痛哭/ゆるされることではないとしても
月都で、青い空を見ることができるのはここだけだった。
月兎といっても、もともとは地上の生物である。ゆえにその成育には、地球に近い環境が適しているとされていた。だから月都防衛学校には、月の技術で人工の青空が再現されている。産出された仔兎たちは、微細なホログラムと環境空調で構成された偽の空を、月人からの有り難き賜物として素直に受け取っていた。あの空の精巧さを指導教官たちは誇るけれど、本物の青空を知らない仔兎に、その技術が分かろうはずもない。
だけど。
「……今なら違いが分かるかもしれないな」
小さな声に鈴仙は振り向いた。ブレザーの袖を余らせている鈴瑚は、記憶の底にある卒業前の姿そのものだ。
ついさっきまで現在の姿を目にしていただけに、その垢抜けなさが強調されて感じられてしまう。まさか自分も同じように見えているんじゃああるまいな。鈴仙は慌てて髪を撫でつけたりしてみるも、防衛学校在籍時代の自分自身の姿がどうにも思い出せない。
鈴仙は自分の経っている場所を再確認する。申し訳程度に造花で飾られた、猫の額ほどの噴水広場。そこから校舎へ向けて延びる細い石畳。絵に描いたものをそのまま取り出してきたような学び舎だ。見間違えようはずも無い。すべての月兎兵たちの脳裏に、擦過傷みたく刻みつけられた防衛学校の風景だった。
「月に帰る機会があったら、久しぶりに顔出してみるか。はぁ、それにしても、月兎最強の特殊部隊と謳われた我々が、久々に顔を合わせるとなったら、思い浮かべるのがこことはね」
「なんで溜息なんか吐くのさ? そりゃあ隊長との思い出といったらここでしょ」
今も小柄な清蘭だけれど、当時の彼女は学年が三つは違っていそうなくらいにちみっこかった。落ち着き無く友人の周りを跳ね回っては、額を小突かれて笑っていたものだ。
頭がくらくらするほどの、懐郷。
瞼がちかちかするほどの、心傷。
夢のようだけれど、残念ながらここは夢の世界ではなかった。そして、しかしながら現実でもない。
「思い出、ねぇ」
もしかしたら、清蘭が何の気無しに口にしたその言葉こそが、最も適切な表現であるのかもしれなかった。
「……行くよ。この場所なら、隊長がいる場所はひとつしかない」
三人は頷きあい、そして校舎の中へ急ぐ。時間が無いわけではないけれど、それでも逸る気持ちを抑えられなかった。辺りに雑踏の騒めきが満ちている。だが人影はまったく見えない。校内の賑やかな環境音だけが、記憶から再構築されているからだ。
校舎一階、その廊下の突き当たり。大きく重たい鉄扉の前まで辿り着くと、鈴仙たちの脚はしばし止まった。
「うぅ、緊張しちゃうよね、やっぱり」
清蘭がひとつ、ぶるりと身を震わせる。鈴瑚も小さく頷いた。
「いろんな意味でね。当時のトラウマもばっちり蘇ってくる。くそっ、もう卒業して何十年も経つっていうのに」
戦闘術教導室。シンプルな文字でそう表記されたその部屋は、すべての月兎兵にとって思い出したくない場所の筆頭だ。筋が良ければ良いほど、兎たちにはこの場所で厳しい訓練が課される。あらゆる地理的条件に加え、考え得る限りの天候条件。それらを忠実に再現した中で行われる戦闘訓練は、負傷者はおろか死亡者が出たところで中止されない。消耗品に過ぎない兎たちの能力を、最大効率で引き上げるために最適化された施設。それがこの部屋だった。
「ま、幸いにしてこの空間は肉体的ダメージとは無縁だ。それに、私たちはただ話をしにきただけなんだ、隊長と。あのひとに殺される心配は無い。むしろ八意様が翻意して殺処分ミームを流し込まれる方が怖い」
「師匠はしないよ、そんなこと」
「単に確率の話だって。まったく、学生の頃の私に言っても信じないだろうな。鈴仙がここまであの八意様にぞっこんになるだなんて。とにかく、この学校は幻影に過ぎない。私たち自身もね。オンラインアバター付きの、ちょっと豪華な月兎通信ってだけだ。脅えていてもしょうがないよ」
確かに、鈴瑚の言うとおりだ。鈴仙はひとつ、ゆっくりと息を吸い、吐いた。私はここに、思い出に浸るために来たわけでも、トラウマに潰されるために来たわけでもないんだ。
鉄扉を押す手に、清蘭と鈴瑚のそれが重なった。
ぎぃ、と扉が痛々しく軋む。
「……………………」
足音を立てることすら憚られる静謐が、口を開けた。そこに待ち受けるのはもう明るい校舎ではない。コンクリート打ちっ放しの、二十万平方メートルちょっとの只っ広い空間だ。高い天井に並ぶ無機質な白色LEDが、この巨大な地下室を冷やし続けていた。
油断無く、ゆっくりと確実に、三人は歩を進める。
空気で満たされているはずなのに呼吸ができない。いやそもそも、ここはイメージの中なのだから呼吸の必要すらないのだけれど、それでも息苦しさがつきまとう。細胞すべてに染み着いた恐怖が、自らの故郷に戻ってきたことを知り、がなり騒いでいる。
ここは地獄そのものだった。物音を立てただけでも迫撃砲の餌食になりかねない。見知った顔が弾けて物言わぬ肉塊になる。その死体は訓練後に生徒自ら処分しなければならない。親友を誤射する兎もいれば、宿敵をわざと撃つ兎もいた。この世の苦痛のすべてが詰め込まれていた空間。一挙手一投足を誤れば即座に致命傷を負うプログラム。この学校を、この部屋を生きて出ることができたのは幸運に過ぎない。嵐の中の蝶みたく、物陰で息を潜めてじっと待っていたから、悪夢をやり過ごすことができたというだけだ。
宇宙みたいな、棺桶みたいな部屋の中心に、果たして彼女の背があった。
「――!」
三人は視線だけで、発言ログを残すことなく、接敵したことを互いに確認する。
呼びかけようとして、思い留まった。ほんの一言を送信したその瞬間に、額を撃ち抜かれるかもしれない。理不尽で意味のない妄想だとしても、鈴仙にはそのイメージが振り払えなかった。それは一種の畏敬の念であり、また後悔そのものでもあった。
きっと鈴瑚にとっても清蘭にとっても、その感覚は拭い去れるものではないだろう。けれど鈴仙にとってはまたひとつ違う意味を持つ。あそこに立っているのは、彼女が裏切り、捨てて、逃げ出した背中だからだ。
穢れ無き月面戦争。握り潰された作戦。遺棄された月面車。
永遠に冬眠しているはずだった。死ぬまでそうなっているはずだった。そこから逃げ出した自分は、もう彼女のことを忘れてしまいたかったのに。過去は無慈悲にその清算を求めていた。見捨てたはずの仲間が、あの日と寸分変わらぬ姿で、そこに待っていた。
たぶん、泣くだろうと思っていたんだけど。鈴仙は耳の波長を僅かに調整し、合わせた。思ったよりも、いま、私は平静だな。
「――なるほど、そうか。八意殿の独立回線とは。それをすっかり失念していたな」
彼我の距離、十歩ほど。
一分の隙も無く戦闘服を着込んだ、完璧な背中がこちらへと振り向く。
「その使用許可が下りるほどに、お前たちがあの御方と懇意になるとは思わなかった」
「単なる僥倖です。私ってば運だけは良いもんで。ていうかそもそも、貴方が月兎側の回線を全部ブロックしてるから、要らぬ骨を折ることになったんですよ、隊長」
鈴瑚の言葉を、彼女は僅かに手を挙げ、遮る。
「もはや私は隊長ではない。イーグルラヴィは解体され、私の名は名簿のどこにも残っていないだろう。その呼び方は不適切だ」
「でも隊長は隊長だし。じゃあ、教官?」
「いや、もっとだめでしょ」
鈴仙は清蘭の軽口に応えてからようやく、目の前の相手の目を見返す決心をした。
はしばみ色の強い瞳が、掌ふたつ分だけ上から、鋭い光を放っている。
「……八意様の名において、月都への即時投降を勧告します。朧帆、貴方の行いは常軌を逸している」
イーグルラヴィの元隊長――朧帆は、月の頭脳の御名を耳にしても、その顔色をいっさい変えることは無かった。
鼓動が逸る。肩が震える。三人とも、それ以上何も言えなかった。眼前に立つ兎は、並び立つ者の無い伝説だ。月兎の間で知らぬ者などいない。一介の兎でありながら、月人に近い地位まで登り詰めた英雄。綿月姉妹の厚遇を受け、月都防衛隊の運営と人事に発言権を有したただひとりの兎。
訓練兵からは、彼女は尊敬と畏怖の念を一手に集めていた。防衛学校の教官は、少数の月人とそれを補佐する人工知能から成る。けれど例外的に、優秀と判断された月兎がその立場に立つことがあった。長い防衛学校の歴史の中でも、その栄えある役目を任じられた者は十指に満たない。そして朧帆は、五百年以上に渡り教官に在り続けるという唯一無二の記録を保持している。
彼女を打ち倒せる月兎兵は、月人の科学力をもってしてもついぞ現れなかった。
まさしく、最強の兎兵。
月人よりも多く生徒を殺し、また月人よりも高効率で精鋭兵を輩出しつづけた。
つまりは、究極の兵士。
月都最強の兵ということは、地上にこれを越える兵は存在しないということだ。
ここで殺されるということはない。あり得ないことだと、そう頭では分かっている。しかし一方で、朧帆は不可能を容易く可能へ変える。鈴仙は、月兎兵たちは、そのことを純然たる事実として知っている。彼女に関するあらゆる伝承のみならず、実際の記録と記憶がそれを証明する。
ならば、ここで自分たちを始末することも、もしかしたら。
「――拒否する。作戦行動の完遂まで、私は拘束も処分も受けない」
静かに、涼やかに、彼女はそう宣言した。
その声だけで心臓が縮みあがる。最優先のミッションは失敗に終わった。火を見るより明らかな結果であり、そもそも元より失敗を前提に組みあげられた交渉だ。けれど、そうだとしても、朧帆に異を唱えるという行為そのものが鈴仙たちの脳に大きな警報を響かせるのだ。
なんとか最初に言葉を取り戻したのは、やはり鈴瑚だった。
「ですよね。豊姫様の発出した殺処分ミーム、もう一万回くらい防いでるんでしたっけ。いやぁ、いくら貴方がバケモノだからって、限度ってものがあるでしょ」
いつもの口調を崩さない鈴瑚だが、送信ログの端からは隠しきれない緊張の波が漏れ出ている。
「それで、いったい誰の命令で動いているんです? 地上人の殲滅を主張する急先鋒は片手じゃ数えきれませんが、それにしたってこのやり口は乱暴に過ぎる」
「朧帆、八意様は命令者の情報を要求しています。開示してください」
交渉における立場はもちろん対等だ。けれど場面と容姿が学生時代のままなのが、非常にやりにくい。否が応にも当時の権力勾配の中へ放り込まれてしまう。
この空間は夢でも現実でもない。言ってみれば単なる通信回線である。ただし月人が相互のテレパシーを通わせるためのものであるから、その容量は膨大だ。地上の人間が科学で作り上げた通信網など比較にならない。これを月人は月兎通信に割り込ませることができる。鈴仙たちは、永琳に会談の場を用意されてここにいるというわけだ。
「…………ククク」
押し殺した笑い声が、朧帆のものであることに気づくまで、暫しの時間が必要だった。
笑っているのだ。あの血も涙も無い教官が。
「いや失敬。感動してしまったよ。銃の構え方も知らなかった頃から指導してきたお前たちが、いまや交渉人として私の前にいるんだからね」
「そいつはどうも。貴方にそこまで言わせることができたなんて、光栄ですよ」
仰々しい芝居がかった仕草で、朧帆は右方を指し示す。いち早くその先を確認した清蘭が、驚きを素直に発言ログへ追加した。
「た、隊長。これは」
「いやなに。久しぶりの再会を祝するのに、これくらいの一席は用意してもいいだろう」
そこに現れていたのは、中華風の円卓だった。さらには四杯の珈琲まで湯気を上げている。
「口を付けるかどうかは君たちが決めればいい。どうせ思念空間なんだしね」
「あの、朧帆、私たちは」
「無駄だと思うよ、鈴仙」
鈴瑚の言葉の意味を問い質そうとした鈴仙が、振り向いたとき。
「……え?」
そのときにはもう、自分は椅子に着いていた。円いテーブルに、すでに等間隔に皆が座っていた。
「うーん、まずいことになってるねぇ。もう八意様の殺処分ミームを心配するどころじゃあなくなってきた」
「どういうこと?」
鈴仙の両脇で、仲間たちが小声で言葉を交わす。公開チャットだから声を落とすことに意味は無いのだけれど、それでもついそうしてしまうのだろう。
鈴瑚の言う「まずいこと」について暫し考え、やがてその意味を理解した。これは八意永琳が朧帆に要求し開いたチャンネルであるのだから、本来であれば朧帆には思念空間に手を加える権限など与えられていない。けれどいま、彼女は容易くそれをやってのけた。
つまり、誰かが朧帆へ永琳に拮抗できるだけの権限を与えている。
「……あらためて、勧告内容を伝えます。朧帆、貴方の継続している作戦行動は、月都の意図とはかけ離れています。地上の被害は極めて甚大です。すべての攻撃行動を即刻停止し、月都へ命令者を開示してください」
真っ直ぐに正面から、謎の月兎兵を見据える。
彼女は瞬きすらしない。作り物のような薄い笑顔が、湯気の向こうで揺れるばかりだ。
朧帆が搭乗していると思われる月ロケットが、地上へと無差別爆撃を開始し、すでに二時間以上が経過した。未知のプロセスをもってして彼女は地上の最新鋭ミサイルを無数に複製し、間断無く地表へ浴びせ続けている。
地上の民の科学力、すなわち軍事力では、地表を焼き尽くす神の舟を衛星軌道上から墜とすなど不可能だった。月の情報網には各国から悲惨極まりない戦況が伝わってくる。
月都がもしも本気で地上人と戦争を始めたのなら、おそらくは同じような形勢になるだろう。あらゆる抵抗を踏み蹂り、奇跡の確率すら奪い去った上で、完膚無きまでに種の存在ごと消し去るはずだ。万にひとつだって人間に勝ち目など無い。
問題は、これが月都の意図するところではない、ということだった。月人にとって、地上でどれほどの大絶滅が起ころうとどうだって良い。しかしそれが、コントロールできない出来事であるのなら由々しき事態である。
この宇宙において、月の民の手に負えない出来事など、あってはならない。
なぜならば、そんな事態がもしも起こるのなら、裏で糸を引いているのは。
「――開示を拒否する」
朧帆は宣言する。
冷徹に。酷薄に。
凄絶に。簡潔に。
「私は作戦行動を完遂する。生まれた意味を果たす」
「八意様の開示要求を?」
「そうだ。開示を拒否する」
三人は目を見合わせた。困惑、そして狼狽があった。朧帆がなんでもないかのように述べた言葉は、しかし意味するところは非常に重い。
月人は月兎に対する命令について、誰であっても変更、または取り消すことができる。これらは基本的に匿名で行われるが、より上位の者であればその発出元が誰であるのかを照会することが可能だ。権限の階位は命令内容や兎の所属によって多少の変動がある。しかし八意永琳のそれは、地上に放逐された現在においても全権域において第二位だ。
つまり、月の頭脳による開示要求を拒否できる存在は、実質的にひとりしか残っていない。月都の最高権威たる月夜見、そのひとである。
「何がどうなってるんだ……?」
鈴瑚の狼狽も無理はなかった。月夜見の地上に対する態度は中立である。保護においても浄化においても、必要以上の口を挟もうとはしない。それどころか、そもそも月夜見から直接になんらかの命令が兎へ発出されること自体、ここ数百年は無かったはずだ。
となれば、月夜見の指令と考えるよりも、鷹派の誰かが自らの権限順位を書き換えた可能性のほうがまだ高いのだけれど。
「作戦行動の、最終目的は?」
鈴仙の問いを受けて、朧帆はカップを取り、啜った。
「分かりきっているじゃないか。今さらなぜそんなことを確かめようとするんだ?」
「憶測で決めつけたくないんです。貴方の口から、ちゃんと聞くまで」
「ならば答えようか。それは無論――全球浄化だ」
全球浄化。
その言葉の意味は。
「無茶だ。不可能だ!」
鈴瑚からの思念データが乱れる。その感情は、その身体イメージすら震わせるものは、恐怖か、怒りか。
「貴方がご存知かどうかは知りませんがね、私と清蘭は一度試したんだ。だけど浄化用ウォーカーを持ち込んでも、山のほんの一角すら浄化できなかった。それを……地球全体で? 無理に決まってる。ミサイルを何万発撃ち込んだところで、そりゃあ地上は焦土と化すでしょうけど、完全な浄化にはならない」
月人の定義する浄化とは、まったくの無生命状態を指す。動植物はもちろん、細菌やウイルスすらも死滅した環境。それは表の月をはじめとした、地球以外の太陽系岩石惑星の環境を指しているのとほぼ同義だ。
「地球上に存在する命を、ひとつ残らず殺すなんてこと、できっこないんだ。それにそんなことをしたら、貴方自身だって只じゃあ済まないはずだ。だって、完全浄化の対象には―月兎も含まれる」
「た、隊長、私たちも……殺すの?」
清蘭のいっそ無邪気な反応が、却って鈴仙の頭を冷やした。同胞を手に掛けることを、今さら朧帆が気にするとも思えない。
月人だって、現在の地球に対して完全浄化が困難なことなど百も承知だ。ゆえに鷹派の最右翼であっても、そんな夢物語を吹聴したりはしない。月を穢し得る種である人間と妖怪の根絶を主張するのがせいぜいだ。
それなのに、朧帆は首肯する。すでに結果は見えている、と言いたげな落ち着き払った薄い笑顔で。
「殺すことになるだろう。お前たちも、そして私自身をも。私は与えられた令を成し遂げる。これまでもそうしてきた。今回もそうするだけだ」
「夢物語だ。いや、もはや狂人の妄想か」
椅子を蹴り、鈴瑚は円卓に背を向ける。
「回線を切ろう。もはや何を言っても無駄だよ。もう、朧帆はかつての隊長じゃあなくなってしまった。力づくでも止めなきゃ。せめて、私たちの手で」
「止めるって、どうやって?」
「少なくとも、八意様や綿月様は私たちの味方だよ。稀神様もきっと」
「好きにすると良い。私はただ、任務遂行の障害を排除するだけだ」
「それなら好きにさせてもらいます。最低限の情報は得た。長居する必要は無い。私にとっても、貴方は排除すべき敵になった」
「鈴瑚! ちょっとそんな」
ログアウトを始める鈴瑚を、清蘭が慌てて引き留める。
けれど、鈴仙は立てなかった。まだ、確かめていないことがあった。どうしても、元隊長に答えを貰わなければならないことが。
「……麻流は、どうなったんですか」
鈴瑚も清蘭も、その名を目にした瞬間に、思わず固まる。
「月面車の中に、麻流はいなかったと聞いています。貴方と一緒にコールドスリープしていたはずなのに」
麻流。ここにいない五人目のイーグルラヴィ。鈴仙が置いて逃げた、もう一匹の月兎。
「彼女は――」
ゆっくりと珈琲を啜る音が、ノイズめいて生徒たちのログを乱す。
「――別の任務を与えた。そして果たした。だからいま、私はこうしてここにいる」
「……くそっ!」
「嘘、だって麻流ってば、あんなに隊長のことを」
「知ってて利用したに決まってる。あいつなら、敬愛する隊長様のために喜んで死ぬだろうさ」
「私が、逃げたからですか?」
鈴仙の呟きは、確かな波紋となって、広大な訓練室の隅まで広がった。
「私が、あのとき、月から逃げたから、皆を捨てたから、だから、貴方は――」
――貴方は、壊れてしまったのですか。
それは第一報を知ったときから、鈴仙を圧し潰しそうになっていた疑念だった。見捨てた仲間が冷凍睡眠から蘇り、狂ったように地上を攻撃している。犠牲者の全貌は未だに把握されていない。きっともうそれどころではない。想像を絶する邪悪が生まれてしまったのだ。もしかしたら、それは。
「私のせい、ですか」
渦巻く恐怖から、言葉を絞り出す。全身、毛細血管、そこかしこで、後悔が蛇のようにのたうっている。
違う。こんな結末を望んだわけじゃない。予想なんてぜんぜんしていなかった。私はただ、虚無に飲まれることが嫌で、死ぬまで眠り続けることに耐えられなくて、ただそれだけだったのに。逃げたかっただけなのに。
自分の逃亡が、この事態の引き金だったとしたら。
「……何を言い出すかと思えば」
鈴仙の葛藤を余所に、朧帆はすらりとした脚を組み替える。
「思い上がるんじゃあない。お前が逃げたくらいで、私の信念は毛ほども揺らがない」
「で、でも! 私は任務と仲間を見捨てたんです」
「その通りだ。それで、だから何だというんだ? それはお前の惰弱を証明する材料にはなる。だがそれ以上でもそれ以下でもない。私にとっても、イーグルラヴィにとっても、月都にとっても、宇宙にとっても、取るに足らない事象だ」
それは。
その言葉は。
もしかしたら、鈴仙がずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。けれど、いまそれを聞いても、少しも嬉しくなんてなかった。救われた気持ちになんてなれやしなかった。いっそ恥ずかしくて、悔しくすらあって、その原因を彼女は理解できなかった。
固まった鈴仙の代わりに、清蘭の発言がログを更新する。
「隊長の信念って、なに? 任務遂行?」
はっとした鈴瑚がログアウトを中止し、円卓に就き直す。
たしかに思い返してみれば、朧帆がそんな言葉を口にしたのを、聞いたことがない。月都への忠誠以外に彼女を動かすものがあるだなんて思えなかった。これが月面戦争の最中で聞いた言葉なのであれば、まだ理解は容易かっただろう。けれどいまは違う。彼女を動かしているものは、おそらくは月人ではない。
「お前はときに誰よりも鋭いな、清蘭」
さも愉快そうに、最強の月兎兵は喉の奥で笑う。熱に浮かされたようにも、鈴仙には見えた。いついかなるときも冷静を保っていたかつての隊長とは、やはりどこかが違う。
「ここでは虚飾が難しい。発露した心情が容易くログに残ってしまうからな。私も細心の注意を払ってはいたんだが、そうか、そこが漏れてしまったか。これは難しいな。これを見越してお前たちが送られてきたわけだ。流石に八意様の差配は格が違う」
奇妙なほどの饒舌が、広大な部屋を占有していく。学園よりも広い、世界まるごとが収まりそうな地下空間を、朧帆はたったひとりで埋め尽くそうとしていた。
「私は、生まれた意味を果たしたい。ただそれだけを、千年間ずっと願っていた」
「生まれた意味、って」
鈴瑚と同じく、鈴仙もその返答を飲み込むまでに時間を要した。まさか、精鋭中の精鋭の口から、そんな青臭い言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
しかし、あるいはその激情こそが、朧帆の本性であったのかもしれない。冷徹な仮面の裏側にそれを隠したまま、彼女はずっと生き残り続けてきたのかもしれない。
「我々月兎が月に住まうようになった理由を、お前たちも知らないはずはないな。むかし地上で、天界へ昇るべく修行を積んでいた兎は、行き倒れた老人に恵む食料を見つけられず、自らの血肉を差し出した。神の化身であった老人はその献身の徳を認め、兎を月へと上げた。だから月兎は神に身命を捧げるため、月都にて生きることを赦されたのだ。そう、月兎なら誰でも、物心付いたときから耳にタコができるほどに聞かされる伝承だよ。だから月兎はそうやって生きて死ぬものだと、大半の者たちは受け入れている。だが私は、少しだけ違った。原初の兎の物語を聞くたびに、私は――羨ましかった。火中に身を投げたその兎のことが、羨ましくて仕方がなかったんだ。いっさいの躊躇いもなく命を絶ったその瞬間のことを思うだけで、激しい嫉妬を覚えた。その兎はきっと、知っていたんだ。自分の命が、ここで同胞を月に上げるために在ったのだということを。自分が死ぬことで月兎という存在が生まれると、知っていた。いや、悟っていたと表現したほうが良い。生まれた意味がそこにあり、身を焼くことでそれが果たされる。それを悟っていたから、兎は躊躇わなかった。一片の後悔も無く、満足とともに命を差し出したんだ。私はその事実が、ただただ羨ましかった。だってそうだろう。お前たちも分かるだろう。今際の際にある月兎の、息絶えるその瞬間には、必ず苦痛と後悔の念が現れる。寿命による死だろうと、自殺だろうと他殺だろうと同じだ。『なぜここで死ななければならない』、『まだ死にたくない』、絶命の瞬間は誰もがそう呻く。絶望の泥の中、暗闇で窒息し、恐怖で平静を失いながら。いっさいの命に例外が無いことを、精神波長が見える月兎なら知っているはずだ。きっと命あるものはそうやって死ぬようにできている。生命が希望によって生かされているのなら、死に際に希望が引き剥がされてしまえば、残るのは絶望だけだからな。だが満ち足りたまま死んだ原初の兎は違う。そこに何の違いがあったのか、私はずっと考え続けた。私も自分が死ぬときには、そのように在りたかったんだ。辿り着いた結論は、願望の強度だった。心の底から、真の意味で、命と引き替えても果たしたい望みを持ち、そしてそれを実現できるかどうかだ。生まれた意味を果たす、とはつまりそういうことだ。鈴瑚、お前は私を狂人と評したが、それこそ私の望んだ姿だ。『そのためになら死んでも良い』と狂うことのできるものを、待ち続けていたんだ。そして月都からの指令ですらも、それを満たすものになり得ないと気が付いたのは、もう二百年以上前のことだった。けれどそれでも、私は待ち続けたよ。月人から与えられないとしても、より大いなる者からなら私はそれを頂けるかもしれない、と。そして――」
瞬間、周囲が暗転する。訓練室が消失して、三人は重力定義のない空間へ放り出される。
咄嗟に強制ログアウト処理を始める。大規模な環境書き換えは、いくら仮想空間上といえども致命的になり得る。おそらく朧帆は、ほんの一瞬だけ、永琳以上の出力で空間の管理者権限を奪取したのだ。最悪の場合、朧帆が永琳へ殺処分ミームを送信する可能性すらある。それは、それだけは、なんとしても回避しなければ。
「――私は手に入れた。千年待ち続けて、ついに成し遂げた。月兎兵としての究極の指令、全球浄化を拝命したのだよ。地球を生死無き星にする。この宇宙より穢れという概念を滅する。そのために必要な力も、情報も、私は受け入れた。これほど満たされた気持ちになったことはない。もはや確信している。信仰は不要だ。真実しかここには無い。私は、これを為すために生まれたのだ」
強制ログアウト処理による強烈な目眩と吐き気で、鈴仙は正気を保つのが精一杯だった。暗黒から意識が引き上げられるその瞬間まで、朧帆の声は悪夢の中の交響曲のように響き渡っていた。
「……よくやってくれたわ。丁重に運んで」
担架に乗せられた三人の月兎を、八意永琳は神妙な面持ちで見送った。
疲労の色が濃い面持ちで、月の頭脳は痛む頭を抑える。思念通信を乗っ取られかけたことによる物理的な痛みはもちろんある。しかしそれ以上に、進行している事態の深刻さに頭を抱えてしまった。
どうしていま、それもこんな大きな規模で。
「それで、結局のところ、いま何が起こっているんだ?」
永遠亭の客間の沈黙を破ったのは、八坂神奈子だ。
その背後には、八雲紫が不遜にも隙間に腰掛けたままこちらの出方を窺っている。
外の世界において急遽勃発した月面戦争のことを、両名は問い質すつもりで訪れていた。普段なら使いの者を寄越す立場の彼女たちが、わざわざ直接乗り込んできたのである。両名とも外の世界との繋がりは未だに深い。月との間で大きな事件が起こったと知れば、その裏を確認せずにはいられないわけだ。
「月の民の仕業ではない、と仰ったな。それなら、誰がこんなことをできると?」
「これから申し上げることは」
ひどく冷たい声だ、と永琳はどこか他人事のように感じていた。
「未だ推論に過ぎません。しかし、実際に発生している事象の規模と目的、そして今し方の交信内容を総合すると、ほぼ事実であろうと思われる内容です。きっと貴方がたが満足する内容ではないでしょう。貴方がたが対処できる事件でもないでしょう。ですが、私としても、皆に知ってもらったほうが良いかと思います」
「何を?」
「貴方がたが絶滅する理由です」
「……は?」
「豊姫、依姫。聞いているんでしょう。顔を見せなさい」
永琳が上げた声に、襖が開く。するとその向こうが、明らかに永遠亭ではないモダンな邸内へと接続されているではないか。そして固そうな床の上に、綿月姉妹が座していた。豊姫がその戸をもって月と地上を繋げたのだ。
「八意様」
口を開く姉君の、その表情には一抹の困惑が混じる。
「伺ってもよろしいでしょうか。何故、地上の者にそこまで伝えるのです? 何の意味があるのか、私どもには図りかねます」
「私の第一義が、姫様をお守りすることだからよ。そのためならば、どんな相手の協力でも取り付ける」
「地上の民が、戦力になると?」
「お言葉ですが、彼らでは今回の絶滅事象にとても太刀打ちできません。もしも私と姉上で阻止できないのであれば、行く先を見守るより他には」
「そうではないの。ただの大量絶滅なら、姫様は悲しむでしょうけれど、でもそれだけのことよ。だけどいま起こっていることはそれではない。お前たちも、あの面霊気の舞を見たのなら分かるでしょう」
予想外の言葉に、神奈子の眉がぴくりと動いた。
面霊気、と言ったのか、いま?
「舞台が整えられてしまったことに気づけなかった。向こうが上手だったわね。すでにツクヨミはトコツネへの道を開いた。そして刃が地上に舞い降りようとしている」
「……ツクヨミが、トコツネを害そうと!?」
「いったい何の話なのか分からない。私たちにも分かるように話していただきたい」
苛立ちを隠せなくなった神奈子が卓に拳を打ち付ける。
背後の紫が、何かを察したように扇へ顔を隠した。
「心して聞きなさい。地上の者たちよ。穢れの中に生き、身体の中で生き、感情の中を生き、呪われし頸木と生きる者たちよ。生命とともに在ることしか赦されぬトコツネの子らよ」
願いとともに、永琳は言葉を紡いだ。
月の民が何かを願うということはまず無い。数百、数千、あるいは数万の宇宙を見てきた彼女たちにとって、物理法則の中で発生する事象のほとんどは演算可能だからだ。地上へ降りてからの千数百年、月人を辞め肉体に戻ってからの永遠亭での生活。その中にあっても、不便こそあれ祈りは不要だった。不平こそあれ願うことなんてしなかった。
けれど、こればかりは。
「真なる月面戦争が始まりました。これは月と地上の民同士の諍いではありません。貴方がたはおろか、月の民すらもこの動乱の前ではただ祈ることしかできません。大元を辿れば、月も地球も、太陽も銀河も、そしてこの宇宙すらも存在しないほど遠い遠い昔からの因縁。生命を赦す存在と、生命を拒む存在の衝突です。すべての生命を、貴方がたがただ生きているというだけのことを、決定的に赦せない者。それが今回の首魁にして実行犯です」
こればかりは、事態の収束をただ祈るより他に無かった。
真の月面戦争と定義されるこの事象も、本質的には避けようの無い大災害と等しい。誰が生き残ることができるのか。あるいはそもそも、誰かひとりでも生き延びることができるのか。その予測は困難であった。
「この地球史に限ってでも、それは過去九度の絶滅事象を引き起こし、地上の穢れを洗い流そうとしました。最後の事象、六千五百万年前には、小惑星の軌道を操作することで大絶滅を起こしましたが、それでも全球浄化は果たせませんでした。いま起こっているのは十度目です。そしておそらく、今回の事象はこれまでとは一線を画しています」
そして、この推論が正しいのであれば。
永琳も、そして輝夜も、蓬莱人が滅される可能性がある。
「地球に生きる生命は、いくら滅ぼしてもやがてその勢力を取り戻してしまう。戦になぞらえて考えると分かり易いでしょう。最前線の兵士を何度全滅させても、限りなく後詰めが送られてくる。それならば――」
「敵国の王そのものを討てば良い。と、そういうわけね。面倒なことになりましたわ」
紫がぱちりと扇を鳴らす。
「永琳、ひとつ伺います。ひとは十年に一度の災害には備えられる。百年に一度の災害にも準備の良い者なら備えるでしょう。しかし千年に一度の災害になると難しい。一万年あるいは十万年に一度の災害ともなれば、存在すら知らないことがほとんどです。そして一億年に一度の災害には、打つべき手立てすら見つからないでしょう。ならば此度の一件は、何年に一度の災害かしら?」
「……ひとつの宇宙が弾けて、そして熱的死を迎えるまで、平均して10の10^150乗年を要するわ」
ただ風が吹くように、言葉にすれば簡単な時間を、永琳は言葉にする。
ひとつの原子が瞬いて、それがただ震えるだけの時間が積み重なって。
ひとつの砂粒が転がり、それが流砂となるまでの時間が積み重なって。
ひとつの街が生まれて、それが廃墟と化すまでの時間が積み重なって。
ひとつの島が隆起して、それが大陸に育つまでの時間が積み重なって。
ひとつの恒星が灯って、それが燃え尽きるまでの時間が積み重なって。
ひとつの銀河が回って、その大渦が消えるまでの時間が積み重なって。
ひとつの宇宙が弾けて、その光と熱が消え失せるまでの時間となれば。
終末を迎えた宇宙に残るものは、原子にも満たない亜粒子が、情報を何ひとつ構成しないままに散乱するだけの虚無だ。物質と呼べるものはもはや無く、ダークエネルギーすら消費し尽くし、あらゆる意味でゼロしかない空間。究極の真空の中では、イベントなど何も起こらないままに永劫の時間が経過していく。
「けれどそんな世界でも、数千兆年に一度、まったくの偶然に、意味のあるものが構成されることがある。キャンバスの上に絵の具をぶちまけて、凱風快晴図ができあがるくらいの確率でね。ほとんどは生まれた瞬間に散失してしまう。けれど、その水子たちが何千兆も積み重なると、奇跡的に産声を上げ、成長を始めるものが現れる。虚無の世界に、ゼロの宇宙に、有が生まれる。そうしてそれは極大インフレーションを引き起こして、新しい宇宙が弾けるの。そこに至るまで、熱的死からさらに10の10^200乗年。私はそのサイクルを、ずっと観察し続けてきた。おおよそ十八億四千万回ほど繰り返しているわ」
月の民とは。
あの貴きひとびとは。
ただ旧い神だというだけではなかった。地上の生命たちと、存在規格の何もかもが違うのだ。彼女たちは、旧宇宙から未来宇宙まで、気の遠くなる時間の演算と観測を続けている存在なのだ。
「その私が断言します。真なる月面戦争は、今まで起こったことはない。私が見てきた数々の宇宙において、ここまで差し迫った危機は無かった。いずれ起こるだろうと予測はされていたのだけれど、ツクヨミの意志は私たちにも推し量り難いの。だからきっとこれからは、貴方たちの尺度では到底御しきれない事象が矢継ぎ早に起こる」
宇宙の死すら超越して存在を続ける者たちが、生命圏の破滅という可能性に言及するなら――。
「衛星軌道上にいる者は、さしずめ王に差し向けられた暗殺者といったところです。この任務を遂行させるわけにはいかない。あの月兎だったものは討ち滅ぼさなければならない。しかし干渉は大変に困難です。通常用いられる月兎の処分方法はすべて無効化されており、また地上の武力の類も単純に通用しません」
――定命の者たちに、いったい何ができるというのだろう。
月の頭脳が口を閉じると、もう誰も何も言えなかった。八坂神奈子が気圧されて言葉を失うなど、いつぶりのことだっただろうか。彼女は多くの信仰を得て、数え切れない奇跡を成し遂げてきた、紛れもない大神である。けれど此度の一件の前では、一国の神程度の存在ではあまりにも矮小に過ぎるというのだ。そんな事態が自分の眼前で繰り広げられることなど、想像すらしていなかった。
歯噛みするように、次の言葉を紡ぐ。
「では、どうすると?」
「地上の兵器が無力なのであれば、月の兵器を使います。豊姫、説明をお願いできるかしら」
「……師が、そう仰るのであれば」
豊姫はまだその顔に困惑を浮かべていたが、すぐに卓上へホログラム映像を展開した。
「先に断っておきますが、これは五分五分の賭けです。我々は地球が惑星の形を保つことのできる上限ぎりぎりの火力を朧帆へ放射します。あれがそれで燃え尽きればよし。しかし彼女をこれで焼ききれる、と断言することは難しい」
「惑星の、形を……。月の科学力とはそれほどの?」
「地球圏を構成する物質すべてを蒸発させる程度の火力も用意できますが、それでは意味がありません。難しいのはあれを討つことよりも、貴方がた生命のための環境を保存することですので」
抽象化された地球と月ロケットの立体映像が、ゆっくりと回転している。神奈子はそれを、呆気に取られたまま眺めていた。
いったい、何を始める気なのだろうか。
「私と依姫とサグメで状況を開始するのは二時間七分十三秒後。端的に言えば、檻に閉じこめたうえで極限の熱を加える。地表面への被害が最小限になるよう、人間が都市防御のために構築したレイライン構造を利用します」
「龍脈? そんな大層なものが残っている場所って……まさか」
「有効なのは、直径二百から五百キロメートル規模、構築から数百年以内の、現在も効力を残しているレイライン構造。この条件を満たすポイントは地球上にはひとつしかありません。この直上を例の舟が通過するタイミングを狙います」
立体映像の球体に、光の柱が生える。
月ロケットを捕縛する檻。その設置場所を認めて、ふたりは息を呑んだ。
「――関東平野。江戸城ね」
「待て。待て待て待て。何をするつもりだ?」
「我々にできる最後の対抗策です。これが失敗した場合、月都は現存生命圏及び太陽系天体の守護を放棄し、八意様と輝夜様、そしてトコツネの保全に全霊を注ぐことになります。……師よ、それでよろしいですね?」
「…………えぇ」
永琳は目を閉じたまま、何かを飲み下すような声で答えた。
不気味なほどに静謐な空気が残されて、竹の揺れる葉音がさらさらと客間を抜けていった。あまりにも日常的すぎて、現実感のない空間だった。白昼夢でも見ているのではないか、と神奈子は思わず考えてしまう。その無駄な思考の糸を慌てて引き千切って、彼女は豊姫に食ってかかった。
「想定される東京首都圏への損害は?」
「損害、とは? どうして貴方がそんなことを」
「いや、そりゃあ、上空で馬鹿デカい花火を打ち上げるんでしょう? 人的被害やら建造物の全損半壊やら、とにかく作戦区域に当たる街がどうなるのかってことよ。決まってるわ」
「あぁ、成程。貴方は人間の信仰を得て生きるものでしたね。しかし――それは聞かないほうが良いと思います」
「そんなわけにいくものか。今でこそ薄れたとはいえ、かつては私に信仰を向けたものたちの末裔だ。気にかけるのも当然のこと」
「それならなおのこと、知らないほうが幸せだと思いますが……仕方ありません」
超然とした言葉がホログラムを貫いて届く。空気も何も揺らさずに届く。
月の民は、眉ひとつ動かさずに宣言する。まるで初めから決まっていたかのように。
「関東平野内に存在するものは強烈な光熱により蒸発し、なにひとつとして残らないでしょう。持ち出したいものがあるのなら、状況開始までにお願いします。たったいま、あと二時間を切りましたので」




