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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
35/68

諦念/そのさきへいってしまうなら

 地上と地底への行き来は、封が解かれたとは言え簡単ではない。妖怪の山に大きく口を開けた縦穴をゆっくりと降りていく、最初のポイントがまず最難関である。ほぼ垂直の穴が数百メートルは続いているせいで、空を飛べない者にとってはさらに難易度は跳ね上がるだろう。そこに妖精や妖怪による数多の妨害が入るのだから堪まったものではない。とくに釣瓶落としのキスメが放り投げてくる大岩は強烈だ。彼女は侵入者の頭を物理的に潰すことを心から楽しみにしている。大岩を躱されれば、今度は自分自身を桶ごと投擲してくるのだから、その残虐性は底が知れない。

 それをくぐり抜けたとしても、黒谷ヤマメと水橋パルスィの両名は目敏く侵入者を見つけだすし、旧地獄街道の鬼たちはいつだって喧嘩相手を探している。その誰にも絡まれることなく街を往来することは困難だろう。

 誰にも見つからないような、そんな強い魔法があれば話は別だろうけれど。

「仙術に、姿を隠すようなやつってあったっけ……?」

 茨木華扇はすっかり辟易していた。ぼやきも出ようというものだ。地底の住民たちは、余所者には積極的に絡んでいくし、見知った顔が久々に戻ろうならその場で酒盛りをおっ始める。用心などしない。そんなものはアウトローばかりのこの街ではもはや無意味だからだ。

 そして華扇にとっては、この街には昔の顔見知りが多すぎた。親しげにかけられた声をなんとかやり過ごして、また十歩もあるけば別の誰かに呼び止められる。華扇がここを出たのは地底が封じられる前の話だというのに、律儀な連中である。

 星熊勇儀の元での用事を終え、なんとか地霊殿の門扉までたどり着いたときには、すっかりうんざりしてしまっていた。別に酔っても疲れてもいないが、地底には旧交を温めに来たわけではないのだ。

「……おや」

 門番のいない扉を開けると、地獄烏が荷車を引いていた。珍しいこともあるものだ。霊烏路空が核融合炉から出てくることなど滅多にない。死体運びの火車の代わりでもしているのだろうか、と思ったけれど、荷台にあるのは死体ではなかった。

「精が出るわね、おくうちゃん。その荷物は、えぇと……お引っ越しの手伝いかしら」

「あっ、山の仙人。タイガは元気にやってる?」

「優秀な番犬、もとい番虎よ。助かってるわ」

「そっか、元気なら良かった! この荷物はねぇ……何だったっけ」

 考え込んだおくうが答えを捻り出すまで待つ。この烏とのコミュニケーションは、急いではいけない。忘れっぽいと馬鹿にされることも多い娘だが、それは正確ではない。思い出すまでに普通よりも時間がかかる、と表したほうが正しい。

 それにしても、考え込んでいる姿のなんと愛らしいことか。

「あ、そうだ。さとりさまが屋敷の片づけをしてて、それで出たゴミを燃やすように言われてたんだ」

「ゴミねぇ……ずいぶんと綺麗な家具だけど。高給取りは違うわね」

「じゃあ私、炉に行ってくるよ。八咫烏様の炎なら一秒で灰だよ」

 荷車を引いていく後ろ姿を見送って、華扇は手を振って、そして溜息を吐いた。

 うちの子たちがあぁやって、少女の形を取ってくれるようになるまで、どのくらいかかるだろうか。

「先は長いわね。うちの屋敷じゃあ、ここみたく爆発的に妖力を増すわけでもないし」

 茨木華扇は、動物を愛している。自然の中で奔放に生きる者も、飼い主に忠義を尽くすために生きる者も、平等に素晴らしいと思っている。そしてそれとは別に、美少女もたいへん好んでいた。この嗜好は動物愛よりも歴史が長い。かつて京の都を欲望のままに騒がせていた頃から、美姫の噂を聞きつけては浚い、自分に傅かせていたものだった。悪行を改め仙道を志すようになってからも、根本的な好みは変わっていない。

 そして、華扇のふたつの欲を同時に満たしてくれるのが、妖獣少女という存在だった。

「まぁ、気長に待つとしましょう。うーん、でも、いややっぱり、竹林の狼女を手懐けるほうが早いのかも……」

 地霊殿の火焔猫燐と霊烏路空は、まさしく華扇の理想とするペットである。少女としても獣としても愛らしく、また主人たる古明地さとりに忠実だ。八雲紫の僕であるところの藍と、さらにその式神である橙も捨て難い。あんな妖獣を側に置きたいと夢見て、華扇はいまも大事に屋敷の動物たちを育てているけれど、今のところ少女へ変じる兆候を見せる者はまだいなかった。

「あげませんよ?」

「まだ何も言ってないでしょうに。まぁ貴方には、言わなくても伝わっちゃうんだけど」

「あのふたりは地霊殿の貴重な労働力です。貴方の支配欲を満たすためだけに渡すなんて、とてもとても」

 玄関に現れたさとりは、袖を紐でくくった動き易さ重視の格好だった。屋敷の片づけをしていたというのは本当らしい。

「うちにはペットが頻繁に出入りしてるんですが、どうにも動物の他にも勝手に住み着いている誰かがいるようなんですよ。だからこうして、定期的に屋敷を総ざらいすることが必要なわけです」

「はぁ。手伝いくらい雇ってもいいんじゃ?」

「うちの敷居を跨ごうっていう数奇者はこの辺りにはもういませんからね。ペットにやらせても散らかるだけですし。独り暮らしの辛いところです」

「とにかく、今日はこれを」

「これは」

 差し出した真っ白な封筒を、さとりは怪訝な表情で受け取った。そして封を開ける前に、読心で中身を知ったのだろう。それでも彼女は疑いの目つきを崩さない。

「……え、本当に? 貴方、騙されてませんか? 俄には信じられないんですが」

「開けてみなさいって。本人が書いた文だから。私だって聞いたときは本当にびっくりしたのよ。もう幻想郷中が上を下にの大騒ぎだわ」

「うーん、確かにこれは、博麗霊夢の筆跡。え、本当に? 本当の本当に?」

「貴方の言いたいことは分かるけど、真実よ」

 華扇が旧地獄に知らせ回った一報は、受け取った相手を確実に困惑させた。勇儀すら杯を取り落とすほどの一大ニュースだ。

「霊夢、結婚するの」

 博麗霊夢が嫁に行く。

 その一報が幻想郷じゅうを駆け巡ったのは、まだ先週のことである。霊夢が突然、方々に手紙を寄越したことで事態が発覚した。年賀も歳暮も送らないずぼら巫女からの手紙を、誰もが驚愕と共に受け取ったが、その中身はもっと衝撃的だった。

 相手は人里の呉服屋の息子で、人の良さと家柄の他にはこれといって特徴のある男ではなかったが、とにかく霊夢に惚れていた。彼の傍らにいる霊夢もいつも通りの顔で、いや満更でも無さそうな顔でそこに収まっているものだから、周囲からはふたりの婚姻に反対する声など挙がるはずもなかった。

 郷はたいへんな大騒ぎとなった。天狗の新聞は片っ端から号外を連発し、里の住人たちは博麗神社にこぞって祝いの品を献上した。埴安神袿姫は埴輪の祝儀兵を贈ろうとして追い返され、摩多羅隠岐奈は陰陽夫婦こけしなる不穏な品を贈ろうとして追い返され、豊聡耳神子は十七条の憲法ケトルに十七条の憲法包丁、そして十七条の憲法割烹着のキッチンセットを贈ろうとして追い返された。

 誰もが、この結婚を心から祝福していた。

 ただほんの一部、幻想郷の賢者たちは、祝福の裏で頭を抱えていた。

「……なるほど。わざわざ貴方が配達人を買って出たのは、そういう訳ですか」

「えぇ。代わりの巫女が見つかるまでは、何が起こるか分かりませんから。貴方にも覚えておいてもらおうと思って」

「大結界が巫女を選ぶまで、ねぇ。幻想郷もわりとけったいな代物に護られているんですね」

 結婚の報せとほぼ時を同じくして、霊夢は博麗の巫女としての力をすべて失った。空を飛ぶことも、退魔術を使うことも、御札や針を放つことも、なにもかもできなくなってしまった。

「やっぱりあれですか。未婚の女子にしか、巫女は勤まらないってわけですか」

「そんなことはないわ。かつては子持ちの巫女だって存在したもの。博麗の力っていうのは繊細でね、ほんのふとしたきっかけで消えてしまう。別に珍しい話じゃあないわ、酷いときは巫女本人ごと消失してしまう」

 原因は分からない。それを今更調べたところでどうしようもない。とにかく、次代の巫女を早急に見つける必要があった。

 博麗大結界は、巫女が不在だからといってすぐさま崩壊してしまうということはない。けれど巫女は結界の内外のバランスを保ち、また幻想郷の調和を調律する者である。長期の不在は、結界を含む幻想郷全体の不安定化を招いてしまう。

 ところが、誰でも良いというわけにはいかない。出自こそ幻想郷内外を問わないが、生まれながらの素質を持ち、また結界にも選ばれる人間の少女でなければ、巫女には成り得ないのだ。

 八雲紫でさえも、結界と巫女の関係性を完全に理解しているわけではないのだと述べ、静観の構えを見せている。時が来れば、結界の方が巫女を見出すのだ、と。

 結界の管理者にそう言われても、しかし安心できない心配性が、華扇を苛むのだった。今回は、いつもとは何か様子が違うような気がする。博麗の力の消失には、大抵は前兆があった。新たな巫女の選出にも、それとなく直感が働くのである。今回は、そのどちらも感じられない。風も無いのに蝋燭の灯がふっと消えたような、そんな心細さが付き纏う。

「しかしまた、急な話ですね。あの娘が所帯を持つだなんて、想像がつきません。人間の年齢で考えるなら、まぁおかしな話ではないとぎりぎり言えるのでしょうけど」

「まぁ、そうなんだけどね」

「……え、そんな、それも本当なんですか?」

「えぇ、まぁ、どうもそうらしいのよ」

「本当に、あの娘が……身籠っている?」

「医者が認めたわ。何から何まで、本当に急な話よねぇ」

 さとりは華扇を応接間へ案内しながら、袖を縛る紐を解く。

「いやぁ、もう、なんと言って良いものか。人間も所詮は動物ですね。あっという間に成長してしまう。霊夢が母親に。いやはや。そりゃあいずれはそうなるだろうと思っていましたが」

「目出度いことだけど、心配だわ。まだまだ頼りないところがあるから」

 屋敷の中は獣の匂いに満ちていた。それは餌の匂いであり、排泄物の匂いであり、生の匂いであり、死の匂いだった。それを不浄と嫌う者もいるだろう。けれど華扇にとってはそれらはあるがままの世界の発する香りだった。流石にそれに塗れて暮らしたいとは思わないが、それに触れたくないというのは傲慢だろう。獣も人間も、どんなに見目が愛らしかろうと、生きている限りはそこからは逃れられない。

 霊夢の婚姻も、つまりはそういうことなのだろう。彼女は誰からも愛された少女だ。暢気で調子に乗りやすい、ころころと笑う、そして何者にも縛られない少女だった。けれどそれは、永遠ではない。宙をしなやかに舞うその足も、いつかは地に降りる。重力に、世界に囚われてしまう。

「……誰からも囚われないということは、案外大変なのだと思いますよ」

 さとりが独りごちて、大きく重い扉を開く。


[Unconscious event begin]


「いま紅茶を淹れ――こいし、いつ帰っていたの?」

 ソファの上に、当主の妹が横になっていた。帽子を顔の上に乗せて、胸の上で手を組んでいる。葬式みたいだ、と華扇には思えた。

「まったくもう、前触れも無しに帰ってくるんだから。ほら、ちょっとそこを退きなさい。寝るなら貴方の自分の部屋で」

「――私の部屋?」

 こいしが平坦な声を上げたのと、さとりの表情が凍り付いたのは、ほとんど同時だった。部屋の中を巨大な静寂が通り抜けていく。

 遠くで、たぶん犬かなにかが吠えた。喧嘩なのか威嚇なのか分からないけれど、とにかく剣呑に吠えた。

「私の部屋さ、お姉ちゃん、もう無いよ」

 帽子にくぐもった声。誰のものでもあるような、誰のものでもないような、匿名になってしまう音。それはまるで、熱した鉄板の上に置かれたスライスバターのようにあっという間に形を失い、溶けて消えてしまう。

 こいしの部屋が、この地霊殿に無いなんてはずはない。

 そんなことはあり得ない、そのはずなのに、どうしてさとりはこんなにも焦燥しているのだろうか?

「――おくう、おくう! 返事して、聞こえないの?」

 室内の連絡機から、必死で焼却処理室を呼び出す。けれど応答は無い。炉の温度はすでに二千度を示している。ゴミの焼却のため点火された炉は、それが投げ込まれるのを、今か今かと待っている。

 先ほど、おくうが引いていた荷車、その荷は。

「こいし、一緒に来なさい」

 妹を強引に立たせて、ふたりはおくうの後を追う。華扇も仕方なくそれに帯同した。裏庭からさらに地下深くへ降りる昇降機に乗って、灼熱地獄跡へと降下する。

 さとりの深刻な表情とは対照的に、こいしの笑顔は軽薄だった。そこにはきっと意味なんて何も無く、ただそれしか知らないから笑顔を貼り付けているのだろう。

 古明地こいしの置かれている状況を、華扇も聞いたことがある。彼女は意識に上がらない。誰の記憶にも残らない。こいしが不在の場では、世界は彼女の存在を無いものとして扱う。この事実を知っている者であっても、こいしが目の前から消えてしまえば、何も思い出せなくなる。名前を見ても、それが誰のことなのかがまったく分からないのだという。

 俄には信じ難い症状だ。さとりの妹のことを忘れるだなんてできそうにないが、しかし仮に、忘れたことさえも思い出せないのだとしたら。その記憶改変とでも呼ぶべき現象が、誰にも気づかれることなくシームレスに発生しているのだとしたら。

 一切の証拠を残さない不在者に、果たして気がつくことができるのだろうか。

 黙りこくった三人を、昇降機が最下層へと吐き出す。

「おくう!」

 まっすぐ伸びる岩窟を、必死でさとりは走った。こいしの手を離さないように。こんなに必死なさとりを見たのは初めてだった。こいしはされるがままに、凧みたく姉の後を引っ張られていく。

 大きく開けた空間に、赤い炎柱がそびえ立っている。制御された神炎に向けて設けられたダストシュート、その傍に空は立っていた。荷車はもう空っぽだった。

「え、あれこいし様の部屋だったんですか?」

 目をぱちくりさせた後、その視線がうろうろと彷徨う。

「そうだったのかー。いやでも、いまさら言われてもなー。もう燃やしちゃいましたし」

「あーあ」

 こいしが他人事のように言う。間に合わなかった。すべては灰になってしまった。

「ま、しょうがないよね、お姉ちゃん。燃やしちゃったものは元に戻らないんだしさ。それに今までも何度か同じことがあったよね。私がいない間に、お姉ちゃんが私のこと忘れて、家の掃除をしちゃうって。それで私のベッドも、箪笥も、お洋服も、ぜーんぶ燃やしちゃって。うん、でも、しょうがないよ。私を忘れてしまうのはもうどうしようもないんだもん。たとえお姉ちゃんであってもね」

 さとりはただ、立ち昇る炎を見つめていた。そこにある感情を読み取ろうとでもしているかのように。真赤な灼熱の波動が、みっつの瞳に同じ鏡像を映す。

「――違うわ」

 その声はあまりにも弱々しく、華扇には懇願のようにも聞こえた。

「違う。違うのよ。そんなわけないでしょう。私が、こいしのことを忘れるだなんて。そんなこと、ないのよ。あり得るわけがない。これはそう。貴方がなかなか帰ってこなくて、いつまで経っても屋敷が散らかってたから、だから片づけただけのことよ。貴方のせいよ。私のせいじゃない。私は忘れてなんかいない。私は、私は、私がこいしのことを忘れるだなんて、そんなことは」

「お姉ちゃん」

「貴方が悪いのよ! 貴方が瞳を閉じていなければ、貴方が覚妖怪として生きていてくれさえすれば、こんなことにはならなかったんだもの。私じゃない。私のせいじゃない。私は、貴方のことを忘れてなんか」

「お姉ちゃん」

 こいしの声は同じトーンを保ち続けている。だからその変化に、華扇も気づくのが遅れた。

 こいしの第三の瞳が。

「こ、こいし様、それ」

 おくうの声に、姉はようやくそれに気がつき、息を呑む。

 紫色の器官が、第三の瞳の瞼が、姉と同じように開いていた。しかし、その中身は真っ白だ。そこに瞳孔はなく、のっぺりとした白い粘膜だけがある。

「お姉ちゃん、ごめんね。うん、ぜんぶ私が悪いんだ」

「あ、あ、貴方、いつの間に、そんな、その瞳は……」

「いつかは言わなきゃいけないって思ってたんだけど。これ、開いてみたらこうなっちゃってたんだよ。今度は上手く、覚妖怪としてもやっていけるかもしれないって、いろんなひとに出会って、そう思ったからさ。瞼を開けてみたんだ。でも、もう手遅れみたい。瞼を閉じても開いても、何も変わらなかった。もう心は読めない。元には戻らないんだよ。わたしのこれは」

 彼女は笑ったままだ。意識的に、あるいは無意識に。

「馬鹿みたいだよね。とっくに見えなくなってた瞳を、開けるか開けないかでずぅっと迷ってたなんてさ。とにかくもう、なにもかもが手遅れ。覚妖怪には戻れない。私はこれから、ずっとこのまま。何者にもなれやしないの」

「嘘でしょ? 嘘よね、お願い、嘘だって言って」

「ごめんなさい。私はもう、貴方の望む形にはなれない」

 姉妹の繋いだ手が、振り払われる。

「ごめんなさい。だけど、私はたぶん、こうするしかなかったんだよ。覚妖怪のままだったら、読心過敏を放っておいたら、とっくに壊れちゃってた。いや、いまも壊れてるんだけどさ。もっと酷い壊れ方をしていたと思うんだ。うん、きっとそうだよ。そう信じているよ。さもなければ――」

「こいし、待ちなさい、こいし!」

 気づいたときには、もうこいしは昇降機の中へ戻っていた。

「あぁ、でもね、お姉ちゃん。私はひとつだけ、怒っているよ。私のものなんていくら捨てられたって構わないけどさ、私の部屋にはひとつだけ、友達のものが置いてあったんだよ。そろそろ返してあげてもいいかなって思って、だから今日はそれを取りにきたんだけど」

 必死に駆け戻る姉へ、妹は小さく手を振った。

「じゃあ、またしばらく留守にするから。もう、無理して私のことを覚えていなくてもいいよ」

「こいし!」

 扉が、ギロチンみたいな音を立てて、閉まった。

 ただ、熱と光が巡る音が辺りを埋め尽くしている。ごうごう、ごうごう。まるで巨大な怪物の血流だ。この地の底からはるか天空にまで、太陽神のエネルギーは満ち満ちている。あらゆるところに張り巡らされた見えない鎖。すべての生命は、元を辿れば太陽の熱と光で生きている。この力とどこかで結びついている。

 結びついている、はずなのだけれど。


[Unconscious event end]


「……あれ?」

 さとりが困惑した表情で、ふたりを振り返る。

「どうして、こんなところに来たんでしたっけ」

「えっ、そういえばどうしてだろう」

「私は、ここが持ち場だもん。……あれ、さとり様、なんで泣いてるんですか?」

「え」

 地霊殿の主は、目元に手をやって、自分が泣いていることに初めて気がついた。どうしてだか、抑えようのない悲しみが胸に満ちていた。そんな馬鹿な。怨霊も恐れ怯むと言われる、この私が。

「……ちょっと炎に目をやられただけよ。気にしないで。まったく、どうして華扇さんをこんなところに連れてきてしまったのか」

 昇降機のボタンを押すけれど、まだ前客が上昇を終えていない。誰が乗っているのだろう。お燐だろうか。

「そうそう、おくう。霊夢さんが結婚するらしいわよ」

「霊夢、って誰でしたっけ?」

「貴方も闘ったことあったでしょう。地上から来た巫女よ」

「それって、どっちの巫女ですか?」

 うんうんと唸って悩み続けるおくうを、ふたりは微笑ましい気持ちで見ていた。忘れていたものも、時間さえかければ思い出すことができる。それが彼女の記憶である。

「山の神様のところにいるほうだっけ。いや、何か忘れてる気がするなぁ」

「博麗神社にいる紅白巫女のほうよ」

「色ってあんまりよく分からなくて。まぁとにかく、私の知ってる誰かさんにお目出度いことがあったということね。なら祝砲のひとつでも打ち上げましょうか」

「それはまた、直接会うときにね」

 飼い主の言葉に、地底の太陽は愛らしく咲いた。


















「ごめんね、こころちゃん」

 こいしの声は、昇降機の轟音の中で、虚しく消えていく。

「お面、返せなくなっちゃった」

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