第 19 章 「クスノキが語ったこと」
懐中電灯に照らし出された山の木々には、彼らの聖域に紛れ込んで来た人間を糾弾しているような圧迫感があった。
深い闇で、その懐を覆い尽くそうとしている。威嚇するようにザワッと動き、聞き耳頭巾で聴くまでもなく、出ていけと言っているようだった。
生駒は以前は山登りが好きだった。緊急の場合にと、いつもザックに入れているヘッドランプの世話になったことも一度や二度のことではない。なんとか里まで降りようと、頼りない明かりひとつを真っ暗な山道に落としながら慎重に歩くときの心細さは、経験したものでないとわからない。
昼間の山は賑やかで、そこかしこから鳥や虫の声が聞こえ、美しい木々の葉や野草などが目を楽しませてくれる。木漏れ日の中を吹き通る風の匂いも気持ちいい。
しかし陽が落ち、暗闇が山を支配するようになると、絵本のページをめくるように世界は一変する。祖先から受け継がれた闇への恐怖がこれほどまでに強いものだったのかと思い知らされることになるのだ。
しかも、これからますます夜が更け、異次元の世界に棲むものたちの時間になろうかというときに山に入ろうというのだ。人身御供にされたサヨが通った道を辿って。
先頭を行く生駒は、懐中電灯の光が照らす地面に気持ちを集中しようとするが、その光が照らし出していない闇の方へと、どうしても意識が向いてしまう。
後からついてくる綾と優の息遣いや足音を聞き逃すまいとした。
連日の雨のおかげで地面が湿っている。じっとりとした三人の足音をかき消すように、せせらぎの水音が闇に響いていた。
風もなく蒸し暑い。生駒は、なんだか気持ち悪いな、という言葉を飲み込んで振り返った。
綾が微笑みかけてきた。
少し緊張はしているが、うれしくてしかたがないという面持ち。父の橘は出かけていき、今夜は帰ってこないという。
生駒と優を訪ねてきた綾は、真っ黒なTシャツに黒いジーパンといういでたちだった。夜の闇に溶け込む黒という色が、聞き耳頭巾を使うときの彼女なりのこだわりなのだろう。
事件から二週間が経っていた。
梅雨空の中を、生駒と優はすべての予定をキャンセルして大西村を訪れていた。
久米から、健治と恭介の葬儀がある、という連絡が入っていたからだ。
捜査は進展していた。
原田の町はずれにある西脇工務店の資材置き場から、血液反応のある鉄パイプが発見されていた。健治の血液と一致し、西脇利郎が容疑者として拘留されていた。
また、屋敷の納屋から押収した草刈鎌のひとつからも血液反応が出ていた。こちらは恭介の血と一致。木元が拘留される決め手となったものだった。
この間、優はありとあらゆる推理を展開していた。
しかし、どれも決め手に欠けていた。
いつも最後には西脇、木元犯行説は受け入れられない、という漠然とした結論になってしまい、自分たちの情報の少なさを悲観するのだった。
もう二度とあの村に足を踏み入れることはないだろうと、生駒は思っていた。しかし日が経つにつれ、少しの懐かしさと心残りが生じていたのも事実である。
優は違う。単に葬儀に出席するという目的だけではなく、情報収集のために少しでも早く行きたいというのだった。
ふたりは葬儀の前日に屋敷に落ち着いた。
久米は今回はお構いをしないが、離れを自由に使ってくれたらいいといってくれた。おかげで、再びさまざまな現場を検証して回ることができた。
ただ、健治が寝た部屋や木元の部屋はすでにきれいに片付けられて新しい発見はなかったし、猪背川にも降りてみたが、ここを落ちたら無事ではすまないなと思っただけでなにも見つからなかった。
川向こうの畑からどう見えるのかも確かめてみた。屋敷がよく見えた。犯行現場は木々に遮られているが、屋敷のすぐ前の道も、裏の空地も見通せた。そこなりの視力があれば、誰が歩いているかも十分判別できる。ただ、それだけのことだった。
集会所も覗いた。たまたま通りかかった佐古に頼んで倉庫の鍵を開けてもらうと、「防火」と書かれた赤いバケツが十個重ねられてあった。数が減っていませんかと問うても、佐古は首を傾げるだけで、それ以上の発見はなかった。
神社まで再び行ってみたし、滝を探しにも行った。そこでは予想に反する光景が生駒と優を驚かせたが、アマガハラノまで行く時間はなかった。
あの場所まで西脇や恭介や木元の気持ちになって歩いてみることによって、あいまいな時間の概念がはっきりしてくるかもしれないのに、と優は残念がった。
そして今、いつの間にか連絡を取り合っていた優と綾の手はずによって、無理やり引っ張られるようにして、深夜、三人は神社への夜道を辿っているのだった。
「奈津さんはときどき、夜にいないことがあるん?」
綾に聞いてみる。自分の声に、久しぶりに人の声を聞くような気がした。
気持ちが紛れ、緊張が少しほぐれた。
「ううん」
聞き耳頭巾は綾のものではない。
普段は奈津が持っている。綾はそれをいつでも気が向いたときに借りることができるという。今晩も奈津の家に借りにいったのだが、奈津はおらず、綾は鍵のかかっていない扉から家に入り込んだのだった。
「勝手に持ち出してもよかったん?」
「うん」
「でも、奈津さん、どこに行ったのかな。こんな遅い時間に、いないって」
優の声は、ほっとするような温かみのある声だった。
「千寿おばあさんのお見舞いじゃないかな」
「こんな時間に?」
「うん。泊まってくることもあるんだよ」
「へえ」
奈津の家は、ある意味で生駒の想像を裏切った。
生駒は、粗末で狭く、ものが溢れかえった小屋のようなあばら家を想像していた。
生駒達が奴隷部屋と呼んだ采屋敷の裏手にある季節労働者のための長屋と比べても、さらに侘しい住まいかもしれない。本家と分家の違いという生易しいものではなく、采家の人々が出戻りの娘にいかに辛くあたったのかということがわかるかもしれない。しかも奈津はあの性格だ。仙吉が助けているとはいっても、限界があるだろう。貧しさと反目の中でどんな暮らしをしているのだろう。そう思っていた。
しかし、違った。
千寿の住んでいた屋敷とは比べるべくもないが、明るい伸びやかな斜面に、おおらかな平屋建ての家が建っていた。女性が長年ひとりで住み続けてきたにしては広すぎる家だし、しっかりとした造りの蔵が一棟、納屋が三棟、こざっぱりした庭に並んでいた。
やがて山道の勾配が緩くなった。石の鳥居の前に立っていた。
頭上を覆っていた樹冠が後退し、空が見えた。
細い月の明かりが暗い空に青さを与え、梢の輪郭を目でなぞることができる。その青みが境内をほのかに照らし出している。
鳥居は闇の世界と光のある世界のまさしく結界の役目を果たしていた。
三人はめいめい懐中電灯の光を鳥居に投げかけた。
丸い黄色い光が、なにかを探しているように石の表面を舐めていく。
「あっ」
紐のようなものがぶら下がっていた。
三メートルはあろうかという大きな蛇。
目が合った。
鳥居の鴨居に体を巻きつけた青大将が頭をぶらりと下げ、訪問者に顔を向けていた。三つの光の丸が重なり、蛇の頭を照らし出す。ちょうど生駒の眼の高さ。
まったく無表情だが、光で目を射られて興奮したのか、ブルリと体を揺すり、ちょろりと舌を見せた。
「通してくださいな」
綾が声をかけた。そしてこともなげにその頭の下をくぐっていく。
蛇はそれが合図だったかのように、するすると後退し、頭を持ち上げていく。そして鳥居の一番上の梁に体を横たえると、まだ下にいる生駒と優を監視する体勢をとった。
鳥居をくぐらないでも、脇の草むらを通って神社の境内には入っていける。それでもなぜか鳥居をくぐらなければならないような気がして、生駒と優は蛇を見上げた。
綾が再び声をかけた。
「通してあげてくださいな」
綾に頼んでもらって、生駒と優は心持ち頭を下げて蛇のおわします鳥居をくぐったのだった。
「この木」
綾が一本の木の前に立った。
「クスノキ?」
生駒が木の葉に触れようとすると、綾があわててとめた。
「木がびっくりするわ。それにもっと小さな声で話してね」
綾の懐中電灯がふっと消えた。生駒と優も倣ってスイッチを切る。
なにも見えなくなった。
境内中央部の平地には月の光が落ちているが、この大木の下までその光は回りこんでこない。全くの暗闇が、特別な気体が木の間に淀むように溜まっている。
手の平さえも見えない。体がまっすぐに立っているのかどうかさえわからない。
めまいがしそうになる浮遊感。
足の裏の感覚は確かに土の上に立っていることを伝えているが、それさえも徐々に薄れていく。
生駒は足を少し動かし、感覚を呼び戻すと同時に、つま先を開いて休めの姿勢をとった。
衣擦れの音がした。綾が頭巾を取り出したようだ。
「気をつけて」
優の声がかすかに震えている。
綾はこの暗闇の中でも目がきくのだろうか。華奢な体が動いたことを感じる。
生駒はじっと暗闇の中を見つめていたが、依然としてすぐ目に前にいるはずの綾の姿も、クスノキの幹もその形を表してこない。
目や耳や肌の感覚を総動員して前方に注意を向けた。
虫の声が急に意識に昇ってくる。弱々しい小さな音が瀬音に混じっていた。夏前のまだ小さな虫が懸命に送るメッセージ。
今までも鼓膜はその音を捉えていたのだろうが、脳はそれを取るに足らないものとして意識に昇らせることなく無視していたのだ。それがようやく、頭の中に響いてくる。
しかも単に虫の声というだけではない。それらが数メートル離れた位置で鳴き交わしていることも、一方の虫が単調に鳴いているだけなのに、もう一方が徐々にいらだつようにピッチを速めてきたことにも気がついた。
こうして感覚を研ぎ澄ますことを、もうどれくらい前から経験していなかっただろう。
生駒は肩の力を抜いて、夜の山の気に全身を委ねようとした。
単に蒸し暑いだけだと感じていた谷あいの空気の中に、苔や草々の発する気が独特な臭いを混じらせていることを鼻や肌が感じ取った。
川の流れが、水の動きが、あたりに小さな飛沫を散らし、湿り気を帯びた空気のかすかな動きを作り出していることも肌は感じ始める。
快感だった。
徐々に目がものの形を捉え始めた。
黒一色の世界から、かすかな濃淡の違いが見えてきた。
書割のような輪郭だけの世界が、月明かりの反射を受けて浮かび上がってきた。
綾が木に触れんばかりの位置に立っているのが見えた。
それは自分の吐く息が届きそうなほど間近な位置だった。
まだ頭巾はかぶっていない。わずかに足を開き、頭を垂れて瞑想している。
生駒は息を殺して見守った。
やがて、綾は手に持っていた頭巾を丁寧に被り、そのまま体を木の幹に寄せていく。ゆっくりと横を向くと、頭巾を被った左耳を幹に触れさせる。
生駒の目は暗さに慣れ、もはや綾の表情さえも見分けられるようになっていた。
綾は目を瞑っている。
唇をゆるく閉じ、まるで死んだ人のように血の気の引いた顔をしていた。やわらかく笑っているようにも見えるし、神妙な顔をしているようにも見えた。
生駒は綾が今まさしくこの木と交感しようとしているという確信を持った。
すでに木の声を聞いているのかもしれない。右耳を押さえている小指がかすかに震えていた。
と、急に綾が目を開けた。
そして頭を木から離す。綾の顔は先ほどまでのうっとりとしたものから、厳しい非難の表情に変わっていた。
どうしたのだろう。
しかし、声を出して聞くことはためらわれた。
綾の目線は生駒の後ろに向かっている。生駒は振り返った。
しかし、漆黒の闇が広がっているだけ。
綾が生駒の袖を引いた。
三人はクスノキの後ろに身を隠すと、息を殺して、鳥居をくぐってくるものを待った。
依然として真っ暗闇の中、なにものかの形も光も、そしてどんな物音さえ聞こえなかった。
じりじりとしながら、生駒は綾を信じて、身を固くして待った。
やがて生駒の眼が、ふたつの明かりが木々の間にちらつくのを捉えた。
耳が瀬音や虫の声ではない音を捉えた。
近づいてくる。
生駒は急に現実的になった。
こんな深夜に小学生の女の子を連れて、山の中で木の声を聞いているのだといって、誰がまともに取り合ってくれるだろう。村人なら誰もが綾を知っているだろうし、彼女と聞き耳頭巾のことも知っているかもしれない。
だが、だからといって、生駒に対する冷たい視線は避けられないだろう。警察ならなおさらだ。
しかし、ふたつの懐中電灯は、綾を探しているふうに動き回るわけでもなく、ぴたりと山道を照らしながら進んでくる。
鳥居でも立ち止まることなく、どんどん近づいてくる。
輪郭が見えてきた。男のようだ。ひとりは大きな荷を肩に担いでいた。
男たちは生駒達が隠れている木の前を通り過ぎていく。
と、思わず生駒は声を出しそうになった。
久米と橘だった。久米が橘を従えて、しっかりとした足取りで不動明王の祠の前を横切り、せせらぎを渡り、山への道を登っていく。
ふたりの懐中電灯の光が遠のき、木立に隠れてほとんど見えなくなった。
生駒が木の後ろから出ようとすると、綾にまた袖を引かれた。みると、今度は小さな点のような光が神社に入ってくる。
異様な成り行きに生駒は固唾をのんでその小さな光が近づいてくるのを見守った。
光は生駒達が隠れているクスノキの前まで来て止まった。
「綾ちゃん。出てきなさい」
聞き覚えのある声。それは美千代の声だった。
「はい」
美千代は、先に行った久米と橘の後を眼で追っていた。
生駒達が暗闇の中を木の根につまずきながら出ていくと、ようやく三人に顔を向け、生駒と優をかわるがわる品定めするように見た。
「お屋敷のお客様……」
生駒が挨拶をしようとする前に、綾が小さな声で、しかしするどく「はい」と応えた。
美千代が、その短い綾の言葉にかぶせるようにいった。
「木の話は聞けた?」
綾は黙っている。
美千代はその様子をじっと見ていたが、ふっと笑ったような声を出した。
「そうか。それはまた聞きましょう」
「はい」
「あのシデの木はおしゃべりよ。今度聞いてみたらいいわ。でも、今晩はもうだめ」
美千代はそういって、久米たちが消えた闇の中を見透かすように目をやった。
「賑やかだから。人が多すぎて。木は、今晩は何事が起こったのかと、驚いていることでしょう。また別の日にやってみなさい」
そういって美千代は再び生駒と優に視線を合わせてから、くるりと背を向けた。
再び、男たちを追っていくようだ。
「おばさん。どこに行くんですか」
綾の声に、美千代が足を止めた。
振り返り、顔をゆがめた。
口が開いた。
生駒は耳をふさぎたい衝動に駆られた。恐ろしい言葉が美千代の口からほとばしり出るような気がしたからだ。
しかし、美千代の口は開いたまま、迷っているかのように、言葉はなかなか発せられない。やがて出た言葉は、とっさの想像とは違っていたが、それでも生駒を驚かせるには十分なものだった。
「許せない」
美千代が弱々しいため息をついた。
もう久米達の行方に眼をやろうとはせず、
「さ、帰ろうか」と、綾の頬を撫でた。
聞き耳頭巾をそっと脱がせ、もう一度、綾の頭や肩を優しく撫でた。
生駒は、久米と橘の行動と、美千代のこの行動の意味を知りたかったが、とても問える雰囲気ではなかった。
彼女の反応が怖かったということもある。
それに、綾の手前もある。綾は、自分の父親がこんな夜更けに山に登っていったことの意味を知っているのだろうか。だが、少なくともここでは、父親の前に姿を現したくはなかったのだから。
そして美千代に姿を見られることもうれしくなかったのだから。
しかも美千代は、許せないといった。
その言葉が意味するところは、けっしておおぴらにしてもいいことではないだろう。
少なくとも、夜更け、木や動物や物の怪のものとなった山の中を、人目をはばかって久米達は行動しているのだから。
荒れ果てた神社で、気の触れた人から根掘り葉掘り聞き出すようなことではない。
美千代が先頭に立って村に戻り始めた。その後ろを綾が黙ってついていく。そして優、生駒と続く。
鳥居の上の蛇はもう姿を見せなかった。
歩きながら、生駒の頭の中は、今見たことの意味を考えることでいっぱいだったが、それでも、空に瞬く星がやけに近く感じられたし、時折流れてくる谷川の空気が首筋を撫でていくのを感じることができた。
暗闇の中で研ぎ澄まされた感覚はまだ生きていた。
来るときには見えなかったさまざまなものが目に入った。
切り通しの岩に張り付いたシダにとまった夜露や、葉をすぼめた野草の群落が見えたし、妖艶な緑色の羽を持つ小さなカナブンの仲間が潅木の柔らかい葉をむさぼっている音まで聞こえるようだった。
美千代が立ち止まった。
屋敷の裏の空き地。生駒の黒いミニバンが闇に溶け込むように停まっていた。
木の陰に動くものがあった。
「あっ」
黒い塊がムクリと立ち上がった。
「おばあさん」
奈津は黙って生駒達一行を眺めた。
美千代の顔は奈津に向けられているが、なにも言わない。
奈津も沈黙したまま、三人と向き合っている。
「こんなところでなにしてるの?」
痺れを切らして綾が聞いた。
奈津はそれには応えず、
「今晩、見たことを誰にも言わないことじゃ」
と、搾り出すような声で言った。
綾が頷いた。
「そちらの客人もじゃ」
びしりという。
生駒は黙っていた。しかしむっとした。
案の定、優が、
「お話ししていただけませんか。どういうことなのか」と反発した。
奈津は顔を突き出し、眼を見開き、まじまじと優の顔を見つめた。そして、
「聞きたいか」
と、にやりと笑った。
いや、笑ったように見えたのは一瞬のことで、単に顔を引きつらせただけかもしれない。
急に不安が襲ってきた。
この老婆や美千代は、もしや、というような不安。
襲ってくる? 呪い? 許せない?
生駒は身を硬くした。滲み出したアドレナリン。奈津への怒り。
五人は黙っていた。
生駒の怒りに不遜な気持ちが混じってきた。
美千代は神社からここへ戻ってくるまで一言も発していない。しかし、奈津がここで待っていることは知っていた。生駒や綾をここまで連れ戻してきて奈津に引き渡し、指示を待っているかのように呆然と突っ立っている。
その美千代に向かって、奈津は、帰れ、というように手を振った。
美千代は生駒や綾を振り向くこともなく、そして一言も発することなく道を下っていった。
先ほどはしっかりしていた美千代の足取りが、見るからにふらついたものになっている。
懐中電灯もつけず、月明かりを頼りに歩いていく美千代の後姿は肩が落ち、わびしかった。
そういったことがますます生駒の怒りをかきたてた。
いったい、この老婆はどういう神経の持ち主なのだ。祟りじゃ、などと人を愚弄するようなことを言ったかと思えば、こんな夜中、息子を亡くした母親に人の後をつけさせておいて、それに気づいたものに口止めまでする。
まるで、夜中にうろつきまわる妖怪の類ではないか。
いや、もしかしてもうすでに実態は……。
生駒は奈津の顔に懐中電灯の光を当ててやりたい、今どんな顔で、どんな目つきで自分たちを見上げているのか、はっきりと確かめたいという衝動に駆られた。
「私、なにかおかしなこと、言ったかな」
優が表面的には穏やかにいった。
しかし、明らかに相手を非難する調子が含まれていた。
「あんたらには関係のないことじゃ」
奈津がぴしゃりといった。
「美千代さんが私たちをつけてきたのは、あなたの指示じゃないの? どういうことなんです? 関係ないこと、ではすまないでしょう」
優の口調はまだ穏やかだ。しかも冷静だ。
美千代が久米や橘をつけていたことは明らかなのに、自分たちをつけてきたと鎌をかけている。
「ん? あんたらをつける? ヒャッ、ヒャッ、ヒャッ。ばかげたことを!」
奈津が口を開けて笑った。
ここで綾が声を聞かせてくれていなければ、生駒は老婆に光を投げかけていたことだろう。
「このおじさんもおねえさんも、私が誘ったのよ。とてもいい人たち。おじさんは木の話も聞けそうな気がするの。もしかすると、私よりもっと」
奈津がたちまち真顔に戻った。
「気になっていたの。お父さんは夜中にどこに出かけるのだろう。なにしてるのだろうって。そんなことを考えていると、なぜこの村に引っ越してきたのだろうということもわからなくなって……。それは誰も教えてくれない。村の木やお屋敷の木も、そんな話はしてくれない。おしゃべりな鳥も。だから、神社の大きな木に聞けばなにかわかるかなと思って」
奈津が綾を見つめていた。
「それに、ほかにも気になっていたことがあるの。石がもろくなって割れるって。それで大変なことになるって。ホトトギスが言ってた」
老婆の口が、スゥと音をたてて息を吸い込んだ。
なにか言おうとしている。綾が口を閉じ、言葉を待った。
奈津が小さく笑った。
「それなら、獅子岩様の後ろのナラの木に聞いてみるといい。あのふたりがああして何度もあそこを通っているのなら、きっとその行き先を教えてくれるじゃろうて。が、あのナラに頭巾を使うには、空気のようにならんとだめじゃ。小さな空気の粒のようになって、あの木の中に染み込んでいくような気持ちにならんとな。聞こう、聞きたいというおまえの意識がまさっていてはいかんぞ。それほど難しい木じゃ。クスノキと同じように。しかし、綾よ」
「はい」
「木に教えてもらわなくても、もう気がついたじゃろう」
「……」
「あのふたりが、なにをしようとしているのか。じゃが、綾はそんなことに関わってはいかんぞ。そしてこちらの客人も」
「でも」
綾が納得できないという声を出した。
「ん?」
綾はそれ以上は、なにもいわなかった。
どう納得できないのか、整理ができていないのだろう。父親の行動に関わるなといわれたことに納得できないのか、気がついただろうと言われてもなにも思い当たることがないからなのか。
優がまた口を開いた。
「祟りってなんですか?」
「……」
「失礼じゃないですか。あんなこと言うなんて」
「それも、あんたらには関係ない」
「じゃ、誰に関係するんです?」
「フフ、聞く耳を持たないものには、どんな言葉も意味がないようじゃの」
奈津はそう言うなり、綾の肩を抱いて優しい声を出した。優は無視された。
「石の件は、良くぞ聞いてくれた」
「お屋敷の庭の石のこと?」
綾が優を気にしながら、奈津に問いかける。
「うーむ。どうじゃろの」
奈津がますます優しい声を出した。
「で、綾、今日はどうじゃった?」
「はい……」と、綾は唸った。
奈津が綾を抱きしめている。
「いつもと同じように、お父さんと久米のおじさん、そして美千代おばさんがくるって……。木はなんだか不愉快そうで……」
「ハハハハ。綾よ、おまえはもう一人前じゃ。わしにはもう教えることがない。いろいろ、自分で工夫してみるといい。さ、わしは帰るぞ」
奈津はそういって、すたすたと暗闇に紛れていった。
三人は屋敷の裏手に取り残された。
なかなか動こうとしない綾の肩を今度は優が抱いた。
屋敷は黒い塊となって夜気に佇んでいた。
生駒の車の傍らではサラサウツギが小さな花を咲かせ、綾や生駒の話を聞いていた。
生駒はそこに、サヨの人型を見たような気がした。
梅雨明けが近い。
もう蛍の季節は過ぎ去っていた。