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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
3/68

震撼/ひらき

 龍が生まれたのだ。鍵山雛はそう思った。

 それはあまりに大きな、けれど声なき慟哭だった。妖怪の山すべてを震わせるほどの巨大なうねりが、異常な波動となって辺りを支配していた。鳥や獣は一目散に逃げ出している。谷川の水さえも、普段より忍んで流れているように見える。

 ただ極彩色の神霊たちだけが、その源を求めて飛んでいた。

 風の渦を巻き上げて、雛は梢の天辺まで舞い上がる。この波動がどこから来るのかを探ってみると、どうやらここから数里先のなだらかな山麓の中程、オオガメ沢の辺りであるようだった。目に見えない炎が、天を衝かんばかりに燃え上がっている。厄神は目を細めた。

 頃は夏の盛りである。まだ昼というには早い刻だけれど、雲ひとつない空に輝く太陽は力強い。雛の頬をひと筋の汗が伝った。それは暑さによるものか、それともあの強大な気配のためか。

 そう、まるで夏の太陽が、もうひとつ地上に生じたかのような事態だ。

「――鍵山殿」

 汗の滴を、一陣の風が吹き飛ばす。梢ががさりと揺れ、雛の立つ枝とは幹を挟んだ反対側に、白い影が降り立った。

「あら、椛ちゃん。貴方もあれの様子を視に?」

「もちろん。職務ですので」

 犬走椛――哨戒役の白狼天狗は、いつもよりも真剣な眼でそう言った。彼女は御山の天狗たちの中でも優秀なことで知られている。優秀だというのはつまり、指示には従順で掟には背かないという意味である。忠犬という言葉をそのまま形にしたらこうなるのだろう、と雛は思っているが、口にはしない。犬扱いすると尾を逆立てて怒るからだ。

「職務なら、私と油を売ってる暇は無いんじゃない?」

「もう隊の連中はとうに向かっておりますよ。ただ私は、貴方に確認しておきたいことがありまして」

「私に?」

「昨日、人間の女をひとり、追い返していましたね。それも身重の」

 風に煽られてか、不可視の炎が一際大きく燃え上がった。神霊たちがそこへ吸い寄せられていく様子は、まるで栓を抜いた風呂釜を下から見るようだった。

 雛は胸元で結った後ろ髪をくるくると弄んだ。

「確かに帰らせたわ。臨月の母親がひとりで御山に立ち入るだなんて、たとえ何があったとしたって人里へ戻さないと危険だもの。確実に訳ありだとは思うけど、私もそこまで面倒見切れないし。で、それが何か……まさか」

「えぇ。『あれ』は彼女から産まれました」

「そんな馬鹿な」

 息を呑む。人間の赤子が、これほどの力を持っているはずがない。

「私も、何が起こっているのかまったく分かりません。でもその妊婦がトックリ沢の傍で産気づいて、『あれ』が産まれたことは確かです。この眼で追っていました」

「え、トックリ沢って。『あれ』が燃えている場所とは随分ずれているじゃない。もう移動しているってこと?」

「そのようで。隊の仲間たちは直接『あれ』のもとへと向かっていますが、私は母親の方を見にいこうかと。鍵山殿はどうしますか?」

「それじゃ、貴方と一緒に行くわ。追い返した手前、気になっちゃうし」

 頷き合うと、ふたりは同時に枝を蹴り、宙へと駆けた。

 山の鳴動はまだ止まらない。山体という大きな鐘を、霊気の奔流と神霊の行進がぐわんぐわんと共鳴させているのだ。

「道すがらに、昨日のことを伺いたいんですが」

 椛の求めに雛は記憶を辿り始める。

 あれはまだ陽の落ちたばかりで、西の空に橙色の残光が蟠っている頃合いだった。彼女は、けっして上等とはいえない旅姿で、ぱんぱんに膨れた腹を包んでいた。そんな者がひとりで杖に縋りながら、山道をふらふらと歩いていたのだから、厄神でなくたって見咎めるだろう。

 里へ戻って安静にしていなさい、と雛は忠告した。彼女はそれに対して明確には応えず、しばし逡巡していたものの、やがて覚束ない足取りで元来た道を戻っていった。

「今にも産まれそうな感じだったから心配だったんだけど、まだ人間の領域からそんなに入り込んでいない場所だったし、引き返したところで誰かに見つけてもらえることを願うしかなかったわ」

「なぜそんな母親がわざわざ山の中へ……?」

「里にはもういられなかった、というのが正しいんでしょうね」

 言外に含みを持たせても、椛は首を傾げるばかりだった。雛は溜息を吐く。白狼天狗にこういった機微を察することを期待したのは間違いだったかもしれない。

「つまりさ、赤ん坊を産もうとしていることを里の者に覚られたくなかったのよ。周囲から堕胎するよう迫られて、母親はそれを拒否して……って。そうでもなけりゃ、里の者がこんなことを決行するはずがないもの」

「なるほどなぁ。しかし何も御山に来なくても。野良妖怪も獣もわんさかいるっていうのに。そんな場所でお産など、血の臭いが何を呼び寄せるか分かったもんじゃない」

「正常な判断力があったとは私も思えないけどね」

 やがて椛が「この辺りだったはず」と着地したのは、沢のほとりの岩場だ。そのまま臭いを探り出そうと、風向きを気にしながら試行錯誤を始める。繰り返しくんくんと鼻を鳴らすその姿は微笑ましいほどに犬だったけれど、雛はやはり口を噤む。

「……こっちだ」

 下流を指さした椛に、雛も追随し再び飛ぶ。

 オオガメ沢からトックリ沢にかけて下る一帯は、急峻な岩場の続く難所だ。しかも性質が悪いことに、下る分には何とかなる程度の段差が続いたかと思えば、唐突に大きな滝が現れたりするのである。これ以上は下れないと判断し引き返そうにも、下ってきた段差が今度は登れないというわけだ。

 御山を軽視し登山道を外れた愚か者たちが、かつて幾度もこの沢で力尽きてきた。屈強な天狗たちならばいざ知らず、雛だって脚だけでここを越えようなどとは思わない。

「血の臭い?」

「えぇ。やはり下流から臭ってきますね。だんだんと強くなってくる。それにほら」

 指さした先を見ると、なんと岩に火が着いていた。

 いや違う、あれは霊力の残り火だ。灯炎から燃える油を溢したときのように、あそこへ垂れ滴ったわけだ。

 あの尋常でない気配の主は、ここから見て上流の辺りにいる。産まれてすぐにこの沢を登っていったとなれば、歩いたにせよ飛んだにせよ、やはり人間ではない。

 雛の身体がぶるりと震えた。いったい、何がここを通っていったのだろう。

「ね、ねぇ椛ちゃん。これ以上は深入りしない方がいいんじゃないかしら。嫌な予感がするの」

「止めてくださいよ。厄神の貴方にそんなこと言われると、本当に何かがありそうな気がしちゃうじゃないですか。それにここは我々のテリトリー内、たとえ何が起こったのだとしても捨て置くという訳には。…………う」

 少し開けた岩場に出た途端、椛が顔を顰める。

 雛にもすぐ分かった。濃厚な血の臭いだ。

 それも今し方流れたばかりの、人間の血。

 間違いなく、ここで誰かが。

「……やっぱり、引き返しましょう。どこかおかしいわ。絶対に変よ、これ」

「どうしたってんですか鍵山殿。人間がひとり、死んでるか死にかけてるかしているだけですよ。どうってことないでしょうに」

「だって、だって、あんまりにも静かすぎるわ。それなのに心がざわついて止まらない。あぁ、もう。私にもどういうことか上手く言えないのよ。とにかく、恐ろしくて仕方がないの」

「阿呆らしい」

 椛は吐き捨てる。けれど、その額には冷や汗が光っていた。怒らせた肩も、雛には虚勢のように見えた。

「とにかく、ここに件の女がいるはずです。見つけだして検分しなければ。……鍵山殿、よもや死体が恐ろしいなどとは仰らないでくださいよ?」

「そ、それくらいは平気よ」

 椛は地上から、雛は空中から、それぞれ見て回る。

 辺りは、不気味なほど静かだった。これだけ濃い血の臭いがするというのに、妖怪、山犬や熊はおろか、虫の一匹すらもいる気配がない。川の中の魚影もどこかに消え失せてしまっていた。川のせせらぎの中を、椛の踏む石礫のたてるこつこつという音がただ響くばかりだ。背後には相変わらず、天を衝く神炎が圧倒的に聳える気配。

 心細さに、雛の呼吸は細くなった。見回す視界の中、眼下で忙しなく揺れる椛の尻尾ばかりが鮮やかだ。

「……?」

 ふと、雛は目を擦る。沢向こうの数尺の大岩、それが座す叢が、まるでペンキでもぶち撒けたかのように、鮮烈な赤に染まっている。あまりにも明るい赤だったから、この辺りに彼岸花の群生でもあったかしら、と思ってしまった。けれど、即座に首を振る。

「椛ちゃん!」

 白狼は指さした方へと瞬時に跳躍した。

 探していたものは、あれだ。

 大岩の天辺に着地した椛の傍らに雛も立つ。そして目に入った光景の酸鼻さに、思わず口元を覆った。

 雛が追い返した身重の女、今朝方まではそうだったのだろうものは、足下の大岩に背を預けるようにして倒れていた。誰がどう見たって生きてはいなかった。彼女の腹の中身、そのすべてが、背の高い雑草を薙ぎ倒しながら散乱していた。

 女の赤い残骸が燃えている。熱を持たない不可視の炎が纏わり付いた肉片が、強烈な死の臭いを揮発させている。壊れた命の、悲鳴の残響だ。

「……私は降りて詳しく調べますが、鍵山殿はここで待ちますか?」

 椛の提案に、雛は僅かに頷くのが精一杯だった。いったい何がどうなれば、こんな死に様になるというのだろう。

 岩から降りた椛は、現場を荒らさぬよう宙に浮いたまま、手を合わせてから辺りを調べ始めた。お役目だけあって慣れているのだろう。もっとも、ここまで凄惨な光景は妖怪の山でだってそうそう繰り広げられはしないだろうけれど。

「これ、まさか、『あれ』をこのひとが身籠ってて、それが腹を食い破って、飛び出してきたってこと?」

「そう考えるのが妥当ですけどね。しかしこりゃ酷い。胎どころか五臓六腑が全部、まるで内側から爆発でもしたみたいだ。股から肋まで綺麗にさばかれて、これじゃ人間の開きですよ」

「何が産まれたらこうなるのよ……。こんな妖怪は聞いたことがないわ」

「ひょっとしたら神に近い何者か、かもしれませんが……。ん?」

 椛がそれに気づいたのは、爆裂したような傷口を近くで観察したときだった。傷口に、彼女の指先ほどしかない小さな手が引っかかっていた。滑らかでふくふくとした手首に、その向こうの爪楊枝みたいな骨も。

 白狼天狗は、今度こそ怖気を隠しきれなかった。慌てて辺りを見回し、そして見つけた。見つけてしまった。窒息した蛙のようにだらんと口を開けた、赤ん坊の顔だ。それが縦半分に割れて、葉の上に頭蓋の中身が零れ出ていた。

「鍵山殿、違う……。『あれ』はこの女から産まれたんじゃない」

「え……?」

「弾けたのは身重の胎じゃない。子供の方だ。『あれ』は赤子の中から産まれたんだ」

 その言葉の意味を理解するのに、雛はかなりの時間を要した。その間隙を、ただ水の流れる音だけが埋めていた。

 いったい、何が起こっている?

 その時だった。上流で燃え上がる神気が、さらなる爆発を起こした。実体のない衝撃波が御山のすべてをぐわんと襲い、住人たちの心をその根から揺らす。

 雛はその場にしゃがみ込んだ。胸の内が凍てついたかのようにぞっとしていた。椛も即座にその傍まで戻り、獲物の大刀を握り締める。それは白狼の義務として、というよりも、本能による反応といった方が正確であろう。それほどまでに圧倒的な、得体の知れない衝撃波だった。

 なるほど、虫一匹いない訳だ。雛は恐慌に近い頭の中で、しかしどこか冷静に思考していた。彼らは気配というものにもっとずっと敏感だ。この圧迫感に曝されれば、即座に逃走の一手を採るだろう。

「なんだって言うんだ、いったい」

 圧が引き、椛が呟いた。しかしまた炎は天高く燃え上がる。神気が脈動していた。ふたりは再び大岩の上に縫いつけられ、叢はざわざわと騒ぐ。

 何かがおかしい。雛は必死に思考を巡らせた。いや、すでに何もかもが変なのだけど、今のこの状況は殊更に奇妙だった。

――私はいったい、何をこんなにも恐れているんだろう?

「も、椛ちゃん。私たちも行きましょう、『あれ』のもとへ」

「うぇ、あ……あぁいや、はい。そうですね」

「尻尾が丸まっちゃってるけど」

「いやいやいやそんな馬鹿な、怖がってなんかいませんて」

 白狼天狗は引き攣った目で笑った。雛は心を奮い立たせ、大岩を蹴り宙へ発つ。

 去り際に、母子の魂が安らかであることを祈った。

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