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第 20 章 「うつろになずむ」

 綾は屋敷に泊まっていくという。

 生駒も優も綾をひとりきりの家に帰らせる気はなかった。

 綾は屋敷に入ってからも、思いつめた表情で優の手を握ったままだった。


 生駒は三人分の布団を敷いた。

 川の字になって寝る。横になって目を閉じたが、さまざまな情景がまぶたの裏に浮かんでは消えた。


「奈津さんと綾ちゃんはどういう関係なん?」

 優が綾に話しかけた。

 綾もきっかけを待っていたのだろう。堰を切ったように話し出した。


 橘が綾を連れて大西村に越してきたのは、数年前の春のことだという。

 父、文雄は東京のある消防署の隊員をしていたが、ある日突然、それを辞め、田舎に引っ越すと言い出したという。父と娘は、母親の反対を押し切って、ふたりでこの村にやってきた。


 綾はこの山奥の村で、のびのびとした日々を過ごすことになった。村に同世代の子供はいなかったが、村の生活にすぐ溶け込んだ。

 多くの村人は無関心を装っていたものの、中には、素人農家を始めた橘に手取り足取り農作業を教えてくれる人もいたし、綾をまるで自分の娘や孫のように可愛がってくれる人もいた。美千代や佳代子もそうだった。なかでも佳代子は、なにかにつけて綾をかまってくれ、勉強を教えてくれたり一緒に遊んでくれたりした。綾は母親に甘えるような、また、年上のお姉さんにいろいろな面で追いつこうとするような態度で佳代子を慕った。


 そして、奈津も綾にとって特別な存在となった。

 ある日、綾は奈津に誘われて神社に行った。からっと晴れた日の夕方のことだった。

 ふたりは獅子岩の前に腰掛けた。そこで奈津はこういったのである。

「なにか聞こえるかい?」


「セミの声」

「ああ、あれはヒグラシというセミじゃ。それから?」

「川の音」

「ふむ。それから?」

 綾はしばらく耳を澄ました。


「風が葉っぱを揺らす音」

「そうじゃな。それから?」

「うーん。あっ、虫の声」

 そうしたやり取りを、綾は楽しんでいた。

 その頃には都会暮らしより、自然に包まれたこの村で暮らすことが好きになっていたし、畑仕事を手伝うことにも慣れて、土を触ることも、ミミズを掴むことも、抵抗なくできるようになっていた。

 たくさんの木々や草の名前も知ったし、それらの利用の仕方も覚え始めていた。

 半年も経たないうちに綾はすっかり田舎の娘になっていたのである。


 なにが聞こえるかという奈津の問いに、綾はいくつ答えただろう。

 木の枝がきしむ音、葉っぱが地面に落ちた音、トンビの鳴き声、シジュウカラの飛ぶ羽の音、蜂の羽音……。


 このあたりまでは実際に聞こえたか、目で見た情景から、音を想像して口に出すことができた。

 しかし、木が土の中から水を吸い上げる音や、気温が徐々に下がって地面の土が締まっていく音や、何十年もの間に降り積もった落ち葉が朽ちていく音、などになると、もう想像でしかなかった。

 というよりもはや思いつきを並べただけのことだった。


 やがて、もうなにも思いつかないという頃になって、やっと奈津は問うことをやめ、綾の両頬を手で包むようにして、じっと目を覗き込んだ。

 そして両手を綾の耳に動かし、

「おまえにいいものを貸してあげよう」といった。


 奈津が手提げ袋から取り出したもの。古びた布切れ。

 それが聞き耳頭巾だった。


 村に伝わる不思議な頭巾。

 これを被ったものは、木々や生き物たちの声が聞こえ、理解できるという。


 ただ、誰もがこの頭巾の力を引き出せるということではない。

 感受性、とひと言ではいえないが、一種の霊感あるいは自然の力を生あるものとして受け入れることのできる本質的な能力を秘めたものだけが使いこなせるという。


「おまえならこの頭巾の力を、わし以上に引き出せるかもしれんのう」

 奈津はそういって、使い手のひとりとして綾を選び、頭巾にまつわるさまざまな言い伝えなどを話しながら、使い方を教えたのだった。


 綾が学んだことは、頭巾の使い方ばかりではない。

 奈津の話を聞くことは村や采家の歴史を学ぶことにもなった。

 そしてこの大西村を取り囲む山に住む生き物たちについても、多くのことを知ることになった。


 あんまり覚えてないけどね、と綾は笑ったが、案外、奈津に続いて村一番の物知りかもしれなかった。


「へえ。すごいやん! さっき、奈津さんが言ってたやん。一人前って。免許皆伝ね」

 優が感心した。

「ううん。そんなことないわ」

とはいいながら、綾はうれしそうだ。


「でも、綾ちゃんは村の人じゃないやんか。こんなことを言うと、いけないかもしれないけど、いつかは出ていくかもしれないし。そのときはどうするん? その頭巾」

「うん。私もおばあさんにそのことを話したの。そしたら、私の好きにすればいいって」

「へえ! さすが免許皆伝!」

「そんなのじゃないって。私ね、この村を出ていくかもしれない。でもね、そうなっても、いつまでもわたしはこの村の人間なの。そう考えて先のことは気にしないことにしたんだ。それにね、まだ半人前だし。半人前というのも厚かましいかな。時々、木や鳥が互いに話しているのを盗み聞きできる程度だから」

「なるほどなぁ」


 生駒は心を動かされていた。


 奈津という村の呪術師ともいうべき長老に才能を買われ、その後継者に選ばれたことを抵抗なく受け入れた少女。

 普通の小学生としての学校生活を送り、父親の畑仕事を手伝いながら、聞き耳頭巾の使い手としての研鑽を積んでいる。

「偉いなあ」と、自然に言葉が出た。


 綾ははにかんでいたが、ふと、思い出したようにいった。

「ごめんなさい。さっきは。あんなところまで付き合ってもらったのに、おじさんに試してもらえなくて」

「ううん。そんなに大切なもの、僕が触ってみてもいけないんじゃないかな?」

「いいの。おばあさんもいろんな人にかぶらせてみたんだって」

「へえ。そんなもの?」

「うん」

「美千代さんものそのひとり?」

「うん」

「彼女はもう聞き耳頭巾を使わないの?」

「んーと、たぶん」

 綾の口がとたんに重くなった。

 優があわてて話題を変えた。


「聞き耳頭巾ってさ、日本昔話では、庄屋さんの庭の大きな石をどける、って話しやったやん。なんか、似てるところがあるよね」


 あの昔話も誰かの完全な創作ではなく、もしかするとこの村の伝説が形を変えたものかもしれない。

 この村ではおぞましい石だが、昔話の中では、大金持ちの庄屋が他の村人の田に水をいきわたらせないために置いていた石だ、ということになっている。決して村人に幸せをもたらす石ではない。

 もしかすると、あのサヨと吾一のおぞましい事件があったからこそ、聞き耳頭巾の使い手の若者が庄屋の娘を嫁にもらうというハッピーエンドの話が作られたのかもしれない、と生駒は勝手な想像をした。


 優と綾が聞き耳頭巾の話している間に、生駒は考えてみた。

 美千代は奈津に命じられて久米達の後をつけていた。

 ところが生駒達を見つけてしまい、久米の後をつけることは断念して引き上げた。

 美千代は彼らを許せないといった。

 そして綾が聞いたクスノキの言葉。

 いつものように……。つまり、久米や橘の行動や奈津や美千代の行動は、今夜だけのことではないということだろうか。

 奈津や美千代は以前から監視していたということなのだろうか。


 聞き耳頭巾で聞いた情報を頭から信じている自分に気がついて、生駒はひとり照れ笑いを漏らした。


「私、さっき、おばあさんにも言ったけど……」

「なに?」

「お父さんと久米のおじさんのこと」

 綾が核心に迫ろうとしていた。


「お父さんは私の喘息のために、空気のいいところを探していたわ。初め、探していたのは、東京の郊外。でも、決めたのはここ。全くの田舎。山奥っていった方がいいところ。しかも東京から遠く離れて。だからお母さんは絶対に反対。経営している学習塾は辞めたくなかったから。でも、お父さんは私のためにはここがいいって」


 しかし綾は、今は少し違う考えをしているという。

「お父さんがこの村に決めたのは、久米のおじさんから誘われたからなんだ」


 久米は橘親子を屋敷に呼び、泊まらせることがこれまでもたびたびあった。

 聞き耳頭巾を試してみようとする夜以外は、綾は佳代子と過ごしていたが、ふたりが寝てしまってからも久米と橘はずっと話し込んでいるようだった。

 まだそのときは、彼らがなにを話しているのか気にもとめていなかったが。


 ところが最近のある夜のこと。

 佳代子はもうなく、綾はひとりで寝ていた。その夜は眠りが浅かった。

 奈津から平石にまつわるおぞましい伝説を聞いた夜だった。

 ふと目が覚めると、夜中の三時だった。


 綾は布団を抜け出した。頭巾は奈津から借りたままだ。

 窓辺に立った。平石が見えた。


 どうしよう、と綾は声に出して言ってみた。

 この石の声を聞いてみようかという考えが浮かんだのだ。

 奈津が、大きな石や川や滝や古い建物さえも話をすることがあると話してくれていた。中には、自分の未来を見せてくれる石もある、と聞かされていた。これがその石なのだろうか……。


 庭園灯に照らされた平石。

 昨日までは、何の変哲もない大きな庭石のようにしか見ていなかった石が、サヨの物語を聞いてからは、とてつもない憎悪が宿っている呪いの石のように見えた。

 土の中から掘り出されてからさほど月日が経っていないことで、巨石のわりには苔のひとかけらも生えておらず、洗われたかのような無垢な石の表面は、かえって石が宿している思いの強さを表しているかのようだった。


 綾は恐ろしくなった。

 自分の思いつきがとんでもないことのように思えた。もしうまく石の声を聞くことができても、なにを聞けるというのだろう。

 想像するだけで体が震えてきた。


「やってみる?」

 自分に向かって声に出してみることによって恐怖から逃れられるかもしれない、という考えは甘かった。

 むしろ、やめておこうというもうひとつの声を発するきっかけにしたようなものだった。


 再び布団にもぐりこんだ。

 と、そのとき、裏庭からもの音が聞こえた。綾は布団を頭からかぶって震えた。勝手口の扉が開く音がした。


 奈津から聞くさまざまな話の中には恐ろしい話もある。

 しかし、それらを綾は心底恐ろしいとは思わなかった。

 目に見えようと見えなかろうと、なんらかの存在自体に、綾は恐怖を抱くことはなかったからだ。暗闇の中を歩くことも平気だった。暗闇に中にいるものは、草木や動物や昆虫などが大半で、もちろんそれらは恐ろしいものではない。ときとして、なにものかの意識を感じることもあるが、それも恐ろしいものではない。妖怪と化したものもいるにはいるのだろうが、そうそう人前に現れるものでもない。しかも闇雲に人に悪いことを仕掛けてくるわけでもない。少なくともそう考えていた。


 綾にとって恐ろしいものは、人の怨念だった。

 形を得れば般若や鬼となる精神的存在が、自分の身の回りに漂っているのではないか、と考えることもある。

 決して豊かではなかった村で起こったであろう、さまざまな出来事を思うとき、無念のうちに死んでいった村人たちの、何世代にもわたる怨念に満ちた霊が行き場もなく村にとどまっているのではないか、と。

 幸せに死んだ人の霊は、自由に霊界を行き来しているという印象がある。明るい死後の世界を満喫しているかもしれない。しかし、強烈な怨みをもって死んだ人魂は……、と考えてしまうのだった。


 普段の綾はこんなことを思い詰めることはない。

 もし考えたとしても、本来、村人でない自分がそれらの霊になにごとかをされるということはありえないと考えるようにしていた。

 しかし一方で、奈津の口から、あるいは頭巾によって、さまざまなことを聞かされた自分は、彼らの怨みの対象になるかもしれないという思いも、ときとして心によぎるのだった。

 そしてその夜、綾はまさしく平石にとり憑いた人の怨念を恐れていたのだった。


 しかし綾は気がついた。

 村人の怨霊が物音を立てて扉を開けて入ってくるはずがない。さては、狐や狸の妖怪の類か、と思ったとたん、体の力が抜けた。

 久米の声が、続いて父親の声が聞こえてきたからだった。


 綾は、自分がなにかを恐れていたことを恥ずかしく思った。

 頭巾の使い手になろうとしている自分が、夜中の物音にあらぬことを想像して震えてしまうとは。


 綾はここまで話して、子供なんだからしかたないと今では思ってるけど、などと子供らしからぬことをいった。


 生駒は応えようがなかった。

 綾の話に圧倒されてもいた。

 優も、うん、とだけいって綾の顔を見つめている。


「それでね」と、綾は続けた。

 朝、目が覚めると久米と父親はすでに起き、何食わぬ顔で新聞を読んでいた。

 綾は夜中に見聞きしたことへの自信が揺らいだ。そして、ふたりが綾には黙っておこうとしているようにもみえた。

 しかし綾は、そのことを今まで、誰にも言わなかった。ただそれからというもの、久米と父親が夜中になにをしようとしているのかが気になって仕方がなくなってしまった。

 そしてその思いは最近になってますます強くなってきた。ふたりが出かける回数が増えてきたからだった。


 綾の物語は終わった。


「おじさんに、平石の声を聞いて欲しいと頼んだ日があったでしょ。ほら、アマガハラノへ行った夜。あの次の日の晩も、お父さんは久米のおじさんと出かけて行ったんだよ。だから……」

「へえ」

といったきり、生駒も優もまだどう反応してよいかわからなかった。

 綾が長い物語をして、自分の弱さをさらけ出していた。慰める言葉が見つからなかった。


 優が電灯をつけた。

 綾がまぶしい!と、布団に潜り込んだ。優は茶箪笥の上においてあったクッキーの箱を開け、再び電灯を消した。

「でも、もう、綾ちゃんにはわかっているんやね」

 優は布団の上にごろんと横になり、クッキーをつまみ出すと、箱ごと綾のほうへ押しやった。


「うん」

 だが、綾はためらっている。

「お父さんの秘密を暴くってことやもんね。やっぱり、言いにくいか」

と、優が慰めた。

「うん、まあね。でも、この話をするために、ここまで聞いてもらったんだから」

 綾がクッキーを口に入れた。


「さっき、美千代おばさんが、許せないって言ったでしょ。私、そう言われて気がついたの。宝もののこと、聞いた?」

「宝もの……。采家に万一のことがあったら、という話かな?」

 岩穴座談会での話だ。もう、ずいぶん昔にことのように感じられた。

「うん、それ。言い伝えによれば、それは滝壷の中に隠されているんだって。お父さんたちはそれを探しに行ってるのよ、きっと」

「へえ!」

 優が上体を起こした。

「なんなん? その宝ものって」

「山賊の話の中に鉱山のことがあったな。そうすると金塊、銀塊とか」

「うーん、滝壷に金塊かあ」

 優が俄然、食いついてきた。

「知らんよ。ま、なにか金目のものを、采家の先祖が隠しておいたとか」

「きっと、そうよ」

「だから奈津さんは、一族のものとして、久米さんらの行動を見過ごせないんや。それで美千代さんに後をつけさせた。美千代さんはああなってしまったけど、元はといえば」


「金塊じゃないと思うわ」

 綾がきっぱりと否定した。


「へへ。ごめん。それもそうやんね。金塊を隠すなら、そんなところやなくて、お屋敷の床下なんかに隠すかな。こんなに広いんやし。壷なんかに入れて、あ、屋根裏部屋かも……」

「おい!」

「じゃ、なんやと思う?」


 綾はわからないという。

「でも、おばあさんが言ってた。とてもありがたい、尊いものだって」

「とてもありがたくて尊いものねぇ」

「仏様みたいなものかなって思うんだ」と、綾は自信たっぷりにいう。

「なんやあ。やっぱり権現さんかお不動さんの像か。村の隅々にまで水がいきわたりますようにって、滝壷に沈めたのかもね」

「この村は水には困らなかったんじゃないかな。あの猪背川の水が枯れるなんて考えられないし」

「揚げ足取り!」


 生駒と優は、綾の気を紛らわせようと、あえてふざけた言い方をしていた。

 しかし綾にはその必要はなかったようだ。笑みを見せて博識ぶりを発揮した。


「そうでもないみたい。水には困ってたみたい。猪背川は村の下の方を流れているでしょ。この村の畑は、あの川から直接、水を引いているんじゃないの。滝から流れてくる岩代川の水を引いているのよ。猪背川に流れ込むちょっと手前から」

「ふうん。そうなんだ」

「このお屋敷より少し上のほうに水門があるわ」

「つまりは滝の水か」

「うん」

「岩代川なら水量も多くない。枯れることもあるやろうな」

「川向こうの畑は水不足でいつも困っているんだって」


「あーあ。滝壷に沈められたありがたいものって、神様、仏様、水神様ってこと?」

 優がまた、わざとらしくがっかりした声を出した。

「沈められているということは、石像かな。あるいは、霊力を秘めた石とか」

「もしかすると、黄金の仏様、あ、まさか、金の斧」

 ハハハ、と綾が久しぶりに笑い声をたてた。


「おまえなあ、さっきから金銀財宝ばかりやぞ」

「失礼ね。久米さんと橘さんの目的に関心があるんやんか。石像なら、そんなに準備万端で頑張る意味がわからないやろ。しかも人目を忍んで。それに」

 言いかけて優が綾の顔を窺った。

「それにさあ、殺人事件が起きてるんやから。ふたつも。もしかすると三つも。あのふたりがやろうとしていることが、この事件に関係あるのかどうか。それを知ろうとしてるんやんか」

「おい、ユウ。まさか」


 生駒は、あのふたりが犯人かもしれないというのか?という言葉を飲み込んだ。綾を慰めるはずが、話は逆効果になりそうな雲行きだ。

「そうは言ってないよ」


 しかし綾は、もう、この話の行き着くところを十分理解しているだろう。

 目を丸くして生駒と優を見比べている。優も綾の顔をちらちら見ているが、動き出した口は止まらない。

「久米さんや橘さんは殺人事件なんてお構いなしに財宝探し」

 しかも財宝だと決めてかかっている。


「健治さんと恭介さんが殺された次の日の夜も出かけた。よほど強い思い入れがあるってことやんか。あるいは焦りかもしれないけど。あるいは、その日でなくてはならない理由があったのかもしれないけど。いずれにしろ、ちょっと普通やないなと思うわけよ。それにもうひとつ、気になることがある。奈津さんと美千代さんのこと。あの人たちの行動も、ちょっと普通とはちがう」

 一気にここまで話して、綾の顔を覗きこんだ。


「綾ちゃん。あなたのお父さんが犯人やなんて思ってないよ。でも、私の言いたいこと、わかってくれる? どこかで財宝探しとこの殺人事件には接点がある。そう思うんだ」

「うん」

 頷いた綾の声は、さすがに消え入りそうだった。

 指が畳の目をいじっていた。


「特に美千代さんのこと。自分の息子が殺されたんよ。そんなときに、あんなふうに久米さん達をつけていく、なんてこと、する? 奈津さんの指示であれなんであれ、あんなことをしていたということは、やっぱり健治さんが殺されたことと関係がある、と思っているからじゃないのかな」

 畳の目を擦る綾の指先の動きが激しくなった。


「おいおい、どうも話の行き先が怪しいやないか。つまり、美千代さんは犯人だと思うからつけていった、ということか?」

「ちょっとちがうねんなぁ。真相を突き止めるために、やね」

「また、ややこしいことを言い出したな」


 いくら理屈を捻ろうが、久米と橘がもっとも怪しいことに変わりはない。

 しかし、ようやく、

「おばあさんと美千代おばさんは殺人犯を追っているつもりじゃない」

と、綾が畳の目を見たまま、小さな声で反論した。


 そのとおりだ。宝ものを狙っている男を追っているのだ。

 優がわかった、財宝探しの話と人殺しの話は分けて考えるべきね、ごめん、と謝ればとりあえずはこの話を収拾できる。

 しかし、優の口から出た言葉に生駒は愕然としてしまった。


「そうやね。でも、ノブも綾ちゃんも、よーく、聞いてね。美千代さんのアリバイはあるのかな?」

「お、お、おい。なんてことを言い出すんや!」

「黙って聞いて。親が子を殺すなんて、絶対にありえないこと?」

「そんな無茶な思いつきを」

「無茶って言い切れる?」


 まさか優は、綾を前にして、狂人となった美千代の歪んだ息子への愛が、などという生臭い話を聞かせようというのか。

 生駒は猛烈に不安になった。慌ててそれを制止しようとしたが、優が綾の頭越しに睨みつけてきた。

「だから、ノブ、聞いてって。私は美千代さんが犯人やとも言ってないよ。その可能性も完全に消すことはできないと言ってるだけ。あらゆる可能性を今は残しておきたいということ。でも、ひとつだけはっきりしていることがある。いい?」

 ここで言葉を切って、次の言葉をゆっくり口にする。


「それは、橘さんが木元くんを殺したのではない、ということ。だって、綾ちゃんがずっと一緒にいたんやから」

 綾がしっかりと頷いた。


「久米さんと橘さんが采家の財宝を狙っているんやとしたら、奈津さんや美千代さんが、それを阻止しようとしていてもおかしなことやない。だから、真夜中にあんなことをしていたとしても、殺人事件とは関係のないことなのかもしれない。でも、それもまだ不確定なことやん。西脇さんのあの日の行動も不可解といえば不可解。わからないことだらけ。だから、よりによって人殺しがあった次の日の夜中に財宝探しに行く人がいて、それをつけていく人がいるなんて普通じゃない事実を、無関係といって切り捨ててしまってはいけない。目をつぶってはいけない。すべてのことに注意して、どういう背景があるのか、どういう繋がりがあるのかということを、常に考えていなくてはいけないのよ。今は」

 優の熱のこもった演説に、綾は今度もしっかりと頷いた。


 そして、

「私もそう思う」と、いった。優がほっとした声を出した。


「綾ちゃんに謝らなくちゃいけないことがあるねん」

 綾が首を捻って優の顔を見た。


「今日ね。実は私が頭巾に期待していたのは、綾ちゃんの思いとは少し違ってた。ふたつの事件に関することを、なにか聞ければいいなって思ってた。たとえば、アマガハラノに行った日、誰かがわたしたちの後をつけて来てやしなかったか、とかね」

「うん」

 優は暗に、奈津や美千代のことを言ったのだ。

 綾にそれは伝わったろうか。頬が少し火照ってはいるが、表情は穏やかだ。しかし返事はなかった。


「結局は、あそこで久米さん達や美千代さん達を見かけることになって、もっと大きな謎にぶち当たってしまったんやけどね」

 さっきまでの演説調と違って、優の声も落ち着いたものになっている。綾もすごいが、優もなかなかだ。こんな真夜中になっても、しかもあんな出来事があったにもかかわらず冷静に頭を働かせ続け、しかも議論をリードしていく。

 生駒は、自分にはとてもできそうにないと思った。

「ふう」

 生駒はため息をついた。

 今は事件そのものを考えるべきときなのに、優の熱意の理由を考え始めた自分に気がついて情けなくなった。

 そして、そんな自分を情けなく思っている客観的な自分にも気がついて、ますます嫌気がさしてくる。


「ノブもため息なんかついてないで、意見を出したらどう?」

 綾が仰向けになり、こくりと生駒の方へ頭を傾けた。

「ああ」

 生駒は胸に熱いものがこみ上げてくるのを待った。


 佳代子の死への疑問や道長や奈津に感じた怒りでもいい。自分を突き動かす力になるものならなんでもいい。

 綾が見つめている。

 瞳には庭園灯に照らされた窓の形が映りこんでいる。

 まったくなんの曇りもない瞳。信頼の光と安心の色だけを帯びた瞳。


 少女が言葉を待っている。


「さっき、ノブも気がついた?」

「ん?」

「人影」

「あん?」

「そか、見てなかったのか。車の後ろに仙吉さんがいた。綾ちゃんは?」

 綾が微笑んだ。

「知ってたよ」

「えええっ」

 サヨの人型が見えたと思ったが、あれは仙吉だったというのか。


「仙吉さんも、実は、久米さんの行動を監視してるのかも」

 なるほど、それは頷ける。

 さすがに女ふたりで行動するのは危険が大きい。シークレットサービスとして仙吉がついているのだ。


「万一、奈津さんと美千代さんが見咎められても、いざというとき、本当の戦力になる仙吉さんだけは、隠密としておこうっていう作戦やな」

「そうかもね。単独行動かもしれないけど」

「聞いてみようか」

「やめといた方がいいと思う。たぶん何も話してくれないと思うし、聞けばこっちまで怪しまれてしまう」

「そうやな」

「いざというときになって助太刀を頼む方がいいと思う。というか、私達は外野なんやけどね」

「どんなときや? いざというときって。ま、しかし、確かにその通りや」

「まあ、そのうちにってとこかな」


 なんとなく歯切れが悪いが、優の言うとおりだろう。

 今、こんな話をしているからといって、よく練った上での話ではない。

 ついさっき、山に入っていく久米と橘を目撃し、美千代と奈津に会い、そして綾の話を聞いたことによって、事態の輪郭がちらりと見えてきたばかりなのだ。仙吉に話すとしても、なにをどう話せばいいか分からなかったし、それに仙吉はとうに知っていることなのだ。

 自分達の立場を説明し、なぜ今晩出掛けていったのかを釈明するだけのことになる。

 綾と聞き耳頭巾を試しに行きました、葬式の前日に物見遊山なんです、と。


 考え込む生駒に、綾がすっきりした声を出した。

「おばあさんも気がついてたと思うわ。気がつかないはず、ないもん」

 その通りだろう。


 生駒は話題を変えた。

「さっきのクスノキの話、あれだけ?」

 綾の瞳に変化が起きた。

 生駒は魅入られたようにそれを見つめた。

 少女の瞳にさざなみが立っていた。

 涙が溢れてくるのかと思った。

 しかし、溢れてきたのは悲しみの涙ではなく、喜びの焔だった。


「うん。あのときはまだ言葉がまとまらなくて」

 綾が心の底から笑っている。


「へえ! そういうものなんか。すごいなあ。じゃ、もう、まとまった?」

 綾は考えるそぶりを見せたが、すぐに口を開く。

「こんな感じ」

 ひと言ひと言、確かめるように言葉にしていく。抑揚もつけず、淡々と文節を並べていく。


うつろに、

なずむ、

子殺しは、

山神の、

裁きを、

受ける、

であろう……


 生駒の視線が優と絡んだ。

「なんという……」

 思わず心の中で復唱した。

「クスノキはそんな感じのことを言ったのよ」

 現に人が死んでいる今、おもしろ半分で言えることではない。

 生駒はまた綾の瞳を見つめた。さざなみが覆っていた。瞳が生駒の反応を待っている。


「山神の裁きか……」

 生駒は夜陰に紛れて山に登っていった久米と橘の姿を、懐中電灯に照らし出された不動明王が見つめていたことを思い出した。


 大変な言葉を聞いてしまったのだ。


「怖い言葉やな……」

 その先が出てこない。

 綾の瞳のさざなみが徐々に引いていく……。


「子殺しって言ったん? 自分の子供を殺すってこと?」

 優がさらりと聞いた。

「そうだと思うけど……」

 綾がまたこくりと顔を優に向けた。

 瞳が見えなくなった。軽い喪失感……。

 子供を持つというのはこういう気持ちに毎日満たされるということなのか、と生駒は思った。


 しかし、そんな感情をすばやく追い払うと、「それで終わり?」と綾に聞いた。

 再び綾の瞳が生駒に向けられた。


「うん。断片的には……」

「言ってみて」

「滝かなあ。水神さま? そんな感じのこと。それから、間道? 抜け道? 細道? そんな意味のことを話していたみたい。ね、ね、さっきの、「なずむ」ってどういう意味?」

「こだわるっていう意味」


 クスノキの声はまるで恐ろしい予言だった。

 子というのは誰のことか? これまでに死んだもののことを指しているのだろうか。

 佳代子のことか。恭介か。健治か。

 それなら親は……。

 あるいは、さらに人が殺されるとでもいうのか。


 まさか、綾のことなのか。


 屋敷のどこかで柱時計が鳴っている。

「うわ。もう三時。まずい。お父さんたちが帰ってくるかもしれないぞ!」

 意識して明るい声を出した。

 そして、ぽんと立ち上がり、窓を閉めた。


「さ、もう寝よ。綾ちゃんは明日、学校やろ」

「ううん。創立記念日でお休み」

「へえ、いいな」

「ちょっとぉ、お風呂は?」

 優がひょうきんな声を出した。

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