祝福/ラムダ=コールドダークマター
淡い翠色の匂いを纏った風が、竹の葉を不規則に揺らす。何者にも阻まれることなく吹き抜けていけるはずの風が、たまに竹の幹にぶつかって渦を巻き、そこに枝垂れた不運な葉をくるくると弄ぶ。
姿は見えないけれど、時折兎が駆け抜けていく足音がする。迷いの竹林ではよくあることだ。永遠亭に近づく者を監視しているのか、ただ遊んでいるだけなのか、付かず離れずの距離から入れ替わり立ち替わり、兎たちがこちらを見ている。
迷って行き倒れたり妖精に襲われ怪我を負ったりすると、途端に妖怪兎に襲われて喰われてしまう。そんな実しやかな噂が人間の里では囁かれている。
けれど、人間ではなく竹林で迷うこともない者にとっては関係ない。
「……そう。ご苦労様、小町。それにしても悪運が強いわね、八雲紫も」
「いやあ、ありゃ悪運というか何というか。いまのところ、ぜんぶが奴の筋書き通りに進んでますからね。お得意の深謀遠慮で味方ごと敵の目を欺いたと言ったほうが正しいかもしれません」
「外の世界を手中に収めるために、なんて野望を持つタイプでは無いと思っていたんだけれど」
四季映姫の視界には、竹林に足を踏み入れたときからもう、永遠亭の入り口が見えている。距離を操る小野塚小町の能力である。竹林で迷うのは地勢と植生があっという間に変わってしまうためであるから、目的地が見えてさえいれば目指す方向を間違えるはずもない。
「科学世紀をも守るつもりなのね、あの大妖怪は」
「でも幻想郷の有力者たちは奮起してますよ。八坂神はもう一度外の世界の信仰を得られるならって大張り切りで出雲に出かけてきましたし、豊聡耳もさっそく人間の支持を取り付けようと京へ向かいました。天狗たちも各地の古い知己に堂々と檄を飛ばしてます。まだ一週間ですよ。それでここまで世界が変わっちまってるんだから」
「天部やらオリュンポスやらが顕現して人間社会にあれこれ干渉してきてる以上、こちらも相応の体制を整えなければいけないからねえ。元科学世紀の人間たちも大変だわ。幻想郷とは違って、人外との付き合いかたを弁えている人間がほとんど残っていないでしょうから」
「八雲紫は、月都があの強硬手段に打って出たときからもう、この青写真を?」
「さぁね。あれの思考は私にはとてもとても。九割九分九厘負ける博打に涼しい顔で命を賭け、護り続けてきた結界も必要とあらば即座に捨て去る。真似できる芸当じゃないわね」
ほとんど一直線に永遠亭の門まで辿り着いたふたりを、慌てた様子の月兎の薬師見習いが出迎えに現れた。
「ほ、本当に迷わずにいらっしゃいましたね」
「そんなに畏まらずとも大丈夫です。我々のほうからお願いしたことですので」
「恐れ入ります。師匠には了解を貰ってますので。本来なら一緒にお出迎えしたいところなんですが、ちょっといま手が離せなくて……」
「状況は分かっています。挨拶はまた落ち着いてからにしましょう」
映姫に頭を下げ通しだった鈴仙・優曇華院・イナバがようやく顔を上げる。
その瞳の赤色に、底の無い希望と絶望が見えた。映姫は目を細めた。
「本当に、飲んでしまったのね、貴方も」
「……はい。すみません」
「謝ることじゃないわ。月都ではどうだか知りませんが、少なくとも地上にその穢れを罪に問う法はありません。そりゃあ白か黒かで言うなら黒でしょうけど、もう貴方は私の法廷には来られないし。それに――」
映姫は努めて柔らかく笑った。
「――貴方がいなければ、彼女を連れ帰ることは叶わなかったでしょう。大変に大きい成果です。私からも、そして是非曲直庁としても、最大限の感謝と賞賛を送ります」
「……あ、ありがとうございます」
鈴仙に続いてふたりは永遠亭を進む。
人型の妖怪兎たちが忙しそうに走り回り、何やらひそひそと声を交わし合っている。湯の入った盥やら大量の布巾やらを抱えて行ったり来たりしているところからして、急を要する入院患者でもいるらしい。
「……怪我人か病人か。今更ですけど、あたいらがここにいるのは不吉過ぎやしませんかね」
「職務に吉も不吉もあるものですか」
夢魂返しで世界が蘇ったといっても、全球浄化に起因する混乱は無かったことにはならない。さらには夢を強引に現実へ引きずり出したのであるから、あちこちで齟齬が発生している。外の世界に比べれば幻想郷の受けた被害は微々たるものだが、皆無というわけではあるまい。
とにかく、形はどうあれ、生命世界は生き残った。いまはそれを良しとしなければならない。
「個室はこの奥です」
三人が通り過ぎた戸を鈴仙が閉めると、途端に喧噪が消え去った。安静を要する患者のため、何らかの術をかけてあるようだ。
すれ違うのもやっとな細い廊下を進む。土壁と高窓だけの空間は、患者を刺激する要素を極力排除しつつ、勝手に出て行かれないような構造を必要とした結果であろう。
角を鉤形にふたつ折れた先、厚い扉に守られた部屋が正面と左右に三つ現れた。
「……ここか」
小町がごくりと唾を飲む。
映姫の胸にも緊張の火花が跳ねる。なぜなら、この先にいるのは。
「今は、彼女しかここにはおりません。まぁ、そもそもここを使う必要がある患者は滅多に無いんですが」
鈴仙は声を潜めてふたりへと振り返る。
「面会の前に、注意点をご説明します。大きな声は絶対に出さないでください。前触れの無い大きな身振り手振りもです。月兎は波形で相手の感情をある程度関知できますので、僅かな敵意であっても彼女を暴れさせる原因になるかもしれません」
静かにふたりが頷くと、薬師見習いは扉に着いた鉄輪に手を掛け、ゆっくりと引いた。
「うっ……」
流れ出る臭いに小町が鼻を覆う。
「もう、またやっちゃったの? うんちはトイレでしてって言ったでしょう」
事も無げにそこへ寄っていく鈴仙に続けて、ふたりはそうっと部屋の中を覗き込んだ。
六畳ほどのその部屋は、独房を思わせる作りだった。敷居の向こうの便器、壁に埋め込まれた手洗い台。ベッドはなく、畳に直接布団が敷かれている。大きな窓からは小さいながら専用の庭園が見える。
精神を落ち着かせ穏やかに過ごさせるための病室。しかしいま、その内装は壮絶なことになっていた。
「ほら、来客があると言っておいたでしょう。是非曲直庁の方々、もう分かっているわよね? ちゃんと顔を出して」
奥の隅、そこに布団の塊が押し込められていた。純白だったのだろうシーツが、血と汚物で斑模様に汚れている。鈴仙はその塊の傍にしゃがみ込んで、静かに語りかけていた。よくよく見れば、その塊が小刻みに震えているのが分かる。
「良い? 取るよ?」
「や、や、やだ、やめて」
か細い声を無視して、鈴仙は手探りでシーツの端を探る。やがてそれを掴むと、ひとつひとつ剥がし始めた。部屋に充ちる臭いはどんどん酷くなる。
「…………何だってこんなことに」
絶句する小町の横で、映姫は静かに心が冷えていくのを感じていた。
「不安で仕方がないから、あの中から一歩も動けないのよ」
「いやだって、五歩も歩けば便所ですよ?」
「その五歩が、彼女にとっては天竺より遠いの」
かつては地蔵として地域を見守っていた彼女は知っている。心が弱り切り、ついには砕けてしまった人間。それがこれと同じような状況に陥ることがあると。
鈴仙は自分の手が汚れることを厭わずに、ゆっくりと布団の塊を解す。抵抗する相手が握りしめて離さないときは、その手を布団越しにさすりながら声をかけ続け、隙を見て引っ張り奪い取る。
映姫は足音を立てずに近づき、鈴仙の脇で同じようにしゃがむ。
「やだ、やめて、殺さないで」
「誰も貴方を殺せないわ」
そしてついには、顔を覆う最後の布が取り払われる。
「ひ、ひ、ひぃ」
その患者――朧帆という一匹の月兎は、眼が窪み頬のこけた尋常でない相貌だった。目の焦点はどこにも合わず、眼球も身体もぶるぶると震え通しだ。唇の端からは涎が垂れ、引っ掻いたのだろう傷が頬や額にいくつも走っている。
月都から提供された顔写真と同一人物とは思えないほど、眼前の兎は窮していた。
「これまでの経緯を、私に話すことができますか?」
「ひ……あ……あぁ……いや……」
「長い問答は、難しいと思います」
鈴仙が代わりに言葉を紡ぐ。
「いまはひとの話がなかなか入っていかない状態です。師匠が薬を調整しているのですが、食事も服薬も拒否しがちなのでどうしても安定しません。長い目で回復を待たなければ」
「錯乱を装ってる、ってわけじゃあるまいな」
「それは大丈夫です。私の波形探査と師匠の問診、その両方を潜り抜けることは不可能ですから」
「そうなのか。じゃあこれは、本当に……。しかし、どうして?」
小町が首を捻る。無理もない。これがたったひとりで世界を灼き尽くした最強の月兎の現在だというのだから。
軍どころか国そのものを、神どころか神域そのものを、単身で滅ぼすだけの力。それを平然と振るう者の精神状態がどのようなものか、想像することは難しい。だが、少なくともこんなものではないはずだ。便にまみれた布に閉じこもらなければ安心できないなんて。
「分かりました。では、ひとつだけ」
映姫はあらためて朧帆へ向き直る。彼女は骨と皮ばかりの指で顔面を覆っている。
「――貴方は、何をそんなに恐れているのですか?」
震え彷徨う視線が、しかしゆっくりと映姫へと向く。濁りきった赤い瞳には、鈴仙と同じ底の無い希望と絶望。それを覗き込み、踏み入る。溢れた涙が頬を伝う。
「あ、あ、あ、あぁ、あ、ひ」
向こうもまた、映姫の瞳を覗いたのだろう。数多の魂を、生と死を見つめ続けてきた瞳を。
「やだ、やだ、死にたくない、やだ」
「死にたくない、って、蓬莱の薬を飲んだんだろ、お前さん」
「やだ、やだ、やだ、いやだよ」
浅く早い呼吸になっていく朧帆の、その姿が明確に答えていた。
「……貴方は、ほんとうの死を見たのね」
八意永琳からの聴取を経て、映姫にはある程度理解できている。
蓬莱の薬は、不老不死の薬ではない。だから死ななくなるわけではなく、死んでもすぐ同じ姿で戻ってくることができるようになるだけだ。魂の道程自体は他の死者と変わることはない。
死して命の波が消えること。トコツネに連なる穢れた者たちに待つ、絶対の結末。
それを恐れることは、地上の生命にとっては当たり前のことである。当たり前すぎて普段は忘れてしまっている。そんなことを常に恐れていたら、生きるために必要なことが何もできなくなってしまうからだ。恐怖、すなわち希望と絶望のバランスは、適切かつ適度に調節されていなければならない。
そしてそれが崩れてしまったときに、ひとは正常な行動ができなくなる。
「貴方は自分が何をしたら死ぬのかが分からない。どこで死ぬのかが分からない。誰によって死ぬのかが分からない。ひょっとしたら、何もしなくても死ぬかもしれない。だから、何をするのも恐ろしくて仕方がないのでしょう」
赤ん坊と同じだ。眠ることと死ぬことの区別がつかない。あるいは、眠ってしまったら起きられるかどうかが分からない。
ツクヨミの陶酔を受けた月兎兵は、そのために穢れから引き離された。死を恐れないどころか、任務を達成しようとしまいとその先に自分は消滅するしかない、ということを当然だと思っていた。その高みから、蓬莱の薬によって一気に地まで叩き落とされたのである。つまりこれは代償だ。途方もない力を振るうために与えられた権能、その反動。
「……ひ……ひぃぃぃ」
朧帆は覗いてしまった。閻魔の瞳を通して、死の淵を再び見てしまった。
「あああああああああああッ!」
突如、その感情が膨れ上がる。朧帆が腕を振り回して暴れ、鈴仙の制止から逃れた。先程までの消沈が嘘のような速度で、患者が部屋を抜け出そうとする。
「おっと」
しかしそこに立つのは三途の河の死神である。小町が扉までの距離を操ると、衰弱した月兎兵はすぐに転倒してしまった。
「いやだ! いやだ! いやだぁぁぁぁぁ!」
地をのたうち回っていた朧帆だったが、不意に体勢を立て直すや否や、今度は映姫に飛びかかる。戦略も技術も無い野生そのもののような突進とはいえ、兵だけあって狙いは正確であった。
「止まりなさい!」
鈴仙が警告の妖弾を足下の床に撃つが、勢いは止まらない。恐れていた死を垣間見てしまった朧帆は、それを少しでも遠ざけようと必死だ。
拳が映姫の顔面めがけて伸びる。
苛烈な一撃、しかし分かりやすいその軌道。映姫が笏を取り出し、その行く手を遮るだけの隙は十分にあった。裁く相手の罪の重さによってその重さを変える、閻魔七つ道具の一つ。それは振り絞られた一撃を正面から受け止めても、びくともしなかった。
「がぁっ!」
「鎮まりなさい」
それをそのまま肩に乗せると、まるで身体全体を握り締められたかのように朧帆の動きが止まった。
「重いでしょう。私にはその重さを想像することしかできませんが、私の知るどんな罪人よりも重いはず」
惑星ひとつを葬りかけた、その身勝手で醜悪な正義。それを重量に変換すれば如何ほどか。朧帆は全身を強ばらせたまま、映姫から視線を外すことができない。
映姫もまた、今回の一件ではいくつかの罪を背負った。その証拠に、この笏は前に取り出したときよりも明確に重い。
「貴方も鈴仙と同じく、私が裁くことは絶対にない。けれどそれは、貴方がより良く生きなければならないという事実を否定するものではない。そう、貴方は少し、生命というものを軽視しすぎた。だから意味と結果を求める」
「だって……だって……」
怯えきった顔が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていく。
「嫌だ! 意味も無く生きるなんて嫌だ! 意味が無いなら、どうして私はここにいるんだ!」
「その問いの答はこの宇宙のどこにも無い。お前はこれからずっと、意味も意義も無く生き続けるのよ」
「あ、あ、あ、あぁ。嫌だ、生きたくない。死にたくない」
眼球が上転し、何かに酔ったかのように朧帆の首は大きく揺れた。
「狂ってる。お前らみんな、どうして怖くないんだ。どうしてそんな平気な顔してるんだよ。いまにも死ぬかもしれないのに? いつ死ぬか分からないのに? 生きていかなきゃいけないのに? それに意味なんて無いのに? それなのにどうしてそんな、そんな、平気に生きてられるんだ。お前ら、みんな、狂ってる」
そしてそのまま、朧帆の身体から一切の力が抜けた。笏を離すと身体が傾いでいく。失禁したのか、襦袢の裾がじわじわと染みていくのが見えた。
鈴仙が安堵に息を吐く。
「……失礼しました。お怪我は無いですか」
「いえ。少し踏み込みすぎました。衰弱していると言っても、やはり戦士ですね」
入念に手を洗っている間に、鈴仙は布団と襦袢を手早く取り替え、畳と壁の汚れもあっという間に拭き取ってしまった。
整えた布団に患者を横たえる鈴仙に、小町が問うた。
「……憎く思うことはないのかい」
「よく、分かりません。憎いからこそ、こうしているのかもしれない」
窓の外、この部屋のために設えられた小さな庭園は、こちら側の修羅場など我関せずといった風だ。平穏を取り戻したこの部屋も、またすぐに汚れてしまうだろう。汚れては拭い、また汚れてはそれを拭う。その繰り返しがどれだけ続くのかは分からない。もしかしたら終わりは無いのかもしれない。
分厚い扉を閉めて、三人は離れを辞する。
汚物の臭いで満ちた部屋から戻ると、狭い廊下にも消毒液の薄い香りが染みていることが感じ取れた。何も無いように見えるところにも、永遠亭の細やかな配慮が隠されていた。
母屋へ戻り、遮音の魔法から離れた瞬間だった。その声は高らかに三人の耳へと飛び込んだ。
――おぎゃあ、おぎゃあ。
「……ん、赤ん坊か?」
「あ、産まれたんだわ。見込みより三時間も早い」
鈴仙が手を叩いてはしゃぐ。
「おふたりも、見ていかれませんか? 師匠の許可を貰ってからですけど」
「いやそんな、お産の直後に死神が顔を出すなんて不吉どころじゃないだろ。あたいらの知り合いならともかく」
「知り合い……あ、母親ってまさか」
「そのまさかですよ。この波長、母子ともに健康みたいです」
映姫に少し遅れて小町もそれに思い当たり、互いに目を見合わせる。
裏手の広間に設えられた産屋へ向かうと、ちょうど永琳と鉢合わせた。こちらに気づいて会釈をする彼女の白衣は、ところどころが赤く染まっている。
「お疲れさま。貴方がついに産婆まで始めたとは知らなかったわ」
「今回だけですよ。里には熟練の産婆がいっぱいおりますから、本当なら私が出る幕じゃないんだけど。あの娘に頼まれたら断るわけにもね」
――おぎゃあ、おぎゃあ。
「おぉ、威勢の良いこって」
「居合わせたのも何かの縁でしょう。冥府の者ですが、あの娘に会っても?」
「母親次第ね。ま、そんなことを気にするタマじゃないとは思うけど」
永琳の先導で産屋へ向かう。日の射さない奥まった場所に張られた帳に、彼女は首を突っ込んで声を掛けた。
「――霊夢、さっそく見舞い客よ。今日はたまたま、三途の河の向こうから来客があってね。入ってもらっても良いかしら?」
「へぇ、それはラッキーね。どうぞ」
促されて入ると、畳の上につるりとしたシートが敷かれており、さらにそこに鉄製の大きなベッドが置かれていた。柔らかい布団に包まれて、霊夢は赤子の頬を指で撫でていた。
「久しぶりね、霊夢。急にお邪魔してごめんなさい」
「不吉だから断られるかと思ったのに、逆にラッキーと来たか。その心は?」
「そりゃあ最初に会う死神がサボりの常習犯なんだもの。長生きできるでしょ、この子」
「……縁起物扱いされたのは流石に生まれて初めてだね」
ふたりは霊夢の婚姻にも立ち会っていない。しばらく会わないうちに、随分と大人びたものだと映姫は思った。嫁いで母になったのだから当然といえば当然なのだが、それでも楽園の巫女だったあの頃の天真爛漫さを見知った身からすれば、目の前の産褥の母親の姿には今昔の感がある。
その脇で、赤ん坊は必死に泣き続けていた。皺くちゃの顔をさらに皺くちゃにして、瞼に涙をいっぱいに貯めていた。透き通った、けれどしっかりと熱を持った感情がそこには溢れている。生への希望と絶望。死への希望と絶望。そのすべてが最大限に詰め込まれた身体で、必死に呼吸を続けている。
映姫は赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「ようこそ、私たちの宇宙へ」
知らない顔が増えたことが怖かったのか、赤ん坊の泣き声がさらに大きくなる。
「おぉ、こりゃ大物だ。冥界と地獄でさんざん暴れ回った誰かさんを思い出すな」
「霊夢、ここに水差し置いておくよ。他に欲しいものがあったら私に言って」
「ありがと、鈴仙。とりあえず、里に無事だって早く伝えてもらってもいいかしら。あの人、図体はでかいのにとにかく心配性だから」
あまり長居をするわけにも行かず、映姫と小町は早々に場を離れることにした。鈴仙も兎たちも忙しなく駆け回っているので、言付けだけして帰ろうか、と考えていると。
「……少し、見ていただきたいものが」
呼び止めたのは永琳だった。先ほどの朗らかな様子とは打って変わって、困惑混じりの険しい表情である。
「霊夢と子供に、何か問題でも? 私たちは医療面にそれほど明るくは」
「健康面では問題ありません。お産自体も安産中の安産でしたので。ただ――」
診察室兼書斎に通されたふたりの前、永琳は布で包まれた楯状のものを机へ置いた。
その布を剥がすと、中から現れたのは。
「――能面、小女ですか」
「あの子が、これを手に持って産まれてきたのです」
「はぁ?」
小町が素っ頓狂な声を上げる。
「どうやって胎の中にこんなもんが」
「皆目見当が付きません。こんな症例は見たことも聞いたこともない。ですが、これだけなら何らかの魔術的現象を想定する余地はまだありました。問題はここからです」
永琳が机の引き出しから取り出したのは、もう一枚の能面。
「これは夢魂返しの後、私がいつの間にか手に持っていた姥面です。これも理由は分かりません。誰かに手渡されたような気もするし、自分で拾ったような気もする」
ふたつを並べると、奇妙なまでに大きさが揃っていることが分かる。
「これらは造りもとても良く似ているのです。立て続けに能面が出現するというのは偶然にしてはできすぎています。能面がひと揃いで造られること自体は珍しくない。けれど、私とあの子供に直接の関係はありません。どうして能面が同じように手の中にあるのかが、皆目見当が付かず」
「……私も、能面を持たされました」
映姫の瞳もまた、困惑に満ちている。
「貴方と同じです。夢の世界から再構築された是非曲直庁へ戻ったとき、いつの間にか面を持っていた」
「そ、それあたいもです。誰かの荷物が紛れたにしちゃ不気味だと思ってたんですが」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
三人は無言とともに戸惑いを交わし合った。
夢魂返しは史上類を見ない大がかりな術式である。夢から現実を再構築するのだから、正確に複製しきれない部分もあることは理解している。だから、自分が知らない間に能面を持っていたことは、小さなバグのようなものだと三人はそれぞれ認識していた。
だがそれも、同じ現象が三人に起こっているとしたら。
しかもいままたここに、能面を持たされた四人目が産まれたのだ。
「偶然、じゃないんでしょうね。しかし、誰が」
「能面に関わる術を使うもの、あるいは能面の付喪神のような妖怪。私の知る限り、そんな者は幻想郷に確認できていない」
「そりゃまぁ、そんな派手な奴がいたらすぐ分かりそうなもんですが」
「四つの能面があるということは、ひょっとしたらもっと多くの面があるのかもしれません。実は輝夜や鈴仙も面を持たされているのかも」
「私のほうでも少し調べてみましょう。夢魂返しは是非曲直庁から獏に依頼したもの。それに付随するトラブルは把握しておきたい」
謎が少しも減らないまま、永琳は諦めて能面を仕舞い込んだ。
物が物だけに気味の悪い話である。ひとりにつきひとつずつというのも、誰かの意図を感じてしまう。何かメッセージが隠されているのではないか。しかし、誰が何のために。
「……何か、忘れていません?」
「『何か』って、何を」
小町に答を返せず、映姫はそれ以上考えることを止めた。
けれど、ぼんやりとした違和感が残る。ずっと部屋に掛けていた絵画から色がひとつ褪せてしまっていたような、言われても気づかない損失。
能面の動かない表情と虚ろな瞳が、何かを叫んでいる。
「まぁ、考え過ぎでしょう」
永琳に見送られて門を踏み出す。竹の葉が騒ぐ中を、彼岸の住人は真っ直ぐに歩いていく。迷いに迷う生を嘲笑うかのごとく、死はいつだって最短距離を通って先回りするものだ。
では、死んでもすぐに蘇る彼女たちには、この先で何が待つのだろう。鬼も死神も蓬莱人を止められない。映姫でさえも見ることのないだろう本当の終焉も、彼女たちはきっと立ち会う。身体も精神も関係ない。宇宙が燃え尽きても生きることは終わらず、次の宇宙が始まってもまだ生きている。生命だけがそこに在る。いつまでも、いつまでもそこに在る。
「小町、死は、私たちは救済だと思いますか?」
「はは、まさか。死も生も同じ、ただそこに意味も無く在るだけです」
行きには無かった倒木の下に、行きには無かった筍が顔を出している。なるほど、これなら確かに何も用意が無い者は迷ってしまうだろう。
「……でも、生者も死者もたいていはそう割り切れない。だから生きることに、死ぬことに意味を見いだそうとする。そしてその意味の物語を採点するのがあたいらってわけです。だからまぁ、その意味を汲んでやるという意味じゃあ、我々は救済者なのかもしれない」
「それではやはり、私たちに蓬莱人は救えませんね。完結しない物語に、閻魔は白も黒も付けられない」
「それも覚悟の上で飲んだんでしょう、あの兎は」
果たして、そうだったのだろうか。無間地獄の最下層という危険地帯から、無力化した朧帆と古明地こいしを連れ帰ってきたというのは大戦果に違いない。しかしその過酷な任務の中で、他に選択肢も無く口にしてしまったのではないか、という疑念は拭えなかった。考えすぎだろうか。
(……まただ)
映姫は額を押さえた。やはり、何かが欠落しているような気がする。
本棚の中に一冊分だけ空いた穴。
ワインセラーの一本分だけの空白。
一面の曇天にぽつんと穿たれた青空。
それは本当に、最初からそうだったのか?
「もし、もしもですが、私たちが関知できない物語の完結があるとして、それは無意味だと思いますか?」
「関知できない、って……。完結した意味の物語は我々が読むためにあるんでしょうよ。それ以外の存在意義があります? 我々に読めないんなら救いようが無い」
「それ以外の意義がもし存在するのなら、私たちが裁定するまでもなく、その物語は終わるでしょう。私たちから見れば、それは最初から始まっていないのと同じです。書くことだけに意味があり、読まれる必要のない物語。存在しない物語というものはあるのでしょうか?」
「そりゃ悪魔の証明ですよ。無いことを証明するのは不可能だ。っていうか、定義がもう矛盾してません?」
「……うーん、もう少しで何かに思い当たりそうなのに」
死ぬことなく消滅したもの。
最初から生まれていないに等しい命。
生命自体に意味を有した、例外中の例外。
あの能面は、その名残なのではないか。そんな予感が映姫の頭から離れなかった。これだけのシンクロニシティが、本当にただの偶然だろうか。
やがて竹も疎らになり、辺りは普通の林に変わっていく。湿った野原の向こうには田畑が小さく見え、そこに向かって踏み固められた道が白く浮かび上がっている。
獣道の脇、一本松の下で隠蔽を解くと、牛車が揺らめきながら姿を現した。
「書くことだけに意味がある物語、って言ってもねぇ」
扉を開いて踏み台を地面に置きながら、小町は言った。
「それを書いた奴は、本当に心の底から『誰も読まなくて良い』って思ってたんですかね?」
「さぁ、案外そういうこともあるのかもしれないわ」
「あたいに言わせりゃ、強がりだと思いますよ。そうでもなきゃ――」
扉を閉めると、牛車は音もなく彼岸を目指す。
映姫は目を閉じ、思考の糸を再び手繰った。何も無いように見えるところに、何かがきっとあったのだ。それは夢魂返しの中で失われてしまったのかもしれない。夢が現実に入れ替わったあの瞬間、誰かの何かが完結したのだ。だから、それが存在しないことになった。
(でも、それは……)
それは、本当にそれで良かったのだろうか?
瞼の内側で、小町の最後の言葉が何度も響いた。
「――そうでもなきゃ、せっかく言葉にした甲斐が無い」




