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第 15 章 「画家の無駄話」

 恐ろしいことが起きていた。

 地鎮祭の盛砂に猫の首が入れられ、宅見佳代子が死んでからちょうど一年後、その元恋人采健治が死んだ。そして同じ日に西脇恭介が殺された。


 鶴の間の襖は開け放たれ、手前の松の間に生駒、優、道長、西脇、橘、綾、仙吉が押し黙って座り込んでいた。寝込んでしまった久米は高熱を発しているという。寝返りを打つたびにベッドがきしみ、そのたびに道長が目をやった。


 車座になった生駒達は白々とした蛍光灯の元で警察からのなんらかの連絡を待っていた。

 部屋の隅には折り詰め弁当が積まれていたが、まだ誰も手をつけていなかった。

 優がペットボトルから人数分の紙コップに茶を注ぎ始めた。


「綾、横になっててもいんだよ」

 橘が気遣ったが、綾は首を横に振った。

「じゃ、お弁当を食べようか」と道長も気遣ってやる。

「ご飯食べないと元気が出ないものね。私たちも頂きましょう」

 綾が頷いた。道長が畳に手を突いて疲れた体を立ち上がらせた。


 夜の十二時を回っていた。恭介の死体はすでに山から運び下ろされ、司法解剖のために運び出されていた。

 リビングに臨時の捜査本部が置かれていた。そこで寺井が部下に指示を与えている。現場遺留品の捜索は明朝から再開される。場合によっては、このうちの誰かに、あるいは全員に現場までご足労願うこともあると聞かされていた。


 今朝、山に登ったメンバーのうちで殺された恭介と木元だけがこの場にいない。警察は木元の行方をまだ掴んでいない。

 木元は独り者だ。しかも木元の店は昨日今日と定休日。誰も行き先を知っているものはいなかった。気ままにバイクを走らせてどこかに出かけたのだろうが、明日の朝には店を開けるはずだ、と橘が警察に伝えていた。

 西脇はすっかり憔悴しきり、空耳でもするのか、時々狼狽したように周りを見回していた。


 縁側に若い娘が顔を出した。

 仙吉の娘、彩香だ。顔にはまだあどけなさが残っているが、若者らしく清潔そうな化粧をして、染めていない髪をポニーテールにしている。

 仙吉譲りの少々彫りの深い顔はエキゾチックな雰囲気で美人の部類に入る。父親譲りは顔立ちだけではない。いわば囚われの身となった生駒達になにかと役に立とうと動いてくれるのだった。熱いコーヒーや蜂蜜入りのホットミルクを作ってくれたのも、弁当を買ってきてくれたのも彼女だった。


「あれ、皆さん、早くお弁当、食べてくださいよ。お刺身が傷んでしまいますよ」

「彩香さん、ありがとうございます。今から頂きます」

 道長が申し訳なさそうにいった。

「お風呂沸かしときましたから、順番に入ってください」

「なにからなにまで、本当にお世話になります。あなたももう帰ってお休みになってくださいな」

 道長が頭を下げた。生駒達もそれに倣う。

「いいんですよ。これも親孝行ですし。せっかく村に来ていただいたお客様ですもの」

 彩香はにこやかにいって、網戸をきちんと閉め直してから姿を消した。


「明日、授業はいいんですか?」

 仙吉が娘を見送ってから、道長に声をかけた。

「お昼からのコマですから、なんとか間に合う時間に帰らせてくれるとありがたいんですけどね」


 めいめいが折り詰めの蓋を取った。生駒は食欲がまるでない。血にまみれた恭介の死体を見つけ、半狂乱になった西脇をなすすべもなく眺め、寺井にひとりずつ尋問を受けてから、まだほんの小一時間しか経っていない。しかし、口にものを入れると少しは落ち着いた気分になった。

 改めて空腹を感じ始める。喉が渇いていることにも気がついた。

 ビールを取ってこよう、と生駒が立ち上がったとき、

「不謹慎なことを言うようだけど、木元さんが言った呪われた家というのは本当だったのかもしれないわね」

と、道長が誰に言うともなく口にした。


 生駒は西脇の反応を窺った。しかし、息子を殺された父親は気にするふうでもなく、黙って下を向いてもくもくと箸を動かしている。上の空なのかもしれない。


 縁側に出ると、夜の涼しい風が顔を撫でた。

 立ち話をしていた数人の警察官が目を向けてくる。見張られている居心地の悪さを感じてキッチンに急いだ。


「なに! 川に落ちたときの傷ではないというんだな。確かだな!」

 リビングの横を通り過ぎるとき、寺井の声が耳に入った。


 部屋に戻ると久米が起き上がっていた。

「寄る年波には勝てませんなあ。申し訳ない。ホストとして皆さんをちゃんとご接待しないといけないんだが」

「熱は?」

 道長が心配した。

「もう下がったようだ。や、ビールですか。いいですね。喉が渇いてたんだ」

と、久米が早速ビールに口をつけた。

「ふう! 生き返った気分!」


 西脇が久米を睨みつけた。さすがに気分を害したようだ。

 息子が殺されて、事件関係者として警察に外出を制限されているものたちが、生き返ったなどといって、ささやかな酒盛りを始めようとしているのだから。

 しかし生駒もかまわず缶ビールの栓を引き抜く。いつまで待たされるのか、皆目見当もつかない中で漫然と座っているのは辛かった。ビールの冷たさで磨り減った神経をわずかでも癒したかった。


 久米が弁当についていたペーパータオルで顔を入念に拭ってから口を開いた。

「さっき目の隅に入ったんですが、ここに来た若い女性、どなたですかな?」

「わしの娘でして」

「ほう! いい娘さんですなあ」

「いえ。道楽娘でして」

「なんの。自分で学費を出して専門学校へ通っておられるそうじゃないですか。アルバイトしながら。なかなかできることじゃありません」

「いやぁ、それは親に甲斐性がないだけのことで。本当は行きたい大学があったようなんですが、ちょっと資金的に無理な面がありまして。あの子にはすまないことをしています」


「そういや、息子さんもたいしたものじゃないですか。大阪のお店、何度か寄ってみたんですよ」

「あ、そうでしたか。それはどうも」

 仙吉は頭を下げたが、顔色は冴えない。長男、次男共に自慢の息子だし、久米が来店したのならもっと喜びそうなものだが。西脇に気を遣っているのだろう。

「先週も行ってみたんですが、閉まってましたけどね」

「はあ」

 定休日だったということでもないようだ。

「なかなか……」

と、いって仙吉は口をつぐんでしまう。


 久米は急に元気が出てきたのか、食欲旺盛だ。

 仙吉の息子の店がどんな店だったのかを披露しながら、弁当のおかずを肴にたちまち缶ビールを二本空けた。


 西脇が立ち上がった。

「嫁さんの持参金はまだあるやろう」

 立ち上がりざま、仙吉に毒づいた。

 しかしそんな揶揄する言葉にも、仙吉はあいまいに頷いただけ。息子の商売はうまくいってないのだろう。


「そんな話はどうでもいい」

 西脇が投げやりに宣言した。この状況でよくビールなんか飲めるものですな、とは言わなかったものの、場に不似合いな無駄話をする久米に対する批判が顔に出ていた。

 妻の様子を聞いてきます、と吐き捨てるように言って出ていってしまった。西脇の妻の圭子は失神して、病院に運ばれていたのだ。


 批判を受け止めたのか、久米はしばらくの間、宙を睨んでいた。

 しかしまた口を開いた。言おうとしていることを頭の中で整理していただけなのかもしれない。

「お気を悪くせんでくださいよ。仙吉さんのお宅は……」

と言いかけて、言葉を選びなおす。


「仙吉さんのお母さんというのは、確かハナさんでしたかな。三番目の娘さんだと聞いていますが、なんでも先代がお妾さんに生ませた子だとか。東村のご出身ですか」

「はぁ」

「なにか、皮肉なものを感じてしまいます。その、なんて言いますか、采さんの本家とどちらかといえば遠い存在であっただろうハナさんの息子さんである仙吉さんやその娘さんが、こうして采家を取り仕切っている」

「取り仕切っているなんて、とんでもない」

「その言い方がおかしければ、采家を守っているとでもいいましょうか」

 仙吉は再びとんでもない、と首を横に振った。


 それにしても久米はおかしなことを話題に出したものだ。

 そんなことをここで言い出して、どうしようというのか。仙吉を持ち上げるつもりなのだろうが、采家の一族である健治が死に、恭介が殺された日にするような話題ではない。まだ意識が朦朧としているのか、久米はよろめいた足で立ち上がると、縁側に出ていき、夜の風にあたり始めた。


「だってそうじゃありませんか。言い方は悪いですが、当主の千寿さんはひとり息子のご家族を交通事故や病気で亡くされてからというもの、身よりもなく今や老人ホーム暮らし。奈津さんもお元気そうではありますが、同じようなものです」


 久米が話し続けている。ろれつが回っていないというわけではないが、声はどことなく生気がなく、仙吉に向かって話していながら、独り言のような響きがあった。

「四番目のフサさんのご家族はといえば、西脇さんの会社は倒産寸前。奥さんの圭子さんも、原田のパチンコ屋の店員だったということを引け目に感じておられるのか、結婚してかれこれ二十年も経つというのに村や采家になじめないでおられる」

 道長がハラハラしたようにその様子を見つめていた。

「そして連れ子だった佳代子さんが死に、あろうことかご子息さえも失ってしまわれた。末っ子の健吾さんのご一家には、癌で入院されている武雄さんと少々頭のおかしくなった美千代さんがおられますが、こちらも息子の健治さんが亡くなってしまわれた。本当にご愁傷さまだと思います。お悔やみ申し上げます」

 仙吉はなにか言いたげではあったが、黙って頭を下げた。


「それにしても」

と、今度は橘が口を開いた。

 誰しも、食べるものを口に入れて、少しは気持ちの余裕ができ始めたのだろう。先ほどまで気まずい沈黙だけが支配していた松の間に人の声がするようになった。とはいえ、健治や恭介のことを雑談の話題にするには、まだはばかられる。

「美千代さんっていうのは、どういう人だ?」


 橘が話題にした人物も、健治の母親という意味では渦中の人ではあるが、事件そのもののことを避けているような話題だった。それでも、久米のさっきの話と同様に、不自然な感がするのは否めなかった。

「本当に頭がおかしいのかねぇ?」などという。


 仙吉は今度も困った顔をして応えあぐねている。

 美千代は気が狂ってしまったとしても、今のような聞き方をされて、しかもこれほど多くの人の前で、従兄である仙吉が彼女は気違いだと断定できるものでもないだろう。

 そんな仙吉の戸惑いが目に入らないのか、あるいははなからそういう感受性を持ち合わせていないのか、橘は、

「俺はあの人、偽装狂人だと思うな」

と、場にそぐわないこと平気で言い始めた。

「目を見りゃあわかるよな。前に山の中でばったり会ったとき……」


 さすがに久米がたしなめた。

「まあまあ、こんなときに言うことじゃない」

 ところが、その久米自身が采家の悲劇を再びとうとうとしゃべり始めた。呪われたという言葉はさすがに使わなかったが。


 誰も彼も疲れていた。肉体的にも精神的にも。

 でも、眠ってしまうわけにもいかない。もちろん、楽しい別の話題で盛り上がることもできない。

 こんなときは、誰かが愚にもつかないことをダラダラとしゃべり続け、それを耳にするともなく聞き流し続けるしかないのかもしれなかった。


 生駒は妄想した。


 采家の不幸は誰か個人の、健治や恭介を殺した犯人ひとりの仕業ではなく、この屋敷にとり憑いているまがまがしいものを源としているのかもしれない。

 その気で見て回れば、その拠りしろが見つかるかもしれない。封印された蔵の中や屋根裏部屋、床下や土の中に。あるいは黒光りする梁の上や節穴の開いた戸袋の中に。あるいは塗りこめられた土壁の中や、軒先のずれた瓦の隙間に。


 その怨念の象徴として、沈黙を続ける平石が庭の真ん中に居座って、松の間に集ったものたちに汚れた目を向けているような気もする。

 生駒はこの屋敷の闇に潜む存在を感じ、おぞましいと思った。


 久米が西脇家を話題にしていた。

「西脇さんの弟さん、徳次郎さんとおっしゃるのかな、村に寄りつかないんだとか」

 仙吉がしかたなく頷いて、場繋ぎのためだけの話題に耐えている。

「金のことでもめた兄弟であっても、こういうときには力を合わせて乗り切らなくては」

 誰にとっても反応のしようのない話だった。周囲の反応がないので、久米はむきになっているのかもしれない。自分で自分の話の収拾がつかなくなったかのように、今度は西脇工務店の窮状を訴え始めた。


 数年前までは羽振りはよかったが、ある工事で重大な欠陥が見つかり多額の損害賠償を求められたらしい。

 社員をすべて辞めさせ、残っているのは西脇利郎と息子だけ。高級外車を乗り回していたものが仕事兼用の軽トラ一台。

 一旦落ち込んだ業績はなかなか戻ってはこない。しかも原因が信用問題に関わることなら、なおさらだ。それに百姓をしようにも畑もない。もうとっくの昔に原野に戻ってしまっているし、しかもほとんどが千寿の土地だった。


 そこまで言って、久米は縁側に目をやった。さすがに言葉が過ぎたと思ったのだろう。ひときわ大きな声を出して、お気の毒に、僕たちもできるだけのことはして差し上げないといけませんな、と宣言するように言って、ようやく失敗の連続だった話題を締めくくった。

 気の毒な仙吉が、ほっと小さく息をついて、やっと缶ビールのプルタブに指を掛けた。


 ふと見ると、平石の上を一匹の蛍が飛んでいく。

 生駒は、さっき山を降りてきたとき、岩代神社で蛍が舞っていたことを思い出した。その時、一匹の蛍が仙吉の服にとまりそうになった。あわてて仙吉はその光をはたき落とした。誰かの霊だと思ったのかもしれない。


「どうしたん?」

 優が小声で聞いてきた。

「いや、ちょっと、考えごと」

 生駒はこの場で言うべきことを思い出した。


「健治さんは川に落ちて死んだんじゃないようです」

 反応はない。唯一、仙吉だけがため息をついた。

「さっき、リビングで寺井さんが話しているのが聞こえました。正確に言うと、川に落ちてできた傷じゃないと。たぶん後頭部のことでしょう」

 久米や道長がうつろな目を向けてきたが、やはりなにも言わなかった。

 恭介の死が殺人であると明らかになった以上、口には出さないまでも、健治も殺されたのだと誰もが予想していた。


「木元は? まだ見つかっていないのか?」

 橘が、生駒に聞いているようで、そうでもないような口ぶりで問いかけてくる。

「それは知らない」

 ただ、生駒はあの太っちょのことなどどうでもよかった。犯人の可能性があるとは思っていなかった。

 木元は橘と綾の親子と共に、谷周りでアマガハラノを探索したグループだ。生駒が栗の木に向かっていくと大声で呼びかけたとき、橘と木元が声を返してきた。そして栗の木のところには三人同時に姿を現した。当然、橘親子と行動を共にしていたはずだった。


 西脇が戻ってきた。

「皆さん。今日はもう休んでもいいということです。ただし、明日また用があるかもしれないので、今から大阪に帰ってしまうということは遠慮して欲しいということでした」


 それを聞くなり、橘が両腕を挙げて伸びをした。

 この寡黙な男は、こんなとんでもないことに巻き込まれても顔色ひとつ変えない。ただ、このときばかりは解放された安堵感が素直に態度に出たのだろう。大きなあくびを出す。そして、やっと家に帰れるか、と口にした。


 それが西脇の気持ちを逆撫でしたようで、橘をぎろりと睨みつけると、

「屋敷に泊まらない人は、どうするのかを警察に言っておくように」

と、命令口調で念を押した。

「奥さんはどんな具合?」

 道長が西脇を気遣った。

「今は落ち着いているようです。ご心配をおかけしました」

 そう言いながら、西脇はまだ橘を睨んでいた。

 久米が生駒と優と道長の泊まる部屋を決め、道長には風呂に入るように勧めた。仙吉もお疲れが出ませんように、と言って立ち上がる。


 西脇が苦々しくいった。

「あの木元というやつ、警察は、あいつが恭介を殺したと睨んでいるようです。さっき福知山市内で拘束されたそうで」

 そして、立ち上がった橘の背中に向かって、

「おい。ところで、あんた、なにか隠してないか?」

と噛み付いた。けんか腰だった。


 一旦は安堵感が漂った部屋の空気が一変した。

 しかし橘は半ば振り返り、落ち着き払った目で西脇に視線を返す。

「あんた、木元と一緒やったんやろ。あそこで」

 西脇が迫った。

「おい。なんとか言ったらどうや!」


 綾が心配そうな顔で父親を見ている。久米も立ち上がった。

 掴みかからんばかりに憎悪を噴き出させている西脇と、泰然と腕を組んでいる橘の間にその巨体を割り込ませた。


「ずっとじゃないさ」と、橘が首をすくめた。

「なに!」

 西脇の顔がみるみるうちに赤黒く変わっていく。

「途中で少し別れたのさ」

「ふん。そんなことだろうと!」

 生駒の顔に、久米や道長の顔にも驚きが広がっていった。


「そうだな、この人の声が聞こえてから」と、橘が生駒にすばやく視線を流した。

「どういうことなんだ?」

 久米が落ち着いた声を出した。

「こういうことさ。あのとき、木元は自分も栗の木のほうへ直行するってね。でも途中で引き返してきた。あきらめたんだろ。この人らと違ってこっちにはその木がどこにあるのか見えなかったから。俺と綾が原っぱに入った頃に追いついてきたのさ」

「なにぃ!」

「もう一度説明しようか?」

「あいつはひとりきりになったんだな!」

 西脇の目には息子を亡くした悲しみや怒りだけではない、かすかな狂気の光が灯っているように見えた。

「おい! なぜそんな大事な話を黙っていた! おまえ、もしかすると!」


 橘が西脇の言葉を遮った。

「刑事にはしたさ。仙吉さんと一緒に事情聴取されたときにな。しかし、あんたにする機会はなかった。なにしろ、あんたも姿をくらましていたんだからな。俺はその理由を知らないが、一応、警察にはそのことも伝えておいた。彼らがどう受け取ったのか、聞いてみたらどうだ」

「きさま!」

「あんたが息子を溺愛しているのは有名だからな。もうひとつある。あんた、今朝、事前踏査に行って来たといったな。本当かな? 俺は見ていたんだよ。あんたが軽四から重そうな荷物を下ろして、それを背負って山に行くのをな。あれはなんだ? 毛布に包まれていた荷物だったよな。息子の方も何か持っていたよな。リュックに入れた荷物だよ。親子揃って何を運んだんだ?」

「このやろう!」

「ふん。百姓の朝は早いんだよ。これは警察に言ってないが、今にして思えば妙なことだな」

 西脇が橘に掴みかかった。


 しかし怒りに任せて振り上げた手は、冷静さを保っている橘の胸ぐらさえ掴むことができず、空を切る。

 橘はさらりと身をかわし、にやりと笑った。あわてて久米と仙吉がふたりの間に割って入った。


「お、話す手間が省けたな。警察のお出ましだ」

 寺井が縁側から、今の様子を窺っていた。


 久米が宣言するかのように大声をあげた。


「今日はもう解散ということにしましょう。橘くん、今日はうちに泊まっていってくれたらいい。綾ちゃんも疲れているだろうし、どうせ今から帰って風呂を沸かしてというのもなんだから。仙吉さん、今日も大変お世話になりました。礼を言います。それから西脇さん。本当にご愁傷さまでした。なんと申し上げてよいのか、言葉が見つかりませんが、どうかお気を落とされずに……。奥さんの病院に早く行ってあげてください」


 久米がそう言い終わるのを待っていたかのように、寺井が部屋に入ってきた。

「その前に、少しだけ皆さんにご報告があります」

 仙吉が生唾を飲み込んだ。寺井は後頭部の傷が川に落ちたときにできたものではないと説明した。

「しかも、このお屋敷の下の道で血痕が発見されました。そこでなにものかに鈍器で殴られ、川に突き落とされたようです」

「道に血が……」

 仙吉が肩を落とした。

 西脇と橘の格闘も終結した。

 西脇はそこから魂が抜けていったかのように口を開けている。

 久米は座り込んでしまい、橘さえも神妙な顔を作った。


「わずかに草が生えているところがあります。そこで血液反応が出ました。犯行後、犯人は飛び散った血を洗い流したようです。昨夜の雨で道がまだ濡れていましたので、我々は気がつかなかったようです」

「鈍器というのは?」

「調査中です」

「離れの部屋ではなにか……」

 道長が小さな声を出した。

「布団に入ったのかどうか、押収したシーツやパジャマなどを詳しく調べています」

「恭介の件は?」

 黙りこんでしまった西脇に代わって、仙吉が聞いた。

「木元勝を現在、取調べ中です」

 何人かの口からため息が漏れた。

「それで申し訳ないが、山に持っていかれた鎌やナタなどをお借りしたいんですが」


 血液反応を確かめたいという。

 今朝、久米の草刈鎌を借りたのは、久米自身以外には生駒と木元だけだ。納屋にあるのでどうぞご自由に、と応えた久米の顔が青ざめていた。


「帰って来られてから、それらをどうされましたか?」

「洗って……」

「どなたが?」

 久米と道長が顔を見合わせた。

「木元くんがまとめて……」

「ふむ。それから念のために、ご自分のを持っていかれた方はどなたですか?」

 仙吉と橘、そして西脇がおずおずと手を上げた。


「では申し訳ないが、お持ちになっているものをすべてお借りできますか。今から刑事が同行しますので、渡してください」

 突然、西脇が息巻いた。

「おい! 俺が息子を殺したというのか!」

「すみません。確認させていただきます」

「ばかなことをいうな!」

「ご理解ください」

「ふざけるな!」

と、押し問答は続いたが、結局は西脇が折れることになった。


「生駒さんにお聞きしたいことがあるんですが。いいですか?」

 生駒は寺井について庭に出た。


「シーツに体毛が残っていました。パジャマも着たようです。つまり、普通に寝た形跡はあるんですが、少し気になる点もあるんです。まだ断定はできません。確認させてください。昨夜、あなたは風呂に入りましたか?」

「風呂? え、ええ」

「采さんはどうです?」

「……入ったとは思いますが、わかりません」

「四人の順番は?」

「木元君、三条、私、采さんの順です。僕が風呂から出たとき、采さんに声をかけました」

「なるほど。で、そのとき、采さんは?」

「返事はあったと思います」

 寺井が唸った。

「そのとき、雨はまだ降っていましたか?」

「雨? どうかな、停電だったけど……。ん、そうだ。止んでたと思います」

 生駒は手探りで縁側を戻ったのだが、途中、タオルを手すりに干したことを思い出した。

 寺井が頷いた。そして、一段と声を低くした。


「誰にも言わないでください。今お聞きしたことも。いいですね?」

 頷くしかない。

「風呂から出るとき、湯を抜きましたか?」

「えっと、ええ。抜きました」

「なぜです?」

「そりゃ、他人の入った後の湯は気持ち悪いかなと」

「ふむ。そんなもんですか」

「はあ?」

「こちらに来てください」

 黄色いテープを潜っていこうとする。


「どこに行くんです?」

「ですから浴室です」

「湯がどうかしたんですか?」

「湯は入っていません。ですが、うちの係員が今日の昼間に見たところ、床が濡れていたんです。もう時間が経ったので今は乾いているかもしれませんが。それで、もしかすると采健治さんは朝方にでも風呂に入ったのかと。母親に聞きましたら、彼は朝風呂派ではないということなんですが、念のため。浴室の中が生駒さんが出られたときのままかどうかを見てもらいたいんです」


「ああ、それなら、意味はないです」

「というのは?」

「山から帰ってきて、三条がシャワーを使ったからです」

「あっ」

 寺井がなんとなく肩を落として照れ笑いをした。

「そうでしたか。わかりました。お手数をかけました」


 寺井は健治がいつ屋敷を出たのかを絞り込もうとしていたのだった。

 浴室の床の濡れ具合から、健治が朝風呂に入ったのではないかと仮設を立てたのだ。


 生駒は寺井にひとつの情報をやろうと思った。

「昨年の猫のことですが、胴体がどこにあるか、ご存知ですか?」

「ん? あの黒猫の?」

「そうです」

「いえ」

 生駒は説明してやった。期待していたわけではないが、やはり寺井は関心を示さなかった。

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