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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
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永遠/クリスタライゼーション

 その空間は、正確に言えば巨大な泡だ。

 直径数万キロメートル、木星くらいならすっぽりと収まってしまうほどの大きさの泡が、無限深の煌海をゆっくりと彷徨っていた。もっとも、その運動の様子を外側から観測できる者はいない。だからそれがどこから来て、そしてどこへ向かっているのかを誰も知らない。

 ほとんど真球を保つ泡の中へ、鈴仙たちは放り出されたわけである。

 内側から見る泡は、ただ凪いだ海原が広がるばかりだ。それは象の背中のように緩やかに上下している。あらゆるところが茫と輝いて見えるのは、海自体が光っているためだ。薄曇の真昼ほどの灯りがどこにいようとも付いてくる。真上に見えるのは翳った天頂ばかりである。太陽や月、星空を期待しても、それに類するものは何ひとつとして浮かんでいない。高度を上げるに連れて、海の光も大気に遮られだんだんと届かなくなるのだろう。

(海だ。海の匂いだ)

 月兎の赤い瞳が潤む。噎せ返るほどの匂いに鼻を覆う。

 そう、ここには大気と呼べるものがあった。無間地獄最下層、死した宇宙の亡骸には無かった概念が、何故だかここで蘇っていた。

 ちり、と背筋が粟立つ。何度めかの人工波形だ。誰が放ったものかなんて考えるまでもない。その発信源へ近づかなければ。

 この場所がひどく懐かしいのはどうしてだろう。鈴仙は顰め面のまま少しだけ考える。彼女にとって、地上の海よりは月の海のほうがずっと馴染みがある。揚陸強襲に備えた防衛訓練なら数え切れないほど受けた。だから海と言われればあの場所を思い浮かべる。それに青く穢れた地上の海とこことは似ても似付かない。

 けれど、それだけだろうか。この胸の内を掻き毟られるような郷愁の理由は。

(ここにいたことが、あるような気がする)

 物心ついて地球を見上げるよりもずっと昔。

 産声を喉が枯れるまで叫ぶよりもずっと昔。

 培養器の中で瞼を薄く開くよりもずっと昔。

 ひとつの卵がふたつに成るよりもずっと昔。

 見たことも、聞いたことも、感じたこともないはずの場所の記憶。

 それが、これほどまでに、鮮烈に。

(……師匠、では、ここが、これが、そうなのですね)

 海月のようにゆっくりと、鈴仙は宙返りした。海面まではおよそ三十メートル。いつも通りに正確に計れる。まるで普通の宇宙のように、距離の概念もここでは存在できているようだった。

 ぞくり、と震える。彼女の全身をまた探査用波形が通過する。どんどん強くなっている。間違いない。目標へ確実に近づいている証拠だ。

 鈴仙がこれを察知していることも、朧帆は承知の上だろう。こちらの隠蔽が看破されていたっておかしくない。いずれにしたってやることは同じだ。こんな空間で、他にやるべきことが見つかるはずもない。

 静謐の中、光に塗れた世界を、波の源へと降りていく。

 怖くない、といえば嘘になる。彼此の力量差が変わったわけでもなんでもない。傷のひとつだって付けられるとは思えない。神秘も科学も指一本で捻じ伏せられるだけの力を彼女は未だに保持している。一介の月兎にそれを打倒する可能性は無いと言い切って良い。蟻が単身で獅子を狩るような、そんな奇跡の介在する余地など無い。

 きっとただ、踏み潰されて終わりだろう。

(それでも、いや、だからこそ、行くのよ、私)

 それがほんのひと息で吹き飛ばされる命だとしても。

 朧帆と対峙することに意味がある。そのはずだと信じている。

(……いた)

 海面にぽつねんと立ち尽くす彼女は、数百メートルの距離からまっすぐに鈴仙を見つめていた。思った通り、隠蔽は無意味だ。五感攪乱を取り止めた鈴仙は、攻撃が来ないことを確認しながら接近を継続する。相手の視線を真っ向から受け止める。それは刃紋のように薄い色をしていた。重戦車のごとき質量と力強さは、もうそこには無かった。

 うねる海面を、両脚でしっかと捕まえる。着地というよりも騎乗に近い感覚だ。

 朧帆も鈴仙も、海に立つにあたって特別なことは何もしていない。水にしか見えない挙動を示す物質が、硝子のような反発を足裏へ返してきた。

 この海では、物質は水面下に入り込めない。海面を殴りつけたとしても、水飛沫ひとつすら上がることなくただ拳を傷めるだけだ。薄膜を隔てた向こうの煌海は、言わば別次元の空間である。だからあの水糸はヘリコプターを紙のように斬れたわけだ。

「……………………」

「……………………」

 五歩の距離をおいて、ふたりは向かい合う。

 驚いたことに、朧帆は憔悴しているようだった。表情と感情の波長に僅かな乱れがある。遠い記憶を引っくり返してみても、こんな隊長の姿を見た覚えがなかった。表の月で見捨てられたことを知ったときでさえ、彼女は平然としていたのに。

 まるで学生時代の清蘭みたいだ、と鈴仙は思った。授業が理解できず、正解が分からないときの清蘭は、こんな波長を発していた気がする。

「――ひとつだけだ、聞きたいことは」

 沈黙を破ったその声こそ、平静を装うけれど。

 間違いない。彼女は、見失ってしまったのだ。

「まさか、貴方に分からないことがあるなんて」

「茶化すな。さっさと教えろ。面霊気は、どこへ行った?」

 この世にぜったいに存在するはずだった唯一の正解が、消えた。

 成し遂げるべき意味が、届かなければならない標的が、消えた。

「……………………」

 深く息を吸って、ゆっくりと長く吐く。

 秦こころと朧帆が会敵したあの一瞬。水の槍がふたりへ殺到したあの一瞬。何が起こったのか、いまなら理解できる。物質の浸潤しない水は鋼と同じだ。おそらく面霊気は、自分もろともに朧帆を串刺しにしようとしたのだろう。右手を縫い止められ動きを封じられた彼女は、間合いを取るための一手を迷うことなく打った。

 そしていま、ここに立つ朧帆の右腕は、根本からすぱりと断たれている。

 漂う鉄血の匂い。よくよく見れば、その肩口も僅かに赤く染まっていた。

「……分かりません。私も、見失ってしまった」

 こちらを刺す視線が、さらに研ぎ澄まされて鋭くなっていく。

 嘘偽りではない。光が弾け飛んだあの一瞬、鈴仙はおそらく意識を失っていた。気が付いたときにはもう、この海しかない場所に浮かんでいた。

 面霊気を探していたのは鈴仙も同じだ。彼女を死なせないことが最優先事項であるのは変わらない事実である。その場所が分からない、というであれば致命的な結末を招きかねない。朧帆が先にこころを見つけ出してしまえば、これまでのすべてが水の泡だ。

 しかし当の暗殺者も標的を見つけ出せていない。つまり導き出された結論は、鈴仙と同じというわけだ。

 この巨大な泡の中には、二匹の月兎の他には誰もいない。あるのはただ、海面と光霧ばかりの虚空だけだ。

「……そうか。ならばもう、お前に用は無い。消えろ」

 静かな、冷たい宣言に、鈴仙は身構えようとして。

 次の瞬間には喉が泡立っていた。痛みに声は出なかった。灼熱を感じた傍から神経系が壊死を始めていた。

 舌を歯を溶かしながら、粘つく炎油が口から弾け出す。頭が胸が腹が、高熱に蹂躙されていく。いったい何が、と考える時間すら残されていないだろう。一片の憎悪も無い純粋な殺意。生きとし生けるものすべてを侮蔑しながら処刑を続ける壊れた機械。それはかつて命を預け合った部下だろうと、意に介することなく牙を剥く。

 沸騰し始めた視界を、鈴仙は前へ踏み出した。脚がまだ動くことが信じられなかったし、有り難かった。自分の髪が燃える嫌な臭い。腕を、指を朧帆へ向ける。残る妖力は少ない。燃える身体を守り修復するためにそのほとんどが無意識のうちに使われている。届くはずのない弾丸、でも、それでも、放たなければならない。もしかしたら、届くかもしれないのだから。

 しかし、朧帆の左手に出現した無骨なハンドガンが、その希望を打ち砕く。強烈な反動を腕一本で圧し殺しながら、引き金がきっちり弾数と同じだけ引かれる。

 向けた指が。焦げた脇腹が。左脛が。右目と頭蓋半分が。右肩と鎖骨が。

 最強の月兎兵が、この距離で撃ち損じるわけも無い。的確な位置に銃弾を撃ち込まれ、鈴仙の攻撃がそこで止まる。彼女の意志が、精神が、身体が、成していた形を失っていく。

 その様を見下ろす暗殺者の顔には、何の色も無かった。後悔も、愉悦も、何ひとつ。

 それっきり、光を失った。解けていった。散り散りに砕けていった。自分自身が際限なく細かくなっていく。それを痛みと形容するには形がはっきりしすぎていた。それを穴と形容するには自分自身に近すぎた。ただただ墜ちていく。終着の場所、その赤道上に形成されている降着円盤。渦の一部に自分は成る。


――鈴仙さん! しっかり!


 無いはずの手が、誰かに握られた。いや、握られるために手が蘇った。

 奇妙な逆転現象が起こっていた。散っていくばかりだった鈴仙の欠片が、元の形を取り戻していく。


――……? 貴方は、まさか。


「……そんな馬鹿な。現実の人格が、なぜ形を保ったままここに?」

 手を取った夢の世界の主、ドレミーは明らかに困惑していた。

「あり得ない。貴方は確かに死んだ。だからこんなところまで墜ちてきたのでしょう」

「そうなの? 私には何が何だか」

 渦からざばりと抜け出す。自分を、かつて自分だったものを見下ろす。それはいまも、これからも自分自身だ。

 もう失うことはない。迷うこともない。

 鈴仙は知っていた。覚悟をとうに決めていた。

「いや、何が何だかって、貴方まさか」

「そう、そのまさかよ。場所を替わってもらっても良いかしら、獏さん?」

 涼やかなその声に、ドレミーが全身の毛を逆立てて驚く。

 鈴仙も驚きはした。けれどどこかで、彼女の登場を当然のものと考えている自分もいた。

「ここで会えると思っていたわ。イナバ、首尾良く行っているかしら」

「姫様!」

 蓬莱山輝夜は、永遠亭の縁側と変わらない笑顔だった。

 鈴仙は主に飛びついた。こみ上げるものを抑えることができなかった。身体の無い抱擁は真似事以上の何でもなかったけれど、いまはそれでも十分だった。

「……永遠の姫君までここにいらっしゃるということは、間違いないのでしょうね」

「えぇ。この子の件は貴方ではなく私たちの管轄。あとは任せてもらえるかしら」

「構いませんが、それにしても」

 ドレミーの視線がふたりの間を彷徨う。

「なんともまぁ、惨いことをなさる」

「それは貴方が決めることではないでしょう。私たちとこの子の間の話よ」

「確かに仰るとおりで。それでは完全憑依を解除して私はお暇します。もう何の意味も無いですし。鈴仙さん、ご武運を」

 スカートを摘んで大仰に一礼すると、ドレミーは渦を巻いて消えた。

「……イナバ、ごめんなさい」

 輝夜の声が実体のない身体を穏やかに震わせる。

「貴方にこんなことまでさせてしまって」

「そんな、姫様が謝ることなんて」

「私と無数の宇宙の因果、それがいまここに収束している。蓬莱人でなかったころの私なら気にも留めなかったことでしょう。けれどいまはこの循環と合一しているから、私にも罪の重さがよく分かるわ。さぁ、見なさい」

 渦を巻く黒い穴を輝夜は指さした。見渡す限りの何もかもが、巨大なその虚へと落下していく。断末魔のような光が辺りを照らす。魂の残滓が、死の残影が、命の残像が、圧し砕かれながら声無き悲鳴を上げていた。

「これを通り抜けるの。ここは現世宇宙の魂の終着地点。あの中に入れば、魂に刻まれたあらゆる情報は消し飛ばされてしまう。どんな神も妖も抗えない強大な重力よ。けれど私は違う。私は何度もあれを通り抜け、情報を保持したまま再生してきたわ。そしていまや、貴方にもそれができる」

「あ、あれの、中に、ですか」

 分かってはいたけれど、いざ目にしてみると恐ろしさしかなかった。飲み込んだそばからすべてを素粒子へ変えていく黒穴に突入するのだ。魂を構成する十一次元を奪うための装置、それを生きたまま通り抜けるなんて。

「実を言うとね、私もまだ慣れないの。月人も古い宇宙から次の宇宙へ移ることはあっても、宇宙ではない外側へ行くことなんて無いからね。けれどこればかりは仕方ないわ。本来なら数千兆年かかる涙の循環を、一瞬で通り過ぎようというのだもの」

 輝夜は渦へと身を投げながら、鈴仙へ手を伸ばす。

 その手を取る。ふたりで落ちていく。やがてすぐに光の奔流が鈴仙を猛烈な勢いで貫く。あらゆる類の不快と苦痛が全身を震わせた。熱くて凍えそうだ。飢餓で吐きそうだ。痛みの無い場所が無い。まるで刃の暴風雨だ。

 ただ、輝夜と繋いだ手の感覚だけが、柔らかかった。

(さぁ、いきなさい、鈴仙)

 事象の地平線を、越える。

 瞬間、自分は一本の紐になっていた。情報の最小単位たる体積の無い紐だ。それに端は無く、どこまでも伸びているように見える。紐は動いてはいない。けれど自分は前へ前へと翔んでいた。周囲が視える。情報のない紐と化した無数の魂たちが縒り合わせられて穴の底へと伸びていく。鈴仙もそれに引かれながら同じ底を目指す。ゼロの太さを持つ紐へ近づくに連れて、それが巨大な流れに視えてくる。完全に失われた遠近感覚。無限大と化したゼロの中へゼロの自分が墜落していく。いつまで経っても接触に至らない。もはや視界の半分がゼロの紐束だった長大な流れだ。自分の紐はその周囲を螺旋となって巡っている。墜ちているのか昇っているのか分からない。どちらでもあるような気もするし、どちらでもないような気もするし、そもそもどちらだとしても大した違いなど無い。

 記憶を剥ぎ取られて純粋な感情となった魂たちの奔流。

 ゼロと無限大が等しい世界。定常宇宙では存在し得ない矛盾の塊。

 そんな場で、鈴仙はまだ記憶を持っていた。顔も手も脚も、その形を覚えていた。これまであの宇宙で存在した証拠。これからもあの宇宙で存在し続ける証明。生命のすべてを、あらゆる感情を、自分という情報の悉くを涙魂循環系へと捧げた結論、その副作用だ。

 ゼロの紐が、ついにその束へと突入する。

 感覚は無い。ただ光だけがそこには在る。

 無限大の太さの紐、その中にゼロの太さの紐が無限大に詰め込まれている。隙間など無いはずの空間を鈴仙は押し通っていた。もはや紐の表面は視えない。ゼロと化した自分が無限大を中から視ているのだから当然である。紐たちは鈴仙と同じ方向へ流れているのだろう。けれどそれは地下水の循環よりも、太陽内部の熱対流よりもなおゆっくりとしている。誰もが皆、果ての見えない行列にただ並び続けている。それを苦に思う感情を残す者はもういないだろう。

 ここに満ちるのは、ただ純粋なる希望だけだ。

 その中を鈴仙だけが、一切の干渉を受けずに進み続けている。

(これは、海だ)

 もはや辺りは見覚えのある景色だった。朧帆が自分を殺したあの場所、無限深の煌海。輝く白穴へと通じるあの空間。紐は涙へ戻っていく。自分自身が紐であることさえも忘却して。

 だが、鈴仙は覚えている。だから戻ることができる。

 自分の宇宙へ。死んだはずのその先へ。

 思い出すだけで良い。忘れないというだけで良い。

 魂そのものと化した彼女にとって、現世へ戻るために必要な要素はごくごく少ない。髪の毛一本、細胞のひと欠片、そこにいたという概念。誰かの記憶の中からでさえも、彼女は蘇ることができる。

 初めての経験のはずなのに、その方法ははっきりと鈴仙の頭の中にあった。紐の先端、彼女が先ほどまで生きていた場所。そこに形を思い描く。まだ残る自分自身をかき集めて燃やし、その灰の中で一から再構築するのだ。

 そして、そこに、飛び込む。


――再生/リザレクション!


 熱だ。彼女は最初にそれを感じた。もっとも、彼女を死に至らしめたナパーム油の熱ではない。身体の生み出す鮮やかな熱である。そして指が、肌が、しっとりとした空気の中を泳ぐ感覚。海面に触れる両足の反発力。自分自身が燃えた臭い。自分自身の流した血の臭い。

 顔を上げれば、そこには。

「……なんだと?」

 驚愕に染まる、朧帆の顔があった。

 奇しくも敵の懐中、格闘戦の間合いである。

 意識は澄んでいた。どうすれば良いのかはすぐに分かった。再構築された身体は、熟睡から目覚めた直後のように冴え渡っていた。

「はっ!」

 気合い一閃、突き上げた掌底が朧帆の顎を正確に捉える。無敵の兵の身体が呆気なく浮き上がり、無防備な隙を晒す。

 次いで飛翔とともに膝蹴りを腹に叩き込み、妖力を噴出し得た横回転から首への回し蹴りを放つ。連撃が綺麗に決まり、朧帆の身体は海面へと激しく叩き付けられた。

 思い描きすらしなかった教官への完璧な連撃。

 月の民すらも成し得なかった完全無欠な一撃。

 確率操作による回避は宇宙そのものの未来をもっとも都合のよいものへ上書きするものである。ゆえに宇宙の外に出てしまえば、その恩恵に与ることはできない。

(――入った! けど)

 これで無力化できるとはもちろん思っていなかった。残心のため鈴仙は妖弾をいつでも放てるよう指鉄砲を突きつける。相手は宇宙の理の埒外に至った者。月都の恒星炉焼却すらも耐えた存在。正面から挑んで勝てる相手ではない。

 だが、しかし、少なくとも。

「……鈴仙、お前、まさか」

 体幹のバネだけで宙返りし起き上がった朧帆は、しかしすぐには反撃してこなかった。表情からは先の驚愕がまだ抜けきっていない。彼我の間合いは十メートルと少し。その間を、生温い風と海面のうねる重低音だけが埋める。

「飲んだのか、蓬莱の薬を」

 その声は少し震えていた。けっして討滅されないはずの最強の月兎、それが鈴仙へ向ける視線には、明らかに畏怖が混じっていた。

(やっぱり)

 鈴仙は確信する。

 朧帆は、完全に生命でなくなった訳ではない。

 少なくとも、今はまだ、生きてここに立っている。ならば、奴を止められる。

 相手は完全無欠の存在ではない。所作、精神、肉体、そのどこかに必ず付け入る隙は残されている。

 朧帆に勝てずとも、奴を勝たせないための策はまだある!

「……えぇ、飲んだわ。貴方が私を殺すことは容易い。ならば死んでも問題ない形にすれば良い。簡単な話じゃない」

「お前は……お前はそこまで、地上の穢れに。だが、どこで手に入れた? 八意様から賜ったはずは無い。ここに進入するときのお前は薬なんて持っていなかった。そもそも幻想郷に蓬莱の薬はもう残っていなかったはずだ」

「答える必要はありません。さぁ、好きなだけ私を殺せば良い。けれどもはや何をしても、貴方の前から私が消えることは無いわ。死んだそばから生き返って貴方の目の前に舞い戻る。貴方にはもう標的を探させない。作戦目標には永遠に辿り着けない」

「ぐ…………」

「最後の勧告です。朧帆、降伏してください」

 地上に舞い降りた月兎は、きっとどこかで狂ってしまったのだろう。そうでなければこんな真似はしない。大いなる罪を自ら背負うだなんて、酔狂の極みだ。

 だがそれで構わない。いかに自分が狂っているかを見せつけることが、交渉においては大事だ。よりいかれているのはどちらか? 先に正気に戻ってしまうのはどちらか?事ここに至り、互いに相手を殺しきる手段は無くなった。勝敗を決するのはもはや単なる力量差ではない。最後まで狂いきっていたほうが、この海原に相手を跪かせる。

「……正しいのは私だ。間違っているのは私以外のすべてだ。だが鈴仙、お前は――」

 朧帆は恐怖した。心の底から肝を冷やした。地獄神と相対したときでさえ、ここまで恐ろしくはなかった。自身を犠牲にしてでも世界を庇うことはまだ理解できたからだ。

 だが目の前の兎は、自分を止めるために永遠の罪を身に纏った。太陽が消え失せても、銀河の渦が止まっても、宇宙が終わってすら濯げない究極の罪だ。蓬莱人と成ること。それは自分の命を捧げるよりもなお悍ましい行為に他ならない。

 認めるしかなかった。この、かつての脱走兵は。

「――お前は、狂ってる。私の目の前に立つな。私の視界に入るな」

 任務の最後に立ち塞がるに相応しい、最大の壁。

「排除する。お前が私に二度と近づくことの無いよう、念入りにだ」

 八意永琳が巡らせたのであろう秘策、その究極!

 まだ終わっていない。朧帆にもそれだけは分かる。面霊気はどこかで生きている。ならばまだ標的を殺す勝機は、果たすべき意味は残されている。目の前の敵を取り除き、捜索を再開するのだ。いまはただ、そのことだけを考えろ。

 永遠にも思えるような、ほんの僅かな静寂の後に。

 ふたりは互いにしか分からない合図で、同時に海を蹴った。

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