憐憫/アングジアリティック
六月の空を、暴力的な青が染めていた。雲のひとつさえ、その高気圧の下には残っていない。ゆるりとした風が申し訳程度に里の空気をかき回す。それは梅雨に入る前の、太陽による最後の足掻きだった。
「こりゃあたまらん」
霧雨魔理沙は、暑さにブラウスの一番上のボタンを外そうとして、すんでの所で思い留まった。今日はわざわざ改まった場のために畏まった格好をしているのであるのであるから、それを崩すわけにはいかない。
里の龍神像は、これからひと月ほどの雨天を予知している。じめじめした梅雨は、箒で空を飛ぶことがしんどくなるので、そういった意味ではあまり好きではない。しかし今日みたいな晴天も、浮かれすぎた心が騒つくものだから、手放しで喜べるわけではなかった。
そういえば、去年の不良天人による馬鹿騒ぎのときも、魔理沙へ下された天気は霧雨だったか。あれは名前から洒落で取られたものだと思っていたけれど、実は的を射ているのかもしれない。
稗田家の門を叩き、来訪を告げる。すると普段よりも丁重な出迎えで客間へと通された。当然である。今日の魔理沙はここにお呼ばれされた身なのだから。
今日はここで、宗教家たちによる対談が行われる。
外界からやってきた武神である八坂神奈子。魔界に封じられていた魔人僧侶こと聖白蓮。そして彼女によってさらに封じられていた尊き仙人の豊聡耳神子。ここ最近になって雨後の筍のごとく続々と現れた新顔たちは、三者三様の立場とやり方で幻想郷の人心を得ようとしていた。その主要なターゲットとなるのは、当然ここ人間の里に住む人間たちである。ゆえに住民たちを知識によって守護しようとする稗田阿求は、三人の真意をはっきりさせるために鼎談の席を設けたというわけだ。
「皆様お揃いになりましたら、お呼びに伺います」
「はいよ。良きに計らっといてくれ」
下がっていく稗田家の使用人に手を振り、茶を啜る。味はよく分からないが、博麗神社ではまず出されないとても高級な茶葉だということは、その繊細な香りで分かった。
魔理沙は鼎談の司会、あるいは調停役である。なるほど、適役だ。特定の宗教を支持も否定もせず、実力者として名があり、そして三名全員と面識がある(ついでに言えば勝利している)者となると、確かに自分くらいしか適役はおるまい。ふふん。普通の魔法使いは薄い胸をいつもの五割り増しで張った。
喉の渇きもひと心地着くと、初夏の風の涼しさが感じられるようになってきた。日射しさえ無ければまだ過ごしやすい季節である。濃い鮮やかな青空も、こうして屋内から眺める分には綺麗なものだ。
しかしまぁ、振り返ってみると。
「目まぐるしい一年間だったな」
確か去年の今頃は、伊吹萃香による終わらない宴会に巻き込まれていた時期である。それをとっちめた直後に今度は満月がおかしくなり、これも解決したら雪崩れ込むように天人と外来神が暴れて回った。閻魔が説教して回ったのもこの頃だ。その後にどうしてだか月に行くことになり、散々な目に遭って帰ってきたと思ったら今度は年の瀬の忙しい時期に地の底へ向かわされた。
そして雪解けのころに宝船異変が起こったのだ。幻想郷上空に現れた空飛ぶ船には貴重なお宝があるに違いない、と思って忍び込んだら、どうしてだか魔界に封じられた白蓮の解放の片棒を担がされてしまった。現れた魔人がたまたま友好的な僧侶であったから良かったようなものの、ひとつ間違えれば世界が滅んでいたであろう大冒険だった。
そんな紆余曲折の果てに建立された命蓮寺の、墓地の下に突如として何かが出現した。神霊を大量に呼び集めたそれを調査しに行くと、なぜだか分からないが眠れる神子の復活に出くわしてしまった。死から蘇ったゾンビがたまたま友好的な仙人であったから良かったようなものの、ひとつ間違えれば世界が滅んでいたであろう大冒険だった。
幻想郷は常に変わり続ける。そう言っていたのは誰だったか。魔理沙はその意見に同意するが、それにしたって限度というものがあるだろう。一連の異変の数々を通して、幻想郷に現れた新顔の数は両手でも数え切れない。
そういえば、阿求の求聞史記もそろそろ改訂を迫られている時期だろうか。幻想郷の著名な人妖を記録するという稗田阿礼の子の使命も、かつては命尽きるまでに一冊を完成させれば良かったと聞くが、こんな時代では年刊発行にでもしなければ追っつくまい。商売は繁盛するだろうが。
「――失礼いたします」
「お、噂をすれば影ってやつか」
下げた頭を上げた阿求は、しばし疑問符を顔に貼り付けていたが、すぐさまそれを振り払う。
「魔理沙さんにひとつ相談したいことが」
「何だ、今日の会談についてか?」
「いえ、そうではなくてですね。今執筆中の求聞史記の原稿についてなんです」
「やっぱり噂をすれば影だな」
阿求は魔理沙の向かいに腰を下ろすと、一冊の帳面を取り出した。相当に使い込まれており、大量の付箋が差し込まれている。その中でも布で編まれた栞が挟まる頁を、阿求は開いて魔理沙へ差し出した。
「これ、草稿か」
「はい。普通は誰かに見せたりはしないんですけど……。あまりにも不可解な事態だったもので」
「ふむ」
「単刀直入に聞きます。魔理沙さん、彼女をご存じですか?」
開かれたページにある名前は。
古明地こいし。
「……いや、知らないな。地底に同じ姓のやつはいたけど。最高に性格が悪いやつ」
「そうですか。霊夢さんや早苗さんにも聞いてみたんですが、やっぱり知らないって仰るんですよね」
「さとりの……妹ねぇ。あいつに妹なんていたのか。誰から聞いたんだ?」
「そう、不可解なのはそこなんです」
阿求がずいと身を乗り出す。その声は、もうほとんど囁きだった。
「私、それを書いた記憶は確かにあるんです。でも、その者の取材をした記憶がまったく無い。誰かから聞いたにせよ、あるいは直接会ったにせよ、この草稿を何を元にして書いたのか、それを全然思い出せないんです」
「……何だって?」
魔理沙もいつの間にか、阿求と同じように机へ身を預けていた。ふたりの間で、帳面に記された謎の少女の名だけが不気味な存在感を放っていた。
阿求の持つ求聞持の力は、一度見たものを記憶し続けることができる。彼女が何かを忘却するなんてことは有り得ない。有り得ないはずなのだけれど、その御阿礼の子が「思い出せない」と言ったのだ。これは一大事である。
「旧地獄の連中について書かれていることは、私が話した内容だよな?」
「はい。直接取材に行ければ良かったんですけど、流石にそうもいかなくて。だから地底世界に関わりのある方々に聞き取り調査をしています。でも魔理沙さんもご存じではないということになると、もう情報源の候補が無いんですよね……」
「こいつ、実在するのか? お前の妄想だったりして」
「その可能性も考えました。ちょうど平行してアリバイのアイデアを考えていたもので……おっと、何でもありません」
阿求は何故か大仰な咳払いをした。
「とにかく、私の創作じゃないということはほとんど確定しています」
「でも、お前が覚えていないんじゃ、つまりは取材した内容じゃないってことで決まりだろ」
「いえ、そうとも限りません。能力の欄を見てください」
几帳面な字を読み進めていく。すでに清書を控えるばかりといったところまで、内容は整理されていた。
古明地こいしの能力。それは無意識に潜むこと。あるいは無意識を操ること。
「……分かりづらいパワーだな。こういうのは専門外なんだが」
「仮に、仮にですよ。その妖怪が実在するとしたら、記憶という普遍的な能力そのものに干渉できる可能性があるとは思いませんか?」
「どういうことだ」
「だって、魔理沙さん。貴方は何かひとつでも、四六時中『覚えていなきゃ』って意識して記憶しつづけている事柄なんてありますか?」
顎を抓む。そう言われてみると、記憶というのは無意識下に置かれているものだ。それも長期の記憶であればあるほど、頭が勝手に覚えている。ものによっては、わざわざ思い出そうとしなくとも自然と身体に染み着いているものまである。
「なるほどな。自分に関する記憶を消去できる奴ってことか」
「そう考えれば、私が会ったことを忘れているのも説明はつくんです」
阿求が伸ばした手に帳面を返す。
「そしてもうひとつ、奇妙な発見があるのですが……。その前に、魔理沙さんに聞きたいんです。記憶って、どうやって作られているんだと思いますか?」
「なんだよ、今日のお前は随分と哲学者みたいだな」
「これでも真面目に悩んでいるのです、私」
頬を膨らませたお嬢様に、魔理沙は平謝りして先を促した。
「……求聞持の力は、天狗の写真機で常に撮影を繰り返しているようなものです。今こうしている瞬間も、私はこの眼に写るものを隅々まで記憶し続けているというわけです。その仕組みは未だに解明されていません。阿礼が何らかの魔術を自分の魂に施したというのが最有力の説。でもね、私は最近こう考えるようになったんです。この能力、実は誰でも使えるものなんじゃないか、って」
「いやいや、そんなわけないだろ。世界中がお前みたいな記憶力を持ってたら大変だ」
「魔理沙さん、生まれて初めて呑んだときのことって、覚えてます?」
「おう、えぇと。あれはまだ実家暮らしのときだったな。正月の宴会で御屠蘇を嘗めさせられた。あのときはこんな不味いもん、二度と呑むかって思ったのになぁ。今じゃこれだもんなぁ」
「私ね、小っちゃい頃は大葉が嫌いだったんです。分かるでしょう、あの薬みたいな味。あれがどうしても駄目で、お腹に貯まるものでもないから、食わず嫌いでずっと来てしまったんです。でも最近、大葉の天ぷらがぜんぜん大丈夫なことに気が付いて。むしろあの薬みたいな風味が美味しいとすら思えて」
「あぁ、あるよな。昔は大嫌いだった食べ物がいつの間にか大丈夫になるってパターン」
「それで考えたのです。味覚という生まれ持った感覚は、変な味がするものを食べないようにするために、好き嫌いが設定されているんでしょう。それが成長と経験によって修正されて、食べても大丈夫なものは『嫌い』から除外される。それなら、記憶も同じようなものなんじゃないか。記憶の本当の能力は、見聞きしたものを何もかも覚えておくことができる。でも経験によって覚える必要の無いものが効率的に除外されていき、物事はどんどん忘れられてしまう。求聞持の能力の本質は、実は記憶しておくことじゃなく、忘れることができないということなんじゃないか、って」
「ふむ、理屈は通っちゃいるけど」
「覚えるものと忘れるものの違いって何だろう。それが気になったんです。どれも同じ記憶のはずなのに、どうして差があるのだろう。覚えていることのできる記憶に共通するものは、いったい何だろう」
少しの沈黙。それを見計らったかのように、気の早すぎた蝉がじりりと鳴いた。
「私、思うんです。人間は、何らかの形で感情を動かされたことを優先的に記憶する。美しさに感動したこと。失って悲しかったこと。貶されて腹立たしかったこと。盛り上がって楽しんだこと。そういうことを人間は覚えている。逆に、何の感情も抱かないものは不要な情報だから、すぐに忘れてしまう」
「成る程な。昨夜の晩飯は思い出せないのに、十年前に食べた豪勢な祝宴のメニューは覚えてるもんだ、って誰かが言ってたな。いや私はちゃんと覚えてるが……あれ、なんでこんな話になったんだっけ?」
「魔理沙さん」
阿求は再び帳面を掲げる。赤い布地の栞が、白い障子紙を背景にして鮮やかに映える。
「私がこの草稿について確認した内容、覚えていますか?」
「草稿って、求聞史記のだよな。……ん、あれ、おかしいな」
何度も瞬きを繰り返す。
確かに、何かを質問されたはずであるのに。
ほんの、つい先程のことであるはずなのに。
その内容を思い出せない!
「何かを忘れてるよな。でも、何を忘れたんだ、私は」
阿求が再び帳面のその頁を開く。魔理沙はそれをひったくるようにして確認した。
――古明地こいし
見覚えの無い名前がそこにあった。
「……見覚えが、無い? そんな馬鹿な。私はさっきこれを読んだ、よな」
「これが、もうひとつの奇妙な事実なんです。そこに書かれている、えぇと……何とかという妖怪についての記憶は、徹頭徹尾保持できない。見聞きした一次情報は記憶できず、付随する二次情報も即座に忘却されてしまう。現に私も、さっきまで視ていたはずの名前を思い出せません。記憶の中にある帳面の光景にも、ぽっかりと穴が開いたようなんです。そしてその忘れたという事実さえ、記憶しておくことが困難ときています。霊夢さんも同じ状態でした。だから不思議に思ったんです。でもきっと、この『何かがおかしい』と感じた記憶も、すぐ忘れられてしまうのでしょう」
「そんな妖怪……有り得るのか?」
「魔理沙さん、本当にその妖怪に会ったことは無いと言い切れますか? 実はどこかで会っていて、弾幕決闘もしていて、それでもそのことを覚えていない。その可能性は無いと断言できますか?」
「……………………」
そう言われると、難しかった。覚えていないことは、即ち無かったことではない。自分の記憶の外にも当然世界は広がっていて、そこには様々な事実が魔理沙の知らぬまま存在し続けている。けれど、自分の体験したことすら記憶の外に移されてしまうのであれば、その事実を確定することは不可能だ。無かったことを証明することはできない。悪魔でもない限りは。
「――私、この妖怪のことを、次の求聞史記に載せようと思うんです」
絶句した魔法使いの前で、阿求は静かに言った。
「この推察が事実だとして、この能力が妖怪自身のコントロール下にあるとは思えないんです。だって自分が意識して記憶されないようにしていても、どんなに気をつけていても、隙というのは必ずどこかにできてしまうものだから。そして蟻の穴から堤は崩れ、能力は弱体化してしまう。でも、それすら無いというのなら、この能力は無意識下で常時暴走しているんじゃないかって。どんな理由があるのかは分かりません。でも、私には、まるで――」
古明地。さとりの妹。地底、旧地獄。忌み嫌われた者たち。
魔理沙の脳裏に、様々な単語が流星のように流れて、消えた。
なにひとつ覚えていてもらえない存在に、生きている意味は在るのだろうか。誰とどんな体験をしても覚えてもらえない、空気よりも薄い妖怪。そんなものは、いてもいなくても変わらないじゃないか。
「――まるで、世界からいなくなりたいと、そう願っているように思えるんです」
「そりゃ、なんとも妖怪らしくないふざけたメンタルだ」
妖怪というのは基本的に不貞不貞しいもので、古明地さとりなんて奴はその最たる者だ。世界から嫌われても、周囲から憎まれても、自分がおかしいだなんて絶対に考えやしない。いつだって、可愛いのは自分で、間違っているのは世界。
でも、もし。
可愛いのが自分で、だけど間違っているのも自分だ、と。
そう考えてしまった、惨めで哀れな妖怪がいたとしたら。
「有り得ない、とは私も思います。でもこれは、魔理沙さんにも霊夢さんにもできない、私なりの妖怪退治です。これが書に記されている限り、その妖怪は消えて無くなることはできない。あるいは新しい妖怪になってしまうかもしれませんが、少なくとも世界からいなくなってしまうことだけは防げますから」
「そうして、満願成就を阻止してやるのか。陰湿だな」
「というか、こうでもしないと危険を防げません。この妖怪が人間を襲わないという保証は無いんですから」
その指摘には頷けるところがある。さらに言えば、仮にあらゆる記録や記憶からその存在が抹消されてしまったとしても、それが本当に消滅したかどうかを確かめる手段は無いのだ。だったらどんな形であっても、その存在を啓蒙することは無駄ではない。
[Unconscious event begin]
「昔ね、かみさまにお願いしたんだ。お願いごとはふたつあったの。ひとつめは、『もう心の声が聞こえないようにしてください』ってこと。そうしたら、本当に何も聞こえなくなった。誰かの恨みも、誰かの妬みも、誰かの罵倒も、誰かの殺意も。私の第三の瞳は完全に閉じた。私、嬉しくって、もうひとつのお願いをしたんだ。『もう誰にも嫌われないようにしてください』。私、知ってたもの。誰かを好きになるってことは、そのひとをいつか嫌いになるってこと。誰かを愛するってことは、その相手からいつか憎まれるってこと。皆そうだった。だから、誰からも嫌われないっていうことは、誰からも好かれないということ。分かってたよ。ちゃんと知ってた。それでも構わない、ってそのときは思ったんだ。良い考えだって、本当にそう思ったのよ。そして、ふたつめのお願いごとも、ちゃんと叶えてもらったんだ。そしたらね」
こいしが帽子を目深に被り直すのを、魔理沙は呆気に取られながら眺めていた。
「私が記憶に残らなくなっちゃった。誰も私のことを覚えていられない。私は誰のことも覚えていられない。だから私はどこにでも行けるけど、どこにもいないの。誰とでも遊べるけど、誰ともお友達にはなれないの。お姉ちゃんですら、私のことをよく忘れるわ。私がお姉ちゃんのことを忘れちゃうみたいに。でも、お姉ちゃんのことは忘れても、『私にはお姉ちゃんがいる』ことはときどき思い出すの。するとお姉ちゃんのことも少し思い出せる。たぶん、お姉ちゃんも同じなんだと思う。でも他のひとはぜんぜん駄目。今の魔理沙や阿求みたいにね。たぶん、私は取り返しのつかないことをしちゃったんだわ。誰の心も分からないってことは、誰からも嫌われないってことは、誰とも感情を共有しないってことだもの」
「……そして記憶は、感情を共有するから刻まれる、というわけですか。でも、こいしさん、貴方はどうしてそんな願いごとを?」
「貴方、自分の能力を呪ったことが無いかしら。人並みに忘れることができたなら、って考えたことが無いかしら。私は思ったわ。そして呪ったわ。たぶん、私の眼は、お姉ちゃんに比べてかなり視え過ぎたのね。何も意識しなくても、私は相手の考えるすべての思考が見えた。ほんとうにすべての。本人が自覚していない負の感情すら、大きな看板にでも書いてあるみたいによぉく見えたのよ。耐えられなかった。あまりにも醜い世界だった。誰もが皆を罵りながら生きている。誰もが私に殺意を向けてくる。私はもう、何も視たくなくて、それで――」
ふわりと机を飛び越えて、無意識の少女は陽光に満ちた縁側に立った。
「残念、メモを取らなかったのね。それなら貴方も、すぐこの話を忘れるわ」
「おい、待てよこいし。何処へ行くんだ」
「分かんなーい。気の向くまま、風の吹くままよ。記憶ができないってことは、行動の一貫性も失われてしまうってことだもの」
ふい、とその姿がかき消える。
世界から、現実から、記憶から、感情から。
[Unconscious event end]
「べつに、お前がこの妖怪のことについて書くのは構わないけどさ。必要だというのは同感だし。霊夢には相談したのか?」
「はい。霊夢さんも同じ意見でした。実在した場合のリスクと実在しない場合のリスク、天秤にかけたら前者の方が大きいだろう、と」
やれやれ、と魔理沙は肩を竦めた。幻想郷も、随分とややこしくなったものだ。弾幕はパワー。それでいいじゃないか。それ以外のどんな魔法が必要だっていうんだ。
「ま、いいや。実在か非実在か分からない奴の話なんて、長々とやったって仕方がない。それより、気になったんだが」
阿求が立ち上がって障子戸を閉めた。そこが開いていたことに魔理沙は気づかなかった。阿求が閉め忘れたのだろうか。
「なんか、なんとなくだけど、里に元気が無いような気がするんだが」
「そうでしょうか。普段と変わったようには見えないのですけど」
「うーん、気のせいだと良いんだけどな。里の外から見てるからかな」
「季節の変わり目だからじゃないですか? 最近急に暑くなりましたし」
人心を乱す異変が立て続けに起きた結果だろうか。久々に訪れた里の人間たちが、疲弊しているように魔理沙には見えたのだ。先ほどの稗田家の者もそうだ。吹けばさらさらと崩れ消え去ってしまいそうなほど、存在に覇気が無い、と言うか。
厭世観。そう、そんな言葉が当てはまるのかもしれない。
「今日のゲストどもが喜びそうな状況だな。宗教家っていうのは社会不安につけ込むもんだ。ひょっとしたら、今日の対談をきっかけにして宗教戦争でも巻き起こったりして」
「……皆に注意はさせるようにしましょう。では、今日はよろしくお願いしますね」
阿求が部屋を辞し、魔理沙は温くなった茶を喉へ流し込んだ。
ふと、手の甲に何かが書かれていることに気がつく。
――古明地こいし
見覚えの無い名前だ。しかし筆跡は自分のものである。どうして書いたのか、いつの間に書いたのか、それを思い出せない。けれど、古明地。旧地獄に住む覚妖怪。実在するかしないか分からないさとりの妹。おかしいな、阿求とそんな話をしていたのなら、忘れるだなんてあり得ないことのはずなのに。
いや、忘れると分かっていたから、自分でこれを書いたのか。
「相談してみるか」
妖怪のことであるなら、博麗霊夢に聞くのが一番だろう。その前に、今日の対談に参加する三名にも聞いてみても良いかもしれない。いずれもかなりの実力者で、人間には友好的だ。そんな危険な妖怪が実在するのなら、対処法を考えてくれるかも。
それまでこの字が消えてしまわないことを、魔理沙は祈った。




