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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
55/68

慳貪/ならい

 是非曲直庁の中は、水を打ったような静けさだった。呆れるほど高い天井と、果ての見通せない廊下。東京じゃあ絶対に建てられない規格外の大きさの建造物に、人っ子ひとりいない。

「いや、死後の裁きを受けるための庁舎に、普通の人間がいるわけないだろ」

「言葉のあやってやつですよ。役所なんだから職員がいるのが普通でしょう。聞いた話じゃ閻魔様が何人かと、あと鬼と死神がいっぱいいるらしくて」

「そうか……。やっぱりドレミーが戻ってきたら、これが本当に現実なのかどうか、しっかり問いたださなきゃな」

 ちゆりは疲労を隠そうともせず、巨大な木製の背もたれに身体を預けた。

 映姫の応接室も、庁舎と同じくばかでかい。隣の執務室と併せ、彼岸花を思わせる深い赤で統一された大陸風造の室内は、最低限の調度品だけで清廉に整えられている。しかし、たとえば手元に敷かれた更紗ひとつを取っても、安物でないことが一目で分かる。自然と背筋が伸びる部屋だ。

 映姫はドレミーを連れてどこかへ行ってしまったきりだ。部屋の主が戻ってこないどころか、廊下を誰かが通りかかることすらもない。

「実はもう、皆避難しちゃってて、私たちは忘れられてる、とか」

 半分は本気の軽口にも、ちゆりは力なく「はは」と失笑するばかりだ。

 着の身着のまま、空襲下の東京から這々の体で逃げ出してきてから、たぶん三日は経過している。たぶん、というのは時間がまったく分からないからだ。時計はどこを探しても見当たらないし、外光はずっと薄明のまま、昼も夜も訪れる気配が無い。おまけに腹も減らないので、腹具合から経過時間を察することもできない。まるでずっと明晰夢を見続けているような、そんな気分だ。

 夢、であってくれればどんなに良いだろうか。ドレミーの関与があるというだけで、菫子にはどうしてもその思いが拭い去れない。あの夢の支配者であれば、そういった幻惑は専門に違いないからだ。

 都市部に向けて、文字通りに雨霰のごとく降り注ぐミサイル弾。黒煙、何かが焼ける臭い、爆音。ニュース映像からは伝わって来ない、破壊と殺戮の断固たる意志、その直中。今もって、思い出すだけで怖気立ってしまう。

 あれが悪夢だったのならば、最上級のものだろう。そして、けれど、これは現実だ。

「あれは軍事行動じゃなかった。それだけは確かだ」

 ちゆりが呟く、その手は無意識に煙草を求めて体中のポケットを叩いている。

「要所を狙う、という気が微塵も感じられなかった。人間が撃てるミサイルには当然限りがあるから、無駄な射出を控えるために、最大効率を計算して標的を選ぶという過程が絶対に入る。けど、あの攻撃は完全に無差別だ。空き家や空き地を吹き飛ばしている弾をいくつも見た。となると可能性はふたつしか残らない。攻め手がド素人か、マジで無尽蔵かつノーコストでミサイルを撃てるか、だ」

「月ロケットを単身で強奪した月兎兵が、ド素人なわけあります?」

「だよなぁ……」

 部屋を埋めそうなくらいに大きな溜息は、この事態のせいか、あるいは煙草の枯渇のせいか。

「でも、相手が兵士なら、それは軍事行動と言えるんじゃないですか?」

「戦争するのはいつだって人間の集団だ。軍とか国とかな。だが今回の相手はたったひとりの人外なんだろう。そしてやってることは戦略も戦術もクソも無い。おまけに奴さんには、交渉も降伏も受け入れる気無しときた。となればこれは、そうだなぁ、言うなれば災害、もしくは神の怒りってやつが近いだろうよ。……まったく、教授とも獏妖怪とも出会ってなかったら、こんな考察に思い至るなんてあり得なかった」

「災害、って……」

 地震、台風、津波、高潮。

 噴火、雪崩、落雷、寒波。

 人間の歴史は、災害に蹂躙されては立ち上がってきた、その反復だ。地球がほんの少し身を捩るだけで、その表面に住む者たちは甚大な被害を受ける。死なないために、失わないために、生命はこの星に抗いつづけてきた。

 だが、これは。あの無尽と降り注ぐ死と破滅は。

「白亜紀を終わらせた隕石。あるいはトバ=カタストロフ。そういった類のイベントさ。もっともこのままじゃ、その辺が可愛く見えるくらい酷いことになりそうだが。荒ぶる神が科学軍事技術のガワ被って降臨なさったわけだ。自然災害とは殺戮の勢いが段違いだわな」

 足音と衣擦れの気配がして、菫子は顔を上げた。普段なら気にもならない音、けれどこの彼岸の静謐の中ではやたらと大きく聞こえる。

「あれ、教授、もう起きたのかな? いつも寝起き最悪なくせして珍しい」

 お目ざの苺を用意しようとちゆりが腰を浮かす。が、是非曲直庁にそんなものがあるはずも無い。へっぴり腰のまま逡巡した准教授が諦めて座り直したころに、扉が開いた。

 しかし、現れたのは岡崎夢美ではなく。

「――いやぁ、流石に疲れました」

 夢の支配者、ドレミー・スイートだった。悪夢めいたツートンの服が、幾分か草臥れているように見える。いつも飄々としている彼女にしては珍しく、疲弊した様子を隠そうともしない。目の下には隈まで浮かび上がっていた。

「あら、お疲れ。珍しく参ってるじゃないか」

「疲れもしますよ。あれから七十時間、ぶっ続けでお仕事だったんですから。いくら私が真面目で勤勉だといってもね、限度があると思いませんか?」

「妖怪の世界のことは私にゃ分からんからな。あ、教授を踏まなかっただろうな」

 冗談めかして尋ねるちゆりだが、以外と真面目な話である。発育不良で全身が脆い夢美は、硬い面の上では横になれない。映姫の部屋でもっとも柔らかい場所は、執務室入り口のカーペットであった。縫いつけられていて動かせなかったため、教授はいま部屋の入り口の床で寝ているわけである。

「あぁ、だから私はあんなところにいたんですか。ご心配は無用です。夢美さんがちゃんと眠れているからこそ、私がこうしてここにいるわけですから」

「は? そりゃどういう……」

 保護者がわりの准教授は首を捻ったが、菫子には思い当たる節があった。隣の執務室を覗くと、果たして夢美の姿はどこにも無い。

「夢美ちゃんに、完全憑依、を?」

「えぇ、その通り。流石に貴方には分かりますね。この現象について、貴方ほど身に沁みて知っている人間はいない」

 夢魂に手を突っ込んだドレミーは、水入りのガラス瓶を取り出すと、栓を抜いて呷った。

 説明を求める、と視線を向けるちゆりに、菫子は口を開いた。ドレミーのほうが専門家であるに違いないのだけど、当の本人は言外に説明をこちらへ投げている。それにそもそも妖怪ってば、こういう説明が下手だし。

「人間も妖怪も、生き物の見る夢はひとつの世界に繋がっています。そこには現実の人格とは違う夢の人格が存在する。これらはずっと、夢を見ることによって当人どうしの人格が入れ替わるという形で併存してきました。ところがある時から、夢を介さなくとも夢人格が現実世界へ現れるようになってしまった。それだけならまだ良かったのですが、夢人格として現れるのが当の本人に限らなくなったことで異変相当の事変となった。この夢人格が別人となって自由に入れ替われる状態を完全憑依と呼ぶ、ということだったはずです。……合ってますよね? いまは夢美ちゃんが眠っているから、完全憑依したドレミーさんが現実側に現れた」

「良をあげましょう。この異変が起きた当初は、現実人格が無意識のうちに夢の世界に侵入する形で完全憑依してしまうことが多発しました。その秩序を回復するために、私もかなり骨を折ったものです。異変を私利私欲から首謀した貧乏神と疫病神の双子姉妹にはお灸を据えたので、事案は解決した形になってはいます。しかし完全憑依という現象自体は今もって残存し――回り回って世界を保全するための最終手段となってしまいました。いやはや、あの依神姉妹が文字通りの救世主になるとは」

「世界の保全?」

「私がパシウスロケットに向かう菫子さんに施した策に、是非曲直庁が目を付けましてね。端的に言えば、私が完全憑依した相手は一度だけ、死を免れることができます」

 ぞくり、と背中が粟立った。知らないはずの虚な恐怖が、大きく大きく黒い口を開ける。

「死亡する現実人格を切り捨て、夢人格をそこへ移植する。それができるのは世界広しと言えど私しかいません。生死の境を管轄する是非曲直庁にしてみれば違法行為でしょうが、事ここに至ってはそんなことも言っていられない。法は世界を守るためにありますが、それ以前に世界そのものが灼き払われようとしているのですから。超法規的措置として、私が骨を折らなきゃならなくなったわけです」

「ぜんぜん理解できないが、とにかくお前さんが取り憑いている間は一回生き返れるってことか。でも、なぜ夢美に取り憑いてる?」

「夢美さんだけじゃありませんよ。貴方にももちろん憑依しています。世界の保全が目的だと言ったでしょう。私はこれでも神みたいなものなので、無限に分身もできちゃうんですよね。いやー自分の可能性と能力が憎い」

「え、それって、つまり」

「現時点において地球上で生存している生命のすべて、その現実意識への完全憑依を完了しました。その数ざっと二千八百八十三壌。人間や妖怪はもちろん、動植物や微生物に至るまで。夢を見るもののありとあらゆるすべてにです」

 菫子は目を丸くした。成果のスケールが大きすぎて、何を言われたのかがすぐに理解できなかった。

「まだそんなに生き物がいるのか。あんな地獄みたいな世界に」

「地獄なんてのは人妖のためのものですからね。大半の生物は、そこが極楽か地獄かなんて気にしません。生きられるか、そうでないか、それがすべて。……あぁ、そうそう」

 干したビンを夢魂に放り込むと、ドレミーは菫子をじとりと見た。

「気を付けてくださいね。貴方だけは例外です、菫子さん。貴方はすでに私が夢人格を移植済み。いまここにいる貴方は夢の世界の宇佐見菫子ですので、そこにさらに移植できる人格はまだ存在しない。時が経てば貴方も現実へ馴染み、夢の世界には新しい夢人格が発現するでしょう。ですがそれはまだ数ヶ月は先の話。そうなる前に再び死んでしまっても、私にはどうしようもありません」

「……はい」

 頷いてはみたものの、だからといって菫子にだってどうしようもない。危ないところへ近づかないようにするのがせいぜいだけれど、いまこの世界に危険でない場所などあるだろうか。

「ま、ここにいる限りは大丈夫だろ」

 ちゆりの声はわざとらしいほどに明るい。

「三途の川を奴は越えられないって話だ。それなら菫子に危害を加えようが無い。向こうだって諦めざるを――」

 扉が開いて静謐が破られたのは、そのときだった。

 落ち着きのない足音がふたり分、執務室を渡る。部屋の主が戻ってきたらしい、と菫子とちゆりは目を合わせた。応接室から顔を出すと、果たして映姫と小町が荷物を慌ただしくひっくり返しているところだった。

「資料は係争中の案件だけで大丈夫だから。こんな状態じゃ、そもそも彼岸に至る魂がいない」

「決着済みの案件はどうします?」

「どうせ書類棚の肥やしでしかなかったんだし、後で滅失届を作ったほうが早いわ」

「――あの、何かあったんですか?」

 菫子がおそるおそる声をかけると、映姫は困憊に満ちた表情の上からなんとか微笑みを貼り付けた。

「ここから避難しなきゃならなくなったの。貴方たちにとっては立て続けで申し訳ないんだけど」

「朧帆が妖怪の山に現れて、旧地獄目指して真っ直ぐに降下中だ」

 小町の声にも疲労が滲む。飄々としたいつもの声はどこかへと消え、緊迫そのものの言葉だった。

「目指す先はひとつに決まってる。面霊気を収容した無間地獄の最下層だ。ってことはこの庁舎はほぼ確実に通り道になる」

「おいおい、三途の川は越えられないって」

「原理的にはそのはずだけどね、奴がここへ来るってことは、渡河の算段があるってことだろう。月都が日ノ本一国を生け贄にして放った星の劫火、それですら討ち果たせなかった相手だ。もう何をやっても驚かないよ」

 背後で革張りのソファが僅かに鳴った。夢美が目を覚ましたらしい。

 菫子とちゆりには、いまの言葉の意味が飲み込めなかった。

「国を生け贄、って……。月の都が、何かしたんですか?」

「あぁ。奴ら、兎を焼くのに太陽を墜としやがった」

「……は?」

 聞き違いだと思った。太陽が、地球へ、墜ちた?

「それって、どういう……。というか、どうやって」

「――太陽から放出されるエネルギー粒子をすべて、恒星全体を被覆した微小ワームホール集合体で抽出、重力波の影響を遮断したうえで転送し、目標に一極集中放射して焼却処理を試みました」

 疑問に答えた声は、執務室の入り口からだった。

 八意永琳、竹林の薬師。月光色の三つ編みが、部屋の中へと柔い光を跳ね返している。

 菫子は一度か二度しか会ったことは無かったが、その冷たい美貌は記憶に強烈に焼き付いていた。永遠亭の住人たちが月都の者であるという話も霊夢から聞いたことがある。

「ツクヨミの陶酔を受けた者は、宇宙の物理法則からいずれ脱却してしまう。あの時点であればまだ、可能な限りの高温で焼き切れば間に合う可能性は残されていた。ですが、間に合わなかった。策は失敗し、朧帆を仕留め損なった。東京都市圏は消滅しました。関東平野の龍脈を結界砲身固定に利用しましたからね」

 菫子とちゆりは開いた口が塞がらなかった。言葉を探すけれど、何ひとつ見つからない。現実とは何なのか、思考が理解することを拒んでいる。

 太陽が放出する莫大なエネルギーのうち、地球表面まで届くものはわずか二十億分の一でしかない。ただそれだけの光と熱が、大気を大きく掻き回し、無数の生命を育んでいる。

 地球から見上げる太陽、その二十億倍の光熱。それが地上に向けて炸裂したのなら。それは無限のミサイルなど比べものにならない威力だろう。その場に人間がいたとして、熱いと感じる間すらなく、原子よりも細かい塵にまで分解される。

 呆然とする菫子の脳裏に、いつか霊夢から聞いた言葉が蘇る。月人には、関わってはいけない。連中は、技術力も倫理観も、地上の民のそれとは一線を画しているのだから。

「……それで、そこまでやって『仕留め損なった』ってのはどういうことなんだ?」

 ちゆりは冷静に質疑を放つ。悲嘆は後回しにしたのか、それとも単に衝撃が強すぎて、それを表現する術を失ってしまったのかもしれない。

「太陽を墜とした、ってのは一周回って正しい表現だぞ。そんな兵器を制御可能だとして、そりゃ相手を太陽に放り込むのとほとんど同じことだからな。その直撃を受けて、奴はまだ生きてる、ってのか?」

「その通りです。全球浄化作戦は停止していない。つまり朧帆はまだ存在を継続している。これにより当世宇宙の物理法則内には、あれを討ち滅ぼしつつ地球生命圏を保存する手段が存在しないことが確定したわ」

「太陽に突っ込んでも燃え尽きないって……そんな物質あるの?」

「身体という物質とともに生きなければ存在できない貴方がたには、ちょっと理解が難しいかもしれない。恒星の核融合エネルギーくらい、月人だって痛くも痒くもないのよ」

「丈夫な身体のご自慢は結構ですが、貴方まで私の執務室に何か用が?」

 避難準備の手を止めることなく映姫が問うと、永琳はにっこり笑った。

「紫が見出した苺色の賢者に興味があってね。いまを逃したら、もう会う時間が無いかもしれないと思ったから」

「夢美に?」

「えぇ。発育不良著しく、而してその頭脳は科学世紀では御しきれず、と。コロナプラズマ放射直前の東京から、紫がわざわざ救い出すくらいだもの。きっとその娘はこの劣勢を打開する鍵になる」

 気配に振り向くと、目覚めた教授がすぐそこに立っていた。目覚めが悪いという割にはしゃっきりしているように見える。ドレミーが完全憑依していたせいだろうか。

「はじめまして」

 永琳の挨拶に、夢美は少しだけ首を傾けて応えた。

 暗紅色を基調とした執務室の中、夢美が針葉樹のように真っ直ぐ立っていると、もともとの調度品であったかのように見えてくる。折れたままの指を握った彼女に気づき、永琳は屈み込むと手早く応急処置を始めた。

「骨と皮ばかりね。必要な栄養を敏感な五感が拒んでいる。これは確かに、科学世紀での十分な発育は難しかったでしょうに。つらくなかった?」

「慣れてる」

 包帯を巻かれた指を、夢美は手を握ったり開いたりしながら、物珍しげに眺める。

「さて、貴方は現状について、どのくらい把握しているのかしら?」

「生命圏の根絶を企む月の兎が地球に到達したということ。あれは惑星に住むすべてを破滅させるだけの火力と、不滅の肉体を持っている」

「でも、そんな目標は最初から実現不可能なことは分かるわね? 人間からアリまで皆殺しにしたところで、生命圏は消失しない」

 生命とは、月民が穢れと呼ぶものは。

 ひとつひとつは脆くとも、総体としては相当な強度を持つ。発生と繁殖の条件を満たす星であれば、誰の世話がなくとも勝手に増えていく。拭い去ることは非常に困難だ。

 地球を死の星に変えたとしても、数億年もあれば地中深くで生き延びた細菌が地表へ進出し、生命の進化樹は再び生長を始める。もしも本気で全球浄化を企んでいるなら、地球を構成する岩石やマントルのほぼすべてに第一宇宙速度を与えて、大気圏すら維持できないくらいに木っ端微塵にするしかないのだ。

「あの月兎の真の狙いが何か、貴方には分かる?」

「生命を生み出す根源そのものの破壊。あるいは生命という概念の消滅」

「ではそもそも、生命とは何か、定義することはできるかしら。草木と岩石。海水とバクテリア。人間と恒星。生体と死体。生きているものと、そうでないもの、それらを分かつ要素とは何?」

 いつしか始まっていた禅問答、それにも夢美は眉ひとつ動かさない。ぎょろりとした大きい瞳が永琳を見上げる様子は、地上人が月を見上げる姿に似ていた。

「――希望」

 天上の賢者は、少女の答えを受けその目を満足げに細める。

「私は覚えてる。生まれたときのこと。暖かくて安らげる場所から、寒くて痛い世界に放り出された、その瞬間。がんがんと何かの音が響いて、真っ暗で、苦しかった。このまま終わってほしいと、そう感じていた。けど、誰かが私に『生きろ』と息を、希望を吹き込んだ。あれは確かに、私じゃない誰かだった。その瞬間に、私は声を上げた。痛い喉で初めて呼吸をした」

 包帯を巻かれた自分の指を、彼女はさすった。

「そして、それはいまもまだ続いてる。私は生かされている。望んでいなくたって、希望を垂れ流す誰かは気にしない。暗闇の沼から吸い上げられて、希望によって形を為しているもの。私は、それが生命だと思ってる」

「では、幼き賢者よ。あの月兎の最終目標は何だと考える?」

 慌てる菫子とちゆりを後目に、少女は眦のひとつも動かさずに答える。

「希望を生み出し与えている誰かを、殺す」

「素晴らしい。まさかこれほどとは」

 永琳は立ち上がり、夢美の頭を軽く撫でた。

「貴方は知っているのね、正しさとは科学でも神でもないことを。五感で捉えたあるがままの宇宙、それこそが唯一絶対の真実だと。いかなる思索も探求も、『正しい』とされる場所から始まった時点で不完全になるわ。貴方は科学体系と魔法論をいっさい区別しない。禁忌、定説、定石、何が『正しい』かなんてまったく気にしない。それで良い。それだから良いのよ。科学世紀の中では異端と見なされるでしょうけれど、それが崩壊したいまとなっては、貴方が開拓者にもっとも相応しい」

「八意殿、そのへんでよろしいかしら?」

「えぇ、満足よ。貴方たちはこの後どこへ避難を?」

「どこへ、ってもうひとつしか無いでしょう。私も貴方も」

 映姫は自分よりも大きな段ボール箱を軽々と持ち上げて、言った。

「あぁ、菫子さんたちにはまだ話していませんでした。夢の世界に、無数に分け身した完全憑依ドレミーが、夢地球とでも称すべきものを作り上げた。もしすべてが片づいて、現実世界を元に戻す必要が生じたときに、夢を現実に変えるオペレーション、夢魂返しを発動します。全球浄化によって地表が荒廃しつくしたとしても、ほとんど元通りに回復できます。その発動までの間、夢地球は避難所としても機能する。我々はそこに移動する予定です」

「……あぁ、もう煮るなり焼くなり好きにしてくれ」

 理解を放棄したちゆりは力無く笑う。

「だが、ひとつ確認したい。あたいの理解が追いついてるとしたら、あれが三途の川を渡りきった時点で、私たちの詰みなんじゃないか? そもそも渡河が不可能であることが前提の策だったはずだ」

「適切な心配だけれど、無間地獄の空間特性そのものが次の障壁となるわ」

「えっ」

 永琳の言葉に、ちゆりだけでなく映姫までもが驚きと共に振り返った。

「貴方、まさか、あの場所が何かも把握しているというのですか?」

「理解していなければ、こんな策を提案しません。地獄の底の底。この世の果ての果て。地上からもっとも遠い場所。それが何なのかは科学世紀においても、いや、科学世紀だからこそ観測しているはず。さて――では問いましょう、苺色の賢者よ。宇宙でもっとも深い地獄、これはいったいどこに通じている?」

 ぽつねんと立ち尽くす夢美は、急に振られた問いにもなにひとつ狼狽えること無く、少しだけ掠れた声で答えた。

「宇宙背景放射の向こう。ビッグバン以前のマイナス時間に存在する、前宇宙の亡骸」

 月の頭脳は、大いに満足げな顔をした。


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