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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
29/68

警笛/ルーティーン

「――っつ!」

 けたたましく鳴り響く警報に、鈴仙は飛び起きた。五月蝿い、というよりも痛い。永遠亭の侵入者警報は鈴仙が自分用にチューンしており、月兎にしか聞き取ることができないようになっている。迷いの竹林を越えてくるような泥棒の相手は、妖怪兎たちには荷が重すぎるし足手まといだ。しかしだからといって、永琳や輝夜が迎え撃つのでは侵入者があまりにも憐れ、もとい、自分が永遠亭にいる意味が無くなってしまう。

 普段ならそれで良かった。そもそも永遠亭に侵入しようなどという物好きは白黒魔法使いくらいだった。しかし、今夜に限っては。

「あだだだだだ!」

「ちょっと鈴仙、何よこの音!」

 煎餅布団を弾き飛ばすようにして、鈴瑚と清蘭も跳ね起きる。月兎通信の原理を利用した警報だ。鼓膜が震えるなんて生易しい感覚ではないから、どんなに熟睡していたとしても目が覚めてしまうだろう。脳内血管から無数の棘が生えたようにずきりとくる。

 警報を切り、鈴仙は唇に当てた人差し指でふたりを黙らせた。のたうち回っていた月兎たちだが、部屋の主の意図を察してからは行動が早かった。腐っても元は軍人である。音を立てずに開け放った襖から、鈴仙は屋敷全体の気配を探った。

 背後に鈴瑚が付き、さらにその後ろで清蘭が杵を担ぐ。目覚めてから僅かに十五秒で、三人は臨戦体勢に入った。

『で、今の音波公害はいったい何?』

『ブービートラップよ。侵入者に反応して鳴るようになってる』

『はいはーい、音はもうちょっと考え直したほうが良いと思いまーす』

『同感だね。練兵棟の目覚ましより酷い警報がこの世にあるとは思わなかった』

 月兎通信でのやりとりの間にも、三人は索敵を継続している。ありとあらゆる波長を感知する能力を増強されている月兎兵たちにとって、戦場と敵の位置を三次元的に把握することはすべての軍事作戦における初手だ。

 しかし、時間経過とともに鈴瑚と清蘭の表情が怪訝なものになっていく。

『鈴仙、本当に誰か侵入してる?』

『怪しい人影なんて見つからないよー』

 ふたりの索敵網にはなにも引っかからなかったらしい。しかし鈴仙には感知できていた。水槽の中のグラスのように見えづらくて、周囲と見分けを付けることが困難な異常な波長だけれど。

『……いるよ。マズいわね、お師匠様の研究室へ向かってるみたい』

『はぁん、鈴仙が言うんならそうなんだろうね』

『目的地が八意様の成果物っていうのもそれっぽいしねー』

 兎たちは鈴仙を疑うことなどしない。彼女の波長感知が並外れて敏感であることを、仲間たちはよく知っている。

『ふたりとも、手伝ってくれるの?』

『よく言うよ、あんな音で叩き起こしといて……』

『目が覚めちゃったからね。眠くなるまでは付き合っちゃうよー』

『ありがとう。それじゃ、行くわよ』

 三人はするりと部屋を抜けて、つかず離れずの隊列を保ちながら廊下を進む。魔力が漏洩しやすい飛行は避け、足音を殺した駆け足だ。地の利のある領域で三人組を作れる、というのは都合が良かった。先頭の鈴仙と殿の清蘭はそれぞれ前方と後方の哨戒に集中でき、なおかつ鈴瑚がその調整役に徹することでチームの力を十全に発揮できる。それにいざとなったら二手に分かれての行動も選択肢に上げやすい。

『……目標、永劫錯視の廊下を進行中。突破スピードが速すぎる』

『うわ、マジ? 蓬莱山様の魔法だったよね、あれ』

 清蘭の驚きも無理は無い。蓬莱山輝夜は月の民の中でも飛び抜けた魔力を保持しており、その姫様が手ずからかけた魔法は地上でもっとも強力なもののひとつと言っていい。

 永琳の研究室への道には、常時この魔法が張られている。何の変哲もない廊下が、まるで果てのない道に見えてしまう魔法。単純だが、それゆえに強力な術式だ。侵入者はさらにその上から鈴仙が仕込んだ波長を浴びせられ、方向感覚が狂ってしまう仕組みになっている。タネを知っている魔理沙ですら、その突破には毎度手間取っているのだ。それをこの侵入者は、何の障害も無かったかのように突破してしまった。

『ふたりが泊まりに来てる日で良かったかも。これは私ひとりじゃ手に余る相手だわ』

『そいつはどうも。労働の報酬は永遠亭あてにツケとけばいいかな?』

『……善処します』

 ただでさえ火の車である永遠亭の財政事情のことは、とりあえず後で考えることにした。月の頭脳こと八意永琳、その研究室。そこへの侵入、あるいは薬の持ち出しを許してしまえば、引いては地上世界の大混乱を引き起こしかねない。

 件の廊下に辿り着く。するとすぐにその異常は把握できた。

 永遠の魔法も狂気の照射も、そのどちらも解除されていない!

『うん、どういうことだ? この物騒な廊下を、力技で押し通ってるってことかな』

 鈴瑚が辺りを素早く調べるが、細工や工作の跡は見つからなかった。素直に考えれば、廊下の罠に勘付いた時点でその解除を試みるはずだ。そしてその解除の方法は、術者を打ち倒す他に無い。しかし鈴仙は今ここでぴんぴんしているし、永劫の廊下がそのままだということは輝夜が無力化されたわけでも無いだろう。

 つまり、相手はこれらの罠に真正面から挑んでいるということになる。

『……考えるのは後でいいわ。まずは侵入者の確保よ』

『イヤな予感がビンビンなんですけどー! 絶対に一筋縄じゃいきっこない相手なんですけどー! 鈴仙、今からでもいいからさ、警報も感知した侵入者も何かの勘違いだってことにならない?』

『うーん、そのほうがマシかもしれない、けど』

 永遠亭の誇る地上最強の密室へ、容易く侵入する相手に対峙すること。

 すべてが鈴仙の勘違いで、大騒ぎにしたかどで師匠から叱られること。

 勘違いすら勘違いで、永琳の極秘薬を堂々と持ち出されてしまうこと。

 どれが最もヤバい事態かと問われれば。

『行こう。叱られるか怪我するかで済むんなら、まだどうにでもなるわ』

『はいはい。八意様の薬は流石に流出させらんないよね、そりゃあ。しっかし、私たちも間が悪すぎたなぁ』

『怪我で済めばいいなぁ……』

 泣き言を言いながら、しかし杵を担ぎ直して、清蘭は永劫の廊下の果てを鋭く睨みつける。

 本当ならば今夜は、鈴瑚と清蘭を迎えてのパジャマパーティーをするだけのはずだった。ひょんなことから月都へ戻れなくなったふたりとかつての友誼を取り戻したい、という鈴仙の希望を、姫様も師匠も優しく許可してくれたのである。

 それがまさか、こんなことになるなんて。鈴仙は心の中だけで溜息を吐きながら、廊下にかけられた狂気の放射をオフにした。この廊下は永琳の研究室だけでなく、ダミーも含めて大小様々な部屋へ繋がっているが、鈴仙にとっては勝手知ったる庭だ。

 先ほどと同じ隊列で、三人は再び駆けだす。

『――目標はここから数えて三十三枚目の扉の場所を前進中』

『それって、研究室まであとどのくらい?』

『もう目と鼻の先! あ、信じられない、正確に右折したわ。向こうはきっちり目的地を把握してる。マズい!』

 前後左右、どこを見てもどこまでも同じ景色が続く畳の廊下は、輝夜によって二次元平面上を無限に拡張された空間だ。僅かな灯火だけで照らされた妖しい廊下を、ただ当てもなく彷徨っているだけでは、永遠に目的地に辿り着くことはない。大抵の場合は、右往左往する侵入者を後目に鈴仙が最短距離で接近し、侵入者を捕獲することになる。

 そして永琳の研究室の座標は、魔理沙ですら探り当てられていない極秘中の極秘情報である。そのはずなのだが。

『次を右。そろそろ追いつく。幸い、速度自体はそれほど速くないわ。』

 相手はいっさい迷うことなく、最短経路を進み続けている。こうなると懸命に走って追いかける以外に手段は無かった。

 曲がり角に到達、侵入者の姿を捉えられる距離に入る。三人の緊張が最高潮に達する。清蘭がふたりを追い抜いて先陣に立った。もはや後方の警戒は不要と判断したのだ。

 暗闇の中、畳十数枚分の距離。

 何者かの背中が、確かにある!

 清蘭の駆け足がトップスピードに達すると同時に、杵が二度、三度と振り回される。

 するとそこから対神妖気弾が射出され、真っ直ぐに侵入者へ殺到した。警告射撃は挟まない。初撃から、相手を撃ち倒すためだけの攻撃である。

 狙いは過たず。

 音の数倍の速さで、着弾。

 しかし、相手は怯むどころか、同じスピードで前進を続ける。

 異常な耐久力だが、状況から見れば想定の範囲内だ。急速に間合いを詰めながら射撃を続ける清蘭を援護するため、鈴仙は狂気波長領域を目標の周囲に出現させる。

 これに囚われた相手は、現実と幻覚の区別がまったく付けられなくなってしまう。この技は、いつもの弾幕遊戯においては《幻朧月睨》というスペルカードに用いられている。もちろん出力は、お遊びと実践では比べものにならない。平凡な精神抵抗値しか持たない相手では、数秒で人格が破壊されてしまうだろう。

 鈴瑚の姿は見えない。襖や仲間の影に潜み攪乱するつもりである。敵の感知であれば鈴仙のほうが上手だが、戦場の状況を包括的に把握する技術では彼女に軍配が上がる。

 鈴仙の胸の中で、奇妙な懐かしさが滲んだ。この三人の連携もいつぶりだろう。かつては幾度と無く模擬戦の最前線で相手を苦しめたものだが、数年ぶりの再会の直後であってもここまで精密に再現できるとは思いもしなかった。

『嘘でしょ、そんな』

 鈴瑚の呟きと、清蘭が大きく吹き飛ばされたのは、ほぼ同時だった。

 間合いに入った目標に、杵を振りかぶった刹那、だったはずだ。前触れなく繰り出された一撃は、おそらくは清蘭の意識外から。百戦錬磨の彼女を以てして、避けるどころか防御すら間に合わない精密な攻撃。それを、この狂気波長領域の真っ直中で?

 思考したときには、鈴仙は速度を上げていた。靴の下で、畳が大きく抉れる感触。

『鈴仙、気を付けろ。相手は――』

 鈴瑚との通信も途絶える。影に潜んだ彼女をも、目標は容易く見つけだして処理したのだろう。

 一刻も早く、無力化しなければ。

 だが、自分ひとりで可能なのか?

 漆黒の影めがけ、絶望的な接近戦を挑んだ鈴仙に、影が振り返る。それがひとの形をしていることを再確認し、組み付くべき位置を即座に把握する。相手は自分よりも幾分か大柄だ。それであれば姿勢を可能な限り低く保ち、腰めがけて突き進む。

 悲壮な覚悟を受け止めたのは、しかし。

「――あら、鈴仙ちゃん」

 聞き覚えのある声だ、と思い出したのは、すでに相手を引き倒して指鉄砲をその額に突きつけた後だった。

 そう、赤子の手を捻るように容易く、鈴仙は目標を組み伏せていた。あまりの呆気なさに、拍子抜けを通り越して罠を疑った。けれど。

「え、あ、純狐……さん?」

 月に仇なす仙霊は、非常時に似つかわしくない純粋な微笑みを浮かべていた。

 その正体が判明しても、鈴仙の思考は依然混乱したままだ。なぜ、彼女がここに?

 純狐が地獄の女神ヘカーティア・ラピスラズリとともに月都へ侵攻をかけ、それを鈴仙が退けたのは数週間前のことだ。それ以来、しばしば幻想郷で遊興する様子が見られたヘカーティアとは対照的に、この仙霊の行方は杳として知れなかった。

「綺麗ねぇ」

「あの」

 闇の中でも白く光る細い指が、鈴仙の垂れ下がった髪をくるくると弄ぶ。そんなことをされてしまうと、番兵と侵入者という関係のはずのふたりも、まるで恋人どうしが睦みあっているようにも見えて。

 鈴仙は必死に頭を振った。そういえば、純狐が自分を気に入っているとかどうとか、ヘカーティアから聞かされたことを思い出す。

「も、目標、確保! ふたりとも、無事?」

「なんとかー」

「あぁ、大丈夫。……いやいやいや、鈴仙こそ、そいつに近づいて大丈夫なの?」

「鈴瑚、目標のこと知ってるの?」

『あっ、やべ。清蘭、ここからは通信に切り替えて。とは言っても、うーん、どう説明したものかな』

 鈴瑚の狼狽も無理はない。純狐の存在を知るのは、月人の中でも極一部に限られる。ましてや月兎が知るわけもない。むしろ鈴瑚が純狐を知っていることのほうが驚きだが、おそらくは自前の諜報網で情報を得たのだろう。情報通信技術にも造詣が深い彼女であれば、月都のネットワークをある程度ハッキングしていたとしても不思議ではない。

 それにしても、と鈴仙は純狐に視線を戻す。すると彼女が自分を凝視したままであることに気が付いて、慌てて目を逸らした。率直に言って、怖い。狂気の波長が効かなかったのも納得だ。あれの効力は正常な意識を狂わせることであって、最初から狂っている相手には当然意味を為さない。

 純狐が永遠亭に、それも八意永琳の研究室へ忍び込もうとする理由。それを推し量るには、あまりにも情報が足りない。

 白い指が、藤色の髪の海原で遊び続けている。

「綺麗……」

「……えぇと、とりあえず、縄を掛けさせていただきます。曲がりなりにも無断侵入、しかも最重要機密区画にですから。処遇は師匠に判断を仰がないと」

「師匠」

 瞳が、引き絞られた。鈴仙は思わず、そこから鋭い光線が放たれるのを幻視した。

「八意永琳か」

「――っ!」

 その瞬間に行われたことが、憐れな兎にはまったく理解できなかった。いったいどのような原理なのか見当も付かないが、まるで蛇が古い皮を脱ぐようにして、純狐はするりと戒めから抜け出たのだ。

 しかも、それだけに飽きたらず。

「ちょちょちょ、な何何何なんですか」

 純狐は、己の膝の上に鈴仙の頭を導く。そして完成したその姿は、母が子を寝付かせるときの膝枕そのものだった。

 兎たちは固まってしまった。取り押さえなければいけないことは、無力化しなければいけないことは、十二分に理解している。理解しているけれどどうしてだか、彼女たちは敵対することを忘却していた。恐るべき仙霊の中に、己が母を見ていた。試験管で生まれた彼女たちには、そんな存在は無かったはずなのに。

 天蓋みたいに大いなる顔が、鈴仙を上下逆しまに見下ろしている。掌が両頬を包んで、その温もりに、思わず力が抜ける。

「蓬莱の薬を、探していました」

「は、え?」

「ここにあるのでしょう? 彼女が手元に残していないはずがない」

「いえ、私には、その辺りのことはなんとも」

 蓬莱の薬。究極の穢れ。月都の最大の禁忌。不老不死をもたらす秘薬。

 それが現存しているのかどうか、鈴仙は知らない。永琳の研究室には立ち入ることを許されていないのだ。だからそこにどんな薬があるのかは分からない。知りたいとも、あまり思わないけれど。

「なぜ、貴方がそんなものを?」

「嫦娥は、我が不倶戴天の敵は」

 頬の弾力を確かめるように、純狐の指に力がこもる。

 胸に冷たい罅が入った。しくじったのかもしれない。

「奴は、蓬莱の薬を飲んだ。そうするためにすべてを裏切った。私は、それほどの薬がどんなものなのかを確かめたいのです」

「不老不死を、手に入れるつもりなんですか?」

「まさか。そんなものに興味はありません。しかし愚かなるあの女は、蓬莱の薬を飲んだことで、月人と同等になれたと喜び勇んで月へ昇り、しかしてその実は真逆の存在になった。月の連中は奴を隔離幽閉した。それは蓬莱の薬が限りなく純粋な穢れの塊だからです。せっかく天人として生まれたのに、穢れの少ない命であったのに、嫦娥はわざわざ穢れを摂取した。本当に愚かな女。……いや、それはいまは良いのです。私が興味を持つのは、そんな純粋な穢れをどうやって抽出したのか。蓬莱の薬を、八意永琳はどのようにして精製したのか」

 抑揚のない声は、鈴仙の意識に容易く忍び込んでくる。数回、意識が飛びかけた。純狐に対する不安や恐怖といった感情が、浮かんだ端から消滅していって、ただただ安らぎだけが心を満たしてしまうのだ。状況から考えれば異常な精神状態である。それだけはなんとか自覚できている。まずいと思いながらも、しかし兎たちは抗えなかった。

「蓬莱の薬の原料を、貴方は知っているかしら」

「いえ、私には見当も」

「あれはねぇ、生命そのものなのよ。そうでなければ説明が付かないのです。無限に廻り続ける生命の循環の、その中で流れ続けているもの。そのエキスを抽出した結果が、あの薬。ということは、蓬莱の薬の原料は――」

「そこまでよ」

 とろけかけていた意識が、冷徹な声で即座に覚醒する。

 八意永琳は、弓につがえた矢を侵入者の後頭部に突きつけていた。

「ウドンゲ、貴方が不甲斐ないからこんなことになるんだわ。よりによってこいつをここまで近づけてしまうなんて」

「無茶言わないでくださいよ~。このひとを止めたかったら一個小隊は配備しないと」

「……その位置で撃ったら、この子だってひとたまりもないと思うけど」

「そうでしょうね」

 弦がさらに引き絞られる音が耳に届いて、鈴仙は心の中で泣いた。我が師匠が兎の命なんぞを重んじて行動するわけがなかった。

「残念だけど、蓬莱の薬はここには無いの。諦めてお帰り願えるかしら。……と、そう言われて簡単に帰る相手なら楽なんだけどね」

「まぁ、そうよね。仮にあるとしたって、本当のことを貴方が言うはずもない」

「じゃあ、交渉は決裂? 実は私も、荒事は割と得意な方なのよ」

「…………」

 夜闇の中、仙霊の口の端が少しだけ歪むのが、鈴仙には分かった。もしも純狐が、強硬手段に出るというのなら。心臓が早鐘のように打つ。そうなってしまえば、一手間違えるだけで、自分の命は無いだろう。

 視界の外で、鈴瑚と清蘭も息をじっと殺しているのが分かる。無理もない。月の賢者と月に仇なす者、その神話級の戦いが、今にも始まろうとしているのだから。

「ずっと、気にかかっていた。嫦娥の飲んだあの薬が、いったい何であるのか。最初は、単に永遠の命をもたらすだけの薬なのだと思っていた。奴は不老不死の月人になろうと欲したのだから。けれど、違う。蓬莱の薬とはそんなものではない。不老不死なんて副作用のひとつに過ぎない。そうでなければ、月人である輝夜の姫君と貴方が、わざわざあれを飲む必要なんてないものね?」

「口を閉じてすぐにここから去りなさい。でなければ後悔することになるわよ」

「怨恨の塊である私に、そんな脅しが効くと思って?」

 両頬を包んでいた掌が、すいと首へと下りた。鈴仙の緊張は最高潮に達する。親指は頸椎の直上に重ねられ、もはやいつでも首を圧し折れる格好だ。

「倶に天を戴かずとも、憎しみだけが純化する。もはや悔恨の念など、入り込む余地の無いほどに」

 ぱた、ぱた。

 不意に、無数の滴が落ちてきた。純狐は泣いていた。一切の表情を変えずに、しかしその瞳からは滝のような涙が湧いていた。鈴仙の頬が、唇が、鼻が、あっという間に水浸しになっていく。

「あぁ……」

 限りなく透明だった純狐の感情波長が、どんどんねじ曲がっていく。波長とは、座標系があって初めて定義できるものだ。しかし純狐の放射する波長は次元が違っていた。ブラックホールが重力平面を凹ませてしまうように、座標面そのものを歪めていた。鈴仙は視覚に近い感覚で波長を感知しているが、これはおそらく、ここまでねじ曲がっていないと見えない類の波長である。鈴仙の索敵能力とはあまりにも相性が悪い。

「涙を」

 地獄の奥底から響く、隙間風のような声。

「いったいどれだけの涙を、搾り取ったのかしら。私は純化する機構。だから分かっている。憎悪を、憤怒を、感情を、そして涙を、徹底的に純化したその先。そこにあるものが何なのかを知っている。一万、一億の民が流した苦悶の涙の上澄みの、その上澄みの、さらにそのまた上澄み。慟哭の奥底。感情の源流。それこそが蓬莱の薬。ツクヨミの対極にあるもの、トコツネに至るただひとつの道」

「それ以上のたわ言は」

 師匠の声は、すべての色を持たなかった。氷よりもなお冷たかった。鈴仙でさえ、今まで聞いたことがない音だった。

「貴方を滅するだけでは済まなくなる」

「くくく。おお、恐ろしい。月人にとっては兎の命など朝露より儚きものだものね」

 仙霊は音もたてずに、一切の質量を感じさせずに、立ち上がる。

 束縛から逃れた鈴仙も、即座に起き上がった。純狐の向こう、永琳の背後、襖の裏側で、置いてきぼりの鈴瑚と清蘭が戦々恐々とこちらを窺っているのが見える。

「今夜はここまでにしましょう。こんな形で、無聊を慰めてくれる相手を失ってしまってもつまらない」

 その言葉に、永琳が矢を弦から外す。鈴仙から見れば、ここで警戒を終えるなど考えられないことだけれど、ふたりにとってはこれで本当に終わりであるらしい。

「あぁ、鈴仙ちゃん、御免なさいね。貴方を怖がらせるために来たわけじゃあなかったの。本当よ。いつか必ず、この埋め合わせはさせていただくわ」

「え、あ、はぁ……」

 曖昧な返事をしている間に、仙霊の存在は薄れていった。ひと呼吸を終える頃には、純狐は影も形も残さずに消えていた。

 しかし、場の緊張は解けなかった。弓を下ろした永琳だが、その波長は弦のごとく張りつめたままだった。鈴仙が何を言っても、悪い刺激にしかならないような気がしてならない。

 鈴瑚と清蘭に助け船を期待するのも酷というものだろう。ふたりからすれば、八意永琳は雲上の存在だ。昼間に来訪の挨拶をするだけでも五体投地せんばかりの勢いだったというのに、この修羅場をどうにかできようはずもない。

「――あーあ、まったく。こんな夜中にあいつの相手をしなきゃならないなんて」

 だから、永琳がいつも通りの声色で切り出したのが、鈴仙には信じられなかった。

「ウドンゲ、さっさと戻りましょう。ほら、襖の向こうの貴方たちも。御免なさいね、変なことに巻き込んでしまって」

「いえ、お気遣いなく……」

 最敬礼から頭を上げた鈴瑚が、鈴仙に困惑の視線を向ける。月兎通信でさえ、用いることは憚られた。純狐が口にした言葉が、いやに頭の中にこびりついて離れない。

 蓬莱の薬にまつわる事柄は、噂話ですら月の都では禁忌とされている。しかし月兎たちの仕えている嫦娥がそれを服用した罪人であること、そしてその咎で幽閉されていることは、公然の秘密だった。仕えているといっても形ばかりのもので、兎たちも誰ひとり謁見したことはないのだが。

 月都では誰もが存在を知っているのに、けっして子細を聞いてはいけない秘密。純狐が先ほどつらつらと話しだしたのは、まさしくその一端だった。しかも八意永琳のいる前で、だ。

 ひょっとしたら、純狐の目的は、永琳の研究室へ侵入することではなく。

「えぇと、よく分からなかったんですけど、蓬莱の薬って、涙の結晶的なものだったんですか?」

 清蘭が呑気に切り出したので、鈴仙と鈴瑚の肝は一気に冷えた。場の空気を読んで沈黙することを、彼女に期待したのが間違いだったか。

 永琳は微笑んだ。作り笑いだ、と弟子にはすぐに分かった。そういう嘘は意外と下手なひとなのである。

「……あいつの言ったことは全部出鱈目よ」

「なぁんだ、やっぱりそうだったんですね!」

 ぴょこんと飛び跳ねた清蘭は、その愚直なまでの素直さが幾度となく自身の命を救ってきたことを知らない。たったいま、そのカウントがひとつ増えたことにも気づいてすらいない。

 永劫錯視の廊下を戻る道が、文字通り永遠の長さに感じられた。永琳はそれっきり沈黙を守り、呼気のひとつにすら音を立てなかった。

 師匠がいつ矢をつがえて三人を射抜くかと、鈴仙はびくびくしていたけれど、ついぞ処分は下されずに済んだ。警備状態を通常に戻し、布団に潜り込んでからも、鈴仙はとてもじゃないが眠れなかった。

 純狐の目的は、先ほどの話を鈴仙たちに聞かせることだったのではないか。そんな仮定が思考から拭い去れなかった。そして、仮にそれが真であるならば、いったいなぜそんなことをしたのだろうか。その疑問への答えが、まったく分からなかったのである。

 翌朝からも、永遠亭の日常は何ひとつ変わりはしなかった。

 かえって、そのことが鈴仙には恐ろしかった。

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