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第 12 章 「狂人と佳代子」

 外で待てといわれても、集会所の玄関のベンチには難しい顔の警察官が立っていて、居心地のいいところではない。

 生駒は集会所を出た。刑事の目があからさまに背中を追ってくるのを感じる。まだ数人の村人が集会所の前にたむろしていた。仙吉もまだ井戸の脇で佐古と話し込んでいる。


 生駒は肩をすくめてみせた。仙吉がこわばった笑みを寄こし、集会所に目をやったが、窓にはカーテンが引かれていて中の様子は見えない。

「西脇さんはまだ?」

「奥さんに聞いたら、一旦は家に戻って、恭介の立ち回りそうなところを捜しに出たそうですが」

「なんとなく心配ですね」

と、とりあえずは言ったものの、恭介が気になっていたわけではない。健治の死の原因がはっきりしない今、漠然とした不安が村全体を覆っているように感じて、それを口にしたまでのことだ。


「いったい、ふたりともどうしたっていうんや」

 仙吉がいらついた声を出した。心配しているのだろう。

 ふと仙吉の視線が生駒の背後に向いた。

 振り向くと、奈津が歩いてくる。近づくにつれ、老婆の目が仙吉と生駒と優を順に見ていった。

「奈津さんの事情聴取も終わったんですか?」

 小声で聞いた。

「はぁ、一応は。でももう歳ですんで、簡単に済ませたようです」


 奈津が目の前まで来た。明るい日差しの中で見ると、暗い夜の明かりの中で見るのとはまた違う凄みがある。

 赤銅色をした顔には無数の深い皺が刻み込まれている。昨夜の振り乱した髪とは違い、今日は白銀の髪を茶色の紐で後ろにぴったりと束ねている。着物は昨日と同じ濃い緑色。神社で見かけたときと同じもの。幅広のえんじの帯を縛り上げ、背筋を伸ばしている。

 厳しい表情。

 しかしこれが普段の奈津の表情なのか、生駒にはわからない。細く開けたまぶたの中の灰色の小さな瞳が、ぴたりと仙吉に据えられている。

 そこには九十を超えた人とは思えない強い意思の力が垣間見えているような気がした。


 横真一文字に引き結んだ小豆色の薄い唇が動いた。

「おめえ、今朝、どこへ行っておった」

「山だよ。ばあちゃん。この人たちと一緒に」

 仙吉がやさしく諭すようにいった。奈津の目に入らないところで、佐古が小さくため息をついた。やれやれというように。


 奈津の瞳が動き、生駒を捉えた。生駒は硬くなって言葉を待った。

 しかし奈津はくるりと背を向け、もと来た道を戻り始めた。生駒の耳に、祟りじゃというかすかな声が忍び込んできた。今、奈津がそう言ったのか、昨晩の言葉が耳朶によみがえってきたのか、わからなかった。


 小さな後姿が民家の裏に消えると、佐古が近づいてきた。

「あの婆さんは、この仙吉つぁんが面倒見てやらにゃあ、とうの昔にあの世に逝ってるだろうに。なんの感謝の気持ちも持ち合わせておらん」

「いやぁ、どうせうちのやつが作るもんをたまに持っていくだけのことで」

「だいぶもうろくしとるな。千寿婆さんと一緒に老人ホームに行きゃあよかったのに。それくらいの金はあるだろうに。いや、すまん。差し出がましいことを言ってしもうた」

「いえ。ご心配をおかけしとります」


 生駒は村の中での奈津の立場がわかったように感じた。

 村一番の長老として、また村の名家として代々名をはせてきた采一族として敬っているわけではないようだ。粗末にしているわけではないだろうが、少し気のふれかかった老婆として、距離を置いて接しているのだろう。しかも、他人である村人だけではなく、采家の人たちも。唯ひとり、仙吉を除いて。


 入れ替わるように、ひとりの女性が姿を現した。ふわふわしたものの上を歩くような足取りで近づいてくる。

 佐古は、ちょっと家に帰ってくる、と逃げるように立ち去った。

「あの人を知ってます?」と、仙吉が聞いてきた。

「お会いしたことはあります。采美千代さんですね」

「あ、そうでしたな。婆さんが残してくれたガラクタをもらいにいったとき」

「ええ。それ以前にも何度か」

「そしたら、あの人のおつむが、そのう、ちょっとだめになっているのはご存知ですね」


 そのときの出来事はよく覚えている。まだひと月ほど前のことだ。


 納屋の隅から四つの古い木箱を見つけたのは生駒だった。

 みかん箱ほどの大きさで、蓋は丁寧に真鍮の釘で打ちつけられていた。蓋の中央には、ナツ、ハナ、フサ、ケンゴと墨書されてあった。千寿の妹や弟の名である。箱の中身はわからなかったが、名が記されているものをそのまま捨てるわけにはいかない。それぞれ名前の本人に渡すことになった。


 采家の兄弟姉妹は、上から千寿九十四歳、奈津九十二歳と続く。三番目を大葉ハナといい、その息子が仙吉だ。次が西脇房で利郎の母。そして最後の五番目が健吾。ひとり息子を武雄といい、その嫁が美千代。この間の子が宮司の健治ということになる。ハナ、フサ、健吾は故人である。


 四つの箱を玄関に並べておいた。久米が丁寧に埃を払ってある。

 朝一番に奈津とハナの箱を取りに来たのが仙吉。西脇がフサの箱を持って帰った。

 生駒はそういった人の出入りに注意を払っていたわけではなかったが、ひとりだけ、強烈な印象を残していった人物がいた。夕方遅くになってから健吾の箱を取りに来た美千代だ。


「お嬢ちゃん、山の祠に行ってはだめよ。化け物が住みついているからね」

 美千代は木箱を抱えて庭に出て、綾を見つけるなりそう声をかけたのだった。その場に居合わせた生駒は、美千代の放つ雰囲気に違和感を持った。

 美千代の顔が引きつったかと思うと、

「絶対に行っちゃだめよ!」

と、金切り声をあげたのだ。


 異様につり上った目には涙が浮かんでいた。

 生駒は美千代の思いもかけない剣幕に、冷たいものが背筋を走ったように感じた。しかし綾は平気な顔で、わかっているわといって、美千代を安心させるように微笑んでみせたのだった。


「空っぽの箱をありがたがって崇めたりするから、中に化け物が住みついてしまうのよ」

 そう言い残して美千代は屋敷から出ていった。この間、すぐ近くにいた生駒には一瞥もくれなかった。


 以前会ったときの美千代とはまったく変わってしまっていた。

 初めて会ったころの美千代は溌剌とした女性で、笑顔がすがすがしい人だった。どことなく都会的な雰囲気のする人だが、田舎の暮らしにも違和感なく溶け込んでいるようで、もんぺ姿もさまになっていた。

 生駒ともごく自然に接し、つい最近まではこの庭で餅つきなどもしていたんですよなどと、世間話もしたものだった。


 まるで別人だった。顔にも以前の生気はまるでなく、うつろな目をさまよわせていた。

 精神を病んでいる。すぐにそれがわかった。

 生駒はショックを受けたが、この出来事以来、美千代の姿を見たことはなかったし、彼女の心の変化について誰かと話をしたこともなかった。


 仙吉があいまいに頷く。

「生駒先生もご存知のように、あの人も以前はああではなかったんです。一族の中では一番の嫁だと言われてたんですけどなぁ」

 仙吉はそういってぼんやりと歩いてくる美千代を見つめる。

「わしは、綾ちゃんにああいうものを持たせるのはいいことやとは思いませんなぁ」

「ああいうもの?」

「ほら、あの頭巾。婆さんも懲りない人で」

「はあ?」

「美千代も、今の綾ちゃんみたいに聞き耳頭巾を借りてよく使うていたんです。婆さんは自分の眼鏡にかなった人にあれを使わせるんですな。でも美千代はああなってしもうた。わしは綾ちゃんが心配で」

「……」

「あの頭巾を使ったからああなった、というんではないのかもしれませんけど。ただ、どうも薄気味悪いもんやと思いませんか」


 美千代がすぐ近くまで来ていた。生駒だけでなく仙吉とも目を合わそうとしない。焦点がどこに合っているのかわからない瞳で、じっと前を見据えながら通り過ぎていく。健治、と唇が動いているように見えた。


 仙吉がため息をつく。美千代はまっすぐ集会所に入っていく。

「先生、聞こえましたでしょう」

 生駒は頷いた。

「息子が死んで、彼女もさぞ辛いでしょうね」

「そうでしょうなぁ。でも、あの人にとって、死んだんは、そのう、恋人なんです」

「え?」

「健治のことを、自分の昔の恋人やと思ってるようなんです」

 あまりのことに生駒は声が出なかった。母親が自分の息子を恋人だと思い込むなど、そんな悲しい狂気があるものだろうか。


「理由はわからないんです。絶対に病院には行かんと言うんです。健治も強いて連れていこうとはしてないみたいでしたし」

 仙吉が悲しそうにゆるゆると首を振る。

「夫の武雄は癌で、もうずっとあんな状態でしょう。ここ数年、美千代は健治一筋で来たわけです。ところが健治が佳代子さんに惚れた。愛する息子を取られたショックがあったのかもしれませんなあ。少なくともきっかけにはなったんやろうと……」

「いつからなんです?」

「数ヶ月ほど前ですかなあ。ある日突然ということではなかったけど。いつの間にかという感じで……」


 幸い、生駒たちの声が届くところに村人の姿はない。しかし生駒と仙吉は押し殺した声で話した。

「佳代子さんが死んだことと、なにか関係があるんでしょうか? なにかその……、健治さん以上に佳代子さんが死んだことがショックだったとか」

「さあ。むつかしいもんですなあ。でも、佳代子さんが自殺する直前に、ふたりは恋人の関係を解消したみたいで……。いえね、美千代からそう聞いたことがあるんですよ。でも、そのことが美千代になにかこう……、いや、わしらにはわかりませんがねえ」

「はあ」

「それにしても驚きました。佳代子さんが利郎さんの嫁の連れ子やったってのは。健治もそれを知らなかったようやし、なんともはや……」


 生駒はしんみりした気持ちになった。

「思い通り一緒になった方が幸せやったかもしれないのに。どうせこんなことになるんやったら」

と、優がいう。

 仙吉も、そうですなあと、とつぶやいた。


 美千代が集会所から出てきて、またよろよろとした足取りでもと来た道を戻っていく。

「もうこれで三度目です。家とここをいくら往復してもねえ。いてもたってもおれないんでしょうが」


 生駒は仙吉と別れて、大きなネムノキの木陰に移動した。広場から少し離れた空地で、警察のものであろう車が数台停まっている。

 積み上げられた丸太に腰を下ろした。集会所の人の出入りや広場の様子がよく見える。警察官がこちらの様子を見るとはなしに見ていた。


 仙吉が広場からいなくなった。やがて他の村人達の姿も消えた。


「もしかすると今日は帰れないかもしれないな」

「私はいいよ」

 生駒は独り者だし、建築家といっても、たったひとりで設計事務所を開いているだけのことだ。仕事の段取りは比較的自由につけることができる。

「明日、例の滝でも見に行くか?」

「うん。行きたい。でも」

「その前に健治のことが解決してたらな」

「そう。でも、ノブが帰れないかもって思ったってことは、自殺でもなく事故でもないと思ってるわけやね」

「ま、そうかな」

 健治に自殺するような思い詰めた様子はなかった。それに偶然の事故なんかであろうはずがない。生駒は漠然とそう感じていた。


「ね、この村であったことを教えてよ。特に一年前のこと」

「地鎮祭のとき?」

「そう。佳代子さんっていう人が死んだんやろ」

「あのときなあ……」

 あまり話したいことではない。雑談のネタにするには重過ぎる。


「昨日の夜、健治さんはものすごい剣幕やった。それに、佳代子さんの写真を持ち歩いていたんやろ。美千代さんのこともある。だからさ」

「聞いてどうする?」

「わからない。聞いておかなければいけない。そんな気がするだけ」

「そうか……」

 生駒は気が進まなかったが、事情聴取の番が来るのを待つだけというのも退屈だろう。

「じゃ、かいつまんで」

「かいつままなくていい。詳しく」

 久米への事情聴取は続いている。いつの間にかネムノキの木陰が少し東に移動していた。

「ちょっと長い話になるぞ」


 佳代子の水死体が発見されたのは、朝の九時過ぎ。二十四時間から三十六時間前に死んだとされた。つまり地鎮祭の前夜から直前までの間ということになる。

 地鎮祭の前夜、佳代子に会った人はたくさんいる。当日の朝、見かけたものはいない。したがって、深夜から地鎮祭当日の早朝の間に死んだ、と推測されていた。誰かと揉みあった形跡は見られず、着衣にも不審な点はなし。

 佳代子は泳げなかった。自殺ではないかとされた。


 佳代子は自分の生い立ちを語らなかった。二十四歳、独身。

 生駒が久米から聞いていたのは、中学卒業後、大阪でウェートレスをしていたが、数年前にここへ来たということだけだった。


 生駒にとって、佳代子の存在は表面的には、いわば得意先のお手伝いさんというものだったが、この遠い村へ出向くひとつの原動力になっていたことも否定できない。彼女の顔を見ることは楽しみのひとつだったのだ。


 はじめて村を訪ねたときのことが印象に残っている。

 佳代子は久米に指示されて、村の入口で生駒の到着を待っていた。

 渓谷を渡る風が、橋の欄干にもたれて川面を見下ろしている佳代子の長い髪をなびかせていた。白いブラウスにブルージーンズが山の緑に映えていた。

 また別の日、雪が降った朝、訪れて来る久米や生駒のために、白い息を吐きながら石段に積もった雪を箒で掃いていた。


 この陽に焼けた老人ばかりが目立つ閑村風景の中で、佳代子はひときわ輝いていた。

 真っ白な美しい素足にサンダルを履き、わずかに茶色に染めた長い髪を風になびかせながら村の道を歩くとき、なんの変哲もないさびれた村が突然映画のロケ地になったかのように、ある種の違和感を漂わせた。

 村人たちはまぶしいものでも見るように、佳代子の立ち居振る舞いに好奇の視線を集めていたものだ。そして、そんな視線の中で悠々としているさまは、彼女の芯の強さを物語っていた。


 久米が屋敷を借りるようになる以前は、屋敷の主である千寿の世話をしていたという。

 こんな田舎で、足腰のおぼつかなくなった老婆の世話をするには、優しさとか思いやり以上に、強い意思の力が必要だろう。しかしそれを表には出さず、あくまで自然に、淡々と老婆との日々を繰り返していたという。


 生駒が知ってからの佳代子は、屋敷の守りをしながら町のスーパーマーケットでパートとして働き、買い物をして帰り、屋敷の掃除をし、久米の来訪を待つという繰り返し。


 なんとなくふんわりとした暮らし。


 村人たちがそうであったように、彼女の周りでも時間がゆっくりと流れているようだった。久米や生駒が屋敷を訪れたときでも、彼女のそんなペースは変わることはなかった。のんびりしながら、でもいつのまにか用事はきちんと終えているというようなペース。


 生駒はいつでも、佳代子の自然な笑顔や、声を出して笑うときの口元のかわいらしい変化を思い出すことができた。

 そんな佳代子と、盛砂から出てきた黒猫のむごたらしい頭部は、生駒にはどうしても結びつかないのだった。


 警察の見立てによれば、千寿の老人ホーム行きを自分のせいだと責めていたという。

 そして久米による屋敷の借り上げとアトリエ新築計画。佳代子にとっては自分のなすべきことがなくなってしまった上に、身の置きどころがなくなってしまうと感じていたというのだ。

 そこで久米に工事を断念させることを狙って、切り取った猫の首を地鎮祭の盛砂の中に隠しておくという仕掛けを施した上で、自らは死を選んだというのだ。

 そんな説明がどれほどの説得力を持つというのだろう。生駒にはとても承服できるものではなかった。

 佳代子が自殺したのだとすれば、もっと別の理由があるはずだった。


 彼女の拠りどころである千寿が老人ホームに入所することになった。人が住まなくなった家はたちまち朽ちてしまう。

 千寿は久米に屋敷を貸すことを認めたものの、信用していなかったのか、屋敷を守ってくれと佳代子に頼んだのかもしれない。佳代子はその頼みを断りきれなかったのかもしれない。


 佳代子は管理人として屋敷に住みながら、久米の登場を待った。

 やってきた久米は、そのまま佳代子の存在を受け入れ、頻繁に屋敷に泊まりに来るようになった。それどころか知人たちも押しかけてくる。行楽がてらのボランティアたちだ。彼らは千寿の残していったものを徹底的に片付け、久米が画家としての暮らしを営めるようにスペースを確保していった。

 そんな状況の中、佳代子が潮時を測りかねている間に、久米の留守宅の管理人の立場に移行してしまったのだ。

 佳代子は久米に雇われることになった。そして久米がアトリエを建てると言い出し、またたくまに地鎮祭の予定が決められたのだった。


 もともと久米が村に出入りすることも、久米の知人連中が村の中を闊歩することも快く思っていない村人は、アトリエの新築工事の着工にますます怒りをエスカレートさせた。

 そしてその怒りの矛先は佳代子にも向けられたのだろう。久米や生駒と同じように、佳代子も村人からよそ者という目で見られていたのは間違いないのだ。村人全員がそうではなかったとしても、幾人かの村人は彼女に冷たく接していたに違いない。


 もともと佳代子は久米と組んでいたのではないか、千寿を老人ホームへ追いやり、久米が我が物顔で村を歩き回れるように仕組んだのではないか、とまで言う村人もいたかもしれない。

 そうして心無い村人は猫の首を仕込み、いたたまれなくなった佳代子は死を選ぶ……。


 生駒はそう考えたりもした。警察は、著名な画家である久米や村人の気持ちをあえて逆なでするような発表をしなかったということなのだ。

 佳代子ひとりに原因を押し付けておけば、万事が丸く収まると。

 他殺という線も含めて一応の捜査はされたが、結局は自殺という安易な解決に向かったのだった。


 あんなおぞましいことを自分のしたことだと決めつけられて、佳代子は暗く冷たい土の中で色褪せてしまった唇をかみ締めているに違いない……。


 しばらくして、久米は工事の中止を正式に決めた。

 ただ、周囲の予想に反し、村に行くことをやめようとはしなかった。納屋を改造してアトリエにするという腹案があるという。

 今度は管理人は置かず、身の回りの手伝いは仙吉に頼むことにしたという。生粋の村人を引き入れることによって、村人との緩衝材にもなるだろうというのだった。

 仙吉に対して、久米は常に感謝の言葉を口にした。

 生駒には、その口ぶりが上の立場のものが下のものにかけるねぎらいの言葉のように感じられたが、仙吉に不満はないようで、あれこれと久米に使われているのだった。

 仙吉にも、屋敷を守れという千寿の意向が働いているのかもしれなかった。


「後追い自殺、かなっ?」

 優が眉を指先でちょこっといじりながらいった。

「……」

「可能性やん」

「まあ、絶対ないとはいえないな」

「同じ川で。入水自殺ってやつ」

 優はそんな軽薄な推理を口にしつつも、まったく同意できないという顔をしている。


「事故というのは?」

「……」

「そういや、健治さんの家はどこなん?」

「村の真ん中。さっき美千代さんが出てきたあたり」

「じゃ、どこで川に落ちたか」

「考えられるのは屋敷のすぐ近くだけかな」

 屋敷からしばらくは川沿いの道で、ガードレールもない。

「誤って転げ落ちたらイチコロかも」

「そんなに酔ってたかな」

「家に帰ったとしたら朝のことやろ」

「なんで?」

「なんとなく。布団が敷きっぱなしやったし」

「そかー。ということは事故の可能性はほとんどなしと。じゃ、殺された? 佳代子さんの方はどうなん?」

「どっちも信じられないというところやろうな」

「じゃ、祟り」

「あのなあ」

「さっきも、あのおばあさん」

「そうか。やっぱり」

 空耳ではなかった。優が生駒の顔を覗き込んだ。


「これも可能性としてはあるんとちがう? どう思う?」

「ないやろ」

 祟りというからには、霊的存在によるなんらかの意図があるということだ。


 この世には人の目には見えない世界が存在していることを、信じてはいないまでも、頭から否定することはできないと生駒は思っている。

 平行世界というようなものではない。人の目には見えない存在のことだ。神と呼ばれるもの、霊と呼ばれるもの、中には仏と呼ばれるものもある。

 それらと同列ではないのだろうが、八百万の神と呼ばれる一群もある。また、魑魅魍魎といった悪意のある霊、妖怪の群は無数にありそうだし、言霊というものさえあるかもしれない。


 精神世界の中を見通す力を持つ人には、いわゆる実態としての肉体のないそれらの存在を感じ取ることもできるのかもしれない。

 しかし凡人には、それらがなんらかの物的な仮の肉体あるいは拠りしろ、または偶像を得て、目に見える存在となる。この村にもそういったものがある。注連縄を巻かれた獅子岩と呼ばれる巨岩や祠や権現さんの石像など。他にもたくさんあるだろう。


 奈津は何々の祟りだとは言っていない。

 ただ、何らかの霊的存在が復讐しようとしている、あるいは懲らしめようという意図を持っている、ということを伝えようとしているのだろう。

「祟りかぁ……」

 優が、推理をしようとしているのか、単に噂話をしているだけなのか、判然としない調子で同じ言葉を繰り返した。

「祟りねぇ……」

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