譫妄/うぶごえ
目が開いた。少女は現実へ放り出され、現実が少女に飛び込んできた。
頭がぐるぐるする。世界の回転に、まだ身体が着いていけていない。目が回って仕方がなくて、胸の奥がむかむかした。
仕方がない。少女は息を整えながら、言われたことを思い出す。夢の中と現実では時間の流れがまったく異なる。だから電気の回路をスイッチで切り替えるみたく、精神を上手くシフトしなければならないのだけれど、まだそれに慣れることができていない。
少女はふらりと身を起こす。その思考回路が見違えるほど進歩していることに、彼女自身まったく気がついていない。
見たことのないはずのものを見て、聞いたことのないはずのものを聞いた。五感のすべてに、膨大な何かを流し込まれた。経験したことのない様々なものを、薄ぼんやりと思い出す。痛む目の端を擦ると、目脂が剥がれてぼろぼろと零れ落ちた。涙だ。少女はそう思った。眠っている間に、頬の上で涙が固まったのだ。きっとそれくらい長い間、自分は眠っていたのだろう。
辺りには光が少なかった。見知らぬ狭い場所であることはすぐ分かった。蝙蝠になって天井にぶら下がった夢を思い出す。そう、その洞窟によく似ている場所だった。あのときは目ではなくて耳でものを見ていた。声も光も同じだった。けれど今は違う。現実のこの身体に戻された少女は違う。光は見るもの、音は聞くもの。そのように感覚は分かたれている。
灯りのある方を見ると格子がはめ込まれていて、通り抜けることができなさそうだった。牢だ。そうすぐに思い当たった。これは自分を閉じこめておくための檻なのだ。でも、どうして。頭はまだぐるぐると混乱している。
腐った水の臭いと、何かが滴る音。のっぺりと平たく深い闇。
身体ががたがたと震える。真っ黒い寒さに、恐怖が再燃した。
誰かが自分を拘禁している。けれど誰が、何のために。
その恐怖の炎は、すぐに辺りの生命たちへ延焼する。少女はそれを察知した。岩肌に、土中に、空気中に、無数に存在する小さな小さな精神が、一瞬で恐怖の恐慌に駆られていく。大半は一目散に逃げ出した。残りはその場で息絶えてしまった。憐れに思うけれど、どうにもならない。恐ろしくて仕方がないということを、自分自身で制御なんてできやしない。
やがて格子のずっと向こうから、かなり強い恐怖の持ち主がみっつ、足早に近づいてきた。眠りに落ちる前に少女を追ってきていた連中の気配に似ている。それは先ほどとは違って、檻の側まで容易く寄ってくる。
慌てて暗がりの中へと後ずさった。隠れられていることを祈ったけれど、入ってきた連中はしっかりとこちらを見つめている。
少女は怯えながら、無意識のうちに、あの温もりをくれたひとの来訪を期待した。けれどここにいる者たちの誰からも、あの暖かい光を感じることができない。
「……信じられない。これだけの結界を施しても、まだ妖力の漏洩を防げないなんて」
「か、かか、神の一種では、やはり。発する力が、妖力と表するには、あ、あまりにも原始的で」
「……………………室長、ぼけっとしてないで、指示」
「へ、あ、そうね。じゃあ私はあれとコンタクトしてみる。駄目元だけど。秋葉と白峰は結界符データのチェックをお願い」
「……………………大丈夫? 言葉に呪を乗せられたりするかも」
「あのね、私を誰だと思ってるのよ」
カンテラを持った三人の女は、揃って鈍い朱色の儀装束を着込み、白い綱を何本か、均等に身体へ巻き付けている。髪色も皆、濃淡はあれど金色だ。その中でも最も背の高く、最も髪の長い女が、ゆっくりと檻へ歩み寄り、しゃがんだ。
「よく眠れた? ご気分はいかがかしら」
碧眼が真っ直ぐに少女を睨んだ。少女も真っ直ぐ、その瞳を見返した。瞳の奥、恐怖の炎の中、彼女の心を支える強固な支柱。少女にはそれが見えた。何度も何度も修繕を重ねた、もはや原型のまったく分からない柱だ。蒼い炎に煽られながら、それは今現在も、削られては治されを繰り返している。
その光景をずっと眺め続けて、どれくらいの時間が経っただろう。ついに向こうが根負けした。忌々しげな舌打ちとともに立ち上がり、振り返ってふたりへ声を荒らげる。
「ねぇ、まだ?」
「は、は、は、はい」
暗がりの机では、瓶底眼鏡をかけたボサボサな女が、符を睨みつけながら猛然とペンを動かしている。
「いい、い、いや、す、素晴らしい。こんな強力な放射は文献でも見たことがない。しかし、流石は鞍馬様の符術。そそそ、想定外の現象を相手にしても、こ、これほどの精度で」
「当然でしょ。あぁもう、お世辞はいいから早く手を動かす!」
「……………………室長。服」
「え? あ、そうだったわ」
女は思い出したように、何かを取り出して檻の中へ腕を差し入れた。その手からは簡素な白襦袢が提げられている。
「えぇと、分かるかしら? いつまでも裸じゃあ寒いでしょう。とりあえずこれを着るの。ね?」
受け取れ、ということらしい。害意はなさそうだ、と少女は判断し、おそるおそる近づく。麻かなにかで編まれたそれを受け取り、夢での見よう見まねで袖を通した。
けれど、どうにもむずむずする。肌があちこちで布と擦れてちくちくと刺し、身体を捩る度に痒くて痛くて仕方がない。ついには我慢が限界に達し、少女はそれを脱ぎ捨てた。岩陰に屈み込んでしまった少女に、室長は溜息を吐く。
「勝手にするといいわ」
その言葉も、襦袢と同じくらいにちくちくとしていた。
それから何日も――目覚めてから眠るまでの間を一日と呼ぶとするのなら――同じようなことが続いた。三人の鈍い朱色の女たちは、少女が夢から覚めるとやってきて、こちらについてああではないこうではないと、様々なことを言い合っては何かを書き連ねるのだ。食べるものやら何やらを与えてはくるけれど、少女の恐怖は消えなかったし、彼女たちからの恐怖もまた消えなかった。
腫れ物を触るように、飼育と監視を続けられる日々。それが少女の数える限り、十七は続いた。
そう、彼女は数を数えられる程度には成長していた。眠りに就く度に、少女は永遠くらいの夢を見た。世界中の幼子たちが見た夢の複製を、できる限り詰め込まれていたのだ。それが何故なのか、少女は覚えていない。ドレミー・スイートとの邂逅は、無数の夢に埋もれて忘却の彼方だ。眠るということはそういうものなのだと、少女は理解するようになっていた。
無数の夢の、そのほとんどは目覚めれば忘れている。けれど幾つかは、少女の記憶に鮮烈な影を残した。いずれの夢でも、少女はその夢の持ち主になりきって、夢を追体験するのである。
たとえばこんな夢を見た。夢の中で少女は小さな蛇だった。その眠りの中でさらに、大きな蛇になった夢を見ていた。大きくなることは素晴らしいことだった。もう敵に怯える必要はないし、大きな獲物を捕まえることだって簡単だ。けれど小さな蛇は、夢の外ではひたすら痛みに耐えていた。初めての脱皮を間近に控えて、体中の鱗がきしきしと痛むのだ。ただ這うだけでも、風に当たっただけでもひりひりして仕方がない。小さな蛇は、大きくなったあとのことだけをなんとか考えようとしていた。この痛みさえ耐えられれば、乗り越えることができたなら、自分は夢のように大きくなれるのだ。そんな希望がこの夢を見せていた。その夢が叶ったのかどうか、それを少女が知ることはない。
たとえばこんな夢を見た。夢の中で少女は男の子だった。朝が来れば、大嫌いな運動会が始まることを知っていた。想像もしたくないはずなのに、嫌な場面ばかりが夢に現れる。徒競走では懸命に走ってもぜんぜん前に進まないし、大縄跳びの縄はいつも自分の脚だけを叩いた。百足競争では最初に脚をもつれさせてしまうし、大玉転がしはまったく見当違いの方向へ進む。だんだんとクラスメイトの頭から角が生えてきて、目は悪魔みたいに尖りだす。ちゃんとやれよ。真面目にやれよ。こんなの誰でもできるだろ。グズ、ボケ、ノロマ。担任教師は巨大な定規で男の子を何度も殴る。どうして皆の足を引っ張るんだ。皆は頑張っているんだ。お前だけ怠けるんじゃない。男の子は泣きながら、握らされたバトンを手に走り出す。進まない、進まない、進まない。こんなに走っているのに、どうして。
たとえばこんな夢を見た。夢の中で少女ははぐれた仔熊だった。母親は猟師に撃たれ、激高して立ち向かい、狩られた。仔熊はそれを知っている。けれど側には死んだはずの母親がいて、仔熊の毛繕いをしてくれていて、暖かくて心地よくて、そしてこれは夢だ。仔熊はそれを知っている。教わるはずだった食べられる木の実の見分け方で、教わるはずだった魚の獲り方で、教わるはずだった樹の登り方で、母親が持ってきてくれたごはんをお腹いっぱいになるまで食べて、そしてこれは夢だ。仔熊はそれを知っている。青い空も、暖かな陽の光も、柔らかい風も、何もかもが夢だ。仔熊はそれを知っている。痛いほど理解している。現実は冬の直中で、冬眠に十分な栄養を蓄えられていないし、そもそも冬眠の方法も知らない。だからどうしたら良いか分からなくて、迷い込んだ人里近くの、ふと見つけた餌に飛びついた。害獣駆除用の罠だとも知らずに。檻の中で仔熊は夢を見ている。暖かな秋に逆戻りする夢を。
そういう印象的な夢から覚めたときには、決まって少女は感情を爆発させた。自分の叫ぶ声で目が覚めて、それでも溢れ出るものを留めることができず、拳を、足を、頭を、岩壁へ打ち付けた。痛みが欲しかった。血を流したかった。ここが夢とは無関係な現実であることを、証明する術が他になかった。涙が視界を水に沈める。世界が身体を引っ掻き回す。それが不快でどうしようもなかったから、少女は暴れた。すべての夢には対応する現実がある。これらの夢を見た主は実在する。少女にはそれが確信できた。ドレミーの手法からしてそれはたぶん真実で、少女は彼女の言葉をすっかり忘れていたけれど、とにかくそう信じた。
あの仔熊は死んだだろう。目覚めてからか、あるいは目覚めることもなくなのか、それは分からないけれど。少女は彼を助けたかった。けれどもうどうしようもない。現実は覆しようがない。
どうしようもないことなのに。
それなのに、少女の心は千々に乱れ、悲鳴を上げる。
悲鳴は世界と共振し、衝撃波が広大な御山を鳴らす。
朱色の研究者たちは、少女の暴動を察知するたびに駆けつけては、鎮静効果をもたらす呪術を展開した。誰ひとりとして、檻の中には絶対に入ろうとしなかった。少女に触れようだなんて考えすらしていなかった。だから、少女は丸裸のまま、血塗れで転げ回っていた。鎮静呪術も焼け石に水だ。
洪水のような感情は、研究者たちを容易く溺れさせた。彼女たちもまた、泣き叫びながら、あるいは怒り狂いながら、その対処に当たる。平穏な精神で少女と向き合えることの方が稀だった。ゆえに対処は後手に回り、今後のための有効策の研究もさらに後手へ見送られた。
そのようにして、閉じ込められた少女の状況は悪化していく一方となった。