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第 3 章 「蛍」

「さあ、さあ。食べながら話そう。無粋な中年男の手料理だが」

 車座になって座り込んでいる老若男女に、ホスト役が大きな身振りで勧めた。

 床の上にじかに置かれた立派なトチノキの厚板。その上に、涼しそうなガラスの器に盛られた生ハムや、枝豆や豆腐のサラダなどが並べられている。

「ビールや焼酎やジュースなんかはいくらでもあるから。あ、道長先生、ワインもあるよ」

 先生と呼ばれた女性が、それまで見据えていた坂井からようやく視線をはずして、久米に優しい目を向けた。

「老人といわずに中年男というところがこだわりね」

「ウハハハ。そりゃそうだろ。まだ六十九なんだ」

 頂きますと、道長が豆腐サラダを小皿によそう。

「男の人が作ったにしてはおいしそうね」

 しかし、それを口に入れる前に坂井に声をかけた。

「今のお話、どこで仕入れてこられたの? それとも坂井さんの創作?」

 どことなく棘がある。


 坂井春雄。

 年齢は六十を過ぎたあたり。多くの土地や建物などを持つ資産家だ。大阪の中央区で不動産業を営んでいると聞く。

 恰幅がよく、しゃれた腕時計をしている。先ほどの話しぶりからみても世慣れた男という印象を受けるが、そんな坂井が狼狽するほど、道長の問いかけは追及調だった。


 道長佐知子。

 年齢はよくわからない。黙々と作業している背中を見ているときなどはとうに六十は過ぎていると思うが、気分がいいときの晴れやかな表情は四十代後半に見えたりもするのだ。

 京都市北部にある女子大の教授だと久米から紹介されていた。本人からは、郷土歴史家だと訂正されていたが。


 道長とは以前、生駒はこの屋敷でなんどか会ったことがある。思ったことをすぐ口にする女性である。

 華奢で小さな体に溜め込んだエネルギーを気ままに放出するように、厳しい言葉を連発する。しかも頑固な理論派ときているので、久米がもてあますシーンを何度も目にしたものだ。

 本人に悪気はないのだろうが、口調がきつすぎて周りのものがどぎまぎしてしまう。

 ただ美しい人ではある。自分がときとして迷惑な存在になっているということにさえ気がつけば素敵な女性なのに、と生駒は思っていた。


「いや、ま、そんなもんですかな」

と、坂井がごまかした。しかし郷土歴史家の先生は許さない。

「岩代神社の縁起については諸説ありますが、最も信頼できるのは、この采家のお屋敷に残されていた古い文書に記載されているものです。それによると」

 道長は言葉を切り、久米に顔を向けると、

「あら、ごめんなさい。今日は私の講義じゃないって、さっき釘を刺されたばかりだったわね」

と、笑顔を見せた。

 笑うと、急に幼い顔になる。短い髪はあちこち跳ね上がり、てんでばらばらになっているようだが、よく見ると凝ったセットがしてあり、微妙な色合いの何種類もの髪染めがその独創的な髪形に彩りを添えている。

 細かい花柄模様の濃紺のシャツが活動的で理知的な道長に良く似合っていた。


「ハハハ、そう。道長教授のご講義はまた後日拝聴するとして、今日は蛍が飛ぶ宵の余興ということで」

 久米は会が始まってから笑顔を絶やさない。

 今日の会とは、村の由来やこのあたりの風物などについて、知っていること、想像したこと、感じたことなどを自由に発表しあおうという趣向で久米が開いたものだった。

 ファックスで送られてきた案内状には「岩穴座談会」とあった。

 場所は、村の古くからの名士である采一族の屋敷。

 会場はここ、屋敷裏の岩穴部屋。


 久米荘一とは、現代絵画に凝っている自称画家。

 元はといえば、国土交通省のそれなりの役職に就きながら、好きで始めた絵画である。以前からまずまずの絵を描くと生駒は思っていたが、退職後はぐっと腕を上げ、個展なども開くようになっている。

 少し変わった経歴を持つ新進の画家として雑誌や新聞などで紹介されることもある。

 いわば、著名人の仲間入りを果たそうとしているのだが、本人はそれがうれしくてたまらないようだ。

 また、金銭的にも余裕があるのだろう。形だけどこかの財団法人の理事などもしているのかもしれない。自宅は大阪の箕面に邸宅を構えているが、東京や福岡にもアトリエとして使う部屋を持っているという。そのひとつとして、この屋敷も借りているのだ。


「これ、おいしい!」

 優がマグロのカルパッチョにパクつき、頬を膨らませた。

「いやあ。そう言ってくれるとうれしい。野菜は仙吉さんの畑で作られたものだよ。肉や魚は、彼が町で買ってきてくれたものだが」

「久米先生のご注文はなかなか細かくて」

と、生駒の斜め前に座った男が笑った。大葉仙吉だ。生粋の村人である。


 生駒は改めて座を見回した。

 和やかな空気が満ちていた。

 始まる前に危惧していたほど、堅苦しい雰囲気ではない。

 男が八人、女がふたり、少女がひとり。

 生駒にとって親しい顔ばかりというわけではない。一番奥の正面には威厳たっぷりに久米が座り、その右隣りには西脇利郎という中年男。続いて橘文雄と娘の綾。数年前に村に移り住んだという農家だ。生駒の向かいには道長佐知子。入口に近いところに地元農家の大葉仙吉と並んで座っている。

 久米の左手には采健治という若い宮司が座っている。続いて大阪の資産家、坂井春雄、木元勝と名乗る若者。そして生駒と三条優だ。

 久米にとっては親しいメンバーらしい。今日の会に向けて厳選した諸兄なのだと、会の案内状にはしたためてあった。


 三条優だけが久米にとって新顔だ。生駒が優に、次回この屋敷に行くときには連れていくと約束させられているのを知った久米が、今回はぜひお連れしてください、と言ってくれたのだった。

 四十代半ばを過ぎた生駒が、二十過ぎの優を恋人だと紹介するのは気が引けた。自分が代表をしている設計事務所のスタッフだと紹介しておいた。現実に、ときにはちょっとしたスケッチなどを描いてくれたり、現場視察に付き合ってくれたりするのだから、まったくの嘘というわけではない。


 優が生駒の前の空っぽの小皿にカルパッチョをよそった。

「おいしいわよ。ノブも食べたら?」

 しかし優は、食べるものを口に入れたとたん、そんな自分の仮の立場はさっさと忘れて、いつものように生駒をノブと呼んだ。

「仲がいいんですね。社長さんとスタッフさん」

と、道長が朗らかに笑った。


「次は俺が」

と背筋を伸ばしたのは、日に焼けた四十前後の男だ。

 生駒はこの男と始めて会ったとき、人に言えない仕事でもしていて、この村に逃れてきて居ついたのではないか、と勝手な想像を抱いたものだ。

 二年ほど前、久米に誘われてこの屋敷に来るようになったころ、橘文雄という農夫であると紹介された。東京で消防士をしていたが、この村に移り住んだという。

 橘が自分の畑で採れたものだといって、キュウリやトマトを屋敷に届けにきたときのことだ。三人で昼食の弁当を食べながら、久米が生駒に話題を振ってくれた。建築雑誌の新刊に生駒が設計した住宅が紹介されたことを話せという。生駒は簡単な自己紹介をし、その住宅について話し始めたのだが、ものの二分も経たないうちに口を閉じてしまった。

 橘は、聞く気はないという態度で箸を動かし続け、庭を眺めていたかと思うと、チラッと品定めでもするようなぶしつけな目で生駒の口元あたりを見たのだった。

 それからというもの、なにを考えているのかわからない得体の知れないこの男が、なぜこの村に住むようになったのか、なぜ久米と親しくするようになったのか、不思議でしかたがなかった。

 筋肉質の体躯を活かして久米のために力仕事をしている橘の姿を見かけることはたびたびあったが、生駒から声をかけることはめったになかったし、かけられることもなかった。


 その橘が娘の綾に、にやりと目配せして話し始めた。


 蛍は神秘的ではかない虫である。

 春、桜の咲く季節、雨の降る夜。川の中で過ごしていた幼虫がいっせいに岸に上がってくる。

 幼くはあっても尻に立派に光を灯しながら。初めて目にする地上の光景に驚く様子もなく、やわらかい土を目指して一時間に数十センチのスピードで着実に這い進む。行軍すること数時間。


 ころあいの地点に到着すると、すぐさま土の中にもぐりこむ。土繭を作り、サナギとなるのだ。

 そして約五十日後、六月初旬。

 次々と羽化する蛍。

 残された生は十日ばかり。

 その最後の命を精一杯使って、交尾を果たして死んでいく。


 人間が目にする蛍の乱舞は、交尾相手を求める舞。


 異性を追う強烈な欲求に突き動かされた晴れがましい宴。


 それを見る人間は風流を感じ、団扇片手にのどかな面持ちでいたとしても、この小さな虫にとっては一世一代の最後の生の営みなのだ。


 ところで、乱舞さなか、人に近づいてくる蛍がある。これはその人の先祖の霊だといわれることがある。

 淡い光の点滅は、それほど霊的な色彩を帯びており、人の心に思い出となった故人の記憶を呼び起こさせるのだろう。


 単に美しいという印象や懐かしいという感傷だけではない。

 その乱舞がどれほど華やかなものであったとしても、どことなく畏れに似た感覚をも持つものなのだ。

 その感覚は、夏が近づいてくるとき特有の、草いきれの沸き立つ山間の川岸、というシチュエーションがもたらしているというだけではない。

 残照が消え東の空に星が瞬き始めるという、どことなく不安な時間帯がもたらしているというだけのことでもない。

 放つ光の軌跡が、見る人の予測ではまったく計りしれないからでもない。


 人の目には、単なる小さな昆虫の肉体の一部としてではなく、黄緑がかった白い光そのものが、その点滅そのものが、意識を持った生き物であるかのように見えるからなのだ。


 しかし蛍は、この村ではあまり好かれてはいない。むしろ縁起のよくない虫だといわれている。

 この虫が光りながら近づいてきて、万一体にとまられると、よくないことがその人の身に降りかかるといわれている。


 こんな言い伝えがある。

 昔、蛍が舞うある夜のこと。


 村長むらおさの使いが、一軒の農家を尋ねてきた。娘を神への捧げものとして差し出すようにとの言付けだった。

 期日は明後日。蛍の舞が最も激しさを増す時刻に、娘をひとりで岩代神社に参らせるようにとのことだった。もちろん、神への供え物として差し出された娘が、二度と村人の前に姿を見せることはない。


 蛍が舞う季節が近づくと、年頃の娘を持つ親は、まさか今年が神へ貢物を差し出す年でありませんように、またうちの娘がその役を仰せつかりませんように、と祈った。


 いつしか、村人は岩代神社に寄りつかなくなった。

 山仕事をするものが通り抜けるだけで、境内もお社も荒れ果てた。

 そして、その忌まわしい風習が消えた後も、蛍は縁起の悪いものであるという印象だけが村人の心に残ったのだった。


「うーむ」

 久米は拍手をしなかった。

 橘の話は会にふさわしいテーマだったし、理路整然とした話しぶりでもあったが、聞いて気持ちのいい話ではなかった。

 坂井の栗の木の話に出てきた麗しき神に泥を塗るような話でもあった。


 今度も道長が感想らしきものを口にする。

「後半はまた想像のお話かしら? なかなかうまくできたお話のようでしたけど」

 橘はニヤリと笑っただけで、道長の挑発にまったく関わるつもりはないようだ。ヨレヨレになった綿の短パンから突き出た毛むくじゃらの脛を掻きながら、もう一方の手で焼酎をぐっとあおった。


「違います」

 はっきりとそう応えたのは少女だった。よく通る声が岩穴に響き渡った。


 橘の娘、綾。

 今年の春、小学六年生になった少女。


 長身に幼さが残る顔立ち。短めの髪を両耳の後ろでくくっている。

 白いブラウスに色褪せたスリムなブルージーン。

 ありきたりな服装だが、一瞬の間、生駒は同じような服装をここで見たことがあるという感覚にとらわれた。


 道長が少し驚いたように綾を見つめ、言葉の続きを待った。

「これです」

 綾が膝元の袋から取り出したものは、くすんだ紫色の布に包まれていた。

「それは?」

 手の平の上で布を広げてみせる。出てきたのは茶色の麻糸で織られたもの。

「頭巾なんです」

「ほう」

 久米は興味津々だが、父親があわてた。

「そんなもの、早くしまえ」

 綾は声にならない小さなため息をついて父親の言葉に従った。


 ただそれだけのことだったが、場はなんとなく肩透かしを食らったような気分になった。作り話なのかという道長の質問は宙に浮いたままだ。


 生駒は橘の話を反芻した。蛍にとまられたものに不幸が訪れるというくだり。


 穏やかならぬ話だ。信じるわけではないが、うれしいはずもない。もしや、さっき優とふたりで蛍を眺めているところをこの男に見られていたのではないか。

 無精ひげを溜めた肉の落ちた頬に、大きな傷跡。彫りの深い顔に引いた細い目。

 感情の読めないこの目で物陰から観察されていたのだとしたら、気持ちのいいものではない。


 時刻は午後9時を回ったあたり。

 岩穴の中には柔らかい光が満ちていたが、屋敷を、そして村を包む深い山々の稜線は、既に暗い空と溶け込んでいた。空には星もなく、今にも降り出しそうな黒雲が流れていた。

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