勇躍/もういちどだけ
三途の川以上に強固な境界は無い。生と死の区分は絶対であり、原則として一方通行である。生者も死者も無断で渡河することはできない。
それを証するかのように、三途の川は観察者の前に見渡す限りの大河として顕現する。
これを渡るには、特別な渡し舟に乗るより他に無い。泳いだり飛んだりして越えようとしても、進んだ分だけ向こう岸が遠ざかるばかりである。対岸は常に辿り着けない場所として定義され、それを克服できるのは是非曲直庁の法魔術のみであるからだ。
しかし、定義とは常に意識の上にあるものである。
「……もうすぐだ。彼女の元へ、君を連れていってあげられる」
大海のごとき河の畔に立ち、朧帆は藤色の眼球を指先で撫でる。肌と粘膜の間のようなつるりとした感触、しかしその第三の瞳は何ひとつ反応を返さない。
無意識に生きる者。矛盾に満ちた在るはずの無い存在。
最強の月兎兵が望み続けた場所に、彼女は最初から立っていた。彼女は意味そのものだった。誰とも感情を交換できない者に、存在する意味など無い。それは朧帆が恋い焦がれ続けた原初の兎よりもなお輝いて見えた。死ぬことで意味と化した彼の者よりも、生きたまま意味へと完成した存在のほうが尊いように思えた。
作戦行動の完遂に向けて無意識の妖怪と接触した朧帆は、しかし拍子抜けすることとなる。
――こころちゃんに、会いたい。
閉じた恋の瞳の中には、ただその思念だけが渦巻いていた。
これが笑わずにいられようか。生きても死んでもいない者が何かを願うなど!
これがツクヨミの思惑どおりの結果であるのかどうかは、朧帆には知る由も無い。必然だろうと偶然だろうとどうだって良い。彼の次元においてもはや勝敗は決している。結末はすでに定まっている。この宇宙はその筋書き通りに進み続けることしかできないのだから。
とにかく肝心なのは、両名の利害が一致したことだ。朧帆も彼女も、目指す先は面霊気ただひとりなのだ。だから彼女を取り込むことは容易かった。息を吸って吐くのと同じくらい簡単に、無意識の妖怪は月兎兵の手の内へと収まった。
そしていま、朧帆はここにいる。
「じゃあ、行こうか」
薄い微笑みを崩すことなく、見渡す限りの大河へと足を踏み入れた。
すると次の瞬間には、彼女の姿はもう対岸にあり、彼岸を歩き出しているではないか。
第三者から見れば瞬間移動に見える。けれど朧帆にしてみればほんの一歩を踏み出しただけだ。彼女が無意識の世界へ潜行するやいなや、三途の川はみるみる萎んでいき、ついには掌よりも細々とした沢にまで縮退してしまった。三途の川と言えど、結界の大原則からは逃れられない。認識の色眼鏡を外せばただの線だ。
彼岸は月都と同じ匂いがした。生命が満ちた地上と隔絶されている、という意味では似た場所だけれど、穢れの存在しない理由はまるで異なる。月は穢れを排除した場所であるのに対し、ここは穢れが寄りつかない場所だ。亡者が生者の世界へ出ていくことはあっても、その逆はほとんど無い。少数の例外はあるにせよ、ここには穢れの象徴である生存競争自体が存在しない。
生きるためならすべてが肯定される、穢れに満ちた世界。ルールなど無く、当然反則も無い。眼前の相手のすべてを否定してでも、己が夢を叶えるためであるのなら。
それは月都で生まれ育った朧帆にとっては、理解できない争いであった。そうまでして得られる存在理由に、いかほどの価値があるというのか。自分がいまここにいる意味というのは、そんな低俗なものではない。もっと大きな、崇高な目的のため私はここに生まれたのだ。奴らが夢見るものなど、そのほとんどが紛い物だ。私は違う。間違いを侵し続ける奴らとは違う。きっといつか、本当の意味を見出してみせる。
月兎兵を狂わせ、そしていまもって歩ませているのは、ただこの一念であった。
無意識への潜行を止め、意識の水面上へと浮かび上がる。すでに三途の川ははるか後方だ。無意識に潜ったままでは、いずれ目指す方角から逸れてしまう。目的とは意識の上にあるためだ。
気配は感知されてしまうが、とはいえ朧帆を阻む者など彼岸にすら残ってはいないはずだ。大気核融合による全球浄化は、地上世界を遍く灼き払った。誇張ではなく、この世のすべてを溶かす高温である。
神仏であろうと、いっさいの例外は無く。
「…………?」
朧帆はそれに気づいた。例外は無い。そのはずだったが。
無間地獄の入り口、地の底の底へ下ってきた先に延びる、広大な回廊状の空間。規則正しく並ぶ鍾乳石がまるで神殿のような様相を呈する。
――いや、ここは本当に神殿なのかもしれない。
「そう、無間地獄を目指すなら、お前はここを通るしかない」
厳かな声は空間自体から発せられているようだった。
月兎は足を止めない。誰の言葉であれその必要は無い。
「お前がどこの誰で、どんな術を使っているのかは知らない。私ですら記憶しておくことが難しいなんてね。あの姫様にアドバイス貰ってなきゃ危なかった。たとえ敵を認識できずとも、通る道が分かってるなら待ち受けることはできる。ここで待ってれば、お前は必ず現れる。的確な助言だったけど、癪に障るわぁ、あの姫様。いっそ怒りすら通り越して惚れちゃいそう。……ま、愚痴はこの辺にして」
出現するは真紅の力場。地獄にたゆたう限りなく黒に近い紅。
それらは折り重なって、洞穴の壁を昏く照らし出す塔となる。
そびえ立つ形無き塔が描く円の中心、そこに神は立っていた。
「外なるものに魅入られた月の兎よ。これ以上の狼藉が罷り通ると思うな。お前にはもはや地獄すらも生温い。テュポーンの末路ですら不相応だろうよ。永久の呪いを重ねに重ね、海の底の山の下へ閉じ込めたとて、お前の罪は晴れることは無い。お前は生命のすべてを侮辱した。神々をも同じように侮辱した。ゆえに――」
眼前に現れるは、見上げるほどに巨大な姿。
トリウィア・ヘカーティア・ラピスラズリ。
「――ゆえに、お前の旅をここで終わらせる。罰など与えることはない。お前はここで終わる。何も為さず、何も残さず、ただここで終わりになる。一切の慈悲は無いものと知れ」
赤く燃える星の下、三対の腕がそれぞれに光を捧げ持っている。神の偉容としか形容できない光景であった。彼女を前にした者は悉く跪き、三身をまともに拝謁することすら許されないだろう。
だが。
「……邪魔だな」
だが、狂った月兎の前では。
人間だろうと、白狼だろうと、神々だろうと。
宇宙の果てから見る太陽と地球のように、ただちっぽけな塵芥に過ぎず。
「そこを退いてくれ。正しくない女神よ」
ゆえに、踏みつけ、踏みにじり、踏み越えることに、いささかの躊躇も無かった。
「よろしい。その言葉を鏃とし、お前の全身に打ち込んでくれる!」
怒れる地獄の女神は獰猛な笑顔とともに地を踏み鳴らした。大金槌のごとき衝撃に回廊が、洞窟が、いや地獄そのものが震えた。
究極の衝撃にも、しかし朧帆の歩みは揺るがない。一歩ずつ女神との距離を縮めていき、そして。
突然、光無き深海へと放り出される。
――これは。
幻影ではない。朧帆の全身を冷感が刺す。太陽からも地熱からも隔絶された、熱を忘れた世界だ。見渡す限りの黒々とした水が、迷い込んだ小さな兎を圧し潰そうとしている。
何も見えない。方向さえも分からない。
常識の範疇にある生物であれば、何が起こったのかも分からないままに死んでいくしかないだろう。
――ふむ。
だが、宇宙の法則から外れた者に対しては無駄な一手だ。もはや溺れることも凍えることも、朧帆とは無縁だというのに。
彼女にとっては海水も大気も同じだ。何もかも、あらゆる原子は核融合のための燃料に過ぎない。
重力操作を開始する。自分を圧し包む海水塊を構成する原子を圧し固めれば、それは一瞬で小さな恒星となる。女神がどこに隠れていようと構いはしない。海ごと灼き払うだけのことだ。
しかし刹那、一条の煌めきが飛来する。
左脇腹に直撃したそれを見やると、銀色の矢がそこに突き刺さっていた。これには朧帆も少し驚いた。いまの彼女には物理的な攻撃が届くことはない。刀剣だろうと銃弾だろうと、朧帆を傷つけるには至らない。これは確率操作や量子効果の高度な応用が適用された結果だが、神の造りし武器はそれらを貫いて相手へ届かせる力があるのかもしれない。
引き抜こうと手をかけたところに、右の腿へとさらなる一矢。
痛みを感じない訳ではなかった。身体がそこにある限り、痛みを捨て去ることはできない。ひとは痛みを共有し助けを求める。感情に侵されきった下らない連中のための機能。だが朧帆にとって痛覚はもはやただの信号に過ぎない。そのために動きが鈍るなどということは無い。被弾した場所を知らせるための情報というだけのことだ。
左上腕。左肩。右足。首元。右目。左胸。
狙いは過たず、次から次へと銀色の矢が月兎を貫く。
「――三界の至高の神具にて、お前を滅ぼす。第一に、海神の三叉槍である」
女神が再び、空間越しに言葉を発する。
「無尽の水によりお前を閉じこめる。光差さぬ静かな深みは、嵐に荒れ狂う大海原よりも強く恐ろしい。その重圧はお前をしっかと捕らえて離さないであろう。そして第二に、月神の狩猟弓である。これから放たれる銀矢が獲物を逃すことは無い。思い描いた部位を必ず刺し穿ち、その場へと縫い止める。その痛みはお前に与えられる絶望の予兆である」
声があらゆる方向から響く。感覚を剥奪する、徹底したジャミングだ。これでは目指す方角を、越えるべき障碍を、見失いかねない。
「さらに第三、地獄の真火である。稀神サグメはお前を灼けなかった。太陽の炎であろうと皮の外から炙る限りは効かぬということだ。だが身体の内側から灼かれればどうか。臓と骨と髄を灼かれればお前はどうなるか」
その言葉とともに、銀の矢が高熱を発しだした。痛覚が暴れて震える。なるほど、これが本命か。
――確かに、それを試したことは無いな。
灼けはじめた頭蓋で朧帆は思案する。ここで自分が終わらないであろうことは確信しているが、この女神を乗り越える術までは知らない。なんとかそれを手繰り寄せなければならない。あれを打破するからこそ、自分はその先へ進むことができる。宇宙の外から見れば結末が定められているとしても、ここに在る自分にとっては、そこに至るまでの道を拓くのは自分自身だ。
絶え間なく飛来する矢のせいで、月兎兵はすでに針鼠のような様相を呈していた。
手近な数本の矢に、朧帆はあらためて重力操作を開始する。冷たい海水の中、燃え盛る炎。そこへさらなる熱を与えてやる。神の祝福を受けた銀の矢は、地獄の真火では焼かれないかもしれないが、それそのものを核融合させてしまえるなら。
「……自殺行為としか思えないんだけど。体内で星の炎を起こすなんて」
一本、また一本。
銀矢が朧帆の体内で両断され、抜け落ちていく。
傷跡は残らない。初めから何も無かったかのように、戦闘服すらも無傷のままだ。
「良いわ。我慢比べと行きましょうか」
女神の高らかな宣言とともに、矢の勢いが倍に増える。
それらすべてが、月兎兵の身体のどこかを正確に貫く。
もはや痛み以外のものは消え失せていた。ただの兎であれば命をとうに手放していただろう。
見渡す限りの無数の重力穴。すべてを制御無しに解き放ってしまえば、ちっぽけな星系ひとつくらい容易く引き裂くだろうほどの力。針先よりも小さな一点を寸分の狂い無く操作し続ける演算能力は、ひとつの生命が制御できる限界をとうに超え、ツクヨミにより拡張された能力の上限にまで届こうとしていた。
――もう、ほかのもののためのわたしはいらない。
このままでは地獄の女神の言うとおり、我慢比べにしかならない。足止めを喰らっている限り勝利は無い。そして、これを打ち破ったところで二の矢があるに決まっている。月都相手に渡り合うほどの者にとって、これが切り札の筈がなかった。
早々に打つ手が必要だ。
――そして、ひとりではたりない。それならば。
まだ彼女は見失っていない。たどり着くべき先、巨大な水塊の向こう、地獄の中の地獄を越えた先。たったひとつの標的を、朧帆はまだ捕捉している。それだけあれば他の何がどうなろうと構わない。自分自身ですらも、その大いなる目的のためならば使い潰すことを厭いはしない。 重力に縛られた時間軸の向こう。光よりも速く駆けた先。
一秒先の、一分先の、一日先の、いまから続く未来へと。
朧帆は手を伸ばし、それを欲した。足りないならば、増やせば良い。切り拓き、辿り着く、そのために必要なのであれば、それが何であろうと掴み取らなければ。
――わたしをふたりにするだけのことだ。
自分の先に立つもうひとりの自分。その先に立つもうひとりの自分。その先に立つもうひとりの自分。その先に立つもうひとりの自分。その先に立つもうひとりの自分。その先に立つもうひとりの自分。その先に立つもうひとりの自分。その先に立つもうひとりの自分。その先に立つもうひとりの自分。その先に立つもうひとりの自分。その先に立つもうひとりの自分が。
振り返り。
眼前に立つ。
手を差し出し。
交わるはずのない直線がループを描いてここへと戻り胸の内で頭の中で。
幾重に絡まる。
熱く溶けて。
結び付く。
――きりすてて、おりたたんで、ひとつにする。
私の可能性を。私の時間を。私の命を。
私はこのために生まれ、生きてきたのだから!
銀の矢がぽろぽろと抜け落ち、閃光とともに溶け消えていく。星の産声のごとき目映い光が、ぎりぎりと軋みながら闇を削り取る。
全身を貫いていた矢が残らず消滅すると、もはや朧帆に届く矢は存在しなかった。飛来した銀の煌めきは、標的へ届く前に光に飲まれていった。海が、煮え、沸く。轟く稲光は、いまにも海を丸ごと吹き飛ばそうとしている。
「お、お前……」
女神がたじろいだ。その手応えを朧帆ははっきりと掴んだ。
相対する月兎の出力が倍加したことに、向こうも気づいたはずだ。しかし限界を超えた権能行使を可能にした術までは推し量れまい。正しくない連中がいくら考えたところで、朧帆が何をしたかまでは理解できないだろう。目の前の敵がただ大きく強くなった。把握できるのはその事実だけだ。
もっとも簡単な言い方をすれば、彼女は残りの寿命を半分にすることで、今の自分を二倍強力にしたのだ。時間軸から離れかけるほどの拡張強化を施された月兎兵が、任務以外のすべてを剪定したからこそ成し得た規格外の圧縮成長。それは小さな宇宙に囚われたままの存在からは正確な観測すら難しい。
「お前は、狂っている!」
「違う。私だけが正しいんだ」
すでに朧帆の周囲には水すらも存在しない。無数の重力穴の中、圧し潰された原子核が末期の光熱を産み落とし、それすらも穴から出られずにのたうち回っている。海神の名の下押し寄せる無限の海水だろうと、こうなってしまっては何の効力も持たない。月銀の矢と同じく、あらゆる攻撃は核融合の燃料を提供するだけだ。
「オリュンポス、権能をもっと寄越しなさい! ありったけの力を私に!」
「もう遅い。いま再び全球浄化を執行し、神域ごと灼き払う」
海の向こう。空の最果て。世界地図には載らない楽園と呼ばれる概念空間。
それらの住人たちも科学世紀の物理社会と何ら変わらない地上の民である。先の全球浄化では、光熱を何らかの力で遮断したのだろう。座標が把握できないどころか、その実在すら確認できなかった世界も存在した。
だが、もう違う。能力と感覚を強制的に拡張させた月兎兵、その掌の上にはこの生命の惑星に連なるすべてがにあった。そしてそれらが行く手を阻むのであれば、退かして進むだけだ。
「ディアナ、ルーナ、あとは任せたから!」
巨大な両掌が、月兎を捕らえる。大いなる双眸がぬっと現れ、小さな異分子を睨めつける。
重力穴が点在する空間に無理矢理顕現したために、ヘカーティアの全身は無数に穿たれていた。これだけで相当に損耗しているはずだが、神はそれを噫にも出さない。
まさしく神の速度、神の膂力で、朧帆の身体は握り潰されようとしていた。だが、もはやこんな攻撃には何の意味も無い。地上の民にはもう、彼女を止める手段など残されてはいない。そして、それをこの地獄の女神が理解していないはずもない。
――まだ裏がある。この捨て身の行動にも。
策の完遂はまだ遠い。だが、やるべきことはやらなくては。
「……構成大気全素粒子の運動シミュレーションを完了。神威による原子守護も突破した。任務は、意味は、必ず完遂する。お前たちの誰ひとり、私には勝てない」
「そう、かもしれない。お前を倒す手段は存在しない。神たる私が口にするべき言葉じゃないかもしれないけど、悔しいことに、それは真実なのかもしれない」
神の籠める金剛石をも破砕するだろう力、しかし月兎兵の身体はびくともせず、その表情は涼しいままだ。
「それでも、私たちは負けるわけにはいかない。何を引き替えにしても」
「いいや、お前たちの負けだ。正しくないものが負けることは必然だ」
朧帆は何の感動も無く、意識の中の引き金を引いた。
大気、大海、そして大神それ自身。世界を形象する根源が、超常的な力で圧し潰され、質量のすべてをエネルギーへと変えていく。荒れ狂う無数の龍と化した光と熱。街を、国を、大陸を、撫でるだけで溶かし蒸発させたその暴威が、次は神仏の座す地へと牙を剥く。純粋無垢なエネルギーへと、生命のすべてを還元していく。
そして残るのは地球-月連星系、その根幹を成す岩石型惑星のみとなる。月都側への過度の干渉は許可されていない。トコツネの頸木から放たれた者たちは浄化の対象外であり、徒に刺激したところで妨害を増やすだけだ。綿月姉妹と稀神サグメという想定内の例外こそあったものの、月という天体の運行に影響が無い限りはこれ以上の反応は示さないだろう。
あとは無間地獄と呼ばれる空間、すなわち黒色の前代宇宙へと進入し、閉じこめられた面霊気を殺害すれば任務完了となる。宇宙の亡骸がもたらす時間伸長により、向こうにとっては数百億年が経過しているはずだが、無意識の能力を手に入れた朧帆にとってはほんの一瞬の――
「――確かに捉えたぞ、ヘカーティアよ」
エネルギーのみが満ちる清浄な空間、誰も存在し得ないはずの場所から、声が聞こえた。
――まだ神が生きているのか? いや違う、これは。
何もかもがプラズマへ帰っていく超高温の中、背筋には絶対零度の感覚。
それは作戦行動の開始以来、朧帆が覚えた最初で最大の恐怖だった。月兎兵の深層意識に存在する恐怖は、月人によって人為的に植え付けられたものだ。それはいざというときに肉体と精神の限界を超えた献身的抵抗を実行させる。月人では直接の対峙ができない、この相手のために。もちろんそれは月兎たちにはまったく知らされていない事実であるが、朧帆は長年の都仕えの中で、自身にかけられた暗示やプロテクトを自力で解析していた。
だから彼女は知っている。この感覚をもたらす者の正体を。
――月に仇なす仙霊、か。何故それが私の邪魔をする?
それを考えるより前に、やらなければならないことがあった。かの仙霊は純化する機構である。すなわち、エントロピーを逆行させることで力を得る、宇宙の理に反した存在だ。混沌の中ではまず、空間自体を純化しなければ力を発揮できない。
けれど、すでに光と熱がエントロピーを限りなくゼロまで灼き払ってしまった、この空間では……。
「これは怨である。お前が捻り潰し、踏み躙り、撃ち墜とした者たちの怨。この惑星に生きたありとあらゆる者たちがお前に向ける怨である。身体も精神も失い、ただ蒸散していくばかりだった感情。だが私なら、それを束ねて糧とできる」
これが本命の二の矢か。朧帆は理解した。ヘカーティアの迎撃は陽動だった。自身をオリュンポスごと敵前に晒せば、朧帆は再び全球浄化の引き金を引く。その一撃を引き出すための、すべては囮だ。発動後のほんの数秒だけこちらは無防備となり、向こうは全能の存在となる。最後の握撃も、別位相次元で攻撃を回避するおそれのある朧帆の位置を固定し、仙霊へ伝えるための照準合わせでしかなかった。
「喰らい尽くされるがいい」
全身、小さな牙がいっせいに食い込む。本能的に首と腹を守るが、それが無意味であることはすぐに分かった。この鋭い痛みは錯覚だ。小さな顎が魂そのものを齧り取っているのだ。
さらには、朧帆の魂そのものにも純化の力が容赦なく行使されている。ツクヨミによって極限まで希薄化された死が増幅され、魂を塗り潰そうとしている。
――外と内から二重で攻め、魂自体を殺すつもりか!
かの仙霊を月都が恐れる理由を、朧帆は思い知った。道義、道徳、そのすべてを拭い去らなければ思いつきすらしないであろう策。それを成すために、いかなる犠牲であろうと躊躇無く払う意志。堅固な岩盤となるまで圧し固めた無理、その上に建つ要塞と化した無法。ただひとりの人間が、狂ったとはいえここまで至るものか。
こうなってしまっては、いかなる防御も無意味である。圧倒的劣勢の数秒間、それをただ耐えるより他に無い。
逆を言うなら、その数秒間さえ耐えることができれば。
――もう一度、時間の矢を先回りして私を捕まえる。いや、一度では足りない。二度、あるいは三度か? 同時に原子操作でエントロピーの逆回しに抵抗しなければ。
失うもののことは考えない。計算された恐怖を打ち消した朧帆に残るものは、仙霊に勝るとも劣らぬ遂行意志である。両者の決定的な違いは、向こうは徹底的に狂っていて、自分は絶対的に正しいという一点だ。
自分がここにいるのは、この宇宙で意味を与えられたのは、これを切り抜けて任務を成功させるからなのだから。
――わたしのすべてを、ここに。
それに比べたら、他のどんな命も、国も、星も、塵に等しい意味しか無い。
重力平面から、少し浮かんで、回転しながら、打ち上がって、そしてまた、遠ざかって、裏返された、紐の切れて、くらくらと、惑い続けて、さらに、息を吐き、息を吸い、遠くまで、見通した、光よりも、高速な、未来の、自分の、本当の、意味を、正当な、意思を、正常な、世界を、見ろ、奪え、取れ、歌え、勝て、進め、叫べ、飲め、聞け、為せ、掴め。
光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光!
無数の宇宙が見える連なっているのが自分もまた数え切れないほどの鏡像を伴って飛翔しているから統合するそれまでの機構となってただそれだけを願い輝く道筋を辿ったその先で待ち受けるものは
光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光! 光!
願え、捧げ、翔べ、潜れ、輝け、知れ、祈れ、走れ、謳え、糺せ、正せ、穢れた、宇宙を、灼いて、殺して、真実を、清浄を、奪還し、奉還し、そして、空に立ち、光を聞き、音を視て、静を舞い、彩を歌い、だからこそ、撃ち落とし、舞い降りて、ゆらゆらと、宇宙の震動、無限幅まで、拡張されていき、加速していく、新星のように、銀河の腕ごと、世を。
消し去ってしまえるほどの力を、ただ正しき自分を保全するためだけに用いる。相手は攻勢のためにそれだけの代償を支払った。ならばこちらもそうするだけだ。
長い長い数秒間の後。
宇宙が、晴れ上がる。
朧帆は瞼を上げた。彼女はまだそこにいた。
「……………………」
そこはもう深海でも宇宙でもなく、元いた地獄の洞穴であった。しかし神殿を思わせる意匠はもうどこにもない。戦いの余波で壊れてしまったのだろうか。広がるのはだだっ広い地下空間だけだ。
そして洞穴の続く先、漆黒そのものが口を開いている。あれこそが目指す無間地獄の入り口だ。
もはや邪魔するものは何も無い。しかし月兎兵には勝利の喜悦も、成功の安堵も無い。もとより任務の完遂以外に意味を見出さなかった完璧な兵士は、この戦闘を経てより先鋭化していた。
「――これでなお健在か。驚くべき執念だ」
一歩を踏み出したそのとき、背後から仙霊の思念が響いた。
「本当に我らの攻勢を耐え抜くとは思わなかった。これでは星の炎で灼けないのも道理ね」
地獄の女神を抱き抱えた仙霊が、地面に座り込んでいる。滅ぼしたはずの女神だったが、まだ何らかのセーフティがあったのかもしれない。もっとも、彼女らに抵抗手段が無くなった以上、朧帆にとってその生死は些事である。
「あぁ、ヘカーティアは三身を持つが、一柱を他の二柱が常に補完する三つ子システムを採用しているとかなんとか」
「どうでも良い。それより、名も無き仙霊よ、なぜ貴方が義憤などを力にしたのか分からない。本来の力はあんなものではなかったはずだ」
「無礼な兎だ。嫦娥への怒りは嫦娥に向けるためだけのもの。どうしてお前などに使えようか」
「目的のためにすべてを費やしたのではなかったのか。私を殺してでも止めることがお前たちの至上命題だと思っていたが」
「策はすでに成ったぞ、月兎兵よ。まさか、まだ気づかないのか?」
仙霊が高らかに嘲笑う。大気ごと燃焼した地獄において声が響くはずもないが、その哄笑は確かに朧帆の思考を少しばかり揺らした。何を言われたのか理解できない。作戦行動の継続に支障は無い。そのはずだが。
無間地獄へと向き直る。黒い穴は不可視の粒子を呼吸している。そこは本当の意味で何も無い場所。深く潜れば潜るほど、宇宙から、光から、時空から離れていく空間。
ふと思い当たり、闇に向け真っ直ぐに手を伸ばす。手を握り、放す。
「……これは」
ほんの僅かな歪み。拡張された意識だからこそ認識できる、須臾の時空間異常。
これを回避するために、あの無意識を取り込んだはずだったのに。
胸に手を当てる。それは呼ぶ声に応えない。もうそこには取り込んでいたはずの彼女はいない。無意識の能力を司る、藤色の第三の瞳。それが抜き取られている。いくら念じようと、無意識の海へと潜行することができない。
盗まれたか、と仙霊を睨むも、彼女は首を横に振って無間地獄を指さした。
「お前の奥の手はもうあの中よ。見事に期待に応えてくれたわ。私とヘカーティアが作り出したほんの一秒の隙を、あの娘は正確に突いてみせた。お前の手の内をもっともよく知る者だからできた業だ。傑作じゃないか。お前は最後の最後で、かつての仲間に敗北する」
「鈴仙が、ここに?」
朧帆にとっては意外な名だった。
あの逃亡兵が、地獄すら生温いこの最前線にまで出てくるとは。
「同化していた目標を共鳴を利用してお前から分離し、即座に無間地獄へと逃げ込む。思い描いたとおりに上手くいった。お前を殺せずとも、お前の進撃を止めることはできる」
月都の怨敵が編み出した策には、三の矢があった。それも、自身の命すら省みずに放つ隠し玉が。
ヘカーティアの襲撃が照準合わせであるのなら、仙霊の一撃は陽動である。朧帆の意識のすべてを防御に向けたその一瞬。無防備を庇うために生じた別の無防備。これこそが真の狙いであった。
「成程、これはしてやられたな。そこまで理解して手を打つということは、月の民の入れ知恵があったか。無意識の瞳を奪ってしまえば、確かに私は時間伸長の影響からは逃げられない。やれやれ、面倒なことになった」
わざとらしい、溜息を吐くような真似。
しかし朧帆は、再び踵を返し無間地獄へと歩みを進める。言動とは裏腹に、その表情は揺るがない。
「……待て、お前」
名も無き仙霊の声には、少し狼狽の色があった。
「まだ、何かあるというのか。永劫の海を渡るための方法が」
「方法も何も、やることは何も変わらない。無意識の瞳があろうと無かろうと」
「そのまま潜行するつもりだと? 底まで辿り着くまでに何億年かかるか分からないというのに」
「予測値はおよそ三百五十億年だ。だが、どれだけかかるとしても同じこと。ただ真っ直ぐに潜り続けるだけで良いのなら、そうするだけだ」
「そんな馬鹿な」
それっきり、仙霊の思考は行き詰まった。真におぞましいものを目前にして、言葉になる感情を彼女は知らなかった。
この一匹の月兎は。史上類を見ぬ冒涜者は。
「何の問題も無い。作戦行動は続行する。目標は無間地獄の最下層。あるいはそれを抜けた先の未知の時空だ。すべては想定通り。まったく何の問題も無いな」
狂っている。心の隅まで、一点の曇りもなく。
こいつは、歩き続けるつもりなのだ。三百五十億年の間、ただずっと。
「そんなこと、できるわけがない」
「できるわけがない? なぜそんなことが言える? あいつは既に一度やっているんだぞ」
闇さえも灼き払われた地獄は、奇妙なほどに空虚だった。大気を失ったこの空間は、死んだ表の月によく似ていた。朧帆が冷凍睡眠から目覚め、新たな使命とともに行動を再会したあの場所に。
「面霊気が生じたのは、無限地獄を抜けた者がいたからだ。トコツネの核をこの宇宙へ導くためには、六十六の能面を盗みだし、トコツネへ沈めなければならなかった。あいつは――麻流は、それを成し遂げた。報告が無くとも、面霊気が生まれ出た事実そのものがその証左だ。麻流に可能だったことが、私にできない道理は無い。私はあいつと同じことをするだけだ」




