第 30 章 「はりのあなをば」
やがてあたりに静けさが戻ってきた。
生駒の心に、ふわーと暖かいものが広がってきた。そっと息をした。
たち込めた土煙も徐々に収まってきた。足元が見えるようになって、注意深くさらに登った。
ふたつほど石を乗り越えると、優が立っていた。
「もっと上まで! また落ちてくるかもしれない!」
すぐ横の土ぼこりの中から、寺井の声。
「綾ちゃん、聞こえた?」
生駒も叫ぶ。
「はい!」
綾はもう少し前にいた。
さらに登った。
大きな水のシャワーのところで、ようやく周囲が元通り見えるようになった。
振り返ってみると、丸い巨石があったところは、土砂で埋まっていた。奈津の体もろとも。何本かの木が落ちて、岩盤の隙間に引っかかっていた。
ガレバの一番上、砂利の一畳座敷に到達して、ようやく足を止めた。
水しぶきを潜ってきたせいで、顔についた土ぼこりが流され、誰の顔にも奇妙な茶色の縦筋がついていた。
寺井が階段の隙間を見上げた。上にいる刑事と二言三言交わしてから、ほっとした声を出した。
「もう大丈夫そうだな。ここでしばらく様子を見る」
ひとりずつ顔を覗き込み、
「皆さん、無事みたいですな。よかった」
と、顔を撫でて濡れた土埃を塗りたくった。
手の平を擦り合わせ、ホウッと息を吐き出した。
「怪我はないですか?」
刑事が背負っていた荷物から救急箱を取り出した。
「綾ちゃん、大丈夫? 道長さんは?」
軍手をしてこなかった刑事のひとりが手の平から血を流していた。幸いにも人的被害はそれだけだった。
「危ないところだった」
寺井は安堵の声をあげたが、向き直った顔には緊張感が溢れていた。
「いったい、これはどういうことなんです!」
「それにしても、すさまじかったですね」
生駒は、努めてさらりと言ったものの、心臓はまだバクバク状態だったし、声も震えていたかもしれない。
もちろん頭は、予想外のことに空回りしていた。
ここで起きるかもしれないと考えていたことがなんだったのか、自分たちが確かめようとしていたことがなんだったのか、忘れてしまいそうになっていた。
危うく死にかけた恐ろしさにだけではない。
奈津の厳しい表情。ずり落ちそうになった亡骸。そして鉄の芯棒……。
それらは一瞬のうちに土砂に埋まってしまったが。
生駒は、
「すさまじい仕掛けが」
といって、今見たものを頭の中で整理しようとした。
さっき、ちらりと見えたもの。
奈津は、石に付き立てられた鉄の芯棒に、括りつけられていたのだった。
石が割れ、芯棒は奈津を括りつけたロープから、カランと抜け落ち、奈津は投げ出されたのだった。
「どういうことなのか!」
再び寺井の厳しい声がした。
生駒は、ハッとして崩れ落ちた土砂から目を放すと、寺井に向き直った。
「説明をお願いしたい」
しかし、なにをどこから話せばいいのか、瞬時に思いつかない。
いや、まだ話せなかった。
考えがまとまっていなかった。
事件の全貌は整理できていたはずだが、それが正しいのかどうか、自信が持てなくなってしまっていた。奈津がああいう死に方をしていたばかりか、生駒達までも命を落としかねない事故が起きた。
そしてすべてが土砂に埋まってしまうなどということは、まったく予想の範囲を超えていた。
怒りがこもった眼が睨んでいた。
しかし生駒が発した言葉は、
「財宝を守るために……」
「石が割れて、大変なことになるっていうのは……」
というふたつの短いフレーズだけだった。
寺井が目を剥き、「財宝ぉ!」とわめき始めた。
生駒の頭は、たった今、目の前で起きたことに、まだ支配されていた。
綾がホトトギスから聞いた話……。石がもろくなっている。そして大変なことになる。
奈津はそれがこの石のことだと知っていたのだ。
そして自分が人柱に……。あの鉄の芯棒……。滝の財宝を守る仕掛けなのか……。
刑事が訳知り顔で頷いた。
「仕掛けというより、たまたま、ああなったということかもしれません」
寺井がビシリと否定する。
「ばかやろう! 鉄の棒を引っ張れば、互いの岩のバランスが崩れて、あの馬鹿でかい石が転げ落ちるという寸法だ!」
「でも、それなら相当の力がいりますよ。梃子を使うかなにかして……」
刑事がなおも言おうとするのを、寺井は無視する。
「生駒さん、では話は後ほど聞きします。が、今、久米と橘がこの先にいるということで、よろしいんですな」
頷くしかない。
「うむ。そろそろいいか」
と、寺井が崖を見上げて確認した。
刑事をひとり選び、山を降りて応援を頼みに行くよう指示してから、
「ここからは我々が先に行かせてもらう」
と、先頭に立ってガレバを降り始めた。
奈津を飲み込んだ土砂を登り超えると、小さな池が見えた。
この先のガレバは土砂で埋まり、石混じりのふかふかの土を踏んでいく。
すぐに小さな池の縁に降り立った。
周りはやはり切り立った崖に囲まれている。苔やシダが繁茂し、濃厚な緑で覆われていた。
「誰もいませんな」
久米や橘の姿は見えなかった。
「ここが滝壷か」
寺井の自問は聞き流し、生駒は池を覗きこんだ。
テニスコートほどの広さで整った円形をしている。しかし水深はあるようで、泡立った水をすかしてみても底を見ることはできない。さっき巨石が転げ落ちたせいで、相当派手な水しぶきが上がったのだろう。縁からかなり下がった位置に水面がある。
あたり一面が濡れていた。
しかし、滝そのものはない。
「滝ねえ」
「水枯れかな?」
「今年は普通に雨が降ってますけどねえ」
などと刑事は言い合っている。腑に落ちないのだ。
崖に一筋、岩が濡れて黒ずんでいる。本来はここに水が落ちていたのだ。上流で流れる方向を変えた岩代川は、ガレバに落ち、累々とした石の下を通って、滝壷をかすめて流れ下っていた。
道長が、滝壷を覗き込んでいた。
「お宝はあの石の下。きっと、もともと引き上げることなんてできなかったのね。いったいなんだったんだろう。それもわからなくなってしまった」
綾は黙って濁った水を見つめ続けている。
「あ、あそこ」
優が、水位の下がった滝壷の壁に横穴を見つけた。
「水の溜まった針の穴ってのは、あれのことかな」
昨夜ベッドの中で、村の遊び歌の歌詞を検証してみたのだが、唯一このフレーズだけ意味がわからなかったのだ。
しかし、そんな昨夜のことさえ、もう何日も前のような気がした。
奈津の死体を発見し、危うく自分達も死にかけ、今はこうして滝壷を覗き込みながら、なんらかの形で久米や橘の発見を待っている……。
刑事の声があがった。
縄梯子が落ちていた。
「久米さんらが使ったものでしょう」
ほつれた繊維の切り口が、刃物で断ち切られたような断面をしていた。
「ボンベがあります!」
また声があがった。
アクアラングのボンベが岩の隙間に挟まっていた。
「ああーっ!」
黙りこんでいた綾が、ついに悲鳴を上げた。
橘の死体が浮かんできた。
口からまだ血が流れ出していた。
優が、真っ青になって震えだした綾を抱きしめた。
久米を見つけたのは、橘を岸に引き上げてからのことだった。
下流、井桁に組まれた人止めの障壁によって作られた、狭い人工のダム湖。
水から突き出た木の枝に引っかかっていた。体は押しつぶされ、無残な死に顔を晴れ渡った空に向けていた。