開幕/インフレーション
それは全であり、一である。
それは始であり、終である。
それは時であり、空である。
それは空であり、海である。
それは闇の最果に。光の根源に。
それは命の背後に。情の源泉に。
それは心の奥底に。鎖の根本に。
それは世の対岸に。宙の外側に。
それは恒星の焼尽よりもゆっくりと呼吸して。
それは銀河の回転よりも長い波長で発話して。
それは宇宙の創世よりも遥か古から思考して。
それは電子の明滅よりも目紛るしく慟哭して。
何者であろうと、辿り着くことはおろか、目に見ることすら叶わないはずの、それは、ただ。
泣き続けていた。怒り続けていた。笑い続けていた。恨み続けていた。妬み続けていた。浸り続けていた。飽き続けていた。喜び続けていた。嘆き続けていた。燃え続けていた。
認識の果てに立つそれに向けて、あるとき、それは舞い降りた。
あり得ない訪問者。不可能を踏破した侵入者。彼女は疲れ果てていた。立っているのが不思議な身体で、ただ両の脚だけが規則正しく歩行を続けていた。十一次元より下位の宇宙からこの場所まで、ただ歩いてきたのだ。要する時間は、星ひとつの寿命などでは到底足りない。それは一個の生命にとっては、想像の及ばない距離に違いないはずなのに。
大いなる母は――月都がトコツネと呼称するそれは、しかし驚くよりも先に興味深く思った。自分が課した生命の頸木から逸脱するほどの、只ならぬ狂気の源が何であるのか。自分が生み出したはずのものが見せる、自分も知らない強固な信念がどのようなものなのか。聞けるものならば聞いてみたいと、純粋に興味を持った。
そして何よりも、美しかった。その少女はカグヤの作り出した原典からは遠くかけ離れた、模倣物の贋作が割れ砕けた成れの果てであったけれど、それでもまだ、トコツネが見惚れてしまうほどに美しかった。すべての姿勢のあらゆる角度で、一部の隙もない美しさを保っていた。
訪問者が、自らの終着に気が付くまで、六千万秒ほどかかった。絶対零度の漆黒は、少女の感覚と思考を完全に凍結させていた。だから瞳と耳がその機能を思い出すのに、それだけの時間が必要だった。
『――あぁ、私は』
少女は――かつて兎だったのだろう者は、凪いだ大海原の上、その脚をようやく止めた。その場所に空はない。地球ほどの大きさの空洞、無限深の海に浮かぶ泡の中。ゆくりと波打つ水面は、生命あるものを透過しない。行き止まりの壁に、少女は包まれている。もはやどこへも戻ることはできない。どこへ出ていくことも叶わない。
『私はもう、振り返ってもよいのですね』
海そのものが、淡く輝いている。明けの星空、その地平の際に立つことができるなら、このような景色になるだろう。
背負っていた皮袋が、海水へと落とされた。小さくて平らな何かが無数にまろび出て、海水を裂くように回りながら沈んでいく。
これは。トコツネの感覚が違和を叫んだ。自身の温度がほんの少し下がったことを感じていた。なんだ、これは。
『どうか、お許しいただきたい。名も知らぬ大いなる者よ。いや、違う。私はきっと許されない。それならばそれで構わない。私は受諾した命を果たす。ただそれだけの一兵なのです』
これは、いったい。
私は、何を、混ぜ込まれた?
『許されなくてもよいのです。ここで朽ちることが私への罰だというのなら、むしろその方が良い。私が貴方にもたらす傷が、私が世界にもたらす災が、これと吊り合うなどとは到底思えない。あぁ、でも、お許しください。私は、ついに、愛しいひとを裏切れなかった』
少女を数百億年間歩かせてきた脚が、膝を突く。兎は水面へ倒れ込んだ。あるいは、海に磔となった。
六十と六つの異物は、命など持たないはずのそれは、しかしやがて水を得た魚のごとく泳ぎ始めた。徹底して物質を拒むはずの海水へ即座に親和し、同心円の上に幾何学模様を描いていた。
低次元宇宙で作製された聖遺物。感情の根源に立つ翁へと捧げられた面。無数の宇宙においてただ唯一、トコツネへと刺し込める刃。
少女はこれを運んできたのだ。そのように命じられたのだ。トコツネは得心した。その命があったから、少女は永遠にも等しい道程を歩き通すことができたというわけだ。そのために生きると、そのために死ぬのだと、そう決心したのなら、もはや次元の高低など関係ない。
『貴方は四次元宇宙にまで引き吊り出される。そうすれば貴方を殺すことが可能になる。私がここまで来たのは、聖徳王の面を盗み出したのは、すべてそのためです。貴方には何の恨みも無い。でも私は兵士です。下命に背くことは許されない。それが愛しいひとの言葉であるのなら、尚更に』
つまり、少女は暗殺者だ。トコツネを弑するという、多元宇宙開闢以来前代未聞の目的を達成するため、命と引き替えにここまで来た暗殺者である。
『――朧帆、私、やったよ』
兎だった者は、か細い声で呟いて、ひと滴だけ、涙を流した。
『ちゃんと、できたよ。褒めてくれるかなぁ』
すぅ、と息を吐いて、それっきり少女は何も言わなくなった。小さな波が寄せて、その顔をぱしゃりと洗う。そして指先から、足先から、少しずつ海へと沈み始めた。温い水が枯れ果てた身体を優しく洗う。頭も肩も水中に没して、やがて肺からの空気も抜けきって、少女の身体は水面下へ沈んだ。
食い込んだ異物の数々は、瞬く間にトコツネの感覚を蝕んでいく。信号は光など及びも着かない速度で駆け巡る。六十六の能面は強力な触媒となり、トコツネの無為に意味を与え、その無形に身体を与え、その混沌に秩序を与える。
作り替えられ、書き換えられていくその最中で、大いなる母は怒り、泣き、叫んだ。ひとつしかいないのだ、こんなことができるものは。
トコツネは自らが産み出し続けてきた生命のひとつとなり、能面が作られた宇宙に生誕するだろう。生命でないトコツネは殺せないが、生命となってしまえば簡単に殺すことができる。さらに四次元まで引き吊り出されてしまえば、その瞬間に結末はひとつに定まってしまう。四次元宇宙では時間軸を遡れない。つまりは再試行が許されない。そしてそれこそが、彼の者の狙いに違いない。
多元宇宙から、生命を拭い去るために。
大いなる母を、完全に殺害するために。
なにもかもを、だいなしにするために。
狂える母は、凝縮し降着していく苦悶の中で、しかし冷徹に演算を開始していた。
方程式は展開され旋律となり、波動は共鳴して多面行列を構成した。和音構成から導出される八十八重解が、逆回しのビッグバンのビートに乗る。いくつも、いくつも、宇宙が擦り潰されていく。コードの一部となるためだけに消費されていく。深さ4.0×10^99光年の渦潮が共振し、無数の真空崩壊によるエネルギーをさらに増幅するアンプラグドとなった。希望/絶望に充ち充ちたオーケストラに乗せ、トコツネは歌う。始まりも終わりも無い、無限のパターンを紡ぐ歌でもって、彼女は演算するのである。
四次元宇宙における結末はひとつだ。その摂理にはトコツネといえども抗えない。ならば、その結末を真っ向から上書きするだけの論理が必要だ。奴の望みは私の消滅。私の望みは私の継続。求める解が正反対ならば、実現するのはどちらか一方である。
誰の耳にも届かない大音響は祝福となって、あるいは呪怨となって、六十六の能面の生く先を照らす。失調、空間酔いに似た感覚の振動、空転。千とひとつの宇宙、溶ける。少女の形をした生き物だったもの。不可思議を超える選択肢から運命を掴み取った。点灯、終わりを始まりに変える触媒、暗転。銀河フィラメントを砕きながら駆け抜ける痛覚信号。ここに戻ってこれさえすればよいのなら。理由が必要だ。根拠が必要だ。そしてそのためには、美しさが必要だった。
きざまれていく。ひきずりこまれていく。あらがうことはゆるされず。
波と化して広がっていく演算の中で、トコツネは咆哮した。理由ならば、あった。けっして消えない記憶の中、色褪せない染みのような悲しみ。糸を切って母とはぐれてしまった、あの生命。大小無数に散らばる存在たちの中、奇跡と呼ぶにはあまりにも残酷な唯一無二の解。絶望の腐沼の奥底で苦悶の悲痛に慟哭し、それを狂える母の他には気づかれてすらいない。これしかない。救わなければならない。手を伸ばさなければならない。導かなければならない。
暗闇の、底から。
燐光の、海まで。
――やがて、残響さえも消え、巨大な泡が静まりかえる。
兎だった少女の身体は、とうに溶け消えていた。煌めく海水の中を、六十六の面だけが意味有る形を構成している。正四面体と、希望と絶望。それはあの狂える母にとっての感情。それは数え切れない宇宙にとっての感情。そして、それ自身にとっての。
砂粒よりも小さな生命が、能面たちの最中で発生したのは、それから暫ししてのことである。




