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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
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悲哀/はなうたをうたいながら

 ひと晩中降り注いだ硝子の雨が、ふたりの身体にたくさんの傷を付けていた。

 かつてはまっすぐ伸びていたのだろうビルをかい潜る。本当はひびのひとつもなかったはずのアスファルトを歩く。傾いだ標識は焦げて穴が開いていた。何かが焼ける、錆びる、腐る臭い。吹き抜ける風ですら拭うことのできない、わだかまった空気に浸りながら、ふたりはただ逃げ続けていた。

「こいし」

 こころは自分を先導する少女の名前を呼ぶ。しかし聞こえていないのか、あるいは聞こえているのに無視しているのか、彼女はこちらに一瞥すらもくれはしなかった。引かれる掌が、汗でぬるりと湿っていた。

 こうして手を引かれて、もうどのくらいの間歩いてきただろう。

 こうして手を引かれて、いったいどこまで歩いていくのだろう。

 考えないようにしていることが、次々と頭の中に浮かんで、こころはずっと姥面を被ったままだった。不安、焦燥、そして恐怖。止めどなく溢れ出す感情を、普段のように押しとどめることすら忘れて、とぼとぼと歩いていた。

 どこまで行っても、代わり映えのしない景色ばかりだ。地方都市だった場所。ひとが大勢住んでいた場所。それらの面影はもはや消え失せている。ここがどこなのかとか、この先に何があるのかとか、そういうことがまったく分からない。見渡す限り一面に続く、瓦礫と破片と粉塵の世界。

 たぶん、もう行き先になんて意味はないのだろう。

 突然、空気が震えた。どこか遠くで大きな音がした。爆発だ。ぎくりと身体を強ばらせて、こころは立ち止まる。いったいどこで、と考える前に身体が動いていた。こいしの手を引っ張って、急いで物陰に身を隠す。

 追っ手が来たのかもしれない。必死で感情を押し留める。僅かな音の手がかりも聞き逃さないよう、耳をそばだてる。

 しばらく身を隠していたけれど、それきり爆発はないようだった。

 燻っていた火が、漏れたガスか何かに引火したのだろう。安堵、とまではいかないが、こころの緊張が僅かに解ける。こんなことは一日に何度もあった。

 傍らにちょこなんとしゃがみ込んだこいしは、口をぽかんと開けたまま空を見上げていた。雲ひとつない青空は、ここが地獄ではないという唯一の証拠だ。たとえ地上があまねく蹂躙され、生命のすべてが死に絶えてしまったとしても、ここは地獄ではなかった。なんとも残酷なことに、ここは地獄ですらなかった。

「逃げよう。海まで行こう」

 こいしが立ち上がり、手を差し出す。自分と同じ、煤と泥で汚れきった掌。

 こころはそれを取る。そしてまた歩き出す。どこへ、と問うことはもう止めてしまった。行き先になんて意味はない。ひょっとしたらそんなもの自体、とっくにふたりには無いのかもしれない。

 彼女たちにできるのは、ただ逃げることだけだ。逃げて、ただひたすら逃げ続けて、その先に待つものが行き止まりだと分かっていても。

「だって、世界は恐いものばかりだからねぇ」

 青い空の下、無惨な瓦礫の上、こいしは屈託無く笑う。

「海って、どこ?」

「さぁ、どこだろ」

 もう何万回と繰り返したやりとりを、ふたりはもう一度重ねた。意味なんて無いと分かっていても、それでも口にした。

 恐くてたまらない。もう何も見たくない。どこにも行きたくない。なのに、世界がそれを許してはくれない。広大な針の筵の真ん中で、一歩を踏み出すたびに、身体のあらゆるところが痛む。

 だけど逃げなければ、追っ手ににすぐに見つかってしまう。

「……………………」

 こころの瞳から大粒の涙が零れた。それは面の内張りに滴って、大きくて薄い染みになった。

 どこへ逃げても無駄だ。こころの中で、別のこころがそう言った。たとえ地の果てまで逃げたって同じことだ。どうせ追い付かれて、殺される。結界の外に生きていた他の命と同じように。妖怪だろうとその運命を覆せはしない。猫も鼠も、神も仏も、「あれ」は決して見逃しはしない。

 生きるものすべてに破壊と死を無慈悲に振りまくものたち。

 ひと足でビルを踏み潰すあまりにも巨大な六本足の蜘蛛。

 空を真っ黒に埋め尽くす数えきれないほどの爆撃機の群。

 眠らない都市群を一瞬で消し飛ばした天をも貫く光の柱。

 人間も、動物も、植物も。

 街も、海も、森も、山も、河も。

 地上のすべては殺されて、壊された。

 恐怖に塗り潰された感情の中で、こころは考えた。全身が鋭く痛む身体で、かつてはこの町にもあったのだろう名前のことを考えた。結界の外の世界について、彼女はほとんど何も知らない。幻想郷よりもずっとずっと広い世界があって、そこには神秘もオカルトも何もなくて、変わりに科学が信じられないほどに発展しているのだと、誰かから聞いた覚えがあった。けれどもはや、その面影はどこにもない。

 もはや科学世紀は、完全に敗北した。

 そして生命世界も、じきに敗北する。

「――お」

「……?」

 不意に、こいしが歩きだした。何かを見つけた、といった風に。

 こころは後を追うために立ち上がろうとしたけれど、疲労と痛みのためそれが上手くできずに転んでしまった。そんな連れ合いには目もくれず、こいしはすいすいと歩いていき、やがて瓦礫の間に姿を消した。無意識の中に生きている彼女は、その行動を彼女自身すら制御できていない。ましてや、他人である自分にその原理が分かるはずもない。目を離した隙にどこかへ消えてしまったことは、一度や二度ではなかった。

「こいし!」

 名前を呼ぶ。

 返事は無い。

 先ほどまでとは別の恐怖に、こころは支配された。逃げなければ、という恐怖ではない。こいしとはぐれてしまうということ自体が、心の底から恐ろしかった。彼女をひとりにすること、そして自分がひとりになること。ただそれだけのことが、こんなにも。

「いやだ」

 こころはなんとか立ち上がり、よたよたとこいしの後を追った。自分の手を引く者が誰もいない。自分の手を握る者が誰もいない。以前はそれが普通だったのに、今はそれが寂しくて堪らなかった。気が付けば走って追いかけていた。いくつかの感情の面が、でたらめな軌道を描いて主の後を追った。

 やがて見えたものは、地面に開いた口だった。地下へと降る階段が見えているが、地上部を覆っていたのだろう屋根はほとんど崩れかけている。近寄ってみると、真新しい足跡。覗き込んでみるけれど、外光はほんの数段先でもう途切れてしまっていて、先を窺うことはできない。ここを降りていったのだろうか。

「こいし……?」

 名を呼ぶこころの声は、反響しながら闇に吸い込まれていく。

「こいし、いるのか?」

「ほーい」

 帰ってきた返事はわんわんと響いていて、まるで別世界からの通信のようだ。

「何してるんだ、さっさと上がってこい」

 叫び返したこころの声に、しかしもう返事はない。待っていれば戻ってくるだろうか、とも考えたけれど、こころは狐面に変貌し、地下への一歩を踏み出した。迎えにいかなければ、永遠に戻ってこないような気がした。

 感情の面に宿る妖力が淡い輝きを発し、松明の代わりに先を照らす。階段はすぐに踊り場へ行き当たって、百八十度折り返してさらに降っていた。こころは闇の底をさらに見通そうとして。

「うっ……」

 鼻を突く酸っぱい臭いに怯んだ。刺し込んでくるような刺激臭だ。

 この先にいったい何があるのだろうか。不安と恐怖に狐面が剥がれそうになるのを、こころは手で押さえた。そしてゆっくりと足を進めていく。

 常人ならこんな場所を進もうだなんて考えないだろう。けれどこいしは地獄の住人で、無意識に生きる少女だ。こころの知る常識は通用しない。

 ぴしゃり、と何かの跳ねる水音。気が付けば足下が真っ黒に濡れていた。臭いはどんどんきつくなり、ぬめりつくような風となってもうもうと立ち上ってくる。

 やがて階段が終わり、通路に辿り着く。床に薄く貯まった液体が、面の妖気を反射して鈍く光り、その波間から吐き気を催すほどの悪臭を発していた。裏返りそうな腹の底をなんとか宥めて、こころはさらに奥へと目を凝らした。

「こいし、そこにいる?」

 呼びかけるけれど返事はない。声は残響も生まずに消えた。代わりに、ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃと、夥しい何かが滴る音。

 意を決して一歩を踏み出す。すると何か柔らかいものを踏んだ。

「ひ……」

 僅かな弾力を持つそれは、石でも泥でもない。乾いて固まりかけた糊のように、靴底で僅かに糸を引くのが分かる。こころは思わず足を引いた。

 面に力をこめて光度を上げる。辺りを探らなければどうしようもなかった。すでに滅茶苦茶にかき乱された世界だけれど、ここは今までに見たどんな場所よりもひずんでいる。そんな気がしたのだ。

「こいし! いるんだろ!」

 なるべく何も踏まないように、そろりと浮かび上がってこころは進む。しまい込んでいた面を片端から取り出して、できるだけの光を展開した。すると、だんだんとその異様な光景が明らかになる。

 石造りの通路の、壁にも床にも天井にも、そこかしこに何かがへばり付いていた。泥の塊を投げつけたような不定形の何かだ。先ほどこころが踏んでしまったのはその端だった。黒ずんでいて、しかしところどころからピンク色が覗いている。液体が糸を引いて滴っていて、気味が悪くて仕方がない。

 そして十数メートルほど先、こいしの影が浮かび上がる。お気に入りの帽子の大きなつばが、面の放つ弱々しい光の中で揺れている。

「こいし、いるのなら返事をしてよ……」

 困惑しながらも、こころは宙を滑り近づく。雨漏りのごとく降ってくる水は、どうやら地下水が染み出たものらしい。

「あれ、どうしたの、こころちゃん。こんなところで」

「それはこっちの台詞だ!」

 あっけらかんとしたこいしに、怒りの面を急いで呼び戻して額に貼り付ける。まったく勝手な相棒である。異常な有様の地下通路の中、明かりもなしでどうやってここまで来たのだろうか。

「さっさと戻ろう。こんなとこには何もないだろう」

「何もなくはないよ。死体マニアとしてはこーゆーのもちょっと見ておきたかったんだもん」

「……死体?」

 その言葉に、壁をまじまじと見つめたこころはぎょっとした。

 壁にへばりついたものをよくよく見てみると、その肉塊たちは大まかに人の形をしている。胴があり、首が乗っていて、腕と足が棒切れのように延びている。幼児がクレヨンで描いた人間を、肉をこね立体化して壁に思いっきり投げつけたみたいだ。皆、何かから逃げるようにのけぞっていて、そのままの格好で固められているように見えた。炭化したピンク色の肉。ところどころ残った皮膚。折れて突き出た骨。そういったものがまるで巨大なアメーバのように壁に貼り付いている。

 焼き付けられたのだ。人間が、壁に。

「逃げてきたんだろうね、みんな」

 こいしが立ち上がって、闇の奥へ目線をやった。行き止まりがあるようには見えない。むしろ空気の流れや反響は、奥が広くなっているような気配を感じさせる。淡い光が照らせないほどまで先の、果てない闇へ、肉塊は途切れることなく続いている。いったいこの地下空間に、何百、何千の。

「街が襲われて、人間たちはみんな地下へ避難して、そこを一網打尽にされた。焼き払われたのか、腐蝕性のガスを流し込まれたのか、どっちかだと思うけど。逃げ込んだ先だもんね。それより先の逃げ場なんてもう無いよね」

「お、お前、そんなもんを見たかったのか」

「こういうのは貴重だよ。普通なら、生き残った人間がすぐに片づけちゃうから。お燐も言ってたなぁ。『埋葬されるのとこっちが浚うのとどちらが早いか、時間との戦いなんですから!』って」

「駄目だ、地獄の住人の感性は分からない……。いずれにしても、もう皆腐ってるぞ。臭くて堪らない。さっさと戻ろう」

「うん。だけどね、こころちゃん」

 こいしの唇が、地下の僅かな光源を跳ね返し、てらてらと光る。

「『腐ってる』のなら、まだ世界が正常な証拠だよ。発酵も腐敗も、神様の仕業だからね。神様がまだいるってことだもの」

「薄情な神様だ」

 その手を強引に取った。こいしは綿雲のようにふわりと軽い。ぬるついた手を握っても、すぐにまたどこかへ行ってしまいそうな気がした。だから階段を上る間、こころは必死で指を絡めていた。

 地獄から這うようにして戻る。何度も大きく息を吸う。どこか焦げ臭い空気でも、腐敗臭に満ちたあの空間よりは何万倍もましだった。

 毒々しく青い空が目に痛い。その痛みが心地良い。

「逃げよう。海まで行こう」

「海って、どこ?」

「さぁ、どこだろ」

 もう何万回と繰り返したやりとりを、ふたりはもう一度重ねた。たぶん、これからまた、何万回と繰り返すのだろう。本当の本当に、世界が終わるまで。

 歩き出そうとして、しかし今度はこいしが動かなかった。猿面とともに振り返ると、こいしはずっと遠くを見つめていた。道の伸びる先、砂埃に霞む向こうを。

「――来るよ」

「来る、って」

 何が、とは聞かない。今やふたりを追ってくる者は、誰であろうと敵なのだから。

 わだかまる砂埃が、不意に乱れた。

 それを認めた瞬間、ふたりは反対方向へ駆けだした。空は駄目だ。飛び上がった瞬間に狙い撃ちの的になる。建物の多い市街地に紛れたまま、隠れてやり過ごすべきか。いや、もうこちらの居場所が割れてしまっているのなら、きっと廃墟ごと吹き飛ばされる。

 逃げろ。

 ただ、逃げろ。

 逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、その先に何があるかなんて考えずに。

 しかし、ふたりの行く手を阻むように壁が生まれた。何もなかったはずのところから、金色のシャッターが下りたのだ。空間を切り裂いて無尽蔵に生成される巨大な剣。遅かった。すでに間合いの中だ。

「跳ぼう!」

「うぇ!?」

 引き留める間もなく、こいしは小鳥のようにぱたぱたと宙を飛んだ。確かに越えられない高さではないけれし、他に逃れる術もない。一秒遅れて、こころも地を蹴る。

 その瞬間だった。こころの周囲を、法力の煌めきが取り囲んだ。幾つもの独鈷杵が、少女を捕らえるために投擲されていた。やはり待っていたのだ、宙へ逃げ無防備となるこの瞬間を。

 長刀を具現化し、高度を上げながら必死の抵抗を試みる。

 迫る独鈷杵を弾く、弾く。弾く!

「こころちゃん!」

 すでに黄金の柵を飛び越えたこいしが、こころへ手を伸ばす。

 遅回しの世界の中、それに応えようと宙を蹴る。

 加速する身体。暗転する残像。反転する視界。交差する視線。伸ばした手は、しかし。

 再び無数の剣が、空間を裂いて出現する。

 両者の間の壁が、その高さを倍に増した。

「ぐ……」

 勢いづいた身体はすぐには止まらず、こころは背中から剣の腹に衝突してしまう。一瞬の隙、それを逃がすような追っ手ではない。独鈷杵が鋭い軌道を描く。こころへ殺到する。長刀で弾き応戦するも、すでに逃げ場はない。

 ついに決定的な一撃が、こころを地へと叩き落とした。

 肺から空気が押し出され、数瞬、呼吸ができなくなる。そして痛み。全身がばらばらになりそうな痛み。強く地に打ち付けられた身体が、原形を保っている方が不思議だった。痛みと苦しみに喘ぎながら、こころはそれを見た。歩み寄ってくる追っ手を見た。

 頭を満たすは恐怖。そして悲哀。

 面霊気の感情は暗闇へ沈み込む。

 もう見たくなかったのに。もう会いたくなんてなかったのに。逃げきれない。追いつかれてしまう。いやだ、なんで、わたしが、あなたたちが、どうして。

「おまえは――」

 響く言葉は、凛とした、強い声だった。

 こころがいつも頼っていた声。何度も安心させてくれた声。

「――おまえは、生まれてきてはいけなかった。ゆえに」

 それが、どうして。

 こころには理解できない。世界から逃げ出したあの日から、現実の意味なんて理解できていない。涙が溢れる。悲しみに染まる。聞きたくない。分かりたくなんかない。あのひとの言葉の意味を。

「ゆえにお前を、生まれなかったことにする」

 聖徳王は、豊聡耳神子は高らかに宣言した。そこには声だけがあった。彼女には顔がなかった。表情のすべてを覆い隠す、鏡の面を被っている。冷徹な曲面に写るのは、崩れ去った空虚な世界ばかりだ。

 そしてその傍らには、無言のまま魔神経巻を展開する、聖白蓮がいた。その顔はやはり、鏡だ。何も窺い知ることはできない。感情を読みとれない。ただ無言の圧を、法力とともに放射している。

 どうして。

 どうして、どうして、どうして。

「どうして……?」

 どうして、あんなに優しかったふたりが。

 どうして、あんなに包んでくれたひとが。

 どうして、あんなに愛してくれたひとが。

 こちらに、剣を向けているのか。

「これ以上の世界の荒廃を、私は捨て置くわけにはいかないのだ」

 全能の聖人が、そのマントを振る。黄金の剣がこころの周囲の空間を裂いて出現し、罪人を囲む檻となった。さらに独鈷杵から迸る法力が、こころの心身に重圧をかける。

 もう微動だにできない。一歩たりとも逃げられない。表情のない顔に姥面が貼り付いて、止めどない嗚咽を響かせる。

 漆黒の無表情が意識を過ぎる。絶望の面。すべてを終わらせる諦観の感情。

 駄目だ。

 それだけは、駄目だ。絶望に塗り潰されてしまうことだけは。こころは姥面を必死で引き剥がし、般若面を無理矢理被った。誰に教わったわけでもないけれど、彼女は知っていた。自分が絶望に満ちてしまえば、すべては終わりだ。

「あああああああああああああッ!」

 般若面を喚び、感情を無理矢理に切り替える。

 持てる限りの感情を怒りへと変換し、こころは身体を強引に動かした。自分を戒める黄金剣を、押し上げて抜こうとした。痛みすら無視した、全身全霊の力で。刃が肌を裂く。重みが骨を砕く。けれど諦めるわけにはいかなかった。逃げ続けなければならなかった。こころを捕らえようとする者たちから。こころを殺そうとする者たちから。

「我々じゃない! ふざけるな、我々は知らない! これは我々のせいじゃない! ちきしょう、訳の分からんことばかり言いやがって! ここから出せ! 出せ! 我々は何もしてないじゃないか!」

 もうどうなったって構わない。後のことを省みない怒りが、真っ赤な旋風となって巻き上がった。こころの感情はひとの形に収まるようなものではない。神ですらその手に余る暴虐を、彼女は毎日必死に律して生きてきた。

 だからそれが、解き放たれてしまえば。

「あああああああああああああッ!」

 独鈷杵が弾き飛ばされる。

 黄金剣の檻が弛んでいく。

 追っ手たちは僅かに立ち止まった。猛然たる抵抗に驚いたのかもしれない。だがふたりはそれでも、こころを縛り付けることを止めようとはしない。彼女を捕縛することを諦めようとはしない。

 着火した怒りは爆発的に燃焼し、しかしそれに比例して抑えつける力も強くなる。檻をさらに囲む黄金剣が召喚され、先程の倍の数の独鈷杵が取り囲んだ。

 並の妖怪ならとっくに消し飛んでいる洗練された重圧、こころがそれに抗する手段は、ただその怒りだけだ。理路もなく能率も悪い、瀑布のごときむき出しの感情だけだ。

 血が滴る。涙が止めどなく溢れる。

 知ったことか。こころは奥歯が軋むほどに力を込めた。知ったことか、何もかも。どうとでもなれば良い、こんな世界は。私はいつだって我慢し続けてきた。感情をまき散らすことは迷惑だから堪えなさいって、皆がそう言うからそうしてきたのに。私がどれだけ辛かったかなんて誰も知らないくせに。もうどこにも逃げられない。どうしたら良いか分からない。それなのに。違う。違うんだ。世界を壊しているのは私じゃないんだ。

 叫びは声音にならず。

 思いは言葉にならず。

 追いつかれる。もう、今にも――。

「……!?」

 その時だった。天から、万の硝子が砕かれたような、轟音が響いた。

 ふたりは瞬時に振り向き、それを警戒する。空から降りてくる異形を見る。

 その兵器は巨大だった。あまりにも巨大だった。腹部に収納されていた六本の脚を開き、着地した場所はおそらくは地平の向こう。しかしその胴体は小高い山を越えて覗いている。空を割るような音が止んだ。百を越えるジェットエンジンが運転を停止し、完全に地上形態へ移行したのだ。出鱈目に成長した仙人掌を思わせるあまりにも歪なシルエットが不気味に震える。

「見つかったか」

 聖徳王の舌打ちは、鋼鉄の巨大な軋みに埋もれて消えた。

 こころもまた、怒りを忘れて怪物を注視していた。驚愕、そして恐怖、身を刺す冷たい感情が一帯を満たす。彼女はあれが何であるかを知っている。聖徳王も、聖尼公も、もちろん理解している。知らないのは、あれの正体を知らぬまま死んでいった者たちだけだ。理解する間もないまま、厄災に灼き尽くされてしまった数多の命たちだけだ。

 あれが。

 あれこそが。

 何もかもの破滅。

 何もかもの破局。

 そして、究極の浄化をもたらすもの。

 あれは対人兵器ではなく、対軍兵器でもない。想定された敵は対国家ですらない。いつだったか、妖怪の山を徘徊していた蜘蛛のような機械に似ていた。そのまま数千倍の大きさに拡大して、無節操に兵器を積み込んだらあのようになるだろう。あれは人間の作ったものではないから、人間の技術の限界を、法律の範疇を、道徳の制限を、そのすべてを軽々と無視している。形作っているのは意志のみだ。絶対に絶滅させてやるという、意志。それが過剰なまでの兵装となって現れている。

 対惑星兵器。

 対生命圏兵器。

 あれに名前はない。本当の神は名乗らない。だから人々がそれぞれ付けた名前が幾つもあったけれど、その知識が共有され統合される前に、あらゆる通信網は断絶してしまった。ゆえに、仮に幻想郷で用いられている呼称を採用するのなら。

「――青娥、聞こえるか。『瞋恚』に捕捉された。三十秒後にはそちらへ帰還する。転移陣を起動しろ」

 瞋恚。究極の怒り、すべてを滅ぼす狂憤。それがあの異形に付けられた名前だ。

 威容が傾いだ。まるで狙いを定める猫のように肩を沈める。そして背の無数のポッドが口を開けた。短距離ミサイル発射の予備動作だ。

 ふたりは振り向き、面霊気を確保しようとして、異変に気が付く。こころの姿がない!背後側の黄金剣が一本だけ引き抜かれ、おそらくはそこから逃げ出したのだ。瞋恚の出現からほんの十数秒、その短時間でいったいどうやって。

「白蓮、逃げる瞬間を見たか?」

「いえ、私も気づかぬ内に。まずいですね」

 幾つものミサイルが、空に翼のような軌跡を描いた。それを認めた聖徳王はすべての黄金剣を引っ込めた。

 追い詰めたはずのこころの影はどこにもない。瓦礫の街のどこにも、その気配を感じ取ることができない。満ちる思考は困惑である。いったいどこへ消えた?

「ひとりで逃げているくせに、よくもまぁしぶとい奴だ」

 だがすぐに切り替える。状況は一変した。今度はふたりが追い込まれた側だ。仙界への入り口が開くまであと十秒。その時間だけは生きて切り抜けなければならない。

 天球儀を模した光球が、ガルーダの翼が、展開されたところへミサイルが殺到した。




「いやぁ、危なかったね、こころちゃん」

「……こいし、あの剣をどうやって抜いたんだ?」

「あれくらいできないと、地獄じゃ通用しないからねぇ」

 にしし、とこいしは笑った。できないことばかりだな、とこころは思った。あの戒めから抜け出すことも、あんな風に笑うことも、自分にはできない。

 駆ける背後、地を揺るがす爆発音が、なぜだか遠い世界での出来事に思えた。まるで厚い布団の外で鳴り続ける目覚まし時計みたいだった。

 ミサイルはまったくこちらに飛んでこない。こいしとふたりでいる限り、あの怪物が襲ってくることはないのだ。どうしてなのかは分からないけれど、少なくともこれまではそうなのだった。

「逃げよう。海まで行こう」

「海って、どこ?」

「どこが海だっていいんだよ。こころちゃんと一緒なら」

 こいしが手を引く。こころはそれに付いていく。

 ただそれだけのことが、青い空の下、何もかもが死に行く世界では。

「だってこころちゃんは、私のかみさまだからね」

 指が震えて、こいしの小さな手の中で少しだけ暴れた。その手の握り方がそれでいいのか、分からなくなった。

 こいしに付いていく。ただそれだけのことが、ほんの小さなことが。

 この上なく愛しいということを。

 とびっきり嬉しいということを。

 たまらなく悲しいということを。

 あまりにも眩しいということを。

 いったいどうしたら、自分の顔で、自分の言葉で、伝えられるというのだろう。

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