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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
33/68

不慮/きょうじんはきょうじん

 晴れ渡る空は、高いを通り越してもはや遠い。細やかな雲が、遙かな上空に貼り付いている。鱗雲も紅葉も、今年最初の木枯らしが吹き飛ばしてしまった。里の人間たちも、急に冷え込んだ空気に冬を思い出したのか、慌ただしく年の瀬の準備を始めている。大人たちは忙しなく走り回り、子供たちは大人しくしているように言い含められて、そんなことは意に介さずめいめいに遊んでいる。吐く息の白が、日を追うごとに濃くなっていった。もう間もなく、初雪が降るだろう。

 命蓮寺にも、師走の忙しさが迫ってきていた。その月の名のとおりに、白蓮は毎日のように檀家を訪ね回っては、人々の年末年始の安寧のために力を尽くしている。住職の留守を守る星にも、毘沙門天の加護を当てにする大勢の参拝客が押し寄せ、他の者たちもその対応に追われていた。

 まさに猫の手も借りたいような状況だが、それに拍車をかけるのが寺へ厄介になりにくる妖怪少女たちの増加である。

 命蓮寺は、一泊から広く宿坊を解放している。晩と朝の修験に参加し、飯代を支払うことが条件だが、その対象は妖怪も人間も問わないとくれば、長雨や寒い時期には一宿一飯を求める者たちで混み合うのも当然であった。心安く過ごしたいのか、あるいは姦しく騒ぎたいのかはそれぞれだが、いずれにしても年の瀬は特別な時期であるという気持ちは誰しも変わらないのだろう。普段は幻想郷をぶらぶらしているような妖怪たちも、寺の宿坊に間借りし始めることが増える。

「――はい、ではここに名前を。こころさん、これで何人?」

「二十人。目一杯です」

「うーん、打ち止めかぁ。これ以上は申し訳ないけど、お断りですねぇ」

 村紗水蜜が台帳を閉じて溜息を吐いた。泊めてやれる人数にも限界がある。その数が多ければ多いほど寺はてんてこ舞いになってしまう。

 けれど水蜜の溜息は、その忙しさを憂いたものではない。受け入れを断らなければならない者たちの身を案じているのだと、そろそろ付き合いも長くなってきたこころには分かっていた。

「もうこちらのお手伝いは大丈夫ですよ。あとは私から満員だと伝えます。すみませんね、こころさんも貴重な休暇なのに、手伝ってもらっちゃって」

「構わないです。他に用事も無いから、部屋でぼうっとしているだけになっちゃうし」

 火男面がこころの顔の前でひょいひょいと弾む。

 こころも能楽師として多忙な毎日を過ごしていた。催事の増えるこの時期には、さまざまな場所で彼女にお呼びがかかる。自分が付喪神であることを、里の人間たちは知らない。薄々と勘付いているのかもしれないけれど、博麗神社で多数の公演を開いているおかげで、少なくとも害意のある存在だとは思われていないようだった。もう一時期ほどの能楽ブームは過ぎ去り、大勢の観客が集うことも少なくなったけれど、裏を返せばそれだけ演舞が身近になったわけで、ちょっとした機会への出張依頼が増えている。

 里での仕事が多い分、必然的に距離の近い命蓮寺に世話になることが増えた。仕事の合間には感情をコントロールする修行もできる。まさに一石二鳥であった。古株になりつつある彼女は、こうして混雑するときには様々な手伝いを買って出ていた。

「まったくもう、こいしのやつも手伝ってくれればいいのにな」

「あぁ、こころさん、まだお手伝いいただけるなら、女苑が洗濯物を取り込んでいるはずなので、それを一緒にやってもらってもいいですか? あの娘がいくら要領が良いといっても、あの布団の量では大変でしょうし」

「うん!」

 こころは落ち着き無く飛び跳ねながら、中庭へ向かった。感情が思わず弾けそうになる。晴れの日は自分を抑えるのが大変だ。

 疫病神、依神女苑はいつも通り、ぶつくさ言いながらもくるくると働いていた。重そうなネックレス、ごつい指輪。ごてごてと着飾った彼女を見るたびに、重くはないのだろうかと心配になってしまう。しかし女苑はいつでも、ネズミのようにすばしっこい。そのうえに手指の動きは精密で、つぎつぎと取り込まれていく布団はきっちりと丁寧に折り畳まれている。

「おいこら面霊気、ぼけっと見てるだけなら手伝いなさいよ」

「はーい」

 女苑もこころと同じで、寺に住んでいるわけではないが宿坊をしばしば利用する妖怪(というと本人は目を釣り上げて「神様よ」と怒るけれど、似たようなものだとこころは思う)である。何日か修行をしていたと思ったら嫌になったと逃げ出して、そのくせしばらくすると戻ってくる。それを繰り返すことを白蓮も誰も強く咎めない。こころにとっては不思議なのだけれど、これでも疫病神は少しずつ変わりつつあるようで、以前よりはとっつきやすくなってきたようにも感じる。

「あーもう! どうして私がこんなしみったれた無賃労働をしなきゃならないのかしら。やってらんない。どこかで適当なお大尽を掴まえてパーッと豪遊したい。てゆーかお酒呑みたい」

 とはいえ、今の彼女は寺から逃亡寸前のモードであった。

「ねぇ面霊気、こっそり抜け出してさ、遊びに行こうよ。お金ならまぁ、その辺でどうにでもなるから」

「それはいけません。これを片づけないと皆さんが就寝できません」

「クソ真面目め」

 吐き捨てる疫病神だったが、なんだかんだで作業は続けるのだから、女苑もまた根は真面目なやつなのだろう。

 こころが加わって布団が片づく速さは倍になり、すべての布団を取り込んでもまだ陽は沈んでいなかった。

「……あれ、女苑さん、これ」

 仕分けられた布団の山を見て、こころはすぐそれに気づいた。面倒臭そうな顔を隠すことなく向けた女苑に、こころは指差しで訴える。

「どうしてこいしの分をお客さん用の方に入れちゃうんですか?」

「あぁ? 何の話よ。今夜は控えの布団も全部出さなきゃ追っ付かないでしょうが」

「でもこれ、こいしの……」

「だから、誰よそれ」

 女苑の視線がどんどん怪訝なものになっていく。棘がどんどん鋭くなっていく。

 またか、とこころは思った。この齟齬は初めてではなかった。

 古明地こいしのことを、皆すぐに忘れてしまうのだ。彼女が目の前にいるときには普段通り接するくせに、不在になると同時に、まるで最初からいなかったかのように扱う。命蓮寺の皆だけでなく、誰もがそうだった。彼女のいないところでは、彼女の存在を記憶していることができないようなのだ。

 ただひとり、秦こころを除いて。

「いまは女苑も忘れているのかもしれないが、でもこいしは私と同じ部屋を使っているんだ。今夜はきっと寺に帰ってくるから、布団が無いときっと困ってしまう」

「いまは、って何よ。訳の分かんないことを。私が一度会ったひとの顔と名前を忘れるはずないわ。ましてやこの寺に入り浸ってる連中の顔なんて飽きるほど見てるっての」

「でも」

「でももヘチマも無いわ。一輪から言われたとおりにしてるんだから、文句があるならあいつに言いなさいよね。ほら、白蓮、星、水蜜、一輪、響子、ぬえ、マミゾウ、あんた、そんで私。全員分がしっかりここに積んであるでしょ。出鱈目抜かしてからかってるんなら承知しないわよ」

「出鱈目ではない!」

 ついに般若面を取り出して、こころはこいしの布団を力任せに引き抜いた。丁寧に積まれた毛布の塔が、その中程を崩されて、無惨にも倒れていく。

「ちょっと、何してくれてんのよ!」

「私が、我々が嘘を吐いていると!? 馬鹿にしやがって」

「はあ? 馬鹿なことを言ってるのはあんたでしょうが! いもしない奴をいるだなんて言って、どうしてそんなことまでして布団をちょろまかそうとしてるわけ? 餓鬼が一丁前に男でも連れ込もうってか」

「こいしはいるよ。何度言えば分かるんだ!」

「んな大嘘を何度言われても理解できないね」

「このやろう!」

「お、やんのか」

 こころが長刀を構えると、女苑もファイティングポーズで返す。空気が沸騰し、夕景が暗転し、闘気が衝突する。旋風が巻き上がって、布団がめいめいに散乱していく。

 睨み合うふたりの、何かに染まった視線。疫病神も面霊気も気づいていない。その狂騒の色、異常な熱気に。

「――はっ!」

「――しゃっ!」

 ほとんど同時に、両者が動く。

 竹を割るように振り下ろされた長刀の、真一文字の軌跡が。

 隙を縫うように間合いを詰めた握拳の、緩急自在な残像が。

 刹那、交錯。

「――こらこら、何事ですか」

 しかしそこに、金色の獣が割って入った。

「こころさん、抑えなさい。また感情が漏れ出していますよ」

「……ごめんなさい」

「女苑さんも、そのすぐ喧嘩を買う癖は改めるべきでしょう」

「な、何も本気で喧嘩しようだなんて、そんなことは」

 刃をその槍で、拳をその掌で受け止めながら、寅丸星はしかし、微笑みを崩さない。

 白蓮の傍らで毘沙門天を名乗るだけあって、星の実力は寺の他の者たちより頭ひとつふたつ抜けている。大妖怪であるところのぬえやマミゾウが命蓮寺で大人しくしているのは、住職だけでなくこの本尊も油断ならぬ強者であることを見抜いているためだ。寺の中で起こる諍いをこうして直接割り込んで止めることは、暗黙のうちに彼女の役目のひとつとなっていた。

 ふたりを並んで正座させると、星もそれに相対して正座した。

「何があったのか、話してみなさい」

「……こいつが妙なことを言い出すもんだから、ついカッとなって」

 女苑が経緯を話すのを、こころは黙って待っていた。ぐらぐらと煮え返る怒りが、また外へ出てしまわないように胸を抑えながら。

 ふと、正面の袖に目が留まった。星の着衣の、そこだけにやたらと皺が依っていた。さきほど交錯したときに擦ったのだろうか。しかしそれなら、もっと満遍なく衣服が乱れていそうなものだけれど。星は常日頃から、本尊として相応しい威容を保つべしと自らを厳しく律している。衣服の乱れは心の乱れだ。彼女ほどの猛者の袖が、喧嘩を止めただけであんな風になるだろうか。

「こころさん?」

「……………………」

「こころさん、聞いてますか?」

「え、あ、はい、聞いてません」

「はぁ。まぁ、素直でよろしい」

 星は怒らない。どんなときでも微笑んでいる。

 なんて強いひとなんだろう。こころは羨んだ。自分もこんなふうに強ければ、感情に翻弄されて苦しむことはなくなるのだろうか。

「星、これでいいですか」

 水蜜が帳面を手に現れて、星は謝意とともにそれを受け取った。先ほどまでこころも見ていた、宿坊の利用者名簿である。こころや女苑のように頻繁に宿坊を利用する者であっても、当然ここに名前が書かれている。

「こころさんが仰ることが確かかどうかは、これを見ればすぐに分かることじゃないですか。どうしてそんなにムキになって怒ることが――」

 星の紙を手繰る手が、そこで止まった。

 女苑が立ち上がり、肩越しに帳面を覗き込んで、息を呑んだ。

「嘘でしょ、名前、書いてある」

 それ見たことか、とこころは鼻息を荒くした。こいしも宿坊に泊まっているのだから、自分の名前をもちろん記帳しているはずだ。何もおかしい点は無い。

 けれど星は、女苑は、そして水蜜さえも、まるで幽霊でも見たかのような表情で。

「え、誰、これ。ぜんぜん知らない名前なんですけど」

「私もとんと覚えが。古明地、ということはまさか地底の関係者とかですか」

「いや、地底暮らしは長かったけど、あのさとりに身内がいたなんて話は聞いたことがないです」

「こんなの、あいつが出鱈目を書き込んだに決まってるじゃん」

「だから出鱈目ではないと言っている!」

 こころは再び噴き上がった。信じられない。こんなに決定的な証拠を見せつけられても、まだ分かってもらえないのか。ひょっとして、皆して自分をからかっているのではないだろうか。こころを嘲笑って楽しむために、寺の皆が共謀しているのかもしれない。そんなことは考えたくもないけれど、でも状況から考えるとそうとしか思えなかった。

 しかし、まずい。また怒りが爆発してしまう。そう自覚したときにはもう遅く、すでに大鍋は噴きこぼれてしまっていた。慌てて蓋を抑えるものの、女苑は再び剣呑な目つきになってしまったし、水蜜の瞳も笑ってはいない。ただ星だけがいつも通りで。

 いや、違った。彼女は自分で自分の腕を、爪を立てて強く握りしめていた。先ほど皺が気になったあの部位だ。あれは彼女自身が怒りを鎮めるために、正気を保ち続けるための行為だろう。

「違う、私は、嘘なんて吐いてない。本当なんだ。どうして皆忘れたって、知らないって言うんだ。だってこいしは」

「とにかく」

 星が立ち上がる。その威容が絶対の裁定を下す。

「今夜は満床なのですから、布団を遊ばせておくわけにはいきません。女苑さん、あと水蜜も、大広間へ布団を運び込んでおいてください。こころさんはこちらへ」

「えっ……どこへ?」

「私と一緒に来てください。聖が戻ってきたら相談しなければ。いないものをいるとたばかるよりも、いないものをいると本気で信じ込んでいるほうがまずい」

「違う、違うんだってば」

 自分がどんどん小さくなっていくような感覚。

 世界のすべてが自分を睨んでいるかのような。

 おかしいのは、世界ではなくて。

 見えないのは、空隙ではなくて。

 いかれたのは。

 くるったのは。

「違う、違う、違う……」

 手を引かれるがまま、こころは歩くしかなかった。見知ったはずの廊下が冷たくて、足の裏が剥がれそうだった。身体が、心が、裏返っていく感じがする。こんなときはどんな表情をするんだろう。顔が分からない。これはなんていう感情なんだろう。だめだ、だめだ、溢れさせてはだめだ。それだけは許されない。私には許されていない、我々には。

 見えているのに。覚えているのに。忘れてはいないのに。

 私は、許されていない。

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