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第 2 章 「佐吉の物語」

 笹原で死体を発見し、逃げ帰った前の日の夜。


 屋敷に人の気配はなかった。

 古臭い庭園灯がひとつ、旧家のたたずまいを白々と照らし出している。


 屋敷は夜気に晒され、昼間とは違う顔を見せ始めている。

あらゆるところから光が追い出され、闇に支配された幾多の部屋。かつてこの家に住んだものたちの、あるいは古びたさまざまな道具や黒光りする無骨な柱や梁、そして建物そのものに宿っているなにものかの気が、徐々に濃厚になっていくようだ。


「あそこやね、会場は」


 母屋の裏はまさに深山の景。巨木が立ち並ぶ斜面が圧倒的なボリュームで迫っている。木々はすでに色を失い、黒い大きな塊となって視界の前に立ちはだかっている。

 その手前、ふたつのかがり火が雑草の生えた小さな広場に赤い光を踊らせ、斜面に口を開けた岩穴に訪れる人をいざなっていた。


「それでは、私からお話するとしますか。並み居る先輩方を差し置いて、にわか仕込みの聞きかじりを披露するのは少々気が引けますが」

 坂井と名乗った男が扇子をばたつかせた。

「あら、先輩方ってどういう意味? あなたは久米さんの次にお年を召されておられるんじゃなかった?」

 背筋を伸ばし、膝を崩して座っている小柄な女性がしわがれた声を出した。

「いやいや、この村にまつわることを語るという意味では、私はまったくの門外漢でして」

 坂井はだっぷりと太った足を腕の力を借りて動かし、胡坐を組み直す。焼酎の水割りを口に含むと体に似合わぬ細い声で話しだした。


 京都丹波地方のある山間の村、大西村。

 平家落人の集落だという説もある。狭い谷あいに三十数戸の民家が集まっているだけの、なんの変哲のないさびれた村である。

 わずかな田や畑を耕し、山の幸を採取しながら生き延びてきた人々の子孫が住む。初めてここを訪れた人は、村人が今なお自給自足的な暮らしを営んでいるのではないかと思うことだろう。


 まだ京に都があった古い時代。村は山裾の街道から遠く離れていた。人ひとりが通るのがやっとで、しかも知ったものでなければ間違わずに行き着くこともままならない細い道で結ばれていた。

 道は村を突き抜けると行き止まりとなり、さらに奥に進もうにも、深い山中の迷い道となって余人が入り込むのを拒んでいた。

 大西村は、旅人はおろか里の人々にもほとんど知られていない隠れ里であった。


 ある秋の日のできごとである。


 佐吉というきこりのせがれが山の中で芝栗を拾い集めていた。朝霧が滴となってチガヤの葉先にとまり、少年の脛を濡らしていた。


「ブオォォォォォー」

 突然鳴り響いた異様な音に、佐吉は飛び上がった。

 なんだ! なんの鳴き声だ? 近くだぞ。

 息をひそめて、ぱっとその場にうずくまると、注意深く音のした方をうかがった。しかし、なにも動くものはない。リョウブやシャラの枯葉が、時折吹く弱い風に巻かれながらゆっくり落ちてくるだけ。目に映るものは、村人が獅子岩と呼ぶ白い巨岩が透明感のある淡い日差しに照らされて、ぼんやりとした輪郭を木々の間から覗かせているだけだけだった。


「坊主」と、頭の上から野太い声が降ってきた。

 佐吉は横ざまに倒れこむようにして振り向き、いつも腰につけている短剣に手をやった。

「驚かせたようじゃな」

 すぐ後ろに、白い麻の衣に身を包んだ大男が立っていた。

 男は獣の皮でできた大きな前垂れの上に長く太い数珠を下げ、額には不思議な形をした黒い頭巾をつけていた。


 佐吉は村から外へ出たことがない。百人ばかりの村人以外、人の姿を見たことがないのだ。

 自分を見下ろしている男の見慣れない装束や、その大男ぶりに気おされて、尻を浮かせながら後ずさる。


 男の伸ばし放題の黒い髭が再び動いた。手に持った長い鉄杖の輪飾りがジャラジャラと音をたてた。

「この地には、神のおわします麗しい気が満ちておる!」

 男はそう言い放つと、滝音のする方に目をやった。そして再び佐吉を見据えると、静かな声で言った。

「村に帰って、おさに伝えるがよい。御神を奉る準備を始めておくようにと」


 男の目がほころんだ。

「栗を拾っておったのか。ならば、よいところを教えてやろう。驚かせた詫びじゃ。ついてまいれ」

と、さっと身を翻し、先にたって歩き始めた。

 見たこともない大きな巻貝を背負っている。佐吉はためらった。


 今なら逃げられるか。あっ!


 男の姿がフッと消えた。と、次の瞬間、地面よりはるか上、梢の間に浮かぶように立って、佐吉を見下ろしている。


 空中を飛んだのか……。

 とても逃げ切れる相手ではない。

 佐吉は観念した。

 鉄杖が佐吉を促すように鳴り響く。

 佐吉は駆け出した。男のいる方に向かって。

 まるで強い力でぐいぐいと引き寄せられるかのように。


 駆けに駆けた。どこをどう走ったのかわからない。獅子岩さえ見えておれば位置が知れるが、もはや周りにはしるべとなるものはなにもなかった。いつしか、見たこともない山の中を、男の姿を追って駆けていた。


 やがて佐吉は不思議な感覚にとらわれた。駆け上がることなどとてもできそうにない大きな岩や急な斜面を、佐吉の細い足がいとも軽々と越えていく。

 大きな木の根元に潜り込んだかと思うと、せせらぎを飛び越え、沼地の水面を蹴って走る。

 笹の生い茂る藪を突っ切り、大きな岩が層を成すガレバを走り下る。

 眼前の光景がめまぐるしく変化する。足の裏は確かに地面を蹴っているが、飛んでいる感覚に近い。

 佐吉はいつしか心地よい興奮に包まれていた。


 と、男が立ち止まったのが見えた。

 佐吉は突き進んでいく。男の姿がみるみる大きくなる。


 辺りの景色が一変した。

 大きな空が視界に入った。鷹が悠然と飛んでいる。

 そのとたん、佐吉の体は林の中に忽然と現れた草原に投げ出されていた。


 男は息を切らせている佐吉を振り向こうともせず、草地の中央に向かってゆっくり歩いていき、無造作に鉄杖を頭上に振りかざす。

 佐吉は立ち上がった。

「さあ、この場所に名前をつけるがよい」


 佐吉は自分の口から出た言葉に驚いた。

 男の問いは全くの突然に発せられたものだったが、すでに答えを考えていたかのように自信を持って自分の口から出た言葉に。


「神の庭! アマガハラノ!」


 男の口元が笑った。

 鉄杖が地面に突き立てられた。

 輪飾りの音が草地にこだました。


「よろしい」

 男は鉄杖を引き抜くと、佐吉の腰に付けた麻袋の中から最もよいと思う栗の実をひとつ埋めるように命じた。


「誰にも言ってはいけない。来年の実りの時期に、おまえがこの地を探し出すまでは。ただし、豊かな実りを確かめた後は、おまえの植えた木を村人全員のものとして大切にせよ」

 そして男は、この地を見つけようとするときには必ず不動明王のお力を借りるのだ、決して闇雲に探していけないと、佐吉に言い聞かせた。

 佐吉は屈みこんで栗の実を杖の穴に落とし、土を掻き集めた。土は軟らかく温かみがあり、素手でも難なく掬い取れた。


「目をつぶれ」

 佐吉は言われたとおりにした。

 滝の音が遠くに聞こえていた。

「来年にはもう実がなるのですか」

 そう言ってしまってから、佐吉は疑いを持ったことを後悔した。

 周りの空気が張り詰めるのを感じた。体をこわばらせる。しかし男はなにもいわなかった。



 じっと目をつぶったまま立っていた。

 体のこわばりが徐々に緩んできた。

 やわらかい風が吹いてきて、着物の裾を動かしていった。

 せせらぎの水音が意識に昇ってきた。


 時が経ち、佐吉はそっと目を開けた。

 すると、目の前に獅子岩があり、鼻先が岩に触れんばかりに立っていた。

 男の姿はもうどこにもなかった。


 その日のうちに、村人たちが急ごしらえの木の祠を持って獅子岩まで登っていった。

 すると傍らの石の上に、朝にはなかった不動明王像が置かれてあった。紫の頭巾を被った背丈八寸ほどの石像。その傍らにはあの鉄杖が突き立ててあった。


「うむ。ここじゃな」

 村長むらおさが跪き、手を合わせた。佐吉も山伏が印を残してくれていたことに安堵して、大人達に倣って地面に膝をつく。

「食うものに困りませんように」


 村人は獅子岩とその脇の石をせせらぎの水で拭った。持ってきた祠を石の上に据え、せせらぎの水でこねた土で固定した。不動明王像を中に安置し、白い器に盛った雑穀を供えた。

 そして再び跪き、山伏が現れるのを待った。

 夕闇が迫ってきた。

 フワリと空気が動いた。

 次の瞬間、一陣のつむじ風が沢を駆け下りていったかと思うと、鉄杖は跡形もなく消え失せていた。芳ばしい甘さのある香りを残して。


 後に岩代神社と呼ばれるようになる祠が、石造のものに造り直されたのは、季節が一巡してからのことである。

 佐吉が神の庭・アマガハラノと名づけた草原の栗の木が、わずか一年で驚くべき成長を遂げ、今まで見たこともない大きな実をたわわに成らせていることを村人が知ってからのことである。



 坂井が禿げ上がった頭をハンカチで拭った。そしてピンク色の派手なポロシャツの襟元を広げる。中に扇子の風を送り込みながら、

「その祠が、この村の奥にあるお宮さんの由来となったものです」

と、話を締めくくった。




 一瞬の間が空いた。坂井が困ったような顔をして焼酎のグラスに手を伸ばした。

 今の話は作り話には違いない。坂井自身の創作なのだろうか。あるいは昔から村に伝わるものかもしれない。いずれにしろ、生駒はいい話だと思った。


 拍手がおきた。

「いやあ、よかった!」

 今夜のホスト、久米荘一だ。

「おもしろい!」

と頷きながら、ひときわ大きく手を叩いた。

「お粗末な限りで、久米さんのご期待に添えましたかどうか。それに、今日、神主さんがお見えになることを知っていましたら、他の話を用意してきましたのに」

 坂井は恥じたように目を伏せ、扇子を閉じて床の上に置いた。


 岩穴。

 十畳ほどの広さをもつ円形の部屋。

 生駒達は岩牢などと呼んではいたが、かつてどんな用途で使われていたのか定かではない。

 床には今風のデッキ材が敷き並べられているが、壁や天井には昔の人が穿ったノミの痕をそのまま残してある。隅に置かれたポールスタンドの光に照らし出されて、むき出しの赤い岩が複雑な陰影を見せていた。

 振り返ると入口がポッカリと黒い口を開けているのが見える。外はすでに暗く、夜の冷気が山の木々の間から流れ出している頃だが、中は蒸し暑い。

「ロウソクにしようかと思ったんだけど、いくらなんでも薄暗いだろ」

 久米が入口に眼をやった。かがり火の明かりもポールスタンドの光も、その力を弱められ、そこには小さな闇が居座っていた。


「さあ、さあ。食べながら話そう。無粋な中年男の手料理だが」

 車座になって座り込んでいる老若男女に、ホスト役が大きな身振りで勧めた。

 床の上にじかに置かれた立派なトチノキの厚板。その上に、涼しそうなガラスの器に盛られた生ハムや、枝豆や豆腐のサラダなどが並べられている。

「ビールや焼酎やジュースなんかはいくらでもあるから。あ、道長先生、ワインもあるよ」

 先生と呼ばれた女性が、それまで見据えていた坂井からようやく視線をはずして、久米に優しい目を向けた。

「老人といわずに中年男というところがこだわりね」

「ウハハハ。そりゃそうだろ。まだ六十九なんだ」

 頂きますと、道長が豆腐サラダを小皿によそう。

「男の人が作ったにしてはおいしそうね」

 しかし、それを口に入れる前に坂井に声をかけた。

「今のお話、どこで仕入れてこられたの? それとも坂井さんの創作?」

 どことなく棘がある。


 坂井春雄。

 年齢は六十を過ぎたあたり。多くの土地や建物などを持つ資産家だ。大阪の中央区で不動産業を営んでいると聞く。

 恰幅がよく、しゃれた腕時計をしている。先ほどの話しぶりからみても世慣れた男という印象を受けるが、そんな坂井が狼狽するほど、道長の問いかけは追及調だった。


 道長佐知子。

 年齢はよくわからない。黙々と作業している背中を見ているときなどはとうに六十は過ぎていると思うが、気分がいいときの晴れやかな表情は四十代後半に見えたりもするのだ。

 京都市北部にある女子大の教授だと久米から紹介されていた。本人からは、郷土歴史家だと訂正されていたが。


 道長とは以前、生駒はこの屋敷でなんどか会ったことがある。思ったことをすぐ口にする女性である。

 華奢で小さな体に溜め込んだエネルギーを気ままに放出するように、厳しい言葉を連発する。しかも頑固な理論派ときているので、久米がもてあますシーンを何度も目にしたものだ。

 本人に悪気はないのだろうが、口調がきつすぎて周りのものがどぎまぎしてしまう。

 ただ美しい人ではある。自分がときとして迷惑な存在になっているということにさえ気がつけば素敵な女性なのに、と生駒は思っていた。


「いや、ま、そんなもんですかな」

と、坂井がごまかした。しかし郷土歴史家の先生は許さない。

「岩代神社の縁起については諸説ありますが、最も信頼できるのは、この采家のお屋敷に残されていた古い文書に記載されているものです。それによると」

 道長は言葉を切り、久米に顔を向けると、

「あら、ごめんなさい。今日は私の講義じゃないって、さっき釘を刺されたばかりだったわね」

と、笑顔を見せた。

 笑うと、急に幼い顔になる。短い髪はあちこち跳ね上がり、てんでばらばらになっているようだが、よく見ると凝ったセットがしてあり、微妙な色合いの何種類もの髪染めがその独創的な髪形に彩りを添えている。

 細かい花柄模様の濃紺のシャツが活動的で理知的な道長に良く似合っていた。


「ハハハ、そう。道長教授のご講義はまた後日拝聴するとして、今日は蛍が飛ぶ宵の余興ということで」

 久米は会が始まってから笑顔を絶やさない。

 今日の会とは、村の由来やこのあたりの風物などについて、知っていること、想像したこと、感じたことなどを自由に発表しあおうという趣向で久米が開いたものだった。

 ファックスで送られてきた案内状には「岩穴座談会」とあった。

 場所は、村の古くからの名士である采一族の屋敷。

 会場はここ、屋敷裏の岩穴部屋。


 久米荘一とは、現代絵画に凝っている自称画家。

 元はといえば、国土交通省のそれなりの役職に就きながら、好きで始めた絵画である。以前からまずまずの絵を描くと生駒は思っていたが、退職後はぐっと腕を上げ、個展なども開くようになっている。

 少し変わった経歴を持つ新進の画家として雑誌や新聞などで紹介されることもある。

 いわば、著名人の仲間入りを果たそうとしているのだが、本人はそれがうれしくてたまらないようだ。

 また、金銭的にも余裕があるのだろう。形だけどこかの財団法人の理事などもしているのかもしれない。自宅は大阪の箕面に邸宅を構えているが、東京や福岡にもアトリエとして使う部屋を持っているという。そのひとつとして、この屋敷も借りているのだ。


「これ、おいしい!」

 優がマグロのカルパッチョにパクつき、頬を膨らませた。

「いやあ。そう言ってくれるとうれしい。野菜は仙吉さんの畑で作られたものだよ。肉や魚は、彼が町で買ってきてくれたものだが」

「久米先生のご注文はなかなか細かくて」

と、生駒の斜め前に座った男が笑った。大葉仙吉だ。生粋の村人である。


 生駒は改めて座を見回した。

 和やかな空気が満ちていた。

 始まる前に危惧していたほど、堅苦しい雰囲気ではない。

 男が八人、女がふたり、少女がひとり。

 生駒にとって親しい顔ばかりというわけではない。一番奥の正面には威厳たっぷりに久米が座り、その右隣りには西脇利郎という中年男。続いて橘文雄と娘の綾。数年前に村に移り住んだという農家だ。生駒の向かいには道長佐知子。入口に近いところに地元農家の大葉仙吉と並んで座っている。

 久米の左手には采健治という若い宮司が座っている。続いて大阪の資産家、坂井春雄、木元勝と名乗る若者。そして生駒と三条優だ。

 久米にとっては親しいメンバーらしい。今日の会に向けて厳選した諸兄なのだと、会の案内状にはしたためてあった。


 三条優だけが久米にとって新顔だ。生駒が優に、次回この屋敷に行くときには連れていくと約束させられているのを知った久米が、今回はぜひお連れしてください、と言ってくれたのだった。

 四十代半ばを過ぎた生駒が、二十過ぎの優を恋人だと紹介するのは気が引けた。自分が代表をしている設計事務所のスタッフだと紹介しておいた。現実に、ときにはちょっとしたスケッチなどを描いてくれたり、現場視察に付き合ってくれたりするのだから、まったくの嘘というわけではない。


 優が生駒の前の空っぽの小皿にカルパッチョをよそった。

「おいしいわよ。ノブも食べたら?」

 しかし優は、食べるものを口に入れたとたん、そんな自分の仮の立場はさっさと忘れて、いつものように生駒をノブと呼んだ。

「仲がいいんですね。社長さんとスタッフさん」

と、道長が朗らかに笑った。


「次は俺が」

と背筋を伸ばしたのは、日に焼けた四十前後の男だ。

 生駒はこの男と始めて会ったとき、人に言えない仕事でもしていて、この村に逃れてきて居ついたのではないか、と勝手な想像を抱いたものだ。

 二年ほど前、久米に誘われてこの屋敷に来るようになったころ、橘文雄という農夫であると紹介された。東京から移り住んだという。

 橘が自分の畑で採れたものだといって、キュウリやトマトを屋敷に届けにきたときのことだ。三人で昼食の弁当を食べながら、久米が生駒に話題を振ってくれた。建築雑誌の新刊に生駒が設計した住宅が紹介されたことを話せという。生駒は簡単な自己紹介をし、その住宅について話し始めたのだが、ものの二分も経たないうちに口を閉じてしまった。

 橘は、聞く気はないという態度で箸を動かし続け、庭を眺めていたかと思うと、チラッと品定めでもするようなぶしつけな目で生駒の口元あたりを見たのだった。

 それからというもの、なにを考えているのかわからない得体の知れないこの男が、なぜこの村に住むようになったのか、なぜ久米と親しくするようになったのか、不思議でしかたがなかった。

 筋肉質の体躯を活かして久米のために力仕事をしている橘の姿を見かけることはたびたびあったが、生駒から声をかけることはめったになかったし、かけられることもなかった。


 その橘が娘の綾に、にやりと目配せして話し始めた。


 蛍は神秘的ではかない虫である。

 春、桜の咲く季節、雨の降る夜。川の中で過ごしていた幼虫がいっせいに岸に上がってくる。

 幼くはあっても尻に立派に光を灯しながら。初めて目にする地上の光景に驚く様子もなく、やわらかい土を目指して一時間に数十センチのスピードで着実に這い進む。行軍すること数時間。


 ころあいの地点に到着すると、すぐさま土の中にもぐりこむ。土繭を作り、サナギとなるのだ。

 そして約五十日後、六月初旬。

 次々と羽化する蛍。

 残された生は十日ばかり。

 その最後の命を精一杯使って、交尾を果たして死んでいく。


 人間が目にする蛍の乱舞は、交尾相手を求める舞。


 異性を追う強烈な欲求に突き動かされた晴れがましい宴。


 それを見る人間は風流を感じ、団扇片手にのどかな面持ちでいたとしても、この小さな虫にとっては一世一代の最後の生の営みなのだ。


 ところで、乱舞さなか、人に近づいてくる蛍がある。これはその人の先祖の霊だといわれることがある。

 淡い光の点滅は、それほど霊的な色彩を帯びており、人の心に思い出となった故人の記憶を呼び起こさせるのだろう。


 単に美しいという印象や懐かしいという感傷だけではない。

 その乱舞がどれほど華やかなものであったとしても、どことなく畏れに似た感覚をも持つものなのだ。

 その感覚は、夏が近づいてくるとき特有の、草いきれの沸き立つ山間の川岸、というシチュエーションがもたらしているというだけではない。

 残照が消え東の空に星が瞬き始めるという、どことなく不安な時間帯がもたらしているというだけのことでもない。

 放つ光の軌跡が、見る人の予測ではまったく計りしれないからでもない。


 人の目には、単なる小さな昆虫の肉体の一部としてではなく、黄緑がかった白い光そのものが、その点滅そのものが、意識を持った生き物であるかのように見えるからなのだ。


 しかし蛍は、この村ではあまり好かれてはいない。むしろ縁起のよくない虫だといわれている。

 この虫が光りながら近づいてきて、万一体にとまられると、よくないことがその人の身に降りかかるといわれている。


 こんな言い伝えがある。

 昔、蛍が舞うある夜のこと。


 村長むらおさの使いが、一軒の農家を尋ねてきた。娘を神への捧げものとして差し出すようにとの言付けだった。

 期日は明後日。蛍の舞が最も激しさを増す時刻に、娘をひとりで岩代神社に参らせるようにとのことだった。もちろん、神への供え物として差し出された娘が、二度と村人の前に姿を見せることはない。


 蛍が舞う季節が近づくと、年頃の娘を持つ親は、まさか今年が神へ貢物を差し出す年でありませんように、またうちの娘がその役を仰せつかりませんように、と祈った。


 いつしか、村人は岩代神社に寄りつかなくなった。

 山仕事をするものが通り抜けるだけで、境内もお社も荒れ果てた。

 そして、その忌まわしい風習が消えた後も、蛍は縁起の悪いものであるという印象だけが村人の心に残ったのだった。


「うーむ」

 久米は拍手をしなかった。

 橘の話は会にふさわしいテーマだったし、理路整然とした話しぶりでもあったが、聞いて気持ちのいい話ではなかった。

 坂井の栗の木の話に出てきた麗しき神に泥を塗るような話でもあった。


 今度も道長が感想らしきものを口にする。

「後半はまた想像のお話かしら? なかなかうまくできたお話のようでしたけど」

 橘はニヤリと笑っただけで、道長の挑発にまったく関わるつもりはないようだ。ヨレヨレになった綿の短パンから突き出た毛むくじゃらの脛を掻きながら、もう一方の手で焼酎をぐっとあおった。


「違います」

 はっきりとそう応えたのは少女だった。よく通る声が岩穴に響き渡った。


 橘の娘、綾。

 今年の春、小学六年生になった少女。


 長身に幼さが残る顔立ち。短めの髪を両耳の後ろでくくっている。

 白いブラウスに色褪せたスリムなブルージーン。

 ありきたりな服装だが、一瞬の間、生駒は同じような服装をここで見たことがあるという感覚にとらわれた。


 道長が少し驚いたように綾を見つめ、言葉の続きを待った。

「これです」

 綾が膝元の袋から取り出したものは、くすんだ紫色の布に包まれていた。

「それは?」

 手の平の上で布を広げてみせる。出てきたのは茶色の麻糸で織られたもの。

「頭巾なんです」

「ほう」

 久米は興味津々だが、父親があわてた。

「そんなもの、早くしまえ」

 綾は声にならない小さなため息をついて父親の言葉に従った。


 ただそれだけのことだったが、場はなんとなく肩透かしを食らったような気分になった。作り話なのかという道長の質問は宙に浮いたままだ。


 生駒は橘の話を反芻した。蛍にとまられたものに不幸が訪れるというくだり。


 穏やかならぬ話だ。信じるわけではないが、うれしいはずもない。もしや、さっき優とふたりで蛍を眺めているところをこの男に見られていたのではないか。

 無精ひげを溜めた肉の落ちた頬に、大きな傷跡。彫りの深い顔に引いた細い目。

 感情の読めないこの目で物陰から観察されていたのだとしたら、気持ちのいいものではない。


 時刻は午後9時を回ったあたり。

 岩穴の中には柔らかい光が満ちていたが、屋敷を、そして村を包む深い山々の稜線は、既に暗い空と溶け込んでいた。空には星もなく、今にも降り出しそうな黒雲が流れていた。


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