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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
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困惑/オーバーターン

 御山に突き刺さった巨大な柱のごとき気配に向けて、ふたりは真っ直ぐに飛ぶ。あらためて正面に捉えてみると、馬鹿げた強大さに遠近感が狂いそうだ。

 何も目に見えてはいない。見えてはいないのだけれど、その絶叫はまるで天まで届く大噴火のようだ。

 自分がどうして、何に対してこんなに恐怖しているのか。雛にはそればかりが気にかかった。この神炎の源にいる何者かを、雛は見ていない。どんな存在かなど微塵も知らない。強大な力を放出していることは確かだけれど、ただそれだけにしてはあまりにも生々しい恐怖を覚えていた。

 死にたくない。言葉にすれば、この感情はそうなるだろう。喩えるならば、爆発中の火口へ赴かなければならない調査員だ。

「貴方の眼に、視えてる?」

「はっきりとは……。だけどうちの隊が取り囲んで、こりゃもう交戦中ですね」

「戦っているの、『あれ』と?」

「そりゃ、抵抗されたら取り押さえなきゃなりませんし」

 近づけば近づくほど、心にひびが走る。胸に差し込まれた管から大量の恐怖を流し込まれるような感覚に、身体も今に割れそうだ。

「絶対におかしいわ、こんなの」

 そしてついに、衝撃波の奔流、その第一層へと突入する。

 最初のうちは指と鼻の先を擽る程度の抵抗でしかなかったけれど、それもどんどん粘度を増していき、今や嵐のごとき妖気渦だ。気を抜けばすぐさま吹き飛ばされてしまうだろう。

「――いた!」

 大きな楢の木の根本に、必死にしがみつく小柄な白狼天狗の姿があった。可哀想に、尻尾も身体も丸めたまま、身動きひとつとれずに震えている。

 椛が高度を落とし、雛もそれに続く。

「葵!」

 名を呼ばれ、折れへたれていた両の耳を、そして泣き顔を少女は上げた。いや、童女と表したほうが適切かもしれない。

 犬神葵――この春に配属されたばかりの新米おかっぱ白狼天狗――は、涙と鼻水でどろどろになった顔をもはや隠そうともせず、椛までの僅かな距離を四つ足のまま駆け抜け、飛びついた。

「お姉ちゃああああああ!!」

「こら、今は任務中だ。椛様と呼ぶように」

「無理!! だって!! あれ!! 無理!! 怖いよ!!」

 こんな状況だが、雛は思わず苦笑した。普段は聞き分けの良い娘なのだが、子犬のように恐がりなところがまだ抜けていない。

「ぜんぜん訳分かんない!! あいつ訳分かんないよ!! こんなゴーッて!! めっちゃ爆発して!!」

「葵、状況を」

「木も岩も沢もぐらぐら揺れるし!! それにあいつ亡霊みたいな声で!!」

「葵ッ!」

 取り乱していた子犬が、椛の一喝に竦み上がる。まんまるく見開かれた目から、大粒の涙がひとつ零れた。

「……まずは、落ち着いて。ね。今の状況を教えなさい」

「あう……はい、椛様。三十三番隊、椛様の他は……あ、いま椛様が到着したのでこれで全員です……三十三番隊は、『あれ』を包囲しています」

 白狼天狗山間哨戒隊、第三十三番隊。

 隊長、犬伏鴇。

 副隊長、犬走竜胆。

 隊員、犬走桔梗、犬神葵、そして犬走椛。

 以上五名で一分隊である。御山の警備の任には一日に、五十一まである哨戒天狗小隊から三つの隊が割り振られる。三十三番隊は本日の正午当番だった。

「隊長と副隊長が、いま『あれ』を抑えて……たぶん戦ってます。私には、『危ないから下がってろ』って」

「んー、あのふたりなら心配ない……といつもなら言えるんだけど、この状況じゃあなぁ。あれ、桔梗は?」

「えぇと……わっ!」

 椛の問いに葵が答えるよりも早く、その気配はふわりと着地した。ほんの少しも音を立てることなく。

「私はここに」

「……いっつも思うんだけど、仲間相手に気配隠すことなくない?」

「敵を騙すにはまず何とやら、よ」

 犬走桔梗はいつも通りの無表情に、涼やかな声を添えた。山野を駆け飛ぶ白狼らしからぬ、絹糸のごとくさらりとした長い髪が、しかしこの張りつめた空気の中でぴりぴりと震えている。

「竜胆様が交戦を開始した。そうしたらこの波動、爆発的に強くなったわ。だけどこれ、敵意とか殺意とは違う。なんというか、上手く言えないけど……」

 歯切れが悪いな、と椛は訝しんだ。冷静沈着な理論家である桔梗にしては珍しい、と思っていると雛が言葉尻をひったくった。

「恐怖よ」

「えっ」

 葵と桔梗の目が、そこではじめて雛に気づいたように丸くなる。

「何かがおかしいとは思っていたけど、ここまで近づいてようやく分かった。私はいま、確かに恐怖している。だけどそれは、『あれ』が恐ろしいんじゃないのよ。むしろ逆だわ。『あれ』がとてつもなく何かに恐怖していて、それがこうやって燃え広がって私たちにも影響している」

「わ、厄神! こっち来んな!」

 椛の背後に隠れた葵が、懸命に毛を逆立てて牙を剥く。けれど今更、子犬の威嚇を恐れる雛ではない。

「ほら、貴方も怖がっているじゃない。心配しなくても貴方を苛めたりしないわよ。……それより、椛ちゃんのところの副隊長さんが『あれ』と戦っているのは、まずいかも。相手の恐怖をいたずらに煽ると、次に何が起こるか分かったものじゃないわ」

「成程、恐怖ね。言われてみるとしっくりくるように思えるわ。厄神様の言う通りなら、確かに竜胆様を止めないと」

「え、桔梗。ちょっと置いていかないでよー。あぁもう、葵はどうする? ここにいる?」

「お姉ちゃ……椛様と一緒がいいです」

 すたすたと歩き出した相方を、後輩にしがみつかれる椛が懸命に追う。それを後方から眺めながら、雛は半ば呆れ、半ば感心していた。この緊急時にも彼女らは普段の調子を崩しはしない。この荒れ狂う渦の中心部、次の瞬間には死んでいてもおかしくない場所で、けれどそれでこそ、白狼天狗たちは驚異的な頑強さを発揮する。仲間と共にあるならば彼女らは無敵だ。訓練の賜物か、あるいは信頼の結実か。

 恐怖の根源へと、四人は気配を殺して近づいた。増援が相手に気づかれてしまうと、それも刺激となってしまうかもしれない。桔梗のその提言に皆が同意したからだ。

「これはまた……なんだこりゃ」

 木陰に身を隠しながら様子を窺った椛から、困惑の呟きが漏れる。

 山肌にぽつんとある、開けて平らな庭のような石場。崖の迫った日の射す場所。そこに桔梗の言うとおり、得物を構える犬走竜胆の姿があった。身の丈七尺の巌のごとき図体が、それよりも長い鉄棒で狙いを定めるその姿は、相対する敵にとっては成程、恐怖でしかあるまい。

 だが副隊長は、じりじりと間合いを計りながら、それでもなかなか踏み込めずにいる様子だった。そしてなんとも奇妙なことに、その相手の姿が見えない。どんな怪物と戦っているのかと思っていたけれど、どうやらこの渦の根源は小さな岩影に隠れているようだ。つまりは、それほど大きな体躯をしていないということだ。

 隊長、犬伏鴇の姿も見えないが、それはこういった場面ではいつものことだった。彼女が竜胆と組んで戦闘するときは、大柄で強靱な副隊長を徹底的に支援するか、あるいはその背に隠れて不意を打つという戦法を採る。

「……隊長、まさか逃げてないよね」

「いやまさか、そんなわけない、とも言い切れない、けど」

 隙を見つけてはすぐサボろうとする、飄々とした彼女の笑顔を、椛と桔梗は同時に思い描いていた。いくら仕事嫌いとはいっても、こんな状況で責任を放棄するようなひとではない、はずだ。

 急流の中の岩のごとく不動のまま、竜胆はただ機会を窺っていた。雛からすれば、あんな神気の奔流の直中で正気を保っているというだけでも信じられない。こちらは今すぐにでも逃げ出したいくらいなのに。剛胆で知られる竜胆だからこそできることで、横に控えている白狼三人組だって無理だろう。

 けれどもそれは、鏡写しの事実を同時に示してもいる。この渦を巻き起こしている「あれ」も、同じ感情を抱いているということだ。

 怖くて怖くて堪らない。

 逃げ出してしまいたい。

 そう心から「あれ」が感じているから、それを周囲に撒き散らしているのだ。

 そして、その感情は晴れることはない。白狼の警備隊の包囲は、「あれ」にとっては強いプレッシャーだろう。逃げたい。だけど逃げられない。この膠着が行き着く先は。それを想像して、雛の肝がぞっと冷えた。

 恐怖に憑かれた先にあるのは、狂乱だ。

 そして、それをも「あれ」が周囲に撒き散らすのだとすれば。

「……鍵山殿、何を」

 雛は、静かに立ち上がった。渦巻く風を手で撫でる。厄を集めるのと要領は同じだ。膨大な恐怖が織りなす、柔らかく、暴力的な質量。すべてを圧し潰そうとするそれを、雛の手が少しずつ捌いていく。

 彼女の前に、後ろに、だんだんと流れが生じ始めた。椛の顔がさらに怪訝さを増す。雛が何をしているのか、ここで何が起こっているのかは、神に連なる者にしか分からないだろう。

 彼女は神気を調律していた。それは滝を割るような奇蹟だった。暴れ水を遡り、根源に接近するための技術だ。

 地を蹴って浮き上がると、雛はくるくると錐揉みに回転しながら前進した。

 いつもは厄を巻き取るための動作だが、今回は奔流をかき分けるためにだ。圧倒的な恐怖の洪水に、雛は分岐点を作りだし、僅かな隙間を懸命に進んでいく。そうでもしなければ、厄神が「あれ」に接近することなどできはしない。

 そして、この事態を収めるのには、白狼天狗ではなく自分の力が必要なのだった。

 竜胆がこちらに気づき、僅かに視線をこちらへ向ける。

 普段ならば、雛が飛び上がった段階で察知していただろう。それがこれだけ遅れたということは、やはり彼女も立っているだけで精一杯なのだ。

 それを契機とみたか、あるいは雛を守るためか、巨体の白狼が均衡を崩そうと一歩を踏み出す。

 地が鳴り、そしてその音に、荒れ狂う恐怖の圧がさらに増した。

 駄目、と雛は無言で訴えた。言葉にする余裕はとてもなかった。これ以上、相手を刺激しては。

「――竜胆」

 そのときだった。小柄な影が疾風のごとく飛び込んできて、豪傑を制した。二歩目を思いとどまった竜胆は、それを抱えるようにしゃがみ込む。孤高の戦士は、今や彼女を守る砦となっていた。

 丸太のような腕の中、犬伏鴇は不敵に笑う。綿菓子のようなふたつの結び髪が、神気に弄ばれて盛大に揺れているのが、やたらと雛の目に残った。

「いやぁ、椛。ファインプレーだね。偶然だろうけど、ここで厄神様を連れてきてくれるとは」

「しかし、隊長、我々の責務は」

「いいっていいって。報告書なんてどうにでもならぁね。それに仕事は楽で安全なのに限る」

 三十三番隊の隊長と副隊長の会話を後目に、雛はずんずんと進んでいく。彼女の思惑をこの場で正確に把握しているのは、底知れない知謀を持つ鴇だけだろう。

 渦の中心に、亀のような速度で近づいていく。もどかしいけれど仕方がない。今から雛が触れるものは、相手の心そのものだ。それも、取り扱いをひとつ間違えればすべてを吹き飛ばす、爆弾のような心。そこに至るまでに近道などありはしないし、慎重にやってやりすぎるということもない。

 永遠のような時間をかけて、ようやく岩陰を覗き込める距離まで辿り着く。野分のように荒れ狂う風の中、雛はなんとか着地点を見定める。手の届く場所まで近づかなければ、触れることのできる距離に降り立たなければならない。

「…………これは」

 認めたその姿は、小さな彫像のように見えた。幾つもの顔を貼り付けた前衛彫刻が転がっているのだと、雛はそう思った。神、あるいは神霊が、荒削りななにかに宿った姿と考えれば一応の辻褄は合う。

 その目と鼻の先に着地する。

 刹那、それが急に巨大になった。

 圧倒する威容。

 醜悪なる顔塊。

 否定する断絶。

 何かが燃えていて、誰かが吼えていた。

 自分がどんどん、どんどん小さくなっていく。

 いや、すべては錯覚だ。受け流していた恐怖の感情を、その爆心地で、真っ正面から浴びたせいだ。

 身体が凍てつくような感覚。縮こまった精神が、全身をがくがくと震わせる。息を吸うことすら、指を立てることすら、恐ろしくて堪らない。

 そして、滂沱の涙が溢れた。強大な誰かが、雛の身体を雑巾のように絞っている。そう思えてしまうくらいの、信じられないほどの恐怖の涙だった。

「う、あ、あ、」

 言うことを聞かない身体に、厄神はそれでも活を入れる。冷え切って千切れそうな手を、その絶対零度の塊へ、そろそろと延ばしていく。

――これと同じだけの恐怖を、この子も感じているのなら。

 触れなければならない。ただそれだけが、この塊には必要だった。教えてあげなければ、この恐怖は収まりはしない。この世界には、貴方を傷つけないものが、貴方を撫でてやれるものが、確かに存在するのだと。

 塊が、僅かに後ずさった。

 無数の顔たちが、一斉にこちらを見た。

 翁が、火男が、猿が、狐が、般若が、獅子が。

 顔が起きあがり、さらにその下から別の顔が現れる。顔に顔が積みあがって、小さな壁を作り出そうとしていた。光なき瞳がそれぞれの表情で雛を見る。迫る者がいったい何者なのかを見極めようとするかのように。

 能面だ。雛はようやっとそれを理解した。これは能面の群生、とでも言うべきものなのだろう。こんな例は見たことも聞いたこともないけれど、とにかくひとつの意志のもとに、たくさんの能面が四肢のように操作されている。差し出される手を阻もうとしている。

 恐怖、敵意。声のない産声。

 そして面の壁の向こうに、蝋のように白い肌が見える。

 誰かがいる。それを雛が理解した瞬間、向こうからの恐怖の圧が跳ね上がった。伸ばした手が、思わず地面を掴む。涙はもはや頬を伝うことなく、瞳から溢れるそばから風に吹き飛ばされていく。

――くるな。いやだ。きえろ。やめて。

 耳を裂きそうなほどの感情の渦、その中心にいる壁の向こうの誰かは、あらゆるものを拒絶していた。

 何もかもが分からない。何もかもが恐ろしい。

 だから消えてなくなれ。誰も私に近寄るな。

 面たちの無数の瞳が、その意志に従って厄神を圧倒する。排除しようとする。

 けれど、雛は地を掴んだ手を離さない。

 そして渾身の力を込めて、身体をさらに一歩先へ進めた。鉄の塊を背負っていたとしても、いや身体が鉄の塊になっていたとしても、もっと楽に動けただろう。這い蹲った無様な格好で、それでもその一歩を踏み出せたことは、ほとんど奇跡と言って良かった。

 先程とは逆の手を伸ばし、面の壁へ触れる。

 すると、その壁が後ずさった。指先に触れることすらも拒否するかのように。圧はさらに激化したけれど、雛はこれを最後の好機と捉えた。これ以上時間をかけてしまっては、こちらの体力が先に尽きてしまう。

「あ、あ、あああああああっ!」

 千切れそうな身体を省みず、雛は一歩の距離を詰めた。その手が面と面の隙間を突き、壁の向こうへと抜ける。

 瞬間、壁は四散した。面が散開したのだ。

 そしてそこに雛は見た。胎児のように身体を丸めた少女が、一糸纏わぬ姿で震えているのを。

 それはひとのような形をしていたが、もちろん人間ではない。こんな現象を起こせる者が、無数の面を自在に操る者が、人間であるはずがない。ひょろ長い、しかし伸びきらぬように見える手足を懸命に縮め、彼女は呼吸をするように、あるいは凍えるように震えていた。

 目線がぶつかる。いっさいの表情を感じ取れぬ顔から、しかし放たれるのはさらなる高圧の恐怖。

 散開していた面が再び集まり、今度は主の身を守る鎧となった。その細長い全身にびっしりと貼り付き、また外敵を拒絶しようとする。

――くるな。

――くるな。くるな。くるな。

――くるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるなくるな

 もはやここまで来れば、その叫びは声がなくともはっきりと受け取れた。

 彼女はただ、怖いと思うものから身を守ろうとしているだけだ。

 加えて、この世のすべてが恐ろしく見えている。ただそれだけのことなのだ。

 そしてそんな存在が、得体の知れない巨大な力を持っている、というだけの話だ。

 雛は手を伸ばし続けた。指がすべて吹き飛びそうな、手首ごともげてしまいそうな奔流の中を、じりじりと前へ進み続けた。すると、ふと、圧力が弱まった。泣き疲れた赤子が、ふっとその声を途切れさせるように。

 ほとんど倒れ込むようにして、雛はその塊を抱きしめた。木製と思しき面が擦れて、がさがさと鳴る。少女の頭があるだろう場所へ、なんとか自分の顔を寄せた。

「大丈夫だから」

 なるべく大きな、優しい声を出そうとしたけれど、喉から発せられたのは掠れた音だった。覆い被さった自分の身体のせいで、恐怖の圧は千々に乱れている。目に見えない大量の粒子が、雛の身体を貫通して天高く昇っていく。

 もはや自分のすべてを使い果たしたように疲労しているけれど、まだ最後の仕事が残っている。もっとも肝心なことが。

「もう、大丈夫だから」

 これだけは、伝えてあげなければならない。誰もが産まれてすぐに学ぶこと。それをここで教えてやらなければ、この子はその恐怖だけで御山を、世界を灼き尽くすだろう。

 雛は指先をくるくると回し、神気の渦を調律する。恐怖の塊に穴を穿ち、彼女の意志を届ける道を作りだす。

「大丈夫。大丈夫。ここに貴方を傷つけるひとはいないから」

 面の下で、少女の身体が柔らかく身じろぎする。抵抗しようと、暴れようとして、しかしもはやそんな力は残っていないのだろう。雛の言葉をきっかけにして、その力はどんどん失われていく。それに同調するように、恐怖の放射もだんだんと弱まり始めた。

 雛は面の上から彼女を撫で続ける。固い障壁越しでも、その身体が冷え切っているのがよく分かった。見ればどの面も土と草切れでひどく汚れている。鼻を突くのは血の臭いだ。あの場所からここまで、産まれたままの姿で、ただ山を歩いてきたのだろう。沢の水で身を清めるなどという知識すら持っていないのだ。

「……鍵山殿、生きてます?」

「当たり前でしょ」

 様子を見にきた椛に言い返しながら、雛はなんとか身を起こした。その腕の中、少女は静かで単調な呼吸へと移る。面たちに込められた力も弱まっていく。一枚を剥がして顔を覗いてみると、案の定彼女は寝入ってしまっていた。泣き疲れてしまった、というところか。

 神霊の渦が霧散する。そよぐ風が戻ってくる。

 御山は落ち着きを取り戻そうとしていた。

「厄神様。ご助力、感謝申し上げる」

「いやぁ、ほんとほんと。一時はもうどうなることかと」

 竜胆の肩へちょこんと腰掛けた鴇は上機嫌だった。当座の危機を乗り越えたのだから、中間管理職としては一安心だろう。

「しっかしまぁ、またけったいな奴だね」

「そいつは、神なのですか、厄神様?」

「分からないわよ、そんなの」

 桔梗はその返答に満足しないのか、鋭い眼で少女をじっと観察する。その手はまだ鯉口を握ったままだ。不振な動きを見せたなら、即座に抜くという意思表示だ。冷静に見えてその実、若さ相応に血気盛んな白狼であった。

「これで一件落着……とは、いかないんでしょうね」

「あれ、椛。葵はどうしちゃったのさ?」

「気づいたら寝こけてまして。まったく、馬鹿なのか大物なのか」

「あっははは! いずれにしろ大した肝じゃないか。そのまま背負って帰ってやりな」

「えぇー……」

「さて。椛の言う通り、このままって訳にはいかない。むしろ本番はここからだ」

 鴇は雛を見下ろす眼に、少し力を込めた。

「そいつの身柄、引き渡していただけますね?」

「……どうするつもりなの」

「どうするも何も。もちろん我らの手で封じ込めまする。鍵山殿も、そいつの恐ろしさはいま身を以て体感されたはずでしょうに。我らが誇る、凄腕の呪術師に預けてくだされば万事が解決。大船に乗ったように安心していただきたい」

「それ、貴方の本心?」

「いや、ぜーんぜん」

 両の手をひらひらと振ると、小柄な隊長は行儀悪く地べたに座り込み、溜息を吐いた。

「そんなこと無理だなんて、私が一番よく分かってますって。こいつを無理矢理に狭い独房へ押し込めたって、あんな爆発をまた起こされたらどうしようもない。陰気くさく穴蔵に籠もってる鼻高天狗のモヤシ呪術師連中が束になったところで、こいつの鼻息にすら勝てませんや。だけどねぇ、こんだけの大騒動だ。御山にいながら気づいてない奴なんて、ひとりもいやしない。河童の赤子だって不穏に思ったでしょうよ。そんな中でいの一番に駆けつけた私らが手ぶらで帰って、『気配の主は綺麗さっぱり消え失せました』だなんて言えると思います?」

「はぁ。貴方たちも大概に面倒臭い生き方をしているわね」

「ぶっちゃけるなぁ。で、隊長、本音の本音は?」

「そらぁもちろんアレよ、椛。態度だけはでかいエラそうな鼻高どもが慌てふためくところを見たい」

「……この人は、まったくもう」

 桔梗が僅かに天を仰いだ。

 雛は眼を閉じる。もう疲れ果てていた。肉体的にも精神的にもだ。なにせ彼女に手を触れるために、すべてを振り絞る必要があった。厄神の持てる限りの能力を総動員し、ようやくこうして宥めたのだ。

 疲労に沈み込みそうな頭で、今後のことを考える。鴇の言い分は正しい。この御山は天狗の領分であるのだから、事件が起こればまず彼らの管轄となる。今回の一件は、山が噴火するにも等しい大事件だ。それが原因不明のまま有耶無耶になってしまえば、彼らの面目は丸潰れであろう。

 そして白狼天狗の協力のもと、雛はこの子を無事に鎮めた。この事実を覆い隠せるはずもない。白狼は眼も鼻も耳も利く種族だ。総本山に控える者たちも、この状況をしっかりと把握しているはずである。となれば、この子を放置し見逃すということなどできる訳がない。

 ゆえに、警備隊はこの子を捕縛し、連れ帰ることになる。

「可哀想に」

 雛の呟きは、この子に向けたものであり、またこの子を扱うことになる天狗たちに向けたものでもあった。

 得体の知れない神だか妖怪だかを、天狗たちはなんとか封じ込めようとするだろう。牢に鎖で繋ぐのか、壁に塗り固めるのか、あるいは殺してしまうのか。しかし、雛にはいずれの手段も上手くいくとは到底思えなかった。

 この子の放つ膨大な力は、ただの感情だ。それがこんなにも圧倒的な、嵐のごとき威力を持っている。彼女を脅し、閉じこめ、恐怖させるのならば、ただその恐怖という感情が先程のような爆発を引き起こすわけだ。相対する者が強硬な手段に出るほど、跳ね返ってくる力の強さは凄まじいものになる。

 もはや火を見るよりも明らかだ。天狗たちは、この子を再び爆発させるだろう。そしてその荒ぶる力は、呪術や魔法でどうこうできるものではない。

「では、厄神様はその子の処遇についてどう考える?」

「……………………」

 雛は胸の中の寝顔を見た。その表情は安堵というよりも、極度の疲弊を訴えているようだった。凍えきって震えていたところに、雛の温かい手が触れて、ただそれだけで張りつめていた緊張の糸が切れてしまったのだろう。

 天狗に任せても上手くはいかない。さりとて、このまま野に放っても同じことだ。彼女に必要なのは、庇護と教育。

 そこまで考えて、雛はようやっと鴇の思惑に気がついた。

「貴方はもう分かっているはずだ。こいつの暴走をくい止めるお役目に、厄神様以外の適役はおりませんて。さて、竜胆」

「はっ」

 副隊長の太い腕が、少女の細長い身体を軽々と持ち上げた。裸体から面がばらばらと剥がれ落ちるけれど、やがてそれらは見えない糸で結ばれているかのように、少女の後をずるずると引きずられていく。

「ま、いずれ時は来るでしょう、それもすぐにね。そしたらその時は、どうかよろしくお頼み申しますよ、厄神様」

 鴇がひらひらと手を振り、そして竜胆とともに地を蹴った。刀を納め直した桔梗も、一礼しすぐその後を追う。

「……はぁ」

「妙なことになりそうですね、鍵山殿」

「なによ、他人事みたいに」

「いやいやまさか。あの化物が御山に留まるんなら、私らだって運命共同体でしょうよ」

 それはそうだ。雛はゆっくりと立ち上がった。

 天狗の上層部は保守を絵に描いたような連中である。彼らにしてみれば、厄介者は少しでも遠ざけたいはずだ。

 雛は神徳を分け与え、火急の際は天狗に協力するという約定のもと、土地を借り受けている身である。ゆえに天狗の決定に逆らえるはずもない。もしも面倒を見ろという話を断れば、あの少女ともども御山を追放されてもおかしくはなかった。不条理だとは思うけれど、そもそも御山を縛る天狗社会の規律とは不条理の塊である。

 鴇の言うとおり、あの子は自分が預かるようなことになるのだろうか。

 スカートの土埃を払って、雛は大きく身体を伸ばした。

「それじゃ、椛ちゃん、手伝って」

「……あぁ、あの母子ですか。では葵を詰所に置いたら向かいますよ。先に向かっていてください」

 すっかり寝こけてしまった童女を背負い直し、椛も夏の青空へと消えていく。

 鳥の声が、獣の気配が、木々の騒めきが、少しずつ戻ってきていた。隠れていた、あるいは逃げていた山の住人たちが、その警戒を解いたのだ。ここに生きる者たちは皆強かだから、すぐにいつもの調子を取り戻すだろう。

 雛は御山を愛している。自分の産まれたこの場所を愛している。

 そしてあの少女も、形はどうあれ、この場所で産まれたのだ。

 雛は誰かを育てたことも、教え導いたこともない。もし彼女を預かるようなことになるのなら、その養育の苦労は推し量ることすらできない。ただの子供でも大変だろうに、それがあんな恐ろしいな力を持つ人外なのだから、なおさらだ。

 大層なことはきっとできない。けれど、彼女に対して願うことがあるとすれば、それは自分と同じように、産まれたこの場所を愛してほしいということだった。だんだんと首を擡げはじめた不安の影を前に、雛は自分にそう言い聞かせた。

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