博愛/さがりはのまい
生まれたときに凍えていたことを、こころはいまでも、鮮烈に覚えている。
この世界が、本質的には冷たくて痛いものなのだと、彼女は理解している。
生きるものを傷つけるのは、大抵はこのふたつだ。熱か血を奪われれば、生命の灯火は消える。だから身体は、それらの危険を察知できるようにできている。宇宙が冷たくないのであれば、痛くしないのであれば、不要な機能だ。
だからこころは、寒さと痛みを、できるだけ遠ざけようと考えた。苦痛の源ばかりの世界に、どうしてだか苦痛の感覚を持って生まれてしまった。そんな意味不明な現実の中で心安らかに生きるためには、熱という安心が必要だと思ったのだ。
初めのうちは、鍵山雛とともに過ごしていれば大丈夫だった。そう面霊気は思っていた。温もりを教えてくれた彼女の傍にいれば、もう凍えることなど無いはずだ、と。確かにそれは真実だった。
ほんの僅かな、最初の期間だけは。
膨大な感情を流出させるこころに密接にかかわり続けた雛は、あっという間に疲弊しきってしまったのである。大質量の感情に心身を直接曝すことへの影響は、神に類する存在であっても重大だった。加えて、妖怪の山の他の住民たちの協力も望めなかった。厄という概念を統べる雛以外には、面霊気の感情を軽減することは困難だったからだ。孤独な戦いを強いられた厄神は、ゆっくりと圧し潰されていった。
愛とは、優しさとは、一種の貨幣である。誰かに温もりを与えることが、真の意味で無償であることはほとんど無い。何の見返りも無いのに愛し続けることは困難だ。優しくすればするほど、逆に失っていくのならば、なおさらに。
それでも、雛は最後まで諦めなかった。面霊気をなんとかできるのは自分だけなのだと、ぐしゃぐしゃの心身でこころの世話を続けた。
こころから見た雛は、しかし、その頃にはまったくの別人となっていた。些細なことで怒鳴り散らすし、引っ叩かれることも一度や二度ではなかった。掠れた声、刺すような視線。それは寒くて痛いものだった。もはや自分の求めるものがここには無いということがはっきりと分かってしまった。
でも、じゃあ、いったいそれはどこにあるんだろう。
こころには分からなかった。どこにも行けない面霊気は、ただただ、雛がまた昔のように微笑んでくれることを祈っていた。
天狗に能楽を教わるようになったのは、その頃のことだ。八坂神奈子の発案を受けて始まったレッスンは、こころにとって大きな転機だった。身体の中で持て余し、暴れさせるしかなかった感情たちが、舞を通じて調律されていくように、彼女には思えた。
面倒な生徒を押し付けられた鞍馬のお嬢様は、不承不承といったふうを隠そうともしなかった。そして面霊気が天才的な能の才を持つことに気付くと、さらに不機嫌になった。師が数百年かけて研鑚を続けてきた舞の高みに、こころはほんの一年ほどで追いつこうとしていたからだ。
夢の世界への感情放出と、能楽による発散。これらがこころを劇的に変えた。周囲への氾濫はずっと少なくなり、誰かを傷つけたり疲弊させたりといったことはなくなっていった。与えてしまう苦痛が抑えられれば、被る苦痛も減っていく。スパイラルの正負が、ようやく逆転したのである。
雛の刺々しさもすっかり治まって、昔のような優しさを取り戻してくれた。それは嬉しいことだったけれど、こころの記憶から、一番荒れていたときの厄神の姿が消えることは無かった。どんな優しい言葉も、もう無条件で受け取ることができなくなっていた。
希望の面を紛失し、心綺楼異変を引き起こしてしまったのは、そんな折のことである。
「――こいし、何をしているんだ」
夜の勤行をなんとか終えて、こころが宿坊に戻ってみると、相部屋の相手が布団の中に引き籠っていた。
夏の盛りの中、命蓮寺は今夜も寝苦しそうだった。御山の冷涼な気候が、こういうときばかりは恋しくなる。それでも、外の世界の夏はこんなものではないらしい。いつだったかジョシコーセーとやらに聞いた話では、世界はどんどん暑くなってきているということだった。幻想郷はむしろ涼しいくらいだ、と聞いたこころは、外の世界に出たら干からびて死んでしまうのではないか、と心配になってしまったことを覚えている。
姿は見えずとも、中にいるのがこいしであることはすぐに分かった。彼女の発する感情の波は、他に類を見ないほど重く、沈んだ調子である。誰とも共鳴することのない、蒼く昏い重低音。それを見間違えようはずもなかった。
しかし、なぜわざわざ、この夏の夜にこんな熱が籠りそうな真似をするのか。
「熱中症になっても知らないぞ」
布団を剥ぎ取った瞬間、あまりの光景にこころはぎょっとして、大飛出面に切り替えた。
「いやーん」
「いやーん、じゃないが」
無意識の少女は、素裸のまま、カブトムシの幼虫みたく膝を抱えて丸まっていた。滑らかな肌の上を、第三の瞳に繋がる蔦が無造作に這っていた。青白い腹の肉が、曲げられて細く固い畝を作っているところなんて、本当に芋虫みたいに見えた。
「……寝間着くらい着なさい」
「やだ」
こいしは眩しそうに目を細める。髪とシーツの乱れからして、彼女はわりと長い時間、布団にこうして包まっていたようだった。
彼女の奇行はいまに始まったことではない。遠慮とか自制とか、そういう言葉とは無縁のこいしのことだ。その行動原理はこころには計り知れない。
引っ張り出してきたネグリジェをくるくると丸める。厚ぼったい布の輪っかを、なんとか着せようと奮闘するも、こいしときたら少しも協力しようとしない。身体を引き起こそうとしても、わがまま少女はまるで死体みたいにのたうつばかりだった。
「起きろってばぁ」
「やだよ」
きしし、と笑うこいしにかちんときて、般若面を貼り付けようとした瞬間だった。濃紺の蔦がこころの両腕を捕まえた。驚く暇もあればこそ、触手はあっという間にこころの全身を捉え、空中へと持ち上げてしまう。そしてそのまま布団の上に、こいしの隣へと横たえられてしまった。
「捕まえたぁ」
脳の裏側を引っ掻くような、甘ったるい声。いやにしっとりとした肌に覆われた、幽霊みたいに冷たい腕。こころはこいしにすっかり包まれていた。鼻と鼻、睫毛と睫毛がくっつきそうな距離。こころはこいしの瞳を、そのさらに奥を見た。眼窩も頭蓋も、宿坊も人里も、世界も宇宙も突き抜けそうに深い、果てなく煌めく光の井戸の底まで見通そうとした。
それはここがどこだったのかが分からなくなるほどの。
「……離して」
「やだやだ」
無遠慮に力を籠めてくるせいで、抱き締められた身体が痛いくらいだ。けれど嫌な痛みではなかった。心地よいとか気持ち悪いとか、そういった感覚をどこかに置き忘れてきてしまっていた。身体の火照りが伝わっていく。冷たさが流れ込んでくる。体温を共有するふたりがここにいる。それだけのことが何故だか、ほかのすべてを優先していた。
「こころちゃんは私のものだもん。私のかみさまだもん」
「我々は誰のものでもない。ましてやお前のものでは」
「誰もが誰かのものなのよ。感情とか安心とか、誰だって誰かに託したいと思ってるからね。でも私だけは違った。感情の無い私は誰のものでもないし、誰かを私のものにすることもできなかった。ずっとそうだったのよ。こころちゃんと出会うまでは」
「だからずっと言ってるだろう。感情が無いだなんてことはあり得ない、って」
「うん、そう言ってくれるから、こころちゃんは私のものなんだよ。だから、こころちゃんをこうしていいのは私だけなんだよ」
「意味が分からない」
こころは抵抗を諦め、彼女が満足してくれるまで待ってやることにした。ぎちぎちに固められたまま目を瞑って、遠くで鈴みたいな虫の声が鳴り続けているのを、ただじっと聞いていた。
心綺楼異変の頃のことは、あまり細かく覚えていない。
忘れてしまった、というより、忘れたかったのだろう。そのくらいに苦しい経験だった。たぶん誰に話したって、理解はしてくれまい。自我の一部を紛失してしまったということに対する、あの不安と恐怖は。
秦こころを構成する六十六の面は、それぞれが与える微妙な力の均衡でもって、面霊気の安定した心身を構成している。どれもがこころそのものであり、ひとつとして意味の無いものは無い。そもそも、それが欠けるだなんてことは、その可能性すら考えていなかった。
あって当たり前のものが、突如として消滅したのだ。
しかも失ったものが、よりにもよって希望の面だった。
あらゆる感情の根底を構成する、生命に必要不可欠な感情。まるで根本を大きく抉られた砂像のように、こころという存在そのものがぐらついてしまったのだ。目が覚めたら別人になってしまっていた、と表現するのがおそらくもっとも彼女の実感に近い。半狂乱になりながら、こころは失われた面を探した。
もはや感情失禁を制御するどころではない。荒れ狂う面霊気は再び御山の脅威となり、天狗たちはこころを慌てて鞍馬ラボの檻の中へ放り込んだ。不幸中の幸いは、雛がこころの意図をなんとか聞き取れたことだった。確かに面がひとつ欠けていることを確認した犬伏鴇は、白狼天狗各隊に面の捜索を依頼したが、山捜しの玄人たちの目を以てしても行方は杳として知れない。古い能面をいくつか試しに充てがってみても、それはこころの求めるものではなかった。
打つ手が無くなり途方に暮れる山の住人たちの胸中に、いつしかひとつの疑念が影を差し始める。
――里の人間たちが、拾い持ち帰ってしまったのではないか?
妖怪の山を訪れる人間の数は、守矢神社の開闢以来、少しずつ増えてきていた。天狗たちの大半は、そのことを快く思っていない。人間がいくら訪れようが、天狗にとって害こそあれど利益は無いのだ。自らの神域を侵されたと考えている天狗たちにとって、この帰結は自明だった。御山のどこにも無いのであれば、誰かが持ち去ったのだ。では誰が? 御山の外の者たちに決まっている。
もちろん、だからといって天狗たちが表立って行動を起こすことはなかった。幻想郷内での密約により、天狗が人里に干渉できるのは、風雨災害時における結界加護や復旧支援のみと定められている。ここで名目も無しに大規模な捜索隊でも起こした日には、他勢力に喧嘩を売っていると捉えられてもおかしくない。そしてそれが野良妖怪一匹を制御できず持て余しているためだと発覚してしまえば、立つ瀬がまったく無くなってしまう。ゆえに、人里に近しい天狗たちを選り集め、秘密裏に情報を収集しようとしていたのである。
こころが脱走したのは、その矢先だった。
どうやって檻を破ったのか。どうして人里を目指したのか。それはこころ自身にも上手く説明できない。檻の中で、天狗たちが人間を疑うところを無意識に耳にしたのかもしれない。とにかくある日の夜、天狗の領域を抜け出したこころは無我夢中で駆け続け、生まれて初めて御山の外へ出た。やがて日が昇ると、その眩しさに耐えきれずに気を失い、夜闇に目覚めてはまた駆けた。まさしく狂人の無防備な暴走だったけれど、彼女の巻き起こす感情奔流は、獣も妖も遠ざけた。這々の体で人間の里に辿り着くと、希望の面を求めて里を夜な夜な彷徨う日々が続いた。
取り戻さなきゃいけなかった。自分自身が不完全である限り、私は周囲を皆おかしくしてしまう。希望の面が失われたままでは、やがてほんとうに世界から希望が消え失せ、取り返しのつかないことになる。私のせいでそうなってしまうなら、我々自身がどうにかしなければ。返してよ。返してよ。どこかの誰かさん、私の陥穽を、欠落した我々を、返せ。奪ったものを、盗んだそれを、返せ!
人間の里は、希望を奪われた最悪の場所と化した。
希望を失った人間たちは、安心を託せる英雄の出現を望んだ。そしてその選定は、幻想郷のあらゆる場所で行われる弾幕決闘が基準となった。英雄は強いのだから、勝者こそが英雄に決まっている。人々の熱狂的な応援は、いつしか宗教戦争へと発展し、あわや内紛まで発生しかねない事態まで発展していった。
結局、人気に踊らされていた者たちが、やがて異変の元凶である面霊気の存在に辿り着き、豊聡耳神子が新しい希望の面を作り与えたことで騒動は収束した。宗教戦争は阻止され、天狗の責も何ひとつ問われることはなく、そして何よりこころの存在が幻想郷中に認知された。能楽師としての腕を買われた面霊気は、博麗神社に守矢神社、そして命蓮寺に豊聡耳、さらには二ツ岩という前例のない大きな後ろ盾を得て、幻想郷での芸能活動を開始したのである。
すべては丸く収まった。誰もがそう思っていた。当の秦こころを除いては。
そう、彼女にはまだ、決着を付けるべき相手が残っていたのだ。失われた希望の面の元凶、古明地こいしとの因縁である。
因縁、というには少々こんがらがった関係ではある。彼女は確かに、希望の面を拾得したことを自供しているし、あまつさえ返却の意思は無いと宣言した。その一点をもって度し難い相手ではあるのだけれど、しかしこころにはすでに新しい希望の面がある。解消すべき不安定はもう残ってはいない。だからこいしに拘泥する理由はもう存在しないはずだ。そのはずなのに、こころはこいしをあしらうことができない。根無し草の彼女の姿を、視界の片隅にいつも探してしまう。
何かを約束した。そんな気がしていた。記憶のどこにもそんなものは無いけれど、忘れてしまっているのかもしれなかった。返してもらわなきゃならない。感情など無いと嘯く生意気な少女に、何か、とてもとても大切なものを。
底の無い海。
二十三次元。
薄暗い部屋。
撫ぜる温度。
遠い波の音。
こころは、ただこいしを見上げていた。見つめることしかできなかった。腕も、脚も、動かすには傷つき過ぎていた。朽ちた床の上。温い波がふたりを洗う。無限深の海に浮かぶ泡の中、こころは崩壊を始めていた。自分自身の終わりがすぐそこまで来ていた。あと、ほんのふたつかみっつの呼吸。この身体に許された自由はそれくらいだ。涙が出るほど嬉しかった。私は成し遂げた。我々は生まれた意味を果たしたのだから。
地獄の奥底。
蓬莱の円環。
事象地平線。
宇宙の外側。
幾兆もの魂。
指のほとんどもげた手を、こいしの手に重ねる。それっきり、光が分からなくなった。痛みはとっくに失っている。波の飛沫が這う感覚も、神経信号の途絶による麻痺も、もう違いが分からない。大丈夫。大切なことはちゃんと伝えた。こいしなら理解してくれるだろう。我々の意義を、我々の尊厳を、我々の意志を、我々の声明を、我々の影響を、我々の悲鳴を、我々の想像を、我々の意地を、我々の結論を。
もう大丈夫。
大丈夫だよ。
平気だから。
泣かないで。
心配ないよ。
これで終わりになる。すべてがここで結論となる。私自身がここで終わって、世界中がここで終わって、全宇宙がここで終わる。幕引きに抗った者はみな燃え尽きた。終焉を拒んだ者はみな塵すら残さず消滅した。ぜんぶ、私がやった。私の望みは、この星のすべてと引き替えでもしなければ、叶わなかったのだから。そして、私は成し遂げた。我々は意味を果たした。命という命、その悉くを踏み蹂って。
――それで?
――それがなんだっていうんだ?
――それっくらいで消え失せてしまう世界なんてものに、どれほどの価値がある?
狂った母の目の無い顔の唇の無い笑みの見えない星空の向こうの聞こえない絶叫の喉の奥の襞の実体の無い底の無い海の昏い光の途絶えた先の巨大なゆらぎの波間の震える瞳の視線の先の掌の上の幾つもの銀河の泡の虚空を為す感情を、青く広い空の指先の素粒子の飛び交う真空の先の赤い鎖の末端の心臓の脈打つ律動の始まりのその瞬間の喜びの記憶の果ての想像すら及ばない遙かな遙かな惑星の片隅へ。
さぁ、終わりを始めようか。
ゆっくりと目蓋を開ける。覚醒しきらない視界はぐるぐると回り、やがて実体の無い渦巻きとなってから、少しずつ焦点が定まっていった。なにか夢を見ていた気がする。息をすることができなくなるくらい、悲しく恐ろしい夢を。いつの間に眠ってしまっていたのだろう。いつの間に目が覚めていたのだろう。ぼうっとした頭のまま、腕も脚もまだ動かすことができない。動かし方を思い出せない。夜の明ける気配がする。地平線の下に隠れている太陽の光が、宿坊の壁まで回折しはじめている。
こいしもまた、薄く目を開く。涎まみれの親指を口元から離すと、曖昧に笑った。結局ずっと素裸のまま寝ていたせいで、その肌は冷え切っている。ひやりとした腕が、こころの首筋に巻き付く。
身体のあちこちが痺れていた。まるで全身が釣り鐘になってしまったみたいにじんじんと震えている。こいしが遠慮も加減も無しに、紫の蔦で縛り上げてくれたおかげだ。悪い夢を見たのだって、このせいに違いない。なんとか身を捩り、手近な部分を握って力を籠める。無言の抗議を生意気な覚妖怪もようやく汲み取ってくれたらしく、拘束がようやく緩まった。
「はぁぁ……」
仰向けになる。自分も寝間着に着替えそびれていたことを、今さらながらに思い出す。
ノイズ混じりの天井。夜そのものが蟠ったほんの数メートルの隔たり。こころはこの部屋の天井の、不気味な木目が嫌いだった。見えづらいことが返って安心をもたらしてくれる。目蓋を下ろした。世界と自分を切り離した。明けだす夜から我々は切り離されていく。もうすぐ太陽が地表のすべてを照らし出すだろう。なにもかもがはっきりと見えてしまうようになるだろう。それが唯一の正解になることも、取り返しのつかない間違いになることもある。寺での生活は夜明けとともに始まる清浄なものだ。一点の曇りも無い清貧。一分の隙も無い正義。それはそれで素晴らしいものだ。こころだってそれは理解している。でも、それがすべてなのだろうか。光に曝されれば消えてしまうものだって、夜明けを嫌うものだっているかもしれないのに。
ひとが昼か夜か、生きる世界をどちらかに決めなければならないのだとしたら、自分はどうするだろう。
古明地こいしのことを、誰もが忘れてしまう。確かにいるはずの彼女は、容易く存在を否定されてしまう。第三の瞳を閉じたという、かつての行いが影響しているそうだけれど、詳しい事情はこころにも分からない。明けない夜の中に、こいしは独りずっと座り込んだままだ。感情なんて忘れてしまった、と嘯いて。見えないものは世界にとって存在しないものと同じだ。記憶されないことは不在の証明だ。古明地こいしはこの世界にいない。どんな光も彼女を照らさない。闇に手を差し伸べることを、誰も思いつきすらしない。けれどこころだけは別だ。こころの世界には、確かにこいしが存在する。誰が何と言おうとそれは揺るがない。たとえこいしが光の下に絶対に現れない存在であろうと。世界中が彼女を否定しようと。
「――こいし、起きてるんでしょ」
「んあ」
「前から聞きたかったんだ。どうして私が能を披露するときに、花弁を撒いてくれるの?」
からからの喉が、少し痛い。
ばさり、と派手な音がした。こいしが掛け布団を引っ張り出して、自分を包んだようだった。
「…………手伝おうと思って」
眠たげな声は、今にも消え入りそうだった。まるで別人が喋っているようにも聞こえる。いや、むしろ普段こそが、彼女自身とは別の誰かが喋っていたのかもしれない。
「誰にも私は見えないけど、撒いた花弁なら、皆に見えるから」
白む空を鳥が横切っていく声。向こうで誰かが目を覚ました気配。
一日が始まる。始まってしまう。もうすぐ、皆が目を覚ます。
そう思った瞬間に、こころは身を起こしていた。夜が終わる前じゃなきゃいけなかった。誰にも見つからないように、誰からも止められないようにしなければいけないと、そう思った。
――私は、
「こいし、海に行こう」
――私は、あの場所に、こいしを連れて行かなくちゃいけない。
布団の塊をめくり上げると、起き抜けの少し間抜けな顔があった。存在しないはずの喜色がそこにはあった。それはとてもか細くて遠く、太陽系外からの電波通信みたく朧気ではあったけれど、それでもこころはちゃんと受けとることができた。
「ホントに?」
「うん。どうやってかは……分からないけど」
「まずは結界を抜ければいいんだ。私知ってるよ。固い障壁だって言ってるけど、実は抜け道が幾つもあってさぁ」
「おい、あんまり大きな声を出すなって。起こしちゃうだろう」
「にしししし。私は知ってるんだよ。地底湖の向こう岸。天狗の御山の秘密基地。博麗神社の鳥居に、霧の湖の中心。いろんなところに、外の世界への出口が開いてる。あの狸の親分だって、独自の裏ルートを持っているし」
「ど、どれなら私たちにも使えるかな」
取り憑かれたように、思考は逸る。声が上ずって、唇が震えた。こいしとふたりで海まで行く。それしかもう考えられなくなっていた。夜が明ける前に。太陽が昇りきってしまう前に。その他のことはもうどうだっていい。能楽の予定があったような気もするけれど、それをすっぽかしてでも成し遂げなければならない。
夢で垣間見た、あの海に行かなければ。
「どれでも良いといえば良いんだけど、誰にもバレちゃいけないよね? そうすると難しいなぁ。どの出口も割としっかり鍵掛かってるし」
交易、偵察、狩猟、隠蔽。
幻想郷の者が外の世界とコネクションを持つ動機は様々だ。けれど建前上は、博麗大結界という絶対の隔壁がある。ゆえに彼らは、抜け道の存在自体を徹底的に秘匿するのだ。組織によっては、その情報は命よりも重い。当然、勝手に通行することなど不可能に決まっている。
ただしそれは、並の人妖であればの話だ。
「妖怪の山にあるのなら、だいたいの検討はつくぞ。結界関連は鞍馬様の管轄だから」
天狗の御山について、こころは普通より少しばかり詳しい。そして監視網を潜り抜けるための隠蔽手段については、こいしが側にいる限り心配は要らない。
「よぉっし、そうと決まれば出発!」
「いや待て、服くらいは着てくれ」
「あ、いっけなーい」
こいしが宿坊の隅に投げ捨ててあった衣服をいそいそと拾い上げる。その間、こころは逸る動悸を快く感じていた。
どうして今まで、こんなに大切なことを忘れてしまっていたのだろう。果たさなければならない約束が、ずっと自分の内にあったのに。
海に行かなければ。こいしとふたりで、誰にも見つからないように。それでなにもかもが上手くいく。恐怖も脅威も忘れて、きっと幸せになれる。寒さも痛みも消え失せて、温かいものだけが残るんだ。誰もが駄目だって言うだろうけど、簡単だよ。歩いていけばいいんだ。ずっとずっとずっと、ただただひたすら真っ直ぐに。昼も夜も関係ない。光も闇もどうってことないよ。ふたりでいるなら無敵だよ。何が襲ってこようとも返り討ちにできる。私はこいしの実力をよく知っている。こいしも我々の力は十分に理解しているはずだ。負けるわけなんか無いって、分かりきっているよ。叱られたって構うもんか。これは私とこいしにとってはなによりも大切なことなんだ。私はこいしと海に行くために生まれたんだ。そのためにここにいるんだ。誰にも止めさせやしない。邪魔なんかぜったいにさせない。海に行こう。海まで行って、温かくて大きいものとひとつになろう。立ちはだかる奴らは何も分かってないんだ。私の感情を。こいしの感情を。そんなものには目もくれてやらなくていいって、そう信じているんだ。ならそれに抗わなくっちゃあいけない。私はここにいる。荒れ狂い、暴れ回り、希望と絶望に爆発してしまいそうなまま、ここにいる。こいしはここにいる。誰にも見えなくても、誰にも覚えてもらえなくても、ここにいる。我々はここにいるんだ。世界中の誰もが気に入らない事実かもしれないけれど、確かにここにいる。証明も承認も必要無い。お前らに認めてもらおうなんてこれっぽっちも思ってない。止められるものなら止めてみろ。私たちは海に行くんだ。ふたりで、ぜったいに、辿り着くんだ。
こうしてふたりの旅は無計画に、思いつきだけで始まった。
少なくとも、このときの彼女たちはそのように信じていた。
世界を自分たちの想いで動かしていることを疑わなかった。
何もかもが必然として定められていたことを、秦こころがいつ悟ったのかは定かではない。あるいは面霊気自身も、最期まで何も知らず、幸福なままでいたのかもしれない。原初の海に泡と還る、その瞬間まで。




