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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
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千秋/はれわたるそら

 これがもはや何度目の宇宙だったか、鈴仙には分からなくなっていた。

 世界に形を取り戻すと、それを読んでいたかのように朧帆の苛烈な銃撃が来る。軽い目眩の中では躱しきれず、再生したばかりの身体に数発被弾する。激烈な痛みは足首と肩口、急所を外しながらも機動力は奪う部位。膝を突きかけたその瞬間には、もうこちらの懐に入り込んでいる。

 その手に握られているのは大振りの山刀。

(まずい!)

 意図を覚ったときにはもう遅い。

 的確に振り抜かれた刃が、鈴仙の両腕、肘から先を断ち切っていた。再生してからまだ十秒も経たない。生き返っては追い縋る小さな月兎に、向こうはすでに適応を始めている。

 そのまま強烈に蹴り飛ばされて、海原に向けて倒れ込む。起きあがろうとして、前腕を失ってはそれも難しいことに気づく。

 血塗れのまま蛞蝓のようにのたうち回る鈴仙を、朧帆は冷たく見下した。

「死なないなら死なないで、やりようはあるということだ」

 そして手を振り上げると、虚空から具現化された土砂と鉄屑が、鈴仙の上へと降り注いだ。必死に身を捩るけれどどうにもならない。瓦礫はあっという間に堆く積み上がって、ボロボロの月兎を覆い隠してしまった。

 殺せば即座に蘇り、再び立ち塞がる。

 ならば生かさず殺さず、動きだけを止めれば良い。考えてみれば呆れるほどシンプルな理屈で、朧帆はすぐに最適解へと辿り着いていた。

 ひと抱えはある岩と鉄パイプが絡み合い、鈴仙を海へと磔にしている。

「ぎっ……」

 身体が千切れそうな重圧と痛み。傷口にも容赦なく砂利が混じり込む。生きている証が奥歯を砕きそうな呻き声となって漏れていく。妖獣である自分は身体に縛られる度合いが大きい。そのことをここまで憎んだことは無かった。

 早く死ななければ。もう死を恐れなくても良いはずなんだ。死んで再生すればこんな妨害を抜け出すことは簡単なんだから。

「あ、あああ、ああ」

 首すらろくに回らず、視線だけがぎょろぎょろと何かを探し続ける。生温い、土埃に満ちた空気が喉を乾かす。緩慢に上下する海面のせいで、あちこちで瓦礫が軋んでいるのが分かる。

――きぃぃぃぃ。

 金属を引っ掻く嫌な音が、少しずつ近づいてくる。その発生源が、鈴仙の視界にも入った。竹槍のように尖った鉄パイプが、こちらへ真っ直ぐに降りてきている。ゆっくりと、ゆっくりと、波から少しずつ慣性を貰って。

 あれがここまで落ちてくれば、鈴仙の頭は貫き砕かれ、確実に絶命せしめるだろう。

 早く、さっさとここまで落ちてきて!

――きぃぃぃぃ。

 波をひとつ越え、鉄パイプが迫る。引き千切られたような無骨な切っ先は、刃物としては用を為さないだろうけれど、重さに任せて潰し掻き混ぜるのには十分だ。じれったいほどの時間。目を逸らしたい。けれど見つめずにはいられない。

 さっさと殺して、ここから解き放ってほしいのに。

――きぃぃぃぃ。

 嫌だ。

 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!

 死にたくない。たとえそれしか手段が無いとしても、死ぬのは嫌だ! もうどこからどこまでが自分なのか分からなくなっている。前に死んだ自分は本当に自分か? あの大きな虚ろをゼロになって何度も通った。気の遠くなるほど永い一瞬を過ぎてここまで帰ってきた。もう、嫌だ。あれをもう一度だなんて絶対に嫌だ!

――きぃぃ。

 来る。次の波が通り過ぎたら確実に。あのパイプがこの頭を通り抜ける。顔の中心を貫いて、脳幹を徹底的に圧し潰す。そのときには死んでいるはず。それでここから自由になれるはずなんだ。

 嫌だ。早く、さっさと済ませて。だけどなんだかさっきよりも降下速度が鈍くなっている気がする。何かが上で引っかかっている? お願い、やるならひと思いにぐしゃって。嫌だ。来ないで。誰か助けて。

 呼吸も鼓動も止まない。止まってくれない。

 止めたいって思ったときに止められれば良いのに。

 もういいよ。どうして私がこんなことをしなきゃいけないんだ。私はあのひとに敵わない。才能、実力、信念、何を取ってもあのひとに勝るものなんて無い。挑みかかっては殺されて、ほんの数秒だけ足止めをして。それでその先、何がある? あのひとが面霊気を見つけることができなければ良い。ただそれだけのために、どうしてこんな思いをしなきゃならないんだ。

 もういいよ。

 もう、追い縋らなくても、前に進まなくても、いいよ。

――きぃ。

 波がパイプを押し下げて、しかしそれが目と鼻の先で止まった。まるでこちらを嘲笑っているかのように、パイプは震えていた。それが肌で感じられるほどに近い、のに。

 一番したくない想像をしてしまう。このパイプがゆっくりと頭を圧し潰していく様を。鈍い切っ先が目と鼻を緩慢に剪断して、じっくりと時間をかけて殺されていく自分を。

 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! それだけは!

 規則正しく押し寄せる波の、その間隔が長くなっているように思える。単に緊張のためなのか、それとも時間がまた狂ったのか。いや、実はもう生きていると勘違いしているだけで死んでいるんじゃないか。鈴仙の脳は止め処ない思考で乱れに乱れていた。

 だから、そのメッセージログが本物だったのかどうか、彼女には終ぞ分からなかった。


Malu0333『ごめんね、レイセン。でもこれは、貴方にしかできないことなの』(99999999999999)


 訳の分からないままで、しかしその一言で頭が冴えた。思えば彼女は、麻流はいつもそうだった。一言でこんがらがる思考を解きほぐす才には、鈴瑚も一目置いていた。常にふわりと笑っていた彼女がいなければ、イーグルラヴィは早々に瓦解していたかもしれない。

(……あぁ、そっか)

 そして、鈴仙の中でぴたりとパズルのピースが埋まる。

 面霊気の姿に、常に既視感を覚えていた。そうだ。秦こころは、麻流に瓜二つだったんだ。笑顔じゃない彼女を見たことがなかったから、気がつかなかった。

 決心は要らなかった。抵抗無く行動に移れた。

 パイプの根本を狙い、妖力弾をひとつ展開する。均衡を崩すにはそれで十分だった。パイプが一気に海面まで到達する。感覚と思考が糸を引いて散らばっていく。光が裏返り音が逆転し、痛覚が細胞に原子に分かたれていく。何もかもが引き抜かれて落ちていく。水溜まりに投げ入れられた泥塊のように、溶けて解けて小さくなっていく。私は何でもなくなり、水のすべてに私はなる。何も感じないのに何もかもと共鳴している。大きく開かれた口、蠢くゼロで充ちた虚。太さも端もない紐と化した魂の随がそこへ延びている。廻って、巡って、そこへ向かう。その重力に抗えるものは無い。

 光と成り先へ進む。

 覚えている、その場所。

 私にはまだ、やるべきことがある。


――再生/リザレクション!


 熱を、呼吸を取り戻す。

 そこは狙ったとおりに朧帆の数十メートル前方である。存在を誇示するように、弾幕と幻影を全力で展開した。向こうは絶対に無視できないだろう。

 ほら、読み通りに向こうが獲物を構える。

 赤眼と赤眼が真正面に相対し火花を散らす。誰が正しいのか、誰が狂っているのか、それを定義するための光。

 彼我の距離、全速力で詰め合って、一秒。間合いに飛び込んだ鈴仙を出迎える斬撃の嵐、それを出鱈目に躱しきって至近距離からの心臓への一発。相手の急制動ロール、その先へ二発、三発。

 すべて当たらず、しかしそれを認める前に幻影を八方向へ展開、そのひとつに紛れ込む。機銃掃射が肩口を浅く掠るけれど。

(構うな!)

 直上、低空、海面すれすれ。加速と停止を繰り返し、リロードか攻勢変化のほんの僅かな隙を待つ。朧帆にそんなものがあるのかどうかは分からない。たぶん、そんな隙は無い。けれどこちらが一定のダメージを負ったことを確認した途端、彼女は先ほどと同じように生かさず殺さず留め置こうとするだろう。

 圧倒量の弾幕と、苦し紛れ一歩手前の反撃。

 不死と化したくせに死に者狂いで、限界を超えて鈴仙は舞った。死んでも構わない、けれど死にたくはない。そんな矛盾した意識が彼女に力を与えていた。

 対する朧帆もその程度の力技で押し切れる敵ではない。彼女はとうに生物としての限界を越えて、対生物圏兵器と化すまで能力を拡張されている。それを受け入れるだけの狂気が、それを可能にするだけの才能が、如何程のものかを探ることは難しい。

 撃ち合ったのはほんの数十秒、しかしそれは永遠のようにも思えた。少なくとも鈴仙にしてみれば、死を覚悟した瞬間は片手で数え切れないほどあった。

 だが、宇宙が永遠でないように、どんな戦いにも終わりは訪れる。

 銃撃が、止まった。

(……?)

 海原に着地し、鈴仙は長距離妖弾射撃の構えを取った。明らかにおかしい。朧帆は隻腕から武器を取り落とし、徒手で立ち尽くすばかりだ。先ほどまでの殺意は消え失せて、ただぼんやりとあらぬ方向を見つめている。

 いったい、何を考えている?

「――気付かないのか、鈴仙。波が止んだ」

 波が、止んだ。

 その意味が一瞬だけ分からず、しかしその耳が異変を関知する。

 変に、静かだ。

 ここに飛び込んでから、ずっと重低音が響き続けていたことに、それが止んでから気付く。空気の震え方が、エンジンを切った車のようにすっかり変わっていた。

 そして海面を伝播する波も、どんどん低くなってきている。天頂へとせり上がっていく泡の内側、光を横切る無数の直線。それが薄れて見えなくなる。この海は完全な光に、この泡は完璧な球になろうとしている。

「終わりだよ」

 朧帆は海面に座り込み、そのまま仰向けに倒れた。

 終わった、と彼女は言った。それが何を意味するのかが、鈴仙にも不思議と理解できた。

「こころさん……」

「面霊気がトコツネへ還った。追いつけなかった私の負けだ」

 ぼうっと空を見上げる月兎兵は、どこか間抜けな顔をしていた。

 秦こころは死んだのではない。消えたわけでもない。ただ、還った。あらゆる宇宙から隔たれたこの無限深の海へと、還った。生命であることを止めて、この海面の下へと抜けていった。

 胸が騒めく。一筋の涙が流れる。鈴仙にはその決意を、覚悟を想像することしかできない。だが、死ぬことすら許されない彼女にとって、それは自分自身から世界を救う唯一の手段だったはずだ。

 だからこころは、すべてを手放し、命さえも返して、ここへ還った。

「思い出してしまったか。いや、思い出させた奴がいるのか。どこで敗着した? まぁ、考えるのも詮無いことか」

 これでもう、朧帆の追撃がこころに届くことは無い。ツクヨミは再び完璧な姿へ戻り、弑することは不可能となった。最強の月兎兵は、生命世界の根絶任務を失敗した。八意永琳の面目躍如である。

 祝福するように、歓喜するように、海の輝きが増していく。

 寝転がったまま、立ち尽くすまま、ふたりは光へ沈みいく。

「殺したければ、殺していいぞ」

 朧帆の言葉に、あり得ない言葉に思わず振り返る。

「どのみち、私はもう消えるだろう。未来の私を取り込みながらここまで来たんだ。ここで面霊気に追いつくまでの時間があれば良かったからな。それが不可能となれば、私はただ消えるだけだ」

「消える、って……」

「文字通りの意味だ。私は意味を果たせなかった」

 淡々と言葉を紡ぐ朧帆に、鈴仙は混乱した。

 何を言っているのか分からない。この狂った月兎兵は、自分が何をしてきたのかを理解しているのか?

「私のすべては無意味だった。そんな存在は消えるのが筋というものだ」

 星に溢れる生命を灼き尽くしてでも望みを果たそうとしたくせに、それが叶わぬと知った瞬間にこれか?

 こんな奴に私たちの世界は滅ぼされるところだったのか?

 ぐつぐつと煮えるそれが怒りであると気付くのに、深呼吸ひとつの間が必要だった。そして同時に、やるべきことが何であるのかも分かった。いまここにいる、鈴仙・優曇華院・イナバにしか為し得ないことが、確かにある。

 朧帆を、消すわけにはいかない。

 そうと決まれば、行動は一瞬だった。

 親指ほどの小瓶を、輝く海へ放る。鋼と同じ堅さを持つはずの海面に、それは音もなく入り込んだ。小さな泡が弾けて、瓶が液体で満たされたことを知らせる。細い鎖を引き上げると、それは硝子のような飛沫を散らしながら三次元空間に汲み上げられた。

 そのまま有無を言わさずに間合いを詰め切ると、鈴仙は朧帆の胸ぐらを掴み上げて、そのまま背後へと回り羽交い締めにした。

 そして瓶の中身を、断たれた右腕の断面へとぶち撒ける。

「……何だ、それは」

「蓬莱の薬をどこで手に入れたのか、と聞いたわね、さっき。貴方の言うとおり、私は薬そのものを師匠から譲り受けたわけじゃない。でもね、薬ならあるのよ、そこら中に」

「まさか」

 朧帆は自分の足元を見た。

 底の無い輝く大海原。どこまでもたゆたう光。物質の浸潤を拒む水。

「そんな馬鹿な。鈴仙、お前、私に……」

「ここは蓬莱の薬の海。宇宙へ流れ出る前の魂の源泉。師匠が見出したのは薬の製法じゃない。薬をこの海から汲み上げる方法だったのよ」

 鈴仙の手の中には、永琳から預かった小瓶があった。次元の壁を貫き、この不可侵の海から水を掬うことのできる器具だ。

 尋常の道具ではない。永琳がどんな手法で、どんな思いでこれを作り出したのかは想像することすらできない。蓬莱の薬を飲む罪。許されない罪。それを犯す者は狂っていると月では見なされた。ならばかの月の賢者は。遙かな昔に断ち切ったトコツネとの繋がり、それを復元するどころかほぼ同化する手段だと知ってなお、平然とこの小瓶を作り上げた彼女は。

 そして、その罪を進んで引き受けた鈴仙もまた。

「あ、ああああ、あ……」

 鈍い力で朧帆は鈴仙を振り解こうとした。人が変わったかのように弱々しい、どこにも根ざしていないような力だった。

「お、お前、お前、何をしたか、分かってるのか」

「もちろん。貴方を究極の生命として宇宙に引き戻す。このまま宇宙の外へ消え失せて終わりにしようだなんて、それを私が許すとでも?」

「やめろ、やめてくれ。ちくしょう、なんで……」

 小瓶によって生命次元に固定された煌海は、もはやよく見知った水と同じように振る舞う。傷口に素早く染み込んだ蓬莱の薬は、即座にその身体を穢れで満たした。

「なんで、なんで、なんで、なんで、あぁ、ああああ」

 鈴仙が腕を放すと、朧帆は痛々しく乾きかけたその傷口を乱暴に引っ掻いた。指で赤い肉を毟るも、もはや薬を掻き出せるわけもない。

「あぁ、痛いぃ、痛いよぉ。なんで、蓬莱の、薬を、ああああああ!」

 倒れ込みのたうち回る小さな兎。その無様な姿を見ても、溜飲は下がりはしなかった。これしきで足りるものか、と鈴仙は唇を噛んだ。

 朧帆に神をも凌ぐ権能はもはや無い。任務を果たせないという結論が確定した時点で、かの冷徹な存在はすでに手を引いている。穢れを祓われほとんど月民になりかけていた彼女だったが、蓬莱の薬によって一気に地まで引きずり下ろされたわけだ。

「わ、私にもう存在する意味は無くなったんだぞ! 生まれた意味を果たせなかったんだ! それなのにどうして生きていなけりゃいけないんだ!」

「自己満足だけで完結するな! 生きるのを止めて勝手に消えるには、貴方は多くを奪いすぎた!」

「そんなもの知ったことじゃ無い! 間違っているお前たちを正すことがなぜ悪い? ここまで来るのに三百億年潜り続けたのに! どうして、どうしてこんな無意味な仕打ちを!」

「無意味なものか! 貴方に見せつけ続けてやる、壊された者たちの生きる先を!」

「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 無意味に永遠を生きるだなんて嫌だ!」

 滴る血が海面を汚し、それがさらに錯乱した朧帆を赤黒く染めていく。七転八倒しながら泣き喚くその姿には、もう先程までの威容は見る影も無い。

 私のやるべきことはこれだ、と鈴仙は信じたかった。朧帆を元の宇宙へ、地獄を抜けて現世まで連れ戻すのだ。誰かが裁くかもしれない。どんな報いを受けることになるかも知らない。恒星級災害と化した一個人の扱いなど、一介の月兎には想像もできない。それでも必要なことには違いないはずだ。

 元の道を戻ることは簡単ではない。古明地こいしと確実に合流する必要がある。あの滝の回廊で彼女と逸れたらどうなるか、鈴仙は身に沁みて知っている。

「…………まだ、間に合う、かもしれない」

 朧帆の呟きに視線を上げると、彼女はのたうちながらも自らが取り落としたハンドガンへと向かっていた。

「蓬莱の薬、が、身体に、あはっ、回る、前なら、あはははは」

 良い思いつきに引きつった笑い声を漏らしながら、銃を手に取ろうとして何度も血糊に滑る。まるではいはいを覚えたばかりの幼児が玩具を目指し悪戦苦闘しているような格好だ。

 二度、三度と銃を取り落としながらも、やがて望むものを手に取った彼女は、喜び勇んで銃口を口に咥える。その表情には99%の恍惚と1%の恐怖。両の瞳から涙を流しながら、朧帆は何度か荒い呼吸で勢いを付けて、それから引き金を。

――バァン!

 引いた。上顎から上が綺麗に弾け飛ぶ。頸動脈から噴水のように血を吹き上げながら、その身体は仰向けに倒れた。

 その様子を鈴仙は、何の感慨もなく見つめていた。これくらいの光景は訓練学校時代から見慣れたものである。それに、これから何が起こるのかは火を見るよりも明らかなのだから。

 ほんの少しの静寂が流れて。

 飛び散った朧帆の身体が光に泡立った。撒き散らされた血液も同じ色の光となって立ち昇り、二重螺旋の軌跡を描く。それが空中でひとつの球となり、少女の形に少しずつ形成されていく。再誕の光が弾けて、元の場所に同じ身体が転がり出た。

 海面にへたり込んだ朧帆には右腕が無い。やはり蓬莱の薬を服用した時点での最後の身体情報が保持されている。はたと気が付いて、鈴仙は自身の上腕を検める。そこには朧帆に付けられた一文字の切創が、両の腕にまたがって残ったままだ。この傷は永遠に残るのだろう。

「……………………」

 朧帆は小さく震え続けるまま、まったく動こうとしない。その目は恐怖に絞られたまま、何も見てはいなかった。

「ちょっと」

「!!」

 かけられた声に驚いて飛び上がる。子兎そのものの姿に、鈴仙は面食らってしまった。

「もう足掻いても無駄だと分かったでしょう」

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」

「帰りますよ。貴方をまずは師匠の元まで」

「ああああああぁぁぁぁぁぁ!」

 無事な方の肩を掴もうとしたところで、全力の抵抗にあった。といっても幼子の駄々とほとんど変わらない。立ち上がるや否や駆けだして、平衡を崩しあっという間に転倒してしまった。

「待ちなさい!」

「いやああああああああ!」

「何なのよ、もう、いいから落ち着いて」

「く、来るな! 触らないで!」

 悪戦苦闘しながらなんとか取り押さえる。その精神から放たれる波長は酷く乱れており、強い恐怖ですべてが塗り潰されていることが窺える。

「さぁ、立って。私と一緒に来るの」

「いやだ……死にたくない……殺さないで……」

 蚊の泣くような声で命乞いをする様は、惨めを通り越してもはや滑稽ですらあった。

 だが、鈴仙には理解できるような気がした。朧帆もまた、あの輪廻の道筋を通り抜けてここまで来たのだ。魂を細かく砕き、あらゆる情報を消去して循環に戻す漆黒の大穴。何もかもをゼロに至るまで砕き続ける最終処分場。

 鈴仙だって未だに恐ろしい。できることならあれを通り抜けたくはない。ここに戻ってこれると知っていても。

 朧帆の場合は、穢れから逃れかけていた者が、反転して穢れそのものと一体化してしまったわけだ。その反動は大きいのだろう。

 こいしを探さなければ。波形探査を広域に切り替えながら鈴仙は元隊長を担ぎ上げる。

(……あれ?)

 違和感を覚えた。ここにいない無意識の妖を意識できるのは、どういうわけだ?

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