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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
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呵責/こきゅうをとめて

 微かな機械音が、レイセンを浅い眠りから引き剥がした。

 夢は見なかったような気がする。いや、見たような気もする。鼻を突くのは滅菌消毒された超低穢度空気のオゾン臭。少しだけ、息苦しい。呼吸用のマスクがしっかりと顔面に固定されている。自らの生温い呼気が唇と頬を蒸らしている。

 視界にはカプセルの蒼い硝子窓と、その向こうの隔壁の凹凸。現実感が無い。ここが何だったのかを思い出せない。自分がどうしてここにいるのか分からない。

 まるで、たったいま、ここで生まれたかのような。

「…………は」

 いや、そんなはずはない。

 漏れ出た声が、マスクの中でくぐもる。喉が震えて、身体が熱を取り戻す。

 意識よりも先に指が動いた。コンソールの非常ボタンにより、長期休眠状態が解除される。自分が何をしているのか、ようやく理解したときには、緊急覚醒シーケンスは始まっていた。コンバーターが月面車内部の環境調整をはじめ、気温は氷点下百二十度からみるみる上がっていく。

――やってしまった。

 レイセンは息を呑む。しかし同時に、別の自分が呟く。

「もう、限界」

 環境の最適化が完了するのを待たずに、月兎はカプセルの扉を押し開いた。複数のビープ音が不平を伝えるけれど、すべて無視する。未だ氷点下のままの薄い空気が、一糸纏わぬ青白い身体を容赦なく刺した。吐息は白くて、荒い。仕方がなかった。月の民ではない自分の身体には、この冷たく薄い大気は酷だ。けれど、あのまま眠り続けるよりはましであるに違いないと、そう信じた。

 私物ロッカーの中、純白の密封パックを開ける。ぷしゅ、という間の抜けた音とともに袋が開くと、レイセンは震える手で下着と制服を引っ張り出す。

 衣服を身に着けながら、少女はカプセルを振り返った。配置されている休眠カプセルは三つだ。残る二つの中には、まだ仲間が眠っている。イーグルラヴィの仲間、ロウファンとマァル。まだふたりは眠ったままだけれど、レイセンが緊急覚醒シーケンスを開始してしまった以上、もう休眠終了の措置は始まっているはずだ。じきに、彼女たちも目を醒ましてしまう。だから、それよりも先に。

 凍える指のせいで、ネクタイを上手く締められない。気持ちばかりが急いてしまう。二度、三度と結び直して、ようやく形が整ってから、そもそも律儀にタイなぞ着けなくてもよかったことに気づいて、泣きたくなった。

 カプセルのふたりに、動きは無い。

 ロッカーの片隅、乱雑な荷物の奥底から、レイセンはそれを引っ張り出した。月の羽衣、無質量の魔法布。これさえあれば良い。そして、他のものは持っていけない。

「……ごめんなさい」

 残されたふたりに呟く。聞こえているかどうかは分からない。いやそんなことはどうだって良い。本当はふたりに謝りたいのではなく、自分を誤魔化したいだけなのだから。

 月面車後部ハッチへ、できるだけ音を立てないように滑り込む。この車の構造は単純だ。操縦室と休眠室を兼ねるメインルームと、生存物資を圧縮保存するタンク、そして出入りのためのハッチくらいしか無い。無骨なフォルムを、兎たちは棺桶と揶揄したものだ。しかし今や、レイセンたち三人にとってそれは冗談にもならない。

 羽衣を解く。透明できらきらした光質の布は、水面の油みたく同心円状に広がった。その輝きに、どうしてだか無性に悲しくなった。どうしてだろう。心当たりが多すぎて、分かんないや。

 三人に月都上層部から密命が下されたのは、もうひと月以上前のことだ。そう、五人で構成されるイーグルラヴィのうちの三人だけだった。リンゴとセイランには待機命令すら出されなかったのだ。その理由はすぐに明らかになる。命令の内容は、月面車で表の月の指定されたポイントまで向かうこと。棺桶の定員は三名だから、不要な兵員には情報を漏らしたくないということだ。

 受信した命令を受け、車庫で三人は合流した。ロウファンは怜悧な表情を、この緊急事態にも崩すことはなかった。マァルの柔らかな笑顔だっていつも通りだ。レイセンは努めて冷静を保った。嫌な予感を押し殺そうと必死だった。

 放り出されるようにして、月面車は表の月へ旅立った。指定ポイントに到着するのに丸二日を要し、天然の縦孔に車体を潜めたところで三人は次の指令を受信する。その内容に、レイセンの緊張は最高潮へ達する。

――地上の民の月ロケットを、撃墜せよ。

 アポロ計画宇宙船。

 地球から月まで、死の宇宙空間を越えてやってこようという、まさしく狂気の計画。それに対して、報復攻撃を加えよというわけだ。

 月はすでに二度、地上の人間たちの侵入を許していた。とはいっても、彼らは表の月面を多少うろついて、石ころをいくらか持って帰った程度だ。月都にはいかほどの影響も無い。しかし「地上の民が月を侵した」という事実が、月人へ与えた衝撃は計り知れなかった。穢度を徹底管理された月兎ですら毛嫌いする者がいるのだ。無調整の穢れをそのまま地上の民に持ち込まれたとなれば、その後に続くものは月人の恐慌と意見の衝突となることは必然だった。

 最初の上陸があった時点で、月の民たちの意見は割れに割れていた。地球の全球浄化を主張する者から、事の成り行きを見守るに留めようという者まで、その態度は千差万別だった。そして喧々囂々の論議が冷める気配も無いうちに二度目の月面侵犯が発生し、月人たちの態度は徐々に硬化していった。

 そんな中、三度目の侵入が行われようとしている。レイセンにその真偽までは分からないが、ロケット撃墜の指令が下されたということは、つまりそういうことなのだ。

 さっそく超々遠距離狙撃ライフルを準備し、地球周辺の宙域を監視する任務が開始された。月面から見ると、地球は空の一定範囲を、細長い八の字を描くように動く。その方角へ月兎の波長走査をかけ続け、異常があれば即座に迎撃体制に入るわけだ。

 そして待機を開始してから百九十一時間後、ついに敵が網に掛かった。狂気のロケットは地球大気圏を離脱し、正確に月への直進軌道に乗った。

 引き金を引いたのは、隊長であるロウファンだった。兵士としての技能において、あらゆる分野で月兎たちの頂点に立ち続けている彼女にとって、こちらに向かってくる宇宙船を狙撃することはさしたる困難ではない。多重光学補正をかけられたスコープの視界の中、それでも小さなドットにしか見えないロケットへ、彼女はただ一発の銃弾を見事命中させた。

 しかしまだ撃墜には至っていない。そう三人が判断し、次なる狙撃に入ろうとした、その時だった。

 三人に向けて、無数の指令がほぼ同時に発された。

「即座に狙撃を中止せよ」「撃墜作戦を継続せよ」「月面車を処分し、乗員は自死せよ」「攻撃目標を地球上の宇宙基地へ変更せよ」「作戦を継続せよ」「作戦を中止せよ」「作戦を継続せよ」「作戦を中止せよ」

 互いに相反し、内容の矛盾するこれらの指令電波に、レイセンとマァルは混乱した。ただロウファンだけは、引き金から指を離すことなく、指令が一本化されるタイミングを待ち続けていた。

 事態の原因は、月都の特異な権力構造だ。月人たちにはそれぞれの官職があり、防衛軍の指令も担当の綿月依姫から発せられるのが基本だ。しかし彼らは、全員が月兎への絶対命令権を所持している。軍属であろうとなかろうとすべての兎に対してだ。そして兎の側からは、命令を下した者が誰なのかを確認する術は無い。

 ゆえに、月人は誰であっても月都防衛軍を動かすことができる。防衛軍と関わりの無い文官であろうと、依姫に断ることなく軍事作戦を開始できるわけだ。

 月の都の混乱は、月の民を過激派と穏健派に二分してしまった。三人に出撃指令を下したのは過激派の誰かであったのだろう。そして実際に狙撃が成功したことでこの作戦が明るみに出て、両者の思惑が滅茶苦茶な指令となって混線したのだ。

 命令が命令で上書きを繰り返される事態は、レイセンの知る限り起こったことがなかった。月人は兎よりもはるかに長い時間を存在しているため、細かい命令をわざわざ発したりはしない。ましてや軍事行動ともなれば、月人たちの意志は自然と統一されていることが常だったのである。

 混乱は最終的に、ひとつの命令となって中断した。

――その場で待機せよ。

 中断でも撤退でもなく、待機。それが月都の出した当面の回答だった。

 そしてそれから数週間が経ち、未だに次の命令は受信できていない。

「……限界だよ」

 後部ハッチにて、レイセンは槐安通路との接続をぼんやりと待っていた。

 夢の世界を経由した精神体渡航は、通常は月の都に帰還するためのものだ。けれどレイセンは、もうあの場所は嫌だった。どうせ帰れないことも分かっていた。月の羽衣があれば、月都側の自動回収装置の手から逃れつつ、月光を受けて地球側へ逃げ延びることができる。月兎が忍んで地球へ降りるときに用いられる、古典的な道具だ。レイセンも、なんとなく捨てられずに肌身離さなかった羽衣で、こんな風に亡命まがいのことをするだなんて考えてすらいなかった。

 だけど。

 だけど、もう、こうする他には。

「レイセン」

 涼やかな声に思わず身を竦める。やっぱり、間に合わなかったか。

「レイセン、どこへ行くんだい」

 ロウファンの、肩口で切りそろえられた栗色の髪が、循環する空気を受けてさらさらと揺れていた。切れ長の紅瞳は、まるでレイセンの心の奥底まで見透かしているかのようで。

「……ごめん」

「何に対して謝罪しているんだ?」

「私はもう、待てない。こんな場所に、死ぬまでこのままだなんて、耐えられないよ」

「何を言っている? 私たちに与えられた命令は『待機』。帰還命令も自害命令も取り消されたままだ。君は兵士なのに、命令に無い行動を起こすのかい? 私たちは次の命令を待たなければならないんだ」

「次なんて、いくら待ったって来ないわよ!」

 悲鳴みたいな声で、レイセンは叫んでいた。

「あれから何日経ってると思ってるの? 地球人のロケットはとっくに戻っちゃったわ。これ以上、ここで私たちにできることなんて何も無い。そんなこと、分かりきってるじゃない。それなのに、月都からは帰還命令どころか報告の要求すら無いのよ。たとえ最初の指令が依姫様のものじゃなくたって、あの方が私たちの回収を考えないはずが無い。つまり依姫様は、私たちを帰還させたくても、それができないってことよ」

 依姫は穏健派の筆頭であり、月兎たちのことも尊重してくれる数少ない月人のひとりだ。その彼女の指令すら受信できないということは。

「私たちの任務は、中止されたんじゃない。初めから無かったことにされたのよ。イーグルラヴィは派兵されていない。私たちの勝手な暴走と扱われてるか、あるいは在軍記録ごと抹消されたか。いずれにしても――」

 邪魔な道具として、見捨てられる。

 表の月、命無き縦孔の中。救援なんて、永遠に来ない。

 生存物資は有限だ。乗員の代謝を極限まで遅くし、排泄物の再利用に再利用を重ねたとしても、いつか必ず限界が訪れる。数字の上では三十年ほどは保つけれど、誰もそれが本当かどうかを確かめたことはない。微睡みの中、ただゆっくりと死んでいくだけの生活。受信するはずの無い命令を、ひたすらに待ち続けるだけの存在。

 嫌だ。

 レイセンは不安の中でのたうっていた。

 そんなことには、耐えられない。

 ハッチの沈黙を、コンバーターの低い唸りが埋めていた。ロウファンのただただ真っ直ぐな視線が、うなだれるレイセンを打ち据える。言葉にされずとも、何を言いたいのかは理解できた。痛いほどに身に沁みた。自分ですら、自身に対して彼女と同じことを考えているのだから。

 けれど隊長は、罵ることはけっしてしないひとだった。任務をしくじっても、言葉少なに労っては自力ですべてをカバーしてしまう、とてつもない力量を備えた月兎だった。曲者揃いのイーグルラヴィを統率できるのは、彼女をおいて他にはいない。

 レイセンはイーグルラヴィを愛していた。チームの五羽は、彼女にとって本当の仲間だった。自分自身を卑下せずとも、あるいは虚栄を張らなくてもいい。等身大で付き合うことのできる、生まれて初めての相手だった。けれど、自分は生き延びるために、それにすら背を向けようとしている。見殺しにして、踏み台にして、自分ただひとりだけが。

――最低だ。

 心が揺れる。

 決意が薄れる。

 震える兎は、意を決して。

「……行きなよ、レイセン」

 意を決して口を開こうとしたそのときだった。三羽目の兎がロウファンの背後から顔を出す。

「貴方がここに残っても、つらいだけなんでしょう。なら、行ったほうが良い。我慢しつづける必要なんて無い」

「でも」

「隊長も私も、ここで待つことはつらいばかりでは無いの。隊長はいつまでだって命令を待ち続ける。そして私は、何があっても隊長の傍にいる。だから、行きなよ。私たちは、大丈夫だから」

 マァルは笑っていた。

 こんなときでも優しく微笑んでいた。

 自身の境遇を悟り、仲間が自分を置き去りに逃げようとしている、そんな瀬戸際でさえ、まるで、子を送り出す母のように。

 胸の中で膨らんだ何かが、急速に萎むのを、レイセンは感じた。

 マァルの笑顔は、いつだって自分を元気づけてくれた。どんなときでも暖かくなれた。涙がこぼれる。その笑顔で、あぁ、私は。

「――ごめん、なさい」

 私は、自分を許してしまえた。

 槐安通路との接続を果たした羽衣が、レイセンの両腕を絡め取る。現実が夢へと変換されていく。赤い視界がぼやけるのは、ふたりの顔が滲むのは、夢現の境を越えたからか、あるいは単に涙のせいか。

「レイセン」

 隊長は名を呼んで、しかしその場から動かなかった。呼び止めたのはそれが隊長の義務だからだ。レイセンには分かる。彼女は、部下のひとりが逃げようと一向に構わないと思っている。自分の不在が、任務に影響することは無い。最強の月兎兵は、自分ひとりでもあらゆる命令を完遂できると、いつだってそう信じている。

「迎えにきます、絶対に!」

 絞り出した叫びは、けれど自分でも嘘のように聞こえた。たぶん、ここに戻ってくることなんて永遠にない。

 マァルが柔らかく手を振った。

「うん、期待しないで待ってる。あれ、どうせ期待しないのなら、待たないほうがいっか」

 それが彼女の、出奔前の最後の記憶だ。

 仲間たちは理解していた。レイセンが臆病であることを、卑怯であることを、弱虫であることを、矮小であることを、惰弱であることを、我儘であることを、ちゃんと知っていた。それは許されないことだと、彼女はずっとそう信じて、だから必死に隠してきた。弱みを見せずに生きてきたから、周囲は自分を優秀だと評価した。それに増長して、鍍金が剥がれてしまうことが恐ろしくて、どんどん頑なになっていった彼女を、イーグルラヴィは解放してくれた。弱くてもいいんだということを、ようやく彼女は学ぶことができて。

 それが、最悪の形で結実してしまった。

――ごめんなさい。

 朦朧とする意識で夢の世界を飛びながら、レイセンはただそれだけを繰り返した。

――ごめんなさい。

――ごめんなさい。

――ごめんなさい。

『何に対して謝罪しているんだ?』

 フラッシュバックした隊長の言葉に、ほとんど無意識のうちに返答する。

――こんなに駄目な私で、ごめんなさい。

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