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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
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敬服/よごしたがりのパパ

 雨は飽かず降り続けて、夜になってもその勢いは衰えなかった。社殿の屋根は雨粒を受けてしゃあしゃあと軽やかな音を立てる。そこから窺える雨足の強さと、建造物全体を吹き抜ける風の匂い。それらは季節を楽しむための機構であるだけでなく、明日の天気の移ろいを察知するための大事な情報でもあった。豊聡耳神子はもちろんそのことを知っている。彼女だけではない。ここにいる者は皆――いや、あの風祝はどうだか分からないが――、そのことを知っていた。この屋根が、雨粒の当たる音にまで気を配られて造られていることも。

 朱杯に口を付け、干す。自分が尸解するより前とは比べものにならぬほど澄んだ酒の味にも、そろそろ慣れてきた。

「ほらほら、もう一杯」

 八坂神奈子が、徳利を神子へ差し出す。応じて杯を両手で捧げ持った聖人を、神は快活に笑い飛ばした。

「其方ほどの者がそこまで遜るなんてね。今日はそういう堅苦しいのは抜きだと言ったでしょう」

「いえ、これは、私なりのけじめといったところで」

「そっか、そっか」

 困ったような笑顔で神奈子は酒を注ぐ。無礼講を口にしながらも、人と神を隔てる境について、あちらも譲る気はないのだろう。

 とはいえそれは神子の方も同じだ。自分は道を究め、いずれ天界へ昇るつもりではあるけれど、さりとて神になる気は無かった。神子の目的は政である。神と対等に渡り合うことができ、人間を間違いなく導いていける存在。瑕疵の無い、唯一絶対の指導者。神子の目指す場所とはあくまで人中にあり、神域とは違う。

 それにしても、ここは新鮮な場だ。再び朱杯の端を吸いながら、神子は周囲を見渡した。

 夜闇の中、小さい車座で額を突きつけ合うようにして、酒を酌み交わすのは四人。しかしいずれも、国体を表に裏に背負ってきた大物ばかりである。

 車座の向かって右、堂々たる威容で酒を干し続けているのが、宴席の主催となっている八坂神奈子だ。そしてその隣で、洩矢諏訪子は野沢菜漬の茎だけを頬張っては、ガムみたいにずっと噛み続けている。あれが正しい食べ方なのか、あるいは彼女なりの汚い、もとい独特な食べ方なのか、神子にも判別が付かなかった。

 そして向かって左、最後の四人目。

「――ふむ、流石は長きに渡って諏訪に座した御神の酒。風味、精緻さ、どこを取っても見事なものだ。舌先から喉越しに至るまで一分の隙も無く、ルノワールのスケッチのように描き込まれている。良き杜氏を引き入れられた。幻想郷への遷座にはご苦労もおありだっただろうに」

 肘掛けにゆったりと身を預け、魔多羅隠岐奈は鷹揚に言った。客分の取る姿勢にしては随分と崩れていて、あれではどちらがここの主人なんだか分からない。

 非礼の誹りを受けても仕方ない格好だが、しかし神奈子はそれを笑い飛ばした。

「いやなに。引っ越し自体はそれなりに骨だったけどね、移ってきてからは楽なものさ。幻想郷での信仰はまだ生きた概念。『パワースポット』なんて言葉に置き換わったりしていないからね。天狗も人間も、信徒は皆私たちに直接の信仰心を向けてくれるわけだ。もはや科学世紀じゃあこうもいかないから」

「なるほどその通り」

 くつくつと笑うと、隠岐奈は杯の中身をちびりと舐めた。口数ばかりが多いが、呑むペース自体は彼女が最も遅い。

 さてもさても、組み合わせも形も常ならぬ酒宴である。全員が全国の寺社に祀られるレベルの大物だというのに、それが人間の平民がやるように粗末な座を囲んでいるわけだ。供されるものこそ最高品質のものだけれど、それを用意したのは神官ではなく、なんと八坂神自身である。いつもなら傍に控えている風祝も、今日はもう床に就いているという。

「あの娘も向こうでの生活は大変だったろうに。とてもじゃないが、科学世紀に馴染む体質ではない」

「まぁ、いろいろあったもんさ。だけど早苗がいてくれなきゃ、私たちだって決意ができなかったかもしれない。ここでならあの娘にも、神と成る道が見える。若い頃の私に似てるらしいからな。そうでしょ、諏訪子」

「あー、似てる似てる。向こう見ずで自分大好きなところとかね」

「お前なあ」

 大神同士の冗句に、神子はどうしたものかと対応を思案する。笑うのも笑わないのも、どちらにしろ礼を失している気がするし。しかし隣の隠岐奈は、手を叩いて笑っていた。

「若い頃の八坂神とは、これはまた。私には想像もつかない。そんなに昔のことを、洩矢神はよく憶えておいでだ」

「忘れるものかい。生意気な小娘が派手に喧嘩売ってきたんだ。あのとき私を射貫いた眼が、今もって四六時中隣にいるんだから。今の早苗は、あの頃のお前の生き写しだよ」

「えぇ、私ってあんなだった? 本当かなぁ……」

「本当かどうかはさておき、想像は容易ですよ」

「むぅ」

 頬を膨らませながら内省を始めてしまった神奈子に、神子は今度こそ笑った。

 灯火が湿った風に揺らめいて、投げかける影もつられてさざめく。燭台は車座の中央に二本立つのみであった。夜闇の中に浮かび上がる四人の姿は、もはや一種の宗教画だ。一目見るだけで、そこらの魔なら退けてしまうだろう。

「――まぁ良い。本題に入ろう。お二人を招いたのは他でもない」

 朱杯を膳に置き、神奈子はついに切り出した。

「面霊気の舞、目にしてどう思った?」

 半分以上残っていた酒を、神子はひと息に干した。

 秦こころの能について、守矢神社から会合の打診があったのはひと月ほど前のことだ。神子は彼女の本体である六十六の能面を製作した本人である。ゆえに、不本意ではあるものの、こころからしたら神子は生みの親のようなものだ。

 これがひとに害しか為さぬ邪悪な妖怪であれば即座に息の根を止めていたところだが、彼女はそうではなかった。それどころか能楽師としてどんどん人気を集めている始末である。加えて面霊気は神子のことをそれなりに慕っているものだから、これを人心掌握のために利用しない手は無かった。

 しかし、感情を操るとされる面霊気の能力が成長とともに強くなっていることを、御二柱は懸念していた。

 事実、春に執り行われた霊夢の婚礼儀の際に、こころの能を久々に鑑賞したけれど。

「あれは……強力すぎる」

 神子ですら、我を忘れてしまうほどに昂らされてしまった。数々の修験を始め、宇宙の知見を遍く修め、舞事の見聞にも通じているはずの聖人が、である。

「いかに舞の高みへ昇り詰めたとしても、心へあれほどまで強い衝撃を加えることができるとは思えません。『感情を操る』という力、額面通りに解してはいませんでしたが、ひょっとすると面霊気は本当に……」

 思うがままに、心を操る。

 大衆の。妖怪の。引いては神々までをも。

「私も同意見だ。あれは舞の技術や完成度がどうこうという域じゃないね。いやはや、恐ろしい存在じゃないか」

 天を仰いで、神奈子は神子の意見に追随した。

「いまはまだ良いさ。踊っているだけだからね。だがあの娘がこの調子で成長を続けたらどうなる? 私ですら、あの舞には心を奪われてしまう。その力を芸以外で、争事の中で行使されたらどうなるか。考えただけで怖気が付くよ」

「ご冗談を。日ノ本有数の神霊がそのような」

「冗談なもんかい。こちとら勝ち目が無いから困ってるんじゃないか」

 諏訪子までもが、お手上げといった風に頭の後ろで手を組んでいる。

「面霊気が本当にその気になれば、幻想郷どころの騒ぎじゃない、天上天下のすべてがあの娘に靡く」

「反逆も難しいほどに、とお考えか」

「抵抗の戦を起こせるならまだマシなほうだね。科学世紀が相手だろうがなんの関係も無い。きっと誰ひとり逆らおうという気も抱かないまま、面霊気の手の中に何もかもが収まる。感情を支配されるというのはそういうことさ」

 そのまま身体だけを前に傾けると、諏訪子は長い舌だけをグラスに突っ込んで、中の酒を掬った。

「だから最初っから言ってたろ。あれはヤバいって」

「そんなことを言ったって、じゃあどうするってのさ。殺してしまうのかい、誰かに良いように利用される前に」

「いやいや、そんなことをしてみなよ。死の瞬間の絶望を、何の制御も無いままにばら撒かれたらどうするんだい。きっとあらゆる生命がそれに引き釣られて、ほとんどはそのまま死んじまうよ」

「とまぁ、こんな風に結論が出ないわけさ。私たちだけじゃあね。だから貴方たちを呼んだ。彼女の根源に近しいところにいた者に、知恵を借りたくてね」

「――いやはや。これは大事ですなぁ。守矢神社の御二柱が、ここまで追い込まれていらっしゃるとは」

 隠岐奈は首の後ろを撫でながら、呵々と笑う。

「しかし、いまの面霊気は安定した環境におります。悪いことを吹き込もうという不貞な輩も、利用しようとする賢しらな者も見当たらない。貴方から見てもそうでしょう、豊聡耳殿?」

「えぇ、まったく。あの子は順調に成長している」

 手酌で注いだ酒が、ぬるりと光る。神子は目を細めた。

 釘を刺しにもくるだろう。この席に座る三柱に、自分を牽制する意思があることくらいは、神子も折り込み済みだ。

「しかしそういった者が、これから現れないとも限らない」

「いかにも。私たちが作った幻想郷は、もはや誰にも制御できない。ゆえに誰が干渉してくるか、予測の立てようが無いのです。面霊気に近づく者に、目を光らせるべきではありましょう。しかしそれ以上の手だてとなると、これはなかなか」

「お前さんたちは、そもそもあれをどう見てるんだ?」

 ごとり、と。

 グラスを置く諏訪子の瞳は、沼のように深く、黒かった。

 ひと呼吸。その沈黙の中、隠岐奈はアルカイックスマイルとともに超然と座っていた。相変わらず、酒にもほとんど口をつけていない。腹芸の場では酒精を嫌うところは、かつての河勝によく似ていた。

 そんな秘神が、どうにも諏訪子は気に入らないらしい。視線に込められた険は、夜闇をいっそう重苦しいものにした。

「あの能面は、聖徳太子が作り、秦河勝に与えたもの。それは間違いないはずだ。ならば、お前さんたちが当事者だと言っていいだろう。生みの親たる者の見解を聞かせてほしいもんだね」

 生んだ覚えは無いけれど、しかしそう素直に口答えが許される相手でも無い。さてどうしたものか。

 隠岐奈が言の葉を紡ぎ続ける。

「見解と申されましても、豊聡耳殿も私も、答えを知る身ではありません。故意にしろ偶然にしろ、あれは我々の与り知らぬところで生まれたもの。ゆえにこれから述べるのは、多分に推論を含んだ意見になりますが、それでもよろしいか?」

「あぁ、構わんさ。只人であっても三人寄れば文殊の知恵だ。ならば神と聖人が四人集まれば、悟りの境地にも届こうよ」

「八坂様がそう仰るのであれば」

 隠岐奈は不遜にも膝を立て、ばしばしと叩いた。

「はてさて、感情を支配するというのは如何にも神にさえ及ばんという力。皆々様のご懸念もまこと当然というもの。しかし、その正体を考察しようというならば、まずは定義しなければなりますまい。すなわち―感情とはいったい何か?」

「ほう」

 顎を指で抓み、神奈子も身を乗り出す。

「たしかに、そこまで考えが及んでいなかったわ。心の内をかき立てるもの、それを意のままにできる力と思っていたけど」

「それを考えるには、まずは能面の製作者たる豊聡耳殿からご説明願いたい。なぜあの面は、六十六でひと揃いなのでしょう」

 まるで教師みたいな物言いをする隠岐奈に、神子は噴き出すのを堪えながら答えた。

「それは人間の感情すべてを網羅するため。すなわち、感情の根源には希望があり、その反対の概念として絶望がある。そして人間は生きて死ぬもの。これにより四つの象限が定義できます―生への希望、死への希望、生への絶望、死への絶望。それらへ喜怒哀楽の四象限をかけて十六。さらに感情が向かう対象として定義されるのは、自分自身、目上の者、対等な者、目下の者の四象限。これをまたかければ六十四。最後に根源そのものである希望と絶望を合わせて六十六と為しました」

「なるほど、枝のように分けて考えたわけね」

「その通り。そして面霊気の本質に豊聡耳殿の思想が残っているのだとすれば、彼女が操ることのできるものは、枝分かれする前の根本にこそある」

「つまり……」

 諏訪子は頭の後ろで手を組み、真っ暗な天井を仰いだ。

 つまりは、面霊気の根幹にあるのは、希望と絶望を操る能力。

「絶望が希望の無い状態とするならば、希望の流量を支配できる力と言えましょう。それではその希望とはそもそも何であるのか。量が可変ということは、それはたとえば水のように、どこからか湧いて出て、どこかへと流れ出ていくものであるはず」

「面白いじゃないか。続けて」

 神奈子の喜色に同調するように、灯火の勢いが強くなった。対する諏訪子は、虚空を見つめたまま考え込んでいる。

「希望の正体については、私にひとつ心当たりがあります」

 首の後ろを揉みながら、隠岐奈は大きくひとつ息を吐いた。

「ところでその前に伺いたい。御三方は赤子と会話したことがおありか? それも産まれる前の、まだ母親の腹の中で目も開かぬ胎児と」

 急におかしなことを言い出した秘神の、その真意を神子は考えあぐねる。いや、考えるだけ無駄なことは分かっているのだが。得てして神とは、人間では到底理解の及ばない思考回路を持つものである。ことに摩多羅隠岐奈のそれは、あまりにも深く、遠すぎる。

「私は話したことがある。障碍の神でもあるところの私は、当代の重い障碍を持つ赤子の身体を貰い受け、人間として生まれなければならない。そのような誓約を自らにかけた。いまここにあるこの身体もそうです。産まれても産声すらあげられず、臍の緒を切られれば即座に死ぬ運命にありました。だから私は、そのような子に問うのです」

――お前は、生まれたいか。

――この摩多羅に、身体のすべてを差し出してでも、生きたいと願うか。

 成程。神子はひとつ理解した。深遠かと思えば急に親近さを感じさせる、秘神の纏う奇妙な雰囲気についてだ。彼女の身体は確かに人間のそれなのだ。しかしその魂は、精神は、守矢の二柱に比肩しうるほどの大いなる高みにある。自分とは正反対だ。人間としての心を保ったまま、尸解により身体だけを強化した自分とは。

「どの赤子に問いかけても、答えは判を捺したように同じです。『私は生まれたい。私は生きたい。何と引き換えてでも』」

「……あんたが、そういうことにしておきたいってだけじゃないのかい?」

「こればかりは信じていただく他にありませんねぇ。私だって、非合意の供物を受け取るほど落ちぶれてはいない」

 ふん、と諏訪子は鼻を鳴らして、グラスへ酒を乱暴に注ぎ足した。

「先ほどの豊聡耳殿の分類に照らし合わせるなら、胎児は生への希望に満ち満ちているとは言えないでしょうか。だから皆、生まれたいと力強く答える。そう答えさせるもの。『生きたい』という願い。それこそが希望。そして人間の赤子は、世界で最もそれを強く抱くもの。―面霊気は、赤子の中から生まれたと聞き及びますが」

「……よく調べたね」

 神奈子は苦笑した。神子にとっては、千四百年前に何度か見た光景だ。調べ上げた事実をここぞというときに突きつける。こういう駆け引きをやらせたら、河勝の右に出る者は無かった。

「すべての感情は、生を願う希望からこそ生じるのです。それは人間だけではない。獣、鳥、虫。そして草木であっても同じことです。希望が足を進めさせる。希望が葉と根を伸ばさせる。希望が心臓を脈打たせる。何と引き換えてでも、生きよと命じる。つまり生命を生命たらしめているもの、それこそが希望であり、感情であるのです」

 この世の至るところに、それは満ちている。

 それは常に生まれては、虚空へ消えていく。

 欲を聞くことのできる神子はそれを知っている。信仰を見ることのできる二柱も、感覚は理解できるはずだ。

 感情、願望、夢幻、幻想。まるで空気のようにそこにあるもの。似ているようで別物のそれらが、しかし希望というひとつのエネルギーから派生しているものに過ぎないとすれば。

「本題に戻りましょう。面霊気は感情を操る。希望が変じたものが感情であるとするならば、その能力の正体として考えられる可能性は、大きく分ければふたつです。内なる希望を自由自在に変質させているか。あるいは希望の絶対量そのものを自在に増減させているか」

「その両方ということもあり得るか」

「ここで重要なのは、後者の能力の有無です。いや、前者だけでも相当の脅威ですが、希望の絶対量を操るとしたならば、その危険性は格が違う。先ほども申し上げたように、希望はあらゆる生命が持つもの。生きとし生けるものの基底概念。しかし、それはいったいどこで生じているのか? 赤子ですらその圧力によって生まれてくるのです。我らを生かしているものの根源は、本当に我ら自身の中に在るのか。それとも――」

 ひと呼吸を入れながら、隠岐奈は諏訪子の視線を見返した。

「洩矢神よ。貴方はよくご存じのはずだ。ミシャグジを肌身で感じることのできる貴方なら」

「……随分と話が大きくなってきたなぁ」

「神の定義すらされていない古代の信仰とは、人々が自分たちを生かしまた殺す『なにか』に対して向けられていた。終わりある生命を生み出し続ける『なにか』があるということに、人々が気付いたときに生まれた。希望がどこからかやってくるのだと、そう思い当たった瞬間に」

 どうしていま、自分たちはここに生きているのか。

 その疑問を自覚したときに信仰は誕生する。世界を定義する強大な存在に畏敬と恐怖を抱く。

 その不安を解消するために具象化する。対話を、意思疎通を試みようとする。

 そうして、様々な神格が生まれる。

「生を駆動させる希望。そしてその根源。そこはこの世の誰ひとり、到達し得ないはずのシンギュラリティです。私はおろか、御二柱ですら手の届かない場所。なぜなら神も仏も、その名付けようもない『なにか』から投影された幻想に過ぎないのですから。しかしいま、その希望の量そのものを操作できる者がいる。そうだとすれば、それは確かに御二柱のお考えの通り、神をも凌ぐ力でしょう」

「つまりあんたは……面霊気がその『なにか』からやってきた、と?」

「あくまで推論です。あの能面に籠められた意味と、知る限りの状況からのね」

 隠岐奈がようやく、朱杯の中身を干した。長い講釈が終わったという合図だ。

 四人が囲む灯火は、いつしか大きく揺れ始めていた。温い風が火を吹き消そうと悪戯するのを、僅かな神気が辛うじて阻んでいる。消える心配は無いだろう。神々がそれを囲んでいる限りは。

 重い沈黙に、神奈子が香物を咀嚼する音がやけに高く鳴った。舌をグラスの酒に浸したまま、諏訪子はまだ何かを考え込んでいた。

 酒精がために、変に頭が冴えていることを神子は自覚した。隠岐奈の話を肴に、ついつい呑み進めてしまったらしい。火照った頭で神子は思い返す。尸解するより昔、かつて河勝がかつて自分に語って聞かせた話を。

――舞事とは、その一挙手一投足の中に万物を宿らせるものにございます。

――それが至る究極の地点に、翁は立っております。

 河勝は能楽の始祖と称される。厳密に言えば、彼は人々の間に様々な形で伝わっていた様々な舞事を総括し、体系づけたわけであるが、その過程で彼はひとつの発見を得ていた。一心不乱に踊る者たちの、その精神に通底する哲学である。

――翁は一であり、また全。宇宙の始まりより前から存在し、この世が滅びても存在します。それに会うことはできませぬ。言葉を交わすこともまた叶いませぬ。我らにできることは、それがそこにいることを感じ、信じるだけ。

――住吉三神、ミシャクジ、塩竈明神。これら神とは翁の垂迹であります。そして舞事もまた、翁の垂迹であるのです。

 ともすれば、彼がいまこうして隠岐奈と合一してここにいるのは、必然の定めであるのかもしれない。

「現状、あれをどうにかする手段は見つからない。生みの親たるお前さんたちにとってもだ。とりあえず、それだけははっきりした」

 首を振る神奈子は、少し消沈したように見えた。

「こいつは、どうしようもないね」

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