徒花/ハービンジャー
白狼天狗は、戦を鼻で察知する。
血、炎、土、死。戦場にあるものは必ず臭いを発する。そしてそれらはかき消すことが困難だ。白狼たちの鼻は、発生源から漂ってきたほんの僅かな臭いを鋭敏に捉える。視覚や聴覚は観察には適しているが、小さなノイズが混じっても頭が勝手に揉み消してしまう。だから五感の中で、違和を感知するためにもっとも有用なのは嗅覚なのである。
「…………」
犬伏鴇は顔をしかめた。嫌な、あまりにも嫌な臭いだった。
妖怪の山の奥深く、天狗の領域。総本山の中枢たる要塞下層へ続く隧道、その入り口。
不気味に静まりかえる暗闇の奥深くから、漂ってくる臭いは。
「あの、隊長、これ……」
犬神葵は不安を隠せなかった。正式な隊員となったといえまだ入隊から三年である。哨戒以外の任務についてはほとんど経験が無い。これほどの修羅場はまだ荷が勝ちすぎるかもしれないが、泣き言を言ったところで現実は容赦などしてくれない。
要塞下層から漂ってくるのは煙の臭いだ。木材と死体が一緒くたに燃えている、胸の悪くなるような臭い。それがここまで上がってきているという異常事態について、鴇は少しだけ思考を巡らせたけれど、すぐに止めた。原因究明は自分の仕事ではない。
事の発端は一刻ほど遡る。鼻高天狗の研究室周辺で火の手が上がったようだ、との噂が白狼たちの間で漣のごとく広まった。上空で哨戒任務中であっても白狼の鼻は小火を察知できるから、これだけであればわりとよくあることであった。しかしどうにも様子がおかしい。消火用に配備されている式神が発動すればそれで済むはずの騒動が、収まる気配をまったく見せない。やがて中枢から逃げ出してきたと思しき鼻高たちの混乱が、外縁を守る白狼たちにも伝わってきた。
大事が起こったらしい。そう判断した哨戒天狗たちは、めいめい要塞の奥へと様子を見に向かった。頭でっかちな鼻高や口先だけの烏で対処できない事態であれば、頑強たる白狼が骨を折るより他に無いからだ。
先行した白狼たちはすでに十隊、五十人を超える。しかし誰も戻らないどころか、喊声のひとつすら聞こえてこない。死の臭いすら漂うこの事態の中、ここまで静まりかえっているのはかえって不気味だ。
つまりこの奥で起こっていることは、ただの火災であるはずがなく。
「よーし、んじゃ行くかぁ」
振り返り、わざとらしいほどに笑う。
犬走姓の三名――竜胆、桔梗、椛――は静かに頷いた。彼女たちは理解し、覚悟していることだろう。これから向かう先に待ち受けている光景を。
鼻高も烏も対処できず、白狼でさえも手に負えない事態。それはつまり、天狗には解決できない問題であるということだ。けれど、そうだと分かっていても、のこのこと引き返すわけにはいかない。いざとなればこの身命を盾として、御山から皆が逃げる時間を稼がなければならない。
竜胆が先陣を切ろうと一歩を踏み出した、その時。
「――待ちなさい!」
強い向かい風、それは自然現象ではなかった。三十三番隊を引き留める天狗扇のつむじ風に、一行は振り返る。
射命丸文は、肩で息をしていた。要塞内部を飛ぶわけにもいかず、全力で走ってきたのだろう。
「あー、間に合わないかと思った。貴方たち、ちょっと手伝いなさい」
「これはこれは射命丸殿。はて、手伝う、とは?」
「いやー、私の特ダネ資料を安全な場所へ運び出してるところなんだけど、ちょっと手が足りなくてね。火の手が回る前に終わらせないとでしょ? 犬の手も借りたいとはまさにこのことで」
「……何言ってんですか。お断りですよ。ほら、放っといて行きましょう、隊長」
踵を返そうとした椛の脇を神速ですり抜けて、文が行く手を塞いだ。
「私の命令を一蹴するだなんて、ずいぶんと良いご身分になったじゃない。そんなこと許されると思ってる? あ、ついでにはたての避難も手伝ってもらうわ。パソコン周りのぐちゃぐちゃした紐がどうにもならなくて、あの娘ぴいぴい泣いてるから」
「ふざけるのも大概にしてくださいよ! いまの状況分かってないんですか?」
「まさか。情報把握は烏天狗の命綱。現状を把握したうえで、私は貴方たちに言ってるのよ。この先に進むくらいなら、私の荷物運びを手伝いなさい」
「はぁ!?」
「まーまーまー、椛、ちょいと落ち着け。射命丸殿もよろしいか? 我々としてもいま何が起こってるのか分からなくて困っているところでして。烏天狗の皆様の仰ることに従うのは確かに道理ですが、しかし非常時の対処も我々の職務。三十三番隊がどちらを優先するかは、隊長の私が判断する権限を持つものと思いますが」
鼻息荒い椛を引き剥がして桔梗に預けながら、鴇は文の顔色を探った。相手は実力だけなら大天狗に引けを取らぬ従三位である。無視して先に進むのも上手くない。
文は大きく息を吐いた。飄々とした表情の、その裏には緊迫が透けて見える。
「鞍馬ラボの越結界隧道を抜けて、何者かが外の世界から侵入したわ」
「外の世界、だと?」
竜胆が思わず反復した。鋼の心臓を持つ副隊長も流石に驚いたらしい。天狗でない者が要塞の中心に飛び込むなど、無謀そのものだ。
普段なら一笑に付す話だろう。だが、いまは違う。その無謀を実現できてしまう者が外の世界にはいる。
「鞍馬殿の結界をこじ開けた、と?」
「それがどうやら、内鍵が開け放してあったみたいなのよ。それなら確かに、抜け道の存在さえ知っていれば通行し放題」
「えー、そんな凡ミスで……」
「事故の原因なんてだいたいそんなもんさ、葵。いまさら言っても始まらん」
「誰だろうと、攻め来る相手に取る手はふたつにひとつ。追い払うか、噛み殺すか」
「桔梗の言うとおり。はいはい、だからそこを退いてください、射命丸様。吹けば飛びそうな弱小新聞社の取材資料なんて、燃えたところでどうだっていいでしょ」
「行かせない、って言ってんでしょうが!」
飄々とした物言いが剥がれて、文の顔から余裕が消失した。その叫びは怒りではなく懇願だった。椛が珍しく怯んで、押し退けようと伸ばした腕を引っ込めた。
――あぁ、なんて優しいひとだろう。
鴇にはそれで、文の真意が理解できてしまった。普段なら、心の奥を気取らせるなどという愚を皮肉屋の烏が犯すはずがない。それだけ切羽詰まっているのだ。
白狼天狗が一度戦闘態勢に入ってしまえば、滅多なことでは敵に背を見せない。武器を置くのは勝利したときか、力尽きて倒れるときのいずれかだ。死ぬぞと言われて恐れる者はいない。逃げろと言われて逃げる者はいない。たとえ敵が神のごとき上位者であろうと、白狼たちはその牙を届かせんと前のめりに突っ込み、死んでいく。
だから、文は。
「お言葉を返すようだが、貴方に我々を止める権限はありません。そしてそのような命令も受諾していない。ならば我々のやることはひとつです。現場へ急行し、そこに敵がいるのなら対処する。どうか邪魔をしないでいただきたい」
文は、逃げろとは言わなかった。逃げろと言えば白狼が意地でも逃げないことを知っているからだ。彼女は本当に、心の底から、自分たちを引き留めたいと思っている。烏にあるまじき情の厚さであった。何をどう間違えたら、こんな優しいひとが天狗道を生きることになるのだろう。
「いまは一分一秒が惜しい。――椛!」
「はいっ!」
掛け声と同時に椛は跳びかかった。隙を突いて文の身体に纏わり付くと、器用にその背に取り付き羽交い締めとする。
「ちょ、あんた……」
動きを封じた数秒、それだけで四人が駆け抜けるには十分だ。だが、それだけでは文がまた追い縋ってくる。隊長は竜胆と桔梗に一瞥だけを投げ、頷いた。
居合い一閃、桔梗が洞を支える梁と天井を斬り裂いて、そこを竜胆の棒が打つ。狙いは過たず、岩と土砂が崩落して道を塞いだ。
「えっ」
呆気に取られたのは、文もろともに取り残された格好となった椛である。
「た、隊長?」
「すまーん、椛。射命丸殿も素直に戻ってくれなさそうだし、お前は避難を手伝ってやってくれ」
「待ってください。そんな馬鹿な話が」
「射命丸殿もこれでご勘弁を。いま我が隊から出せる人員はひとりが限界です。椛のこと、よろしくお頼み申し上げる。では」
それっきり、落盤の向こうから気配は消え失せた。
文は歯噛みする。行けば殺されるだけの相手にも、猪突猛進しか能が無い阿呆どもは戦法を変えることはない。分かっていた。分かってはいたけれど。
突如、肩を鈍い衝撃が襲う。
「あんた、何してくれてんだ!」
牙を剥き出した椛が、怒りにまかせて頭突きをかましたのだ。
「文ねぇはいっつもそう! お節介ばっかり、こっちの気持ちなんかお構いなしだ! 余計な手出しすんな! ややこしい話は烏の中だけでやってよ!」
「……相手は指先だけで国を丸ごと灼き払うような奴よ。白狼が何匹束になってかかったところで、文字通りの犬死ににしかならないわ」
「対峙する前から敵を計ってどうすんだよ!」
「頭に昇った血を下ろしなさい。対峙した瞬間に殺されるって言ってるの。命令が無いって、それこそいまそんな統制が利く状況じゃないでしょう。すぐ総員撤退の指令が出るに決まってるけど、あんたたちはそれまでの間に勝手に玉砕しちゃうじゃない」
「それのなにがいけないの?」
「頭で一秒でも考えてから物を言いなさい」
「私は兵として生きてきた。兵は死ぬのもお役目のうちだ。ならば死に様は私が決める。文ねぇは私を助けたつもりかもしれないけどね、余計なお世話よ。私の生きる意味を奪うな!」
「んなもんはさっさと投げ捨てなさい! 自分で自分に首輪はめてたら世話無いわ。いいからここを離れるわよ」
「お断りよ! くそっ、いまからでも別の道を探して――」
なおも隊を追おうとする馬鹿の、襟首を掴んで文は揺さぶった。
「私はあんたを死なせない。あんただけは死なせるわけにはいかないの」
「わ、私は、皆と一緒に……」
「二度は言わないわ、聞き分けなさい。あんたは白狼天狗である以前に犬走椛なの。何の因果か知らないけど、私が教え導くことになった私の椛なのよ。これ以上ぐだぐだ抜かすなら、あんたを昏倒させてでも連れて行くから」
「ぐ……やって……みたら……?」
「そう、なら遠慮無く」
視線に一瞬だけ籠められた神通力が、椛の意識を刈り取った。文にとってはあまり得手では無い類の術であり、滅多に使うことはない。それが逆に椛の隙を生み、ここ一番で素直に効いてくれた。
ごう、という微かな地面の唸り。文は思わず落盤の向こうを見た。たぶん、いまの一撃でまた白狼が何人か死んだだろう。ぐずぐずしていれば、自分たちも同じように巻き込まれる。敵が伝え聞くとおりの存在であるのなら、文だって対峙して五秒以上生きていられる自信が無い。
「まったく世話を焼かせるんだから――は?」
抱き上げようとしたところで、目線を戻した文は凍り付いた。
「え、なぜここに、貴方が」
「――ふむ、これはこれは」
横たえたはずの椛の姿が、そこに無い。代わりにそこに立つのは夜色の女だった。夢の具現は少しだけ目を丸くして、けれどすぐさまにまりと口の端を歪めた。
濛々と黒煙が立ち上る。
煌々と紅蓮が燃え盛る。
光と熱が、研究室だった場所を踏み潰していた。土壁すらも炎舌が舐めしゃぶり、何もかもを赤熱と煤に変えていく。これは事故ではなかった。誰だろうと一目見てそう理解できるはずだ。なぜなら、炎の大蛇が破滅の意志を持ってのたうちまわっているからだ。
鴇にはそれが何であるのか見当が付いた。外の世界の兵器に造詣がある桔梗も気が付いただろう。炎がまるで噴水のようにそこかしこに浴びせかけられている。岩盤に粘ついて離れない高温の炎。あれはナパームだ。人間が爆弾とともにばら撒いて辺り一帯を火の海に変えるために用いる油。着火して噴射すればこのような火炎放射器にもなるだろう。なるだろうが、黒煙の向こうで放射されている量は過剰に過ぎる。この侵攻者は視界に入るもののすべてを、一片も残さず燃やさなければ死んでしまうのだ。そんなことすら考えてしまうほどの拘泥、あるいは執着があった。
もしも人間がここにいたのなら、すでに昏倒し死んでいるだろう。火災によって薄まった酸素は、しかし白狼にとっては何するものでも無い。鴇の思考は普段通りだ。そのはずなのだが。
幻覚を見ているのでなければ、業火の中心を歩くその姿は。
まるで昼下がりの散歩でもしているような、何気ない姿は。
(月兎兵……!)
鴇には覚えのある気配だった。かつて月から舞い降りた兎が御山を荒らしたことがある。穢れを拒む者特有の、鼻をつんと突く無臭。間違いなくあれは、同じ場所から来たりし者だ。
だがいかに月兎兵とはいえ、あの鉄をも溶かしてしまいそうな炎の中を、涼しい顔をして歩けるものか?
(それにこの得体の知れない重圧は……何だ?)
鼓動は早鐘のごとく鳴る。鴇には理解できない。空の直径を測ることができないように、侵攻者の力量がまるで分からない。あってはならない事態であった。歴戦の彼女は、敵を計る能力が生存に直結することを骨身に染みて知っている。本能ともいえるその観察眼が、いままったく機能していない。
――マズい!
と、そう思った瞬間だった。
突如、竜胆が身を踊らせ、敵の射線へ飛び込んだ。
「はァッ!」
そして獲物を振りかぶり、無謀でしかない突進を開始する。
恐慌か錯乱か、それすら疑ってしまう無意味な行動に、一同は呆気に取られる。しかし、長く相棒を努めてきた隊長はすぐに竜胆の思考を悟った。
そもそもこの隊における竜胆の役割は、恵まれた体格と膂力でもって敵の正面に陣取り、注意を引きつけ続けることだ。副隊長を倒すことに躍起になった相手の隙を、鴇をはじめとした他隊員が突くのである。貢献に対して手柄は少ない貧乏くじのようなポジションを、彼女は長い間黙々とこなし続けてきた。
だがそれも、敵の攻撃をひたすら受け続けることが前提の策だ。
おそらく、鴇と同時に竜胆も気が付いたのだろう。相手の力量を計りきれないことに。もしこれが、敵があまりに強大すぎるためであるのだとすれば、その攻撃を受け止めることは竜胆にすらできないかもしれない。彼女も他の隊員も等しく一撃で葬られるのならば、常の絶対の戦法が意味を為さない。
つまり、この場で竜胆がもっとも存在価値が無い。
だから、敵の手の内を味方に対して暴くためには。
(自分を討たせ、出方を見せる!)
相棒の名を叫ぶ声を、鴇は必死に飲み込んだ。煙がひどく目を刺した。
味方の勝利を掴み取るため、自らの命と引き替えに打てる最善手。それを鼓動ひとつの間に選び取る。犬走竜胆は、まさしく白狼天狗の完成形であった。この勇姿を見ているのは、生きて戻れるかも分からぬ三人だけだ。心の中で、鴇は祖先の霊に願う。彼女をどうか、輝ける戦士の地へとお導きください。
一歩、また一歩。
駆けているはずの竜胆の姿は、じれったいくらいに遅回しになる。思考速度が限界まで速まり、世界が遅く見えているのである。だからすべては嫌というほどによく見えた。黒煙が竜胆の道を開けるように割れる。炎が彼女の袖に燃え移る。棒の先が削った石の破片、粉末。炙られた足が少しずつ焦げていく。月兎兵をめがけた咆哮の波動が同心円上に広がっていく。
敵兵は、その一切に、一瞥すらもくれなかった。
ただ前を見ていた。自分の歩む先、それだけを。
不可解なことが起こったのは、竜胆が三歩目を踏んだときだった。
勇猛な喊声が、唐突に途絶える。すると竜胆の耳から、炎蛇が空中に飛び出したのだ。目を見張る。なんだ、何が起こっている?
力を失った巨躯が、ゆらりとつんのめった。その顔がこちらを向く。
(! な、な、な……)
鴇は全身が怖気立った。
目から鼻から口から、竜胆は燃える油を噴出していた。趣味の悪い噴水彫刻、それが踊り狂う悪夢。断末魔を上げることすら許されないまま、彼女の身体は無秩序にのたうち回った。やがて喉が裂け、胸が割れ、腹が弾けて、全身から油が溢れ出す。燃え盛る松明そのものと化した彼女は、がくりと膝を突き、天を仰いだ姿勢のまま固まった。
「ひ、ひぃぃぃぃぃっ!」
異常そのものの死に様を見て、葵が悲鳴を上げる。
それを咎めようとも思わなかった。無理もない。自分が声を殺していられたのも、きっとただの偶然だ。
手を触れるどころか指一本すら動かさないまま、天狗にあんな術をかけるなど、そんなものは。
鴇は憤る。静かに、無慈悲な天へと憤る。そんなものは、もう神に決まっている。
「ひっ、ひぃぃ、ひ……ぐぽっ」
葵の悲鳴が、妙な水音に遮られた。吐いたか? と傍らに視線を向け、そして即座に距離を取る。彼女の口からは、炎の粘液が長く垂れ始めていた。
(これは……声に反応しているのか)
からくりをようやく理解した。声を上げた相手の喉頭に燃えるナパームを流し込んでいるのだ。それも一切の予備動作無しに。声をまず殺し、その数秒後には相手自体をも殺す。それは確かに、あれほどの力を自在に操る力を持つ者にとって、効率よく周囲の抵抗と生命を簒奪するための最善手段だろう。邪悪と評することすら生温いが。
葵の目が、縋るように鴇を見た。
その眼球もすぐに、白く沸騰したかと思うと、嫌な音とともに弾け飛んだ。熱と光はあっという間に全身へ回る。臓腑も頭蓋も焼き溶かされ、小さな身体が崩れ落ちる。
鴇と桔梗は同時に相手を見た。桔梗の手はわなわなと震えていた。怒りのためか、それとも恐怖のためか。いや、どちらでも同じか。鴇だって、激烈な怒りを維持しなければ、恐怖に圧し潰されてしまいそうなのだ。
(射命丸殿の言ったとおり、いや、なお悪いことになったか。だが)
あれを要塞の外に出すわけにはいかない。ここで止めなければ、あれは御山を、幻想郷ですらも灼き尽くすだろう。想像を遙かに超える敵が迫っていることを、上層部に伝えなければならない。今から上へ戻れるだろうか。葵の声をこの距離で補足して殺すほどの手練れが、それをみすみす許すだろうか。
鴇は息を底まで吐いて、目を閉じた。
(……もはや、これより他に手は無い)
首にかけた数珠を、犬歯に引っかけて千切る。そしてその親玉を丸呑みする。
その様を見ていた桔梗の、震えがすっと収まった。これから鴇がやろうとしていることを、彼女も理解しただろう。異常な状況であろうと、やることが定まればそれに全力を尽くすのが白狼である。
椛を残してきて良かった。あいつなら、鴇が意図したことをきちんと読み取ってくれるだろうから。
胃の中で玉が溶けていく。黒い渦が生まれ、大きくなっていくのが分かる。無数の刃で裂かれたように腹が鋭く痛むけれど、そんなことに構ってはいられない。
ふたりは音も無く駆け出した。坑道の構造は頭に叩き込まれている。あれの前面に飛び出すことは難しくない。だが、術の発動までの時間を稼がなければならない。
(鼓動、ひとつ分)
胸を拳で叩き、指を一本立てる。桔梗はただ頷いた。
数千度の熱の中を歩く、神のごとき敵、その意識を。
正面に陣取った鴇から、一拍分の間だけ逸らさせる。
それがあまりにも無茶な要求であるということは、命じた当人にも痛いほど分かっている。けれどやるしかないのだ。そうでなければ、一矢報いることすら叶わずに身体の内から焼き殺された、仲間たちの無念を晴らすことなどできない。
桔梗が脇道へと消えていく。あとは運を天に任せるばかりだ。
白狼天狗には必殺の奥義があった。魂のすべてを燃やし、命と引き替えに敵を討つ闇の牙である。外法中の外法であるから、隊長格でなければ伝授もされない。周囲の天狗たちの魂すらも強引に奪って糧とする危険極まりない奥義であるけれど、その欠点がいまは利点だ。
この最下層には、もう生き残りはいない。それを上に知らせることができる。
(……これですら奴へどれだけのダメージが通るか分からんが)
呪が腹の中で臓物ごと捻れていく。食いしばった奥歯が割れる。だが鴇は速度を落とさない。月兎兵の前面に回り込み、呪術を完成させる。考えることはそれだけでいい。
あれの目的は何なのか。あれの力のはどこからもたらされているのか。あれが何を好み、何を嫌い、何を愛し、何を憎み、何を食い、何を飲み、何を思い、何を聞き、そして何を望むのか。あれはいったい何者なのか。
それらすべてがもはやどうでも良い。あれを許すわけにはいかない。だから鴇は、ここであれと決着を漬けなければいけなかった。その結末がたとえ破滅そのものでしかないとしても。
葵のものだった太刀を抜き放ち、鞘を捨てる。灼熱地獄の中にあっても、樹か蔦しか斬ったことのないその刃は青く輝いていた。
最後の息を、長く深く吸う。黒い渦はもう、いつ腹を突き破ってきてもおかしくない。
――置いていかないでください、隊長!
ふと、椛の声が甦った。あいつならそんなことを言いそうだな、と思うと少し笑えた。
――ま、おまえはも少しゆっくり来い。
物陰から踏み出し、敵の視界に身を曝す。肩に担いだ太刀、その刃を首筋にぴたりと当てたまま。
「やい手前ェ! こっちを見やがれ!」
声が熱を飛び越えて響く。彼我の距離、およそ三十歩。月兎兵はただこちらへと歩き続けている。その身には傷ひとつ、煤跡のひとつすらも無い。結界外で人間が使っているのだろう戦闘用装束、その黒が赤熱の中で冷たく輝いていた。そして、この世のいっさいに興味のない顔で薄く笑っていた。あぁ、だからこんなことができる。目に映るものすべてを燃やし、そのただ中で光熱を拒絶することができる。
目を剥いて睨め付ける。ほんの一瞬、視線が交錯する。
次の瞬間、自分の喉が消えていた。温度も痛みも感じる間も無いまま、蹂躙は瞬時に行われた。舌と顎を焼き溶かしながら、燃える油が口から吐き出されていく。鼻が、目が、頭がまるごと、炎に溺れていく。油は腹をもあっという間に満たし、そしてそこに渦巻く闇をも包んで焼失させようとしていた。
首筋の刃を、ぎりと食い込ませる。呪の発動の必要条件は、己が首を自力で斬り落とすことである。常の戦場ならば想像を絶する苦行。だが、この想像を絶する状況に置かれた今であれば、喉を焼き切られているぶんだけ容易いというものだ。
太刀が頸椎に当たって、意識と感覚が大きく軋む。
だが、そこで止まる。うんともすんとも動かなくなる。喉から溢れるナパームが、鋼刃すらも溶かし鈍らせているのだ。
(だめ、だ)
やはり、間に合わないか。
視界が白み萎んでいくなか、鴇はまだ兎を見ていた。向こうもこちらを見ている。だがあれは、敵を見る目ではない。ゴミを見下ろす目ですらない。殺した相手に、優越も憐憫も覚えていないのだ。この徹底した殺戮も自分にとっては何の価値もないと、そう言っていた。
邪魔だから、片づけて、お終い。それだけ、ただそれだけの。
地に膝を突く。視界すらも燃え尽きようとしていた。ほんの朧気な影、光の残像。白く潰れていく世界の中で、鴇は最後に、確かにそれを見た。
月兎兵の頭上、崩れた天井とともに桔梗が飛びかかる。敵の直上からの急襲は、ほとんど落下と言って良かった。燃え盛る炎のただ中へ、切っ先を真っ直ぐに相手へ向けて。何かを叫んでいたかもしれないが、鴇の耳にはもう音を捉える力は残っていなかった。
侵入者が桔梗へと視線を移した。不意に現れた敵に対処するための本能的反応、それをあれは捨て切れていなかった。桔梗の身体もあっという間に粘つく炎に覆われる。だが、燃えて落ちる身体そのものが相手への脅威となる。自分が焼き尽くされようとも敵の脅威となり続けるため、相手の真上を取ったのだ。
散弾か何かが猛然と放たれ、墜落してくる炎を迎え討つ。桔梗の身体が千々に砕けていく。
月兎兵にとっては無意識の反撃だろう。降りかかる火の粉を払うことが許されるのなら、誰だってそうする。
だが、そのために要した時間、鼓動ひとつ分の隙こそが。
(天晴れ!)
頸椎の継目に、鈍った刃が噛み合った。渾身の力を籠めて太刀を回す。髄がふわりと抜けて、それっきり感覚のすべてが失せる。
鴇によって制御されていた闇渦が解き放たれる。怨恨を、憎悪を、排除の意思を、そして希望を。鋼をも溶かす炎がついぞ奪えなかったものが、その渦を加速する。漆黒の腕は瞬く間に辺り一帯を覆い、白狼の残骸たちを撫でた。何人かの死にきれなかった者たちが、その指に魂髄を引き抜かれた。
戦場に死した白狼たちの無念、それが巨大なアギトを為す。
燃え盛る炎ごと呑み込まんと、闇が大きく口を開ける。
――ただで死んでやるものかよ!
地の底から響いたそれは、もう声ではなかった。震えているのは空間そのものだ。死してなお敵を撃滅せんという兵たちの念が、洞の中を満たしていた。死の牙が獲物を定める。敵の首を噛み貫き、討つのだ。要塞最奥はただそのためだけの処刑場と化した。
兎は逃げない。顔色ひとつ変えないまま、ただ一歩ずつ前へと進む。
あれを外に出すわけにはいかない。ここで討たなければ。狼たちは知らない。外の世界の科学力も、月人による焼却処理も、あれは跳ね除けてここまで来たのだ。万にひとつだって勝ち目は無い。それを知っていたら、彼女たちはこんな手段を選ばなかっただろうか。それとも白狼天狗の存在意義を諦めず、同じ結論に至ったのだろうか。それを確かめる術は無い。低次元の宇宙にもしもは無い。もう結論は出てしまった。なんとしてでもあれと差し違える。必ずここで、あれを殺してやる。
鋭く牙が、獲物へと伸びる。
殺到する。脳髄へ、心臓へ、肝へと。
噛み砕くために、刺し貫くために。圧し殺すために。
朧帆がその扉を開けると、抜けるような空が待ち受けていた。
穢れに満ちた世界、しかし風の音の他には何も聞こえない。この山に住まうという天狗や神々はおろか、虫や鳥の気配すら感じない。波長探査にも何も引っかからなかった。命あるものは皆逃げ出した後だ。自分という終局が訪れることを察知したのだろう。至極当然の結論だ。きっと森の木々だって、足があるなら逃げていた。それが終わりをほんの少し引き延ばすだけなのだとしても。
地を蹴り、空へと跳ねる。遊んでいる時間は無い。
差し障り無い道程だった。隧道を抜けてしばらくの間は幾許かの抵抗が見られたけれど、それも予想の範囲内だ。ツクヨミの命を帯びた自分にとっては痛くも痒くもない。
地形探査により、目指す場所はすぐに分かった。山肌にある大きな縦穴。降下した先の旧地獄、さらにそこから深く深く潜ったその先。無間地獄に目標はいる。
――きみのともだちに、会いに行こうか。
取り込んだ対時感覚機構へ、朧帆は宥めるように声をかける。
ここから先もまた、差し障りない道程になるだろう。




