渇望/オーバードーズ
地平の先の空が、真っ赤に染まっている。
それが朝焼けのせいなのか、それとも街かなにかが燃えているからなのか、こころには分からなかった。何日も何日も、昼も夜もなく歩き続けたけれど、東の空にはいつもその赤があった。けっして気持ちの良い光ではない。あれに近づいてはいけないと、そんな予感すらしてしまう。それはこいしも同じだったようで、だからふたりの足は必然、西へと向かうことになった。太陽を追いかけるように、ただひたすらに真っ直ぐに、ふたりは進んでいた。
すべては、焼き尽くされていて。
すべては、殺し尽くされていて。
「お姉ちゃんが掃除したあとみたいだ。うちのお姉ちゃんさ、普段は掃除なんてしないくせに、いざ始めると徹底的にやるの。床は角の端っこまできっちりやらなきゃ気が済まないし、埃のひとつでも残っているとツノ出して怒るんだ」
こいしはそう言って、にははと笑った。
「誰かが、外の世界をそんな感じに綺麗さっぱり掃除してるんだよ」
「私たちはゴミなのか」
「その誰かさんにとってはそうなんだろうねー。何もかもを踏みつけてやりたくて仕方がないんだ」
こころには、誰かさんとやらのその気持ちが、分からないでもなかった。誰も彼もが疎ましくて、憎くて、恨めしい。みんな消えてしまえばいい。怒りがこころを突き動かすとき、そんな気分になることがあった。
「……でも、それはいけないことだ、って、白蓮が言ってた」
「いけないこと、って何が? その思想を実行に移すこと? それとも、そう思ってしまうことそれ自体?」
「え、それは」
「別にさぁ、考えるだけなら自由だよねぇ。お姉ちゃんでもあるまいし、頭の中で考えることまで誰かに知られるわけでもないし」
「けど、思い浮かべているうちに、現実になるんだ。夢に見たものは、叶ってしまうものだから」
「あは、なにそれ。それじゃあいいことを教えてあげるよ」
こいしはふわりと跳び上がって、瓦礫の山のてっぺんに着地した。東の空の赤を受けて、彼女の表情はまるで、たっぷりの返り血を浴びているようだった。
「妖怪でも人間でも、ムカついた相手を殺してやるって、そう考えたことのないやつなんて、ひとりもいなかった。私、知ってるんだよ。いつもその心を聞かされていたから」
瓦礫の中でも足場の良さそうなところを選んで、こころもひょいひょいっと後を追う。
いつの間にか、高台の上まで来ていた。急峻な斜面を下った先には、大きな街だったであろう残骸が見える。そして、その先には。
「海だ!」
「え、ホント? また湖だったとかいうオチじゃない?」
「あんなに長くて、向こうに山の無い水平線、初めて見た! 今度こそ海だよ、こいし。行こう!」
こころはこいしの手を取って、駆け出した。
海を見たい、と最初に言い出したのはどちらだったか、思い出せない。こいしならば言いそうなことだし、自分が言ったのだとしても何もおかしくはなかった。もう、今となってはどっちだって構わない。こいしとふたりで海へ行くことが、こころのすべてになっていた。他のものはどうだっていい。思い出したくもない。考えたくもない。
海へ行って何して過ごそうか、なんて。
海へ行った後はどうしようか、なんて。
斜面を駆け下りると、海まで一直線に伸びる広い道に出た。建物はことごとく崩壊しているけれど、舗装された道の中央はほとんど無事だった。まるでふたりのために用意された花道みたいだった。
「あぁ、臭うねぇ」
けれどこいしの声は、こころとは違って何も楽しくはなさそうで。
「お燐の好きそうな臭いだよ」
確かに、進むにつれてだんだんと雰囲気はおかしくなっていく。開けた空間へ向かっているはずなのに、空気はどんどん籠もっていく。海辺の街に、重苦しくて見えない何かが圧しかかっている。
突き当たったところは広場みたいになっていた。屋根だったのだろう残骸が散らばっていて、もうほとんど遺跡だった。屹立したコンクリートを縫うようにして、こころたちは先へ進む。
ふたりは知る由も無かったが、そこは魚市場だった。砕けた建物の先は、穫れた魚を下ろすための船着き場になっていた。防波堤で外海と隔てられたその場所は、紛れもなく海だった。
「……う」
あんなに焦がれた場所を前にして、しかしこころは鼻を覆わざるを得なかった。あまりにも酷い、酸味すら感じる臭いだった。
目の前に広がる光景も、話に聞いていた海とはぜんぜん違う。柔らかく波打つ青い水はそこには無い。真っ黒でぶよぶよした何かが、一面を覆い尽くしている。港の内も、その外も。見渡す限りに、粘つく何かが浮いていた。
これは。
こころは怯んだ。
これは、本当に海なのか。
海は、もっと綺麗で、安らげる場所で、こいしと目指すのに相応しいところで。
「う、あ、」
何がなんだか分からなくなって、動けなくなったこころを後目に、こいしは辺りをきょろきょろと見回す。そして「あった」と声を上げ、持ってきたものは得体の知れない焦げた肉塊だった。猫か、犬か、烏か、人間だったものだろう。
そしてそれを、黒い海に向けて放る。
黒い粘体が、肉塊をぼすんと受け止めた。するとやがて、じゅうじゅうと胸の悪くなる音が立ち始め、肉塊は白い煙を上げながら黒く炭化していく。
「ここも徹底的にやられたんだなぁ」
こころはもはや臭気に涙すら浮かべているけれど、こいしは平然としたままだ。
「街が焼かれれば、海へ飛び込む。あいつはそれも分かってたんだ。だから海に毒を流した。飛び込んだものはぜんぶ溶かされてしまって、なれの果てがあの黒いネバネバというわけ。炎に焼かれて死ぬか、海に溶かされて死ぬか、どっちが楽だっただろうね」
そんなことは考えたくもなかった。あんなに行きたくてたまらなかった場所が、地獄みたいな惨状になっているだなんて、こころには受け止めきれなかった。こいしは地底世界での生活が長いから、こんなことにも慣れているのかもしれないけれど。
港に背を向けて、街の外れまでとぼとぼと戻る。真っ黒な死から、できるだけ離れたいと思った。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろう」
呟いた言葉は、死臭に満ちた潮風に巻き取られていく。
山よりも巨大なあの機械――神子は瞋恚と呼んでいた――は、外の世界を徹底的に破壊し、生きとし生けるもののすべてを踏み潰してしまった。それは比喩でもなんでもなく、街も山も焼き払ったという意味だ。こころもその標的になっているようで、少しでも気配を漏らすとあれは即座に出現し、爆撃を加えてくる。
けれど、この世界でただひとり、こいしだけは見つけることができないようだった。彼女の無意識を操る能力が、意識など無いはずの機械にどうして通用するのかは分からないけれど。
そして、こころを追っているのは瞋恚ばかりではない。結界の強度を数百倍に上げてあれの襲来を防いでいる幻想郷から、こころを捕縛するための追っ手が何度も襲ってきている。強引な方法も辞さない皆の態度は、それがただ単に連れ戻そうとしているばかりではないことを雄弁に物語っていた。
どうして、こんなことになったのか。
その答えを、こころもこいしも、持ち合わせてはいない。確実な事実は、こいしの他の存在はすべて、死んだか敵になったかのどちらかだということだけだ。
風と日光を凌げて、臭いもあまり気にならない場所に、ふたりは座り込んだ。もう目指すべき場所は無い。逃げるあてもなにも無い。こころにはどうしたらいいか分からなかった。
動くことを止めた瞬間、疲労が津波のごとく押し寄せてきた。下りてくる瞼になんとか抗いながら、相棒の袖を引っ張る。
「すまん、少し、寝る」
「寝顔見てても良い?」
「好きに、しろ……」
すとん、と眠りに落ちていく。ずっと覚醒し続けていることは誰にもできない。眠らずに生きていくことなんてできない。それは妖怪であろうと神であろうと、等しく架せられた定めである。
ふと気づくと、こころは闇の中に立っていた。いや、横たわっているのかもしれなかったが、そんな違いはどうでもよかった。夢の中で、体を真っ直ぐに伸ばしたまま、彼女はとにかくそこに存在をしていた。上下も左右も前後も分からない。光も音も感じられない。自分がいるのは確かに夢の中なのに、こころは夢を見ていなかった。そこには何も無かった。
こんなことは初めてだった。眠っていることははっきりと分かるのに、何も夢に現れないなんて。
こころはしばらく待ってみたけれど、世界が変化する様子はない。わずかな光のひとつすら出現しない。自分の身体のほかには、本当に何も無い夢だった。いや、身体すらここにあるのかどうか不明だ。そう思いこんでいるだけなのではないだろうか。だんだんと恐ろしくなってくる。何も無い、というのは本当だろうか? この夢には果てすらも存在しないで、自分は星すら見えない宇宙の真ん中に独りぼっちなのかもしれない。それとも、手の届かない位置に自分を包む繭のようなものがあって、そこに監禁されているのかもしれない。
溢れ出す。それが分かる。
こころは完全に恐怖した。
感情の波動が漆黒を伝播していく。こころという穴が穿たれて、別次元の大海原からそれが際限なく放出されていく。何も無い空間を、あるいは何かで満ちている空間を、強力な奔流が駆け巡った。
けれど、それすらも無為に終わる。感情の波動が、どこにも到達しない。それを観測する誰かが存在しないのだ。彼女の恐怖を聞き届け、理解する者が、意味を見出す者がいない。たった独りの世界においては、どれほど巨大な感情爆発を起こしたところで、それは単なる力の放出に過ぎない。
いやだ。こころは叫んで、しかし声は聞こえない。喉も耳も、そこにあるのかどうかすら判然としない。自分はここにいるのに。ここで夢を見て、生きているはずなのに。光が無い。透過している。すべては自分を通り過ぎて、干渉しようとしない。感情が、どこにも行けない。
狂乱しながら、振り回していたのだろう手が、ふとそれを掴んだ。
いや、物体ではない。だから掴んだわけじゃない。その存在に気が付いた、と表したほうが正しいかもしれない。こころはふと、自分自身の内側を振り返っていた。ぬいぐるみを裏返すみたいに、めくれ返った頭で自分の頭を覗いている。感情がやってくる、その源、さらにその先を見ていた。
激烈な水圧、その透明な槍を透かして、何千億光年も先。
あまりにも小さくて、肉眼では捕捉できないくらいの光。
たぶん、暴力的な暗闇のなかだからこそ、こころにはそれが見えた。それは確かに、手の届かない世界で煌めいていた。微かな細波の音。灯った、と思ったらその傍から消えていく、火の粉よりも儚い輝きが、明滅しながらこちらに流れ込んでくる。ぬるりとした温もりが、絶対零度の世界をほんの少しだけ暖かくする。
――海だ。
こころは確信した。あれこそがそうに違いないと思った。だからそこに行こうと思って、穴を潜り抜けようとして、手を伸ばした。指が、手首が、腕がその穴へと入っていく。爪がどこかに当たって、じくりとどこかが痛んで、すると水圧が跳ね上がった。まるでそれ以上の侵入を拒むように。
それでも、この先に目指す場所がある限りは、諦められなかった。あの場所の他には、この世界には何も無いのだから、諦める意味も無かった。
だから届くまで、手を伸ばす。
伸ばすことのできる手がある。
その意志こそ、それを信じる力こそを、希望というのだと。
あの海がそう定義していること。それを彼女が知るのは、まだ先の話であったけれど。
「……!?」
誰かが、彼女の足を引いていた。
抗議しようと、振り向いた瞬間。
意識が覚醒した。死臭のする港町の片隅、瓦礫の影。こころが眠りに落ちた場所。
彼女の腋に腕を差し込んで、身体を抱き上げる誰かがいた。見覚えのない、いやあるような、いずれにしても正体は分からなかった。確かなのは、燃えるように渦巻く感情が、明らかに人間のものではないこと。
「いい子ねぇ」
ぜんぜん似ていないのに、雛のことを思い出した。厄神が優しいけれど恐ろしいひとだったように、目の前の女も愛と恨を持ち合わせているのが分かる。けれど感情の絶対量の桁が違った。渦巻く圧は異常だった。たぶん、それだけでもって存在し続けているひとなのだろう。
傾きかけた太陽が、彼女の金髪を鮮烈に輝かせる。
「信じてもらえなくてもいいけれど、私は追っ手じゃない。まぁ、彼女たちは私を追っているでしょうから、貴方からしてみれば同じことでしょうけど」
「だ、れ……?」
「私はもう名前を忘れた。単なる憎悪の仙霊であった。けれど最近は人付き合いも増えたものだから、皆は私を純狐と呼ぶようになったわ。貴方もそう呼びたいなら呼ぶといい。まぁ、きっと邂逅もこれっきりになるのでしょうけど」
純狐はそう言うと、小瓶をどこからか取り出して、その封を開けた。
「私は確かめるために来ただけ。今この星で起こっていることを、しっかりと理解しなければならない。借りも返さなければならないしね。そしてそのためには――」
何がなんだか分からないこころの、その口に小瓶が押し込まれる。液体はなんの抵抗も無く、こころの舌を、喉を通過していった。
波の音が、聞こえたような気がした。
「……けほっ、けほっ」
空になった瓶を放り捨て、純狐はこころを地面に下ろす。
まだ力の入らない身体を、傍らのこいしにもたれ掛かるようにして支えた。こいしはぽかんと純狐を見上げるばかりで、彼女もまだ起こっていうことを理解していなかった。
「何を……いま何を飲ませたの?」
「味を感じた? 身体は燃えている? 溢れ出て注ぎ込まれる力を感じるかしら? 貴方の身体は、まったく別のものに作り変わっている?」
「意味が、分からないよ」
瓶の中身は、真水としか思えなかった。味なんて何も感じなかった。
「……そうか。何も起こらない、か」
その表情は、薄く笑ったまま変わらない。何を期待していたのか、あるいは何も起こらないことこそ期待していたのか。絵に描いたように美しい顔、そこからは何も読みとることができない。
「それならば、そういうことなのでしょう。やはり薬に同じ薬を足しても、元の薬のままよね。貴方にとっては非情な事実だけれど」
「私を、捕まえに来たんじゃ」
「それは私の仕事じゃないわ。彼女みたいな連中の仕事よ」
純狐が振り返り、半身になったその向こう。
「――なるほどね。古明地のところの妹が一緒だったのか」
そこに、死神が立っていた。
巨大な鎌を携えた赤髪の死神は、やはりその顔を鏡の面で覆っていた。つかつかと歩み寄ってくるその足には、一切の迷いが無く。
「それならなかなか捕捉できないのも納得だ。何せ記憶に残らない。今の今まで、存在すら思い出せなかった。忘れたことすら覚えていられない、ってのは厄介極まりないよ。そこの仙霊が見つけてくれなけりゃ、どんな事態になっていたことか。想像もしたくないね。けどまぁ、あたいが首尾良く目標を捕捉した。逃亡もここまでだ」
「こころちゃん、逃げよう!」
手を取ったふたりは、弾かれるように駆け出した。
死神の声には、こころも聞き覚えがあるような気がした。博麗神社の宴会か何かで見かけたのだろうか。こいしが珍しく狼狽えていた。彼女の何かが危険なのかもしれない、と思ったけれど、こころにはその理由が分からなかった。
是非曲直庁の死神が行使する、決定的な能力を知らなかった。
「……追わなくてもいいのかしら?」
「もう捕捉した、って言ったろ」
小野塚小町は、慌てる素振りも見せず、鎌を悠然と担ぎ直す。
「その面、熱苦しそう」
「仕方ありませんや。誰もが貴方みたく、面霊気の感情同調に耐えきれるわけじゃない。それよりかねぇ……いったい何を飲ませてたんです?」
「涙を」
「……今なんて?」
純狐は小首を傾げた。そして小町を値踏みするようにじろりと眺め回した。
「貴方に理解できるかは分からないけれどね、まぁ教えたげるわ。最後かもしれないですし。あれこそは涙。感情の源。蓬莱の薬師が製錬した究極のひと滴」
「薬師? 竹林のですかい」
「かつて私は、泣き暮れて過ごしていました。悲しみから、憎しみから、ただただ涙を流していたのです。それはあまりにも苦しい日々で、初めはどうにかして逃れようとしました。けれど、何をしても無駄だった。どうしても子を奪われた悲しみは消えなかった。涙が止まることはありませんでした。泣いて、泣いて、私は涙の中に沈み、溺れ、そして気づいたときには人間としての身体を失っていたのです。でも、それでも私は泣き続けた。瞳も瞼も無いはずなのに、涙は流れ続けた。悲哀も憎悪も、私を逃がしてくれはしなかった。永遠にも思える時間を泣き続けて、ある日、ふと思い当たりました。ひとの形を持たぬ者たちは、涙を流さない。感情のままに涙を流すのは、人間と妖怪と神だけなのだ、と。獣も虫も草木も涙を流すことはなく、そして喜怒哀楽で狂ったりはしない。ならば、ひょっとしたらこの涙は、私が悲しいから流しているのではなくて、流れる涙こそが私を悲しくさせているのではないだろうか。そして人間の身体を失っても、仙霊として在り続けている私は、涙によってそうさせられているのではないだろうか」
鏡面に、純狐の顔が丸く歪んで写る。
「そう、涙こそが、ひとをひとたらしめ、命を命たらしめている源泉なのではないか。循環する涙が感情となり、感情が絡み合って魂を形成し、身体と合一して生命となることで、私は私となったのだ。ならば私は、涙の他は何も要らない。ただ純粋なる憎悪と化して、復讐の本懐を遂げよう。――私はそう信じ、そして実行しました。私は不純物のすべてを拭い去り、そして今に至ります」
「いや、貴方の身上話はいいんだけどね。それとさっきの薬がどう関係するんです?」
「涙はトコツネより流れくる、魂の原料です。ひとの身体に流れるものは何億倍にも希釈されているけれど、それですらその身体に膨大な魔力を与える。ではそれを濃縮し直し、原液に近いものを精製して、それを摂取したなら? 涙は身体に無限の流入を開始し、魂は滅しても即座に復元され、必要ならば身体も再構築される」
「……おい、それって」
「その者は無尽の生にまみれるでしょう。つまりは究極の穢れを負う。本来であれば数百億年が必要な輪廻を一瞬のうちに通過し、死んだ傍から生まれ変わる。傍目には死なない身体を手に入れたように見える。有史以来、実に多くの権力者たちがそれを求めた。愚かな嫦娥もまたそれを求めた。八意永琳は、そんなことのために薬を作ったわけではないというのに」
「蓬莱の薬師、そういうことか。くそっ、どうして思いつかなかったんだ。万事解決できるじゃないか。面霊気が死なない身体になれるなら……蓬莱の薬さえあれば!」
「でも、それは不可能なのです。私が確かめたかったのはその事実。……本当に、追わなくてもいいの?」
「そっちの心配は要りませんて。それより、不老不死の薬が効かないってのは、いったいどういうことなんです?」
「だから、不老不死の薬ではないというのに。効き目が現れないのは単純な理屈です。薬に薬を混ぜ込んでも、薬の量が増えるだけでしょう」
「はぁ」
「そして我々にとっては不都合なことに、涙自体は永遠に保つわけではない。いくら純度が高かろうと、代謝が無ければいつしか腐り、淀んでしまう。つまり結論から言えば、貴方がたの策に変わりはありません。こればっかりは、忌々しい月の民とも、意見が一致します」
「なんだか理屈はぜんっぜん分かりませんけど、とにかくぬか喜びってことですか。じゃあやっぱり、面霊気をぜったいに死なせないようにするには――」
「えぇ、彼女を確保し、収容するしかない。どんな侵略者であろうと手が出せない、無間地獄のさらに下層へね」
「やっぱりそうなるのか、ちくしょう」
忌々しげに鎌の柄を地面に打ち付けて、小町はこころが逃げた方角へと顔を向けた。その背中はもう見えない。けれど彼女にとっては、見えるかどうかはさほど重要ではなかった。もはや彼我の距離は掴んでいる。死神の技能は、それを操ることであるのだから。
「まったく嫌になっちまう。あの娘が何をしたっていうんだ。理屈じゃ正しいのかもしれないが」
「月の民が個人の事情を勘案するとでも? それに我らの側だって、手段は選んでいられない」
「それが嫌だって言ってるんです。はぁ、いくら死神の仕事は理不尽と言ってもね、今回は相手が死んですらいないんだ。生きたまま地獄の奥底に閉じこめる、って仕事までうちらの管轄にされたんじゃあたまりませんや」
「……そろそろ、油を売る時間も無くなってきたようよ」
唇に立てた人差し指を当て、純狐は会話を打ち切った。
低い音が聞こえる。藍色に染まった東の空に、不格好な光が揺らめいている。星ではない。地鳴りのようなこの音は、自然現象によるものではない。
「もう勘付かれたのか。やっぱり、どんどん反応が早くなってきていやがる。貴方もさっさと逃げ――ってもういないし」
消えた純狐は、おそらく幻想郷へ転移したのだろう。地球から連なる生命圏で瞋恚の脅威から護られている場所は、あそこを入れてももはや数えるほどだ。
観念した小町は、宙へ差し出すように右手を上げる。彼女の是非曲直庁での肩書きは三途の川渡しだが、庁職員であれば誰もが死の与え手としての力を行使できる。すなわち、死との距離を一瞬でゼロにする能力だ。三途の川の幅を操作する能力も、この力の応用に過ぎない。
死とは、等しく平等に、そして唐突に訪れる。
いつ何どきであっても。誰に対してだろうと。
「だから、恨まれることには慣れっこなんだけどねぇ」
死神の訪問には、前触れというものなど無い。
気が付いたときには、その背後に立っている。
「…………えっ」
面霊気は、何が起こっているのか、分からないままに固まった。
逃げていたはずの自分の身体が、元の場所まで戻っている。そして肩には、しっかりと自分を捕まえている手が。
「やぁ、お前さんはよくやったよ。たったひとりで、錚々たる面子からこれだけ逃げ回ったんだ。自慢していい。あんなに苛ついてる太子殿は見たことがなかった。こちとらあのデカブツにいつか踏み潰されて、全部おじゃんになっちまわないかって冷や冷やしっぱなしだったけどね」
こころは必死で身体を捩るけれど、その手はぴったりと吸い付いていて離れない。距離を開けることを許さない。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ、いけないのに。
「こいし! どこ行った!? さっきまでここにいたのに」
「あん、誰だいそいつは。協力者がいたなんて話は聞いてないが。まぁ誰がいたとしても、もう遅い」
肩にくっついていた手が、首筋を這い頬を通過して、口を塞ぐ。
「もう、おやすみ。せめていま暫くは、世界を見ないほうが良い」
何かの力が、流れ込んできて。
こころは意識を失った。




