赫怒/メメントモリ
岡崎夢美は、苺しか食べない。
これは比喩でも強調でもなく、純然たる事実であった。この十歳の少女は、異常なまでの偏屈さで苺以外のものを口にすることを拒否する。ともすれば食事という行為そのものすら厭う。そのあまりの偏食ゆえに、彼女の身体は歪に発育していた。年に一回はどこかの骨を折っているし、負った傷の治りも遅い。周囲が無理矢理にでも栄養サプリメントを飲ませていなければ、どこかで死んでいてもおかしくなかった。
岡崎夢美は、比類無き天才である。
その頭脳は正しく次元が違う。文字の読み方を驚異的な速度で身につけたと思えば、そこからほんの一年で五か国語の論文専門誌を読解するようになっていた。五歳の頃には、匿名のままオンラインメディアに投稿した反証論文が議論を呼び、査読を経て相手に取り下げさせることに成功している。千ページの辞書を速読により一時間で頭に叩き込む圧倒的な吸収力は、周囲をただただ恐怖させた。幼子が理解不能な言葉で訳の分からないことを言っており、しかもそれがどうやら正しいらしいのだ。人間離れした頭脳で超思考を巡らせている夢美を、正面から受け止めることのできる大人はいなかった。
ただひとり、北白河ちゆりを除いて。
ひいこら言いながら大学院を卒業した彼女は、関東郊外で小さな大学の准教授職に就き、慎ましい独身生活を始めたばかりの頃に、遠縁にあたる夢美の話を聞いた。その頃の夢美は、小学校に馴染むことができずに、一年生の二学期明けから完全に登校を拒否していた。三度の飯すら拒んで、自室で量子力学の最新文献を猛然と乱読している少女。どうにかならないか、と多少場違いな相談を持ちかけられたちゆりは困惑したが、結局は好奇心から夢美に会うことにしたのだという。
「――なぁ、想像できるか? 引きこもりのガキを説教するつもりで出向いた先で、修士論文の発表会がぬるま湯に思えるような問答が始まったんだぜ。ほんの三十分で思い知らされた。目の前にいるのが計り知れない怪物だってな。私が四半世紀に渡って懸命に積み上げてきた知識は、教授の生まれ持った才能の前じゃ塵に等しかった。だから私は……その娘を死なせるわけにはいかないと思ったんだ」
北白河ちゆりは、二杯目のブラックコーヒーをぐいと飲み干して、マグを書類の上へ乱雑に置いた。大学准教授という肩書を差し置いても自由人めいた風貌は、その恵まれたプロポーションと相まって、モデルだとか言われても信じてしまいそうだった。
「あいつは飛び切りの才能と引き換えに、人間として生存するための最低限の社会能力すら無い。運命ってもんがあるのなら、こうして教授と出会ったのは、この才能を世界に活かすために私が選ばれたんだ、ってね」
「はぁ」
随分と惚れ込んでいるものだ。菫子はインスタントのポタージュをゆっくりと啜りながら、生返事を返すことしかできなかった。それほどまでに、ちゆりの語り口は濃いのだ。おかげで、ただの現状説明がどんどん長引いている。
当の教授本人はといえば、まだメッシュチェアーの上で膨大なデータとにらめっこを続けていた。
謎だらけの目覚めから数時間が経ち、すっかりと日は暮れていた。初夏の東京はまだ熱帯夜に覆われてはいないけれど、開け放った窓を吹き抜けていく風は温い。濃紺の夜、東の空には、不気味なほどに大きな満月が摩天楼を縁取っている。
種子島宇宙センターから専用機で戻ってきたというちゆりは、菫子を一目見るなり、なぜだか少し固まった。それは知り合いに向ける視線とも、初対面の相手を見る目とも、どこか違っているように菫子には思えた。なにか、後ろめたさを噛み砕いて飲み込んでいるかのような、役者になりきれない人間の表情だった。
「それにしたってドレミーの奴、仕事の投げ方が適当すぎるんだよ」
この場にいない獏に不平を吐きながら、ちゆりは電子煙草を咥える。夢の支配者は、ふたりを引き合わせてすぐに、自らの治める世界へと姿を消していた。
「ま、お前さんとしても、胡散臭い獏に経緯を説明されたところでまず疑ってかかるだろう?」
「それはまぁ、はい、確かに」
「とはいえ今の菫子ちゃんからすれば、私だって面識の無い相手だろうから、信用の無さで言えばそう変わらんだろうとも思うが。とりあえず保証しよう。宇佐見菫子は無事に第一志望だったこの大学に合格し、この春からひとり暮らしを始めていた。そしてドレミーの引き合わせで、我が北白河研に関わるようになったわけだ」
ドレミーが簡易催眠術を用いて菫子の記憶を精密に遡行した結果、菫子の記憶は高校三年生の十二月で途切れていた。今は翌年の六月だと聞かされて、やはりこれは夢なのではないかと疑ってしまうけれど、一向に目覚める気配は無い。ここが現実だと言われても、どうしても違和感が付きまとう。まるで別世界にでも来てしまったかのような。
「そもそも、私、どうして記憶喪失に?」
「それについては……いやまぁ、順を追って説明していくしかないか」
コースター替わりにしていた書類の束から、ちゆりは一冊の束を取り出し、菫子へ放って寄こす。受け取ったそれの表紙に書かれていた単語に、彼女は眉根を寄せた。
「――プロジェクトマリウス」
「私たちがドレミーと接触するようになったのも、ドレミーがお前さんと私たちを引き合わせたのも、全部そいつがきっかけだった。プロジェクトマリウスは北白河研の花の舞台になる、そのはずだったんだけどな」
それはアポロ計画以来の月面有人探査計画、マリウス・クレーター付近に位置する溶岩洞を調査するミッションの通称である。有人月面基地建設に向けての事前調査が主な目的であるこのプロジェクトは、世界中の天文ファンのみならず、一般市民であっても名を覚えるくらいには大きな注目を集めている。暇なワイドショーは大きく特集を組み、宇宙開拓時代の幕開けだと持て囃していた。
菫子も理系人間の端くれであるからして、人並みの興味とともに経過を見守っていたのだけれど、まさかこんな形で関わることになろうとは。
資料をぱらりとめくる。目に飛び込んできた構造物の図面。書かれているのは、月往復ロケット「パシアスⅢ」の設計図だ。
「なるほど、アトラスの後継機だからペルセウスってわけね」
「このロケットは、何よりも高速化と予算削減を重視して設計されてる。なにせ、月面基地を設営して運営していくために、年間七往復以上の打ち上げが必要と見込んでいたからな。それに最も重要な部分が、エンジン部と司令船、ロケットの頭脳と筋肉と言える部分に包括的に組み込まれている機構、タラリアシステムというわけだ。これぞ、燃料を削減しつつこれまでのロケットとは段違いの加減速を実現する夢の人工知能。打ち上げから月周回軌道到達までの所要時間をたった三十八時間にまで短縮した原動力だ」
「これを、夢美ちゃんが? 図面を見ても何が書いてあるのか理解できないんだけど」
「当然だ。それは本当の図面じゃない。本物はあの娘の頭の中にしか無いんだ。それをなんとか、科学世紀の人間にも理解できる範囲に翻訳して記述してある。でも、菫子ちゃんなら分かるだろう。この機構はな……」
ちゆりは電子煙草を口から離しながら、落とした声でそれを明かす。
「端的に言うなら、これはパシアスロケットを槐安通路へ潜行させるための回路だ」
菫子はマグを取り落としそうになった。
「……天下のNASAが、魔法を使って月へ?」
「おいおい、これはれっきとした科学だぜ。理論があり、反復性も保証されてる。パシアスは実際に、槐安通路を経由して月まで到達したんだ。帰ったらドレミーにも聞いてみな」
―速度を三次元空間で決定するのが距離と時間ならば、それが無い世界を飛べば良い。
夢美の言葉が唐突にフラッシュバックする。そうだ、菫子もその世界を知っている。そこを通って月と地球を行き来した者たちがいることも。もっとも、本人たちは何故だかあまり話したがらないけれど。
「表向きには、タラリアシステムは、推進システムを環境や機体姿勢に合わせて自動的に補正し、最も良い効率で月周回軌道を目指すための機構だ。だが、ただそれだけなら、これまでも同じような人工知能は存在した。このタラリアシステムの革命的な点は、『夢を見る人工知能』を搭載している、ということだ」
「そ、そんなバカな」
「私だって最初はそう思ったが、事実なんだからしょうがない。槐安通路の通行権は、夢を見る者にしか無いからな。それで教授は、そのAIにこれまたけったいな名前を付けた。そこにも書いてあるだろ」
タラリアシステムの中枢を担う、肝心要のAI。
それに与えられた名は、『ドレミー・スイート』。
頭が痛くなってきた。槐安通路に潜行するための人工知能、「夢を見る」という禁断の領域に踏み込んだそれに、夢の支配者と同じ名前を付けるという暴挙。
「いや、いやいやいや」
菫子は頭を振った。
「あの娘、どこでこの名前を? というか夢の世界の存在を、いったいどうやって」
「それが分かれば苦労しないさ。神託を受けたんだろう。そうとでも言うしかない。教授のやること為すこと、万事こんな感じだもの。そりゃあ『夢の世界を飛ぶ』とか言い出したときには、流石にガキの妄想だろうと思ったさ。でも実際に獏の怪物が目の前に現れたんだ。受け入れる以外にどうするね。なぜ、どうして。科学世紀の常識から抜けきれない私にゃ、それは考えるだけ無駄だよ」
「……落ち着いて考えよう。人工知能っていうのは、端的に言えば入力と出力の間にある選択の自動化。既存のデータや学習した傾向で、課題に対する最適解を導き出すためのプログラムに過ぎないわ。それが、夢を見るですって? そんなことあり得るのかな」
「じゃあ、そもそもの話から始めようか。菫子ちゃん、夢っていったい何だと思う?」
「それは……」
睡眠中に脳が整理した記憶の像、と答えようとして、彼女は思い留まった。それでは自分が夢を通して幻想郷に入ることができる現象に、説明が付かない。
答えに窮した菫子に、ちゆりがさらに畳み掛ける。
「睡眠中に見る『夢』。将来叶えたい『夢』。大半の言語で、これらは同じ単語で表される。これはいったい何故か? 答えは単純だ。太古の昔から、人間はそのふたつが同じものであるということに気づいていたんだ。夢の定義はただひとつ、『思い描くもの』。希望、絶望、そしてそれに付随するありとあらゆる感情。それらが意識の内で形作る虚像のことを指す。……これはドレミーの奴の受け売りだぞ?」
目を点にした菫子に、ちゆりは慌てて補足した。
「おほん。夢は必ず、過去か未来のどちらかを映し出す。数秒先、数十日前、あるいは数百年の未来。もしもこうなったなら。あのときこうしていたのなら。夢は常に、そういった願望を反映する。いま現在、この瞬間だけを想定した夢というものは存在しない。現在とは夢の終点であり、同時に夢の起点でもあるわけだ。さて、人工知能が用いるのは、菫子ちゃんがさっき言ってくれたように、既存のデータと学習した傾向。これらはつまり、過去を反映した夢だと言える。ではここに残る半分、未来を反映する夢を追加できたなら? 記録には無い選択肢を、しかし希望を信じて作り出すことのできる能力を付与できたら? そのAIは、自由自在に『思い描く』能力を手に入れ、そして夢を見る権利を得る」
つまり、舞台こそ違えど、菫子がかつてやったようなことを夢美もやったわけだ。夢の世界を経由することで、現実世界の二点を繋ぐ。それがどんなに隔たれた二点であろうとも。
「夢の世界なら、貧弱な推進力であっても月には辿り着ける……んだったっけ?」
「槐安通路には『距離』という物理的な尺度が存在しない。夢の中では認識が全てだ。近くにあると思えば即座に手が届き、果てしなく遠いと感じているかぎりそこへは永遠に辿り着かない。タラリアシステムはロケットの実際の速度を上げているわけじゃあないが、この夢の世界の理を利用することで、結果的により早く月周回軌道へ辿り着く。現実世界での地球=月間の距離は不変だから、科学世紀風に観察すればそれは『速くなった』という結果になるわけだ」
「それで夢美ちゃんがその理論を実証して、ロケットを夢の世界で飛んだから、獏が現れた、と?」
「そういうことになるな。私も最初は度肝を抜かれたよ。なにせ別世界の住人がいきなり目の前に出現したんだ。仰天して随分とみっともない悲鳴を上げちまった。くそ、あの時の記憶をドレミーの頭からなんとかして消滅させたい」
あの獏の得意げな顔を思い浮かべて、菫子は心底ちゆりに同情した。
「ドレミーの目的は、あくまで教授の観察だった。世界の壁を越える理論を弾き出すクラスの頭脳だ。そりゃ奴さんも気にはなるだろうよ。私としちゃあお帰り願いたかったが、私が言うだけで聞き入れる相手じゃなし。教授の方はまったく取り合わないし、プロジェクト自体には手を出さないっていうから、もう反対のしようがないよな。そして、ドレミーが『夢の世界に詳しい学生がもうすぐ入学してくる』と宣った。それが菫子ちゃん、お前さんというわけだ」
つまり平たく言えば、ここは夢の世界を科学的に研究している場所ということになる。なるほど、そういうことであれば、菫子とドレミーがここにいることは意外どころか至極当然だ。
かつて夢の世界を歪めて幻想郷へ出入りしていた菫子に、ドレミーは執拗に介入したものだった。数週間の間悪夢に囚われ続けた、あの悪夢日記の日々にもドレミーは現れ、見守っているんだかからかっているんだか分からない絶妙なスタンスで菫子に絡み続けた。ゆえに獏に対する印象は、夢の理が分からなかった女子高生にとっては、意味不明な説教をする謎の妖怪でしかなかった。
よくよく考え直してみると、ドレミーは菫子を救っていたのかもしれない。しかしそもそも夢を司る妖怪であるのなら、悪夢の原因が獏自身である可能性も否定はできなかった。仲間と思わせる距離には決して立ち入らず、さりとて敵対するわけでもない。まさしく夢のごとき飄々とした女。それが菫子のドレミー評だ。
「夢の怪物と本物の超能力者。夢の世界を熟知するふたりが北白河研に関わったことで、パシアスⅢの最終調整は笑えるくらいスムーズに進んだ。それでつい二日前、プロジェクトマリウスは何事も無く打ち上げシーケンスを完遂。全フェーズを一秒も狂いなく航海を進め、マリウス丘のてっぺんにきちんと着陸した。そこまでは良かった。図られたみたく順調だった。だが――」
パシアスⅢに乗船していたクルーは、月着陸の直後、全員が殉職した。『先客の月面車がいる』との、謎のメッセージを残して。
その事件は、発生から日を置いた今日の時点でも、世界中でトップニュースとなっている。注目度の高いプロジェクトが、完全に予想外の形で中絶したのだ。
「一般に公開されている情報は、生中継されていた映像以上のものは無い。そして伏せられた情報は、科学世紀相手じゃ理解されない。記録していたNASAの連中だって、未だにフェイクムービーを疑っているくらいだ。だが私たちには分かる。襲撃者の正体をよぉく知っている。ほら、こいつが未公開部分の襲撃映像だ。お前さんも、これだけはっきり映っていれば分かるだろ?」
「月兎兵……。どうして?」
映像の中には、五名のクルーを銃撃する月兎の姿があった。幻想郷で月からの脱走兵に会ったこともある菫子が、見間違えるはずも無かった。月兎に槐安通路を貸しているドレミーであれば猶更だ。
「理由なんざ知らん。だがとにかく、対処は必要だ。奴さんはパシアスを奪い、地球周回軌道への帰還シーケンスを開始した。当然、指を咥えて見ているだけってわけにはいかない。音声通信でハイジャック犯との交渉も試みた。けど、月の兵士の対応は想像の斜め上を行った。通信機の前に交渉者が座り、回路を開いた瞬間……」
ちゆりの指が、菫子の眉間を押す。ぞくり、と反射的に全身が粟立った。
「交渉者の脳天が弾け飛んだ。二十万キロの距離も、その間にある障害物も、すべて無視して射殺しやがった。まさしく異次元からの狙撃だ。完全に理解の外にある現象を立て続けに見せつけられて、もはや管制室は恐慌状態だったよ。続けてふたり目の交渉者が同じ運命を辿ると、もう誰も通信席に着こうとはしなかった。だが、管制局長は科学の徒だった。正しく科学世紀の人間だった。頭を撃ち抜けるのは、自分が射線上にいるときだけだ。そう豪語して、強化防弾ガラスで四方を遮蔽して通信回路を開いた。その結果分かったのは、銃弾は眉間から一ミリもない位置から発射されているという事実だけだった」
寸分過たず、正確な致命傷を与える射撃術。月兎兵の想像を超えた技量。
何故だか、菫子は動悸が収まらなかった。自分はそれを知らないはずなのに。
「それで、ドレミーがお前さんに白羽の矢を立てたわけだ。槐安通路の通行経験に加えて、幻想世界における戦闘経験。急を要する事態にあたって、このふたつの課題をクリアできる人材が近場にいたんだからな」
「じゃあ、私は、帰還軌道上のパシアスに乗り込んだ?」
「あぁ。そして敗北し、殺された」
「……は?」
「信じられないだろうが、事実だ。いや、私にもまだよく理解できていないんだが。とにかく、ドレミーの言葉を借りるなら、現実の宇佐見菫子は死んだ」
そんな、そんなはずはない。
じゃあ、今ここにいる自分はいったい誰なのか。死んだのにここにいる私は。
馬鹿馬鹿しい、と笑い飛ばせる。そのはずだった。しかし巨大な虚ろの感覚が菫子を苛む。失ってはいけないものを失った、という絶望そのものの感触。知らないはずのものを、知ることなんてできないはずのそれを、自分は確かに知っている。
そう、私は。
「一度、死んでいる……」
死んだのに、まだ生きている。
生きているのに、死んでいた。
自分自身という矛盾の塊を、菫子は思わずかき抱いた。全身が戦慄していた。覚えてなどいないはずなのに、恐怖が蘇る。脳だとか細胞だとか、そういう表層ではなく、魂の根本に刻みつけられているのだ。
それは圧倒的な絶望だった。肺胞の最後のひとつまで水に侵される感覚。生きたまま脊髄を引き抜かれる激痛。三百メートルの高さから地面に叩きつけられる瞬間。そんなような記憶が、どうしてだか鮮明に残っている。生きたまま味わうことなどあり得ない感覚を、思い出すことができてしまう。
「あ、あ、あああ」
終わらずに、引き戻された。黄泉比良坂を強引に逆行させられたのだ。いまはまだ、そのときではないと。けれどいつかは、その瞬間が再び訪れる。誰もが皆、そこに追いやられる。それに思い当たった瞬間、菫子の中で何かが切れた。堰を切って怒濤の叫声が喉を割った。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!
あれにもう一度呑まれるなんて、耐えられない!
「――落ち着け」
ちゆりの声に、なんとか我を取り戻す。わざとらしいほどの香水の匂い。
「落ち着け。大丈夫だ。お前さんはいま、ここにいる。ちゃんと生きている」
「い、生き、え、あ、あ、あ、生きてる? なんで? なんで? わ、わた、だって」
「いまのお前さんは、夢の世界の宇佐見菫子、ってことらしい。死地に赴くお前さんに、ドレミーは保険を掛けたんだよ。現実のお前さんが殺されたとしても、夢のお前さんがその後を引き継ぐように」
腕を、肌を通して振れる熱が、身体の形を思い出させる。
宇佐見菫子の、自分自身の輪郭。
温かい宇宙、その片隅、埃っぽい部屋の中。
ふるえている、あまりにもちいさな。
「超能力者でも、奴さんを止めることはできなかった。そうなると米宇宙軍のお出ましというわけだ。パシアスⅢは敵性飛翔体と認定され、衛星軌道投入シーケンスに入る前にミサイルで撃墜されることに決まった。ところが――」
甘く痺れるような、香水と電子煙草の混じった匂い。目に見えない繋がりが、ちゆりの首元と菫子の鼻孔の間で糸を引いた。それがほんの少しだけ、身体の震えを鎮めてくれる。
「――それも失敗した。十三時間前と一時間前の二回、計四発のミサイルの直撃判定を受けて、奴はいまなお無傷だ。もはや訳が分からんし、手の打ちようがない。パシアスはじきに地球へ帰還する。正体不明の大量殺人鬼を乗せてな」
ここに至るまで、すでに八人を殺している月兎兵。
いや、自分も含めれば九人か。
冷え切ったマグの中身を喉へと流し込む。もたりとした砂泥のような感触が胃へと下りていった。これが夢であればよかったのに。こんな現実、本当であってほしくなんかない。
――私、やっぱり、まだ夢見てる?
――そうだったら良かったんでしょうね。えぇ、本当に。
ドレミーの困惑顔を反芻する。そりゃあ、夢の支配者があんな物言いをするわけだ。月の住人たちはいけすかない者ばかりだと聞いている。幻想郷であっても月都の存在を知る者は多くない。行ったことがある者ともなればさらに少数だ。その貴重な証人のひとりである博麗霊夢から、菫子は一度忠告を受けたことがある。決して月の民とは関わるな、と。
月都は、科学力も幻想力も、地上のそれとは比べものにならないほど高度だ。ゆえに向こうはこちらを見下しており、無遠慮に入り込まれることを極度に嫌う。その拒絶は潔癖と表してもよいほどらしい。そして、月人が地上へ介入する際には、それは戦乱や災害というろくでもない形で行われるのが常だという。
月兎によるハイジャックと地球侵攻。これはまさしく噂通りのシナリオだ。
「……ドレミーは、どうするって?」
「どうするもこうするも」
ちゆりは両手をひらひらと振り、力無く笑う。
「勝ち目なんざ一ミリも無いから、どこの誰の首を幾つ差し出せばやり過ごせるかを考えておけ、だって」
「荒ぶる神に生け贄を捧げる、ってこと? そんなの前時代的どころじゃないわ」
「私だってそう思うけどな。ここまで理解の埒外にある事態が連発してるんだ。神頼みも案外悪くない作戦なのかもしれんぜ。――お、結果出たかい」
ちゆりの視線に釣られて振り向くと、夢美がいつの間にか音もなく背後に立っていて、菫子の心臓がどきりと跳ねた。
「あー、すまないけど菫子ちゃん、席を譲ってやってくれ。教授は尻の肉が薄すぎて、普通の椅子じゃあ座るだけで怪我をしかねないんだ。お前さんの座ってるその圧力吸収座面が必要なんだよ」
なにそれ、と首を傾げながらも椅子を立つと、教授は滑り込むようにその後を埋めた。
「それで教授、奴さんはどうやってミサイル直撃を無傷で切り抜けたと見る?」
「単純な話。向こうもSM-Xを撃ち返して迎撃した」
手近なパイプ椅子に腰かけ直す。菫子もちゆりも、教授の言葉を飲み込むのに少々時間を要した。
「……どうやって? パシアスにそんな武装は積んでいないのに」
「無から取り出している。直撃の瞬間の光度データの中に、ただ直撃しただけなら発生しえない重力場が僅かながら観測できる」
「うーん、夢から持ってきた、ってやつか?」
助けを求めるようなちゆりの視線に、菫子は曖昧に頷いた。
つまり、夢の世界で作り出したミサイルを現実世界へ出現させたというわけだ。夢と現実の間で物質を移動させることは確かに可能だ。それは菫子自身の経験から、間違いないと断言できる。
しかし。
「それだけでは説明には足りないんじゃないですか? たとえ直撃を回避したって、重力も空気抵抗も無い宇宙空間では、爆裂したミサイルの破片がそのままロケットを破壊する。榴弾みたく」
矢でも銃弾でも、地上で撃てばいつかは地表に落下する。永遠に飛び続けることは無い。だが宇宙へ出れば話はまったく変わる。重力や空気抵抗の影響を受けない物質は、等速度運動を永遠に続ける。他の重力源に捕まらない限りは。
つまり、至近距離でミサイルを破壊したとしても、それでは遅すぎるはずなのだ。破壊前と総質量も速度もほとんど変わらない無数の弾が、ロケットをズタボロにしてしまうのだから。
しかし教授は顔色ひとつ変えない。異様に伸びた睫毛。薄い彫りの唇。憂いを含むようにも見えるその横顔は、奇妙な事実を淡々と紡ぎ続ける。
「デブリは確かに発生している。でもその総量が想定より多い。SM-Xが八基炸裂したんだとしても説明しきれない。だけどこうも考えることができる。ミサイルそのものを具現化できるのなら、その破片だって自由自在に生み出せるはず。パシアスに殺到したデブリに対して、向こうはさらにデブリを生成してぶつけた。すべての破片が衝突軌道を逸れるように」
「……もうここまで来ると夢の世界がどうとかいう問題じゃないぞ。無茶苦茶な芸当をしやがる」
ちゆりは天を仰ぐ。その側で、菫子は胸騒ぎに襲われていた。
襲撃者の能力は、とにかく常識を超えている。けれど、ただそれだけの存在ならば、幻想郷で何人か思い当たる節がある。太古の神。強大な妖。人間の想定外の理で異変を起こす者たち。
確かに厄介者ばかりだけれど、それでも最低限の一線はあった。弾幕決闘のルールに乗っ取って人間と戦うという点は特にそうだ。異変の裏には意志が、要求があった。敗北や譲歩を認めるだけの度量を持っていたのだ。
今回の相手には、おそらくそれが無い。月のハイジャック犯は、何の要求もしてきていない。それどころか対話の意志すら見せず、自分の前に立ちはだかった人間を即座に殺害している。銃弾をワープまでさせる、異次元の戦闘能力を遺憾なく発揮して。
では、無尽蔵の弾を持ちつつ射程も無視できる相手が、法も条約も品位も、弾幕決闘の掟さえも、守る気など微塵も無いとしたら?
夢美は無表情のまま、思考を継続している。ミサイルデブリの数億通りの軌道を、暗算で弾き出しているのだろう。この小さな頭にはスーパーコンピューターを軽く凌駕する神秘の回路が詰まっている。けれど、きっと彼女には分かるまい。月兎の次の一手を考えることはできない。すでに戦争は始まっている。地上の民には抵抗などいっさい許されない、あまりにも一方的な虐殺が。夢美は超弩級の天才科学者ではあるが、軍人ではない。ましてや全知の神でもないのだ。世界史上類を見ない戦争犯罪者との駆け引きなど、できるわけがなかった。
「……つまり相手は、ミサイルを無限に、望むだけ具現化できるってことですよね?」
「そうなるな。それもマイクロミリ単位の精密動作つきでだ」
「そして相手は、距離を無視して通信士を射殺できるだけの能力を持っている」
「そう言っただろ。こっちからは手出しできず、奴さんからだけいくらでも狙撃が――」
ちゆりはそこまで言葉を紡ぎ、そして固まった。そう、思い当たったのだ。思い当たってしまったのだ。菫子と同じ、最悪の可能性に。
「……くそっ!」
ちゆりはスマホを手に取り、しかしどこに連絡するべきか迷った。当然だ。もしこれが真実となってしまうのなら、いったい誰なら対処できる?
「軍事レーダーは……いやダメだ! 奴なら大気圏突入軌道すら省略できる。イージスだって間に合うわけがない。避難させたほうが、いや、でも、今から? どこに、誰を、どうやって?」
慈悲も嘲笑も、対話も論破も、略奪も陵辱も、相手が望まないのだとすれば。
ただひたすら地上の民を消し去りたい。そんな手合いが相手なのだとしたら。
ここまでの情報がすべて真であるならば、取り得る中で最も効率の良い手は。
「――伏せてッ!」
閃光、そして一瞬だけ遅れて、巨大な地鳴りが響いた。
メタルラックが大きく揺れて、いくつかが倒れた。地震とは違う、大気までびりびりと震わせる揺れだ。
続けて二度、三度の爆発。近くのどこかに直撃したのだろう。デスクの上に積まれた紙束が跳ね上がり、あっという間にばらばらになる。
三人にとって幸運だったのは、第一波が直撃を免れたことだった。予測しない不意打ちであったから回避のしようもない。菫子が視界の端でその航跡を捉えていなければ、警告を口にすることすらできなかっただろう。
窓に齧り付くようにして外を見る。
広がっていたのは嘘みたいな光景だった。
「冗談だろ。マジでやりやがった」
ちゆりの声にも、現実感が無い。菫子と思うことは一緒だろう。これが現実だと、信じたくないのだ。
地上十数階から見渡す二十三区の、あちらこちらで噴煙が上がっていた。高層ビルが、高速道路が、商店街が、ごうごうと燃え上がっている。紺色の夏の夜を、白煙がずたずたに引き裂いている。
そしてその隙間を縫って、SM-Xミサイルが落ちてくる。獲物を見つけた猛禽のような急角度で街に突き刺さる。いくつも、いくつも、いくつも。石と鉄と骨が砕かれる音、それが地面を絶え間なく震わせている。
空襲である。そうとしか表現しようがなかった。無尽蔵のミサイルによる、射程を問わない、都市圏への戦略兵器行使。
「降りよう! 地下へ行けばまだ……。くそ、非常階段は」
「だめ、間に合わない!」
空がゆっくりと回転している。そんなふうに菫子は錯覚した。残り少ない夜空の一点、白い不動の光。他の光点は噴煙とともに航跡を描くけれど、あのひとつだけは。
真っ直ぐにここへ飛んできている!
「ふたりとも、目を閉じて!」
サイコキネシスを全力で振り絞って、菫子は窓からふたりを放り出し、そして自分もその後に続いた。他人を飛ばすのは難しい。握り潰してしまわないように細心の集中が必要なのだけれど、いまは緊急時に集中力が上手く働いてくれた。それでも三人分の落下の勢いを殺し、軌道を安定させることだけで精一杯だ。
ふと、振り返った。振り返ってしまった。
隣の研究室の窓から、外を見る学生の姿があった。その唖然とした表情は、街の光景を見たためか、それとも菫子たちが飛び降りたのを見たためか。
視線が交錯した一瞬が、まるで永遠のようにも感じられて。
SM-Xミサイルが飛び込んだのは、ちょうどその窓だった。怪獣の咆哮みたいな爆発音。ついさっきまで過ごしていた部屋が、潰れてひしゃげ、この世から消し去られた。膨らんだ爆炎の中から、研究室だったものがばらばらになって降ってくるのが見える。菫子は慌てて着陸軌道を修正し、硝子の破片から身を守った。
悲鳴と怒号の中、なんとかしてふたりを着地させる。普段なら異常な光景も、この阿鼻叫喚の中では誰も気に掛ける余裕がない。
「教授、大丈夫か?」
「指痛い。たぶん折れた」
「それっくらいいつものことだろうが。行くぞ、とにかく地下だ」
ちゆりが教授を背負い、駆け出す。
それを追う菫子の頭の中に、さっきの学生の唖然とした顔だけがいつまでも貼り付いていた。爆発音が、悲鳴が、空を塗り潰してしまっても、その表情だけは網膜に染みてしまっているようだった。何も知らないまま、あの学生は呑まれてしまったのだろう。巨大で虚ろな口に。
あれがひとつ落ちる度、何人も、何人も、呑まれていくだろう。
身震いする。たとえ何があっても、あれにもう一度呑まれるなんてことは、絶対に嫌だ。




