無垢/アンダーターン
底のない、暖かな海の中、少女は浮遊していた。
呼吸はしないままだった。その方法を知らなかったからだ。
瞼は閉じたままだった。開く必要がなかったからだ。
水塊が柔らかく彼女の肌を転がっていく。無限深から湧き上がってきた水が、少女を愛撫しては果て無き循環へ戻っていく。水はそれ自体が淡く輝いていて、そこらじゅうを燐光が埋め尽くしていた。だから、ここには影も暗闇もない。
ただ光ばかりが満ちた海。
ただ温もりだけを湛える海。
上を見ても下を見ても、どこまでも水がある。この海は無限そのものだった。宇宙空間と同じ、何の比喩でもない無限だ。もしも彼女が目を見開いたなら、見渡す限りに濁りも不純物もない、硝子のような水が見えたことだろう。そしてその中には、魚はもちろん、プランクトンや微生物すら存在しない。ここでは何者も生きてはいない。酸素を生むものも、消費するものもいないから、細かな泡ひとつすらたたないのだ。
つまりは、少女も生きてはいない。
そしてまた、死んでもいない。
少なくとも、今はまだ。
少女の頭上には――頭のある方を上と仮定するならば――、奇妙な四面体が佇んでいた。十六の丸みを帯びた物体が形成する正三角形。それが四つ合わさって構成される幾何学的立体。ゆっくりと自転するそれは、時折その面が消失するように見える。それは土星の環と同じ原理だった。真横から見たときにだけ、その薄さのため見えなくなってしまうというわけだ。
それらはを構成する物体はすべて、顔だった。
笑い、泣き、怒り、哀しみ、誇り、嘲り、奮い、あるいは貶し。どれをとっても同じ表情のない、精緻な木彫りの面だ。それらが、誰が配置したわけでもないというのに、数学的な象形を描いている。
面の群と少女。異物を孕んだ海。あり得るはずのない光景だった。
ここは混沌の循環の直中。
ここは純粋な静謐な次元。
そんな場所に人間が入り込めるはずはなく、そんな場所に面が紛れ込むわけもない。何故ならばこの海は、意志だけから成り物質を拒む、有限次元からは到達不可能な原初、もしくは根源であるのだから。砂粒のひとつであっても、この場所に生じるはずがない。そんなことがあってはならないはずの、閉ざされた、果てのない世界であるのだから。
しかし、それでも、面と少女はそこにいる。その事実は天変地異に等しい異変だ。世界の前提を揺るがす大事件だった。
けれど、そのことに誰も気がついてはいない。
少なくとも、今はまだ。
十六の面で構成された正三角形、それが四つ合わさってできあがっている正四面体。合計六十四の面を貫く不可視の軸の両端に、さらに二つの面が不動のまま向かい合っている。ひとつは白く、ひとつは黒い、いずれも赤子を象った面である。どの面もそれぞれ違う顔をしているけれど、これらだけは色を除けばまったく同じ見目をしていた。同じ表情で目を瞑る二つの面は、しかし磁場の陽極と陰極のごとく、相反する波動を照射しあっている。あるいはウロボロスの蛇のごとく、互いに互いのエネルギーを食い合っているのだ。その小さな循環は目に見えない。けれどそのやりとりは少しずつ確実に、大いなる水流をかき乱している。本来ならば発生し得ない細波が、少女の身体に僅かな影を落とす。
面の群は、だんだんと少女へ向けて降りていっていた。いや、もしかしたら少女の方が昇っていっているのかもしれないが、ドッキングのためランデブーする人工衛星たちのように、そのどちらが相対的に停止しているのかを判別する方法はない。とにかく両者の距離は、少しずつ、少しずつ縮まっていた。
やがて、彼女の頭上へ光が集積してくる。光り輝く水の、その終端が見えている。穏やかな海面がぬるりと波打ちながら、上昇してくる構造体を待ち受けていた。揺蕩う水面は、水中からの光を反射して、柔い鏡と化している。時折、その鏡が砕けた波間から覗くのは、蒼々とした暗闇だ。それは海で満ちた宇宙にぽっかりと浮かぶ空隙であり、大空よりも大きな泡だった。そう、この空間に上下の区別があるのだとすれば、あの泡の方向こそが上だ。
少女は、面は、浮上していく。
巨大な重力に引かれて。
強大な浮力に乗って。
時が訪れようとしていた。静謐と光輝に埋もれた、柔らかく暖かな場所から、少女は脱しようとしていた。何故ならば彼女はそうしなければならないからであり、そうするために創りだされたからだ。だがその運命さえも、まだ生きていない少女は知らない。知るはずもない。
白の面が一際に明るく輝いた。これが表すは希望。すなわち未来を求める心、勇気に満ちた心、正義を信じる心。危険を不可視とし、救いをもたらし、奮起へ導くもの。愛の先にある、不屈の極致。
黒の面が一際に仄昏く輝いた。これが表すは絶望。すなわち未来を手放す心、臆病に満ちた心、すべてを疑う心。危険に敏感にさせ、終焉をもたらし、恐怖へ導くもの。憎の先にある、諦観の極致。
ふたつの輝きが合わさって、生命が、感情が、産まれようとしていた。
回転する四面体の頂点のひとつが、ついに少女の頭を掠める。すると、まるでそれを待っていたかのように、その立体はたちどころに解け、面たちはその身体に纏わりつく。忙しなく体表を這いずり回る面たちを、物言わぬ希望と絶望がただ見守っていた。
――生きろ。
誰かの意志。少女は目を開く。
ざばり。白い身体と無数の面が、宙空へと放り出された。
光の海、希望の渦、絶望の圧。
水面を離れた身体から滴っていく雫の粒。
それを震わせる世界の虚空の共鳴。
身体から生まれては奪われていく熱。
ありとあらゆる情報が少女の感覚を灼いた。何が何だか彼女には分からないまま、思考すら巡らせることができず、ただ回る世界にかき回されていく。ぐるぐると目が回る。ぐるぐると混ざっていく。光、音、熱、また光。希望、絶望、希望、絶望、希望、絶望、希望、絶望、希望、絶望。
あてもなく伸ばした少女の手が、生暖かいものに飲み込まれた。
そしてそのまま、強烈な引力で頭から吸い込まれていく。
まるでクレバスを落下していく氷の欠片のように、少女は滅茶苦茶な力で転がされてしまった。重力の方向が一瞬ごとにあべこべになるけれど、彼女はまだ上も下も知らない。ただ目まぐるしい感覚の混乱に酔うことしかできない。彼女は次元と次元の間を転がり落ちているのだ。その不快感は想像を絶する。これから生まれようとする彼女が、丈夫な身体を持たされていたことは僥倖と言えた。
どのくらいの間、揺らされていただろう。やがて、唐突に少女の右手が何かに突き刺さった。転落が止まる。浮上が終わる。少女は狭く暖かい管の中にいた。脈動が海水とともに少女をどこかへ押し出そうとしている。けれど、その先が何かに詰まっていて、そこに手がはまってしまっているのだ。
彼女はもがいた。苦しくて、苦しくて堪らない。空気などないこの狭い空間で、すでに彼女の肺呼吸は始まっている。口からはどんどん、温い海水が身体へ入り込んでくる。先程までは彼女を守護してくれていた水たちが、今やその生存を脅かしていた。
指を、掌を、滅茶苦茶に動かしてみる。ぬるぬると柔らかいものが、手の内と外を行ったり来たりする。視界に何か赤いものが混じる。死にたくない。言葉も知らない少女の頭には、その一念しかなかった。死への恐怖が、生への渇望が、詰まった管のその先へと彼女を行かせようとしていた。
そう、その先へ行かなければいけなかった。
ここにいたままでは、死ぬしかないのだから。
それは、それだけは、嫌だ、何があっても。
がむしゃらに身をくねらせ、求める方向へともう片方の手を伸ばす。両手でそれをかき回すと、それはやがて真っ赤になってぼろぼろに壊れた。少女は這い進む。這い進もうとして、そこにさらにもう一枚の膜があることに気づく。その向こう側には、光り輝く何かが見えた。それは願い求める何かだと、少女は瞬時に覚った。
もはやほとんど本能で、少女は指先に力を集中した。妖怪としての身体を得た彼女は、単純な筋力だけではなく、幻想の力を、妖力を扱うことができた。その助けを得て、少女の細い指は分厚い膜へと容易く刺し込まれる。混濁しかけた意識で、ただ呼吸だけを求めて、少女はその肉壁を破り裂いた。
――■■■■■■■■■■■■■■!!
何か、大きな音がした。
恐怖が吹き抜けて絶望の襞を震わせたような、耳障りな音。
破った膜から、海水が排出されていく。少女の指先に、冷たい空気が触れた。希望が成就したことを、少女は知った。膜の穴を引き裂き、さらに拡げる。生きたい。死にたくない。柔らかな縁を掴んで、どうにかこうにか身体を引き上げる。
その手が次に触れたものは、固い壁だった。さらにその壁へ指を立てる。細かい粒子で構成されているその壁――地面は、彼女の力を受け止めるだけの頑丈さがあった。
頭が抜ける。現実に触れる。
何かを求めて開いた口からは、止めどなく海水が吐き出された。肺の中を充満していた水だ。それは喉を逆流し、地面へびちゃびちゃと落下していく。僅かな光を煌めかせたかと思ったら、すぐに土の中へと染みていってしまった。
そして、少女は初めての息を吸った。
酸素が身体中に行き渡ると、それが求めていたものであることを、必要なものであることを少女は即座に理解した。同時に、吐き出し切れていなかった液体に再び激しく咳き込む。口と鼻から、残滓が糸を引いて排出されていく。横たえた身体のまま、吸って吐くことを少女は繰り返した。この動作を継続していかなければならないのだから、できるだけ早く慣れなければ。
眼球の焦点が世界に合い始めると、自身の周囲の状況が見えてくる。どうやら地面に引きつけられているようだ。大きな力が自分を捉えて離そうとしない。あまりにも強大で、しかし柔らかい壁。
その壁から真っ直ぐに、幾つもの緑色の、何かが伸びていた。光を。それの声が聞こえた。もっと光を、水を、養分を。
自分の抜け出してきた方を振り返ると、そこには自分がいた。いや、自分は自分であり他の身体を持っているはずがないのだから、あれは自分ではない。けれどそれは、自分の姿形によく似ていた。だって胴があり、そこから頭と手足が伸びている。大きさだって同じくらいだ。ただひとつ、腹が大きく裂かれて、そこから赤い液体が止めどなく流れ出ている。
それの喉から音が聞こえた。口の端から赤い泡がごぼごぼと溢れている。呼吸を妨げられているのだ。少女が腹を裂いてしまったせいで、あれはもう壊れてしまっていた。縋るように、別れを告げるように手を伸ばす。その手はあれと同じ液体で、真っ赤に染まっている。
お前は何。それの声が聞こえた。音ではない。赤い液体で塞がれた喉から、もはや言葉など紡げるはずもない。紡げたとしても、その音節を少女は言葉として解釈できない。けれど、それの発する感情を直に感じ取り理解する力を、少女は生まれついて持っていた。お前は、いったい何なの。その感情は恐怖だった。己の腹から這い出てきた、ひとの形をしたモノへの恐怖。得体の知れない少女への、圧倒的な恐怖。
私は何。少女もまた、恐怖に囚われた。彼女は何も知らない。自分自身が何者なのか。どうして呼吸を始めたのか。この世界は何なのか。自分が出てきたあれは何なのか。地面から伸びる緑色のものが何なのか。なぜそれらはざわざわと揺れては音を立てるのか。どうしてここはこんなに寒いのか。あの聳える巨大な塊はいったい何なのか。空から見下ろす不気味な光球はいったい何なのか。
なぜ、
ここは、
どうして、
あれはなに、
なんのために。
恐怖は留まるところを知らずに膨らみ続けた。それは少女の小さな頭を容易く踏み越えて、周囲の得体の知れない世界へと噴出していった。分からない。何も分からない。ただ生きていたいだけ、ただ死にたくないというだけなのに、そのために何をどうすればいいのか、少女にはまったく分からないのだ。飛び散る赤が。身を刺す冷たさが。揺れる音たちが。あの壊れている何かが。覆い被さる青が。直視できない眩い光が。自分を害するつもりなのか、あるいは護ってくれるものなのか。分からない。何も分からない。
しにたくない、
どうしたら、
いきたい、
こわい、
やだ、
希望と絶望と希望と絶望と希望と絶望と希望と絶望と希望と絶望。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!
自分を縛り付ける地面から、少女はなんとか身を引き剥がそうとする。蒼い虚空へ向けて腕を伸ばすけれど、その手を掴んでくれる誰かがいるはずもなかった。身体を転がす。鋭い石が肌にいくつも食い込む。痛みに絶叫する。恐怖は爆発的に膨らんでいった。少女は泣いた。涙が湧水のようにこんこんと流れ続けた。
少女とともに現出した無数の面が、彼女を中心に公転し、幾重もの円盤を描き出す。白の赤子と黒の赤子は、その天頂で背中合わせに重なり、周囲を死角なく睥睨し続ける。
やがて、逃げたいという少女の思いが形を成す。いや、それは形というにはあまりにも粗末で、荒っぽい手法だった。
膨大な感情の一部を妖力へと変換し、それをただ重力に抗って愚直に噴射することで、少女は地面から浮かび上がったのだ。少女の直下で、膨大な絶望を直に浴びてしまった草花が、みるみるうちに萎れていく。
その意味を、その影響を、少女は知る由もなく。
一歩間違えば、地面に叩きつけられたり、あらぬ方向へ吹き飛ばされたりしかねない、相当に乱暴な飛行。彼女が幸運だったのは、その身体が天性のバランス感覚を持っていたことだった。少女はすぐに、その噴射で移動する方法を理解した。手足をだらりと投げ出した幽鬼のような格好で、六十六の面の衛星とともに、少女はあてもなく飛行する。恐怖から逃れるために、希望を見つけるために。
でも、どこへ行けば、死ななくて済むのだろう。この恐怖から逃れることができるのだろう。
妖力効率が極度に悪い飛行法では、少女はその身体を数メートル程度しか浮上させられず、速度も歩くより遅かった。けれど、他に体を動かす方法を少女は知らないから、どうすることもできない。
見たこともないものがそこかしこに散らばっている。少女の指先よりも小さなものから、計ることができないくらいに巨大なものまで。すべてが少女を見つめていた。すべてが少女を狙っていた。大きな岩の塊がその手を今にも伸ばしてきて、自分の細い身体を握りつぶしてしまうのではないかと思った。あるいは流れる水がぽっかりと口を開けて、自分を飲み込んでしまうのではないかと思った。地面に近づいても、高く離れても、恐怖から逃れることはできない。どこにいても同じだった。何も変わることはなかった。
でも、ここにいちゃ、駄目だ。
ここじゃないどこかへ逃げなきゃ。
少女はただ、その思いに突き動かされていた。明確な目的はない。そんなものは知らない。けれど、ここにいたままでは死んでしまうということだけは確信していた。だから彼女は、怖いものばかりの世界で、進むことを選んだ。少しでも怖くないと感じる方向、つまり、自分と同じように恐怖を感じている者が、なるべく少ない方向へ。
その判断は、彼女を山の上へ上へと導いていく。少女の撒き散らす恐怖は他の生命へ簡単に伝染してしまうので、それが少ない方角というのはつまり、動植物そのものの少ない方角だった。植生の限られる標高の高い場所へと、少女はふらふらと飛んだ。
そうやって、どのくらい飛翔しただろう。いつしか少女の身体は、山の冷たい風に曝され続けて、もうすっかり凍えていた。がくがくと震える身体に、面たちがぴたりと貼り付いて熱を保とうとするけれど、あまり効果はない。体温と一緒に希望が奪われていく。恐怖が、絶望が、どんどん溢れ出てくる。暖かさがなければいけない、そのことを少女は思い知った。凍えれば自分は死ぬのだ。無防備なままで空にいるとそうなってしまうわけだ。少女は学んだ。しかしもう手遅れだ。熱を取り戻してくれるものなど、どこにあるというのだろう。
力を失った身体は、その高度をどんどん下げていく。そうすると、さらに悪いことに、少女は自分に向けられた恐怖の発生源が増えていることに気づく。しかもそれは、いや、それらは今までのものとは桁違いに強い感情を持っていた。明確に自分を恐れ、そして立ち向かおうとする使命感。複数の者たちが、少女を取り囲んでいる。
嫌だ。死にたくない。少女は悲鳴を上げた。怖い。こっちに来ないで。恐怖が燃え上がり、天を衝く。
少女の進路は、追っ手が少ない方角を本能的に選び取った。それはもちろん誘導された方向だが、彼女はそんなことを微塵にも疑いはしない。
もはや、どうしたら良いかなど考えるだけ無駄だ。涙で顔をどろどろにしながら、少女の逃避は続く。飛べば凍える。しかし飛ばなければ追いつかれる。初めから袋小路の、追い詰められることが分かりきった追いかけっこ。その終着が近いことにすら、少女はまだ気がつかない。きっと逃避の終焉に際しても、その瞬間まで気がつくことはなかっただろう。
そして高度はどんどん下がり、やがて足先が地面を擦り始める。痛みに声を上げる気力すら、もう残ってはいなかった。そのまま地面へ身体が投げ出され、少女の前進が止まる。動かない身体とは裏腹に、その鋭敏な感覚は追っ手の存在を忘れさせてはくれなかった。強い感情の持ち主たち。恐怖と共に自分を追ってきた者たち。
面が少女の身体を覆い隠す。もしかしたら、見えなくなればやり過ごすことができるかもしれない。このまま動かずにいれば、通り過ぎてくれるかもしれない。そんな浅慮に縋ることしか、もうできることはなかった。体温を取り返す術も、栄養を摂取する術も知らない。つまりは、希望を形にする方法を知らないのだから。
追っ手はぴたりと、貼り付くように止まった。しかも、ひとりがとても近いところにいる。その感情は太い針のようで、少女の心を深く深く穿った。恐怖の嗚咽が、絶望の涙が止まらない。逃げたい。けれどもう逃げられない、これ以上は。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
来るな、来るな、来るな、来るな、来るな。
来ないで、来ないで、来ないで、来ないで。
少女は何もかもに目を瞑った。何もかもに耳を塞いだ。絶望から逃れるためだ。何も分からなくなれば、安心できると思った。けれどそれだけでは、伝わってくる感情の波を無視することはできない。身体を蝕む寒さも消えてはくれない。丸裸のまま山中でうずくまっているという、この現実は変わらない。彼女が恐怖する、彼女を恐怖するこの世界が、何か変わろうはずもない。
身体の震えが、恐怖のためなのか、それとも寒さのためなのか、もう分からなくなっていた。言うことを聞かず、思うように動かない身体に、生命が見切りをつけようとしていた。この極限の状態から逃れるためには、絶望を受け入れるしかない。生きることを諦めさえすれば、もう何も怖くはないのだから。
けれど、心が絶望を受け入れようとしても、どうしてだかそれができなかった。白い布を漆黒が犯していっても、その切れ端の最後の最後で、白く点のように残ってしまう場所があった。そこが希望の糸から指を離さずにいる。生きたい。死にたくない。そうやって、最後の抵抗を止める気配がないのだ。だから死ぬことができない。この恐怖から、逃げ切ることができない。
身体も精神も疲弊しきっていた。大きな嵐が過ぎるのをじっと待つ虫のように、少女は面の殻の中でじっと身を縮める。神も仏も知らないから、祈ることすらできない。絶望しきってしまえば、諦めてしまえば楽になれるのに、それすらもできないというのなら、このまま怯え続ける他に選択肢はなかった。
事態はしかし、膠着の様相を見せていた。追っ手は少女と一定の距離を保ったまま、近づいてこようとはしない。そう、少女は知らなかった。自分の発する膨大な恐怖の念が、ただそれだけで周囲一帯を圧倒し、相手をも恐怖させているということを。そしてすべてを拒む自分の意志が、ただそれだけで強大な風圧となり、自身への接近を阻んでいるということを。
もうどのくらいの時間が過ぎたのかも分からない。少女は遠くなりかける意識を、その度になんとか引き留めることを繰り返していた。自分が終わってしまうような気がして、必死で呼吸を続ける。息はだんだんと細く、浅くなっていく。赤く滲む指先に、もう感覚が無い。肩は、脚は、大きく震え続けていた。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。涙が滴る。がちがちと歯が鳴る。身体は言うことを聞かない。死んでくれようとしない。生きるために、あるはずもない熱を生み出そうとしている。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。痛いのも、冷たいのも、怖いのも、もうこれ以上は。
自分へゆっくりと近づいてくる、別の誰かに彼女は気がつく。
逃げないと。少女は足掻く。けれど動かない。墜落した身体はもう動くことができない。歩くことはおろか、立つことすらできない少女には、逃げる術は残されていないのだ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
だから、喚いた。言葉ではなく、声ではなく、感情で喚き叫んだ。不思議なことに、これだけは無尽蔵にあった。この恐怖を放置すれば、この山はおろか国を、世界を覆い尽くしただろう。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
少しずつ、少しずつ、それは接近してくる。少女に触れようとしている。あれが自分に触れたらどうなるのか、まったく分からない。あれが自分を殺さないという保証は無い。だから恐れる。あれによって自分はどうなってしまうのか、何をされてしまうのか、分からないから。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
手が、ほら。
伸びてくる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌
指が、
肌に、
触れた。
熱が、流れ込んできた。
その指は乱暴に少女の腕を手繰り寄せて、そのまま掌へと導いた。押しつけられたそれは柔らかくて、暖かかった。面たちが少女とそれの間に割って入る。それ以上の接近を防ごうとしている。しかし、それは拒絶ごと包み込むように、ふわりと広がって覆い被さってきた。固い面越しに伝わってくる熱。少女がいま一番欲しかったもの。
――■■■■■■。
音が降ってきた。遠い遠い耳元からだ。鼓膜がじわりと暖まって、貼り付いていた氷がはらはらと落ちた。この世界で耳にしたどんな音よりも、それは温度を持っていた。
――■■、■■■■■■。
そしてそれは、恐怖していた。取り囲む者たちと同じくらい、強烈な恐怖だ。けれどその厚いヴェールの向こう、微かにだけれど、伝わってくる別の感情があった。それは希望のようで、喜びのようで、しかし少女の知らない色の光で輝いている。漆黒の闇を照らそうと懸命に光を放っている。
この光があったから、それはここまでやってきたのだ。
――■■■。■■■。■■■■■■■■■■■■■■■■■■。
少女は最後の力で、それを振り払おうとした。恐怖はまだ消えていない。それが何者なのかはまだ分からないのだから。それでも温もりを与えられた少女の身体は、その贈り主に接して急速に力を失っていった。張りつめていたものが切れたのだ。それが傍にいてくれるのなら、もう安心しても良いと判断したのだ。どこかにそういう存在がいなければ、身体は緊張するばかりで存在が保たない。休息が必要だった。警戒も恐怖も必要ない、安息の場が必要だと、身体はそう訴えていた。
そうか、ここでなら。
ここでなら、眠ってもいいんだ。
少女はほんの一瞬だけ、そう信じることができた。だからもう、途切れそうな意識を引き戻すことは止めにした。本当はまだ、恐ろしくて仕方がない。手放した意識が戻ってくるということが信じられない。けれど、そうやって自分を騙さなければならないほどに、少女は疲弊していた。
そうして彼女の意識は暗転する。




