて購入するので、二千円で足りると計算した。弘は、私の指示通りの予算内で自炊を始めた。早く帰った時は、弘と一緒に料理を作った。弘と二人の共同作業は次第に面白くなって来た。私の主な仕事は掃除洗濯だった。朝のゴミ出し、クリーニング屋への届けと持ち帰りも私の仕事だった。則子に家事の一切を任せていた私にとって、億劫なことであるが、弘にハッスルされては、自分も引き下がる訳には行かなかった。洗濯は夕食後か朝早くに行なった。部屋の掃除は、休日に実施した。この様子を社員に話すと、誰もが信じられ無いという顔をした。そうかも知れない。私の会社での仕事ぶりからは到底、想像出来ない生活ぶりである。しかしこれは事実のことなのだ。その事実を部下の社員三人が確かめに、経堂のマンションにやって来た。寺山正雄君と広瀬照良君と森悠子君である。三人は土曜の夜にやって来た。男たちは食料と酒類を持参してやって来た。森悠子君は女性らしく、弘にケーキを買って来てくれた。それに百合の花を持って来た。その百合の花を弘に相談し、客間の花瓶に飾ってくれた。百合ヶ丘の家で会ったことのある懐かしい顔ぶれに、弘は大喜び。

「僕、沢山、御馳走を作らなくっちゃあ」

 弘が、そう言って腕をまくりあげると、森君が弘に言い返した。

「今日は私にお任せなさい」

 彼女は弘の頭を軽くポンと叩いて笑った。だが弘は、台所を他人に任せられないみたいだった。

「僕も作ります」

 森君は弘の声に圧倒された。私の顔をチラッと見て、ちょっと照れながら弘に言った。

「では一緒に作りましょうか」

「うん」

 弘には何時の間にか、この家の主婦に似たプライドのようなものが身についていた。何処にどのような食器類があり、何処にどのような調味料があるか、弘は私以上に詳しく知っていた。森君と弘はエプロンをかけ、仲良くキッチンに入つた。その様子を食卓にビール缶を並べながら見ていた広瀬君が感心して言った。

「流石ですね。弘君は本当に料理が出来るんですね」

「驚きですね」

 寺山君も弘が料理をするという事実を目前にして、驚いた。

「私、弘君を尊敬しちゃいます」

 森君が弘の顔を見ながら、微笑んで、私たちを見た。そう言われて私は、何故か恥ずかしい気分になった。

「父親である自分も驚いている。広瀬君も外食ばかりしていないで、料理も人生の勉強と考え、自炊するのも良いと思うよ」

「課長の反省ですか?」

「そうかも知れない。まあ、そんな詮索は止めて、今日は大いに飲もうではないか。寺山君、広瀬君。準備、準備」

 私たちは乾杯の準備をした。ビール缶と日本酒のパックを並べ、森君と弘の為にジュースを用意した。グラスは私が食器戸棚から出して、広瀬君たちに並べさせた。彼らが買って来てくれた刺身やカマボコを小皿に分けている間、弘は何処で習ったのか、森君と茶碗蒸しやポテトサラダを作ってくれた。焼きナスや冷やっこも準備してくれた。何故か私の好きな料理が多かった。則子の料理を見て覚えた弘の考えか、森君の考えかは分からぬが、私は大満足だった。酒の肴は日本料理が一番だった。並べられる料理を見て寺山君が言った。

「課長。私は安心しました。課長たちが、もっと陰気な生活をしていると想像してやって来ましたが、立派です。特に弘君には、びっくりしました」

「寺山君よ。弘ばかり褒めるじゃあないか。俺だって頑張っているんだぜ」

「そうですかね。こうして眺めていると、弘君だけ、頑張っているように見えますが・・・」

 私たちがしゃべくり合っているうちに、万事が整った。森君と弘がエプロンを外し、席に着いた。私はこの家の主人として、今夜の来客を歓迎する乾杯の音頭を取った。

「今日は、世田谷に引っ越した我が家に来ていただき、俺たち親子、心より喜んでおります。では、俺たち親子と若き諸君に、明るい未来が来ることを願って乾杯!」

「乾杯!」

「乾杯!」

 明るい声がマンションの私の家に溢れた。しばらくぶりのマンションの家での大勢での笑い溢れる時間だった。このように会社の部下たちを加えてしか、弘と喜びを分け合う事が出来ないのは、残念であるが、弘も私も仕合せだった。妻を失い、弘を道ずれに心中しようかなどと、ふと考えたこともあったが、今、こうしていると、生きていて良かったと思う。私たちは陽気に飲み、唄い、笑い、たらふくに食べた。誰もが幸福感でいっぱいになった。



        ○

 寺山君と広瀬君は最初から泊るつもりで来たらしく、イカ燻や柿の種などの酒のつまみを食卓に広げ、我が家のブランデーを飲み始めた。森君も弘と食器洗いを済ませると、少し飲ませてと言って、レミーマルタンをグラスに注いだ。寺山君がブランデーを口にする森君を見て、ちょっと驚いた顔をした。

「悠子ちゃん。帰るんだから、ちょっとにしとけよ」

「寺山さんたちは、そんなに飲んで、どうするのよ」

「俺たちは泊って行くさ。なあ、広瀬」

「はい。泊って行きます」

「私だけ一人で帰れって言うの?」

 森君は仲間二人を睨みつけた。広瀬君は、その森君の睨んだ視線を受けて、オドオドした。広瀬君は気が小さい。

「そういう訳ではありません。経堂駅まで、僕が送って行きます」

「結構よ。駅まで送って貰わなくても。私も泊って行くから」

「おいおい。悠子ちゃん。本気で言っているの?」

 寺山君は森君の発言にびっくり仰天した。私も驚いた。独身女性がたった一人、男たちと同じマンションの部屋に宿泊するなんて、良いのだろうか。私たちが唖然としていると、弘が喜びの声を上げた。

「わあっ、嬉しいな。僕、お姉ちゃんと一緒に寝よう」

 弘はキッチンで一緒に料理を作ったりした森君が泊ると耳にするや、恥じらいも無く、小躍りして、森君に甘えた。

「お姉ちゃん。そろそろケーキを食べたいな」

「ああ、そうだったわね。忘れてた。食べよう食べよう」

 森君の方も、弘に甘えられて、嬉々として、声を弾ませた。私は、そんな森君と弘を見て困ったことになったと思った。それで、はしゃぐ弘に注意した。

「弘。お姉ちゃんは、まだ泊ると決めた訳では無いぞ」

「弘君。お姉ちゃんは泊ると決めたのよ。今夜は一緒に寝ましょうね」

 森君は弘と肩を組みながら、弘に優しく囁きかけた。私は少年時代、憧れた女教師に抱きすくめられた時の女の匂いを思い出していた。弘もきっと、あの時の私のように森君の匂いに酔っているのかも知れない。何ともいえない、あの時の思い出。しかし、森君を我が家に泊めるのはまずい。

「寺山君。何とかならんかね。悠子ちゃんのお母さんが心配するよ」

「課長。心配なんかしなくって良いですよ。悠子ちゃんは、しょっちゅう外泊してるので、お母さんは心配なんかしていませんから・・・」

 すると、森君が膨れた顔をした。

「まるで私の事、不良娘みたいな言い方しないで」

 寺山君と森君の会話は直ぐに喧嘩に発展してしまう。それが互いに面白いのだ。互いにからかい合い、結構、楽しんでいるのであるから、不思議だ。こんな具合にワイワイしているものであるから、いつの間にか深夜の十二時になってしまった。タクシーを呼ぼうかと言ったが、森君は全然、帰るつもりが無い。寺山君も広瀬君も酒好きで、時刻を全く気にしない。とうとう三人が泊ることになってしまった。電車が無くなる時刻になると、森君は弘の部屋に行き、弘と二人で寝る準備を始めた。私は不安を感じた。不安というのは、男たちと同じマンションの部屋に独身女性がたった一人、泊るということでは無く、この調子だと、森君が我が家に居座ってしまうのでゃないかという不安であった。売れ残りのハイミスが、まともな結婚を諦めて、後妻としての居場所を狙うかもしれない。弘とうまくいっているのも、良いような悪いような、不思議な関係でならない。いやに何事もスムース過ぎる。これは部下たちの罠かも知れない。私は、そんなことを考えながら私の部屋と客間に布団を敷いた。



        ○

 翌朝、私は大橋公園で、突然、スポーツカーに乗った男から声をかけられ、吃驚した。

「山村さん。山村さんではありませんか?」

 振り向くと、そこには清和不動産の塩田秀樹青年が立っていた。

「やあ」

「矢張り、山村さんですね。こんな所でお会い出来るとは思っていませんでした。この近くのアパートに住んでいるお客さんを、これから新百合ヶ丘の売り出し物件を見せに連れて行く為、ここを通ったら、山村さんに似ている人がいたので・・・」

「そうですか。私はこちらに引っ越して来て、毎朝、こうしてジョギングをしているのです。田中さんの所は買い換えましたか?」

「いや。まだです」

 私は塩田青年との会話をしているうちに、百合ヶ丘の白い家を思い出した。則子と過ごした日々。弘と三人の仕合せだった日々。あれは幻だったのだろうか。幻である筈が無い。あれらの日々は確実に存在したのだ。私や弘が現在、存在していることが、何よりもの証ではないか。百合ヶ丘での日々を追想していると、塩田青年が質問して来た。

「今はお子さんと二人ですか?」

「はい。そうです」

「お寂しくありませんか?」

「別に・・・」

「不便ではありませんか?」

「別に・・・」

 私は素っ気なく答えた。無理した返答だろうか。彼は私の心の奥底まで見通している様子だった。私はふと彼が着ていた薄皮のブレザーのことを思い出した。今日の彼のブレザーは大人しい紺のブレザーだった。

「社長さんは元気ですか?」

「うちの呉社長を御存知なのですか?」

「以前、あなたから、ハンサムな色男だと聞いていたので、覚えていたのです。女性からプレゼントされた皮のブレザーが大き過ぎた背丈の低い、気前の良い社長さんという印象が、余りにも強かったものですから・・・」

「なら、一度、うちの社長とお会いしませんか?うちの社長も奥さんと別れて、独身なんです」

「そうですか。お会いしたいですね」

 私は絶好のチャンスだと思った。則子の葬儀のことや、弘のこと、自分自身の会社のこと、家の売却のことなどで、呉社長をはじめとする清和不動産なるものの調査を怠っていたことは、商社マンとしては、全くの不覚であった。則子の死が、自殺であったにせよ、則子と呉社長の間には何かあった筈だ。その理由は言うまでもない。あの香港で誂えた私のブレザーだ。もしかして則子には呉社長と何か特別な関係があったのかも知れない。こんなことに何故、もっと早く気付かなかったのだろう。

「では明日にでも社長の都合を聞いて電話します。電話番号を教えて下さい」

 そう訊かれて私は会社の自分の席の電話番号を教えた。塩田脊年は私の教えた電話番号を胸ポケットから手帳を出して書き込んだ。

「ありがとう御座います。明日、ここへ電話致します。ではまた・・・」

 塩田青年は、そう言い残すと、あの白いスポーツカーに乗って、千歳船橋方面へ去って行った。

「お父さん!何してるの?」

 突然、弘の呼ぶ声がした。振り向くと弘と森君が私を迎えに来ていた。森君が明るい笑顔を見せた。

「お食事の仕度が出来ました。寺山さんと広瀬君はまだ眠っています。お先にお食事を済ませましょう」

「有難う。あいつら、まだ眠っているのか」

「昨日、遅くまで飲んでいたから、眠いのでしょう」

 森君の言葉はワイフ気取りだった。私は用心せねばならぬと思った。売れ残りのハイミスに甘い態度は禁物だ。結婚して欲しいなどと、言われかねない。お手伝いさんとしては便利だろうが、則子の代わりは無理だ。則子を忘れる事の出来ない私たち親子にとって、ここで別の女性を妻として、あるいは母親として迎えることは、あってはならぬことなのだ。



        ○

 塩田青年から私のデスクに電話がかかって来たのは月曜日の午後一時だった。昼食から戻って一番目の電話だった。

「清和不動産の塩田です。呉社長は、今日の午後四時以降、または明日の午後二時頃であれば、都合が良いと言っておられます。如何でしょうか?」

「早い方が良いでしょう。今日の四時にお伺いします」

「承知しました」

 私は四時に清和不動産に訪問することにした。何故か緊張した。呉社長とは、どんな男だろうか。則子とどんな関係だったのだろうか。いずれにせよ、行って会ってみることだ。相手も人間。私と大差なかろう。ぶち当たれば何かが返って来る筈だ。彼と則子の間にある私の知らない何ものかを発見して見せる。そう思うと勇気が湧いた。日本橋から東京駅まで歩き、中央線で新宿に出た。清和不動産は西新宿の小さなビルの四階にあった。受付には派手派手しい女子社員が座っていた。売出し広告を、めったやたら入り口に貼り付けた一般の不動産会社と違って、素晴らしい洋館の大きな写真が、一枚だけ、金縁の額に飾ってある受付で少し待つと、塩田青年が出て来た。

「早速、お越しいただき誠に有難う御座います」

 相変わらず礼儀正しい好感の持てる態度だ。彼は私を事務所の奥の社長室に案内した。呉社長は大きな机の向こうの大きな椅子に、ドカッと座っていた。背は低いが、想像以上にがっしりとした体格の良い人物だった。一目で中国人であると分かった。社長室内の置物にせよ、絵画にせよ、総てが中国製なので、尚更の事、呉社長が中国人に見えたのかも知れない。呉社長は私が社長室に入つたことに気づくと、立ち上がって、握手を求めて来た。私は気が進まなかったが、何時もの習慣で、応接テーブルを中間にして、手を先に出していた。

「初めまして。山村です」

「呉です。塩田から、いろいろと伺っております。美国へ行くことが多いと聞いてますが・・・」

「はい。年に二、三度行っております」

「私はまだ一度も行ったことがありません。香港、中国には時々、行きます」

 最初は日本語の上手な社長だなと思ったが、話しているうちに、下手な日本語になって来るのが分かった。私は焦ってはならないと、自分に言い聞かせた。時間をかけて呉社長のシッポを掴むことを考えた。

「私もアメリカだけでなく、東南アジアの国へ出かけることもあります。香港には数えきれない程、行っています」

「香港。良い所ね。あそこでは何でも手に入る。お金があればのことよ」

 その通りである。金さえあれば贅沢な生活も出来る。欲しいものは何でも手にはいる。宝石も美術工芸品も拳銃も、酒も女も、麻薬までも、何でも手に入る。それだけに恐ろしい所である。

「同感です。香港は素晴らしい所です。ピーク公園。ビクトリア・ハーバー、ランタオ島、チュンチャウ島、女人街、蘭桂坊、九龍など、何もかもが、私の好みに合っている感じです」

「でも怖い所もあるよ。殺人も金で依頼出来るからね」

 呉社長は私を上目使いにジロッと見てから、ニタリと笑った。薄気味が悪かった。しかし、怖くは無かった。私はアメリカで幾度か黒人に襲われた。ニューヨークで黒人と喧嘩した時のことを思えば、何も恐れることは無い。あの時、もしナンシーが私を助けてくれなかったら、私は殺されていたに違いない。あの汚いハドソン川に死臭を放って、浮いていたであろう。もし、彼女の拳銃が火を噴かなかったら、私は死んでいた筈だ。

「ところで、山村さん。ものは相談ですが、あなた大変、女にもてるようね。塩田から聞いてるよ」

「そんなこと無いです」

「もてますよ。今の会社を辞めて、私の仕事、手伝ってよ」

「セールスの仕事ですか?」

 私は呉社長の要請に質問すると共に、部屋の隅に立って控えている塩田青年の顔を見た。彼は真剣な顔をしていた。呉社長は笑いながら言った。

「セールスと言えばセールスね。塩田、山村さんに説明しなさい」

「社長。それは無いですよ。私には説明出来ません」

「じゃあ、店に山村さんを案内しなさい。そこで説明すれば分かることね。私、後から行く。先に店の案内をして頂戴」

「分かりました」

 塩田青年は、そう答えて私の顔を見た。私は塩田青年に了解したと頷いて見せた。私は呉社長との話を終わらせ、塩田青年と、清和不動産の事務所を出た。西新宿から電車のガードを潜り、東新宿に移動し、塩田青年に従い、呉社長が言っていた店へと向かった。



        ○

 サロン『桜の園』は、歌舞伎町の三角ビルの五階にあった。サロンと称しているが、完全なホストクラブだった。何故かというと塩田青年に会う若い男たちが、皆、おはようと言って来るから、直ぐに分かった。ハンサムな男たちばかりだ。入口に会員制の表札がかかっていたから、相当な高級、高額なホストクラブに違いない。サロンの中は広々として中央に踊れるスペースが設けられている。塩田青年は、私を奥まった席に案内すると、ボーイに飲み物を準備させた。赤ワインだった。

「乾杯しましょう。用談が成功しますように」

 私は呉社長の狙いが予想出来たので、何のためらいも無く、塩田青年と乾杯した。塩田青年は、ワインを少し口にしてから、喋り始めた。

「先程、うちの社長がお話になりました山村さんに手伝って欲しいと言った仕事とは、この店のマネージャーになってもらいたいということです。お気づきとは思いますが、うちの社長は中国人。この店のマネージャーとしては不似合いなのです。それに社長ですから。その為、この間まで、私より二つ年上の者がマネージャーをしていたのですが、店の金を使い込んだので、首にしました。そこでハンサムでかつセンスある中年の山村さんに、ここのマネージャーになっていただきたいというのです」

 呉社長の考えそうなことだった。私は念の為に確認した。

「この店の特色は?」

「既にお気づきとは思いますが、『桜の園』はホストクラブです。国会議員や会社の社長や重役や医師や教授といった人たちの奥様たちが、沢山、会員になっている社交界のような存在の会員制クラブです。ここでの密談で政界の派閥や会社や病院、学校の人事が変わることがあります」

「凄い所なんですね」

 私は、このような所があるとは聞いていたが、その存在を目の当たりにして驚いた。その上に、ここのマネージャーにならないかとは、びっくりした話だ。しかし何故、呉社長は私をここのマネージャーにしたいと考えたのであろう。私には理解出来ぬことであった。

「私をマネージャーにしてはと推薦されたのは塩田さんですか?」

「いいえ。社長みずからのお考えです」

「何故に私を?」

「社長は山村さんを追いかけていたのです。山村さんは御婦人方の間で有名ですから。いろんなところで、話題に出て来るのです。それで山村さんをマネージャーにしようと、山村さんのことを、興信所に調査させたり、私に追いかけさせたりしていたのです」

 私には御婦人方の間で噂になっているということが理解出来なかった。妻が自殺したことが、週刊誌に載ったりして、私の写真も出てしまったことから、一瞬、噂になるかも知れないが、ここの御婦人客の噂になるとは信じられなかった。呉社長はしばらくすると店に姿を現した。豪華な内装の『桜の園』の中をハンサムボーイに挨拶されながら、満足気に奥に入って来た。私たちを発見するや、白い歯を満面にこぼし、大声で言った。

「お待たせ。お待たせ。どうですか、山村さん。気に入りましたか。このお店?」

 そして私の前のソフアにドカッと座ると、私の答えを待った。余りにも性急すぎる。この店に案内され、詳細を知ることが出来たとはいえ、余りにも急なことである。

「余りにも豪奢な素晴らしい店なので、感激しています」

「マネージャーになっていただけますか?」

「私は現在、会社員です。想像もしていなかったことなので、唖然としています。数日、考えさせて下さい」

「分かりました。分かりました。あせらずに、私、待つよ。今日は、ここでゆっくりしていく、よろしね」

 私は仕方なく、一時間程、呉社長の相手をした。そして、派手に着飾った御婦人客が店に入って来たのを確認すると、呉社長に挨拶して、店を出た。



        ○

 経堂のマンションに帰ると、弘がオムライスの準備をして待っていた。私は背広服から普段着に着替え、オニオンスープを食卓に並べた弘と向き合った。夕食をしながら、思い出したように弘が呟いた。

「お母さんは何故、僕を一緒に天国へ連れて行こうとしなかったのだろうか?僕のこと、嫌いだったのだろうか?お父さん、どうなんんだろうね?」

「何、言っているんだ。お母さんが、お前を嫌いだったなんて筈が無いだろう。何か、お前を連れて行けない理由があったんだ」

「お父さんが可哀想だからかな。もし、そうだったら、アメリカに行ってたお父さんが、日本に帰って来てから、自殺すれば良かったんだ。あの時、僕を一人ぼっちにさせるなんて、酷いよ」

 私は、そう弘に言われてみて、しまったと思った。不注意だった。弘の疑問はまさに迫真の疑問だ。弘を可愛がっていた則子が、弘を残して自殺する筈が無い。自殺するとしたなら、必ず弘を道連れにした筈だ。だとすれば、則子の死は自殺では無く他殺か。犯人は誰か。妻の身内か?私の身内か?会社の者か?妻の友人か?あるいは全く違う第三者か?それとも呉社長か?私は疑問を深めた。

「弘。事件のあった頃、お母さんに変わったことは無かったか?」

「お母さんが自殺した時、皆からそう訊かれたよ。変わったことがあったなんて、もう、思い出せないよ」

 その通りであろう。あの時、弘は余りにも動転していて、目の前が真っ暗になり、何も見えなかった筈だ。私は反省した。当時、私も帰国して、目の前が真っ暗になり、どうしたら良いのか分からず、弘との親子の会話が少なすぎたことを後悔した。時が経って、互いに冷静になって考えてみると、則子の死には納得出来ない点が多すぎる。私は増々、則子の周辺にいた人たちのことを調査する必要があると感じた。

「お母さんは日記をつけていなかったかな?」

「お母さんは、カレンダーにメモしているだけで、日記なんかつけていないよ。でも僕はつけていたよ」

「弘の日記しか無いのか。残念だな」

「僕の日記では駄目かなあ」

 弘はオニオンスープのスプーンを置いて残念がった。私はもしかして、その弘の日記に何らかの手がかりが書いてあるかも知れないと思った。がっかりしている弘に、私は訂正して言った。

「弘の日記で良いんだ。それで充分だ。食事が終わってから見せてくれ」

「うん。良いよ」

 弘は自分の日記が役立つかも知れないと、嬉し気な顔をした。この母親を失った少年、弘に、どんな未来が訪れるのだろうかと、私は、ふと考えたりした。母親を失ったことを不憫だと周囲に思わせず、ひたすら耐えている我が子は、一体、どんな大人に成長して行くのだろうか。そう思うと急に涙が溢れそうになった。と同時に、則子を殺害した犯人への怒りが、激しく燃え上がった。私は則子は殺されたに違いないと思った。警察は手ぬる過ぎる。則子の自殺は誰かが偽装したのだ。誰かに則子を亡き者にする必要が、あったのだ。何の為か?私の事は別にしても、則子には可愛くて大切な一人息子、弘がいた筈だ。たとえどんな辛い苦難があろうとも、母親として、この子の為に生き延びようとしていた筈だ。則子の死は偽装自殺だ。警察は簡単に自殺であると片付けてしまったが、私にはどうしても納得出来ない。私たち三人の至福に満ちた生活は、どんな悩みがあろうとも、そう簡単に捨てられるものでは無い。私は弘の言葉に、真実を突き止めねばならぬという執念を抱いた。



        ○

 私は弘の日記を見せてもらった。弘の日記は、日記と呼べぬ簡単なメモのようなものであった。

 5月7日(日)

 お父さんがアメリカに行ってから、初めての日曜日。俊君が遊びに来た。野球をして遊んだ。

 5月8日(月)

 宿題が良く出来たので、鈴木先生に花丸を貰った。お母さんに花丸を見せると、とても喜んだ。

 5月9日(火)

 お母さんは隣りの高橋さんのおばちゃんと、新宿へ買い物に出かけた。僕はお母さんが帰って来るまで、隣りの洋子ちゃんの所で遊んだ。

 5月10日(水)

 家に帰ってから俊君と野球をした。

 5月11日(木)

 雨なので、学校から帰ってすること無し。塾を休んだ。

 5月12日(金)

 お母さんは隣りの田中のおばちゃんと新宿に買い物に出かけた。夜、遅く帰って来た。

 5月13日(土)

 運動公園で朝10時から野球。俊君と頑張った。

 5月14日(日)

 俊君が遊びに来た。キャッチボールの後、公園で遊んだ。

 5月15日(月)

 洋子ちゃんお家でショートケーキを食べた。

 5月16日(火)

 お母さんの帰りが遅いので洋子ちゃんと一緒にゲームした。

 5月17日(水)

 俊君と町田君の家に遊びに行った。

 5月18日(木)

 お父さんからの手紙が、アメリカから届いた。嬉しかった。

 5月19日(金)

 お母さんは隣りの田中のおばさんと出かけ、夜、遅く帰って来た。

 弘の日記を見せてもらったが、何処にも則子の死に関連するようなことは書かれていない。余りにも短文すぎて、則子の行動は、弘の文章からは読み取れない。こうなっては弘の記憶を蘇らせる以外に手がかりはない。それには、じっくり時間をかけ、弘に当時の則子に不信な行動が無かったか思い出させることだ。私は弘との時間を、今まで以上に持つことを考えた。そして次の日曜日に弘と『大磯ロングビーチ』に出かけることにした。暑い夏休みの一日を、弘とたっぷり遊ぶことによって、もし、当時のことを思い出させることが出来たなら、何とラッキーなことだろう。そう考えながら私は自分の人間性というものに恥じらいを覚えた。こんな父親がいるだろうか。自分の目的の為に、『大磯ロングビーチ』へ子供を連れて行くことを考えるなんて、一般の父親が考えることでは無い。あくまでも子供の要望の中から、次の日曜日、『大磯ロングビーチ』へ行こうというのが、普通の親子の姿ではなかろうか。弘に当時を思い出させる必要があるから、『大磯ロングビーチ』へ行こうというのは間違いである。夏休みだから、親子そろって、泳ぎに行くのだ。この提案に、弘はこう言った。

「僕、森のお姉ちゃんと一緒なら行くよ」

 私はしばらく黙考してから、森君に電話した。ドキドキしながら森君に電話すると、簡単に返事が返って来た。

「いいわよ」

「申し訳ない。弘が君と一緒に泳ぎに行きたいって言うものだから・・・」

「そうですか。私、仕合せです」

「では明日、お願いします」

 私はほっとした。弘は電話の結果を聞いて、ああ、来てくれるんだと喜んだ。



        〇

 翌朝、森君は、約束の時間より一時間以上早い、午前七時にやって来た。私は弘と二人っきりで、『大磯ロングビーチ』へ出かけて、百合ヶ丘で暮らしていた頃の昔話をして、弘に当時を思い出させ、則子の死にまつわる何か手がかりを掴もうと考えたが、弘にとっては、そんな頃のことは過ぎ去ってしまったことであり、何ら思い出す必要が無いにことのようだった。むしろ忘れたいことのようでもあった。それよりも、夏の陽光をいっぱいに浴びて、賑やかに浜辺のスイミングを楽しむことの方が、弘にとって最高の休日と思われたようだ。森君は訪ねて来るなり、まるで則子のように振る舞った。コーヒーを淹れ、パンを焼き、レタスとトマトとベーコンのサラダを作り、卵焼きを添えた。そして食事が終わると、手際よく食事の片付けをして、弘と泳ぎに行く準備を始めた。あれあれといううちに、私が用意していた私の水泳パンツから着替えまで、私のバックに詰め込んでいた。総てが弘との共同作戦だった。マンションを出発したのは八時半だった。経堂から小田急線の鶴巻温泉駅まで、電車で一時間ちょっとだった。鶴巻温泉から、『大磯ロングビーチ』まで、タクシーで約20分。『大磯ロングビーチ』は湘南海岸の『プリンスホテル』の隣りの松林の中にあった。流れるプール、跳び込みプール、波のプール、室内プールなど、沢山のプールがあった。日曜日とあって、物凄い混雑ぶりであった。私たちはまず、流れるプールで泳ぐことにした。森君のビキニスタイルは、見事なものであった。売れ残りとはいってお、まだ若く、眩しい程にピチピチしていた。そんな森君はやっと泳げるようになった弘とちょっと泳ぐと、直ぐに疲れてしまったのか、ゴムボートに乗りたいと言い始めた。私は早速、ゴムボートを借り、二人に渡した。まともに泳げぬ者には、ゴムボート利用が一等だった。何もしなくても流れるプールなので、ゴムボートが流れに合わせ勝手に動いてくれる。ゴムボートに乗っているだけで二人は結構、楽しそうだった。私は二人がゴムボートに乗っている間、自由に泳いだ。高校時代、水泳部にいた時のことが思い出された。身体を水面に浮かべて、まるで丸太のように流されるのがとても気持ち良かった。見上げる夏の青空には白い入道雲が浮かんでいる。空のブルーと相まって、海岸からの潮の香も夏の海辺らしい雰囲気を醸し出している。エレキバンドのリズムも素晴らしい。私は、こんなで良いのだろうか。則子を殺した犯人を探し出さなければならないのに、こんなことをしていて良いのだろうか。私の脳裏を、則子の面影がよぎった。則子の面影は、私の前を通り過ぎると、空の高みへと昇って行った。私は則子を追った。則子の面影は、あっという間に夏雲と化した。

「お父さん!」

 弘が休息している私を発見して、ゴムボートの上から手を振った。森君も一緒に手を振った。仕合せな連中だ。私の気持ちなど理解出来ないでいる。昼近くになり、私たち三人は『大磯ロングビーチ』内の松林の中に移動し、そこにレジャーシートを敷き、持参したおにぎりや鶏の唐揚げやサラダの他に、売店から買って来た焼きトウモロコシやアイスクリームなどを美味しくいただいた。他人たちが見たら、私たちは仕合せな家族に見えたことであろう。食事を終えるや弘と森君は、再び泳ぎに出かけたが、私はレジャーシートの上に寝ころび夏本番の青空と入道雲を眺めて過ごした。湘南の夏は相模湾の風を受けながら、まぶしく輝いて、私の気持ちなど全く気にしていなかった。時は残酷である。亡くなった人のことなど考えず、どんどん先へと進んで行く。そして新しいものを迎え入れて行くのだ。しかし、私の人生は、則子を失った時間で止まっている。周囲の援助により、実生活は変化しているものの、私の則子への思いは、止まったままだ。彼女の自殺の原因を把握しないことには、私の時計の針は再起動しようとはしない。



        〇

 水曜日、塩田青年から電話がかかって来た。

「決心がつきましたでしょうか?」

 私は迷った。何と答えるべきか。則子の事件を追跡する為に、『桜の園』のマネージャーになるか。それとも妻を失い会社を休みがちになり、課長以上の昇進が難しい、今の会社に留まっているか。この際、思い切って、『桜の園』のマネージャーになるのも、良い経験になるかも知れない。しかし、『桜の園』のマネージャーとなると、勤務時間は夜になる。弘と一緒に過ごす時間が少なくなってしまうような気がする。矢張り、今の会社に留まり、取締役を目指して頑張るべきか。私は結局、答えられなかった。ということは、現状維持ということである。私は塩田青年に対して、ノウの返事をした。すると塩田青年はとても残念がった。私は、こんな言い訳をした。

「現在、プロジェクトリーダーを任されておりますので、申し訳ありませんが、会社を辞めることが出来ません。折角、お声をかけていただいたのに、申し訳ありません。ごめんなさい」

 塩田青年が苦笑するのが、音声で分かった。私のこんな返事を予想の一つに入れていたのであろう。直ぐに答えが戻って来た。

「分かりました。山村さんのご返事を呉社長に伝えます。話題の人をマネージャーに出来なくて、社長も残念がることでしょう」

「話題の人?」

「そうです。山村さんは、これから週刊誌やテレビで報道される有名人らしいから」

 私には塩田秀樹の言っている意味が理解出来なかった。何故、これから週刊誌やテレビで報道されるのか?

「それは、どういうことですか?」

「今、取組んでいるプロジェクトが大成功するということではないでしょうか」

 私は首を傾げた。今、私が取組んでいる仕事は、台湾企業との液晶関連のプロジェクトであり、極秘も極秘で進めている案件である。呉社長は中国人であるから、台湾企業のオーナーと何か関係あるのだろうか。そして私の仕事について知っているのであろうか。なら何故、私を『桜の園』のマネージャーにしようなどと考えたりしたのであろうか。一旦、『桜の園』に転職させ、それから、中国の企業へ売り込むというストーリィでも考えているのであろうか。私が考え込んでいると、塩田青年は別の話題をして来た。

「ところで百合ヶ丘の家、買い手がつきましたでしょうか?」

「地元の不動産屋に頼んでいるのですが、中々、難しいようです」

「そうでしょうね。自殺のあった家ということで、地元の不動産屋が売却するのは難しいでしょうね。うちの社長に頼んだら、如何です。直ぐに売却出来ますよ」

「本当ですか。それは気づかなかった。おたく不動産屋さんでしたものね」

「そうですよ。東京の買い手なら事件のあったことなど知っていないでしょうから・・・」

 塩田青年は不動産売買の話になると、眼を輝かせた。何とか自分の仕事にしようと、私にいろんなことを訊いて来た。どの位で購入し、どの程度、ローンが残っているかなど、あれこれ確認して来た。私は細かく掴んでいない項目もあったので、来週、資料を揃えて、塩田青年と会うことにした。



        〇

 日曜日、塩田秀樹が百合ヶ丘の家の売買の件で、経堂のマンションにやって来た。彼は報告もしないのに計算書を持ってやって来た。私が家の購入価格、敷地面積、ローン残高などを伝えると、自分の持って来た計算書と相違ないか、一つ一つ項目をチェツクした。

「何故、そんなに百合ヶ丘の家について、詳しく知っているのですか?」

 私の質問に、塩田は一瞬、顔色を変えたが、直ぐに愛想笑いを浮かべて言った。

「はい。隣りの田中さんの物件も手掛けておりますし、プロですから・・・」

「そうか。田中さんの件はどうなりましたか?」

「漸く纏まりまして、田中さんの家は私の会社が購入し、東京のお客様に売却することになりました」

「それで田中さんは何処へ?」

「横浜のマンションに移られました。ご主人が船乗りなので、横浜が便利だということで・・・」

 私は隣りの家のように、『清和不動産』に売却してしまうのが、手っ取り早いと思った。現状では狭いとはいえ経堂のマンションの賃借料は毎月、出て行くし、百合ヶ丘の電気代、水道代、ガス代などの基本料金は支払わなければならない。無駄な費用が出て行くばかありだ。とはいえ、相手が信用ならぬ呉社長となると、何故か不安な気がした。如何に多角経営とは言っても、ホストクラブ経営までしている呉社長は、堅気の男とは思えないところがあり、信用することが出来なかった。当然、塩田についても同じことが言えた。塩田秀樹の査定では、六千万円で購入した百合ヶ丘の家が二千五百万円との評価であった。ローンの残額二千万円を支払うとなると、手元に残るのは五百万円。これでは、お話にならない。他人に貸して、毎月の家賃収入を考えた方が得策であるような気がしたので、『清和不動産』への売却を断ることにした。

「二千五百万円で売るのは馬鹿馬鹿しいですから、、売却するのは止めようかと思います」

「でも使い古しの家ですし、土地価格もバブルが崩壊して下がってしまいましたから・・・」

「とはいっても、長年、支払って来たローンのことなど考えると、その値段で売るのはちょっと考えものです」

「それは残念ですねえ。まあ、急ぎません。もう一度、考え直してみて下さい」

 塩田青年はそう言い残すと、小さく頭を下げて帰って行った。私は彼が帰ってから、いろんなことを考えた。『清和不動産』なるものは、新興住宅地の奥様方を相手に、住宅の買い替えの斡旋をしている会社なのであろうか。あるいは、それを理由に、有閑マダムを『桜の園』に誘い込む仕事をしているのか。いずれにしても、怪しい会社であることは間違いないと、私は確信した。



        〇

 暦の上では立秋も過ぎ、既に秋になっているのなのかも知れないが、暑い日が続いていた。私は弘と二人で朝食をしながら、弘を励ました。

「今日から、また学校だけど、頑張ろうな。お父さんも頑張るから・・・」

「うん、頑張るよ。でも、お父さん、無理しないでね」

「うん、ありがとう」

 私は小さく笑い相槌を打った。母親を失い、辛い毎日であろうに、父親を傷つけまいと細かく気を使って、苦悩を表面に現わさない弘に、私は心から感謝した。これからの長い人生、私たち親子には片親ということで、いろんな苦難が待ち受けていよう。私たちには乗り越えて行かなければならない前途を、覚悟しながら毎日を過ごしていた。そんな親子の朝食の最中、テレビが残酷なニュースを流した。昨夜、新宿のホストクラブで集団暴行事件があったという報道であった。私の脳裏に『桜の園』のことが過ぎった。もしかして、『桜の園』で事件があったのでは。私は急いで食事を済ませ、新聞の朝刊を広げて見た。そこには昨夜に事件のニュースが掲載されていた。

〈31日午後10時40分ごり、東京都新宿区歌舞伎町の雑居ビルにあるホストクラブ〈ピンク・アクア〉店内で、「男性が殴られています」と110番通報があった。警視庁によると、男5人が店に入って来て、鉄パイプのような棒で、ホスト男性の顔などを殴り逃走した。男性は病院に運ばれたが、間もなく死亡した。同庁が殺人容疑などで捜査している。捜査一課によると、死亡したのは東京都中野区のホスト、小野亮介さん(15)。小野さんは同日、午後7時ごろ入店し、ソファ席で客の女性二人を相手に他のホストと一緒に酒を飲んでいたところ、入店して来た男らに、いきなり襲われた。男らは全員目出し帽をかぶり、そのうちの2,3人が小野さんを鉄棒で1~2分間、暴行し、車2台に分乗して逃走した。小野さんのホスト仲間二人も殴られたが軽傷。男らは入店して真直ぐ、小野さんの所に向ったという。同課は、あらかじめ小野さんを狙ったとみて、小野さんに何らかのトラブルが無かったかを調べている〉

 ホストクラブは『桜の園』では無かった。何故か、ほっとした。それにしても突然、店に入って来た男たちに殴り殺されたホストのことを思うと、気の毒でならなかった。恐ろしい世界があるものだ。私は新聞を流し読みしてから、食器を洗い、洗濯物を干して、背広に着替えた。そして弘と共にマンションを出た。駅近くの四つ角で弘と別れた。弘は新しい友達、今井君、金子君と原島君らと一緒に小学校へと向かった。私は経堂駅から電車に乗り、新宿に行き、中央線に乗り換え、神田駅で下車し、日本橋の『和光商事』に出社した。机に座り一時間程して、総務部の長尾部長から内線電話があり、第二応接室に顔を出すよう指示を受けた。何事かと第二応接室に行くと、長尾部長と一緒に刑事二人が、あれやこれや雑談していた。

「長尾部長。何でしょう」

「ああ、こちら捜査一課の刑事さんで、君に訊きたいことがあるらしい」

 長尾部長は、そう言って、口ごもった。すると刑事の一人が口を開いた。

「捜査一課の矢沢と申します。こちらは江口です。早速ですが、昨夜の集団暴行事件をご存知でしょうか?」

「はい。朝、テレビで知りました」

「殺害された小野亮介さんを、御存じですか?」

「知りません」

 全く知らぬ若者なので、私は、はっきり知らないと答えた。何故、私に聞き込みにきたのであろう。

「昨夜10時ころは何処におられましたか?」

「家でテレビを観ていました」

「それを証明出来る人はいますか?」

 私は思わぬ事件に巻き込まれていることに戦慄した。長尾部長が心配そうな顔をして、私を見詰めた。私は憮然として答えた。

「息子が家にいましたから、息子に確認して下さい」

「息子さんでは無く、身内以外の人で、誰か、それを証明出来る人はいませんか?」

 そう言われても思い当たらない。私が悩んでいると矢沢刑事が言った。

「思い当たらなければ結構です。八時ごろの証明は何かありますか?」

「経堂駅前のスーパーで買い物をしたので、そのレシートがあります」

「では、そのレシートを明日、見せて下さい」

「分かりました。探してみます。でも何で、私が昨夜の集団暴行事件と関係があるのでしょうか?」

 私が矢沢刑事に質問すると、隣りにいた江口刑事が答えた。

「それは秘密です」

「私に質問ばかりしておいて、それは無いでしょう。私の質問に対して、何も答えないのは、不公平ではありませんか」

 私が食って掛かると長尾部長が私を止めようとした。私は刑事二人を睨みつけた。すると矢沢刑事が、私を探る様に見詰めて言った。

「亡くなった奥さんと被害者の小野亮介は知り合いでした。ですから、貴方が何か知っているのではないかと。申し訳ありませんが、明日、出社前に新宿警察署の私の所へレシートを持って立ち寄って下さい」

 二人の刑事は、そう言い残して帰って行った。私には殺されたホストクラブの男と則子が知り合いだったなどということは想像もつかなかった。長尾部長は表情を曇らせて言った。

「大丈夫か。山村君?」

「大丈夫です」

 私は苦笑し、長尾部長と一緒に第二会議室をを出て、自分の机に戻った。



        〇

 翌朝、私は新宿警察署に行き矢沢刑事と江口刑事と面談した。まずは駅前スーパーのレシートを渡し、その時刻以降、自宅マンションに息子といたことを伝えた。あとは何も言う事が無かった。すると矢沢刑事が小野亮介について、あれこれと喋った。

「小野亮介について調べたところ、彼は高橋聖子さんと付き合っていたようです」

「あの、百合ヶ丘の?」

「そうです。貴方が住んでいたお隣りの家の奥さんです。貴方の奥さんがお亡くなりになってから、高橋さんと被害者は付き合い始めたとのことです。このことは昨日、貴方とお別れした後、百合ヶ丘迄行って、高橋さん本人に確認して参りました」

 この時になって、私は小野亮介たちと妻の則子たちが、グループ交際していたことを知った。弘の日記には、則子の死に関連することは、何も書かれていないと思っていたが、重要なことが書かれてあったのだ。

「奥さんは高橋さんと一緒に、『ピンク・アクア』のお客様として、出入りしていたようです。多分、山村さんが、長期出張したり帰りが遅かったりしたので、ストレスが溜まっていたのでしょうね」

「そう言えば、高橋さんの旦那も岩手工場に単身赴任しているので、うちの女房と遊びに行ったりしていたのでしょう」

「人間て分からないものですね」

 矢沢刑事の言う通りであった。人間なんて分からない。見つからなければ、悪い事をしても構わないと、則子は軽く考えていたのだろうか。その挙句、則子は何かの理由で、自殺せねばならない状況に追い込まれてしまったのだろうか。それとも殺されたのか。

「小野さんと一緒に事件現場にいた吉川純一さんも、負傷して意識不明でしたが、意識が戻り、江口が当時の状況を聞いて来ました」」

 私はその言葉に江口刑事の顔を見た。私の視線を受けて江口刑事はこう訊いて来た。

「吉川純一さんの話によると、犯人は貴方の奥さんの関係者だと言っていましたが、何か心当たりは?」

「全くチンプンカンプンで、分かりません」

 吉川純一という男もまた私の全く知らない人物だった。その男が何故、集団暴行事件の犯人は則子の関係者だと口走ったのか。江口刑事の質問の仕方は、事件が則子の夫である私の復讐劇と言わんばかりの訊き方だった。江口刑事は私を睨みつけた。

「山村さん。貴方は亡くなられた奥さんの死を、他殺と考えているのではありませんか?」

「何故、そう思うのですか」

「貴方の行動を調べさせていただきましたら、歌舞伎町に頻繁に出入りし、何か調べているみたいですので」

「ああ、そのことですか。それは新宿の不動産屋に百合ヶ丘の家の売却をお願いしていますから」

 私は矢沢刑事と江口刑事が、私を疑っているのに腹が立ったが、あらゆる可能性を捜査するのが刑事の仕事と思い、あえて苦情を言わなかった。むしろ今回の事件で、則子の死の原因が判明すれば、それで良かった。私が歌舞伎町の『桜の園』に訪問していたことも、矢沢刑事たちは、既に調査済みのようであった。

「おかしいですね。貴方が家の売却をお願いしている不動産屋は西新宿ではありませんか。歌舞伎町と関係ないのでは?」

「はい。その不動産屋の社長が歌舞伎町で飲み屋を経営しているものですから、そこで飲みながら打ち合わせを・・・」

「山村さん。嘘をついてはいけませんよ。『桜の園』はホストクラブではないですか」

 そう言われて、私は返答に窮した。その為、開き直って言ってやった。

「分かっているなら、無駄な質問をしないで下さい。私を疑うなら『清和不動産』に行って確認して下さい。呉社長は勿論のこと、塩田係長も私の事を良く知っています」

 新宿警察署での矢沢刑事たちとのやりとりは一時間半程度で終わった。私はそれから会社に向かった。会社に出勤すると長尾総務部長が、心配そうに、今朝の状況を訊いて来た。私はありのままを長尾総務部長に話した。



        〇

 明くる日、私は会社を休み、百合ヶ丘の家に行き、雨戸を開け、家の中に外気を送り込んだ。それから草ぼうぼうになった庭の草刈りをした。そして隣りに住む高橋聖子の様子を窺った。彼女は家にいるらしく、時々、勝手口の窓を開け、彼女もまた私の様子を窺っているようであった。おにぎりで昼食を済ませた後、私は思い切って隣りの家を訪ねた。私の訪問に、彼女は慌てた様子であったが、直ぐに笑顔を見せ、私に対応した。

「お久しぶりです。今日は草刈りですか?」

「はい。夏の間中、放ったらかしにしておいて、御迷惑をお掛けしてしてます」

「弘ちゃんは、お元気?」

「はい。新しい学校にも慣れたようで・・・」

 その後、互いに言葉が続かなかった。二人とも黙り込んでしまった。私はここで、はっきりと質問しておくべきだと思った。言いづらいことであったが、高橋聖子に訊ねてみた。

「ところで、先日、刑事さんが、会社にやって来て、則子と奥さんが、新宿の『ピンク・アクア』に出入りしていたことを話して帰られました。彼らは私の事を疑っているようです」

「何で山村さんを疑ったり」

「則子が自殺した原因が、小野亮介にあり、私が暴力団を使い、小野亮介を殺したと推測しているようです」

「警察は、そんな風に・・・」

「はい。私が殺人組織を使って、『ピンク・アクア』を襲わせたと・・・」

 私は彼女の反応を確認したが、彼女は冷静だった。彼女は首を横に振った。

「私は警察には言っていませんが、犯人については、吉川さんが知っているのではないかと思います。多分、『スワロウ・サロン』の解体を狙った事件だと思います」

「スワロウ・サロン?」

「ホストたちの組合です。小野ちゃんが考えた組合です」

「その『スワロウ・サロン』とやらについて、もう少し詳しく教えていただけませんか?」

「それは吉川さんに直接、聞いて下さい。私は、もう、あの人たちと関わりたくありません。電話番号を、お教えします」

 高橋聖子は吉川純一の電話番号を書いたメモ用紙を私にくれた。彼女は冷静を装っていたが、内心とても不安だったに違いない。私にはまだ訊きたいことがあった。

「小野亮介と則子はどんな関係だったのか、教えていただけませんか?」

「はい。小野ちゃんがホストをしていた前の店からの付き合いで、私が『ピンク・アクア』に行く前からの知り合いだったと聞いています」

「その店の名は?」

「私には分かりません。お隣りにいた、田中さんなら知っているのではないでしょうか」

「何故、田中さんが?」

「則子さんは田中さんに誘われて、ホストクラブに行って、小野ちゃんと親しくなったらしいわ」

 私には全く、この新興住宅地に住む女たちの精神構造と行動が理解出来なかった。有閑マダムという映画のタイトルなどを見たことがあるが、本当に、そんな女たちがいたのだ。それも自分の妻も、その仲間だったとは。そういえば田中綾乃の夫は船員であり、年に数回しか自宅に戻って来ないと聞いていた。その寂しさに則子を誘ってホストクラブ通いを始めたのだろう。

「田中さんの移転先は分かりますか?」

「さ、横浜に移転すると聞いていましたが、住所までは。そう、『清和不動産』に聞けば分かるのではないでしょうか」

「そうでしたね。いろいろと情報、有難う御座いました。お互い犯人にされぬよう、気を付けましょう」

 私は,そう言って失礼した。そして吉川純一と会う為、後日、吉川純一に電話することにした。



        〇

 私は田中綾乃の住所を教えて貰う為、『清和不動産』の塩田秀樹に電話しようと思ったが、一瞬、考えた。何故か、引っ掛かるものがあった。そこで思い浮かんだのが、綾乃の主人、田中航平の名前だった。私は横浜に住む田中航平の電話番号を調べた。電話局に電話し、その番号は直ぐに分かった。その電話番号に電話すると、綾乃が電話口に出た。

「はい。田中ですが・・」

「突然の電話、申し訳ありません。以前、お隣りさんだった山村ですが。お久しぶりです」

「ああ、山村さん。こちらこそ、お久しぶりです」

「無理を言ってすみませんが、これから、お会い出来ますか?」

「はい。私からも、お話したいことがありますので、新横浜まで来ていただけますか」

「はい。お伺いします」

「では、夕方五時に横浜線の改札口で・・・」

 私は百合ヶ丘から小田急線の電車に乗り、町田まで行き、そこから横浜線の電車に乗り替え、新横浜駅改札口で、田中綾乃と合流した。喫茶店『マチス』でコーヒーを飲みながら、私は弘の日記をもとに、綾乃と則子の行動について、質問した。すると、彼女は則子のことについて種々、話てくれた。

「則子さん。小野ちゃんと仲良しだったから、小野ちゃんが独立した時、小野ちゃんについて、『ピンク・アクア』に行くようになってしまったの」

「そのことで、何かトラブルでも・・・」

「勿論、あったわよ。則子さんはホストクラブ『桜の園』の社長さんからホスト代を借金していたから、それを返済しないなら、百合ヶ丘の家を『清和不動産』に売却するようにと、強要されたのよ。『清和不動産』の社長はずるいのよ。90坪ほどの私たちの家を安く購入し、それを二分割して、分譲しようと狙っていたのよ」

「すると、綾乃さんも、そんな罠にはまったのですか?」

「そうなの。私、馬鹿よね。主人は船に乗っていて陸地の事は分からないから、私が横浜のマンションに移っても、港から近くて良いじゃあないかって言って、了解したけど、大損しちゃったわ」

 綾乃はあっけらかんとして実情を語ってくれた。そして私に向かって、色やかな微笑を見せ、小さな声で言った。

「これ以上のことは、ここでは話せないわ。人に聞かれるとまずいから・・・」

「じゃあ、何処か人のいない所で、、お話していただけませんか」

「良いわよ。私について来て」

 喫茶店『マチス』を出ると、綾乃は私の先を歩き、横浜線のガードを潜り、ラブホテル『ラベンダー』に私を案内した。そのラブホテルの窓からは、夕暮れの富士山を眺めることが出来た。私は部屋のソフアに座るや、喫茶店での話の続きを始めた。

「先程の話によれば、則子はホストクラブの社長から借金の返済か百合ヶ丘の家の引き渡しを要求されていたのですね」

「その話はサービスをしていただいてからでないと出来ないわ」

 綾乃は恥ずかし気も無く、ワンピースを脱ぎ、ブラジャーを外し、私に迫って来た。綾乃にしがみつかれ、私はどうして良いのか迷ったが、真実を追求する為には、綾乃の誘いにはまるしかないと思った。彼女の求めに応じ、唇を交わしパンティを脱がせ、シャワーも浴びずにベットに入った。豊満な綾乃の肉体は、私を挑発し、むせかえるような淫靡な甘い香りで、私を欲望の渦に巻き込んだ。彼女は沢山の男と経験しているからであろう、私の中に潜んでいる欲望のかたまりを解きほぐし、享楽の世界へと導いた。綾乃はかって、隣りの主人であった私の上になり、咲き誇るというより、咲き乱れ、咲き狂った。彼女は二度の到達に満足すると、シャワーを浴び、ワンピース姿に戻ってから、私に言った。

「こんな素敵な旦那さんがいたのに、則子さんは・・・」

 私は下着とワイシャツを身に着け、背広を羽織り、鏡でネクタイを整えながら綾乃の話を聞いた。

「知っての通り、則子さん、小野ちゃんと仲良かったけど、美人だったから、呉社長に借金返済の代わりに、結婚を迫られていたの。山村さんと別れて、結婚して欲しいって。言う事をきかないと、山村さんに借金のことや、小野ちゃんのこと話すって」

「それで則子は・・・」

「それだけで、自殺する則子さんじゃあないわ。私たちの知らない何かがあったのよ。続きはまたこの次に話すわ。食事に行きましょう」

「では、弘が待っていますので、食事は軽く・・・」

「良いわ」

 私たちは『ラベンダー』を出てから、駅前のイタリアンレストランで、軽く食事をして別れた。私は横浜線の電車に乗り、小田急線の電車に乗りながら、追い詰められていた則子の苦しみを想像した。



        〇

 私は吉川純一と会う為、中目黒へ出かけた。しかし、昨日、電話で約束したのに、待てど暮らせど、彼は約束の時刻に現れなかった。仕方なく夜になって、『ピンク・アクア』を尋ねたが、彼は休みとのことであった。それもその筈。その頃、彼はもう殺されていたのだ。翌朝の新聞記事は、彼の死について、こう伝えていた。

〈8日、午後3時15分頃、神奈川県秦野市の林道に止めてあった車のトランクの中から、男性の遺体が見つかった。神奈川県警によると、男性は腹部に数ヶ所の刺し傷があり、殺人死体事件として捜査を始めた。秦野署によると、同日、午前11時10分頃、現場を通りがかった男性から、「不審な車が止まっている」と同署に届け出があった。同署が調べたところ、車の中から遺体が見つかった。神奈川県警によると、車は盗難車で、殺されたのは東京都目黒区目黒3丁目のホスト、吉川純一さん(24)と所持品から判明。検視の結果、遺体は死後、一日、経っているという。車はすべてロックされ、荒らされた様子が無いことから、県警は吉川さんが別の場所で殺害され、運ばれたとみて調べている。〉

 結果、私は再び、矢沢刑事と江口刑事から取調べを受けることになった。彼と会う約束をしていたということで、取調べは、以前より、執拗になり、総務部の長尾部長も私を疑い始めた。

「山村君。大丈夫かね。こう頻繁に刑事が来たのでは、会社としても迷惑なので、何とかならんかね」

「そうですね。私は事件と何ら関わりありませんが、どうすれば良いと思いますか?」

「しばらく休暇でもとったらどうかね」

「そうですね。それが良いみたいですね。そうします。休暇届を出し、今日の午後から休ませていただきます」

 私は会社を休み、矢沢刑事らの取調べに応じた。そして自分が吉川純一に会おうとした理由を述べた。

「私は歌舞伎町の秘密組織『スワロウ・サロン』について教えてもらう為、吉川さんと会うことになっていたのです。それなのに、その前に、吉川さんは殺されてしまったんです」

「その『スワロウ・サロン』って何ですか?」

「刑事さんたちは、そんなこと知らないのですか。殺された小野亮介が会長をしていたホストたちの組合です」

 私の話を聞いて、刑事二人は目を丸くした。

「その内容を、もっと詳しく説明してくれませんか?」

「それを聞き出す為に、私は吉川さんに会おうとしてたんじゃあありませんか。刑事さんたちは遅いんです。私など調べず、『スワロウ・サロン』を調べて下さいよ」

 矢沢刑事は私の説明に目を輝かせた。新しいネタに興奮しているのが分かった。彼は私に執拗に質問して来た。

「その『スワロウ・サロン』について調べるには、どうしたら良いですか?」

「まず『ピンク・アクア』の連中から聞き出せば分かると思います。多分、有閑マダムたちを狙ったクラブ制、ツバメ組織です。小野亮介が、その組織のリーダーとして、マダムたちの求めに応じ、指定場所に若い男たちを派遣し、大金を得ていたのだと思います」

「成程。情報ありがとう御座います」

「私は、皆さんが余りにも頻繁に会社に来られたものですから、会社から出勤を止められています。ですから、暇なので、小野亮介や吉川純一を誰が殺害し、誰が『スワロウ・サロン』の頭領になっているのか追求するつもりです」

 すると矢沢刑事は慌てて言った。

「山村さん。それは止めて下さい。これからのことは、私たち警察に任せて下さい。貴方が探偵のように動き回りたいのは分かりますが、ちょっと危険が伴います。手を引いていただけませんか」

「はい。犯人の目途がつきましたら・・・」

 私は笑って答えた。矢沢刑事と江口刑事は、私のことを困った男だなという顔をして、互いに顔を見合わせた。私は二人に言ってやった。

「私は貴方たちが勤務先に頻繁に顔を出された為、出社ストップになりましたので、やる事が無いんです」

 私の皮肉の言葉に刑事二人は渋い顔をした。



        〇

 矢沢刑事と江口刑事は、私からの情報を得て、新宿のホストクラブ『ピンク・アクア』の捜査に入った。その結果、『スワロウ・サロン』なるものを突き止めた。入会金は百万円。ツバメ派遣費、三万円。ツバメへの派遣依頼主からのチップは自由という規則。会長は小野亮介、副会長、吉川純一、会計、緑谷雪子の三人が中心になって活動していた組合で、その組合事務所は新大久保にあった。二名の女子事務員が、緑谷雪子の指示に従い、ツバメの派遣をコントロールしていたことが分かった。矢沢刑事の話によると、私の妻、則子は、その『スワロウ・サロン』の設立に関与していたらしい。多分、呉社長からの借金返済の為に、『スワロウ・サロン』を企画したのであろう。『スワロウ・サロン』での収入で、呉社長からの借金をあっという間に返済し、呉社長との縁を切ろうとしたに違いない。ところが呉社長が、それに気づいた。私の推理は一本線でつながった。最早、疑いようが無かった。しかし決定的な証拠が見つからない。どうすれば良いのか。こうなっては強硬手段に出るしか方法が無いと思った。それには塩田秀樹を引っ張り出し、追い詰めて、知っている総てを白状させることだ。しかし、どのようにして、塩田を追い詰めるかだ。何か良い方法はないか。私は自宅の食卓に座って考えた。思案の挙句、浮かんだのは小野亮介を襲った5人の男の究明だった。私は休暇中の会社の状況が、どんな風であるか確認するふりをして、森君に電話した。

「ああ、悠子ちゃん。皆、元気でやってるかな」

「ええ、皆、忙しそうにやってます。でも、課長がいないと、ミスが多くて困っちゃいます」

「そうだろうな。悠子ちゃんが男どもに注意しているのが、眼に浮かぶよ」

「そんなこと言わないで早く会社に出て来て下さい」

「うん。その前に悠子ちゃんと二人っきりで会いたいんだが、何時なら会えるかな」

 私の言葉に森君は一瞬、沈黙した。休日に時々、訪問しているのに、二人っきりでなどと言われて、彼女の胸がドキドキしているのが分かった。彼女は小さな声で答えた。

「今夜なら」

「じゃあ、新宿の『紀伊国屋書店』の前で6時半に・・」

 私は森君とデートの約束をして電話を切った。それから彼女に会ってから、何をどう依頼するか慎重に考えた。彼女が自分の計画に協力してくれるかどうかは分からない。私はしばらく考えた後、弘に伝言メモを書いた。

〈弘。お帰りなさい。お父さん、これから用事で出かけます。夕ごはんは、ごはんをたいてありますので、ハンバーグをチーンして食べて下さい。11時頃に帰ります〉

 それを書き終えてテーブルの上に置くと、私は外出の仕度をした。



        〇

 都心にも秋らしい風が流れていた。私が6時20分に『紀伊国屋書店』の前に行くと、既に森君が一階フロアにいて、店先に並んでいる新刊を手に取って眺めていた。

「お待たせ」

「あらっ、課長。私、課長と二人っきりで会えるなんて、滅多にないことだから、早く来ちゃった」

 森君は、そう言って赤面した。彼女の瞳はまるで女子高生の瞳のように輝いていた。私は近くのビルにある日本料理店に彼女を案内した。店内は個室風になっているので、料理を運んでくる中居さん以外、二人の話を盗み聞きすることは出来ないと考えての案内だった。まずはビールで乾杯し、コース料理が出て来るのを待ちながら私は森君に会社の状況を教えてもらった。彼女は包み隠しなく話してくれた。

「黒崎部長、まるで課長がホストクラブ事件の主犯と考えているみたいよ」

「確かに、そう考えるかも。長尾部長も、私に休暇届を出させたくらいだから・・・」

「皆、ひどいわ。社員のことを信用しないのかしら・・・」

「だろうな。人間なんて、そんなものだ」

「でも私は違うわ。課長のこと信じています」

「ありがとう」

 そんな会話をしていると料理が運ばれて来た。松茸などのキノコを使った料理としゃぶしゃぶの組み合わせのコース料理で美味しかった。私は頃合いを見計らって依頼ごとの話を切り出した。

「ところで今夜、食事の後、悠子ちゃんに、お願いしたいことがあるんだ」

「良いわよ。課長の望むことなら何でもして上げる」

 森君はちょっとまた赤面した。私は思い切ってお願いした。

「実は私の案内するホストクラブに行って欲しいんだ」

「えっ。ホストクラブ?」

 私の依頼に森君はびっくりした。森君が考えていたことと予想が外れたようだった。森君は突然、無言になった。私は10万円を入れた封筒を森君の前に差し出した。

「うん。ホストクラブだ。ここに金を用意したので、行ってくれ」

 森君は私の依頼に対して、無言だった。ゆっくり食事をしながら考えてから、私に答えた。

「了解しました。そこへ行って何をすれば良いのでしょう」

「そこに一時間程いて、塩田というホスト、あるいは他のホスト一人を店から連れ出して欲しい。聞き出したいことがあるんだ」

「ホストクラブなんて行ったことないけど、大丈夫かしら」

「大丈夫。封筒の中に10万円、用意してあるので、それを使ってくれ。カードは使うなよ」

「分かりました」

 私は、それ以上の説明をしなかった。森君は食事が終わると、ホストクラブに案内してと言った。私は食事の精算を済ませ、森君を夜の歌舞伎町へ連れて行った。彼女を三角ビルの近くまで案内して、彼女に指示した。

「三角ビル5階の『桜の園』というホストクラブだ。一階に行き、『桜の園』と言えば、誰かが案内してくれる」

「ちょっと怖いわ」

「余分なことを言わなければ大丈夫。優しく楽しませてくれるよ」

「分かりました。一時間後、イケメン男子を店から誘い出します」

「じゃあ、頼んだよ。俺はここで待っているから」

「絶対よ。絶対、待っていてね。私、課長と一緒に帰るんだから・・・」

 私はOKの合図をして、森君を見送った。森君は怪しいネオンの輝く歓楽街の中を、勇気をふりしぼって進んで行った。私はちょっと心配であったが、これ以外、小野亮介、吉川純一を殺害した犯人を探し出す方法は無いと考えていた。



        〇

 私は森君を見送った後、三角ビル近くの喫茶店に入り、40分程過ごし、それから近くのビルの陰に隠れて、森君がホストを連れて現れるのを待った。夜の10時ちょっと前の歌舞伎町は、不夜城さながら、快楽を求める男や女たちが、極彩色の光の中を右往左往、行き交っていた。10時15分、森君がハンサム・ボーイを片腕にがっちり掴んで、三角ビルの一階に現れた。彼女は私を発見すると、安心してか、若い男に寄りかかって見せた。男は森君を次の場所へと誘導した。そこがメイン通りから外れた薄暗いホテル街であることは計画通りだった。男は弾んだ声で、森君に声をかけた。

「こっち、こっち」

 男は森君を連れて、暗がりの道に入った。私は、その暗がりの道をちょっと入った所で男を呼び止めた。

「おい。何処へ行くんだ」

 男は森君と一緒に振り返った。男は暗闇で目を光らせ、私に言った。

「何だ。お前は?」

「何でも良い。ちょっと訊きたいことがある」

「何を訊きたいんだ?」

「お前が、『ピンク・アクア』を襲ったことは分かっている。小野を殺したのは、お前だろう」

「お、俺じゃあねえよ」

「じゃあ、誰だ。他の連中の名前を教えろ」

 私の言葉に男は森君を突き放し、私から逃げようとしたが、背後から私にネキタイで首を絞められ、逃げようが無かった。彼はもがきながら喋った。

「亮介をやったのは俺じゃあねえ。俺は車の中で待ってて、運転を手伝っただけだ」

「じゃあ、誰がやった。誰がやったんだ。教えないと絞め殺すぞ!」

 私はネクタイをもう一巻き首に廻し、威嚇した。

「苦しい。苦しいから止めてくれ」

「じゃあ、殺した奴の名前を教えろ」

「そ、それは・・・」

 男が犯人の名前を答えようとした時だった。暗闇から突然、男が現れた。

「藤本。答えるんじゃあねえ!」

「お、お前は塩田!」

 男は手にナイフを持ち、森君の喉元を刺す格好をした。私は、どうすべきか迷った。塩田は私に向かって言った。

「この女。どうも怪しいと思っていたんだ。山村さんのマンションに出入りしていたのを見たような記憶があったので、付けて来たら、この有様さ」

「矢張り、お前たちだったのか。兎に角、彼女を解放しろ。そうでないと、こいつを絞め殺すぞ」

「それは、こっちの言うセリフだ」

 塩田は森君を本当に刺そうとしていた。私は森君を、こんな危険な目に合わせてしまい申し訳ないと思った。何が何でも、命懸けで助けてやらねばならない。私は藤本という男を締め上げた。息が苦しくなった藤本は、もがきながら塩田に訴えた。

「塩田さん。俺を助けて下さい。その女を放して下さい」

「放すものか。お前なんか殺されたって知るものか。お前が殺されれば、好都合だ。総てがストーリー通り、そいつの犯行ということになる」

「塩田さん。俺を見捨てるのですか?」

「ああ、そうだ」

「塩田さん!」

 藤本は叫んだ。と、その時、異変が起きた。今まで森君にナイフを突きつけていた塩田が、背後から二人の男に取り押さえられ、ナイフを手から落とした。

「な、何をするんだ!」

「ストーリーは嘘で作り上げられたもの。そのドラマより現実はドラマチックなのさ」

 その声は矢沢刑事の声だった。何時の間にか矢沢刑事と江口刑事が、現場に駈けつけ笑っていた。そして、二人で、塩田と藤本に手錠をかけた。森君が恐ろしかったと私に跳び付いて来て、涙をボロボロ流したが、何を言っているのか、言葉になっていなかった。私は、矢沢刑事たちにはばかること無く、恐怖に震える森君を、強く抱きしめてやった。私たちはやって来たパトカー2台に乗せられ、新宿署に連れて行かれた。私は、新宿署から弘に電話し、12時頃になるので、先に寝るよう伝えた。私と森君の取調べは30分ほどで終了した。

「今日は遅いので取り調べを終わります。森田さんは、明日、普段通り、会社に出勤して下さい。山村さんは申し訳ありませんが、明日9時半に、こちらに来て下さい」

「分かりました」

 私たちは矢沢刑事たちに挨拶して、新宿警察署を出た。あたりは真っ暗だった。

「どうしようか」

「どうしようかって」

「悠子ちゃんのマンション経由で、自宅に帰ろうか、どうしようかと思って」

「タクシー代かかるから、課長の所に泊めて下さい。それに、今夜、一人でいるの怖いから・・・」

「うん、分かった」

 私は頷いた。そしてタクシーを拾い、弘の待つ経堂のマンションに向かった。森君に手を強く握られたまま。



        〇

 捜査本部の調査は急ピッチに進展し、翌日、私が矢沢刑事の所を尋ねた時には、もう襲撃事件の犯人、塩田、藤本両名以外の3名の名も判明していた。取調室に入ると矢沢刑事から質問された。

「山村さんは、何故、塩田が犯人だと分かったのですか?」

「彼が私の薄皮のブレザーを着ていたからです」

「山村さんのブレザーを塩田がですか?」

「はい。その理由が分からないのです。妻が私のブレザーを他人に差し上げるなんて、考えられぬことですから。だから私は、妻が誰かに殺されたのだと、関連する人たちを追いかけていたのです」

「分かりました。奥さんの事件のことも、もう一度、新宿署で捜査し直してみます」

「よろしく、お願いします」

 私は矢沢刑事たちに知り得る限りのことを話した。そして捜査本部を退去した。矢沢刑事は江口刑事と私を見送りながら言った。

「山村さん。後の事は私たちに任せて下さい。復讐など考えては駄目ですよ」

「分かってます。分かってます」

 そう答えはしたが、もし妻が誰かに殺害されたのが事実であるなら、私は犯人を殺したい。私は新宿で昼食を済ませてから、経堂のマンションに帰った。部屋で日本茶を飲み、今までのことを振り返った。中でも昨夜は危なかった。もし、矢沢刑事たちが、私を尾行していなかったなら、森君も私も殺されていたかも知れない。そう思うと、ゾッとした。森君のお陰で、小野亮介集団暴行殺人事件は、決着しそうであるが、私と弘の狂ってしまった人生は、取り戻しようが無かった。私はプロジェクト・メンバーから外され、現在、会社で、どのような立場になっているのか分からなかった。この事件が解決すれば、会社に戻れるのであろうが、私が殺人事件に巻き込まれたことは、マイナスになっていることは確かだった。私はいろんなことを考えながら、夕食の準備を始めた。駅前のスーパーに行き、食料品や家庭用品を買い込み、秋空を見た。いわし雲が流れていた。そんな秋空を見上げる私を見付けて、学校帰りの弘が駆け寄って来た。

「お父さん。荷物一つ持ってあげる」

「おお、弘。有難う。じゃあ、こっちを持ってくれ」

「お父さん。買い物上手になったみたいだね」

「うん。まだまだ弘には負けるけど・・・」

 弘はフフンと笑った。私が長期休暇届を出すまでは、毎日の食事の材料は、弘が仕入れて来ていた。則子の買い物の手伝いをしていた時に、身に着いたのであろう。弘はとても買い物が上手であった。

「お父さん。何時から会社に出られるの。お姉ちゃんは、今朝、家を出る時、もう直ぐよと言っていたけど・・・」

「うん。もう直ぐだ。そうなったら、また買い物、頼むな」

「分かっているよ」

 弘は嬉しそうに跳びはねた。弘の為にも早く会社勤務に復帰し、正常な生活を取り戻さねばならない。則子も、それを望んでいるに違いない。しかし則子は自分を死に追いやった犯人を、恨んでも恨みきれないでいるであろう。マンションの部屋に入ると、私は弘と二人で、夕食の為の料理作りに取り組んだ。おそろいの大小のエプロンをかけ、台所で動き回った。私は野菜と魚介などを組合わせたパスタを作り、弘はナス焼きとポテトサラダを準備した。オニオンスープはインスタント・スープを利用した。テーブルニ出来上がったものを並べ、食事を始めた時、弘が私に質問した。

「お父さん。森のお姉ちゃんと結婚しないの?」

「お父さんと悠子ちゃんが?」

「僕は賛成だよ。お姉ちゃんが、お母さんになるなら、僕、嬉しいよ」

「何、言っているんだ。つまらんことを考えるな」

 私は弘の頭をコツンとしながら、それも有りかなと思った。



        〇

 小野亮介が目出し帽をかぶった集団に襲われ死亡した事件の犯人逮捕の報告が朝刊に載った。

〈東京、新宿のクラブで、9月、ホスト、小野亮介さん(25)が殺害された事件の犯人は、都内の暴走族グループのメンバーであると判明した。このグループは中野区などを拠点とする複数の暴走族の連合体。捜査関係者によると、ホストクラブのホスト引き抜き合戦などのトラブルがあり、元暴走族グループのリーダーであった塩田秀樹(31)がつながりがあるメンバーを誘い関与した疑いが強いとみて捜査している。また塩田らが逃走に使ったワンボックス車2台のうち1台は塩田が務める都内の会社の名義だったことも判明。警視庁は、この会社を家宅捜索したが、車や事件に結び付くものは見つからなかった。会社の社長は「車は従業員が勝手に使った」などと話したという。捜査本部は吉川純一殺害にも関与していないか、調べている〉

 私は捜査が塩田をはじめ、呉社長にまで及んでいるのを知った。私は田中綾乃から聞いた話を思い出し、整理してみた。

1,則子は綾乃に誘われホストクラブに通って、借金してしまった。

2,ホストクラブのオーナー、呉社長より、借金返済を迫られた。

3,もし借金が返済出来ないなら、夫と離婚して呉社長の妻になれと言われた。

4,どちらも無理なら、百合ヶ丘の家を『清和不動産』に売却せよと迫られた。

5,則子は借金を返済する為、小野亮介と新しい仕事『スワロウ・サロン』を開設した。

6,則子は『スワロウ・サロン』の収益で、あっという間に借金を返済した。

7,則子が『スワロウ・サロン』の影の経営者であることが、呉社長に発覚した。

8,そこで『桜の園』の邪魔者として殺された。

 これらの経緯から推測すると、呉社長が塩田らに命じ、『スワロウ・サロン』潰しに動いたことは間違い無い。その為、小野亮介と組んだ、則子がまず殺されたのではないだろうか。則子が死亡した時、私はニューヨークで、商談をしていた。妻の死体の第一発見者は弘で、まだ小学生。小学校から自宅に帰り、風呂場で手首を切断して大量出血死している母親を発見。そして神奈川県警の則子の死因捜査結果は、精神異常による自殺と判断されて終了した。しかし、私には則子が精神異常を起こすような女だとは思えなかった。彼女は性格的に気は強いが、冷静にものごとを考える女だった。私が行き詰っても冷静に対処し、私を支えて来た。だから私がニューヨーク出張時の途中、ロスに立ち寄り、ナンシーと浮気したところで、彼女は嫉妬心をうまくかわすし、私に気づかせない女だった。

「私は近所の人に、貴方が外国で浮気してると言われても、焼餅なんか焼きませんよ。だって外国でのことですもの。子供のお遊びみたいなものよ。田中さんだって、そうでしょと言ってやったわ」

 そんな寛大な心を持つ則子が、借金程度でへこたれるものとは思われ無い。頭をひねり、金を稼ごうと考えたに違いない。それが美青年の派遣組織『スワロウ・サロン』だったのだ。その『スワロウ・サロン』から美青年を派遣し、普通のホストクラブの倍の稼ぎをやらせるやり方は、順調にスタートし、小野亮介や吉川純一らと共に、則子は裏方の経理の仕事をして、うまい汁を吸い、あっという間に借金を返済してしまったのだ。そして、ほっとしていたところで、『桜の園』の営業を邪魔する『スワロウ・サロン』が則子たちの経営と判明し、殺されたのだ。だが分からないのは、あの塩田が、私の前で私の薄皮のブレザーを平気で着ていたことだ。私に私のブレザーを見せることによって何かを示そうとしたのだろうか。そんな愚かなことをする筈が無い。私は経緯を辿り、混乱した。私が頭を悩ませていると、矢沢刑事が電話して来た。

「山村さん。百合ヶ丘の家を、もう一度、捜査させて下さい。神奈川県警の捜査に見落としがなかったか、我々、捜査本部の手で、もう一度、調べます」

「有難う御座います。お願いします」

 私は矢沢刑事に礼を言った。やっと則子の死について、新宿署が疑問を抱き始めたことが分かった。



        〇

 日曜日、久しぶりに百合ヶ丘の家に出かけた。矢沢刑事や江口刑事の他、鑑識も同行し、家の中を再調査することになった。弘も一緒に立ち会わされた。忘れかけていた恐ろしい記憶が蘇り、弘は苦しくて辛そうだった。この家で母と父と三人で暮らし、石川俊介や町田裕治、高橋洋子らと遊んだりした時のことが思い出された。愛犬、マックも経堂に引っ越す前に石川俊介に譲った。鈴木香織先生も優しかった。私もまた則子と二人、まだヨチヨチ歩きの弘を連れて、造成中の、この住宅地を見学に来た時のことを思い出した。あの頃、私たちは希望いっぱいに輝いていた。子供を、あと一人か二人作って、仕合せな家庭を築きたかった。ところが私が仕事に追われ、家のことを疎かにした為、とんでもないことになってしまった。則子は寂しかったに違いない。その為、彼女は遠い所へ行ってしまった。則子の事を思い出すと、辛い。私は弘の手を握り締め、玄関のドアを開け、家の中に入った。あの日の事を弘は私たちに向かって、こと細かに説明してくれた。

「僕は俊君と町田君と『みどり公園』で遊ぶ約束をして家に帰ったんだ。玄関のブザーを押したけど、お母さんは出て来なかった」

「そりゃあ、そうだろうな」

「僕は自分の鍵を使い、家に入った。リビングにも台所にも、お母さんはいなかった。応接間から庭の方を覗いたけど、そこにもいなかった」

 弘は、それから私たちを二階に案内した。各部屋のドアを開けて言った。

「お父さんの部屋にも、僕の部屋にも、お母さんの部屋にも、ベランダにもお母さんはいなかった」

 江口刑事が、そこで弘に質問した。

「開け放たれた窓はありませんでしたか?ガラス戸の鍵は閉まっていましたか?」

「洗濯物が風に揺れてたけど、ベランダのガラス戸の鍵が閉まっていたかなんて、見てないよ」

 弘は江口刑事に、はっきりと答えた。弘の記憶は、まだ失われていなかった。明確に質問に答えた。それから私たちは弘に連れられ、一階に戻った。

「お母さんが二階にもいなかったので、一階に戻り、トイレを見たんだ。けど、そこにもいなかった」

 弘は、そこで一呼吸おいた。弘が震えているのが分かった。胸が苦しくなるのを堪え、弘は私たちに説明した。

「僕はここで、お母さんの着ていた物が、洗濯機の上に置かれているのに気付いた。それでガラスドアーの向こうにいるお母さんに、只今を言ったんだ。だけどお風呂にいるお母さんは答えてくれなかった」

「それで、このドアを開けたんだな」

 私は弘に確認した。弘は振り返って私の顔を見上げると、泣きそうになって答えた。

「うん。そしたら、風呂の中が血の海だったんだ。お母さんは、こっち向きにして、こういう格好で死んでたんだ」

 弘は空のバスタブに入り、則子が死んでいた格好をした。私には、その弘の格好が、則子のする格好とは思えなかった。私は弘に再確認した。

「お母さんは真っ裸で血の海に顔を突っ込み、右手はバスタブの縁に出していたんだな」

「うん。洗い場には血は全く、手を切ったナイフが落ちていた」

「そのナイフは見たことの或るナイフか?」

「見たことの無い、初めて見るナイフだったよ」

「そのナイフは我々が保管しています」

 江口刑事が答えた。私は自分がニューヨークに仕事に出かけていた時の警察の捜査を疑った。私が不在だったので、私の兄の山村忠生や則子の兄の上岡健吾は気が動転していて、警察の調べのままにことを進めてしまったのだ。私がアメリカから帰国した翌日には、もう通夜であった。私はエスカレーターに乗せられた人間のように流れに従い、則子の葬儀を行ってしまった。則子の身体に触れる余裕も無かった。私は弘を睨みつけ、弘に確認した。

「弘。お母さんは、そのナイフで何処を切って死んでいたんだ?」

「左手首を切って、それをお湯につけて死んでた。僕が見た時、左手は風呂の中だったよ」

「弘。それは本当なんだな」

「本当だよ」

 次の瞬間、私は大声を出して、弘に向かって怒鳴っていた。

「馬鹿者!」

 弘は私に何で怒鳴られているのか分からず、目をしばたたいた。私は怒りが込み上げ、人目をはばからず、弘を殴りたい気持ちになった。

「弘。お前はお母さんが左利きなのを忘れていたのか。左手で左手が切れると思うか。それに自殺するお母さんが、真っ裸で自殺すると思うか。パンティくらいは身に着けている筈だ」

 弘の顔が蒼白になった。

「お父さん。ごめんなさい!」

 弘はバスタブの中から、サッと立ち上がると、私にしがみつき号泣した。矢沢刑事が江口刑事に、当日の鑑識資料を集めるよう捜査本部に連絡をとらせた。私は念の為、私の洋服ダンスの指紋を採るよう鑑識に依頼した。それから弘を慰めた。

「弘。お前のお陰で、調査が進展したんだぞ。ありがとう」

 私は弘の肩に優しく触れた。



        〇

 則子の自殺は捜査をやり直すことになった。結果、矢沢刑事と江口刑事の追及捜査により、則子の死が、他殺であることが判明した。私の捜査は、あくまでも推理でしかなかったが、矢沢刑事たちの捜査には裏付けがあった。塩田と藤本を尋問した結果、彼らが『ピンク・アクア』を襲撃し、『スワロウ・サロン』の会長、小野亮介殺しを白状した。二人は呉社長に命令されて、仕方なく、殺人を実行したと言い訳をしているが、競争相手のホストクラブを襲撃し、殺人まで犯したことは、許されるものでは無かった。彼らは『ピンク・アクア』を襲撃したことが発覚するのを恐れ、襲撃から逃れた『スワロウ・サロン』の副会長の吉川純一が帰宅するのを待ち伏せし、腹部をナイフで刺し、盗難車のトランクに入れ、神奈川県の丹沢山中に捨てたという。ところが塩田は私と森君の罠にはまり、矢沢刑事たちに逮捕されてしまった。総てが呉社長の命令だったという。その後の捜査により、呉社長が逮捕され、彼が自供した内容を矢沢刑事から聞いた。矢沢刑事は新宿警察署に出向いた私に、詳細を語ってくれた。

「山村さん。とんでもない災難でしたね。『清和不動産』社長、呉孟栄は中国人です。不動産業でコツコツと金を貯め、それを元手に、風俗業にも手を出しました。その風俗店『桜の園』を利用し、更なる大儲けを考えたのです。それは高級住宅地に住む有閑マダムたちをホストクラブで篭絡し、借金をさせ、その高級住宅を売却させ、それを分割し、高額販売するという手口です。それに沢山の女たちが、ひっかかったのです。お陰で『清和不動産』は繁盛し、結構、うまく行っていました。ところが金を手にした呉孟栄は、それでも満足しきれなかったのでしょう。女が欲しくなり美人の山村夫人を狙ったのです。ところが賢明な奥さんは、呉孟栄の魔手から逃れようと、小野亮介と吉川純一らを誘い、『桜の園』と競合するホストクラブ『ピンク・アクア』をオープン。更に『スワロウ・サロン』という派遣組合を設立。会員制とし、お客及びホストの規則を作り、組合事務所で会員男女をコントロールするという、うまいことを考えついたのです。『ピンク・アクア』は繁盛し、奥さんは呉社長からの借金を、あっという間に返済したのです。一方、呉社長の経営する『桜の園』は、その影響を受け、客が減少し、経営が危なくなってしまったのです。そこで緑谷雪子の仲間を使い、スパイとして『ピンク・アクア』に送り込み、『ピンク・アクア』の後ろにある『スワロウ・サロン』の組織の全容を把握したのです。そして、まず、『スワロウ・サロン』の主幹である、山村さんの奥さんの殺害を実行したのです。実行者は呉孟栄と緑谷雪子です。山村さんのブレザーは、その時、緑谷雪子が盗み、いざという時、小野亮介を犯人に仕立てる材料にと考えたようです。しかし、呉社長は、そのブレザーを利用する機会が無く、ほったらかしにしておいたのを、塩田が欲しがったから彼に与えたそうです。呉社長は山村夫人殺しが発覚するのを恐れ、緑谷雪子から情報を受けながら、山村さん、貴方に妻の仇として、小野亮介らを殺害させようと、『桜の園』の経営を任せようと画策したらしいです。しかし山村さんは、その仕事を断った。そこで呉社長は、塩田らに『スワロウ・サロン』の会長、小野亮介と副会長、吉川純一を殺害させたのです。呉社長を逮捕してから、緑谷雪子に次に殺されるのは、貴女だったのですよと話すと、緑谷雪子は蒼白になり、何もかも話してくれました。男に兇悪な者がいるように、女にも得体の知れない恐ろしい生き物のような女がいるのだと教えられた事件でした」

 矢沢刑事は、私に事件の経緯と結果を総て話し終えると、小さくため息をついた。私はどう返答して良いのか分からなかった。得体の知れない恐ろしい生き物のような女とはどの女のことを言っているのであろうか。緑谷雪子のことか、田中綾乃のことか、高橋聖子のことか、妻の則子のことか。まさか森君のことではあるまい。そう言えば今夜、我が家に森君を招いて、クリスマス・パーティをすることになっている。私は急いで新宿警察署から新宿駅に向かい、小田急線の電車に乗った。



        〇

 経堂のマンションに帰ると、既に夜の7時を過ぎていた。弘と森君が部屋の中にクリスマスの飾りをいっぱいにして私を待っていた。

「お帰りなさい」

「遅くなって、御免。何しろ警察の説明と調書確認に時間がかかってしまったので・・・」

 私は言い訳をした。テーブルの上にはクリスマス・イヴのピザなどの御馳走が並べられていて、シャンパンも用意してあった。デコレーションケーキも冷蔵庫に入っているという。二人は私が遅かったことなど、怒ろうとせず、ニコニコして、乾杯の準備をした。則子のいないクリスマスは初めてであったが、代わりに森君がいた。まずはシャンパンで乾杯。私と森君は弘の掛け声に合わせた。まるで家族のようだ。弘は森君と一緒になって、料理やクリスマスの飾りつけをしたことを自慢した。弘の自慢話が済むと、今度は森君が喋りかけて来た。

「テレビのニュース見ましたよ」

「お父さん。お母さんを殺した犯人、悪い人だったんだね」

「そうだな」

 私は殺人を犯す人間の動機の単純さに恐怖を覚えた。自分の欲望を達成させる為なら、他人を殺しても構わない。自分に逆らい、自分を嫌い、自分を蔑む者あらば容赦なく脅迫し、従わなければ排除抹殺する。秘密を知っている者が危険と思ったら、この世から消す。一旦、思い込んだら殺人を犯してでも、目的を完遂させる。まさに極悪非道、残忍極まりない人間が、この世の中には棲息しているのだ。かと思えば、自分の事はさておき、他人の為にも私財と時間を惜しみなく投じ、優しい聖者のような心をもった人間もいる。私は目の前にいる弘と森君を見て、この二人は正義感の強い誠実で純粋な生き方をする人間であると思った

「お父さん。犯人のこと、殺したい程、憎いと思っているの?」

「そりゃあそう思っているさ。しかし、仕返しの為、自分の手で犯人を殺したいなどとは思っていない。法律がちゃんと仕返ししてくれるから」

「良かった。僕はお父さんが仕返しに行くって言ったら、どうしようかと思ってた」

 私は弘のそんな言葉を聞いて、ドキッとした。すると、すかさず、森君が言った。

「何を言っているの、弘君。お父さんはそんな悪い事をする人ではありませんよ」

 私はその森君の言葉に重ねて、ドキッとした。彼女にお父さんなどと呼ばれるとは予想もしていなかった。彼女の言葉は、まさに家庭と一つになっている言葉であった。彼女は、今日も弘の為に、泊って行くのだろうか。私は悩んだ。だが弘も森君も、そんな私の気持ちなど全く気にしていなかった。ホタテのグラタン、ミックスピザ、パジル入り野菜サラダ、ローストチキンなどの料理を食べ終わると、森君が冷蔵庫の中から、デコレーションケーキを取り出し、テーブルの上に置いて、弘とローソクを立て、弘がそれに火を点けた。森君が部屋の照明を消して言った。

「まっ、綺麗ね」

 すると弘が言った。

「お父さん、お姉ちゃんとキッスして良いよ。僕がローソクの火を消すから」

「何を言っているの。弘君、おませね」

 そう言いながら弘がローソクの火をフーッと吹き消すと、森君は私の手を握って来た。私は森君の手を握り返したが、キッスすることは出来なかった。しばらくして弘が私たちに確認した。

「もう良いかい?」

「もう良いよ」

 私の答えに弘は部屋の照明のスイッチを押した。そして部屋の明かりが点くと、私たちをじっと見詰めた。森君が赤面して言った。

「弘君。そんなに見ないでよ」

「弘。失礼だぞ」

「だって、どうだったか、知りたかったから」

「いけない子」

 森君はいきなり弘の腕をつねった。その様子を見て、私は自分たちが、こんなに近い距離にありながら、森君と少し距離を置いて生活しているこの関係を、中途半端だと思った。いずれ、はっきりさせなければならない。私はカーテンの隙間から見えるクリスマス・イヴの夜空を眺めた。そこには雲の切れ間から、明るい光を放って私たちを見下ろす、微笑する月が浮かんでいた。その月の優しさは、まるで則子の笑顔のようだった。私は則子の一周忌が終えて、落ち着いたら森君にプロポーズしようと心に決めた。

             〈 完 〉

 、


 




 


 


 


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