昏迷/どこでもないところ
貴方は夢を見ている。
夢が貴方を見ている。
貴方を夢に見ている。
夢と貴方を見ている。
貴方は泥のような感覚に吐き気を催す。戻ってきたくはない場所だった。貴方にとっては文字通りの悪夢そのものでしかなかった。肺を浸す空気の塊に咳き込む。色彩が踊る空に目眩がする。足下を小さい何かが駆け抜けた。陽炎のようにゆらめく誰かの影が立ち上がった。思うところは貴方と同じ、困惑だ。世界の奇妙への不安。知らない場所のはずなのに見知った光景。貴方にも、誰にでも、手に取るように分かる。すべては繋がっている。すべてが繋がっている。
思い出したくない、思い出。
終わらない悪夢に閉じこめられた日々のことを、貴方は思い出す。貴方が思い出したことならば、きっと皆も思い出す。夢の住人たちに追い立てられ、覚めることなき眠りに閉じ込められるのではないかと恐怖した、あの二週間。そんな事件に巻き込まれた場所がここだ。二度と入り込むものかと思っていた。けれど、いや、貴方はここから来たのではなかったか?
歩く。足を動かさなくても身体は進む。
街を真似た街のような建物がそびえる街の中、両手を広げれば塞がってしまいそうな大通りを、誰も乗っていないバスが行き交う様子を眺めながら、貴方は向かう。人のような影でごった返す閑散とした歩道で、見知らぬ親友とすれ違い二言三言の無言を交わす。名前を思い出せないことを貴方は思い出す。赤信号を駆け抜けた誰かが快速急行にはねられて、電子音のファンファーレがそれを記念した。
眠っているのか?
起きているのか?
起きたまま夢の世界にいるというのはどういうことなのだろうか。貴方の疑問はしかし煙になって消えていく。思念が形を成し続けることがなかなかに難しい。心も身体も、ここでは区別が曖昧になる。人間だって人間のような何かでしかない。命ある者とそうでない物が見分けられない。貴方はそれが当然のことであると知っている。この世界において当然ほど信用ならないものは無いと理解していても。
準教授はテーブルの向こうで頭を掻き毟った。
「もう何が何だか分からない。意味の分からん事象には慣れたはずだったんだけどな。次から次へとまぁ私の限界を試すように畳みかけてくる。悪い夢だとしか思えない。いや、これは文字通りに悪い夢か。くそ、頭が痛くなってきた」
貴方は可哀想に思い、準教授の頭に冷や水をかけた。
運ばれてきた黒いスープに誰かが抱え込み三回転で飛び込んで、飛沫が羽を生やしてぶんぶんと飛び回る。テーブルクロスは波を打つ。ナイフとフォークをなんとか捕まえた貴方は、スープをひとかけ切り取って口に運ぶ。砂のようだけれど味は悪くない。■■■■■のような■加減と隠し味の■■。感覚は一ミリ秒も保たずに消えてしまう。いま食べたものが何だったのか思い出せない。貴方の目の前には既に皿も何も無い。
屋根瓦で舗装された道を歩いている。酷いぬかるみに貴方は舌打ちをする。
「教授がこの先で地球を監視してる。トロヤン・ラグランジュ・ポイント上の衛星トリフネと夢の世界を接続したんだとさ。原理なんざもうどうでも良い。この世界の神はあの獏だ。あいつがそうだと言ったのならそうなるんだろう」
椅子に座ったままで準教授はふわふわと浮かぶ。ぐんぐんと高度を上げるので、もう大陸へ渡っていく鳥くらいの見た目になっている。
「いつの間に廃棄衛星がこんなことになってたのかは知らんが、とりあえず私も向かおうと思う。お前も来るか?」
いつしか雨が上がり虹が出ていた。黒い空に黒い虹が出ても見えやしない。
貴方は答えようとして、声の出し方を思い出せないことに気づく。喉を見下ろす。そこには何も無い。自分の身体のような何かを貴方は観察した。そこに何があるとしても、それは貴方がここで貴方として存在する証拠にはならない。生まれて初めて目にするもの。なだらかで、呼吸をしている。少なくともそのように見える。街と一緒に脈打つ。人と一緒に汚れる。山と一緒に崩れる。本当はそうなるべきだったものがここにある。それが貴方だったのかどうかはもう確かめようもなく。
貴方は夢を見ている。
夢が貴方を見ている。
貴方を夢に見ている。
夢と貴方を見ている。
貴方は耳を塞いだ。もう何も聞きたくなかったからだ。けれど声も音も波もいっさい減衰してくれない。誰も黙ってはくれない。その旋律を口ずさむんじゃない、と憤ってみたところで聞き入れてはもらえない。稲妻のような声で笑われる。見下ろす連中の赤い視線が刺さり続ける。一年、十年、百年、千年、どれだけの時が経ってもそれは抜けやしない。傷口はただ広がっていくばかりだ。そして傷のすべてが鼓膜となる。声が聞こえる。聞こえてしまう。誰もそんなことを言ってはいない、と言われても聞こえているものは仕方がない。
大きな樹の下で、貴方は疲れ果てた迷子のようにうずくまる。
見たことのない光景が鮮明に蘇る。呼吸をしているのに苦しい。呼吸の必要なんて無いはずなのに苦しい。皆が剣を手に取っていた。喊声とともに突撃していった。貴方は何も持たず、そこを動かないまま、皆を見送っている。手を伸ばす。伸ばそうとして、けれど腕は動かない。貴方の身体は貴方のものではない。苦しい。助けて。空気を求めて口を開き舌を出す。負け犬が無様に哀願する。
貴方は自分がここにいる理由を理解できない。
貴方は自分が夢を見ている訳を理解できない。
そうだ、貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。貴方は死ぬことができなかった。
なんで生きてるんだよ、お前。
「お前が死んでくれてれば、私は自由だったんだよ」
貴方の前に貴方が立っている。貴方は貴方への怒りを隠さない。気迫が質量を為す。全身を打ち据える。貴方と貴方は鏡写しにはならない。目玉同士がぶつかりそうな距離で貴方は問い詰められている。腰が引ける貴方を、貴方は容赦なく追いつめる。逃げる場所なんて無い。貴方は貴方からはぜったいに逃げられない。
「現実の私が生きてちゃさ、こっちの私は夢のままでいなきゃいけない。なぁ、なんでお前だけ生きてるんだ? 他の皆は自由になって大喜びだよ。現実側の白狼天狗はみんな死んだ。夢の世界の白狼がこれからは現実になって生きていく。私以外は全員がだ! お前が生きてるせいで、私だけのけ者なんだよ!」
貴方は何も答えられない。答になるものを何ひとつ持っていない。
「どうしてくれるんだ? 臆病者め。白狼の恥晒しめ」
貴方の貴方への赫怒は貴方を破砕し貴方に至るまで粉々にする。血紅で隈取られ吊り上がった貴方の目。遠い昔、幼い頃に描いた絵を思い出す。墨汁で机じゅうをべたべたにして、何も考えることなく筆を踊らせて、どこかで見た怪物を描いた。それはいまこのときの貴方の記憶だったのかもしれない。掻き毟った腕に傷。がなり声に瘡蓋が割れる。流れる。流れてゆく。貴方が流れ出てゆく。
炎の中で終わらない責め苦を受け続けている。全身を這う舌に皮膚が削られていく。夢の世界ではこんな拷問などありふれているので誰も気に留めない。見ているのか、見て見ぬ振りをしているのか、まったく見ていないのか、とにかく貴方の公開処刑は見向きもされない。こんなにはっきりと苦しみがここにあるのに、それは透明で、目に見えない。流れゆく貴方には行き着く果てが無い。
そうだ、貴方は死ぬことができなかった。
だから生きている。生きて夢を見ている。
『彼らは決まって喜ぶんですけどね。すぐに思い知るんです。現実は夢見ていたほど甘くはないって。傷口を風に晒すような、粘膜を摩擦するような、彼らはそういった痛みを必ず経験します。だって夢が現実になるとき、形がそのままに具現化することなんてあり得ないでしょう? 型に填め込んだりでっぱりを削り取ったり、まぁとにかく彼らは加工されるのです。現実へ出て行く者達を、残された夢の住人は羨み、妬み、そして軽蔑します。現実に出て行った奴らはつまらなくなってしまった。自分ならあぁはならない。夢をそのまま現実に持ち込んでみせる、ってね。言いたいことは分かるんですが、それを為せる者は……あー、まぁ、ごくごく限られていますよ』
静寂がわんわんと鳴り響く。貴方は現実に自分が存在した理由を見出そうとする。地面を掘るたびに黒い油が湧き出て、全身に重くまとわりつく。石膏のように貴方は固められていく。手も指もごわごわと凍てついてしまった貴方は、それでも皮膚を割り砕きながら穴を掘る。
何かがあるはずだと、信じているから。
何かがあるはずなんだ。そうでなきゃ。
だってその何かのために、私はこんな。
――生まれた瞬間のことを誰も思い出せないように、そこには何も無い。
ただ穴だけがそこにある。貴方自身を葬るのにちょうど良さそうな穴が開いている。冷たい土と油は、焼かれた皮膚にはきっと心地よいだろう。虚ろが大口を開ける。穴の向こうで貴方が満面の笑みを浮かべている。釣られて貴方も笑えてきた。胸の内が青く晴れ渡り、あれもこれもそれもすべて消えてしまった。いまなら何でもできてしまう気がする。何でも捨ててしまえる気がする。
曇天、死への絶望が消え失せて。
晴天、死への希望だけが残れば。
怖いものなんて何も無くなってしまった。さっさと死のう。ぱぱっと死んでしまおう。最初からそうすれば良かったんだ。貴方が終わればすべては終わるのだから。続けることに意味なんて無いのなら、終わらせることを躊躇う必要がどこにある。始まった意味さえ思い出せない貴方に、いったいどれだけの価値がある。
この上ない幸福に満たされた貴方は、底の無い油の泉に身を投げる。
この上ない幸福に満たされた貴方は、しかし何かに引き留められる。
貴方を懲り固めていた石膏、いや、抱きすくめる誰かの腕が、倒れようとする貴方を支えていた。焼けただれた貴方を力任せに掴むものだから痛くて痛くて仕方がない。その手は貴方に遠慮などしない。どこまでも不躾に貴方の手を取る。これまでもずっとそうだった。これからもずっとそうだろう。
「……行かないで。後生だから」
生まれた瞬間のことを覚えていなくても、ずっとその背中を見てきたことは覚えている。手を引かれて御山を歩く。貴方の一番古い記憶。それが貴方に意味を吹き込む。空虚を光と熱が満たす。ひりひりと痛む胸中の、青いペンキの刷毛跡が白日の下に晒される。
着色された空は元の色には戻らない。ケロイド化した皮膚は元の形には戻らない。貴方はもう元の姿には戻れない。それを思い出すことすらできない。けれど、それは生きとし生けるものすべてがそうだ。ほんの一秒前の自分のことすら、誰も思い出すことはできない。低次元宇宙の生命程度では時間の矢を戻せない。
貴方は、欠けて壊れて褪せていく自分を受け入れる他に無い。
「……私が貴方を守るから。何があっても」
たとえそれを許せなくても、貴方に賭けを降りる権利は無い。
胸を満たした熱と光が両目までこみ上がり、涙となって湧き出した。それは煙のように空中へ消えていく。夢を満たすのは大気ではなく涙であることを貴方は知る。
暖雨、生への希望がふと蘇って。
冷雨、生への絶望もまた蘇って。
交互に貴方を打つそれらの感覚が貴方の輪郭を貴方に思い出させる。いまこの瞬間の輪郭を知らせている。一秒後にはきっと忘れているだろう無意味な情報を、それでも伝え続ける。
貴方は生きている。生きて夢を見ている。
貴方は生きている。夢が生きて見ている。
貴方は生きている。生きて夢に見ている。
貴方は生きている。夢と生きて見ている。
貴方は底の見えない穴を慎重に降りていく。慎重になりすぎるということは無い。夜目の聞く猫目と、足音を殺す猫脚。それは貴方の安全をいくらかは保証するけれど、それは絶対では無いのだから。
この岩窟の全容は誰も知らない。最奥部まで辿り着いた者はいないし、それを調べようという冒険家もほとんどいない。ほとんど、というのはごく稀にそういう命知らずが現れるという意味で、そんな愚か者たちでさえも生きて戻ってきたことは無い。
もうすでに小一時間は潜り続けていた。ここは灼熱地獄からも離れた場所だから、奥に行けば行くほどに気温は下がっていく。さらには地下水脈のために、岩肌は常に濡れているのだった。なるべく乾いた天井付近の壁を選んで、貴方は掌を擦り付ける。自分の匂いを着け、帰途の目印とするために。
貴方はこの光景を忘れたことなど無い。
貴方はこの光景をけっして忘れることは無い。
闇に慣れた瞳は、もはや最低限の光源しか必要としない。貴方の操る鬼火は、もはや小指の先よりも小さな粒だ。てらてらとした岩の輪郭が、反射により浮き上がり、光のトンネルのような光景を作り出す。さらにはその中に、星空のような煌めきが混じることがある。岩の中に何かの結晶石、おそらくはトパーズあたりが埋まっているのだ。それらの細波のような光に囲まれて、中空の闇はまるで質量を持つかのようにそこへ蟠っていた。
そして、深く深く潜っていくと、ある地点で闇がほんとうに質量を持ち始める。
下りの傾斜がどんどんきつくなり、もはやほとんど垂直だ。空を飛ぶ術を持ち、人と猫の形を自在に変化できる貴方だからこそ、さしたる障害もなく進んでいける。
そして唐突に、天の川の中心へ出た。そこは漏斗を逆さにしたような、大きな地下空洞だった。岩壁にはこれまでとは比べものにならないくらい大量の結晶石が混じっていて、それが貴方の持ち込んだ鬼火で輝いているのだ。そして来訪者に驚いて飛び惑う地獄烏のために、ほんとうの星のように瞬いている。ここは彼らの巣でもある。
そろりと着地して、見上げると元来た穴はもはやどこだか分からない。鬼火の出力を上げると、光にまみれた闇がいっそう濃くなった。
貴方はこの光景を忘れたことなど無い。
貴方はこの光景をけっして忘れることは無い。
だからこそ貴方はいま再びここまで降りてきたのだ。
「おくう」
そこに彼女がいることが貴方にはすぐに分かる。かまくらのような岩窟の中、がたがたと震える大きな図体があった。一寸先すら覚束無い朧光の下で、彼女の流す涙の一粒一粒が鮮明に見える。
「可哀想に」
貴方は彼女へしがみつくように抱き締める。その濡れ細った身体は氷よりもなお冷え切っている。今し方暖炉を点されたばかりの暗い小屋を貴方は想起する。絶えることのないはずの炎が失われていた身体。火花を受け継いだばかりの新しい身体。貴方は彼女がここにいる原理をよく知らない。聞いたはずだけれど、小難しい話は耳から耳へとすり抜けていってしまうから。
「怖いものを見たんだね」
貴方は彼女が見たものを想像すらできない。何も無い場所。何も無いという言葉すら見つからないくらいに何も無い場所。光、熱、色、粒、波、力。宇宙に在って当然のものすらまったく存在しない、無限深の虚を彼女は見たのだ。そしてその闇に墜ちていく自分自身を見た。自分自身が死んでいくのを目の前で見た。自分が死んで、無になった。1が0と化す様を、まざまざと。
彼女だけではない。むしろそれを見ずに済んだ貴方が稀な幸運を与えられたのだと言える。ここに辿り着いた者たちはほぼ全員がそれを見てしまった。何億、何兆、そんな数ですら数え切れないほどの者たちが。だから夢の世界は恐怖に沈んでいる。誰もが彼女のように震えている。
こんなはずじゃなかったのに。彼女の声は蚊が鳴くように細い。こんなはずじゃなかったんだ。私は、皆を守ろうと思って。守れるって思ったから。私とヤタ烏様のエネルギーで、灼き尽くせないものなんてこの世に無いって。そう思ったから立ち向かったんだ。それなのに、それなのに、それなのに、あれは。
「もういいよ」
あれは、あれは、ああ、この世の者じゃないんだ。地上から来たんじゃない。地獄から来たんでもない。生者でも死者でもない。あれは誰にも止められない。何をやっても無駄だ。どんな神様だろうと勝てない。指一本触れられない。あれは、あれは、あれは、まるで。
まるでこれをいま読んでいる貴方のような。
「もういいって。何も思い出さなくて良いって。なぁ、皆のところへ戻ろう? 誰もおくうを責めたりしない。誰も怒ったりしないよ。あんたは生きてる。ちゃんと生きてここに帰ってきたんだ。何を失ったのかはあたいには分からない。そんなもん分かろうとは思わない。さとり様にだってきっと分からないさ。心を読めたとしたって、あんたの絶望が見えたとしたって、きっとそれを心の底から理解することなんてできやしない。もういいんだ。戻ろう。こんなところにずっといたんじゃ、今度こそ本当に死んじまうよ」
虹色の闇がどこかで弾けている。貴方には見えない。見ることはできなくても分かる。感じ取ることができる。引き裂かれてこの世界まで引き上げられた者。あまりにも多くの犠牲。貴方はそれを喜ぶことはできない。何も残さないこの浄化は貴方の趣味ではない。
光が消える。靄がかかっていく。少しずつ、少しずつ、熱を取り戻す。涙が巡っているならきっと大丈夫。どれだけ長い時間をかけたとしても、それはここに戻ってくる。失ったものも、過ぎ去ったものも、ちゃんと、ここに。
視界が闇に埋まった。瞼を開けても閉じても変わらなくなった。夢をぬるりと満たすものと貴方は混じり合う。いや、最初から貴方と貴方でないものの間に境界など無かった。流転する万物の混沌、そのほんの一部が貴方を形成しているだけのことだ。雲の中で生まれた雨粒が地面で弾けるまでの物語と、貴方の生命が歩んだ道には如何ほどの差違も無い。
けれど、貴方が夢を見るならば。
貴方は夢を見ている。
夢が貴方を見ている。
貴方を夢に見ている。
夢と貴方を見ている。
そうだ、貴方が夢を見るならば。
一秒前と現在と一秒後、それらがまったく違う世界であることを、貴方が知っているのならば。
貴方は空を見上げる。マーブリングパターンがサイケデリックにフェイドインとフェイドアウトを繰り返す方向を見下ろす。まだ形など無い未来。もう形を失った過去。具現する夢と還元された夢。生まれ来る命と生きて来た命。ここは現実ではない世界だ。ならばすべては等価である。輝かしい塵をみすぼらしい宝石へ変えることも、理想を理想と捨てることも、剽窃も打倒も模倣も回帰も爆発も、すべてが許される。いずれ現実になる夢。いつか現実だった夢。もちろん、夢を夢のままに留めることも。
梯子を昇る貴方は、もう重力を見失ってしばらく経つ。上昇と下降がどう違うのかが思い出せない。いや、もしかしたら車輪を回すハムスターのように、貴方はまったく動いておらず、梯子のほうが動いているのかもしれない。試しに両手両足を離してみたら、ふわりと虚空に投げ出されそうになった。永遠にロストされた宇宙飛行士を連想し、貴方は慌てて梯子を掴み直す。
――、、、、れ、こ
遙か遠くの耳元から声が聞こえた。
貴方は梯子を手繰る。そこには誰もいないはずだ。貴方はたったひとりで梯子を昇り続けているのだから。もう数光年は来たように思う。ここまで来るのに何分くらいかかったっけ? 日が沈んで、おやつを食べて、歌番組を見てから昇り始めたはず。鼻歌を歌いながらヘリオポーズを突き抜けて、だいたい一時間くらいだろうか。
永遠に等しい孤独の旅。誰かに会うために始めた旅。
――、、れ子、起きろ。
浮力が貴方の身体を巻き込む。上でも下でも右でも左でも前でも後ろでもない方向へ、貴方は吸い込まれていく。自分の身体だと思っていた何らかの塊が、暖かい奔流にぐんぐん溶かされていく。その幾ばくかは油汚れみたく世界に染み着き続けていた。無限大だった光速度が秒速30万キロに固定される。スターボウは裏返り、数百万通りの色彩がそこかしこに降着していく。
貴方の身体は音を感じて。
貴方の身体は光を感じて。
貴方の身体は圧を感じて。
貴方の身体は波を感じて。
「……菫子、目を覚ませ」
そして、宇佐見菫子は瞼を開ける。息を深く吸う。
無機質なハム音が耳を満たしていることに気づく。正確無比な1Gが身体と地面を縫い付けている。乾いた喉が軋んで痛むのを、菫子はぼうっと感じていた。息を深く吐く。空気が身体を吹き抜けていく。
「ほいよ」
ぴとり、と冷たい感触が頬を襲う。
「喉カラッカラだろ。宇宙に浮かぶ人工温室、って言ってもさ、流石に水は貴重だし重い。トリフネ内の湿度はそれほど高くないんだそうだ」
覗き込むちゆりが差し出すボトルを、菫子はぼんやりと受け取った。
身体を起こして周囲を見渡す。鬱蒼と生い茂る黒々とした緑、そして冷たくさらさらとした土。柔らかい風が頬を撫でて通り過ぎていった。その空気の中には確かに森の味が含まれている。マイナスイオンが発生してどうのこうの、と言い出すひともいるかもしれないくらいに清浄だった。
衛星トリフネ、宇宙空間の温室。科学を少しでも知っている人間にとって、その存在は常識である。どこかの星でいずれ実行されるだろうテラフォーミング、その事前実験として打ち上げられた人工衛星。
「……トリフネの中、こんな風になってたんだ」
「私も見るのは初めてだ。もっと植物園みたいのを想像してたよな」
「はい。これは、まるで本物みたいな」
立ち上がって、ボトルの水を口にする。思ったよりも身体が水分を求めていたようで、半分を一気に流し込んでしまった。
視線が上を向けば、光と水を補給する設備の整った天井が見える。本物の森ではないことの証左だ。木々の向こうをよく見てみれば、それもやがて壁に行き当たっていることが分かる。
「大学三年のとき、トリフネ開発者のひとりに話を聞く機会があったんだ。ありゃ面白かった。こいつの表向きの目的はテラフォーミング技術の研究だが、実は公表されていないもうひとつの目的があったんだそうだ。何だか分かる?」
「宇宙に本物そっくりの森を持ち出す目的……。ガラパゴス効果の研究とかですか?」
「いや、こいつはボイジャー三号機なんだと。パイオニア探査機の金属板に続いて、二機のボイジャーがゴールデンレコードに情報を詰め込んで太陽系外へ漂流していった。トリフネはその思想を引き継いで、地球環境そのものを宇宙に隔離するために設計されたんだ。人類や地球が滅んだ後でも、この惑星に起きた奇跡の実物を永遠に保全し続けるために」
「永遠って、そんな無茶な」
「外部メンテナンス無しに百億年は保たせる作りになってるらしいぜ。それが本当かどうかなんて誰にも確認できないけど」
ちゆりは喉をくつくつと鳴らして笑った。
あと四十五億年。それは太陽が燃え尽きるまでの時間であり、地球に残された時間であり、そして人類に残された時間でもある。あらゆる生命の究極の目標が永遠の自己保全なのであれば、人類の目指す到達点はこの決定づけられた終末を越えることだ。四十五億年という時間は、ひとつの生物種が存続するには長すぎる時間であるが、太陽系外で星の光無しに生きていくための手段を生み出すには、ひょっとしたら短すぎるかもしれない。
人類が間に合わなかったとき、この人工衛星はそのままメッセージボトルになるというわけだ。
「でも、それがどうして夢の世界と繋がってるんです?」
「私に聞かれても知らないよ。けど、それの理由かもしれない興味深いもんがあった。そろそろ落ち着いただろ、向かうとするか。どうせ教授も皆もそこにいる」
歩き出したちゆりの後に菫子も続く。
トリフネは座布団という渾名どおり、概ね平たい四角柱の形状をしている。それが中央に突き刺さった姿勢制御ユニット――こちらは針という通称がある――が回転軸となり各辺へ重力を生み出している。内部は縦に四つの区画へ分けられており、重力が1Gとなるのは各面の中心線付近だ。回転軸から離れる四辺、四角中の隅は少し重力が強まる。そこを越えて壁を抜けると隣の区画へ抜けられる。
扉の先、木々の向こうにそれを認めた菫子は驚愕した。
「あれって、鳥居!?」
「あぁ。笑っちまうよな。船に守り神を祀るのはよくある話ではあるけど、神社を人工衛星に組み込んじまうなんて。ま、何のために作られたかはこの際どうでも良い。あそこが今の作戦本部、つまり地球生命圏最後の砦だ」
重力に逆らい中心軸の針に向けて幹を伸ばす木々は、当然人の手入れなどされていない。誰に遠慮するでもなく自由に伸びた枝を、かき分けながら進んでいく。
けれど鳥居をくぐると、また別世界に踏み入ったように風景が変わった。境内も社殿も、無人の人工衛星にあるとは思えないほど綺麗に保たれている。
「これ、博麗神社だ……」
菫子には見覚えがあった。規模こそ比べものにならないほど小さいが、構造のあらゆる点がよく知るあの場所と共通していた。
靴を脱いで社殿へ上がると、ここでまた世界が変わった。外見からは想像のつかない、人工衛星の心臓部がそこにあった。壁一面に並ぶコンソールやモニターから微かな電子音が響く。
それらに囲まれた四畳半ほどのスペースに、蒼々たる面子が所狭しと額を付き合わせていた。
「おや、久しいな、女子高生」
「いや、もう卒業したんで……。ところでその、なぜ隠岐奈さんがドレミーに膝枕を?」
「此度の一件のMVPだ。我が膝で寝かせてやるくらいの褒美はあっても良いと思ってね。完全憑依したすべての命を正確に引き上げきった。それもほぼ無限大の分け身をしながらだ。地球史が始まって以来の偉業と言っても過言ではないが、誰も気づかないのでは感謝などされまい」
気障ったらしく言い放つ魔多羅隠岐奈だが、その顔には隠しきれない疲労が滲み出ている。
ドレミーは仰向けに横たわり、眠っていると言うよりは気を失っているように見えた。隠岐奈の説明は菫子には理解しきれなかったけれど、ともかく負担の大きい何かをやり遂げたらしい。
「しかしどこまでもいじらしい設計思想だ。完全自律の人工衛星に、人が立ち入れる神社をわざわざ設えるとは。健気すぎて泣けてくる。ま、この感傷は月人には理解できまいよ。そうだろう、綿月の姫」
「……いまは師匠と大事な話をしているんですが」
「あら豊姫、じゃあ私からも同じ問いをさせてもらうわ。隠岐奈の言葉の意味、貴方はまだ思い出せるのかしら?」
「師匠、いまはそれどころでは。朧帆が三途の川の渡河を終えてしまえば、あの策は――」
八意永琳は不甲斐ない弟子に僅かに首を振ると、画面にかぶり付きっぱなしの最新の弟子へと話を振った。
「夢美ちゃんには理解できる?」
「人類が滅んだ後も自律稼働を続ける人工衛星に、人間が入り込んで操作するコンソールを備え付けるのは意味のない行為。それでもこんな設備を付けたということは、遙かな未来に誰かがここを訪れることを期待していたから」
岡崎夢美は、小さな椅子の上に身体を丸めるように乗せている。視線の先、スクリーンの中心には、大きな光円が映し出されていた。
「設計者の想定より、その時はずっと早く訪れたようだけど」
「正解。んー、優曇華といいこの子といい、やっぱり弟子はこれくらい生意気であるべきよね」
「師匠! 時間が無いのです。貴方にもお分かりのはず」
「……ところで教授、何を見てるんだ?」
ちゆりが傍らからスクリーンを覗き込みながら言った。
「太陽?」
「地球だよ、これ」
「は? いや、でも」
菫子も反対側から首を伸ばす。
片手を広げたより僅かに大きいくらいの画面の中央、そこに映るのは白い光球の映像だ。時折光の奔流が噴き上がる様子は、太陽の観測映像にしか見えないが。
「全球浄化の完了を確認」
夢美は淡々と言葉に出す。いつもと変わらない、感情の混じらない声。
「地球大気に含まれる分子が同時多発的に核融合反応を開始し、三十分ほどで惑星表面温度が三千度まで上昇。現在に至るまで、大気それ自体が燃えている状態が継続してる。おそらく、もう海洋どころかプレートさえも消失している。生存者の存在は絶望的」
「現実側には、だ。実際はドレミーによる現実人格の切除が無事に成功し、夢側へすべてを避難させている。事が済んだら、夢で再現された地球を現実へと具現化し原状復帰とする」
「事が済んだら、って……」
菫子とちゆりには、小さな画面を呆然と眺めることしかできない。
この災害は、人類の既知のものとは一線を画している。地球が恒星と化し、ハビタブルゾーンという安全神話ごと破壊されてしまった。完膚無きまでにだ。それが解消される状態というものを、菫子はまったく想像できない。
「『事が済む』っていうのは、つまりどうなったときですか?」
「さてね。流石の私にもそこまでは分からん。八意殿に見解を伺いたいな」
「うーん、そう言われてもねぇ」
月の賢者は首を捻った。
「原因が分からないことには、何とも」
「師匠!? 原因ははっきりしているじゃないですか。朧帆が地上の核融合技術を攻撃に用いたためです」
豊姫の言葉に、全員が視線を彼女へ向けた。そこに込められた困惑に、彼女はたじろぐ。
「……さっきからどうしちゃったんですか、皆さん。いくらなんでも暢気が過ぎる」
「攻撃、ねぇ。攻撃だと仰るか、綿月の姫よ」
「これが攻撃でなければ何なのです」
「そりゃいくらなんでも荒唐無稽に過ぎるなぁ。自然災害だと言われた方がまだ納得できる。月都以外に、こんなことをしでかせる者が存在すると?」
「えぇと、それはつまり」
「ねぇ、豊姫――」
永琳の声には憐れみすら混じっていた。
「――朧帆って、誰?」
「師匠!? どうしちゃったんですか、いきなり」
「それはこっちの台詞だわ。知らない名前を執拗に出してくるものだから」
「し、知らない名前、と仰ったのですか、いま」
最大の信頼を向ける師の呆けに、豊姫は戦慄した。
「からかっているのですよね?」
「ふざけているのは貴方のほうではないの? 知らない名前を出せば私が一目置くだなんて、まさかそんな浅はかな企みはしていないわよね?」
永琳の顔には、これが戯れではないと大きく書かれていた。元より突拍子のない行動を取るひとではあるけれど、豊姫の知る限りここまで言動がおかしくなったことは無い。
「師匠、これを」
手元の資料を、豊姫は師へ渡す。
これは永琳本人が事態の経過と今後の予測について記し、署名を添えた文書である。ただの書類ではなく、事態の大きさから月都でも正式に受理される様式で作成されている。むしろ紙にしたのは地上の民にも周知共有できるようにという配慮であり、その本質は情報そのものだ。宇宙終焉を何度も越えて存続する月都では、情報自体を物質に頼らず保管する。署名されたものであればなおさら、署名した本人であっても手順を踏まなければ修正できない。
そしてそこにははっきりと記されている。狂った月兎兵の所業が。
「……これを、私が記した。そしてそれを私や隠岐奈は思い出すことができず、貴方は記憶している」
「その通りです。これがお戯れで無いのなら、私には何が何だか。そもそも、この攻撃を察知したからこそ、師も皆もここに避難したのでは」
「……まずいわ」
血の気が引く音が聞こえそうなくらい、月の賢者の顔色が悪くなった。
「そうだ、私は面霊気を無間地獄の最下層へ幽閉する策を取った。攻撃者が誰であれ、地上を出自とする以上、三途の川を無断で渡河することはできない。トコツネに連なっている限り、その理から逃れることはできない。その前提があったからこその対抗策。だけど、この前提が崩れてしまうかもしれない。そうなれば――」
「待ってくれ、八意殿。どういうことなのかさっぱりだ」
「この文書に私が嘘を記すことはあり得ない。それなのに私はこの朧帆という者のことをまったく思い出せない。これが私だけなのであれば、私の記憶違いということにしてあげても良いわ。でも隠岐奈、貴方まで思い出せないと言うのなら話は別よ。この月兎兵は、トコツネに連なる我々の意識から消失してしまった」
「記憶を消された、ということか? 我々全員が術にかかったと?」
「そうじゃない。自分自身を世界から隠蔽したのよ。それもトコツネとの接続を完全に断つ形で。息継ぎせずに潜水し続けるようなものと思ってくれれば良いわ。トコツネの民は水面上の物事しか意識下に置けない。私たちは忘れたのではなく、存在を認識できなくなってしまった。一方で豊姫は意識に頼らず純粋な情報を保持できる。水上も水中も関係無い。だから攻撃者のことを認識できている。そう仮定すればすべて辻褄が合う。けれどそこから導かれるのは最悪の結論よ。奴は三途の川も無間地獄も意に介さず進入できる」
「波長を操るという月兎の能力か?」
「いいえ、兎にそこまでのことはできない。ただ、この兎がツクヨミの陶酔を受けたというのが事実だとすれば、その段階でどんな力を与えられていても不思議じゃない」
「しかし、そこまでの隠蔽能力があるのなら、最初からその状態で全球浄化を開始するはずです。おそらく朧帆は、師の策に対抗してこの能力を何らかの形で獲得した。朧帆が地上の武器をすべて自在に使用することができる程度の能力を持っているのなら、地上の民の誰かの力を行使していると考えた方が自然です」
「……地上の民に、トコツネとの接続を断たれたまま存在し続ける者がいると言いたいの?」
「私にも俄かには信じられませんが」
「あー、えーっと、すまん」
ちゆりが割って入るために大きな声を上げた。
「とりあえず結論だけ教えてくれないか? 私たちにも理解できるように」
「絶対破られないはずだった錠前を、敵は簡単に開けられる状態になったわ。そしてその中に進入されてしまえば、一巻の終わり。豊姫、そいつの現在位置は?」
「ですから申し上げておりますように、もうすぐ三途の川を越えます」
「ってことは、つまり」
「……完膚無きまでの我々の負け。攻撃者は間もなく目標である面霊気に接触し、殺害する。蓬莱人も地上の民も生命そのものを否定され、そして未来永劫、宇宙に生命が生まれることは無い」
「そ、そんな」
目眩に襲われて、菫子は自分自身をかき抱いた。
夢からはもう覚めた。そのはずだ。けれどいま見ているものに、聞こえてくる言葉に何ひとつ現実感を感じない。放棄され自律稼働を永遠に続ける人工衛星の中、自分がどうしてここにいるのかが薄ぼんやりとしている。降り注ぐミサイルから逃げまどった恐怖の記憶は残っているのに、何故だかそれを放った存在にまで思考が及ばない。
何も分からないまま、危機感すらも感じることなく。
生命概念そのものが、宇宙から排されるのだという。
「師匠、まだ間に合うはずです、貴方なら。蓬莱の薬の解毒剤を作りましょう。蓬莱人でさえなくなれば、トコツネとの絆を断ち切れば良い。月都に月人として戻るのです、姫君も一緒に。貴方も輝夜様も、こうなってしまった地上にはもはや興味など無いでしょう」
「……………………」
永琳は唇を噛む。彼女はおそらく、すでに敗着の一手を振り返っているようだった。完璧だったはずの月の頭脳の理論に打ち勝った相手。突かれた思考の穴がどこにあったのか。どこでどうしていれば勝利できていたのか。時間の矢が戻らない低次元宇宙から駒を指している限り、ありとあらゆる手を平行して指すことができる高次元の相手には敵うはずもない。文字通りに格が違う。
だが、それでも。
「分かってはいたのよ。もしもトコツネから切除された地上の民が存在するとして、それを利用されたら勝ち目は無いって。だけどそんな、砂漠の中であるかも分からない砂金ひと粒を探すような確率は、考慮に値しないと考えてしまった。それさえ怠らなければ……」
蓬莱人は考える。次なる勝利のために考える。もう次の瞬間には終わっているかもしれない世界で。考えずにはいられない。夢を見ずにはいられない。それが生命であるからだ。夢を現実に変える機構こそが生命であるからだ。
「――む。これは」
やおら隠岐奈が腰を上げ、夢美たちの間に割って入る。
「少し貸してくれ、苺の娘よ」
妙な呼び方にも眉ひとつ動かさなかった夢美だが、隠岐奈がパネルに打ち込んだコードを見ると僅かに目を見開いた。
「虚数座標? なぜこれを貴方が」
「なぜも何も、これを体系立てたのは私だぞ。おっと、トンデモ理論だと鼻で笑われることももちろん折り込み済みでだ。そしてトリフネで虚数座標を参照できるよう基幹システムを構築したのもこの私」
「まさか。じゃああの論文を書いた斑尾って」
「やはりな。誰かがまだ何かを企んでいる。見たまえ八意殿。誰かは知らぬが、諦めの悪い奴はいるようだ」
「……これは、無間地獄上層? なぜこれほどの魔力が収束を」
「師匠、もはや地上の民に朧帆を討つことはできません! 神格、妖怪、人間、誰がどのような手段を講じようともです。無駄な悪足掻きが勝利に繋がるなどと、よもや――」
「――師匠!」
開け放たれた扉に皆が振り返る。
永琳は目を丸くした。そこに立つ幻想郷での弟子――鈴仙は、槐安通路もトリフネ内も、かなりの速度で駆けてきたのだろう。肩で大きく息をしていた。
「地獄の奥で、ヘカーティア・ラピスラズリが朧帆を迎え討つために待機しています。姫様のお考えです。私もそこへ向かうようにと。ただその前に、師匠から受け取るものがあるはずだと仰られたので」
「輝夜が……? いや、それよりもウドンゲ、貴方は敵のことを覚えているの?」
鈴仙は、その目に強い決意の色を写していた。紺珠の薬を持たせて送り出したときよりもなお、深い深い紅の瞳。
「忘れるわけ、ないじゃないですか」
傷口を直接まさぐったような呻き声で、脱走兵は答えた。
「忘れられるわけないじゃないですか。あのひとを置いて逃げてきたことを、いまでも夢に見るのに」
「……くっくっくっ。障碍はときとして武器と化す。八意殿、まだ我々の負けが決まったわけではなさそうだぞ」
「ですから、この絶滅事象において地上の民には勝利は――」
「勝利はもはやできないだろう。だが、敗北しないためにできることはまだあるのだ」
秘神の視線に射抜かれ、豊姫は気圧された。
「たとえ人類が死に絶え、妖怪が消滅し、神々が世を去ろうとも、目に見えぬ塵のごとき微生物さえ生き残れば我々は負けていない。この衛星トリフネが生命を孕んで存続する限り、我々に負けは無い。翁の垂涎は柔なものでは無いぞ。生命の汚さを侮ってもらっては困る」




