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第 13 章 「五右衛門風呂の底」

 久米が集会所から出てきた。かれこれ半時間近くも寺井と向き合っていたことになる。

 生駒に軽く手を挙げ、疲れた足取りで帰りはじめる。呼び止める間もなく、寺井が出てきて生駒の名を呼んだ。

「今からお屋敷を見に行くんですが、ご一緒できませんかな。お話は道々お聞きするとして」

と、寺井が久米の後姿を見ながら促した。


 三人は並んで歩き、ひとりの刑事がついてくる。寺井は久米にやり取りが聞こえない程度の間隔を取りながらゆっくりと歩いていく。

 質問は簡単なものばかりだった。生駒や優の年齢や住所や職業といった基本的なデータと、久米との関係の再確認。


 寺井の目が一軒の家を注視した。

 采武雄と表札が架かっていた。美千代と健治が住む家。

 これまで生駒は気にしたことがなかったが、なかなか立派な屋敷だった。采の本家とは比べものにならないが、それでも他の民家とは明らかな差がある。敷地も広いし瓦葺の蔵を備え、門構えも立派だ。この家だけが村で唯一の二階建てだということにも気がついた。


 寺井は急にざっくばらんな調子になって、

「建築の設計というのはいまどきのご時勢、なかなか大変なご商売ですな」

 などと、世間話を仕掛けてきた。

 これが寺井の手法なのかもしれない。そのうちに核心をついた質問をしてくるのだろう。

 果たして、川面を眺め渡せるあたりに差し掛かったとき、寺井はすっと後ろを確かめて、

「ところで、久米さんがこのお屋敷を借りられた真の目的はなんだとお考えですか?」

と聞いてきた。


 そう問われて、生駒は今まで真剣に考えてみたことがなかったことに気がついた。

 単にこの山里で誰にも邪魔されずに創作活動をしたいからだと思っていた。


 しかし改めて考えてみると、それだけでは弱いというようにも感じる。ここが特別に風光明媚なわけでもなく、なにより暮らしていくには不便すぎる。

 各地の別荘地の中にはもっといい物件があるだろう。大阪に近くて便利で管理人がいて、そして静かで自然に囲まれた物件が。

 久米の自宅からここへは車で三時間、鉄道とタクシー利用で四時間以上、バスならなおさらだ。あまりに不便すぎないか。


 寺井が立ち止まった。

 視線をめぐらして猪背川に眼をやった。

 生駒が無言でいると、自分の方から久米の印象について話しだした。


「どうもあの人、なにかに怯えているような感じがしたんですけどね。実は昨年にもこのお屋敷の人が死にましてな。お手伝いさんだったんですが」

「ええ」

「あの日、猫の首が出て、悪質ないたずらだということで、警察も一応は調べに来たんです。ところが、主人である久米さんが、我々が到着する前に現場を離れてしまわれましてな。そして翌日、女性の水死体が上がった。我々は大阪まで出向いていってお話をお聞きする羽目になってしまいました。でも久米さんの潔白は証明されましたし、あの場合は自殺ということでしたから、そんなに……」

 寺井が言葉を選んでいる。逃げ帰らなくてもよかったのに、とでも言いたいのだろう。


「そんなに驚いて雲隠れする必要はなかったでしょうに。や、雲隠れという言い方は適切じゃありませんな。まっすぐ自宅に帰られてましたから」


 生駒は久米を弁解してやりたくなった。

「久米さんが大阪に帰った時点では、佳代子さんのことはまだ誰も気がついていなかったわけだし、雲隠れという言い方はおかしいですね。逃げたわけじゃないんですから。それに、あのときは猫の首という、とんでもないものが盛砂に隠されていたわけです。しかもそれを掘り出したのが当の久米さん。そりゃあ誰だって、仰天してパニックになるんじゃないですか」

 寺井は黙って耳を傾けていたが、生駒の言葉が途切れるや否や、すっと視線を向け、

「では、今日のことは?」

と、聞いてきた。

「今日?」


「なんといいますか、恐れているというか、なにかを隠しているような。あくまでさっき受けた印象ですがね」

「そりゃあ」

 言いかけて生駒は、久米が恐れるようなことを思い巡らしてみた。

 奈津の祟りという言葉が尾を引いていることは間違いない。そして恭介の行方不明、健治の死と続く。

 しかし、それらが久米の怯えの原因なのだろうか。彼らは久米とはいわば無関係な人達だ。奈津や恭介とは初対面のようだったし、健治にしても、知人ではあってもさほど親しい関係ではないだろう。悲しみはあっても恐怖を抱くようなことではない。

 あるいはアマガハラノの不思議? これとて恐れの対象であるはずがない。


 佳代子の死についてはどうか。

 ふたりの関係はどうだったのか。

 生駒の印象では、佳代子の自然体に比べて、久米のよそよそしさが目にはついた。やさしく接してはいるのだが、必要以上に親しくはしないという意思が見えていた。ただそれは、久米の若い女性への配慮だし、村人からあらぬ疑いをかけられないよう慎重になっているのだと思っていた。

 確かに久米はその後、がっくりしたような時期もあったが、それも一時のことで、現に、以前にも増して村に通ってきている。とても大きな恐怖を抱いたとは考えにくい。


 ふと生駒は重要なことを思い出した。

 今日は地鎮祭の日からまさしくちょうど一年。

 佳代子が死んだ朝からきっちり一年後の朝に、健治が死んだということになる。もしかすると、まったく同時刻なのかもしれない。

 祟りじゃ、と奈津がさっきもつぶやいた。

 連続して起きた佳代子の死と健治の死は、同じ根元を持つと示唆しているのかもしれない。すなわち健治の死も、起きるべくして起きたものだというのだ。

 ということは、昨晩の時点で、奈津は一年後の今朝、再びその祟りが襲うということを予見していたということにならないか……。


 電柱に蜘蛛の巣が掛かっていた。

「佳代子さんが死んで、ちょうど丸一年ですからね」

 生駒の言葉は、寺井の質問への答えにはなっていなかったかもしれない。

 しかし寺井も、そのままの姿勢で蜘蛛の牙城を見上げながら、

「ふむ、ちょうど一年」といった。


 屋敷に着いた。

 門に表札がかかっている。久米と書かれた表札と並んで采の表札もある。

 久米が千寿を気遣って、そのままにしているのだ。呪われた采家の歴史か……、生駒は首を振った。


 寺井は奈津の言葉を伝え聞いているのだろうか。

 しかし、奈津の言葉を伝えるのは自分の役目ではない。

 村人の奈津への視線を考えると、あの行いを告げ口するのは気が進まない。それに、祟りや呪いなどという言葉は、警察にとってなんの益もない情報だろう。


 事情聴取はこれで終わりのようだった。できればまだ村から出ないで欲しい、と要請して寺井は門をくぐっていこうとする。

 生駒は気になっていたことを頼んでみることにした。

「健治さんが持っていた佳代子さんの写真、見せてもらえませんか」

 単に、彼女の顔をもう一度脳裏に蘇らせておきたかったのだ。


 それは屋敷の庭で撮影されたものだった。

 コートを着込んだ佳代子が平石にもたれて笑っている。他に誰も写っていない。

 生駒は写真を見るなり思い出した。


「あ、この写真、見たことがある」

「ほう」と、寺井が目を光らせた。


「確か、お屋敷のリビングに飾ってあったものです」

 片付けをしているときに見かけたものだった。木製のごてごてした額に入れられて、カップボードの上に置いてあったという記憶がある。健治が見つけて、とっておいたのかもしれない。


 生駒は写真を刑事に返しながら聞いてみた。

「警察はどう考えているんですか?」

「まだなにも」

「まさか、二人揃って自殺したんだと?」

「ではないと?」

 寺井が振り返り、ちらりと優を見やって、思いがけないことをいった。

「生駒さん、あなた、宅見佳代子さんに?」

「は?」

「いえね。そう言った人がいるもんですから」

「ちょ、ちょっと待ってください」

「ええ、違うんでしょう。こんなに素敵なお嬢さんを連れておられるんだから」

「……」

「でも、采健治さんは佳代子さんを愛していた」

「どういう意味です?」

「警察はすべての可能性を追求するということです」


 生駒は戦慄を覚えた。

 疑われている! 寺井がじっと生駒の目を覗き込んでいた。

 しかしそれ以上はなにも言わず、くるりと背を向けると母屋に向かって歩き出した。


 生駒は警察官が母屋に入っていくまで、その場に立ち尽くしていた。

 自分でも理解できない感情がこみ上げていた。

 悲しみではない。ふたりの若い命が無残にも散ったことにやりきれない思いがしたのかもしれないし、自分も疑われていることが腹立たしかったのかもしれない。


 優が袖を引いた。

「ん? いや、あれは言いがかり……」

 優の視線を追って、生駒はぎょっとした。

 門の陰に道長が立っていた。

 マサキの枝を手で押さえながら出てくると、

「あなた、事件をややこしくしようとしてない?」

 厳しい顔でそう言うと、威圧するように立ちはだかった。

「立ち聞きしてたんですか」

「夕刊を取りに来ただけ。そんなことより、あなた、どういうつもり?」

「なにが?」

 生駒の胸に浮かんだ怒りが一気に膨張していく。

「佳代子さんのことと今回のことを結びつけようとしていたわね」

「違う?」

 思わず語気が強くなる。

「おもしろがってあれこれ想像して。それに」

「おもしろがる? 言いがかりを聞く気はないな」

「そう?」

「じゃ、あんたは、どう思う?」

「私が言いたいのは、あなたが首を突っ込むことじゃないということ。警察に余計なことを喋って、変な方向に捜査を捻じ曲げないで、ということ」


 生駒はなんとか理性的な自分を保とうとした。道長はといえば、落ち着き払った目で生駒を見上げている。

「盗み聞きするような人に言われたくないな」

「あらまあ」

 道長はくるりと背を向けると、母屋に向かって足早に戻っていった。

 玄関の前から、刑事が今の様子を見ていた。


「ふう! さ、どうするか」

 生駒は心を静めようと、植え込まれたサツキの葉に触れた。咲き遅れた赤い花がまだ残っていた。

「教授、なんだかいらついてるみたいやね」

「ふん。あのおばはん、なにが言いたいのか知らんが、偉そうに」

「なにかあったんかな? 久米さんと」

「さあな」

「どうやったんやろ。久米さんの事情聴取。ね、聞きにいこ」


 しかし久米は自分の寝室である鶴の間へ直行していた。部屋の中央に置かれたベッドが盛り上がっていた。

 玄関の上がり框に座った生駒と優は、急に手持ち無沙汰になった。

「これ、食べてもいいかなっ」と、優が勝手に食器棚から取り出したチョコレート。甘さが口の中に広がり、先ほどまでの腹立たしさが収まってきた。


 生駒はここに住んでいた千寿のものが残されていたときのことを話した。橘が木元をからかったときのことも。

「へーえ。聞きしにまさる、すさまじいボランティアやったんやね」

「毎週来たわけじゃない。さすがにそんな暇はないやろ」

 靴脱ぎのスノコの上の壁に、絵が掛けられていた。

 暗い背景に真っ赤な楕円形の物体がぽかりと漂っている。久米は試しにやってみた構図だと話していた。

 その脇にロープがぶら下がっていた。


「あれ、梯子はどこにやったんかな?」

 生駒は意識して雑談っぽくいった。幸い、優は佳代子に対する生駒の思いを聞いてはこない。

「梯子?」

「以前、ここに梯子がかかってたんや」

「ふうん。このロープは?」

「なかなか鋭い観察やな。あれを引っ張ると天井が開く。広い屋根裏部屋があるんや」

「へえ! 面白そう! やってみてもいい?」

「ああ。本当は禁止やけど」


 優が柱の釘に巻きつけてあるロープを解き、ゆっくりと引き下ろし始めた。

「へえ、意外と軽いんや」


 玄関の天井板全体が音もなく動き始めた。入口のほうを軸にして、座敷側の端が持ち上がっていく。天井裏に仕込まれた大小の滑車が組み合わされて、小さな力で大きな天井板をまるで風呂の蓋でも取るように軽々と持ち上げることができるのだ。

「うわあ。すごぉ!」

 天井板が完全に開ききり、母屋の棟木があらわになった。

「ロープを離すなよ。そっと戻せよ」

「へええぇ。上はどうなってるん?」

「物置」

「なにが置いてあるん? なあ、な、どっかで梯子、探そう」

「それはやめとけ」

「なんやぁ」

「フフ」

「なにがおかしいのん」


 同じような会話を以前ここでしたことを思い出していた。

 その出来事があってからしばらくの間は、この玄関を通るたびに思い起こしていた、半ば習慣となった少々甘い記憶だった。


 屋敷を片付けていた頃のこと。

 秋、山の紅葉が日一日と進み、急速に冷え込んだある日、生駒が佳代子を若い女性として強く意識した出来事だった。


 生駒は庭の清掃作業に使った鋏や鍬や箒を洗っていた。

 庭の井戸から水を汲み出しているポンプを新品に交換してからというもの、蛇口は冷たい水を大量に吐き出すようになり、外回りの作業はずいぶんやりやすくなっていた。


「うわあ! すごい、すごい!」

 玄関から綾の弾んだ声が聞こえてきた。その楽しそうな様子に誘われて見にいくと、佳代子と綾が天井を見上げてはしゃいでいた。

「うお! 屋根裏部屋だ! 格好いい!」

「そうね!」

「ねえねえ、なにがあるの?」

「行ってみる?」

「うん。行く!」

「よし! さ、登ってみて」

 佳代子が綾を押し上げた。綾は躊躇することなく、梯子をするすると登っていく。

「生駒さんもご覧になります?」

と、佳代子は微笑んで、ロープを柱の釘にしっかりと括りつけた。

「佳代子おねえさん。早く!」

 上から弾んだ声が降ってきた。佳代子は、

「ほら、このロープを引くと天井が開くんです」

と、括りつけたロープを指ではじいてみせた。

「おもしろいね!」

 天井板が跳ね上げられているせいで、ロープはぴんぴんに張っていた。

「じゃ、お先に」

と、佳代子の薄いピンク色のショートパンツが生駒の目の前を登っていった。

 白いくるぶしがリズミカルに動いて、長い髪が左右に大きく揺れた。生駒も続いた。


「へえ!」

 梯子から屋根裏部屋に顔を出したとたん、驚きの声が漏れた。

 明り取りの窓から陽光が射し込み、思いのほか明るい。びっしりと降り積もった埃の上に、綾と佳代子の足跡がついている。立って歩ける十分な高さがあった。ここも例に漏れず雑多なものが押し込まれていたが、部屋の中央にいやでも目を引くものがあった。

 整然と並べられた三本の長持。中央のものだけが鳳凰の模様が彫り込まれた朱塗りのもので、他は無地のヒノキ。いずれも年代ものだった。


「中には何が」

「さあ。開けてみたことがありませんから」

 綾が叫んだ。

「きっとミイラよ!」

「ウヒョー!」

 佳代子もまさかぁ、と輝くような笑い顔を返す。

「おもしろいものがたくさんありそうですね」

「この部屋も整理なさるんでしょうか?」

 佳代子は少し心配そうだ。

「さあ。もしかすると久米さんは、ここにこんな部屋があることを知らないんじゃないかな。蔵は手をつけないでおくようにと言われているから、たぶんここもそうなるんでしょう」

 佳代子が、それはよかった、と微笑んだ。


「ねえねえ、開けてみよう」

 綾がせかした。

「よし!」

 三人がかりで鳳凰の長持の蓋を持ち上げた。ブリキの板で内貼りがしてあった。

「さあて、なにかなー?」

と、蓋を持ったまま覗き込んだ。

「あっ、なんだ! 空っぽ!」

 結局、三本の長持のうち、手前の一本には何に使うのかわからない木製道具。もう一本には書類がびっしり詰まった木箱がたくさん入っていただけで、興味をそそられるものはなかった。


 久米は屋根裏部屋の存在を知らなかった。そしてやはり、そこに上がることをできれば遠慮して欲しいということになった。

 それ以降、生駒の知る限りでは、ロープを操作して天井の板を跳ね上げてみることはあっても、梯子に足を掛けるようなまねをするものはいなかった。

 ただ、この家の住人であった佳代子だけは別格で、ときには綾とふたりきりで屋根裏部屋で話している声が聞こえてきたりした。


「ふうん。そうなんや。残念やなぁ。私も上がってみたかったなぁ」

「そんなに残念がるなよ」

「だってさ、せっかくこんなに古いお屋敷に来たんやから、隅から隅まで探検したいやん」

「じゃ、案内してやろうか」

「でも、蔵と屋根裏部屋は入れないんやろ」

「しつこいな。僕の家とちがうんやから」


 生駒は母屋の各部屋に優を案内していった。

 最後は角座敷の裏を回りこんで裏庭に出た。そのまま奥に進むと、昨夜の会場、岩穴がある。

「その先には?」

「畑。というより、もう湿原になってしまってる」

「行ってみよ。ミズバショウとか咲いてるかも」

「そんなしゃれたもの、咲いてないけど」


 岩穴の中に寺井と道長が座っているのが見えた。無視して放棄された畑に向かう。ブドウ園の脇を通り、竹林を抜けた。

「ほら、なにもないやろ」

「ほんとやねえ。なんとなく寂しいところ、あ、これなに?」

「五右衛門風呂」

「あ、板を踏んで入るやつ? へえー、初めて見た」


 湿原の脇に錆びついた鉄の浴槽が放置されていた。

 畑がまだあったときには、水か肥を貯めておくために再利用されていたのだろう。


 優が鉄風呂を覗き込んだが、

「ぎゃ! これ! ウゲェ、気持ちわるー」

と、飛び下がった。

 中には、干からびて骨と皮だけになった獣の死体があった。


「落ち込んで、出られなくなったんかな」

「ん? こいつ、頭がないぞ」

 黒い毛をした獣だった。

 猫ほどの大きさだ。尻尾が長い。


「まさか、これ」

「あの猫か?」

 首を切り落とされた猫の死体……。


「変なもの見つけてしまった」

 母屋の庭まで足早に戻った。

「ノブゥ、祟りがあるかもぉー」

「そういう変なことを気にするから、祟られるんやぞ」

「ヒャー。こっちに振ってこないでよ。私はあの猫、見たことないんやから。ノブなんか、頭とか撫でたこと、あるんやろー」

「こら、いやなこというな」

「私は名前も知らないし」

「僕も知らんよ。真っ昼間でよかったな。これが真夜中やったら、縮みあがってしまうところや」

「真夜中でなくても怖いよぉ」

「ふうー、やれやれ。それにしても、あんなところに捨ててあったとはな」


 離れでは警察官が歩き回っていた。

 健治が寝ていた部屋にも何人かいて、かがみこんでなにかを探している。生駒と優は平石にもたれかかって彼らの動きを目で追いながら、猫の話をしていた。


 平石は冷たくて気持ちがいい。手の平に石のざらついた凹凸があたって痛い。

「誰が捨てたんかな」

「ノブは佳代子さんと思ってないんや」

「当たり前やろ」


「ねえねえ、この石造は?」

「ん?」

「あ、権現さんの石像?」

「そうかもしれないな」

「座るのにちょうどいいね」

「やめとけ。罰が当たるぞ」


 道長と寺井はまだ岩穴部屋から戻ってこない。

「事情聴取、長いな」

 今日はこんなふうにしてダラダラと過ごすことになるのだろう。

 寝てしまった久米に黙って帰ってしまうのも気が引けるし、警察から食らった足止めはいつ解除されるのだろう。


「やれやれ」

「さっきから、やれやればっかり」

「退屈。そういっちゃ、死んだ人には悪いけど」

「冷たい」

「というより、実感がない」


 手の平についた砂粒を払った。

 砂粒が押し付けられていたところに小さな窪みができていた。手の平を擦り合わせて痛みを拡散する。

「佳代子さんが西脇さんの娘さんってことは知ってた?」

「いいや」

「誰も知らなかったみたいやね」

「ああ」

「佳代子さんが住み込みのお手伝いさんになったことは、そのことと関係あるんやろうね」

「ん?」

「だってさ、ちょっと不自然やん。若くて美人やったんやろ」


 優の言うとおりかもしれない。

 あの人にとって、ここで千寿の世話をすることになんらかの意図があったのだろうか。しかしその意図は、たとえば千寿の遺産を狙ってというような黒々とした目的に向かったものではなかったはずだ。佳代子の清々しい印象は、そんな想像とはかけ離れていた。


 生駒の心を読んだように、優がつぶやいた。

「見かけによらず、ということも」

 生駒は、彼女に限って、とは反論しなかった。

 佳代子を知ってはいたが、親しくしていたのかというとそうでもない。生駒は彼女をひとりの女性として好感を持って見てはいたが、ただそれだけのことだった。彼女がどんな考えを持っている人物かと問われれば困ってしまう。その程度の付き合いだった。


「ねえねえ、西脇さんのことはどう思う? あの態度は?」

「それが変なところやな。いくら妻の連れ子で嫌っていたとしても」

「そう。変なのは佳代子さんというより、むしろあの男」

「なにかを企んでいた、とか?」

「なんとなく」

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