時空/むしばんで、まじわって
猛烈なスピードで進んでいる。ほんの少しも動かないままで。
鈴仙の意識はずっとぐらついていた。光がまったく存在しない空間では、本当に動いているのかどうかが分からない。頼りない無重力の中、こいしの手を掴むその感触だけが確かだった。自分の手を引く無意識の妖は、ただ前だけを見つめている。闇の先にあるものが見えているような、そんな格好で。
目標へ向けて飛翔しているはず、それなのに動いているのかどうかが分からない。視界はなにも変わらないのに、世界が目まぐるしく移ろっていることは感覚できる。
――たぶん、宇宙をいくつも飛び越えているんだ。
鈴仙は思考の焦点を合わせるのに必死だった。
運動系や時間系は、常に観測の結果としてもたらされる。つまりは意識の上にしか存在しない。だから完全な無意識下へ潜行できるのなら、それらを無視して宇宙を越えることができる。輝夜が言っていたのはそういうことなのだろう。いまの鈴仙は無意識化にある意識という矛盾した存在だ。破綻せずここにいられる理由はまったく分からないけれど、この矛盾によって精神が受ける圧を無視できないことは確かだ。必死になって自分を保たなければ、どこかで無意識に呑み込まれてしまうような悪い予感がある。
「ねぇ、本当に、大丈夫なのよね?」
「うん。こころちゃんはこの先にいる。ほら、ずっと遠くに見えるでしょう?」
「……暗闇しか見えないんだけど」
「それは貴方が波で世界を捉えようとしているからよ。ここには何かを振動させるものはもう何も無い。光も熱も消え失せて、ただ涙が通る器官となってしまった宇宙の残骸。進むか戻るかしか無い、一次元の世界なのよ」
「いやだって、光も音も波じゃない。宇宙のすべてが波は説明できる。月の兎は波長に対する感覚がずば抜けているから重宝されたのよ。波で捉えられない世界なんてあるはずがない」
「あるはずがないと思っているものが、見えるわけないじゃない」
くすくすと笑いながら、こいしは身体をくるりと反転させると、小さな掌で鈴仙の両目を覆った。
ぐるり、と何かが裏返る感触。 /。てっわ替れ入が識意無と識意
意識と無意識が入れ替わって。/ 。触感る返裏がか何と、りるぐ
(…………!)
視えた。鈴仙にも、それが。
それは大きな、大きな穴だった。すべての壁面が白く輝き、それらはふたりの背後へと流れ去っていく。いや、これは、滝か。海底に大穴を穿って瀑布とし、その中から空を見上げたらこうなるだろう。
ふたりは穴を奥へ奥へと飛んでいた。燐光を放つ水の、その源へ向けて。ゆっくりと、ゆっくりと、何かに抗うように。
行く手には、頭上には、光輝き。
真後ろには、足下には、闇蟠り。
落ちている。いや、昇っている。
まぁ、どっちだって同じことか。
そして目を凝らせば、確かに遙か先、針で突いた穴のように、光の中に小さく浮かぶ影がある。
あれが。
(あれが、そうか)
あんなところまで落ちていたのか。鈴仙は身震いした。聞くところによれば、面霊気は昏睡状態にされた後に『棺桶』へ詰められて、無間地獄最下層へ向け射出されたのだという。それによって彼女が陥った事態について、鈴仙は考えることができなかった。考えることを本能が拒否した。
あの場所に至るまで、秦こころはいったいどれだけの時間を。
ぐるり、と何かが裏返る感触。 /。てっわ替れ入が識意無と識意
意識と無意識が入れ替わって。/ 。触感る返裏がか何と、りるぐ
翳していた手を引っ込めると、こいしは再びくすくすと笑った。
「ここはもう私たちの知っている宇宙ではないの。だから光は秒速三十万キロなんていう制限速度を守る必要は無いんだわ。ここでは光は光であって、粒子でも波でもない。だから、波で捉えようとしている貴方にはそれが見えない」
「そんな無茶な。じゃあ貴方はいったいどうやってあれを視ているというの?」
「ただありのまま、すべてを感じ取れば良い。この宇宙には法則なんて無い。生存、対話、観測。そのためにはそれらしいものが必要とされてしまうから、どうしても意識してしまうかもしれない。けれど、一見それらしく見えたとしても、それは本質じゃない。すべては、ただそこにあるだけ」
重圧すら感じる闇の中で、こいしの双瞳は淡く輝いていた。あの光だ。鈴仙にはすぐに分かった。眩い瀑布の輝きのほんの一部が、無意識の妖怪の瞳によって波へと変換され、死した宇宙を照らしている。
「……貴方、ずっとそんな世界を視てきたの?」
こいしは薄い笑顔のまま、少し首を傾げた。
世界から切り離された無意識の妖怪。歴史を忘れ、共感を忘れ、ただここにいるというだけの少女。だからこそどこにでもいて、どこにもいない。誰とでも仲良くなれるけれど、友達はひとりもいない。誰も彼女を探すことができないし、誰も彼女を覚えていられない。
昨日とも、明日とも、繋がらない今日を。
重力にも、常識にも、縛られない世界を。
「だって、そんなものをずっと視てきたってことは、それは……」
誰にも見えないものを視ながら歩く。誰にも聞こえない声を聞きながら眠る。何ひとつとして信頼しないままで。欠片ほども信頼されないままで。
降る雨を、巡る風を、回る星を、ただひとりずっと、眺めている。
或いはそれは、悟りの境地とでも呼ぶべきものかもしれない。世俗に惑うことなく、ただ己としてそこにある姿を追い求める者はいるのかもしれない。
決定的に異なるのは、古命地こいしは望んでそうなったわけではないということ、そして元に戻る手段が無いということだ。
「……それでよく、正気を保っていられるわね」
「正気でいるということは狂っているということよ。そして狂者こそ正常なんだわ」
「じゃあ、どうしてこころさんに会いたいって、貴方は思うの?」
鈴仙が問うと、こいしの表情がすっと冷めた。
「貴方も、同じこと聞くのね。そんなにおかしい?」
「おかしい、ように思えるわ。だって貴方、すべてが意識できず、記憶もできないんでしょう? 世界の何もかもがどうでも良いはず。なのに貴方は彼女を友達だと感じ、助けにいこうとしている」
「――こころちゃんはね、私を信じてくれた。自分自身ですら信じていない私のことを、信じてくれたんだ。だから、こころちゃんは私のかみさま。信じるものを取り上げられたんだから、取り返しに行くことはなにもおかしくないと思うけど」
それは無意識の妖らしからぬ、論理的な回答だった。鈴仙の目眩が少し強くなった。
自分の命を握るこの少女のことが、鈴仙にはまったく分からなかった。世界からふよふよと浮かんでいるはずの彼女が、面霊気の話になると地に足が着いたようにまともなことを言う。こいしはこころのことを、そこにただあるもの以上の何かとして見ている。
世界すら俯瞰している無意識が、こんなにも常識的な思考をすることができる理由。そんな無茶苦茶なものがあるとは到底思えない。
――いや、ある。
鈴仙は身震いした。思い当たってしまった。
ただひとつ、彼女の行動原理を矛盾無く説明できる仮定が、ある。
古命地こいしが、無意識に埋没しながらも正気を保っているのだとしたら。誰からもそう思われることはなく、また誰にもそれを伝えることができない状態にあっても、彼女は狂ってなどいない。無意識の分厚い殻に覆われた中に、世界から断ち落とされる前の彼女の意識が残っているのだとしたら。
いまの彼女を動かすものは、古命地こいし自身すらその存在を信じていない、彼女の残滓だ。
そして、それはおそらく気がついている。面霊気だけが自分自身を感じ取っていることに。
想像してみてほしい。病室で横たわるだけの植物状態にしか見えない人間が、実は意識も感覚もそのすべてをはっきりと持っている状況を。延命措置だけが淡々と続けられ、全身は針と管にまみれ、それに伴う痛みも苦痛も誰も配慮などしてくれない。自分の思いを誰にも伝えることができない。いっそ死んでくれれば、と誰かが呟くのが聞こえる。可哀想に、あれに生きている意味などありはしないと、含み笑いとともに誰かが通り過ぎていく。
けれど、確かにそこで生きている。
そんなときに、誰かが手を握って、名前を呼んでくれたとしたら。鈴仙は聞いたことがあった。植物状態から奇跡的に意識を取り戻し、日常生活へ復帰を果たした男性の症例を。微睡むことしかできなかった彼の意識の中に、ただ自分の名を呼ぶ母の声が聞こえた。それが回復の大きな要因だと、本には真しやかに書かれていた。
(それと同じことが、古明地こいしの中で起こっている……?)
閉じた恋の瞳は、ただ前をじっと向いている。無間地獄の底の底、面霊気がいるその一点を。
なぜ秦こころだけが古明地こいしを意識し、記憶していられるのか。流石にそこまでは、鈴仙であっても想像すらできない。面霊気は感情を操るどころか感情そのものの具現である、とする師匠の予想は、朧帆の行動を見るに当たっているのだろう。しかし、なぜそれが無意識の殻を貫通できるのだろう。
とにかく、こいし自身ですら自覚しないまま、無意識の妖は面霊気を求めている。蜘蛛の糸に縋るカンダタのごとく、唯一の希望をそこに見出している。
だから、行くのだ。
手を伸ばす。星々よりも、天球よりもなお遠い、地獄の底まで手を伸ばす。
死した宇宙を幾つも越えて、誰も潜れない深みまで。たとえ二度と戻れないかもしれないとしても。
呼吸を求めて水面を目指すように。水を求めてオアシスを目指すように。凍える夜に町灯りを目指すように。強い風雨の中で凌げる場所を希うように。
だから、来たのだ。
世界から最も遠い、地獄の本当の奥底へ。
「もうすぐだよ!」
こいしが不意に駆け出し、握る鈴仙の手を振り解いた。
ちょっと待って、の言葉が出るよりも早く、あっという間にこいしの背が遠くなっていく。おかしい、速すぎる。鈴仙の胸中に疑問が浮かんだ次の瞬間、何が起こったのかを理解して血の気が引いた。氷よりもなお鋭い冷気が意識に刺し込まれはじめる。時間という流体が抵抗を増し、小さな月兎の身体を絡め取っていく。
無意識へ潜行するための力場から、鈴仙は離れてしまったのだ。
(え、ちょっとこれ、どうしたら)
必死にこいしへと追い縋る。だが両者の距離はほとんど縮まらない。鈴仙の心臓は早鐘のごとく鳴った。古明地こいしと離れてしまうことだけは、この空間で絶対にしてはならなかったのに。
輝夜の言ったことが正しければ、ここで意識が時間の下へ引きずり出されてしまうのは本当にまずい。鈴仙は終焉した宇宙の伸長時間を観測することになる。
こいしの背中まで、ほんの数十メートル。それが地平の果てよりも遠い。どれだけ速度を上げようと、彼女へ追いつくことができない。
(落ち着け。落ち着け、私)
叫びたくなる衝動をなんとか呑み込んで、情報を整理する。
時間は鈴仙の意識下で観測される主観に過ぎない、と輝夜は言った。この空間は元の世界(と古明地こいし)と比べて本当に時の流れが早くなっているわけではない。須臾という時間の最小単位が本当にあるとすれば、それを数え上げる速度が遅くなっている状態だ。
つまり、仮にこの状態が鈴仙の主観で百年間続いたとしても、こいしや世界にとっては数分でしかない。外側から見れば、鈴仙はこいしへ難なく追いついているのだろう。
ならば、やるべきことはこいしから離れようと変わらない。ただ目標へと前進すればいいだけのことだ。けっして見失ったわけではない。どれだけ時間がかかるか分からないけれど、いつか必ず追いつくことができる。
鈴仙は自分を叱咤激励した。絶望にはまだ早すぎる。飛翔速度を可能な限り上げた。まったく変わらない視界のことも、心身を深く刺す冷たさのことも、まずは気づかないふりをした。
月都の訓練学校時代に、鈴仙は時間経過を正確に計る訓練を受けている。時計を使わずに二十四時間を数え上げ、誤差を十秒に納めなければ不合格。太陽も星も観測できない環境では当然睡眠など許されない。進級のための鬼門として恐れられた、狂気のカリキュラムのひとつである。
その技能は、この宇宙の果てにあっても健在だった。しかしそれも、鈴仙が十日を数えた辺りで限界を迎えた。そしてそれだけの時間を観測してもなお、こいしの姿は一向に近づかないのである。
(いや、近づいているはずなんだ。変化がゆっくりすぎて分からないだけ)
凍えきった頭は思考を鈍らせていく。死に絶えた虚無の宇宙にいることを考えないよう、なんとか楽しい思い出を再生しようとするけれど、それもだんだんと上手くいかなくなっていく。どれだけあがこうと、鈴仙の目に映る景色はなにひとつ変わらない。
自分の行動は本当に正しいのだろうか。心の隅で生まれた猜疑は、時とともに少しずつ、確実に大きくなっていく。そして時間だけは、いまはいくらでもあるのだった。
ときには急に涙が溢れて止まらなくなることがあった。このままどこにも辿り着けずに、永劫の時間をこの闇の中で過ごすことになる。そんな確信めいた予感が襲いかかるのだ。極限状況に弱った心が思い違いをしている。そうに決まっている。あの場所まで行ければ解決できるんだ。ただそれだけを繰り返し繰り返し自分に言い聞かせる。しかしもうひとりの自分は冷徹に言い放つのだ。根拠はあるのか、と。
――あんたはまた逃げ出したいと思っている。ま、今度は逃げることなんてできやしないけど。
五月蠅い、黙れ。
首を振り耳を塞ぐ。悪い独り言だった。自分の心の弱さが、言葉を形作って甘い刃を刺す。こんなに惨めな思いをするのは、お前が弱虫だからだ。首を振り、耳を塞ぐ。分かってるよ、いまさらそんなこと、言われなくたって。
そのうち、一秒と一日の区別がつかなくなった。眠れない夜には五分を一時間のように感じるものだけれど、それの重いやつだ。閉じた目を開けば、目的地に辿り着いているはず。その淡い希望だけが命を続けている。しかし何日が、いや何ヶ月が経った? 遙か先を行く小さな背中へ手を伸ばす。もう何度も同じことをしている。前に手を伸ばしたのはいつのことだったっけ?
私は、もうどのくらいの間こうしている?
――何年経っていようと同じだよ。ねぇ、本当にこれが正しい方法だって、まだ信じてるの?
五月蠅い、黙れ。
自分の声が聞こえる。耳を塞いでも無駄だった。それは自分なのだから。ただの独白に過ぎないはずのそれも、この圧倒的な孤独の中では唯一の話し相手だ。それに気がついてしまってからは、もうひとりの自分の声は日に日に大きくなっていった。
そしてついには、目を閉じると鏡のように、そこに自分がいた。
――あんたはもう逃げられない。どこにも辿り着けやしない。
鈴仙はさほど驚かなかった。むしろ、誰かと会話できる機会に安堵すらしていた。
――師匠や純狐さんに持ち上げられていい気になったのが運の尽きよ。あんたが朧帆に対する切り札だなんて、そんな嘘をどうして真に受けるかな。豊姫様と依姫様、サグメ様が束になっても討ち果たせなかった相手を、あんたがどうにかできるわけないじゃん。
そう、かもしれない。
でも、嬉しかったんだ。私が必要とされているって。
――本当にお目出度い頭ね。すべてはあんたを良い様に使うためのお為ごかし。あんたはいつだって、都合の良い捨て駒だった。そして捨てられる度に、みっともなくゴミ箱から這い出してはペコペコして、惨めに生き恥を晒してきたでしょう。
そう、かもしれない。
でも、死ぬよりはマシだって、そう思ったんだ。
――もういいじゃない。ここは本当のゴミ箱。あんたはここで終わりなの。元の世界にはもう戻れない。だいたい、あの娘に追いついたところで、それでどうするっていうの?朧帆はきっとあんた達を追ってきている。あんたが追いつけるということは、朧帆もあんたに追いつけるということ。会敵してしまえば、もうあんたに勝ち目なんか万に一つも無い。いつまでも希望なんて持っていないで、さっさと諦めたほうが良いわ。
そう、かもしれない。
でも。
でも…………。
でも……………………。
――「でも」、何よ? 何か意味あるの、その意地?
意味。意味か。待って、いま考えるから……。
――いまから? 考えなきゃ見つからない意味なんて、毛ほどの価値も無い。
分かってる。
私は朧帆のようにはなれない。きっと殉じるための意味なんて死ぬまで見つからない。
でも。
でもさぁ。
それでも、ごみ屑みたいな意味でも、必要なんだよ。希望のためには。
――ごみ屑は幾ら飾りたててもごみ屑でしょ。ここから脱出するための力にはならない。朧帆に勝つための力にもならない。こんな状況じゃあ、何の役にも立ちやしないじゃない。無意味よ。文字通りに無意味。あんたが諦めの悪い兎だってことを、虚空に向けて喧伝するだけの記号。誰にも届かないし、誰も聞いちゃいない。
分かってる。
でもさぁ。
――「でも」「でも」「でも」「でも」、本っ当にうざったいわね! この期に及んでまだ何かできると思ってるの? あんたは失敗した。取り返しようもなくしくじったの。あんたはもう終わり。ここで死ぬ。誰にも看取られないまま、ここで独り寂しく死んでいく。さっさと諦めなさいよ。希望なんて持ってたってつらいだけよ。
でも。
でもさぁ。
私の中の何かが、私に「でも」って言わせてるんだよ。分かってる。私は小さくて無力。まな板の上の鯉よりも酷い状況で、為す術なんか何も無い。切り札も裏技も何も持ってない。袋小路で身体を縮めてただ震えているだけ。
だけど、ねぇ、それでもさぁ。
私を生かそうとする何かがあるんだよ。理屈じゃない何かが、私の中でまだ叫んでるんだよ。諦めるな、って。たとえここで死ぬんだとしたって、運命が決するその瞬間まで、それは私に言い続けるんだよ。死ぬな、生きろ、って。
そいつはこっちの都合なんかお構いなしで、生きることを強いてくる。法律も道徳もそいつは知らない。環境がどうだろうと、世界がどうだろうと、私に耳を貸しやしない。まだ血があるなら心臓を動かせ。まだ空気があるなら呼吸を続けろ。腹が減ったら何だって食え。ずっとずっと、五月蠅いくらいに。それこそあんたよりも五月蠅いんだよ。
私はそれに従うしか無い。だから探すんだ。それに従う意味を。
あぁ、そうだった。ひとつ、あった。
私がここを抜け出して、前に進まなきゃいけないのは、古明地こいしと同じだ。あそこでこころさんが待ってるからだ。
彼女は私の患者。ケアは私の役目。師匠から任された、大事な大事な仕事。あの娘を死なせるわけにはいかない。私は面霊気を救わなきゃならない。だって、無意識から少しはぐれただけの私ですら、これほど時間がおかしくなってしまうんだもの。こころさんがここに追放されてから、もう二週間以上経ってる。きっと私なんか比べものにならないくらいの地獄を味わってるはず。治療が必要よ。助けなきゃ、私が。
――治療して、それでどうするの。朧帆はもうすぐそこに迫っているかもしれないのに。
さあね。計画なんて無いわ。でもね。これだけは分かる。
「……どんな手を使ってでも、敵を挫いて、生き延びる」
呟いて、目を開くと。
目の前の光景を認識した、鈴仙の心臓が跳ねる。
こいしの背中が、近づいてきていた。錯覚ではない。幻覚でもない。闇に圧し包まれていた視界に、少しずつ光が射してくる。視線の先で、無意識の妖がこちらを振り向こうとしている。
――追いついたんだ!
逸る心は身体を加速しようとする。それをなんとか宥めて、鈴仙は逆に減速した。もしもこいしを追い越してしまえば、勢い余ってまた同じ闇の中へ逆戻りだ。彼女のすぐ傍でぴたりと停止しなければ。
こいしは無骨な機械に手を触れようとしている。闇の中に浮かび上がるそのシルエットに、鈴仙は嫌と言うほど見覚えがあった。
「…………あれは」
月兎兵が表の月で冬眠するために用いる休眠カプセルだ。『棺桶』と揶揄されるその飾り気の無い枠組が、暗闇の中で異様な存在感を放っていた。
こいしが鈴仙に気づき、その視線がこちらをしっかりと見据える。ただそれだけのことが、涙が出るほど嬉しい。
手を伸ばす。何度も繰り返した行為が、ここでようやく実を結ぶ。
「……え、いきなりどうしたの? 抱きついてくるなんて」
「あ、あ、あ、貴方が勝手に走り出したんでしょうが!」
「えへ、ごめーん」
ちろりと舌を出すだけのこいしに、鈴仙は言葉を山ほど飲み込んだ。ごめんで済むもんか、と怒鳴ってやりたかったけれど、生還の喜びが感情をぐちゃぐちゃにしている。
「こころちゃん、この中にいるんだよね」
こいしがカプセルをぺたぺたと検める。鈴仙は中を確認するための窓を覗くけれど、中の様子はよく見えない。
「……えーっと、確かテンキーがここに」
記憶の底から開錠操作をなんとか引っぱり出す。
おそらく、これを是非曲直庁へ提供したのは永琳だろう。何のために師匠があれを保管していたのかは分からないが、あり得る話ではある。しかし、表の月すら可愛く見えるこの極限環境で、『棺桶』はきちんと機能し続けられるのだろうか。
緊急停止コードを入力し、コンソールを起動する。システムに大きな異常は無いように見えるが。
「…………いや」
ひとつだけ、決定的におかしい点がある。表示されているステータスの中、カプセルが機能し始めてからの経過時間。機械や式神であっても、狂った宇宙の中では狂った時間を観測してしまう。そう輝夜は言っていた。
何かの間違いでなければ、この『棺桶』が面霊気を収容してからの時間は。
「さ、三百五十一億、年……?」
鈴仙は何度か瞬きをした。疲労か何かで数字を読み間違えているのだと思いたかった。『棺桶』にそれほど長期間の経時計測機能があるだなんて聞いたことがない。そもそも、それだけの期間の使用を想定されているものかどうかも知らない。
知っているのは、自分がこれに三十年ほどしか耐えられなかったということだけだ。
「あ、開けなきゃ。早く……」
操作を急ぐ指先が震えて、何度かやり直すはめになった。三度目でようやく開封コードが通り、箱の状態を示すランプの色が変わった。解凍シーケンスのための二、三分が狂ったように長い。
鈴仙には分かる。これに入っていたことがあるからこそ、冬眠がどういうものかを理解できる。睡眠状態を維持しようとする機械と、覚醒しようとする意識が衝突するのだ。それは水面に浮かぼうとする風船を何度も沈め直すのに似ている。押さえ付ける力が強まるほどに、水面には大きな波が立つ。精神は揺さぶられ、そしてその不快な微睡みの中で酷い悪夢を数え切れないほどに見た。
封が解ける。蓋が横へスライドしていく。
「ひっ……」
目に飛び込んできた異様な様相に、鈴仙は情けない悲鳴を漏らした。
その塊は繭のようにも見えた。顔で構成された繭だ。
面霊気の本体とされる能面の数々が、ひとかたまりになってそこに在った。
おそるおそる一枚を手に取る。するとその下からは、見覚えのある桃色の髪が現れた。
「こころちゃんだ!」
こいしが手を伸ばすと、能面たちの視線が彼女のほうを向く。目玉があるわけではないから視線という表現はそぐわないかもしれないが、鈴仙にはそうとしか思えなかった。
そして、繭が解ける。能面がするすると『棺桶』の両脇に退くと、果たして秦こころ本人の姿があった。ざっと患者の様子を検め、鈴仙の心が粟立つ。師が心を鬼にして下した所業が、小さな弟子を心の底から震え上がらせる。
両腕と両足は、それぞれ複数の皮手錠で拘束されていた。万が一覚醒したとき、暴れて怪我をしないようにということだろう。これでは身じろぎひとつ満足にできやしない。用いられた拘束具はいずれも月都から持ち込まれたものであり、妖怪の膂力を以てしても抵抗できるものではない。千年だろうと一万年だろうと、彼女をここに封印し続けるだろう。
「……こ、こんな」
こんな状態で、彼女の意識下ではどれだけの時間が流れたのだろうか。
目を閉じるわけでもなく、かといって何かを見ているわけでもなく、こころはぼんやりと虚空に視線を投げていた。いっさいの生気が感じられない瞳からは、まるで泉のようにこんこんと涙が湧いてこぼれ、カプセルの底へ歪な染みを作っている。
「ねぇ兎さん。こころちゃん、寝てるのかな」
「あえて意識をシャットダウンしてるんだわ。呼びかけてあげて。きっと貴方の声なら目を覚ます」
指示を受けたこいしは、了承の返事代わりに大きな瞳をぱちぱちしてから、こころの頬を撫で始めた。
「こころちゃん、起きてよ」
鈴仙は拘束具の解放手順を記憶の奥底から浚う。
嫌な予感がひしひしと高まっていた。面霊気についてではない。朧帆のことである。仮に『棺桶』の表示通り、ここまで墜ちてくるのに三百五十一億年を要したとして、それは追っ手である彼女にとっても同じことだ。気の遠くなるような永遠に等しいだけの時間を、朧帆は潜行に費やさなければならない。どれだけ彼女の意思が強かろうと、そんなことは不可能に決まっている。
決まっている、はずなのだけれど。月兎兵の本能に近い部分が大きく警鐘を鳴らす。
(……じゃあこの、身に覚えのありすぎるプレッシャーは何?)
あの狂った兎はきっともう、すぐそこまで来ている。
「こころちゃん、私と一緒に、海に行くんでしょ」
もしもそうであれば、強烈なチェックメイトをかけられてしまう。ここは無間地獄の底の底、これより深い場所はもはや存在しない袋小路。そこに追い込まれた格好になるのだから。
こころを救い、生命圈の保全を完遂するためには、ここに留まるという選択肢は無い。面霊気を連れて地獄表層まで戻る必要があるだろう。神よりもなお強力な朧帆から何とかして隙を作り、こころとこいしを逃がさなければならない。
そのために、自分自身がここへ沈むことになろうとも。
(……そんなの嫌、絶対に嫌だよ)
手錠をひとつ、ふたつ、みっつと外していく。
(もうあんな怖い思いは無理)
続けて足枷も、ふたつ、みっつ、よっつと。
「こころちゃん、お願い、返事をしてよ」
茫洋としたままのこころの瞳を、こいしは額を合わせたまま、真っ直ぐ覗き込む。
強ばった腕と脚を、鈴仙は必死にさすった。踊るときにはあんなにしなやかに動いていたそれは、長時間の拘束のせいで岩のように固まってしまっていた。この場を離れるためには彼女に目を覚ましてもらうのが一番だけれど、ひょっとしたら難しい要求かもしれない。
どうすればいい? どうすれば。
敵は迫り、気は逸る。鈴仙はただマッサージを続ける。いざとなれば彼女を担ぎ上げてでも逃げなければ。こいしとは決して逸れちゃいけない。朧帆に再びこいしを奪われるようなことがあってもいけない。
無理だよ。鈴仙の考えはまったくまとまらない。そんな穴だらけの作戦、あのひとの前で完遂するなんて。
そのとき、両腕を擦る手が、ぬるりと滑った。
「…………え?」
思わず見上げると、こころの両の目から涙が壊れた蛇口のごとく溢れ出ているではないか。カプセルを水浸しにしそうな勢いで、迸る涙が闇の中へ拡散していく。
いや、もはや辺りは暗闇ではなかった。額を合わせるこころとこいしを中心に、世界の覆いが剥がし取られていく。ずっと前に、いやつい先ほど、こいしに見せられたあの燐光の大瀑布。その光景がふたりの背後に広がっていた。
いったい、何が起こっている?
鈴仙の手の中で、それはびくりと跳ねた。ぎょっとしてこころの腕を手放す。強ばっていたその身体は、電流を流されたかのようにびくびくと震えながら、元の機能を思い出そうとしていた。
そして手をゆっくりと、自分の頭を支えるこいしの手へ、重ねる。涙で洗われた瞳が、その焦点を徐々に取り戻していく。
「こいし、なのか。本当に?」
「ん」
名前を呼ばれて、無意識の妖は満面の笑みを浮かべた。
「……本当に?」
「本当だよ。迎えに来たんだ」
「迎えに、迎え、こいしが、ここに。あぁ、駄目だ。もう私には区別が付かない。これは現実なのか、それとも夢なのか。お前の声を頭の中で何度も聞いた。お前がこうして蓋を開けてくれるのを何度も見たんだ。こいしが、私を、我々を、あぁ」
「大丈夫だよ。私は貴方にちゃんと触れてる」
「信じるものか。信じることができない。これが嘘じゃない証が無い。確かに、だけど、いま、こいしは、どうして。身体が動く。蓋が開いている。あぁ、疑うものか。もう疑いたくない。いま、私は、我々は、目の前のお前は」
大きな花火のただ中にいるように、光がただ満ちている。水が流れ落ちていく巨大な穴、その縁に手が届きそうなところに三人はいた。
「――そうだ、私は、思い出したんだ」
秦こころの、声と身体の震えが、すっと止まる。
涙が収まる。能面がすべて、ふわりと浮き上がって、こころとこいしを取り囲む。
「思い出したんだ。大事なことを。どうして忘れていたのか不思議なくらいに大事なことを。嘘みたいに、すっかりと忘れていたんだ。こいしに会ったなら、きっと伝えなきゃって、そう思ってたのに。我々が、私が、ここにいるのは。思い出したんだよ。だから、やり遂げなきゃならない。私が生まれた理由を、意味を、意義を、果たさなきゃならない。私の目も耳も、手も足も、命も心もぜんぶ、そのためにあったのに。だけど、忘れていたんだ。どうしてだろう。こんなに、こんなにも大切なことを」
「……こころちゃん?」
こいしが、僅かに首を傾げる。
その手を自分の頭から引き離して、こころはあらためて握り直した。手首から指先まで、その形を慈しむように。存在を確かめるように。胸元で捧げ持つように。
「こいし、海に行こう。もうすぐそこにあるんだ。あと少し進むだけで辿り着ける。私はそのためにここにいる。必要だったんだ、この手と身体が。こいしを海に連れてくるためには」
「海に? 別に良いけど、まずはここから戻らなきゃ」
「違う、違うんだってば。戻っちゃだめだ。もっと奥へ進まなきゃ。この先だ。海はもっと上にあるんだよ」
「この先って、あの滝の向こうに?」
落ちてくる流れを、こいしは見上げた。
意味の無い質量が、零れくる先を見た。
「……駄目だよ。これ以上は進んじゃいけない」
空っぽなはずの心が、無いはずの感情が、色を帯びないはずの声を、ほんの少しだけ震わせた。
「あそこは、私たちが行っちゃいけない世界だよ」
「怖いんでしょう。その感情は良く分かる。でも貴方も分かっているはずだ。私が貴方を連れて行く理由を知っているはず」
「でも」
「もう大丈夫だ。あと少しで手が届くんだよ。貴方の声に。私の意味に」
輝度はふたりの影を、ほとんど真っ黒に塗り潰すほど強くなっている。
ここが奥底ではなく、入り口であることに鈴仙は気づいた。無数の宇宙を越えて、あの水は生命世界へと流し込まれていく。ここは、途方もなく巨大な循環の出発点。
「……………………」
しばしの沈黙を経て、こいしは小さく頷いた。
その瞬間だった。鈴仙は足下で爆発した殺意に、素早く視線を向ける。
そこには目を疑う光景が広がっていた。垂直に漆黒へと墜ちていく穴、その断面を埋め尽くす、いくつもの回転翼。
「あれは」
ヘリコプターだ。それも巨大な軍用機である。十機ほどのそれらが、まるで連結されているかのように一糸乱れず三人へ接近する。隙間のない回転翼は、蟻の抜ける間すら無い処刑装置だ。このままこちらを粉微塵にするつもりである。
誰がこんなことをするのか、そんなことはもう分かり切っている。
(本当に潜りきったんだ、朧帆。たったひとりで、何十億年もかけて……!)
もはやその気配を間違えようもなかった。狂った月兎はその狂気を保ったまま、まだあの機内に健在なのだ。槍先のような鋭い視線を感じる。彼女はしっかりと、こちらを捉えている。
「ふたりとも!」
肩をいっぺんに叩くと、こいしとこころは揃って小首を傾げる。そして無感動にヘリの群れを見やるけれど、置かれた状況をいまいち理解できていないようだった。
「逃げるよ、もっと昇らなきゃ!」
カプセルを置いて、さらに先へ。
地獄の底のもっと底へ。輝水の降り来るもっと上へ。
追われて移動を始めた三人だが、その光景はほとんど変わらない。進んでいるはずなのに、あの瀑布の縁は手の届かない遙か先にあるままだ。
速度を上げるけれど、状況は何ひとつ変わらない。追いつかれてしまえば万事休す。きっとここでは距離や速度の概念が元の世界とはまったく違う。夢の世界と同じく、意識が、意思そのものがすべてを決する世界だ。
敵の意志は固いに決まっている。標的に追い付き、殺す。そのためだけに惑星ひとつを灼き払ったのだ。朧帆が追い付くと決めたのなら、こちらはそれ以上の精神力で逃げ切らなければならない。
しかし後方を確認すると、ヘリコプターのブレードが『棺桶』を砕き、なお迫り来ている。
(向こうのほうが早い! このままじゃ……)
逃げきれない。悪い予感が鈴仙の頭を過ぎる。
逃げ切れなければ、どうなる? 秦こころが死ぬことだけは絶対にあってはならない。彼女の安全のためならば、生命圈の存続のためならば、いかなる犠牲であろうとも払わなければならない。そして、この場においてそれを差し出せる存在は、鈴仙・優曇華院・イナバをおいて他にはいないのである。
朧帆を、かつての戦友を止めなければ。
刺し違えてでも。命と引き替えてでも。
考えてはいけない。自分と相手の力量差も、肩にかかった重圧の大きさも。やるべきことは単純。どんな手を使ってでも、面霊気を逃がす。敵の無力化が最良、それが叶わないなら一秒でも長くここに貼り付ける。
ただそれだけのこと、なのに。
(だめだ、速すぎる……!)
回転翼の唸る声が、もうほとんど耳元で聞こえる。
キャノピーの向こう、こちらを見つめる月兎の赤い瞳が、揺らぐことなくただ前だけを見ている。
一か八か、鈴仙は念力弾での狙撃を試みようとして。
(…………え?)
その違和感にようやく気が付いた。なぜ朧帆はこんなに愚直な手段でこちらを狙う? 相手は月の裏側から地球の裏側を狙い撃てるほどの手練れだ。飛び道具を用いれば即座に任務を完了できるに決まっているのに。
手早く小さな弾を撃ってみると、それは奇妙なことに、鈴仙の指を離れた瞬間に消失してしまった。
(距離の概念が狂ってるから、射撃ができないんだ。ここじゃ直接殴らなきゃ攻撃にならない)
それであれば、朧帆のこの攻撃方法は理に叶っている。ヘリの回転翼は刃であると同時に盾でもあるのだから。
絶望的な状況だということが分かると、いっそ笑えてきた。あれを止める手段がこちらには何も――。
「――我々が止める」
「え?」
こころが突然その身を翻したので、鈴仙は呆気に取られた。
「私は涙。涙は私。なら大丈夫、私はきっと、あれを動かせる」
「いや、何を言って……」
言葉はそこで途切れた。曲芸師の早着替えのように唐突に、面霊気の纏う気配が変わる。ここにいるのか、それともいないのか。それすらも曖昧になる。手の届く距離にいたはずだけれど、星よりも遠い場所に存在するようにも思える。見た目だけなら何ひとつ変わっていない。それでも確信する。彼女は神になった。いや、神よりももっと巨大で、よりおぞましい何かと化した。
――いったい……。
何が起こったのかを理解するより早く、目映い光が三人を呑む。
瀑布がこちらへ迫ってきていた。すべての方位からだ。水量が増したのだろうか。いや違う。流れ落ちる水面から、水流の管が蛇のように持ち上がっている。幾何学的にうねるそれらが、二つ、四つ、八つと分裂していき、やがて鈴仙たちを覆う籠を編み出した。
輝く球殻が少しずつ上昇を開始する。鈴仙は慌ててそれに追随した。
手鞠のような見た目のそれは、十数本の管で滝と接続を保っている。壮麗な光景ではあるが、しかし所詮は水ではないか。足下に迫る鋼鉄の獣たちを阻む役に立つだろうか。
その疑念が杞憂だと、鈴仙はすぐ思い知る。
球殻が鉄線のごとき細い水流を、ヘリコプターに向け放つ。高周波振動に耳がびりりと震える。輝きが最高潮に達したその一撃は、もはやレーザーにしか見えない。そしてそれは見た目どおりの、いや、想像を超える威力を持っていた。
光糸に撫でられた機体は、即座にばらりと両断され、制御を失い鉄屑と化す。
レーザーはどんどん本数を増し、ヘリの群れに突き刺さっていった。そしてぐるぐると出鱈目に闇を掻き回し、ただそれだけでヘリコプターをなます切りにしてしまう。
――これは、水圧メス? いや、そんな馬鹿な。
面霊気の周囲を、六十六の面すべてが衛星のごとく周回している。どうやらあれらが球殻の運動とレーザー射出を操作している。こころの茫洋とした瞳は、何もかもを吸い込むようだった。
見下ろす無数の顔から、その双眸から、滝のように涙が溢れている。鈴仙ははっとして頭上を、瀑布の頂上を見上げた。
――同じ、形だ。
じゃあ、私たちがいま昇っていこうとしているあの場所は、まさか。
微塵にまで切り裂かれた最後の一機、そのキャノピーから人影が跳んだ。殺到するレーザーを躱しながら、それは驚異的な速度で球殻へと迫る。
朧帆は、そこにいた。
鈴仙の記憶と何ひとつ変わらぬ顔で、そこにいた。
本当に、記憶とまったく同じ冷徹な瞳で、ただ標的を見据えていた。彼女は銃弾そのものなのかもしれない。あるいは電磁波や亜粒子、放射線に例えても良い。放たれたら最後、どこまでも真っ直ぐ進み続ける。狂える兎は、もはや迷うことは無いのだ。たとえ虚無の宇宙をいくつ踏み越えようとも。
――貴方を、そうまでさせる希望とは。
――貴方を、そうまでさせる絶望とは。
いったい、何なのですか。
数え切れないほどの光糸が巨大な虚を裂き続ける。神話めいた光景に圧倒され、鈴仙にはもう祈ることしかできない。恒星砲の超々高温すら耐えた朧帆が、この水流レーザーは回避することを選択している。それはつまり、有効な攻撃であるということだろう。そうであってほしい。そうでなければ勝負はとうに決している。
鈴仙は知らない。朧帆の確率操作は彼女を結末まで必ず導くことを。奇跡のような事象であろうとも、それが起こり得るかぎりその手に掴み取ることができる。望む賽の目だけが出続ける道を彼女は駆け抜けてきた。究極の冒涜者は、自身の結末は知らないが、自分がそこに必ず届くことを知っている。そしてそれが己の望みを叶えるものであると信じている。だからそれがどれほどの長さだろうと関係ない。百年も、百万年も、百億年も、彼女にとってはさしたる違いはない。
すべては、意味を果たす、ただそのためだけに。
決定的な瞬間は、前触れ無く訪れる。レーザーの隙間を、球殻の割れ目を、朧帆はずっと読み続けていた。そしてそれらが同調し、さらに標的への道を開ける絶好の瞬間を待っていた。戦士たる彼女は知っていた、そのときがいずれ必ず来ることを。
鈴仙の失態とするのは酷だろう。実際、彼女はその攻勢を察知し、咄嗟に波長攪乱による幻影投射を計った。
けれど、ここではもはや光の速度が秒速三十万キロメートルではないし、そもそも距離の概念が希薄な世界である。それを抜きにしても、相手は彼女よりも波長攪乱に長けた最強の月兎兵だ。鈴仙の対抗策は不発に終わった。彼女の脇を一瞬で掠めて、すでに次の瞬間には。
「――ようやく捉えた」
標的を抱き締めるようにして、黒く光る短剣を根本まで鳩尾に刺し込んでいた。
こころの瞳が針穴のように絞られる。水晶のごとく煌めいていた球殻が、不意にぼやけて、崩れ始める。
「ただの暗殺任務が、これほどまでに大がかりになるとは思わなかったよ。ずいぶんと長い時間がかかった。けれどもう、これで終わりだ。お前は私に殺されるために生まれた。トコツネを殺すために私が引きずり出したんだ」
背中から鈴仙が取り付き、なんとか引き剥がそうとするけれど、暗殺者はびくともしない。
「ならばこの結末は自明だ。誰がどれだけ足掻こうと、何もかもが無駄だ。私はお前を殺すために生まれたんだ。いま、この瞬間、ただそのためだけに。こうなることは最初から決まっていたのに」
捻りながら引き抜かれた短剣が、そのまま鈴仙に向けて振るわれる。
慌てて飛び退くも、庇った両腕に浅く切り傷がついた。朧帆はかつての部下に視線を向けることなく、短剣を逆手に持ち替え、こころの首筋に突き立てる。
再び手を伸ばす鈴仙の、その意識に割り込むものがあった。
##Null##『面霊気から離れて』(99999999999999)
Reisen0294『え?』(56884095230755)
なぜいま月兎通信が、と訝しむのも後回しにしてその言葉に従う。ここはもう、何が起きてもおかしくない世界だ。
迸る体液が拳を滴っていく。朧帆の声には恍惚の色があった。
「あぁ、ツクヨミよ、私は成し遂げました。いまここに、あなたの指令を果たしました」
「……月兎兵、喜ぶのはまだ早い」
暗殺者の手にこころが触れる。異変を察した朧帆は刃を捻ろうと力を籠めるが、その手はびくともしなかった。
「これは」
「貴方は間に合わなかった。ほんの何秒かだけ、遅かった」
「まさか……そんな馬鹿なことが」
「もはや貴方に勝ちは無い。ツクヨミの企てが成就することはない。私はもう、ここへ戻ってきてしまった。私が生まれた意味も、貴方が思っているものとは違う。気づいていなかったのでしょう。結論はすでに、貴方たちの敗北と定まっている」
「無駄口を叩くな!」
標的を睨むその顔が、しかしすぐ驚愕に染まった。傷口から迸る透明な液体が、柄を握る手を覆っている。
「私は涙、涙は私。そしてここは、もう涙の只中」
鈴仙は辺りを見渡した。四人はすでに、滝の管を抜け出していた。
それは海だった。鈴仙の知っている概念で表現するならばそれしかなかった。白く輝く水が、視界の限りに広がっている。水平線は見えない。いや、水平線が存在しない。海面は凹面を描き、天へとせり上がっている。
海面からふわりと浮かんだ水塊が、面霊気の周りを渦巻く。それが少しずつ暗殺者へと降り積もり、朧帆の右手を少しずつ占有していく。
「貴方は間に合わなかった。人間が挑んで、妖怪が抗って、神々が戦って、月人が阻んだその過程。何千億もの命と引き替えに、貴方から奪ったほんの数秒。そのせいで貴方は負ける」
「違う、私は意味を果たす!」
「いいえ、意味を果たすのは私。成し遂げられたのはトコツネの指令。演算は完結した。貴方たちを凌駕した。そして私は、貴方は、ここに結論づけられる」
「まだだ!」
空いた左手に二本目の短剣を具現化し、朧帆が振りかぶる。
「右手を封じて勝ったつもりか。私は意味を果たすためなら何だって差し出す。同胞も、世界も、私自身もだ! 私の身体は、私の心は、私の命はここで消費されなければならない」
「それは私も同じこと。意味を果たすためなら、私は何だって差し出す。世界も私自身も、その前では何の価値も無い。だから私のすべてはここで消費されなければならない」
「私に殺されるのがお前の生まれた意味だと言っている!」
「違う。私の意味は――」
瞬間、囲む水檻が粗雑な槍と化し、もつれ合うふたりへと殺到した。
「――私の意味は、こいしを治療すること」




