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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
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絶望/きみだけはぜったいに孤独じゃない

 いつからだろう。

 声の聞き方を思い出せなくなったのは。五月蠅すぎる世界で、罵声と怒鳴り声に満ちた世界で、それでも誰かの声に触れたくて、言葉を拾う方法を一生懸命考えていたのに。誰もが私を嫌う世界から抜け出したい。ただ暖かい言葉が聞きたかっただけだったのに。

 忘れてしまった。

 記憶だとか思い出だとか、そういうものが綺麗さっぱり消えてしまった。少なくとも不意に蘇ることはなくなった。ぜんぜん問題なんてない。どうせ無かったほうが良い思い出しかないんだ。何もかも無くして、そして生まれ変わったから、いまの私がいるんだ。

 見えなくなった。

 怖いものが何もかも、私の視界から消え失せた。そうか、皆こんな世界を見ていたのか。誰もが笑ってる。誰もが仲良く過ごしてる。誰も誰かを殺そうとしていない。なんて素晴らしいんだろう。どうして私には、こんな世界がぜんぜん見えなかったんだろう。

 だからついには。

 自由になったんだ! もうつらいことなんて無いんだ! 怒鳴り声で満ちた世界なんて無かったんだ! 私が嫌われる世界は滅んだんだ! もう耳を塞いでじっと耐えなくたっていいんだ! 悪意に怯えなくっていいんだ! 私はどこへ行ってもいいんだ!


――嘘だよ。

――ぜんぶ、嘘だよ。


――だって、嘘にしなきゃ。


――これが、もし本当だったなら、私は。


 引き千切られた。

 たとえば、彼女は二度とひととひとの繋がりには戻れなかった。あるいは、彼女は二度と過去と未来の繋がりには戻れなかった。そして、彼女は二度と誰かの記憶との繋がりには戻れなかった。感情の交換は途絶え、感覚の無い場所では彼女は消失していた。

 塗りつぶされた。

 背景が、世界が、透明が、彼女をすっかり覆い隠してしまった。彼女がいない場所では、彼女は本当に存在していなかった。誰かを信じることも、誰かに信じてもらえることもない。あらゆる意識は彼女を忘れ去った。だから彼女も、その虚を漂うしかなかった。

 焼き捨てられた。

 帰る場所だけはあった。最初のうちはそう思っていた。お姉ちゃんだけはいまの自分を理解してくれる。あのひとの下になら帰れるんだ。だってお姉ちゃんが私のことを忘れるだなんてあり得ないもの。果て無き無意識の底に落ちたとしても、お姉ちゃんなら。

 この世界でただひとり、お姉ちゃんだけは。

 覚えていてくれるって。

 覚えていられるって。

 抗ってくれるって。

 思い出せるって。

 信じてたのに。

 それなのに。

 眩しい闇が何度も何度も覗き込んだ。強い風の吹く先で、何かが散り散りになっていくのが見えた。空が落ちる。落ち続けている。時間が歪んだり、歪んだり、歪んだり、歪んだりする。誰とも目が合わない。星のように瞬く光が幾重にも重なって通りすぎる。かと思えば、気が付いたときには、まるで最初からそうであったように。回る。星とともに螺旋を描く。星系とともに螺旋を描く。銀河とともに螺旋を描く。大銀河団とともに螺旋を描く。小さな小さな形を作った。大切にしなきゃいけないと思った。掌の上に大切に捧げ持って、立ち上がって、そして不意に指の隙間を零れ落ちて、何かに当たって砕けてしまった。周りにはそうやって、ぐちゃぐちゃに壊してしまったものばかり。

 散らばるその中、ただ歩いていく。

 引っ張られている。顔を上げると。

 誰かが、こいしの手を引いていた。

 感覚したそばからすべてを忘れてしまうはずの頭が、その温もりだけは覚えていた。指と指、掌と掌。それが触れ合った場所の温度。この世界のどこにでもあるはずの熱。そのありふれたものが、彼女は喉から手が出るほど欲しかった。けれど世界の誰もが、彼女に差し伸べる手を持たなかった。

 けれど、いま確かに、目の前には。

「こころちゃん」

 手を引く彼女は、半分透明だった。

 それは何の比喩でもない。面霊気の身体はあちこちが破けてしまっていて、本当ならばらばらになっていたはずなのに、その欠片を海水が繋いでいた。こころの身体の形を、白く煌めく水が象っていた。こいしの手を握るその手も、指と掌の半分は海だ。

 無意識に沈むこいしを、何度も繋ぎ止めた手。

「こころちゃんてば」

 こいしの声に、こころは応えない。聞こえているのかどうかすら分からない。彼女はただ前だけを見て、どこかへこいしを連れて行こうとしている。何を目指して歩いているのか、皆目見当がつかない。

 ふたりが進んでいるのは海のトンネルだった。床面、天井、壁、そのすべてが水でできている空間だ。それなのに足は少しも沈まない。それどころか岩のように硬い。あらゆる場所が輝いているせいで、暗いどころか眩しいくらいだ。

 気が付いたときにはいつの間にかここにいた。滝を昇りきった先、あの兎に追いつかれた瞬間、何かが弾けた。トンネルの中で尻餅をついてしまったこいしの前に、半分透明なこころが立って、半ば強引に手を掴んで立ち上がらせた。

 そして緩く下る洞窟を、ただただ進み続けている。

「こころちゃん」

「……もうすぐ、着くよ」

 ようやく口を開いた面霊気の声は、少し泡立っていた。ひょっとしたら、喉も少し海と化しているのかもしれない。

「もうすぐ着く、と思う」

「どこに行くのか、教えてくれないの?」

「うまく、説明できない。見たほうがきっと早い」

 説明してほしいわけじゃないんだけどな。こいしは足を懸命に進めた。海そのものである洞窟はゆっくりとうねっていて、とても歩き易いとは言えない。何度も何度も転びそうになるのを、握った手が引き留めていた。

「前にも、こんな風に歩いた気がするよ」

「そうだな。こんな風に歩いた気がする」

 ふたりが思い出すのは、この海に辿り着くまでの旅路。こいしにとってはつい先日の記憶。けれどこころにとっては、遠い遠い時間の彼方の記憶。けれど、そのどちらも、同じくらい朧気だった。あの旅が本当だったのかどうかすら思い出せない。何もかもがぼんやりと滲んでいる。

 海へ行きたかった。海に行けさえすれば、幸せになれると思っていた。ここではない別の場所が、どこかにあるのだと信じて疑わなかった。理由はもう分からない。誰が確証をくれたわけでもなく、何かで読んだわけでもない。それでも行きたかった。海に行って、何もかも飲み込んでしまいそうな水塊に触れて、そして。

 そして――どうしたかったんだっけ?

 周りの皆が何やら慌てふためいていたけれど、ふたりには理由が分からなかったし、どうだって良かった。だってそうでしょう? たとえ世界が滅びようが、ふたりにはそれよりも大切なことがあったのだから。

 心を失った笑顔の妖と、笑顔を失った心の妖は、混ぜて半分にすれば丁度良かったのだろう。けれどそうはならなかった。まったく伝わらない感情と、容易く伝わってしまう感情。ぶち撒けた胡椒を元に戻す術が無いように、彼女たちを丁度良い塩梅にしてくれる魔法は見つからなかった。

 本当は、目的地なんてどこでも良かったのかもしれない。ただ、互いしか互いを知らないところへ逃れたかったのかもしれない。誰も見咎めない、誰も舌打ちしない、誰にも怖がられない場所。だけど結局、この世界にはふたりぼっちになれる場所なんて無かった。宇宙の果てまで来ても、月兎は面霊気を殺そうと追ってきた。

 結局、海には何も無かった。

 魔法なんて、どこにも無かった。

 当たり前だ。この宇宙はそんなに都合良くできていない。たまたま生きていける星に生まれたというだけの自分たちが、それ以上の奇跡を享受できるだろうか。それは流石に傲慢が過ぎる。海はふたりのために在るわけでもなんでもない。海はずっとそこにある。生命よりも前からずっと。そして生命が滅び去ってもなお。

 だから、最初から意味なんて無かったんだ。

 分かっていたのに。分かりきっていたはずなのに。

 どうして、何かあるだなんて、勘違いしてしまったんだろう。

「楽しかったよ」

 こいしは言葉を音にした。そうすれば、嘘も嘘じゃなくなるような気がした。

 振り返ったこころの表情は、やっぱり彫刻みたいな無表情で、それは半分が海と化しても変わることはなかった。頬の端が一片、解けて海へと溶けていくのが見えた。

「私も、楽しかった」

 そのときようやく、こいしは違和感に気づいた。

 いつも頭に付けている感情の面が、無い。

「そろそろだと思う。これだけ深く潜れば」

「そろそろって」

 何が、と聞こうとして、言葉は続かなかった。

 ふたりを取り囲む海、その水の煌めきが縮退する。舞台の灯りが落とされたみたいに光が消える。

「普通なら、潜り始めたらすぐに届くはずだった。ここは魂の源泉、心象の奥底。ひとを形作る記憶、そのもっとも大きなものを、トコツネは知っている。誰だろうと、ひとりひとり、すべてここに刻んでいる。ここなら、それに触れることもできる」

 こころの身体を埋める海だけは、光を失わなかった。闇に沈み行く視界の中、彼女の姿が恒星のように浮かび上がる。

「けれどこいしは、トコツネから離れてしまった。だから原初の心象まで辿り着くのもひと苦労だ」

「離れた、って何? 意味が分からないわ」

「意味が分からないのは私にとっても、我々にとっても同じだ。我々から命が切り離されるなんてあり得ないし、切り離されても生き続けているだなんてことはますますあり得ない。そのはずだったんだ。けど貴方は生き続けた。感情の供給、感情の交換、そのすべてを断たれた絶望的な状態で」

 痛いくらいに強く、こいしはこころの手を握る。

 声はもはや彼女の喉から発せられてはいない。空間そのものが、この海の洞そのものが話している。

「理屈は分からない。それにもはやそんなものはどうでも良い。不可逆な欠損とともに、誰にも知られない苦痛とともに貴方は生きる。貴方が生きている事実すら記憶されない宇宙で。その様を我々はずっと見ていた。見ていることしかできなかった」

 ぽつり、ぽつりと彩りが点る。淡い原色が形作る古代信仰の名残。こいしにとっては見慣れた光景が、だんだんと闇の中へ照らし出される。

 赤みがかった煉瓦造の壁。

 八咫烏のステンドグラス。

「これは……地霊殿?」

「これが、貴方にとっての原初の記憶」

「そりゃそうだよ。ここに住んでるもの。こころちゃんだって知ってるでしょ」

「ついてきて。あともう少しだから」

 エントランスホールをふたりは歩き出した。こいしにしてみれば、もう手を握ってもらわなくても迷うわけがないのだけど、なんとなく振り解けなかった。

 辺りは静かだった。静かすぎるくらいだ。動物たちが住み着いた地霊殿がこんなに静まりかえっていることは考えられない。いや、そもそも動物の影はおろか、足跡のひとつも抜け毛の一本も見あたらない。

 原初の記憶。こころはそう言っていた。つまり、いま見えているこの光景はひょっとしたら、動物たちが寄りつくようになる前の、ずっと昔の地霊殿なのか。

『――ごめんね、ごめんね』

 か細いすすり泣きが聞こえた。半開きの扉から光が漏れている。

 姉、さとりの書斎だ。間違えるはずもない。

『ごめんね、許して、ごめんね』

 だが、あれはさとりの声なのだろうか。

 旧地獄を統べる強靱な精神力を持つあの姉が、あんな風に泣くのだろうか。

 知らない。こいしにはそんな記憶は。

『私は忘れちゃだめだったのに。覚えてなきゃいけなかったのに』

 無い。思い出せない。これが現実に起こった出来事のはずがない。

「お姉ちゃん……?」

 光の漏れるほうを覗き込む。こころは立ち止まり、黙って待っている。

 書斎の中には、所狭しと大小様々なキャンバスが立ち並んでいた。さとりを取り囲むように立つそれは、やはりまちまちな大きさのイーゼル――いくつかは端材による手製に見えた――に立てかけられている。さとりは一心不乱に絵を描いていた。完成したものも、途中で投げ出されたものも、すべて同じ少女が描かれていた。

『ごめんね。もうぜったいに忘れたりしないから』

 思い出せないはずの記憶。切り離された記憶。

 さとりは、ひたすらにこいしの絵を描き続けている。

「…………そんな」

 そんなはずはない。これが現実に起こった出来事のはずがない!

「この光景を貴方は見ている。貴方が見たからここに刻まれている。ただ貴方が無かったことにしたいだけ。ただ貴方は、忘れたいだけ」

「違う! だって、お姉ちゃんは」

「貴方はそう信じていたいだけ。『古明地こいしには感情が無い』し、『姉も自分を疎んでいる』と。貴方が現状に折り合いを付けて生きるためには、そうするしかなかった。この前提が真ならば、貴方も自分を納得させられる。覆せない絶望的な状況から目を背けられる」

 冷たい刃で胸を貫かれたようにぞっとした。思わず逃げ出そうとするけれど、こころは手を離さない。

「嫌だ! 行きたくない!」

「貴方が行きたくなくても、我々は連れていく。これまでのすべてはそのためにある」

「意味分かんないよ! どうしてこんなことするの?」

「これが、私の果たすべき意味。私が生まれた理由だから」

 再びこころは手を引いて歩き出す。こいしは逆らえず、書斎を後にせざるを得ない。

『ごめんね。ごめんね……』

 泣き声がいつまでも、こいしの後ろ髪を引き続けた。

 どこにも自分がいられない世界の中で、ようやく居場所のようなものを作り上げた。そのために、たぶん自分自身ですら気づかないうちに、たくさんのものを犠牲にして、無かったことにした。分かっていたのに。

 お姉ちゃんですら私の無意識に抗えなかった。私を忘れてしまった。でもそれは、お姉ちゃんが私のことを嫌いだったからだよね? そうに決まってるよね?

 憔悴しきった小さい姉の背中。千年は老いさらばえたような後ろ姿。知らなかった。見たくはなかった。忘れたままでいたかったのに。

 そうだよ。

 分かっていたよ。

 本当は、とっくの昔に。

 世界は私の思ってるようにはできていなくて。

 世界は私の知らない概念で満ちあふれていて。

 世界は私の届かない場所にまで広がっていて。

 世界は私の為に存在しているわけじゃなくて。

 私の苦悩も、私の絶望も、私の忘却も、私の感情も。

 この世界にとっては、どうだって良いもの。

「……だけど、じゃあ、どうしたら良かったの?」

 こいしは紙みたいに平べったい声で言った。

「私ね、もう聞きたくなかったんだ。恨み辛み、憎しみや妬み、汚く罵り合う心の声。地球の裏側で知らない言葉を話すひとだって、心の声は同じなのよ。お姉ちゃんは聞こえないって言った。けど私には休む暇もないほどに聞こえ続けたの。だから瞳を塞いだ。私、悪いこと、した?」

「我々には善と悪を決められない。それを決めるのは貴方たち」

 床が流れていく。ところどころ、細かい波が立つ。

 こころの手は強くて、熱い。

「たとえ貴方が幾つもの命を奪った存在だとしても、我々は悪いとは思わない。我々にとってはどうでも良い。我々が気にかけるのは、命が命として在れるかどうか。貴方は命の範疇から逸脱してしまった。だから私が生まれる理由になった。貴方にはどうしようもなかったことだから」

 廊下をゆっくりと、けれど確実にふたりは進んでいく。止まることは許されない。引き返すことは叶わない。

 こいしは知っている。この先に何があるのかを、もちろん知っている。

――でも。

 こいしは知らない。いったい何が待ち受けているのか、想像できない。

 失ったはずの記憶の中で、忘れ去ったはずの傷口をまさぐられている。嫌だ、痛い、逃げ出したい。もう何も見たくない。

 廊下を突き当たると、ふたりの目の前にこじんまりとしたドアが現れる。

「……私の部屋だ」

 見間違うはずもない。地霊殿に移り住んでから、長いことこの部屋に籠もっていたのだから。そして第三の瞳を閉じたのもこの場所だ。こんな形で生きているこいしが始まったのは、この場所だ。

「大丈夫」

 こころの声が、なぜかそのときだけは、こいしの思考にすっと抵抗無く滑り込んだ。

「大丈夫。私がいるから」

 ノブを捻る。きい、ぃぃぃ。何万回も聞いた、少し間延びした蝶番の音。微かに漂う埃。部屋の主の帰還を検知して魔法灯が点った。こいしの好きな赤みがかった暖光。生温い空気とラナンキュラスの匂い。

 こいしは立ち竦む。ここに違いなかった。他に目指すべき場所があるはずもなかった。

 この部屋に入ってしまえば、ふたりの旅は本当に終わりだ。

「終わらせなきゃ。我々が間に合わなくなる前に」

 こいしを引く手が、また一片崩れて、海へと溶けていった。

 少しずつ、少しずつ、こころは海に蝕まれていく。面霊気を形作っていたものが失われていく。間に合わなくなる前に、とはつまり、彼女が完全に海になってしまう前に、ということか。

「こころちゃん……」

 溶けてしまったら、どうなるの?

 そう問いかけるよりも早く、こころは手を引いた。

「さぁ、始めないと」

 転びそうになる足下を、長い毛足の絨毯が音も無く包む。

 見回して、その光景に息を呑んだ。

「……これは……うそ……そんな……」

 信じられない景色だった。

 こいしの部屋の中に、すべてがあった。

 ここにあるものが、かつてのこいしのすべてだった。彼女の孤独を埋めて癒したものたち。ずっと前、妹を忘れた姉が焼却してしまったものたち。いまのいままで、忘れてしまっていた。思い出そうとも思わなかった。

 戸棚の上、白猫のぬいぐるみ。

 ふわふわした長い毛は肌触りが素晴らしくて、顔を埋めて眠るととても気持ち良かった。ときどきそれが鼻をくすぐってくしゃみが出てしまうけれど、それすらなぜか面白かった。片目が取れかかっていて、顔をあまり撫でないようにしなきゃいけなかった。

 その隣、黄緑色のブランケット。

 物心がついたときからずっと持っていたものだ。恐ろしい夜や、心細い夜、それに包まれていると少しだけ安心できた。端っこをしゃぶると少ししょっぱい。洗濯されてしまうのが嫌でベッドの下に隠すのだけど、いつも簡単に見つかってしまうのだった。

 部屋の隅にある、玩具のピアノ。

 どこにでも持ち運べる二十鍵の相棒は、無事に出る音のほうが少なかったけれど、それでも出鱈目な曲を奏でるには十分だった。たまに気に入る旋律ができることがあり、それを何度も何度も繰り返す。何日でも繰り返すし、何週間経っても忘れなかった。

 壁に備え付けられた大きな暖炉。

 魔法がかけられているそれは、火が絶えることは無いし、暖房が要らないときは熱を遮れる優れものだった。旧地獄に雪が降り、しんしんと身体の芯まで冷える夜は、これの前に座ってお菓子を焼くのが好きだった。いまはもう、魔法は剥がされてしまった。

 両手よりも大きな紫水晶の欠片。

 地底では普通の石と同じ価値しかないけれど、彼女にとっては宝物だった。ある方向から見ると鏡のように顔が映るのに、反対側から覗き込むと向こうの景色がきらきらと輝いて見えるのだ。この中には別世界があるのだと、幼い頃は信じて疑わなかった。

 その脇にある、知らない虫の抜け殻。

 道端で見つけたそれをひとつ持ち帰るたび、姉は露骨に嫌な顔をした。それが面白くてたまらず、あんな風によく飾ったものだった。飴色をした鎌状の八本脚が美しく描く円とか、身体の丁度中心を真っ直ぐ通る背中の裂け目とか、とても綺麗だと思ったのに。

 ベッドに置かれた、白い希望の面。

 どうしてこれを拾ったのかを思い出せない。理由も無く、ただ惹かれたからだとしか言えない。それを手に取ったとき、機能を失ったはずの第三の瞳が疼いたような気がした。美しい造形だったけれど、それ以上の何かがこいしを捕らえて離さなかった。ずっと探していたものであるような気さえした。これが私には必要だったんだ、どうしても。

「我々は、貴方をここに連れてこなきゃいけなかった」

 扉が閉じる。世界が閉じる。

 こころは振り向いて、両掌でこいしの手を包んだ。

「貴方をここに連れてくるためには、身体が必要だった。貴方の手を引くための手。貴方の足とともに歩むための足。貴方と言葉を交わすための喉。普通なら、どれもこれも我々には作り出せない。でもツクヨミの謀が我々から私を引きずり出すなら、話は別」

「どういうこと……?」

「六十六の面が我々に投与された瞬間に、我々は対抗策を講じなければならなかった。あの月兎は私を殺すことを意味とした。意味を果たさせるためにツクヨミは膨大な演算を行い、ありとあらゆる確率が求める結末へ繋がるよう仕組んだ。我々が弑されないために、私が殺されないために必要なのは、それに抗えるだけの意味。ツクヨミに殺されるために生みだされたという事実を上書きする、私が生まれた意味。身体を持つ生命になるというのなら、我々の望みは、私が果たすべき意味はただひとつ」

 こころはただ、真っ直ぐに覗き込む。

 大きな双眸が、少しずつ溶けていく。

「私は、貴方を救うために生まれたんだ」

 ぱちりと薪が弾けて、暖炉の灯りが強くなった。オレンジ色の光が、こころの形をした海にきらきらと跳ね返る。きっと海と夕焼けを合わせたら、こんな色になるだろう。部屋に並べられた思い出の何もかもが照らし出される。ひとつひとつ、引き千切られた糸が再び縒り合わされていくように、思い出していく。蘇ってくる。

 地獄の奥底、宇宙の外側。あらゆるたましいのみなもと。

 ここまで降りてきた先に、昇ってきた先にあったものが。

「私を……え?」

「ここは我々と貴方が最も近づける場所。ここでなら、貴方をもう一度我々へ繋ぎ直せる。貴方は世界に戻ることができる。貴方の瞳は、もう一度力を取り戻す」

 閉じた瞳を治療するための、唯一の手段。

 何を言っているのか分からない。何が起きているのか理解できない。あり得ないものが目の前にある。自分の手を握っている。海が自分を包んでいる。

「でも……でも……」

 そんな都合の良い話、ありえるのだろうか。

 そしてもし、たとえそれが真実だとしても。

 第三の瞳が元の機能を取り戻してしまえば、こいしを待っているのは悪意に満ちた心の声だ。ありとあらゆる怨嗟、この世のすべての嫉恨、それらをまた休むことなく聞かされ続けることになる。世界中の誰もが自分を嫌っていることを、世界ごと忘れられていたのに。

「大丈夫、大丈夫だから」

 こころはそれでも、手を離さなかった。

 彼女がゆっくりと沈んでいっていることに気がついたのはそのときだった。絨毯を象った海へ、こころの足を象った海が溶けてひとつになっている。面霊気は床から直接生えた案山子のようになっていた。

「こころちゃん、足が」

「大丈夫だから」

「大丈夫なわけないよ」

 ぬかるんだ床から足を引き上げようとするけれど、こころの沈下は止まらない。

「大丈夫、でも、あまり時間は無いかもしれない」

「ねぇ、嘘だよね? こころちゃん、死んじゃったりしないよね?」

 溺れた者が縋るように、肩にこころの腕が回る。こいしより高かったはずの目線が、もうすでに掌ひとつ分は低い。

「お願い、嘘だって言ってよ」

「我々には貴方の過敏を取り除くことはできない。かつての貴方がそれに苦しんだことは承知の上。それでも、いまの貴方を我々は見捨てられない」

 そして反対の手が、第三の瞳を掴んだ。痛いくらいの勢いにこいしはぎょっとした。

「嫌だ。行かないで。ひとりにしないで」

「怖がらなくても良い。貴方が抱く感情。貴方の瞳が捉える感情。そのすべては我々が放ったもの。あらゆる生命は、貴方はいつでも我々と繋がっている。心の声の源には私がいる。どんな感情の波が貴方に押し寄せようと、それに目を凝らしてほしい。怒りにも、憎しみにも、悲しみにも、喜びにも、私はそこにいるから」

 そう言ったこころが、笑った。

 こいしの初めて見る笑顔だった。

「もう、ぜったいに、貴方をひとりにはしないから」

 胸が軋む。第三の瞳に触れる指の、その先が海になる。

「だから、大丈夫だから」

 それは樹の根のように広がって、藤色の組織へ染みていく。

「大丈夫――」

 ひりひりと痛む。死んだはずの感覚が海と繋がって、蘇っていく。

 もう、秦こころはひとの形を失いかけていた。溶け崩れはじめる彼女の身体は、海と第三の瞳を繋ぐための器官のようだった。

 それに従うように、部屋にぎっしりと詰まった宝物たちも海へと沈んでいく。暖炉の暖かい光が翳りはじめ、その隙間を白い煌めきが埋めていく。希望の面もその形を失って、氷のように溶けてしまう。

――ここは、さよならを言うための場所。

 こいしはようやくそれを理解した。別れを告げる暇もなく、突然失われてしまったものたち。それが、ここで待っていたんだ。こいしがきちんとさよならを言えるように。

 すべてはここで、結論となる。

 古明地こいしを、世界と引き替えてでも救うという、確固たる結論。

「こいし、ひとつだけ、お願いがあるんだ」

 こころの声は、もうすっかり海の鳴る音のようだった。

「私の面、六十六の能面。あれは地上に戻っているはず。私との縁を辿って、皆の夢に流れ着いているはず。それをひとつ残らず、叩き壊してほしい」

「どうして?」

「私がもう二度と、生まれることのないように」

 くらり、と視界が傾いだ。身体から力が抜けて、そのままへたり込んでしまう。

「なに、言ってるの?」

「神子の言ったことは正しかった。私は生まれてきてはいけなかった。私は生まれるはずじゃなかったし、生まれるわけが無いものだった。なら、正しいのは、私のいない世界」

「意味分かんないよ」

「私は生命として死ぬわけにはいかない。私はここで意味を果たして消えなければならない。六十六の面が残っている限り、ツクヨミは同じことを企むかもしれないから」

 何も聞こえないはずの第三の瞳が、震えを感じ取っている。分厚い壁の向こうで大観衆が騒いでいるかのようだ。感情の源が感覚を容赦なく叩く。震えが音となり、そして声の形を成していく。

 闇夜に朝の光が蘇るように。溺れる者が水面を見出したように。

 こいしはその声を求めていた。あんなに嫌って憎んだはずの声が、聞きたくて仕方がなかった。

――でも。

 治療されているからこそ、理解できてしまう。

 嘘みたいな奇跡の代償に何を払っているのか。

「……嫌だ」

 自分がいったい、何を失おうとしているのか。

 分かってしまうのは世界に戻りつつあるから。

「お願いだ、こいし」

「嫌だよ!」

 こいしは叫んだ。感情のままに声を上げた。

 こんな結末は認められない。何がどうなろうと構わないけれど、こころが消えてしまうことだけは、それだけは。

「こころちゃん、一緒に帰ろう? まだ間に合うよ。私は治らなくたっていいからさぁ」

「それはもう、無理だ。我々は勝利した。生命宇宙は守られた。我々の結論は、私には変えられない」

 こころは膝まで沈んでいた。仰向けに横たわる身体、その半分は海になってしまった。瞼は開いているけれど、瞳の焦点は定まっていない。きっともう、何も見えていない。

「私なら大丈夫だよ。ぜんぜん怖くない。だって、生まれた意味を果たしたんだから。生まれたことに意味があるのなら、それを果たせば消えたって構わないんだ。もう何も欲しくない。私は、もういらない、身体も、心も、命も」

「そんなの、嘘だ」

「嘘じゃ、ないって」

 暗がりに満ちた部屋が光に溶けていく。守れなかった宝物たちが、仮初めの姿を失っていく。掌から零れた数え切れないものたち。為す術無く灰になった大切な思い出。

 忘れていた。忘れたということにして、自分自身すらも騙していたのかもしれない。

 だからもう二度と、何も大切に思わないことにした。愛着を抱くことも止めてしまえば、失ったってつらくはならないから。そうしていつの間にか、自分自身すらもどうでも良くなった。これで良かったんだ。そのはずだったのに。

 それじゃあ、いま私がこんなに悲しいのは、どうして?

「さよならは、言わない。これはお別れじゃない」

 こころの声は、遠い遠い海の向こうから響くように小さかった。

「心の奥で、いつでも、会えるから」

 残った身体がどんどん解れていく。指先の最後のひと欠片が、光に還る。

「だから、大丈夫」

 嘘にしたはずの世界で。嘘じゃないと信じてしまったひとの、初めて見る笑顔が。

「大丈夫だよ」

 嘘にしか、見えない。

 握る手から質量が消えていく。指の間を水のように流れて、掬い上げることすらできない。沈んでいく。溶けていく。還ってしまう。最初から決まっていた宇宙の結末に、抗うことなどできやしない。

 泡立つ光が、こいしの頬に伝う涙を照らした。

 それがひと滴、こころに落ちると、身体だった海からふっと力が抜けた。それは彼女が規定通りの奇跡を成し遂げた証、生まれた意味の結晶だった。だから息を吸うことを止めて、ゆっくりと吐き出す。彼女を彼女たらしめていた要素のすべてを、世界へ返す。

 ただ、ただ止めどなく涙が溢れた。

 長い、長いふたりの旅が終わった。

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