恥辱/ペーパートリップ
「これはこれは」
猫撫で声に綿月依姫は振り向いて、そしてその声の主を認めると思わず眉根を寄せた。いや、邂逅は予想していたけれど、まさかこんな不意打ちみたいな形になるとは思っていなかった。奴の底知れぬ性悪具合も考慮に入れておくべきだったかもしれない。
「あらあらまぁまぁ、隙間妖怪さん。お久しぶりですわ」
「……………………」
豊姫の声は、その表情とは裏腹に笑っていない。
稀神サグメも警戒の気を濃くした。彼女の方は直接の面識は無いはずだが、しかしこの賢者の危険性は十二分に共有されている。
八雲紫。境界を操作する妖。この幻想郷を成立に至らせた賢者のひとりである。その特異な能力でもって、彼女は月都へ二度の侵攻を果たしている。被害自体は軽微なものだが、複数回の侵入を実行してみせた時点で、紫は月都の最重要警戒対象となった。地上の民には本来であれば不可能な業。文明圏がその技術と精神の総力を結集し、多大な犠牲を払ってようやく到達し知覚できるはずの域。彼女はそこに、自らの異能ひとつだけで手をかけている。
こんな警戒対象は純狐ひとりだけで十分だ。しかし今代のシーケンスではそんな連中がわらわらと湧いて出てくるのだから堪まったものではない。
「まさか貴方がたがお越しになるとは思いませんでした」
「まぁ、ね。他ならぬ霊夢の結婚式ですから。ご挨拶くらいはしても良いかな、って」
扇で口元を隠し、含み笑いをしているのだろう地上の賢者の、その背後に九尾が音もなく現れ、着地する。
いつだったか見た構図だ。依姫は思い返していた。豊姫の横にいるのが自分とサグメでなくレイセンだったら完璧だった。第三次月面戦争、地面に這い蹲って許しを請うた隙間妖怪が、内心では勝ち誇っていたあの場面。それは綿月姉妹には屈辱的な記憶として刻まれている。
「ふふ、そんなに怖い顔をしないでくださいな。別に私は、いまここで月の御方と事を構えるつもりなんてありません」
「どうだか。貴方はどこまでも非常識だからね」
「……………………」
サグメが掌の中に光子デバイスを呼び出した。なにかあれば即座に応じる構えだ。こんな衆人環視の場であっても、一切の油断がならないのが八雲紫という妖怪である。
「酷い話ですわ」
扇を閉じ、紫はあからさまな困り顔をした。
「せっかく式前の霊夢に面会できるよう取り計らおうと思いましたのに」
「……本当に?」
「えぇ。どうせお三方は、祝祭自体に興味がお有りというわけではないんでしょうし」
三人は視線を交わす。図星であった。彼女たちの目当てはあくまで霊夢である。それも祝うために訪れたわけではない。未練の精算、と表したほうが的確か。
依姫が是を返すと、豊姫は紫へ今度こそ微笑みを向けた。
「ではお願いしようかしら。でも、どういう風の吹き回し?」
「恩は売れるときに売っておくものですから」
歩き出した賢者に付き従い、月人たちは歩き出した。サグメはまだデバイスを握ったままだ。
賢者の案内で境内を進む。喧噪から離れて神社の外へ出たときには流石の依姫もいぶかしんだが、一瞬の隙に彼女が開いた隙間で、一行はあっという間に社殿内へと入り込んでいた。
紅白幕が垂らされた室内は、多くの人間でごった返している。婚姻の祝宴を準備するために、呉服屋が動員したのだろう。次々と運び込まれる御祝儀を整理したり、祝祭に必要な品物を運んだりと、誰もが猫の手も借りたそうに忙しなく動いている。
「霊夢、お客様よ」
紫の声に、周囲の人々はぎょっとして振り向いた。
腰掛けた霊夢は、まだ文金高島田を結い上げている途中であり、振り返ることすらできそうになかった。部外者が立ち入ることなどまず許されない場面であるが、そこは空気を読まない賢者のこと、気にする素振りなど噫にも出さずにずかずかと歩いていく。
依姫としても不憫に思わないではない。しかし月の民が地上の仕来たりに従う道理も無かろう。ふたりは紫に促されるまま、白無垢を着た花嫁の正面へ回った。
「久しぶりね、霊夢」
化粧をばっちりと施された巫女―いや、もはや巫女ではないのだった―は、月の姉妹と片翼の白鷺の訪問に目をぱちくりとさせた。
「えーと……誰だっけ」
「ちょっ、嘘よね貴方。月の都にしばらく泊めてあげたこと、まさか忘れたわけ?」
「人の顔、覚えるの苦手なのよ。何ヶ月か会わない相手のことなんて、そうそう覚えてるものじゃないし。あぁ、でも、そっか。月都ってことで思い出したわ」
霊夢の髪を結っていた女房は口をぱくぱくさせていたが、紫に「どうぞ気にせずお続けになって」と促され、震える手で作業へと戻った。
「『泊めてあげた』って、物は言い様よね。あれはほとんど誘拐だったじゃないの」
「月都に滞在することは最上の誉れよ。天人なら地団駄踏んで羨ましがるほどにね。それにしても」
「…………やっぱりね」
サグメの声は、乾いた畳の上を鈴みたく転がった。
三人の月人は霊夢をじっと見下ろす。紅を差された唇が、薄墨で描かれた眉が、物怖じすることなく神々を見返した。障子越しの陽光が、花嫁にぼうっとした影を落とした。
「貴方もついぞ、重力からは逃れられなかったのね」
「え、なに。何の話?」
「別に期待してはいなかったけど、でももしかしたらって、そう思っていたのにねぇ」
月の民の前に座るのは、名実共に地上の民となった、博霊の巫女だったもの。
生きるために己のすべてを投じることを決めた、ただの生命。
かつて霊夢が月を訪れたときには、まだ結論は違ったものになる可能性があった。太陽がいま燃え尽きるよりも低い確率ではあるけれど、彼女はほんとうに、重力を振り切って月まで至るかもしれなかった。少なくとも、綿月依姫はそう感じていた。
残念とは思わない。至極当然の帰結。人間はまだこうあるべきなのだろうし、これが彼女にとっても最も良い選択であることは確かだ。けれど、自由に飛翔し、月の高みまで昇ってくる彼女を、見たくなかったと言ったら嘘になる。
「……よく分かんないんだけど」
唇を尖らせる霊夢は、きっとそこまで理解していないのだろう。
「祝宴前の忙しい時間に、わざわざ嫌味言いにきたわけ?」
「そういうことにしておきましょう」
豊姫がくすくすと笑う。
「貴方の未来に、幸福が訪れますように。月の者であろうとも、未来については予測以上のことはできない。だから、祈り、願います」
「祈るも願うも何も、あんたら神様でしょうが」
「それは貴方たちがそう決めたからだもの」
地に這い蹲る生命たちにどんな未来が訪れようと、月人にとっては同じことだ。たかだか数十年ぽっちの寿命の差。ほんの数世代の子孫繁栄の有無。当人たちにとっては大きな問題かもしれないけれど、光と重力に囚われている限り、そんなものは些事である。このままではいずれ、星とともに滅び去る定めであることには変わりないのだから。
指先ひとつで国家も文明も思うままに操作できる彼女らが、ほんのひとりの人間の幸福を祈ることは、だからそれだけで一大事件である。そうしてしまいたくなるだけの魅力を、かつての博麗霊夢は纏っていた。
「私たちには、ただ待つことしかできない」
白い喉から零れ落ちるサグメの言葉。その言魂によって運命を逆転させてしまう彼女が口を開くのは、ふたつの場合に限られる。やがて訪れる未来の予測精度が九九.九パーセントを越えたとき。もしくは、確定してしまった現在や過去について。
月人は待つだろう。何十万年でも。何百億年だろうと。
砕け散った太陽から生まれた星が、再び光を放つまで。
「どうか貴方が、真なる幸福を見出せますように」
無数の銀河がひとつに融合し、あらゆる光を失うまで。
熱が悉く死に絶えてもまだ、彼女たちは待つのだろう。
―ふと、境内に喝采が湧き起こる。
「…………?」
「おや」
訝しむ月人たちを横目に、紫はぱちんと手を叩いた。
「また誰かが舞台に立ったようね」
「まったく、いつからうちの神社は公会堂になったのかしら」
確かに、先ほどまでも楽隊がなにやら曲を奏でていた。祝宴にかこつけて、幻想郷じゅうの芸人たちがこぞって腕前を披露しているのだろう。まったくお祭り騒ぎが好きな連中である。依姫は呆れ、しかし反対に豊姫は瞳を輝かせた。姉の方は賑やかな場が大層好みであった。
「あれは……面霊気ですわね。能楽を披露するのでしょう」
「あら、舞事! ちょっと眺めてから帰りましょうよ」
「あ、姉上……まったくもう」
すぐにでも月へ戻るつもりだった依姫だったが、豊姫を置いていくわけにもいかず、仕方なしに寄り道に付き合うこととなった。溜息とともにサグメを見やるも、彼女の怜悧な表情は寸分たりとも変わらない。
元の隙間から社殿を出ると、断裂は即座に縮む。最後にひらひらと紫が手を振って、それっきり閉じてしまった。適当な見送りだが、わざわざ腹を立ててやるほどのことでもない。三人はすぐに人混みの最後列に辿り着いた。
「よく見えないわね」
豊姫は言うが早いか浮き上がり、手近な木の枝へと腰掛けた。行儀のよろしい行動ではないが、邪魔な群衆をまとめて消し飛ばさなかっただけましというものだ。
舞台の上には、すでに能面を貼り付けた能楽師。桃色の髪をなびかせながら、ぴょこんと観客へ一礼する。
「…………?」
サグメが目を丸くした。依姫の胸にも引っかかる何かがあった。見上げると、豊姫さえも眉根を寄せていた。
そんなはずはない。あり得るわけがない。
何かの間違いに決まっている。
彼女たちの感覚が、一様に違和を叫んでいた。あの舞台の上に立つものが、あれが引き連れているものが、繋がっているその先、根源。発生するはずのないバグ。まるで桃の枝に生る芋のように、夏の盛りに降る雪のように、明らかに異常な存在だった。しかし、その原因が分からない。表情の無い顔を上げた少女は、人間ではないだろうけれど、地上の妖怪以外の何者にも見えなかった。
よく通る声が、『嵐山』の演目を告げ、謡い出す。
能楽師が、ひと足を踏み出す。
―刹那、
「!!」
海の底が抜けた。暴力的な奔流が、神社の境内めがけて雪崩込んできた。埋め尽くす水は、いや生命は、穢れは。それは光と熱が辿り着く最果てから流れ出るはずの。
サグメが即座に光子膜で三人を隔離する。間一髪の起動だった。光速を超えて動ける月の民であっても、この直撃を回避することは難しかったかもしれない。想定外の場所で、完全に不意を突かれた格好だ。
「いったい……」
筒の中から、依姫は辺りを見回す。海の底に沈んだ神社の境内で、観客たちは舞台へ向けて歓声を挙げている。誰もこの海を感知していない。当然だろう。地上の民とはすなわちこの海の住人であるのだから。空気中の酸素濃度を彼らが感知できないのと同じだ。この感情の熱狂は、月の民の他には知覚できない。
それはいい。ここまでの事実は問題ない。
問題なのは。
「あの能楽師、どうやって」
豊姫の声には、怯えが混じっていた。依姫でさえ足が竦んでいた。
発生すべきではない事象が、あってはならない現象が、いま目の前で起こっている!
「あ、姉上、サグメ、ここは一刻も早く帰還を」
「月へ道を開くにしても、今は無理よ。せめてこの穢れの波が引かなければ。それに」
あまりの生臭さに口元を覆う豊姫は、しかしもうその姿を捕らえていた。
「ご報告する相手は他にもいらっしゃるでしょう?」
目を細めたサグメに続き、視線を追随する。
人垣を越えた先、観客席の中程に、八意永琳は立っていた。荒れ狂う穢れの中、何の防護も無いままで。人間たちと同じように手を叩き、能楽師を笑顔で見つめている。傍らには蓬莱山輝夜、永遠の大罪人の姿。旧き姫君も、やはりこの海に対して何ひとつ防護を施してなどいない。
歯噛みする。こんな光景を見たくはなかった。けれど当然のことでもあった。蓬莱人となった彼女たちがこの海にたじろぐことなど、あるわけがない。
「水が引くまで待つしかないわ。おそらくは、あの演目が終われば消え失せるでしょう。でもそれまでは……サグメ、この結界膜って移動できる?」
「不可能ね。この水圧じゃあ、抗うだけで精一杯よ」
舌禍の女神は断言した。
言葉にしたということは、確実にできないということだ。
舞台の上からは、尽きることなく海が溢れ出している。あの能楽師は、意識的にか無意識かは分からないが、舞うにあたってあの感情流を押し付けることで、狙いどおりの感情へと観客を導いているのだろう。
同じ原理の同調手法は、地上の民であればわりと多くの者が活用している。しかし、これほどまで桁違いに大規模なものは見たことがない。ここまで酷いと、もはや災害と呼べるだろう。芸事で感情を動かすために用いる量としては、あまりにも多すぎる。暗がりで足下を照らすのに、懐灯ではなく灯台を所持するようなものだ。
これが最初の事例だとは思えない。おそらくは彼女が能を披露するたびに、同規模の爆発が起こっていたはずだ。それを月都がまったく感知できなかったなどということは、まったくもって信じ難い。やはり博麗大結界のせいであろうか。
「――滑稽な姿ねぇ」
「!」
ねとり、と粘つく嘲笑。
その女はいつの間にか、依姫の眼前に出現していた。やはりこの水圧の中、何ひとつ防御をすることなく。
「一度あれをお見せしたいとは思っていたけど、ここまでタイミングが良い場面になるとは思わなかったわ。境界の賢者も、まさか知ってて狙ったのかしらん? あの胡散臭い妖怪、どこまで理解しているのかいまいち掴めないのよねぇ」
三位一体の身体のうち、青い地球を模したボブカット。そして祝祭の正装と定めているのだろう純白のキトンとヴェールを身に纏って。
地獄の女神、ヘカーティア・ラピスラズリは満面の笑みだった。
「……貴方、何故ここに。というかよりによってこんなタイミングで」
「訪問の理由は貴方たちと同じ……いや、違うか。貴方たちが人間の婚儀を厭いこそすれ、祝うわけないものね。まぁ、霊夢に会いに来たって意味では同じよ。あの子、巫女としてはぜんっぜん真面目じゃあないのに、神をたらし込む才能だけは天性のものがあるのよねぇ。それにしても、来て良かったわぁ、本当に。こぉんな愉快な光景を楽しめるなんて」
「あれはまさか、貴方の差し金なの?」
豊姫は鋭く問うた。舞台の上、能楽師は権現と化してさらなる喜を振りまいている。
これほどまでに出鱈目な存在が、地上の生命群の中から偶発的に誕生するなどということは、まず考えられない。いくら生命の形にルールが無いと言えど、ひとつ間違えば世界中を狂わせることのできる力が一個の生命に付与されているなんて事態は、突然変異だとしても度が過ぎていた。誰かの意志が介在しているに決まっている。
「そうだったら良かったんだけどぉ」
その第一の容疑者である、月に反逆する女神は、しかし首を横に振った。月の民に偽証が通用しないことを彼女はよく知っている。
「私にも分かんないのよねぇ。発生も系譜も、私が調べてさえはっきりしない。まるで誰かが隠蔽でもしてるみたいに。だから私の方こそ、貴方たちが怪しいと思っていたんだけど、その様子だと違うみたいだし?」
「ではあれはいったい……ってちょっと、ちょっとなにを?」
「悪戯」
ヘカーティアの指が、つつ、と光子膜を撫ぜる。依姫の眼前で、その指の腹に波がよれるのが見えた。
「そんな必死な顔されちゃったらさ、やっぱりこうしたくもなるじゃない?」
「や、止め―」
「えいっ」
ぷつ、と指が膜を破った。途端に依姫を護る筒に罅が走る。そこここで噴射が始まり、あっという間に依姫を穢していく。
「ひ、ひ、ひぃ……」
「大げさよねぇ。元を辿れば、月人だってかつてはこの羊水に浸かっていたというのに。そこまでして生まれ故郷を拒絶する理由、私には理解しかねるわ」
無遠慮に膜を剥ぎ取っていくヘカーティアを、依姫はもはや妨害することすらままならない。あまりにも膨大な穢れの海の底、そこは月の民にとっては想像すらしたくない最悪の汚染地帯である。降着した汚泥。山積した反吐。腐敗した廃液。そこに生身でぶち込まれるようなものだ。
目を堅く瞑ったままその場に屈み込んだ依姫には、もはや威厳など欠片も無く。
「あっはははは! 駄々こねてる子供みたい! ねぇ、見てみなさいよ稀神様。誇り高きお姫様のあのザマ。あー、純狐ってばどうして来なかったのよ。縄かけてでも連れてくれば良かった」
「…………! …………!」
「そんな目で見たって駄ぁ目」
嗜虐的な笑みとともに、ヘカーティアはサグメの防護膜も破壊した。最後の頼みを失い、舌禍の女神もまた大渦の中へ放り出される。地へと無様に崩れ落ちた彼女は、もはや声を抑えるだけで精一杯だ。
「あーもう最高。あの子、予想以上に使えるわ。なんとかして月都でも能を踊らせてやれないかしら」
「……最低」
「貴方の負け惜しみが聞ける日が来るだなんて、昨日の私に言っても信じないでしょうねぇ」
豊姫をも海水へ暴露させ、ついでとばかりにヘカーティアは彼女を枝から蹴落とす。特等席を奪い取った彼女は、窒息した魚のようにのたうち回る女神たちを鑑賞しながら、取り出した小瓶のコルクを引き抜いた。屋台で購入したばかりのワインはいかにもな安物だったが、地獄の女神にとっては最高の美酒となった。




