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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
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霧笛/はじまりのくに

【結界面から100キロメートル地点】

 静岡県富士市、山梨県南アルプス市、長野県諏訪市、群馬県草津町、栃木県那須塩原市を大まかに結んだ円周上がこれに当たります。

 結界最外部表面から放出されたエネルギーは毎秒一平方メートルあたり8.2×1013ジュールと見積もられており、これは広島型原爆が放出した総エネルギー和のおよそ1.5倍に相当します。この光熱放射により、結界面から100キロメートル地点の平均気温は十秒間で千九百度まで上昇したと考えられます。

 これより内側に生存者は想定されないため、要救助地域には含まれません。


【結界面から250キロメートル地点】

 愛知県岡崎市、岐阜県下呂市、新潟県長岡市、福島県福島市を大まかに結んだ円周上がこれに当たります。

 この一帯における光熱放射による気温上昇は、状況開始から十秒間で七百度ほどと考えられます。これは人間が暴露しても即死しないとされる気温の上限値に相当します。冷凍庫などの隔離された環境にいない限り生存の可能性はないとされるため、この一帯より内側は要救助地域には含まれません。


【結界面から500キロメートル地点】

 和歌山県潮岬、大阪府大阪市、京都府舞鶴市、秋田県由利本荘市、岩手県釜石市を大まかに結んだ円周上がこれに当たります。

 この一帯はコロナプラズマ放射終了時の平均気温が三百度ほどであったと想定されます。また降り注いだ放射線は毎秒140ミリシーベルトと想定されます。九十二秒間の放射時間のすべてに直接被爆した場合、累計放射線量は13シーベルトを超え、24時間生存率は50%ほどと見積もられます。急性放射線障害治療班をはじめとした特殊チームが救護に当たるほか、生存者の捜索及び避難が進められています。


【結界面から750キロメートル地点】

 福岡県福岡市、北海道札幌市近辺がこれに当たります。

 この一帯はコロナプラズマ放射終了時の平均気温が九十度前後まで上昇しました。また降り注いだ放射線は平均して毎秒21.3ミリシーベルトであり、九十二秒間の放射時間のすべてに直接被爆した場合、累計放射線量は2シーベルト前後です。

 爆風と高熱によって建造物は壊滅的な被害を受けており、現在までに確認された死者は約4万4千人、行方不明者は約23万8千人です。また急性放射線障害により救護を受けている者は約21万人ですが、72時間以内の死亡率は30%ほどと考えられます。治療のための設備は不足しています。

 要避難者は、ここに設置された臨時避難所に収容されるよう手配してください。




「菫子はさ、免許持ってないの?」

 車窓から吹き込む風が紫煙を後部座席に流していく。

「私はさ、周りが高校卒業んときに取るのが普通だったからさ、そのときに取っちゃったんだよ」

「いや、必要性を感じなかったんで」

 ちゆりは深くひと息を吸った。煙草の灯が尖った唇に吸い寄せられていく。

「でも、世界がこんなことになっちゃったら、もう取れないかもしれない」 

「もう免許の有無とか誰も気にしないだろ。運転変わってみる?」

 悪戯に笑ってみせる准教授に、菫子は苦笑とともに「まだ人がいるので」と答えた。

 瀬戸内を海岸に沿って東へ向かうふたりは、その惨状を嫌でも目にすることになった。辺りは瓦礫に埋め尽くされていて、道とそうでないところの見分けが付かない。行き交う疎らな人々が決まった場所を通るので、そこがかつて道だったのだろうということが分かる程度だ。焦げた臭い、腐った臭い、漏れた臭い、思いつく限りの悪臭が代わる代わる押し寄せる。

「あの狸め、端っから京都に出してくれりゃ手間が省けたのに」

「代わりに車を融通してくれたんですし」

「高速が寸断されてなきゃなぁ。これじゃ丸一日運転しても着くかどうか」

 ちゆりが吸い殻を灰皿に突っ込む。小さな受け皿はもういつ溢れてもおかしくない。

 夢魂返しによって再構築された現実の科学世紀へ、ふたりは戻ることになった。幻想郷から彼岸へ渡ったと思ったら、夢の世界を通じて人工衛星まで流れ付くことになったのだから、これ以上ないほどに奇妙な旅だったと言える。帰還には二ツ岩マミゾウが協力したが、彼女の目的地が臨時官邸のある福岡市だったので、そこからは自力で動かざるを得なかった。

 復活した現実は、ドレミーが介入を開始した時点、すなわちコロナプラズマ放射から一週間ほど経過した時点のものである。ゆえに関東平野近辺が完全に消滅した事実は戻っていない。

「……っていうか、菫子は知ってたのか? 生き延びた総理代行、あの与党内派閥のナンバー2衆議院議員、それが二ツ岩の子分の化け狸だったなんてさ。スキャンダルってレベルじゃないよ」

「いえ、ぜんぜん。世襲のふりしてずっと一匹で化け続けてたっていうんだから凄い話ですよね」

 ふたりが京都を目指すのは、ちゆりの親族を頼るためである。通信網が断絶したいま、その安否すらも把握ができないけれど、他に行くべき場所は無かった。

「……………………」

 菫子はまだ現実を認識できていない。聞いた話が真実なら、自分の両親も同級生たちも、もうこの世にはいないのだろう。

 生まれ育った街も、通学に使っていた電車も、菫子の見知った何もかもが光の中へ消えた。けれどまったく実感が無いから、胸の内に何の感情も湧いてこない。頭のどこかでまだ、皆があの街で生きているのだと信じてしまっている。

「ありゃ、またかぁ」

 ちゆりが少しうんざりした様子で言った。

 行く手には、根本から折れた電柱が道を塞いでいる。

「すまん。菫子、頼む」

「あ、はい」

 車を降りる。いつも通りに念じると、それはいつも通りに宙へ浮かんだ。道路脇の空き地にゆっくりと下ろして、菫子は小さく息を吐いた。

「サンキュー。これが無きゃ車で向かおうなんて到底……ん?」

「お、おい、君!」

 ドアに手を掛けた超能力者に、地元の住民らしき壮年の男が駆け寄る。

「いま、何をやったんだ? あの電柱、どける術がなくて皆困ってたんだ」

「あー……えぇっと」

「超能力者なんですよ、そいつ」

 言葉に詰まる菫子を、ちゆりが援護した。

「物持ち上げたり、空飛んだり、火を噴いたり、まぁ出鱈目な奴でね」

「ちょっと、ちゆりさんてば」

 信じるわけがない。そんなオカルトが存在するはずがない。それが科学世紀の常識だ。だから菫子がどれほど超能力を見せても、人々はトリックだと言い張るのが常だった。

 だが、その男は神妙な顔をしつつも、菫子へ向ける視線は真っ直ぐだった。

「超能力でも何でも良い。少し手伝ってくれないか。重機がいつまで経っても来ないもんで、この辺の連中は皆困ってる」

「し、信じるんですか、私が超能力者だって」

「あんだけ滅茶苦茶なことがあった後だ。神様だろうが妖怪だろうが信じるよ」

 結局、ちゆりが巧く話をまとめ、四十リットルのガソリンと引き替えに重い瓦礫の撤去を請け負うことになった。車やら屋根やらの残骸を軽々と持ち上げる超能力者の噂はあっという間に広がった。最後には菫子の作業を何十人もの見物客が見守り、ひとつ終わる度に喝采を送るほどになっていた。

「…………疲れたぁ」

 一時間だけの手伝いのはずが、どんどん依頼が舞い込んで、車を出す頃には日が暮れていた。トランクには礼として持たされた食料品やら水やらが満載だ。

「なんだか妙なことになっちゃったなぁ」

「良いじゃないか。困ったときはお互い様だろ」

「最後には私に五体当地しそうなお婆ちゃんまでいたじゃないですか」

「ははは、上手くやれば新興宗教興せるかもな」

「他人事だと思って」

「あれ、割と真面目に言ったんだけどな」

 ちゆりは上機嫌にハンドルを指で叩く。

「菫子のおかげで、ようやく分かったよ。結局、科学も宗教のひとつに過ぎないんだ。人間は自分の足下を正しさで固めていないと不安で仕方がない。現代はそれを科学に頼ったわけだ。私からすりゃ科学的事実は絶対だし、それ自体を曲げるつもりはない。でも、それは唯一の教典じゃないんだ。科学が正しいという宗教が存在するなら、科学が正しくないという宗教があったって何も不思議じゃない。目の前の現実、それを認識する自分自身の感情。それを認めてもらえる論理があるなら、皆それを足下に敷くんだ」

「……夢美ちゃんは、それを生まれつきやっていたのかもしれない」

「そうかもしれないな」

 苺色の賢者はまだ幻想郷に残っている。こちらでの腰を落ち着けた生活が確保できるまでは、向こうにいた方が安全だろうと判断したからだ。永遠亭に世話になっているのだから、身の危険については問題ないだろう。

 ちゆりがシガーライターに手を伸ばしたそのとき、カーラジオがふつと途切れた。日本各地の大ざっぱな被害状況を延々と繰り返すだけだった番組に、無機質なチャイムが割り込む。

 菫子は奇妙な予感を感じた。ボリュームを上げ、耳を澄ませる。

『――日本国民のみなさん。この度の激甚災害による大きな被害について、お亡くなりになった方々に謹んで追悼の意を表するとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます』

「誰だ、これ?」

 ちゆりが眉を上げる。演説を始めた女は、アナウンサーでもタレントでもないようだ。

 しかし菫子にとってはどこか聞き覚えのある声色である。

『関東平野を中心とした半径三百キロメートル範囲の消滅により、我が国は取り返しの着かない損害を被りました。三千万人を超える犠牲者はもちろんのこと、国家中枢機能の消失はその存続を危ぶませる水準に至っております。内閣の構成員全員と国会議員の九割が行方不明、各省庁もほぼ完全に麻痺状態という未曾有の事態です。早急の復旧を要します。ゆえに天皇陛下の詔に基づき、我々が暫定的に国家全権の受託を承ります』

 脳の隅にあるこびりついた汚れのような記憶が、菫子の鼓動をいやに早める。

『もはや科学世紀への信仰は盤石なものではありません。貴方がた人間は自ら神になろうと邁進し、神を見限り科学を信仰した。しかし、ご覧になったはずです。地上に降り注ぐ無尽蔵のミサイル、そして天より突き刺さった強大な神の矢。いずれもいまの貴方がたの科学知識では説明の付かない現象でしょう。しかし信じられなくともそれらは確かに存在し、この世界を灼き尽くそうとした』

 確信する。これを放送しているのは、人間ではない。

『正しくないのだから存在するわけがない、そう切って捨てたものが再び貴方がたの行く手に立ち塞がりました。そして本当に燃え尽きたこの惑星を、幸運なことに我々は立て直す機会を得ました。破局的な事態はひとまず終局しています。これ以上の災害に怯えることはありません。我々はこの国を、この世界を再興させるという使命を帯びているものと考えております。いまここに――』

 続く言葉が、ふたりを震え上がらせた。これは紛れもなく、クーデターだ。

『――いまここに、科学と幻想の融合した新たな社会体制の樹立を宣言し、博麗大結界を解放いたします。これが何を意味するのか、もはや貴方がた人間は覚えていないでしょう。百数十年も昔の約定です。ですが我々は忘れない。ほんの百数十年前の話ですから。いまこのときより、この世界は貴方がた人間が必死に忘れ去ろうとしていたものとなります。貴方がたには我々を正しく恐れていただく。貴方がたは夜を恐れ、太陽を恐れ、月を恐れるでしょう。この世界は常識と非常識の境界を越えた、貴方がたが知らない新しいものとなるでしょう。理不尽と思えるでしょうが、科学が万能ではないと知ってしまった貴方がたにはこの手段しか残されていない。科学のみならず、信仰と幻想が貴方がたの正しさを証明するのです』

「……何言ってるんだ? おい、これって、つまり」

「日本全体を、幻想郷みたいにする、ってこと?」

 車を路肩に止めて、ふたりはあらためてラジオに意識を傾ける。

『手始めに、神格及び妖怪には殺人と人身御供の禁止を通告します。ただし深夜に屋外にいる人間や人間を脱しようとしている人間はその限りではありません。第二に、弾幕決闘の原則を今後も適用し続けることといたします。直接的な戦闘行為や暴動が確認された場合、有志連合による討滅が行われるものと考えていただきたい。そして第三に、京都への遷都を上奏いたします』

 目的地の名前が出てきたので、ふたりは目を見合わせた。

 確かに、もう東京に首都機能はもう残されていないのかもしれないが。

『この度の未曾有の災害により、失われたものはあまりにも多い。この惑星が始まって以来、最大級の大絶滅と言えるでしょう。ですが、すべてが終わったわけではありません。まだ生きている者がおり、生きている社会がある。何もかもを失ったわけではありません。我々は勝利し、全球浄化の企てを挫いたのです。嵐が去ったならば立て直さなければならない。そのためなら我々は貴方がたに協力を惜しみません。神威、奇跡、伝承、幻想。こちら側にはまだ大きな力があります。さぁ、窓を開けて空をご覧なさい』

「……空?」

 ドアを開けて上空を見たちゆりが、そのまま固まった。

 菫子も窓から身を出す。そこには異常な光景――幻想郷を知る彼女であっても――が広がっていた。

 紺色の空から、大小さまざま色とりどりの光が降下してくる。ひとつひとつはけっして強い光ではない。けれどそれが帯となれば、宵の内を照らし出すには十分である。

 光を纏うのは幻想の者たち、異形も人形も獣形も入り乱れ、荒廃した地上へ駆け下りていく。

 よくよく見ると、地上にも呼応するように輝く存在がいくつかあった。科学世紀においては姿を潜めざるを得なかった神妖が、機に乗じて気炎を上げているのだろう。

「……私の超能力と同じだ」

「え、どういうこと?」

「科学世紀じゃあ信じられていなかったから、存在しないものとして無視された。でももう、いまは違う。科学では説明できない力の存在を世界中が知ってしまった。常識と非常識を分け隔てる必要が無くなったんです。だから神も妖怪も、力を取り戻す」

「それで国獲りってか。でも詔がどうのってさっき言ってなかったか。いくら人外つったってそこまで謀るとは思えないけど」

「聞いたことがあります。皇居には狸が住み着いてるって。国会議員に化け狸が入り込んでるくらいですから、皇居の狸っていうのももしかしたら」

「有事に備えて配下を張り付かせてたってことか。くそ、転んでもただじゃ起きない連中だな。このまま日本を幻想世界に変えて、ゆくゆくは世界征服ってか?」

「いえ、たぶんそう単純な話じゃあない。幻想郷以外にも神域は存在するはず。そしてきっと、同じことを考える」

 インターネット通信網が生きていれば、リアルタイムの情報収集もできただろうに。菫子は唇を噛む。

 ここから世界は決定的に変わる。信仰が人間を守り、幻想が人間を脅かす世界が戻ってくる。いま生き残っている人間が経験したことのない神代の社会へと逆行していく。それが人間にとって良いことなのかどうかはまだ分からない。ただひとつ確かなのは、もはや人間は万物の霊長ではないということだ。

『――我々は貴方がたの信仰を縛りません。何に祈ることも、何も祈らないことも自由です。夜が人間の世界でなくなったことを忘れてはいけません。満月を見つめてはいけません。人間をやめることは許されません。そしてこの世界には、越えては成らない境界があることを心に刻み、行動してください。ただ目の前のあるがままを受け入れ、生き延びてください。貴方がたがそうやって懸命に生きることを、我々は全力でサポートいたします』

 ラジオの向こうの声は、あくまで冷静沈着に言い放った。そこには勝利の喜びは無い。変わってしまった世界に適応し、すべてを飲み下す覚悟で表舞台に立った女。それがただそこで声を上げていた。

『申し遅れました。私は本日付けで発足した臨時内閣、全国務大臣全権代理兼全特命担当大臣全権代理、並びに新設された結界省大臣を拝命いたしました、八雲紫と申します』

「えっ? 紫さん、生きてたの?」

 思わず素っ頓狂な声を上げた菫子を尻目に、ちゆりは煙草に火を付けた。

「……ま、とりあえず、教授を迎えに行くのに結界を越える手間は省けたな」


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