未練/いっしそうでん
主を失った博麗神社は、真昼の静寂に沈んでいた。雨戸までぴちりと閉められた社殿からは、人が失せてまだ十日程度しか経っていないというのに、廃墟のごとき沈痛な空気すら漂っている。郷総出で行われた婚儀の祝祭が嘘のようだった。
光の射さぬ居間には、畳を除いてはもう何ひとつ残っていない。箪笥も火鉢も卓袱台も、霊夢の嫁入りに合わせて持っていかれるか、捨てられるかしてしまっていた。虫除けの結界だけがまだ生きており、そのせいで羽虫の一匹すらもいやしない。その静けさが却って、かつての賑わいを炙り出しては霧散させていく。
がらり、と雨戸が開く。
「どうぞ」
八雲藍が脇に控えると、その主は丁寧に下履きを脱いで縁側へ上がった。生糸の靴下で歩むその足は、身体の重みの一切を床板に掛けていないのか、ほんの僅かな足音すら残さない。けれど埃は少しばかり舞い上がり、開け放った戸から回折した陽光の中でくるくると踊っていた。
そのダンスの匂いを感じながら、八雲紫は暫し目を瞑る。
「……………………」
誰も住まなくなった家というものは、眠っているのと同じだ。新しい住人が現れればまた目を覚ます。けれどもし、二度と誰も住まないのなら、眠ったまま朽ち果てていくばかりだ。この神社がそうならないことを、いったい誰が保証できるだろう。
外にいれば感じられた空の青さも、暗い室内からでは外の景色は真っ白に塗り潰されていて、何が何だか分からない。色さえ忘れた畳に入ると、その声は意識の奥底でさざ波のように振動した。
――ちょっと紫、あんた何しにきたのよ。
ただそれだけのことで、思わず口の端が緩んでしまうのは。
「あの子ったら、掃除をさぼったまま出ていったのね」
それはたぶん、真に幸福な思い出と呼んで良いものだった。
箪笥の置かれていた場所だけ、畳が窪んでいる。土間側には点々と焦げがあり、これは竈から火の粉が飛んできたからだろう。戸棚に隠れていた白壁が、日焼けを免れていたせいで棚の形を留めている。何かを吊り下げていたのだろう梁には擦れて削れた跡。僅かばかり残る白粉の匂いは、あの婚儀の日の名残だろうか。
巫女はいなくなった。いまにして思えば、あまりにも悪いタイミングで。
「あのう、紫様」
外に控えたままの藍が、控えめに声を上げる。
「ここで、何を?」
その言葉は、紫の中で意味を為さずに、けれど形として残り続けた。ここで、何を。それは意味の無い問いであり、また意味の深い問いでもあった。いずれにしても答えは無い。答えなど返せない。
最後にここでゆっくりと、無心に杯を傾けたのはいつのことだっただろう。あのときの自分にとっては日常の光景のひとつに過ぎず、それが最後になるだなんて思いもしなかった。あの場に居合わせた人妖の誰もがそうだったはずだ。博麗神社の宴はいつでもそこにあると、いつまでも在り続けるものだと、そう思い込んでいた。当の紫自身もだ。そんなことはあり得ないのに、そう信じたかった。信じたいものをつい信じてしまうのは、心あるものの宿命か。
踵を返し、境内へ戻る。ぽかんとしたままの藍だったが、雨戸を閉めると主の後を慌てて追った。
空の高いところで、鳶がひと声鋭く鳴いた。その振動で空の青が深く強く整う。神社の上には雲ひとつすらも無く、真っ直ぐに宇宙へと直結している。空を飛ぶ鳥も、地を歩む人も、草を食む獣も、花を吸う虫も、圧し包む大気の中で生きている。それが失われることなど、微塵すら疑うことなく。ただそう信じている。その根拠無き信用の上で、すべての魂は循環している。
「これから月の民が行うことを、我々は止められない」
紫の語り始めた言葉を聞き漏らすまいと、藍が慌てて駆け寄った。
「それはあまりにも理不尽な暴虐だけれど、地上の民は止める術を持たない。人間とも妖怪とも存在の周期が異なる者に、私たちと同じ道徳や理念を求めることは不可能なのよ。だから私は、せめて私の手の届くものを、かの行いから守らなければならない」
「いったい、何のことでしょう?」
鳥居の下で立ち止まると、紫は目を細めた。
「業腹だけれど、月都の策が功を奏するならまだ事態はましだと考えなければならない。想像を絶する数の犠牲の上に成り立つものとはいえ、それは勝利と呼んで差し支えないでしょう。けれどもし、月の民を以てしてあれを討てないのなら、私たちでは、地上の民の力では尚更に討てない」
「八意永琳の言っていた、侵略者の話ですね」
「侵略者、というのは意訳が過ぎるわね。あれの望みは侵略ではないもの。もしもそうであるのなら、こちらが降参して服従の意を示し、持てる財のすべてを差し出せば止まるはず。けれどあれは違う。ただただこの惑星から生命そのものを祓おうとしている、絶対に相容れない存在なのだから」
「月の民に討ち滅ぼせない相手など、この世にあるとは思えませんが」
「永琳と綿月姉妹の慌てようからして、月都はそうは考えていない。あれを討つ手段が存在しない可能性まで考慮に入れて策を練っているわ」
「とても、信じられません」
藍は迷子の子供のような表情だった。彼女は幼い頃から、いつもそうだった。理解は早く力も強いというのに、いやそれだからこそ、自分の力が及ばないものを目の前にすると、主に対して不安を隠そうともしないのだった。
「もし、もしもですけど、月都の策が失敗した場合は、どうなるのでしょう?」
「私たちでは、あれに勝つことは絶対にできない。けれどまた、私たちは敗北することも無い。それは私が最もよく知っている」
「はぁ」
「だからこそ、私は守らなければならないのよ。……そろそろ、約束の時間ね」
事態をまだ飲み込めていない藍を尻目に、紫は鳥居の内部に隙間を開く。暫し、動きは無かった。いったいどうしたというのだろう、と藍が首を傾げたころ、突然空間が泡だって、向こう側からそれが出現する。
「――げほっ、げほっ。いやぁ、時間ぴったりの救援、痛み入ります」
「お前は、獏、か」
「おや、これは失敬。外の世界仕様の格好のままで恐縮ですが、着替える暇すら無かったものでして」
人間に化けたドレミーは、煤けたカーディガンを払いながら立ち上がると、背後の隙間へ両腕を突っ込んだ。
「ほら、皆さんあと一息ですよ。もうひと踏ん張り、頑張って」
その手を借りながら隙間を越えてきた人間たちを見て、藍はさらに訝しむ。現れたのは赤毛のやたらと細身な子供と、その保護者らしき派手な女、そして。
「おや。お前は、菫子、だったか。久しくこちらへ現れないと思ったら、こんなところで」
「た、たた、た、助かった? 私たち、え、ここ、幻想郷なの? 博麗神社? あれ、紫さん、とその、えぇと、式の」
「藍だ。いやしかし、なんと酷い様相だ。まるで地獄にいたかのような」
「私から言わせていただけるなら、地獄の方が遙かにましでしたよ。鬼の所業ならまだ情ってものがある。――それにしても、紫さん」
一瞬で妖怪じみた格好へ変化すると、ドレミーは深めの息を吐いた。
「これで良かったのですね、本当に」
「えぇ。必要なピースはこれで揃ったわ」
「私が申し上げたいのは貴方の……。いえ、それは重畳です」
何かを飲み込んだような獏の表情を藍は見咎めたが、それを言葉にすることはどうしてだか憚られた。
四人はいずれも疲労困憊で、衣服のところどころが焼け焦げている。外の世界で起こっている事件の苛烈さがよく分かる。人間ふたりはともかく、幻想郷でも実力者であるはずのドレミーと菫子さえ、ここまで追い込まれてしまうとは。
小枝のように転がっていた赤い少女が、億劫そうに身を起こす。十カラットの柘榴石みたいな瞳が、きょろきょろと周囲を観察していた。かと思えば、幽鬼のごとく唐突に立ち上がって、社殿へとふらふら進んでいく。
慌てて保護者がその後を追った。
「待てって。とにかく安全を確保して手当だ」
「見て、凄い。本当に法則が違う。鳥の羽ばたく回数、風の慣性、空の屈折率。なにもかもが、私たちの世界と少しだけずれている。百年間、だっけ。たったそれだけ、僅かに切り離されただけで、こんなに違う宇宙になるなんて。水族館の水質が、海にも湖にも川にも存在し得ないのと同じなのかも。人工、ではないんだけど、いやむしろ、私たちの宇宙の方が変化しているのかもしれない」
「……この子が、例の?」
目を丸くする紫を、ドレミーは何故か誇らしげに見返す。
「えぇ。驚くでしょう」
「驚いたなんてものではありませんわ。この子、博麗大結界内外の物理計数の乖離を、五感と脳だけで感じ取っている。私ですら精密な観測結果から計算しなければ導き出せない微細な差だというのに。そんな鋭敏すぎる感覚では、成る程、外の世界での社会生活は難しかったでしょう。そしてそういった子こそ、負けないための要素として申し分ない」
科学世紀からのふたりの客人が隙間の賢者へ簡単な自己紹介を済ませると、その終わり際をひったくるように菫子が前へ出て言った。
「あの、それで、外の世界にいる他のひとたちは? 助けないの? 皆……はそりゃ無理だろうけど、でも、ひとりでも多くこっち側へ避難させなきゃ」
「……残念だけれど」
顔を伏せて紫は首を振る。
「科学世紀のほかの人間では、こちらで無事を確保することさえ困難でしょう。貴方たちのように幻想の許容が進んでいなければ、万単位どころか数十人でも受け入れは難しいわ。それにもう、それだけの時間も余力も残されていない。私にも、この郷にも」
「え、それって、どういう」
「だから動ける間に、できることはやっておかないとね。そのために、取引に応じたのですわ、ドレミー」
「恩に着ますよ。北白川研のご両名は事態解決に必要な人材であるということは、八雲さんにも十二分にご理解いただけたことかと。良い取引だったでしょう?」
「あ、申し訳ありません。私の申し上げた取引というのは、貴方との間のものではなく」
「えっ」
「――そういうことです。ようやく獏の尻尾を捕らえたわ」
染み出る影のように、そのふたりはいつの間にかドレミーの背後に立っていた。
皺ひとつ無いブラウスを完璧に着込んだ魂の裁き人。そして付き従うは巨大な死鎌を携えた三途の川の渡し守。白昼の中にあってもふたりの周囲には死闇の香りが濃厚に漂っている。
獏の額に冷や汗がてらりと光った。
「これはこれは、閻魔様ではないですか。私が何か是非曲直庁のお気に障ることでも?」
「その言い草からして、心当たりはあるのではないかしら」
四季映姫はその涼やかな笑みを崩さない。
「たとえば、死ぬ運命にある者を無茶な方法で救った、とかね」
「いやぁ、流石は夢の支配者様だ。あたいも寿命を誤魔化す手練手管ならいろいろと見聞きしたけどね、ここまで豪快なやつは知らなかった。まさか魂そのものでトカゲの尻尾切りみたいな真似ができるたぁ、夢にも思わないね」
「菫子さんの件であれば、徹頭徹尾あれは外の世界の話。貴方がたの管轄外では?」
「本来ならそうなんでしょうけどもね。緊急事態なので、形振り構っていられないのです。それに、捕まえて檻に入れようとか、そういう話ではありません。むしろ良い話を持ってきたのですよ。この未曾有の事態に貴方の力を活かせると踏んでね」
「こ、これが良い話なわけがない。お役所はいつだってそう言うんだ……。嵌めてくれましたね、八雲さん」
「取引ですので。まぁ人間のお三方にとっても、幻想郷や夢の世界よりも是非曲直庁に保護していただいた方が安全でしょうし」
「そういうわけだ。心配なさんな、悪いようにはしないって。ほら行こう」
「そう言うひとが本当に悪くしない例なんて、まず無いじゃないですかー!」
「えーっと、ちゆりさん、どうしましょうか、私たち」
「いつまでもここに突っ立ってたって仕方がない。そのなんちゃら庁ってところに行けって言うんだろ。ならドレミーに着いていくしかない。ところで、菫子はそれがどんな場所なのか知ってるのか?」
「閻魔大王が死者を裁くところです。じゃあ、行きましょうか」
「……マジ?」
小町が率いる一行が、一瞬で庁との距離をゼロにして、消える。
しかし映姫だけは、白昼の境内にぽつりと残っていた。毅然とした姿勢のまま、しかしどこか所在無げな表情で、若き閻魔は言葉を探しているようだった。
紫は内心、快哉を叫んだ。この女にこういう顔ができるとは知らなかった。そしてそれを引き出したのが自分であることが、この上なく愉快極まりなかったのだ。
「――本当に、いけ好かない相手でしたよ、最後の最後まで」
ほんの僅かに視線を外しながら、ようやく映姫が捻り出した言葉は、何度も伸したように徹底して平べったい音をしていた。
「私と貴方は対極に在ります。私はいかな混沌にあろうと万物を白と黒へ判じる。貴方は混沌を混沌のまま内包する。だから、まぁ、互いが互いを気に入らないのが当然なのですが。それでも同じ点を見出そうとするならば、私たちは混沌のすべてを飲み下す。砂糖も劇薬もいっさい区別せずに。何もかも正反対な貴方であっても、そこだけは同じなのだと、私は勝手に考えていましてね」
「珍しく歯切れの悪い物言いでいらっしゃること」
「混ぜ返さないでください。……貴方を裁くのが私でないことは分かっていましたが、よもやこんな幕引きになるなんて」
八雲紫、境界を操る者。
既存の境界を動かすことはできても、境界を新たに引くことはできない。
四季映姫、境を引く者。
白と黒を厳に判じ分けるけれど、いったん引いた線は二度と動かせない。
磁石の両極のごとく、ふたりは反発しあう。その主義は根底から筋を違えているゆえに、主張は永遠に平行線を辿り続ける。これが人間であれば、不倶戴天の敵として憎み合っていただろう。けれど彼女たちはそうではなかった。すべてを愛する覚悟を決めた大いなる存在であった。そしてその範囲には、当然ながらその対極の相手すらも含まれているのである。
だから、いまふたりの胸中に去来するこの感情は、ふたりの間だけでしか解されないだろう。その想いに名前は無い。それが確かに存在することを、ふたりだけが知っていればそれで十分だった。
「しっかり果たしなさい。失敗は許されないのだから」
「重々に承知しておりますわ」
その傍らで、藍だけがおろおろと戸惑い続けている。
「あの、紫様。いったいどういう」
「……呆れたわ。可愛がっている式なのに、煙に巻いたままにしようとしていたなんて」
「貴方様さえなにも言わなければ、ねぇ」
「そういう人間臭いところを拭い捨てない限り、貴方は神になんてなれませんよ」
「いえ別に、そんな面倒臭いものになるつもりは」
「とにかく、きっちり説明して、それから行きなさい。最後の助言くらい聞き入れるものよ」
なにかを断ち切るように映姫は踵を返し、そして彼岸の虚空へと消えた。
あとに残されたのは、神社を最初に訪れた紫と藍だけになった。けれど付き従う式の顔には、先ほどよりもずっと色濃い困惑が見える。
「……藍」
「結界になにか細工をされるおつもりなのですか。教えてください。紫様はここでいったい何をしようと」
もはや隠し立てはできまい、と隙間の大妖は諦めた。老猫のようにふらりと消えてしまおうと思っていたが当てが外れた。いなくなったことに誰も気づかなければなお良かった。大難を前に逃げ隠れたか、知らぬ間にのたれ死んだか。あとから振り返ってそういう扱いになるのなら、それがもっとも良いのだ。お涙頂戴の三文芝居など、彼女が一番苦手とするところだというのに。
八雲紫は、自分で境界を引くことはできない。そして、永劫の別れというものは大いなる境界なのである。
「私はかの暴虐からなるべく多くのものを守らなければならない。そのためには、既存の結界では強度がとても足りないわ。いくら大層なことを言っても、これは所詮概念結界だもの。物理的な衝撃、光と熱の嵐の前には非力。だから強度を上げなければならないのだけど、外と内を完全に隔離遮断するための結界を構築するには、数時間ではとても足りない。だから、私が、混ざるのよ」
「混ざ、え? それって、まさか」
「えぇ。私が結界そのものになれば良い」
「だ、駄目ですよそんなこと! だってそんなことをすれば紫様は……」
涙を瞳いっぱいに貯めた式に、思わず溜息を吐く。まったく、だから嫌だったのに。
博麗大結界とは、大雑把に言えば蚊帳のようなものだ。必要な者だけを自動的に選り分けて、結界膜の透過を許可している。けれど此度の月都による措置は、その蚊帳を中身ごと焼き払ってしまうだろう。ゆえに必要なのは、蚊帳を一時的に防弾ガラスへ取り替えるという対策だ。しかしそのために必要な妖力は膨大で、一朝一夕に用意できるものではない。
唯一、八雲紫自身という例外を除いて。
「紫様は……紫様は……身命を捨てると」
「そう単純なものでもないのだけれどね、私の場合は」
結界の維持に関わる知識は、すべて藍に叩き込んである。緊急時の運用である強化結界の調整についても、取り込んだ式をいくつか応用連携すれば十分に可能だ。月の民がどれだけの出力をもって策を組んだのかは不明だけれど、余程のことが無い限りは守り抜けるだろう。
そう、後に残すものについては問題ない。けれど、結界と合一する紫自身については、未来演算がほとんど意味を為さない。
自身を純粋なエネルギーの塊に変換し、結界の中へ溶け込むのだ。そこから帰還するということは、水を張った大きなバケツ氷砂糖をひと欠片放り込んで、数日後にまったく同形の砂糖の結晶を取り出すようなものだ。可能性はゼロに漸近し、論ずるだけ無駄である。
霊夢が健在なら。
紫はちらりとそう考えてしまい、すぐに後悔した。もしも博麗の巫女さえいたならば、確率を無視した情報復元も可能だっただろう。けれどそんなもしもの話には、いまとなっては何の意味も無い。
「……私はもう、いなくなるものと思いなさい」
「いやです。駄目です。お願いします、どうか他の方法を」
「月の民が動くまで三十分を切ったわ。もう時間が無い」
「私は、私は、貴方の式です。それ以上にもそれ以下にもなれません。私は紫様の道具なのです。主を失った道具は、打ち捨てられるのが道理ではありませんか。貴方を失った私は、どのように存在すればよいのですか」
快晴の下で、藍の悲痛が呆れるほど鮮明に胸を刺す。
「どうしてもと言うのなら、私も一緒に連れて行ってください。戻れないことも恐ろしいけど、紫様と離れることも同じくらい恐ろしい。それなら私は、私は」
「それはできないわ。貴方までいなくなったら、いったい誰が結界の調律をするというの。貴方を残すことができるからこそ、私はこの選択を決心できたのよ。私は永遠ではないの。いつかはいなくなるのよ。私だけじゃない。どんな人間も、あらゆる神様も、蓬莱人でさえ、いつかはこの惑星からいなくなる。そしてこの惑星すらも、いつかはいなくなるわ。月の民はね、この惑星に誰が生まれて誰がいなくなるか、それにはまったく興味が無いの。だからこんなことができる。けれど私たちにとっては違う。自分の世界から誰かがいなくなれば、そこには大きな穴が開く。大なり小なり、私たちは何かを失って、そして元の様相には戻らない。それはきっと痛むでしょう。堪えきれないくらいに、立ってさえいられないくらいに、深い傷となることもあるでしょう。でもね、藍、忘れてはいけない。貴方はそれでもまだそこにいるのだから。貴方がいなくなるのは今ではないのだから。その穴も等しくお前の一部であると考えなさい。穴を埋めるも残すも自由、だけど拡げてはいけない。穴を塞ごうとして、不格好な瘡蓋になるとしても構わない。穴だらけに傷ついて、皺だらけによれてしまっても、貴方はそこにいる。穴を理由にいなくなるなんて、そんなことを私は許さない。けっして、穴そのものを自分自身だと思い込んでしまってはいけない」
顔ごと溶かしてしまいそうな滂沱の涙を、紫は指で拭ってやった。
思えば幼き九尾を匿ったそのときから、紫はそういった喪失について教えてこなかったかもしれない。誰もが勝手に学ぶものなのだろうと、等閑にしてきたことは否めない。だから、少し残酷に過ぎることなのかもしれないけれど。
彼女には、立っていてもらわなければならない。
「復唱しなさい。状況収束までの間、結界類型は第四を維持。出力が七割を下回った箇所は例外なく補正術式を充てること」
「紫様、どうか、私も」
「復唱しなさい」
強めた語気で反抗を撫でつける。式である藍にはそれを受諾する以外の選択肢は無い。無いはずのその意思が、しかし嗚咽となって漏れ続けている。
「じょ、状況、収束まで、結界、うぅっ、類型、は、第四、維持、出力が……っ! なな、七割を、下回っ、あぁ、箇所は、ほっ補正、術式を……」
「よくできたわ。貴方はもう大丈夫」
胸元に抱き寄せ、その頭を撫でた。
「大丈夫だから」
この身体に残された時間で、してやれることはもう、それくらいだった。
震える温もりを解いて、鳥居に向き直る。神社の内外の境界であるそこが、結界の重要な基点だ。厚みの無い、純粋なエネルギーに満ちた世界。いくつもの保安鍵を解除して、結界の核ともいえるその場所への道を開いていく。その開闢からいまに至るまで博麗大結界の傍に在り続けた彼女だからこそできる、強引かつ繊細な手法だった。
最後の障壁が解除される。目映い虚空が鳥居に口を開ける。
「紫様」
光輝に向けて歩み始めたとき、藍の声が聞こえた。先ほどまで泣きじゃくっていたとは思えない、凛とした声だった。
「ありがとうございました」
紫は振り返らなかった。振り返らずとも、式がその足でちゃんと立っていることが分かったからだ。たとえいまこの瞬間、彼女が空元気でそうしているだけなのだとしても、それができるのならば。
「どういたしまして」
きっと、大丈夫だ。
片手をひらりと振って、鳥居の中へと侵入する。八雲紫を構成していた情報が、暴かれ、解けて、溶けて、混ざっていく。秘められていた膨大な妖力はあっという間に攪拌されて、結界面の隅々まで行きわたる。身体だったものを余すところなく喰らい尽くすと、鳥居に開いた口は一瞬で閉じた。
藍はその光景を見ていなかった。深々と腰を折ったまま、主をただ見送っていた。無人の静寂を取り戻した境内に、ふたつかみっつの雫が落ちる音が、遠慮がちに響いた。




