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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
38/68

凄愴/むしのいきで

 ごぼり、と泡が立つ。赤い滴が弾けて、目の前を霧となって漂う。

 たったいま、自分に何が起こったのか分からず、菫子はただ脱力していく身体を呆然と眺めていた。乳房を、肉を、肋骨を、肺腑を、銃弾は真っ直ぐに貫通していた。自分を自分でない場所から見下ろしていた。やけに非現実的で、他人事で、それなのに私は確かに自分自身であり。

 一瞬だけ遅れて、痛みが全身を駆け巡った。いや、痛みというよりは熱に近く、熱というよりは絶望と表したほうが正しかった。傷の付くはずのない場所が貫かれている。穿たれてはいけない部位から出血している。本能は呼吸を求め、けれど吸った息は血霧となって船内へ放出されていくばかりだ。痛い。苦しい。思わず胸を両手で塞いでいたけれど、背中にも穴が開いているのだから何の意味も無かった。

 痛みは、しかし恐ろしいことに、徐々に引いていった。生存を諦めた脳が、せめて末期の苦痛を和らげようと、脳内麻薬の過剰分泌を始めたのだ。宇宙の時間が遅回しになる。視界のすべてが、もどかしいほどにゆっくりと動く。走馬燈が回る。思い返されるのはいつかの些細な記憶。電線で仕切られた青空を。湯気の立つ朝食が。博麗神社の境内に。笑う顔。嗤う顔。笑う顔と。行かなきゃ、どこへ? 少なくとも、今よりは幸せだったところへ。今よりも幸せな時間なんて、だけどどこにあるというのでしょう。せめて、せめて、せめてあの銃弾さえ逸らせることができていれば。どうしてあのとき、私は。


― 、 、 、 、さん!


 目の前の月兎が撃った弾を、菫子は確かに捉えていた。十メートルもない場所から放たれたのは、何の変哲もない銃弾だ。弾幕戦闘に慣れた彼女にとっては、科学世紀最後の超能力者である彼女にしてみれば、難なく回避できる攻撃であるはずだった。ほんの少しの力を加えるだけで良い。自身に対する斥力を発生させるだけで、菫子に銃弾が到達することなどあり得ない。サイコキネシス。銃口から飛び出した鉄塊に干渉することができる能力。

 憐れな超能力者の誤算は、月兎の潜在能力について無知なことだった。鈴仙、青蘭、鈴瑚。彼女の知る兎たちは皆、確かに兵士ではあったけれど、それでも明確な殺意を持って行動した場面を見てはいない。身命のすべてを任務へ投じた姿を、菫子は知らない。だから見誤った。これは弾幕ごっこなどではなかった。目の前の相手は勝負を挑んだのではなく、任務の障害をただ排除しようとしていたのだ。

 銃の口が鋭く光る。

 兎の瞳が昏く輝く。


― 、 、 、子さん! しっかり!  、 、 、 、 、 、 、 、!


 赤い泡が宙を舞う。ひゅうひゅうと、胸で風が鳴る。

 純粋な殺意を放つ兎には、ほんの僅かな隙も無かった。一縷の慈悲も、一点の歓喜も、砂粒ほどの恐怖すらも無かった。それは機構の一部に過ぎなかった。月都の深部で最適化され、完璧に調整を施された究極の兵士、イーグルラヴィ。消滅したはずのその頸木を、頑なに守り続けたひとりの少女。見捨てられたはずの、消え去ったはずの、初めからいなかったことにされたはずの一兵卒。

 撃鉄が。

 落ちる。

 感覚の暴走による時間の鈍化は極限に至っていた。爆裂した炸薬のひと粒ひと粒が手に取るように見える。銃弾が錐揉みで回転する様子すらもはっきりと。目指す先は自分の額の中心。着弾まで一秒も無いだろう。最期が迫り憔悴した脳は、快楽物質を必死に絞り出しながら、それでもまだ死を回避する術を見つけだそうとしている。ニューロンに刻まれたきり思い返されることなどなかった、何の関係もない記憶まで洗いざらいひっくり返している。


―菫子さん!


 皮膚が焼け、頭蓋が砕けた。そして前頭葉がかき乱され、あらゆる感情が自由になって溢れ出していった。いちばん大きなものは怒りだった。いま起こっている事実に我慢ができなかった。ふざけるな。どうしてこんな場所で死ななければならないんだ。お前なんかが、勝手に、私を。言葉にしようとして、しかし銃弾が脳幹へ到達し、身体のあらゆる活動が停止する。心臓が、神経が、細胞が、一斉に沈黙する。身体だったものが熱を失って、ただの塊になっていくのが、手に取るように分かる。分かってしまう。

 生命を統合して現世に繋ぎ止めるための回路が、消失していく。

 たぶん、それは一秒にも満たない、ほんの僅かな時間。即死を免れ得ない場所への銃撃だったのだから、そのはずであった。菫子もそのことは分かっている。恐ろしいことに、そのことをはっきりと自覚するだけの時間の中に、彼女は確かにいたのである。視覚も聴覚ももはや機能していない。頭の中の大事な繋がりのすべては、強引に引き千切られてしまった。感じられて当然の温もりが何も無い世界。その入り口。失ったはずの感覚が、彼女にそれを告げていた。

 なにか、

 うつろで、

 きょだいな、

 とてもさむい、

 そこのみえない、

 くらやみにみちた、穴へ。


―菫子さん! こっちを見て!


 墜ちていく。重力も無いはずなのに、黒々とした穴の中へ墜ちていく。いや、もしかしたら、穴の方が飲み込もうとしているのかもしれない。機能を失くした身体、感情を失くした心、そこになにも残っていないはずの自分が、流れ星のように砕けながら、世界の底の底の底の底へ向けて加速していく。穴の中には、何も無いという言葉すら見当たらないくらいに何も無い。光も熱も。希望も、そして絶望すらも。まるで石炭袋、銀河壁と銀河壁の間に蟠る空間の孤独。しにたえたものがみないつかはそこへおちていくというのなら。


―菫子さん! 手を!


 すみれ、こ、それは。

 いったいなんのことだっけ。

 いや、でも、それは、そうか。

 それは、私だ。


 目も鼻も口も無い顔で、彼女は振り返った。穴が、空虚自身が、慄いたように感じられた。たぶん、そんなことができたのは、菫子が世界で初めてだったから。

 菫子から、背後へ向けて、何かが伸びていた。命綱なんて呼ぶには烏滸がましいくらい、細くて頼りない糸だった。蜘蛛の糸だってもっと丈夫に違いなかった。指で触れるだけで千切れてしまいそうなそれが、けれど確かに、彼女を呼ぶ声を、ほんの僅かな熱を伝えてきた。絶対零度にまで凍えた魂の温度を、零コンマ一度だけ引き上げる言葉。けれども、それで十分だった。菫子が振り返って、手を伸ばすためには。


 誰かが呼んでいる。

 聞こえる。見える。

 いや、見えも聞こえもしないけれど、そこには確かに、繋がりがある。

 だから手を伸ばす。

 もう一度触れれば。


 触れさえすれば、きっとそこへ戻ることができる。光と熱のある、希望も絶望もある、大きくて小さな世界へ。生きるための場所へ。菫子はただ一心に願った。他の思考は忘れ去ってしまった。ただ純粋に、呼吸を望んだ。そんなことは生まれて初めてだった。本当は生まれる前に一度、同じ願いを抱いていたはずなのだけれど、彼女はそのことをまったく覚えてはいなかった。

 糸に縋る。願いをただ、その絆に伝わせて、繋ぐ。

 世界と自分の断絶を回復することだけを考える。

 するとそこに、ほら、無から希望が生まれる。

 世界の闇が裏返った。赤橙黄緑青藍紫が彼女を取り囲んだ。伸ばした指が、目映い光に浮かんだり沈んだりを繰り返す。穴自体が上げる巨大な悲鳴。低く唸る共鳴。こんなときでなければ、悍ましくて耳を塞いでいただろう。彼女は確かに抗っていた。世界の理に逆らっていた。巻き戻せるはずのない喪失から、菫子はたった今、確かに。


―もう少しです! 心をしっかり保って!


 けれど、彼女は見た。確かに見てしまった。

 伸ばす指の先、胸と額に虚ろな銃創を負った、自分自身が墜ちていく。世界の底の底の底の底へ、無となって形さえ失い、菫子だったものが墜ちていく。もう二度とは、戻れないところまで。

 そのときようやく、彼女は自分がひっくり返っていることに気が付いた。引き吊りこまれる穴から上へと手を伸ばしていたはずが、今や天地は逆さまとなり、脚を上にして引き上げられている。鏡に向けてバンジージャンプをすれば、同じような映像が見えるだろう。

 沈んでいく死んだ自分と。

 浮かんでいく生きた自分が。

 引き裂かれていく。そんな馬鹿な。さっきまで私は確かにあれだったはずだ。いま墜ちているあいつこそが私だったんだ。いったい、いつの間に入れ替わってしまった? そうだ、願ったのは私だ。そして願ったのはあいつだ。だからあいつを切り捨てて、私は私を取り戻したんだ。あいつは私じゃあない。私だったあいつはもはや私とは別のものだ。伸びた髪を切るようなものだ。剥がれた爪を毟るのと同じだ。あいつは確かに私だったのかもしれないけれど、切り離して生き返ることができるのなら、そうするべきじゃあないか。あいつだって、そう願ったんだ。だから、私は、いまこうして。

 点のように小さくなった自分の絶望に満たされた表情。

 そこから目が離せないまま、彼女は光速ぎりぎりで帰還していく。

 引き上げられていく。

 黄泉返っていく。

 翔んでいく。

 ―






「――えぇ、なんとか回収できました。間一髪でしたよ」

「そいつは重畳。流石は夢の支配者様といったとこだね」

「二度とは渡りたくない橋です。まったくもって乱暴な手法だわ。完全憑依のメカニズムが解明されていなかったらと思うとぞっとしません」

「それで、菫子ちゃんの様子は?」

「少し錯乱していましたが、今は何とか落ち着かせて眠ってもらっています。ただ……」

「ただ?」

「しっかり調べたわけではありませんが、どうにもここ数ヶ月分の記憶がすぽりと抜けているようでして。自分がどこで何をしていたのか、そのことを答えられない」

「あれまぁ。すると大学に入ったことも、私や教授のことも忘れちゃってるってことか」

「いえ、忘れているというのは語弊がありますね。おそらくは本当に、まったく知らないのです。私が救い上げたのは夢の菫子さんであって、現の彼女ではありません。貴方がたがいつも会っていた現実の人格は、先ほど本当に死亡しました」

「……そうか。てことは、あんたの言うところの現と夢の人格っていうのは、まったく別の存在ってこと?」

「かつてはそうは言えませんでした。でも現時点ではそう表現してもおかしくはないくらい、ふたつの人格は別動を始めています。ここ数年でいろいろあったのですよ、夢の世界には」

「だから現実側が死んだとしても、夢側を代理で引っ張ってこれる、と」

「一言で表せばそうなりますが、でもこれすごく難しいんですよ。別個の人格といっても確固な繋がりがあります。それをタイミングを見計らって断ち切り、夢を現実側へ引っ張り出す。早すぎれば夢側の人格が破壊されますし、遅すぎても現実側に引きづられた夢人格を救えない」

「うーん。私にとっちゃ頭が痛くなるばかりの話だけど、教授なら理解できるんだろうなぁ。いろんな学会の定説を根こそぎにする現象を立て続けに見せつけられて、私はもう仕事を放って旅にでも出たい気分だよ。まぁ、菫子ちゃんはとりあえず無事として、だ。目下の問題はあの月の兎さんのことだね。パシアスロケットの中で何が起きている?」

「それは私が聞きたいくらいですよ。アポロ計画終結に際して、月都側の代理人とNASAは不可侵の密約を交わしていたはずでは?」

「密約というか、ありゃ一方的な通告だよ。それに今となってはもうオカルトの類として扱われてる。誰もまともに捉えてなんかいなかったから、プロジェクトマリウスなんてもんが立ち上がったわけだし。とすると、やっぱりこれは月からの宣戦布告なのか?」

「いえ、そうではないようです。どうにも月の民の動きが妙なんですよね。というかそもそも、月人が本気で浄化戦争を挑んでいるなら、今頃とっくにNASAは北米大陸ごと消滅しています」

「……つまり、月都側の意志ではないと?」

「月都に統一意志決定機構があるわけではありませんから、断定はできません。ただ、あの月兎が月人の命を受けて作戦行動を起こしたわけではないと思われます。なにせ彼女はもう、月には存在しないはずの月兎兵ですから」

「あんた、奴を知ってるのか?」

「月兎たちの間で知らぬ者はいません。彼女は、アポロ計画の一件で消息不明扱いにされていた三匹のうちのひとり。命令には絶対忠実な伝説の兵士。特殊部隊『イーグルラヴィ』の元隊長。消耗品として使い潰されて百年も保たないのが常である月兎兵の中にあって、訓練スコアのトップを千年以上走り続けていた傑物です。アポロ計画の一件さえなければ、今でもそうだったでしょう。彼女を失ったとき、綿月の姫君たちはそれはもう落胆したと聞いています」

「また大物だね、そいつは。妖怪兎の特殊部隊ってくらいだから、そりゃもう強いやつなんだろう。知らんけど」

「……私としては、むしろ月都が静観することを望んでいるんです。月人が動くのは地上側で対処が不可能な事象に対してのみでしょうから。そもそもあの方々が動いたならば、地上にとってはまずろくな結果になりません」

「期待されている、と思いたいところだよ。神は乗り越えられる程度の試練しかお与えになりません、てか。それなら―おっと、噂をすれば、だ」

「召集が来ましたか」

「米宇宙軍の作戦行動が始まる。あのロケットを敵性体認定して、撃墜するつもりなわけだ。ミサイルにタライアシステムを使用できるよう、二十時間以内にコードの諸々を書き換える。簡単に言ってくれるよなぁ」

「科学面のことは、私にはさっぱりですので、お手伝いはできません。ここで菫子さんの様子を見ていましょう」

「あぁ、それと、苺を取り寄せておいてくれ。糖度十三以上のブランドならなんでも良い。教授に飢え死にでもされたら、世界の大きな損失だからな」

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