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第 10 章 「アマガハラノ」

 林の先端部に来ていた。林の出口というべきだろうか。

 眼前には背の高さを超える一面のクマザサがびっしりと生い茂っていた。

「困ったな」

 前方はまったく視界がきかない。このまま進むにも、密生する笹を掻き分けていくとすれば、面倒な行軍になるだろう。丸石の小道はクマザサの群生地の入り口でぷっつりと消えていた。


「ここじゃないの!」

 突然、道長が叫んだ。声が上ずっていた。

「うむ、そうかもしれない」

 久米がうなり声をあげた。足の裏の感触はこの地が平坦地であることを知らしめていた。

「いや、そのようだな」

 久米が笹に歩み寄る。

「ここよ!」と、興奮した道長が笹の茎を掴んだ。

「そうだ! ここがアマガハラノだ!」

「栗の木があれば、それこそ決まりね」

 優も声を合わせた。

「しかしこれでは、栗の木があるかどうか、わからないな」

 橘のぶっきらぼうな言葉に、

「とりあえずクマザサの縁に沿って行ってみますか?」と、提案したのは仙吉だ。

「それじゃ栗の木は見つからないんじゃないか? アマガハラノの中央に栗の木はあるんだろ」

 反対したのは、西脇だ。

「じゃ、三手に分かれるというのは? 両側からクマザサに沿って行く二班と中央突破の班と」

と、木元が珍しく口を開いた。

「言うことがいつもまどろっこしいな。中央突破あるのみだろ!」

 言うやいなや、恭介がナタを振り上げ、目の前の笹を切り払った。数本の笹がバサリと倒れた。せっかくの提案を一蹴されて、木元はプイと顔をそらすとまた黙り込んでしまった。コオロギに文句を言われたカブトムシがすごすごと木の幹を黙って登っていくかのように、木元の巨体は議論の輪から離れていった。


「そうだな。三手に別れるのは危険かもしれない。道もない、しかも視界のきかない山の中を離れ離れで行動して、万一迷うことになってしまっちゃあ」

 西脇が息子の肩を持った。

「でも、やみくもに突破するといっても」

 道長が不安げだ。

 生駒もそう思った。なにしろ目標がないのだ。どこに向かって進めばいいのか、見当さえつかない。目の前のブッシュを突き進むにはなんらかの指針となるものが必要だ。

「突破するのがおもしろいかもしれん。話によれば、どうせそんなに広い原っぱじゃないだろうし」

と、西脇が再び息子の案を推す。

「皆で行動して迷ってしもうても、困ることになりはせんかなあ」

「きっちり笹を刈り取りながら進めば、それが目印になるだろ」

 軟弱な意見の仙吉を、恭介がうるさそうな目で見た。

 ここで久米がはっきりといった。

「みんなで強行突破する案には無理がある」


 結論めいた言葉に、恭介の顔は見る間に不機嫌になった。

 久米が西脇に向き直った。

「さっきの木元くんの案でいきましょう」

 有無を言わさない調子があった。

 道もない山の斜面を登り、安全柵もない崖を越えてきて、ようやく目の前にする平原。神の庭・アマガハラノと呼ばれた伝説の原っぱ。

 今日の目的地に足を踏み入れる直前になって、久米の気持ちは奮い立っているようだった。


「三つの班に分かれて行動するのも、マスゲームのようでおもしろいわね」

 道長がそういって木元の案に賛成する。もう反対意見は出なかった。


「わかりました。それでは、そういうことにいたしましょう」

 西脇の声は少し形式ばっていた。隊長の任を剥奪されたように感じたのかもしれない。

 班分けが行われた。

 すっかり新隊長気分になった久米に一任された参謀道長が、てきぱきと決めていく。

 生駒と優と仙吉は左回り班。橘親子と木元は右回り班。久米、道長、西脇、恭介が中央突破班。

「それでいこう!」

 久米が決定を下した。


 ところが、浮かぬ顔をして道長の班分け案を聞いていた西脇が辞退を申し出たのだ。万一降り口がわからなくなってはいけないから、自分はここに残ると。

 それは大丈夫だろう、と久米が中央突破班に加わるように誘ったが、西脇は万一のためですから、といって動かない。

「全員で中央突破する案でも、もともと私はここで番兵をするつもりだったんですから」

 さすがに久米がむっとした。

「じゃ、そうしてくれますか」

と、突き放すように背を向けた。

「うまく栗の木を見つけたら、大声で呼んでくださいよ」

と、西脇がその背中に声を掛けたが、もう久米は応えず、出発の号令をかけてしまった。

「では各隊、進め!」

 代わって道長が、任せておいて、と西脇をねぎらった。

「声をかけ合って。大声を出したら届く範囲だから」


 原っぱの周囲にはウバメガシが密生していて、草刈鎌を使ってもほとんど前進することはできなかった。

「几帳面に原っぱ沿いに進まなくてもいいやん。大回りして林の中を行こうよ」

 優がいうように、その方が格段に進みやすそうだ。隙間なく生えているクマザサやウバメガシを切り払いながら進むより、斜面の歩きやすそうなところを選んで進むほうが楽だ。

 振り返ると、すでに橘隊の姿はない。彼らも林の中を行ったのだろう。


 生駒隊は原っぱの登り斜面側にいる。クマザサの大群落から離れて斜面に取りつくと、予想通り視点が上がって木々の間から原っぱを見渡すことができた。

 笹原は入口から奥に細長い形をしていた。中ほどに三本の木が立っていた。

 笹の葉がなびいて、風の通っていった道筋を示している。風はまるで誘うようにその木々に向かって吹いていくようだった。

「久米さーん。どこですかーっ」

「ここだーっ」と、笹が不自然に揺れた。

「木が見えまーす」

「おおーっ、そうかー!」

「そのまままっすぐの方向ですー」

「りょうかーい!」


 斜面を横切りながら進むにつれて、笹原の形状がはっきりしてきた。

 緑に遮られて奥の端部は見えなかったが、人為的に造られたかのように整った半月形をしている。奥行約三百メートル、幅は百五十メートルといったところだろう。水田のようにまっ平らで、クマザサが一面を覆っていた。


「こんなところがあったとは。今まで村に住んできて、知りませんでした」

と、仙吉がさかんに感心している。

 生駒達が登ってきた道は、半月の一方の切っ先にあたる。外側の円弧の向こうは、滝のある谷に落ちていく下り斜面。

 綾たちは今どのあたりを進んでいるのだろう。いつでも原っぱを視界に捉えながら進めるこちら側と違って、見えない原っぱの下を迷わずに斜面を横切っていくのは骨が折れることだろう。


「ほら、あれ」

 優が空を指差した。

「鷹ですな」

「へえ! はじめて見た!」

 深い山の中にぽっかりと開いた広い空間。

 溢れる緑。透明感のある空気。

 生駒は強く息を吸い込んだ。

「気持ちいいわね!」

 優がウインドブレーカーを脱いだ。あらわになった肩や胸元がまぶしい。


「連中、苦心惨憺するかと思ったら、案外善戦してるみたいやな」

 久米隊の姿は見えないが、不自然にクマザサが揺れている。出発した地点から思いのほか進んでいる。木が立っているところまで、距離にして後五十メートルほどだ。


 生駒たちはすでに、半月の弦側の中央辺りに差し掛かっていた。

 原っぱの中に立っている木々はもうすぐそば。樹形を見た印象では、そのうちの一本はほぼ栗の木に間違いない。ひも状の白いものが木にたくさんついている。花が咲いているのだ。他に二本あり、コナラかクヌギの木のように見える。まだ幼い木のようだ。

「こりゃあ、間違いなく栗ですな」

 仙吉がうれしそうにいった。

「そうなん?」

「お嬢さん、この臭い。ほら、するでしょ」

 優が顔を心持ち上げて、空気に混じった臭いを嗅ごうとする。すっと空気が動き、一気に濃厚なその臭いがしてきた。

「あ、する。これ、栗の花の香り? なんか変な臭い」

「なんの臭いに似てる?」

 生駒の問いに仙吉は無関心を装っている。

「うーん。なんやろ」

「人の精液」

「げーっ。しょうもないこと言うな!」


 このまま半月のもう一方の端部まで行ってみる必要はなかった。クマザサを突っ切っていっても、久米隊よりも早く栗の木に行き着くかもしれない。

「橘さーんっ!」

 生駒は大声をあげた。

「こちらは、原っぱの中の木のー、すぐ横に来ていまーす。ここから原っぱの中に入りまーす」

 すぐに声が返ってきた。

「りょうかーい」

 木元の声だ。

「そちらもー、一旦戻ってぇー、久米さんたちの後を行った方がいいですよー」

「りょうかーい」

 今度は橘の声だ。次は中央突破隊に声をかける。

「ほーい」

「そのまま、まっすぐ進んでくださーい。後残り、三分の一くらいでーす。大体五十メートールッ」

「わかったーっ」

 生駒は腰につけていた草刈鎌をケースから引き抜いた。


「ほんとにジーパンを履いてきてよかったわ」

 優は、まるで試合開始のホイッスルを聞く直前のように、麦藁帽子の中の髪を直し、口を真一文字に引き結んでから、肩を上下に大きく動かしてにこりと笑った。

「よっしゃあ! 行くかあ!」


 生駒は斜面を駆け下り、クマザサ群落に突っ込んでいった。

 しかし相手は思いのほか手ごわかった。鎌を使うまでもなく、手で掻き分けながら進めるかもしれないと考えていたが、自然の強靭さを過小評価していた。クマザサの太くて硬い茎が行く手に密生していた。

 久米が買い揃えていたステンレス製の安価な草刈鎌は、手ごわいクマザサの茎に比べて非力な道具だった。一振りでざっくりと刈り取れるわけでもなく、何度もたたきつけるようにして、ようやく数本の笹を倒すことができるという程度の代物だった。

「こりゃあ、久米さんらの方が早く着くかもしれないな」


「代わりましょう」

 見かねた仙吉が生駒の前に出た。

 さすがプロの道具は違う。腕力も違う。コツもあるのかもしれない。

 生駒の数倍もの速さで笹を刈り取っていく。

 中央突破班には恭介がいる。彼もそれなりの道具を持っている。これは競争になりそうだ。

「仙吉さん、競争じゃないんやから、そんなにがんばらなくても」

と、優が仙吉を気遣った。

「いやぁ、勝ってみせますよ」

 仙吉はますます張り切ってしまった。


 それにしても視界がまったく利かない。

 すぐ近くに木が生えているはずだったが、一旦笹群落の中に入り込むと、その梢さえのぞむことはできなかった。


「磁石を持ってくれば良かったな」

「でも、まっすぐ来てるよ。ほら」

 優が後ろを指差した。確かに、今通ってきた跡がまっすぐ山の斜面から伸びている。

「なんや、まだこれだけか!」

「うん。あの木と後ろのあの高い木を結んだ線に沿って進めばいいねん」

「なーるほど。おまえ、意外と賢いな」


 仙吉と交替しながら、十五分ほども笹と格闘したころ、久米の大声が聞こえてきた。

「あったぞー! 栗の木だ!」

「もう少しで僕らもそっちに行きますーっ」

 生駒と仙吉が同時に声を返す。

「くそぉ。遅れをとったか」

 生駒隊の方でもようやく目指す木が笹の穂先越しに見えてきた。


「あと少し」

「まめができた」

「サバイバルには向かないね」

「ほっとけ」


 目の前の屏風のようなクマザサをなぎ倒したとたん、急に笹の背丈が低くなり、視界が開けた。前方に整った樹形の木が見えた。

 地面すれすれまでに垂れ下がった枝の隙間から久米達の姿が見える。


「やあ、お疲れさん! やはり栗の木だったよ!」

 高さ十メートル、葉張り十五メートル。形のいい大木だった。大きな細長い葉を茂らせ、たくさんの花をぶら下げていた。

 生駒は水中を歩くように両手を広げ、草を掻き分けながら木に到達した。木の根元には草は生えておらず、地面が見えていた。道長が地面に直接座って、足を投げ出していた。


「やあ、早かったんですね!」

 垂れ下がった枝先をくぐり抜けて木の下に入った。

「へえ!」

「すごいでしょ」

 道長が軍手をはめた手で地面を叩いた。

「石が敷いてあるのか」

 木の幹を中心にして、ちょうど葉張りの広さの地面に、人頭大の自然石が敷き詰められていた。

 自然に堆積したものではない。ほぼ同じ大きさの自然石が、ちゃんと平たい面を上にして隙間なく敷き詰められていた。


「雑草が生えないようにしてあったのね」

「なるほどね。それにこの方が落ちた栗を拾いやすいし」

 栗の木に触れてみた。幹周りは直径で五十センチほど。立派な木といっていい。

「聞き耳頭巾でこの木の話を聞いてみたいね」

 優がそういって幹を叩いた。

「あ、それ、いいわね」と、道長も顔を輝かせた。

「昔、霊験あらたかな山伏が佐吉に植えさせた木か、あるいはその子孫なのか、わかるわよ、きっと」

「ハッハ、そうでんなあ」

 仙吉も相槌をうった。

「石碑のようなものはありませんねぇ」

 生駒はあたりを見回した。


「あ、あれは?」

 栗の木から少し離れたところに、切り石で井桁に組まれた構築物があった。

「井戸みたいよ」

「へえ! こんな山の中に」

 木の板で蓋がしてある。しかし腐ってしまって、隙間から中が覗けた。階段状になっているようだが、暗くてよくはわからない。相当深く、湿った空気が淀んでいる。声が反響した。


「これが神の庭・アマガハラノの証拠。まさか私たちがここまで来れるとは思ってなかったけど」

 道長が微妙に笑って、また敷石を叩いた。並んで座り込んだ久米も頷いた。

「明らかに人の手で創られたものだ」

「でも、落ち葉とかが降り積もっていないのは不思議ですね」

「そうよね。ま、そもそも不思議なアマガハラノの、これまた奇怪な栗の木なんだから」

「そうそう! 理屈っぽいこといわないの」

と、花の匂いを嗅いでいた優が顔をしかめた。


 優と道長が梢を見上げている。

「ここは幻の原っぱなのよ。不思議な原っぱ……」

 急に風が強く吹いて、笹を揺らした。道長の説明に賛意を表したかのように、栗の木が葉擦れの音をたてた。


「でも、私達はこうして……」

 道長は思い詰めた顔をしていた。

「綾ちゃんが聞き耳頭巾を持ってきたから?」

 道長は自問している。


「どういうことなんです?」と、優が問いかけた。

「佐吉以外は誰も、アマガハラノに行き着くことはできても栗の木は絶対に見つけられない。笹原の中を迷った挙句にいつのまにか外で出てしまう。そういう言い伝え……」

「へえ! いわゆる、迷いの原ですか」


 道長はフッと表情を崩した。

「そうなの。でも、それじゃ後世の人が困るから、何か特別な道具か仕掛けがあったんでしょうね。もし、ここが本当に迷いの原なら、私達がこうして栗の木を見つけられたのは綾ちゃんの頭巾のおかげかなって」

「ほう」と、久米が溜息をついた。

「ふと、そう思ったのよ」

「へえぇ! ここ、そんな怖いところだったんですか!」

 怖がってはいるどころか、楽しくてしかたがないというように優が笑った。

「知りませなんだ」と、仙吉も感心する。

「これかな?」

 優が取り出したもの。

「ほら、ノブ、これ、吉野山で買ったんだ」

 携帯電話のストラップ。

「ん?」

「あ、忘れてるんだ! 不動明王のお守りやん!」

「おお!」

 久米が喜んでユウから受け取ったストラップを眺めた。


 道長も陽気な声を出した。

「佐吉の話、実は続きがあるの」

「へえ!」

「采家のお話に続いていくのよ。昨日、西脇さんがおっしゃったように、その栗の木のおかげで采家は栄えたという結論は同じなんだけど、その理由が二通りあってね」

「はい」

 道長が久米に眼を滑らせた。

 久米は笹原を見つめ、聞こえてはいるが聞いてはいないという風だ。もう知っている話なのかもしれない。


「ひとつは佐吉が采家の先祖だという説」

「ええ」

「もうひとつは、その栗の木の不思議を聞きつけた庄屋が佐吉の家からその権利を奪い、代々栄えたという説」

 ユウは元気よく頷いている。

「采家の呪われた歴史なんて話が出たけど、案外、そんなことかも」

「ありえますね!」

「今と違って、昔は身分の違いなんてもっとはっきりしていたし、強いものはますます強く、弱いものはいつまでも虐げられたままだったから」

「佐吉はきこりの息子、でしたよね?」

「そう」

「やっぱり、庄屋ってのは悪者なんだ!」

 道長が声をあげて笑った。

「三条さん、時代劇の見すぎ」

「へへ」

「滝の財宝なんていっても、実はお宝でもなんでもなく……」

 久米が急に立ち上がった。道長は、それを見て、

「あ、要らないこと喋ってしまったかな」

と、可愛く舌を出した。

「滝の財宝!」

 優は無頓着に目を輝かせせている。


 ふと、仙吉が声を上げた。

「恭介くんは?」

 そういえば、姿がない。

「また、どこかに行ってしまったんですか?」

「もっといいナタを親父に借りてくるって。引き返していったんだが……」

 久米が心配そうな顔になって、笹原の道を見透かした。


「ちょっと遅いわね」

 道長も気になってきたのか、アマガハラノ伝説の解説は打ち止めとなった。

「いつごろ別れたんです?」

「そうねえ。貴方の声が聞こえて、しばらくしてから。彼、やけに張り切って」

 腕時計を見た。

「あれから、かれこれ二十分か。別れてから十分くらい?」

「うーむ」と、久米が唸り始めた。

「僕の声が聞こえなかったのかな。そういや返事がなかったな」


 見たところ、久米隊が進んできた道も生駒たちのルートと同じように大胆に笹が刈り取られている。若い恭介なら、このにわか作りの小道を迷わず飛ぶように往復できるだろう。


「茎が刺さって、足の裏でも怪我をしたかな」

「あ、来ましたよ!」

 笹原の中に人影が見えた。

 しかし姿を現したのは橘だった。続いて綾、そして木元と続いていた。

「おーい!」

 橘が派手に手を振ってきた。

「よーおっ」

 久米がぎごちなく手を振り返した。三人はみるまに近づいてくる。


「しっかり道がついていたんで、楽に来れた」

と、橘が枝の暖簾をかき分けて栗の木の下に入ってきた。

「これか! 伝説の栗の木ってのは!」

 中腰になって木の幹に近づきながら、木元が大げさな声を出した。綾は木の周りをくるりと一回りして、幹に沿って視線をゆっくりと上げていった。


 橘たちがひとしきり観察するのを待って、久米が聞いた。

「恭介くんに会わなかった?」

 三人が顔を見合わせた。

「ん? そういや、西脇さんは?」

 久米が叫んだ声が聞こえておれば、橘たちより早く到着するはずだ。久米がますます心配顔になったが、橘はあっさりしたものだ。

「さっきのところにはいなかったな」

「いなかった?」

「来てない? てっきり俺たちより先に」

「うーむ……」

 久米の顔がゆがんだ。


「マムシにでもやられたんじゃないか」

 橘が冗談めかしていう。

「きっと、そのショックで気を失っているんだな。あるいはどこか、地面に亀裂でもあって、落ち込んだとか」

「橘さん!」

 道長が、このぶしつけな男をきっと睨んだ。

 親子ふたりが同時にそんな目にあうはずがない。生駒たちは木の下を出て笹原を見つめた。

 先ほどまでと同じように、風に吹かれて笹が揺れていた。そして、あたりはしんと静まり返っていた。


 突然、仙吉が大声をあげた。

「恭介!」

 耳を澄ました。返事はない。

「利郎さーん!」と、仙吉が再び叫ぶのと、

「西脇さーん!」

と、道長が叫ぶ声が同時に笹原を渡っていった。

 しかし、応えるものはない。

「おかしいな」

 不安が大きくなってくる。

「戻ってみましょう」


 最初の地点、アマガハラノの入口にも、西脇の姿や恭介の姿はなかった。


 また仙吉と道長がふたりの名を大声で呼ぶ。森もアマガハラノも静まり返ったまま……。

「帰ってしまったのか? それならいいんだが……」

 久米が眉間に皺を寄せて、もと来た山道を睨みつけた。

「私たちに黙って? そんなことはしないでしょう……」

「しかし、返事がないということはそういうことだろ。迷ってしまったとしても、声は聞こえるだろ」

「でも……」


 久米と道長が話している横で、仙吉が困り果てたように突っ立っていた。そして、「まさか」と、小さくつぶやいた。

「まさか、なんです?」

 久米に聞きとがめられて、戸惑った仙吉は、

「いえ、どっちかの具合が悪うなって、急いで村に帰ったのかもしれんと思うて」

と、うつむき加減にいった。

「声もかけずにか?」

 久米が怒り出していた。応えようがない道長と仙吉に代わって、橘がブスリと吐き捨てた。

「ふん。気に障ったんだろ。やつら、親子揃ってご推薦の中央突破案が不採用になって」

「ええっ? そんなことで?」

 ありえない、と道長が首を振った。


「手分けして探しましょう」

 ここで漫然と待っていても、らちがあかない。

「そうだな。しかしどこを……」

 久米は急に気弱な声になり、座り込んでしまった。


「とりあえず、もう一度、栗の木のところまで戻ってみましょう。途中でなにかわかるかもしれない」

 不吉な予感がし始めていた。

 こんな人の通わない、道さえもない山の中で忽然と人が消えてしまった。しかも親子ふたり。


 生駒の耳朶に、老婆の声がよみがえってきた。神の庭に足を踏み入れたことを不動明王がお怒りに……、まさか。思いつきを振り払うと、栗の木に向かって歩き始めた。


 道長が捜索班の行動をてきぱきと決めた。

「今、十時五十五分です。ふたりが見つかればそれでよし。もし見つからなくても、十一時十五分、今から二十分後には一旦ここへ戻るということにしましょう」

 生駒と仙吉と道長は栗の木へ戻り、優と綾は山の斜面から、橘は谷の方へ、木元はもと来た道を戻り、久米はアマガハラノの入口で待機、ということになった。


 笹の葉を揺らしていた風が止んでいた。

 空は快晴。太陽が天中あたりに差し掛かり、陽光が生駒たちの顔に容赦なく降り注いでいた。


 栗の木まで往復してもなんら手がかりはなかった。優や橘や木元も首を振るだけ。

「しようがない人たちだな。戻りますか……」

 久米が疲れきった声を出した。

 伝説の神の庭・アマガハラノを見つけたという感激は薄れてしまっていた。


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