第 34 章 「おおいしこいし」
「は?」
「座りなおして」
「しかし」
優が顔を上げた。笑みのかけらもない表情で寺井を一瞥すると、祠に視線をやった。
「私の話は、その後日談みたいなもの。というか、最後の方は若干だけど補足があります。想像ですが」
そういって口火を切った。
仙吉は、あの穴が滝へ繋がっていることを、今では知っている。
ただ、抜けて行こうとは考えなかった。万一、日々監視を強めている奈津や美千代に見咎められでもしたら、と思うと、とてもできることではなかった。
また、警察の耳にでも入ろうものなら、警察は確実に三つの殺人事件は仙吉の犯行だと暴くだろう。財宝を独り占めしようとした仙吉が彼らを殺したと。
それでも財宝は自分が守らねばならない。どうすればいいか。仙吉は悩んだ。
奈津に許可を得ようにも、彼女が今更認めてくれるとは考えられなかった。
葬儀の日、仙吉は西脇が釈放されるという情報を得た。
西脇はすぐに、恭介が殺された本当の理由を探し始めるだろう。同時に、すぐさま滝の財宝を狙うだろう。西脇もまた、久米が狙っていることに気づいているだろうし、みすみす久米に譲るとは考えられないからだ。
仙吉はあの穴から下へ降りてみることを決心した。
葬儀のあった夕、仙吉は山に入っていった。
ところが先客がいた。前を行く人影。
奈津だった。
後をつけていく仙吉。
岩代神社に着くと奈津が立ち止まった。背負っていた風呂敷包みから、生成りの衣装を取り出して着替え始める。着ていた緑の着物を畳むと、獅子岩の注連縄に挟んだ。そして、膝を折って祈る。やがて立ち上がると、さらに登っていく。
日が暮れた。
奈津は夜目が利くのか、電灯をつけない。ただ、一歩ずつゆっくり歩を進めていく。仙吉は懐中電灯をつけた。奈津に気づかれたら、それはそのときのこと。今の思いを説明するしかない。しかし、奈津は振り返らなかったし、仙吉に気づいている様子もなかった。
祠に着いた。やはり奈津は、あの穴から下へ降りていく。
そのとき仙吉の目の隅に、懐中電灯の光がふたつ、登ってくるのが見えた。
あわてて自分の懐中電灯を消し、近づいてくるふたつの明かりに眼を凝らした。
こちらには気づいていないようだ。久米と橘か、釈放されたばかりの西脇と圭子か。仙吉は草むらに身を隠した。
久米と橘であれば、まず、橘を倒さなくてはいけない。正面を向いて橘と渡り合うのは分が悪い。久米が先に穴に降りていき、橘が後であれば、こちらに勝機はある。恭介と同じように背後から一撃で仕留めれば……。きっと久米は先に穴に降りていく。うまくいくはずだ。
西脇と圭子だった場合は、西脇さえ倒せばいい。しかし、圭子をどうする? 殺すしかないのか……。
突発的な怒りで、健治や恭介を殺したときには感じなかった恐れが、体の芯に溜まっていた。
仙吉は悩んでいた。やるしかないのか……。
いつしか雨が降り始めていた。
ふたつの明かりは、もうずいぶん近くまで登って来ていた。
仙吉はナタを握り締め、結論は出ないまま、息を潜めて明かりを見つめた。
しかし予想は間違っていた。
ふたつの明かりは、祠の草むらには入って来ず、アマガハラノへの道を行く。いや、違う。微妙に祠を遠巻きにしていく。いまさら躍り出て、追い掛けるわけにはいかなかった。たちまち気づかれ、ふたりを同時に相手にすることになってしまう。つけていくかとも考えたが、いずれにしろ彼らの行き先は、滝に違いない。仙吉は迷わず、奈津を追って穴を下りていくことに決めた。
ふたつの明かりが見えなくなるまで待って、仙吉は草むらから抜け出し、穴を降りていった。
月も星もなく、濡れたガレバは真っ暗闇だった。
奈津に会えば、誰かが別ルートで行こうとしていると、今目撃したことを話そう。そして財宝を守れという明確な指示を出してもらおう。
そう考えながら、先へと進んだ。ようやく丸い巨石のところまで来た。右側に隙間を見つけ、慎重に体を入れていった。
あっ、と仙吉は声にならない声をあげた。
顔面をはたかれたのだ。
目の前に奈津がいた。石の上で胡坐を組んで睨んでいた。
仙吉は後ずさりした。
それほど奈津の形相はすさまじいものだった。クワッと開かれた口から、きさまもか!という言葉がほとばしり出た。
奈津に会えばと、さっきまでの考えは、口から出てこようとはしなかった。
闇の中でも、奈津の瞳は煌々と光り、この世のものではないように見えた。
この先に行くのなら、わしを殺してから行け! じゃが、この谷から二度と生きては出られぬ!
恐怖が襲った。
白装束の袂から突き出た細い腕は、鋼のように黒々と鈍く光り、逆立った髪は熱気を帯びているのか、雨が煙っていた。
異様な光景だった。崖と巨岩に挟まれた狭い空間。とんでもないことが起きる。
そんな恐怖が仙吉の胸を貫いた。
「ちがう!」と叫ぶと、仙吉はもう後をも見ずに逃げ出していた。
がむしゃらにガレバを戻っていった。シャワーをいくつも潜り、やっと仙吉は振り返った。奈津は追っては来なかった。
しかし、仙吉には一瞬の安堵もなかった。
再び縮み上がることになった。すぐ近くから人の声が聞こえたのだ。
「おい、待て!」
生駒の声だった。
仙吉は、ほとんど滑り落ちるように岩の隙間に身を隠した。幸いにも生駒達は、探そうとはせず、すぐに引き上げていったが、仙吉は混乱していた。自分ひとりでは役目を果たせそうにないと思った。
彼らに話すか。生駒は味方になってくれるかもしれない。しかし道長は久米の……。しかも綾は橘の娘……。おばあさんと呼びかけてはいたが……。それとも美千代に話すか。結論が出ないまま、祠の脇の草むらに長い間留まって様子を見てから、山道を戻っていった。
もう、ふたつの明かりの行き先を、追ってみようとは思わなかった。道がわからなかったし、逆襲される恐怖の方が大きかった。
奈津があそこに居座り続けることは、もう確信めいたものがあった。あのままでは死んでしまう……。一刻の猶予もない。美千代に話すしかないのか……。
翌朝、仙吉はなかなかガレバに向かうことができなかった。
久米が朝早くから、屋敷の裏の空地の隅で畑仕事を始めたのだ。山に行くには目の前を通らなくてはならない。村人を欺く久米のこんな行為に、何度歯軋りしたことだろう。
もはや、財宝を手に入れようとしている現場を押さえるか、あるいは殺してしまうしか手はない。常日頃から胸に渦巻いている怒りが、また頭をもたげてくる。いずれにしろ早く奈津に伝えねば。
綾の話では、奈津は山から返って来ていないという。
仙吉は、川向こうの畑からイライラしながら久米を見守った。昼近くになってようやく橘が現れ、ふたりで山に入っていった。仙吉は用意しておいたロープやナタを抱えて、後を追っていった。
久米と橘は、ガレバへの穴ではなく、昨夜と同じく迂回路をいく。
あのふたつの明かりは、やはり彼らだったのだ。
縄梯子を使って降りていく。まずは久米。次に橘。
今だ!と仙吉は躍り出て、縄梯子をナタで切り落とした。叫び声と共に鈍い音が聞こえてきた。覗き込むと小さな池の縁にふたりが倒れていた。しかしまだ動きがある。
仙吉は祠にとって返し、ガレバを突き進んだ。
巨石を回りこむ。もう躊躇はしなかった。
久米と橘はまだ生きている。奈津を救わねば!
奈津は、昨夜と同じところに座っていた。しかし、もう仙吉に声を荒げようとはしなかった。すでに冷たくなっていたのだった。
九十を過ぎた老婆には、雨に打たれて一晩を過ごす体力はなかった……。
奈津はここで自らの死を賭して、財宝を守ろうとしたのだ。奈津自身が選んだ死に場所だった。
いずれ村に連れ帰ることになるかもしれなかったが、今しばらくは、あるいは未来永劫、この場所で虚空を睨みつけているのが奈津の望みだろう。仙吉はそう考えて、奈津のむくろに手を合わせた。
奈津の体が、石からずり落ちかけていた。
仙吉は奈津の体越しに滝壷を見た。動くものはない。久米や橘が潜んでいたとしても、出口はもうここしかなく、しかもこちらは坂の上。
ピストルでも持っていたらまずいが、今にも石から滑り落ちてしまいそうな奈津をこのままにしておくことはできない。
仙吉は滝壷に注意しながら、奈津の体をしゃんと座らせ、持ってきたロープで石に突き刺さった芯棒に括りつけた。
「ばあさん、これでいいか? あんた、最後まで俺を信用してくれなんだなあ」
と、奈津に微笑みかけた。
しかし、その笑みはたちまち凍りつく。
人がガレバを降りてくる。生駒や道長の顔、そして警察だ!
この隙間に、身を隠すところはない。出ていけば見つかってしまう。
仙吉は地面に放り出したナタなどをあわてて引っつかむと、思い切って奈津の体を乗り越えた。ロープの端が奈津の足にかかっていたが、それはもう引き込むことはできなかった。生駒が岩の隙間に入ってきたからだった。仙吉は丸い巨石の陰に身を隠した。