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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
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虚脱/わらいたがりのママ

 雨が降り出す瞬間が、こころはあまり好きではなかった。空がぐるぐるする度に、胸の内もぐるぐるして頭も痛む。酷いときは起き上がることすら億劫になってしまう。それに、雨がもたらす湿気は能面にとって良くなかった。水蒸気が面を浸食する感覚は、まるで身体が細かくひび割れていくようにひりひりしていて、それもまたこころを憂鬱にさせるのだった。

 おかげで眠りも浅く、夢見も悪い一夜となった。空が白むころに覚醒してしまった頭は、捨てきれなかった感情ではちきれそうになっていた。妖怪は睡眠をとる必要はないけれど、こころは別だ。夢の世界へ感情を開放するためには、どうしても眠る必要がある。毎晩きっちりと眠くなれれば良いのだけれど、それが上手くいかない日は辛い。余剰の感情に振り回されて、たいていはろくでもない一日になってしまう。

 しとしとと降る雨に、森の木々が打ち鳴らされている。こころは身体をなんとか起こした。自分の身体なのに他人のものみたいだった。無音調の素晴らしい音楽も、聴いているのは自分の耳ではなかった。ぎしぎしと軋む関節をどうにかこうにか動かして、面霊気は自分を世界に突き立てた。視界が傾いたまま安定しない。聞くところによると、この世界は回転する球体らしいので、その速度についていけていないのだろう。

 裏返りそうになる胸を宥めて布団を片づけていると、気配を察した雛が部屋を覗き込んだ。

「おはよう」

「おはようございます」

「ご飯にする?」

「んー」

 返事を濁しているうちに、厄神はふわりと戻っていった。機嫌が良さそうなことに、こころはほっとした。

 自分を自分と認識したこの場所は、こころにとってかけがえのないものだ。人里で活動することが多くなった今であっても、彼女は多くの時間をここで過ごしていた。庵の一角を簾で区切ったこの部屋は、こころのために誂えられた寝室である。快適と手放しで褒められる環境ではない。窓なんて無いから少しじめじめしているし、命蓮寺の宿坊の方がずっと好みだ。けれどどうしてだか、最も安心できる寝床はここなのだった。

「今日は奉納舞なんだから、しっかり食べて元気付けないと」

 こころが迷っているうちに、雛は手早く一汁一菜の朝食を準備してしまった。仕方なく卓袱台につく。立ち上る麦飯と味噌汁の匂い。腹に具合を伺うと、くぅ、と微かな返事があった。大丈夫、なんとか飲み込める。

「いただきます」

 本来であれば、神や妖にとって物理的な飲食は必要不可欠ではない。けれど雛はこうして、しっかりと一日三回の食事を摂る。厄神である彼女は、人間に多く関わる立場であるからと、彼らと同じような生活を送ることを心がけているのだった。

 こころもここで過ごしている間は、彼女の信条に合わせなければならない。能楽師の活動を始めてからは、やはりそれも人間との関係が強い立場だからと、雛の熱意は一層高まった。その意味するところを、こころも理解しないでもない。けれど単純に、食欲がないときに腹へものを詰め込むのは大変なのだった。

 不定期な雨垂れが、ふたりの間の沈黙にぽつぽつと穴を開けていく。

「ごちそうさまでした」

 麦粒のひとつまで残すことなく、綺麗に食事を終えて、手を合わせる。雛に限らず、この山の住人たちはそういった礼儀に厳しい。とくに秋の豊穣神などは、穀物のひと粒ひと粒の中には九十九の神様が宿るのだから、ともっともらしいことを言ってくる。さらには自分がかつて米粒の中にいた頃のエピソードなんてものを滔々と語り出すものだから、こころは眉に唾を付けて聞かざるを得ないのだった。

 土間の水桶で茶碗を洗っていると、雛が茶で一服しながら、上機嫌に話しかけてきた。

「貴方がこうして、八坂様に舞を奉納できるくらいに成長してくれて、本当に嬉しいわ。貴方を預かったころと比べると、本当に嘘みたい」

「……我々がここに来たときの、こと」

 温い水の中で、少しだけ手が止まった。

「どうだったっけ。あまり、覚えていない」

「そりゃあ、そうでしょうよ。だけど大変だったんだから、本当に」

 詳しい話を、こころは知らない。天狗の師匠や白狼たちに聞いてみたこともあるけれど、皆あまり話したがらないのだ。

 自分が覚えているのは、とても寒い場所で痛みに呻いていたこと。朧気な、けれどとても大きな恐怖の記憶だけ。あまり、思い出したいものでもない。

「まぁ、とにかく、御山が上を下への大騒ぎになったのよ。貴方みたいなもの、ほかに例が無かったものだから。――って、ちょっと、漏れちゃってるじゃない。もう、最近は抑えられるようになってきてたのに」

「あ、うう、ごめん、なさい」

 どうも恐怖が溢れてしまったようで、雛がくるくると指を回していた。どういう原理なのかはこころも知らないが、あぁやって流出した感情を巻き取っているのだ。

「はぁ、まぁ良いわ。変なことを思い出させちゃったわね」

「ねぇ、雛はさ」

「なぁに」

「さっき、嬉しいって言ってくれた。私が能楽師として認められて。ちゃんと成長できて。でも」

 茶碗の水気を切り、布巾で拭う。強く、汚れのひとつも残さないように、何度も何度も。

 こんなことを考えてしまってはいけないのに。

 こんなことに気がついてはいけなかったのに。

「もしも私が、いつまで経っても何ひとつ成長しないで、生まれたときのまんまで、そうやって生きているだけだったら、そうだとしたら、雛は」

 彼女は、自分をどうするのだろう。

 これはもちろん仮定の話だ。けれど、自分がいまのようになれなかった可能性は、けっして低くはなかったはずだ。恐怖から逃れられないままの自分は、きっとその放出を制御できない。そしてその影響を誰も良く思わないだろうことも、こころには理解できてしまう。

 もしも、自分がずっとそんな状態のまま、凍え続けるだけの生き物だったとしたら。

 彼女は、自分をどうしていたのだろう。

「…………そうだとしたって、何も変わらないわ。貴方は貴方よ」

 そう口にする雛の感情が、不穏なマーブルを描いていた。雨がもたらす湿気の中で、それはもうもうと濃い渦を巻いていた。

――だめ。

 こころは歯を食いしばった。ここで感情を漏らしてはだめだ。雛の前で、それを形や音にしてしまうことだけは。それだけは避けなければ。

 刹那、雨の音が急に慌ただしくなった。

「秦こころ殿」

 玄関口の前、いつの間にか複数の気配が立っている。

「お迎えに上がりました。守矢神社まで随伴いたそう」

 子供のように高く、しかし堂々としたその声は、こころにも馴染みがある。白狼天狗山間哨戒隊、第三十三番隊。その隊長だ。奉納舞に際して、面霊気を護衛するのは彼女たちの御役目と、いつしかそう決まっていた。

「いま、参ります」

 雛が手に取った、河童特製の耐水羽織に、こころは急いで腕を通した。




 雨の帳が、その重さをどんどん増していく。白く煙る御山を、椛は隙無く睨みつづけていた。面霊気を護りながらゆっくりと飛行する三十三番隊は、風にたなびく雨脚の中を、真っ直ぐに神社へ向けて進んでいく。

 傍目には奇妙な集団に見えることだろう。青い耐水羽織を着こんだこころの前後左右を、天狗蓑を纏った五人の白狼天狗がびっちりと固めている様は、遠目からは未確認飛行物体に違いあるまい。

 先頭を行くは副隊長の犬走竜胆。左右を隊長の犬伏鴇と、新米の犬神葵がそれぞれ固める。新米といっても、季節が三度も巡ればもう立派な隊員である。そして殿を務めるのが椛であり、その傍らには相棒たる犬走桔梗が並んでいた。

「ぞっとしないわね。何度やっても」

 桔梗の声は、囁くよりもなお小さい。白狼の耳はそこらの妖怪とは比べ物にならぬほど良いので、距離をとって小声で会話するだけで秘匿通信の代わりになる。ましてや物心付く前から一緒くたに育てられた椛と桔梗であるから、ふたりの会話は同じ白狼にも聞き取れないほどに声を落としても通じる。それはもはや、ほとんどテレパスの域に達していた。

 雨粒が鼻に入って、椛はすんとそれを啜った。

「あの娘はもう安全でしょ」

「そう言われても、私たちは一番最初のとき、間近であれを見たのよ」

 桔梗の顔色は窺えない。というのも、彼女は天狗蓑の下に真っ黒なゴーグルと迷彩柄のフェイスシールドをぴっちり着けているからだ。本来は屋外で模擬戦闘ゲームを遊ぶ際に用いるものらしいが、桔梗はこれを結界外での任務の際に見つけ、一目惚れして購入していた。高い迷彩効果は警戒任務の際にも有用である、と彼女は鴇に訴え、任務中の着用許可を勝ち取っていた。外来品(この場合は大結界の外で用いられている品物を指す)を好む桔梗の嗜好は、伝統を重んじる傾向が強い白狼天狗の中では異質である。

 多少偏屈だが、いつもは冷静な相棒が、しかし面霊気の護衛任務のときばかりは様子を少し変える。

「あのときほどの恐怖を私は知らない」

 風向きが変わり、横殴りだった雨が真正面から吹き付けだした。ふたりは同時に蓑の頭巾を押さえた。

 面霊気――ということに今でこそなっているが――が御山に出現した際の混乱は、天狗たちにとっても未だ忘れ難い事件である。けれどもはや話題になることは少ない。上層部の者たちは事態の収束後もなんやかやと勝手なことを言っていたけれど、守矢神社が面霊気を気に入りその保護を決めた以上、事を大きくするわけにはいかなくなっていた。良くも悪くも、彼女は幻想郷に住まういち妖怪となったわけである。

 しかし、椛たち第三十三番隊にとっては、あるいは鍵山雛にとっては違う。こころと直接接する機会が多い立場である以上、面霊気の問題は現在進行形である。そしてきっと終結することはないのだろう。

「またあのときみたいに『爆発』したら、その対処に当たるのはたぶん私たちだ。それがいつかは分からない。でも、きっといつかそうなる。無視しきれない程度の確率で。もしかしたら、あのときよりも酷いことになる」

 百年後か、十年後か。

 来月か、来週か、あるいは今日か。

 あのときと同じことが起こる。彼女の抱える尋常でない量の感情が、御山を、幻想郷を、世界を覆い尽くす。全てが絶望し、皆が恐怖し、何もかもが狂う。そんな強烈な爆発汚染が起こってしまえば、世界は、そしてその中心地であるこの山は、自分たちは。

 どうなってしまうのかをありありと想像できてしまうだけの、それだけの恐怖を、桔梗も椛も知っている。

「……考えすぎでしょ」

 睫毛の雨粒を、瞬きで落としながら椛は言った。

「楽観は事故の元」

「楽観してるわけじゃない。私らじゃどうにもならないって言ってるんだ。あのときだって、鍵山殿に頼るしかなかった。目と耳と肉弾戦しか能のない狼じゃ、対処のしようが無いだろ。餅は餅屋だ」

 加えて、椛と雛だけが知っている。あの妖怪が、臨月の赤子を食い破って、その内側から誕生したことを。

 彼女の正体は、椛には分からない。知りたいとも思わないし、考えるだけ無駄だろう。ただひとつ確信できるのは、あの少女の形に納められているものが、途方もなく巨大だということだ。世界中を圧し潰してもなお余りあるほどの想像を超える何か。それを面霊気は背負っている。きっと自分ですら気づかないまま。

「――降下するぞ」

 先頭の竜胆が声を上げ、面霊気も護衛もそれに倣う。無数の水滴の向こう、黒々とそびえ立つ大鳥居が見えてきた。

 もしかしたら。椛は不意に考えた。面霊気の在り方は、妖怪というよりは神に近いのかもしれない。だから八坂神も洩矢神も、彼女に親和性を感じるのだ。

 鳥居の前に降り立つと、傘を差した風祝が出迎えた。

「神域に御無礼仕る。三十三番隊、秦こころ殿をお連れした」

「お疲れさまです。控えはいつもの部屋に」

 天狗蓑を脱いで社殿へ上がる。桔梗も、ゴーグルとフェイスマスクを流石に外した。

 奉納舞が行われる本殿から、少し離れたところに控え室がある。面霊気をそこまで送り届ければ、任務の半分は終えたことになる。

「む」

 ふと、いつもとは違う気配に耳が跳ねる。八坂神と洩矢神だけではなく、もうひとつ大きな存在を、五人全員が感じていた。山の中では見知らぬ気配だ。泰然としている御二柱と比べると、いささか硬度と輝度が高い。乾坤に対して何かになぞらえるなら。

「……金剛石の大柱、とでも言うべきか。凄い自尊心だ」

「風祝殿、今日おわすのは御二柱だけではないのか」

「えぇ。諏訪子様が知人を誘われたそうで」

「知人、ねぇ」

 椛は苦笑した。早苗が言うと本当にただ友人を呼んだだけのように聞こえてしまうが、洩矢諏訪子は古代日本に君臨した土着神の頂点である。その旧神が誘う『知人』とやらが只人であるはずがない。十中八九、御山の警護上の問題を引き起こすくらいの格を持つ存在である。しかしきっと、それが誰であろうと、天狗側には事後報告しかないだろう。八坂神も含めこの神社の神様は、その辺りの手続関係を単なる面倒と考えている節がある。

 鴇にとっても、聞き流しづらい話であるはずだが。

「白狼天狗の皆様は、いつもの部屋に。雨でお身体も冷えたでしょう。心ばかりですが、温めるものも用意しておきました」

「いやぁ、いつも悪いねぇ、早苗ちゃん」

 隊長の外見だけは幼い顔には、脳天気な笑顔が浮かんでいた。どう扱っても面倒事にしかならない話は、とりあえず脇に置いておくことにしたらしい。

 五人がいつもの待機部屋―といっても、土足のままで入る離れであり、半分くらいは物置みたいなものだが―に入ると、その『温めるもの』がずらりと出迎えた。すなわち、大吟醸の一升瓶、ひとり一本である。天狗にとっては命の水だ。

「ま、これっくらいの役得がないとね」

 衣紋竿に天狗蓑をひっかけて、鴇はさっさと瓶を捻り、ラッパで飲み始める。天狗社会において、勤務中の飲酒は別段咎められる行為ではない。

 椛も蓑を脱いだけれど、下衣まで当然のようにぐっしょりと濡れていた。梅雨冷えもあって、身体がかじかんでいることを今更ながらに自覚した。

「火でも起こすか。桔梗ー、火打ち箱貸して」

「火打ち箱じゃない。ジッポ。いい加減覚えてよ」

「意味が伝わるんならいいでしょ。横文字苦手なんだよ」

「おぉ、これ凄い! 見てくださいよ、桔梗様」

 葵が、部屋の隅にある衝立のような機械に、目を輝かせていた。呼ばれた桔梗も、それが何であるかを理解すると興味深げに屈み込んだ。

「オイルヒーターじゃないか。流石は守矢。新しいものには敏感なんだな」

「ちょっと電源入れてみましょうよ。スイッチどこだろ……」

「これだろ。いやこっちか?」

 鴇まで輪に加わり、ああでもないこうでもないとはしゃぎ始める。その様子を横目に、椛は火起こしに種火を放り込んだ。これで着火した炭を囲炉裏に放り込むわけだ。天狗が吹きかける息には妖力がこめられているから、人間がやるよりもずっと容易く炭に火が移る。

 木炭が赤熱しだしたころに、竜胆がどっかと囲炉裏端へ腰を下ろした。蓑どころか装束まで脱ぎ去って、サラシと褌のみの身体からしゅうしゅうと湯気を立てている。

「竜胆様。なんたらヒーターはいいんですか?」

「服を乾かしたいから」

 筋骨隆々の副隊長は、それっきり瞼を下ろして仮眠に入ってしまった。

 言葉少ない副隊長の答えが意味するところを、椛はしばし考える。

 そして囲炉裏の火が完成したときにはたと思い当たった。火を起こせば熱と光と煤が出る。対してあの機械は、熱だけを生み出すのだ。衣服を乾かすには熱と光が必要だから、あのヒーターでは用を為さぬというわけである。

 茶碗に酒を注ぎ、ひと息で干す。これを三度繰り返し、椛もようやく人心地が付いた。気づくといつの間にか、鴇が竜胆の胡座を枕に寝こけている。暖房に関しては副隊長と同じ結論に達したらしい。桔梗と葵はと言えば、まだヒーターで遊び続けていた。何が面白いのかは分からないけれど、白狼にも烏にも鼻高にも、あんな風に外の技術に興味津々な奴はいるものだ。

 水気を払った天狗蓑で一升瓶を包んで枕とし、椛も横になった。遠くで笛と太鼓の囃子が響いて、それに炭の弾ける音が混ざる。いつしか瞼は落ちていた。能の見物も嫌いじゃないけれど、いまの椛にとっては、今夜の夜番のために体力を温存することのほうがずっと大事だった。

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