廉恥/もうにどといのらなくてもすむように
花吹雪が、はらはらと舞っている。
喝采の中で、こころはゆっくりと頭を下げた。春の光が、桜の香りが、輝く風が辺りを満たしていた。『嵐山』という題目を披露するのは初めてだったけれど、これが今までで最上の舞であったと確信できる。跳ね続ける鼓動とともに、しかしこころの精神は不思議と静かだった。鏡のようにまっ平らな水面。面霊気は確かにその上にいて、波紋のひとつも起こすことなく演じきったのだ。
世界がこころに染まって。
こころが世界に染まって。
なにもかもと合一した感覚が、彼女の舞を神域にまで高めていた。一挙手一投足が狙い澄ました通りに、意識することなく動いた。夢のような時間。嘘みたいな舞踏。いったいどのようにやったのか、思い出すことができない。さっきまでの自分が別人みたいだ。唇が震える。とにかく。
「ありがとうございました」
ここまで導いてくれたすべてに、彼女は感謝したかった。
こころの声に、喝采が再び盛り上がった。おひねりがいくつも投げ込まれて、それを若い河童が慌てて回収する。
花吹雪が、はらはらと舞っている。
見上げると、胡麻粒みたいな人影が、とんびのように輪を描いて飛んでいた。こいしだ。こいしが遙か上空から花弁を撒いているのだ。こころが舞を披露していると、彼女は時折こうして現れて、舞台に文字通りの花を添えてくれる。誰もこいし自体には気が付かないけれど、彼女がばら撒いたものには喜ぶのだった。
舞台から降りると、満面の笑みをした河童が寄ってくる。興行主の河城にとりは、その小さな身体で精一杯の背伸びをしながら、こころの肩を何度もばんばんと叩いた。
「いやぁ、良かったよぉ。あの観客の沸きっぷりったらどうだい。お前さんの評判はますます鰻登りになるに違いないね」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。河童たちの尽力が無ければこの舞台は成り立っていない。中でもこころにとって、にとりは付き合いの深い河童というだけではなく、こういう場で積極的に協力してくれる頼れる存在である。加えて仮面製造にも造詣が深く、新しい感情の研究にも一緒に取り組んでくれるのだ。
「それじゃ、今日のおひねりはお面代のツケに当てとくから」
「よろしくお願いします」
こころが買ったお面の代金を、にとりはこうして払わせてくれる。他に金を手に入れる手段なんてこころは知らないから、このことも大変助かっていた。妖怪なので生活に金子は必須ではない。銭も紙幣も、こころにとってその価値はよく分からなかった。だからにとりの言う通りに支払いを続けているけれど、たぶん正しいのだろう。
「いやー、今日は最っ高の一日だ。祝い事だからってんでどいつもこいつも財布の紐が緩いし、神社にみかじめ料を納めなくても良いときてる。こういうチャンスを逃してちゃフリーランスは勤まらねぇ。向こう三年分は稼いでやるぞ」
「にとりさん、ちょっと屋台とかを回ってきてもいいですか?」
「おうおう、行ってこい。ほら、こいつも持ってけ」
「いや、お金を貰っても私は……」
「馬鹿野郎。顔が売れてる能楽師が無銭飲食する気か。芸能の道ってのはイメージが大事なの、イメージが。いいんだよ、儲けのほんの一部だ。これっくらいくれてやる」
「はぁ」
ずっしりとした巾着を押し付けられて、こころは曖昧に頭を下げる。
楽屋代わりのテントを出ると、息苦しいほどの人混みだった。巾着を大事にポケットへしまって、辺りをしばし眺める。屋台の看板がほとんど見えない。代わりに目に映るのは、笑顔と花と青い空。
今にも皆が跳ね回り出しそうな、幸福と祝祭の雰囲気。こんなに暖かい場所をこころは初めて見たかもしれない。まるでこの世界から悪意のすべてが消え去ってしまったかのような春だ。愉快な気持ちになったので、火男面を取り出して被る。さっきまで考えていたこと、何の屋台を覗こうかなんて、忘れてしまった。
鳥居に向けて伸びる参道を、人波に揉まれながら歩く。するとこころは何度も呼び止められた。先程の能を見ていたひとたちが彼女をべたべたに褒めそやすのだ。握手の求めになんぞ応じていると、今度は屋台の売り子たちが次から次へと差し入れを渡してくるではないか。
「わ、っととと」
あっという間に、こころの両手は食べ物でいっぱいになってしまった。困惑とともに猿面がくるくると回った。あちこちからいろんなものが零れ落ちそうになって、どうしたものかと途方に暮れかけた彼女だったけれど。
「――はい。少し持ってあげましょう」
「あ、ありがとうございます。って、聖様」
「先程の舞、見ていましたよ。大変見事でした」
現れた命蓮寺の住職、聖白蓮は、りんご飴とたこ焼きを受け取ってくれた。それでもまだ菓子の中に埋もれているこころを見て、微笑む。
「見ててくれたの? 嬉しいなぁ。今日のは自分でも、よくできたと思うんだよね」
「心を打つ舞でした。貴方を見た誰もが幸福を共有し、喜びを分かち合った。今日の場に相応しい、感動的な光景でしたよ」
「そう? 凄い?」
「えぇ、とても凄かったわ」
「えへへへへ」
思わず福女面が出てしまい、こころはそれを両手で握りしめた。すると抱えていたいろんな食べ物が、地面へどさりと落っこちてしまった。
しまった。慌てて火男面へと切り替えてから、拾い集める。白蓮も「あらあら」と言いながら、それを手伝ってくれた。人形焼きは砂まみれで、かき氷もぶち撒けられてしまったから、もう食べられそうにない。
「ごめんなさい……」
「反省できているのなら良いことです。直情的なところは貴方の美点でも欠点でもある。自分で自分をしっかりと見つめなさい。貴方自身こそが、貴方が最も近く長く付き合っていく他人なのだから」
兎の団子屋の席が空いていたので、三色団子と茶を注文して座った。残ったたこ焼きとりんご飴を、二人で分けて頂くことにする。僧侶の食べるものに蛸が入っていても大丈夫なのか、とこころは気になったけれど、誰かからお裾分けされたものであれば大丈夫らしい。
こころが差し出したりんご飴に、白蓮は指をすいと走らせる。すると紅い玉は見事に真っ二つとなった。包丁も使わずに、もの凄い芸当である。こころは大飛出面とともに、ぱちぱちと手を叩いた。
半分になった飴をかじる。砂糖の甘味とリンゴの酸味が溶け合って、青い空へと抜けていく。手を伸ばせば届きそうな青い壁。誰も触れていない、無垢な陽光。祝祭とは良いものだ。春の温度についての記憶を幸福で上書きしながら、こころは思った。
「貴方も、すっかり大きくなられましたね」
聖の声に、視線を落とす。丸みのある、柔らかな声だった。いつもよりもずっと。
「……背、伸びてる?」
「身体の大きさのことではありませんよ。秦こころという能楽師の存在、それ自体についてです。私が貴方を初めて見たときは、あまりにも痛々しかったから。それと比べたら見違えるようです」
希望の面を紛失していた頃の、暴走していた自分。あらゆる感情に歯止めが利かず、出会うものすべてに希望を見出し、それを奪おうとしていた事件。
当時のことは、あまり良い思い出ではない。こころ自身も荒れ狂う感情に翻弄されるばかりで、心身ともに辛くて仕方がなかった。なのに自分を押し留めることもできず、どうにもならないまま、ただひたすらに暴れ続けるしかなかったのだ。これを異変と見なし、面霊気を抑えるために奮闘してくれた聖のようなひとたちがいたからこそ、こころはいまここにいる。幻想郷のルールを多少なりとも理解してからは、よくあのとき自分が殺されなかったものだと恐ろしくなった。
異変時と比べれば、いまのこころが安定していることは確かだ。無闇矢鱈に喧嘩をふっかけたりすることはなくなったし、幻想郷の中では能楽師としてだんだんと名が売れてきている。
けれど、それは―。
「立派に成長されたと思いますよ」
聖の笑顔は、太陽のようだった。
「貴方は自分で自分を、しっかりと制御できるようになってきている。もちろん完璧ではありませんが、それは誰だって同じことです」
「成長、しているんでしょうか。私には、どうにもその辺が分からなくて」
「十人に聞けば、十人とも貴方の成長を認めるでしょう。もっと自信を持って良いのよ」
たこ焼きを聖が頬張ったので、こころも釣られて口にひとつ放り込んだ。途端に熱い中身が弾けて舌を灼き、思わず大きな声を上げてしまう。耐えきれずに半分を掌に吐き出して、口で息をしながら冷ます。
「いっぺんに頬張るから」
「ひ、聖が平気そうだったから」
同じものを食べたはずなのに、彼女はなぜ平気なのだろう。口の中が鋼でできているのだろうか。彼女は身体強化の法術を得意とするので、猫舌封じの魔法も知っているのかもしれない。吐き出した残り半分を飲み込むまで、こころはたっぷり五分をかけた。
聖と初めて会ったあの夜から、自分は成長しているのだろうか。安定して、変わったのは事実だ。けれどそれは、成長と言えるのだろうか。
いつの間にか、姥面が額に現れていた。
「不安に、なるの……。私はまたいつか、あのときと同じように、暴走してしまうんじゃあないか、って……。あのとき、私は、自分で自分が……分からなかった……。それはいまも、おんなじだから……」
もう二度と暴れることはない。そう言いきれるのならば、それはきっと成長と呼べるのだろう。だがこころには、その自信が無い。むしろ、また繰り返してしまうのでは、という嫌な予感のほうが大きかった。いまの自分が落ち着いているのは、自分が制御しているからではなく、単に波が引いているからに過ぎない。そんな可能性を拭い去ることができない。
「大丈夫です」
燦々と、白蓮は笑う。
「きっと、大丈夫ですよ」
その笑顔は、何を根拠にしているのだろう。
こころはたこ焼きをひとつ、今度は慎重に爪楊枝で割ってから、温度を確かめて口へ運んだ。
「感情を操る方法を、貴方はもう分かっているはず。まだそれに気が付いていないだけなのです。そうでなければ、先ほどのように素晴らしい能を披露することはできません。誰かの心を動かすということは、それほど高等な技術なのですよ」
「そう、なのかな」
言われても実感ができない。感情を制御することと能の間に関連があるだなんて、考えたこともなかった。首を傾げる角度で、腕を振る速さで、喜怒哀楽を表現する技術。確かにそれについてならば、天狗の下でたくさん稽古を積んではきたけれど。
「さぁ、胸を張りなさい。貴方はこれから、もっとたくさんのひとを感動させ、笑顔にすることができる。誰かの希望をより燃え立たせ、誰かの絶望を少し和らげることができる。それはとても尊い力です」
白蓮は濛々と湯気の立つ茶を、ごくりと喉へ流し込む。
「けれど、ひとつだけ肝に銘じておいてください。貴方にはその逆もまた、可能であるということを」
「はい。分かりました」
こころは頷いて、けれど胸の内の片隅で、どこか煮え切らぬものを抱えていた。
きっと、分かってなんかいやしないのだ、本当は。
白蓮は優しいひとだ。皆がそう言うのだから、たぶんそうなのだろう。だから彼女の言葉が心の底からの善意でできているということも、理屈では理解できる。けれどそれでも、噛み砕けないざらざらしたものが、こころの口の中にいつまでも残り続けてしまう。白蓮の説諭が、ときおり別世界の言葉に聞こえてしまうのは、どうしてなのだろう。
理由は分からないけれど、少なくともそれが白蓮のせいでないことは、こころにも分かった。彼女は本当に自分のためを思って言葉をかけてくれている。そこに嘘はきっと存在しない。ということは。
「――聖、ありがとうございます」
きっと、おかしいのは自分のほうなのだ。
我々はまだ、この世界のことをまったく理解できていないのだ。




