苦悩/こころはうそつき
自分の睡眠が浅い理由に、鈴仙はいくらでも思い当たる節があった。
第一に、臆病な性根である。兎とは基本的に臆病なものだけれど、彼女のそれは度を過ぎていた。何か行動を起こす度に、常に最悪の結果が頭につきまとい、振り払うのに千尋の谷へ飛び降りるほどの決意を要する。だから手を着けなければならないことがいつまで経っても始められず、その停滞がストレスとなって彼女を苛む。この負のスパイラルを端から眺めている者は、そんなものは彼女の自業自得だと鼻で笑い飛ばすことだろう。そんなことは痛いほど、彼女自身も理解している。しかしいくら分かっていても、理屈ではどうにもならないのが性根というものだ。
第二に兵としての習慣があった。月都防衛隊に限らず、兵士というものはいつだって二十四時間体制である。眠っていても有事には飛び起きなければならないのだから、自然と兵たちの睡眠スタイルは、どんな深い睡眠からでも即座に覚醒するタイプか、つねに浅い睡眠を保つタイプのどちらかとなる。鈴仙は後者というわけだ。そのくせ、浅い睡眠では満足に休めない体質が祟った。慢性的な疲労と無気力を薬でごまかしながら訓練を続ける日々。別に彼女に限ったことではなく、月兎兵たちの間では珍しくもなんともない状態だ。永遠亭に逃れついてから、永遠の魔法が解かれた後はなおさら、枕を高くして眠ることが許されているはずなのだけれど、鈴仙の身体に染み着いた習慣は未だに抜け切れていない。
そして第三の理由が、彼女が新しく始めることになったこの仕事であった。
「…………はぁ」
与えられた一室――といっても、永遠亭の最も狭い物置を片づけただけなのだが――を前に、鈴仙は大きな溜息を吐いた。もうすぐ、週に一度の約束の時間だ。ドアノブを捻る。緩んだバネの間抜けな感触とともに扉が開く。
五、六歩程度の奥行きと、両手を辛うじて真横へ伸ばせるくらいの幅。そこはそんな細長い部屋だった。窓から差し込む冬の陽光だけが嫌に明るい。備え付けてあるのは簡易なデスクがひとつと椅子がふたつ、それだけの寒々しい部屋だ。永遠亭は全面に床暖房が施されているから、本当に冷えるわけではないのだけど。
奥側の椅子に腰掛けた鈴仙は、手持ちぶさたに抱えていたフォルダを開いて、中の資料をぱらぱらと読み返す。ほとんどは彼女自身が書いた記録なので、内容は頭に入っているけれど、それでも持ち前の不安症から、ついつい記録を辿り直してしまうのだった。
最初の頁、顔写真と、その少女の名前。
――秦こころ。面霊気。
目鼻に耳と口がそこにあるだけ、という完全な無表情がそこにあった。これが写真であることが鈴仙には信じられなかった。普通なら、どんなに感情を隠そうとしても、表情にそれは浮かび出てしまうものだ。ことに無表情というやつにはなおさら。だが、この顔にはそれが無い。一片たりとも感情が見て取れない。一言で言えば不気味だった。どうやって成り立っているのかまったく分からない無表情だった。
妖怪の山で怪我をした少女の手当に赴いてからというもの、秦こころは定期的に永遠亭に通院を続けていた。傷は妖怪に相応しい速度で治癒したものの、その発育面には問題が山積していると永琳が判断し、精神的なサポートを申し出たためだ。彼女の情緒不安定は、投薬のおかげで劇的に良くなったと記録されている。
そして治療の次の段階が、カウンセリングを通した対人能力の向上であった。
鈴仙へこころのカウンセリングを任せるということを決めたのは、もちろん師匠の永琳である。あまりにも突然な話に、最初は鈴仙も何かの冗談じゃないかと思ったものだが、師匠はこういう場面でジョークを飛ばすようなひとではなかった。
『私たちは、地上の民としての仕事を果たさなければね』
蓬莱山輝夜が永遠の魔法を解いてから、月の罪人と兎たちは幻想郷社会との交流を始めた。生活という概念が生まれたのだ。そうすると生活の糧というものが必要になる。永遠亭は薬と医療の提供を始めた。鈴仙も師匠に従って薬売りの仕事に就いたのだけど。
「……荷が勝ちすぎるよ、私には」
二度目の溜息は、小部屋の壁に容易く吸い込まれてしまった。
脱走月兎兵には当然、カウンセリングの経験など無い。むしろ自分が受けていた方である。薬を配るだけならまだしも、患者と直接面と向かって会話し、その心の奥底を覗き込むだなんて無理だ。鈴仙は必死で訴えたけれど、永琳は頑として聞き入れず、秦こころは鈴仙の担当患者第一号と相成ったわけである。
そしてまた、このこころという少女が難敵なのであった。
「――どうぞ」
ノックの音に許可を返す。立て付けの良くないドアが開いた向こうに、彼女は立っていた。保護者である厄神に連れられて、写真通りの無表情で。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「待っていましたよ。どうぞおかけください」
面霊気はまるでラジコンのように、言われた通りに動いた。頭を下げる雛が、閉まる扉の向こうに消える。
「おや、可愛いマフラーと手袋ですね。厄神様に買ってもらったんですか?」
「はい」
外したそれらを、こころは丁寧に畳んで膝の上に置いた。
「寒いことは、いけないのです。凍えたら死んじゃうから」
「それは、はい、そうですね」
それきり、暫しの沈黙が小部屋を埋めた。
奇妙な少女だ。鈴仙はこころに会う度にそれを痛感する。彼女からは、普通の妖怪や人間なら備えてしかるべきものを感じ取ることができなかった。ひとつは表情、もうひとつは感情だ。
前者はまだ、辛うじて理解できる。泣きも笑いもしない者は、僅かだが他にも見たことがある。だが後者は、もはや理解不能な生物としか思えない状態であった。目の前に座るのが、ただの人形だと言われる方がまだ納得できた。
水面に石を投げ込めば、必ず波が立つように、生命は常に感情の波を放射しているものだ。それはどんなに意志を殺そうとも、どれだけ息を潜めても隠し通すことはできない。身体が発する熱と同じだ。生きている限り、それを無しにはできないのである。鈴仙が潜入任務に重宝されたのは、この波長を正確に感知する能力に長けていたためだ。羽虫の一匹の場所すら、彼女には手に取るように把握できる。たとえ幽霊や神格であろうと、感情を持つ限り鈴仙の紅い瞳から逃れることはできない。
できないはずだったのだけれど。
こころは鈴仙が生まれて初めて出会った例外だった。表情を以てしても、波長を以てしても、面霊気はまったくその感情を覚らせなかった。それはまるで真冬に咲く向日葵のように、あるいは真夏に降る雪のように、この世界に存在するはずのない現象だった。
「お身体の具合はどうですか」
「はい、元気です」
「まぁ、はい、防寒には気を使っているみたいだから、風邪は大丈夫でしょう。妖怪の引く風邪は手強いんですよ、あれは精神も弱らせますから」
「そうなんですか」
別に何を読むわけでもないが、手元の紙をぺらりとめくる。また彼女の無機質な顔写真が現れる。
波長が感知できない以上、鈴仙がこころの意志を読み取ることは不可能に近い。彼女は身体の一部と思われる無数の能面で、自身の感情を表現する。それが表情の代わりで、あるいは波長の代わりであるらしかった。今は狐面を付けているが、それがいったいどんな感情を表すものなのかは分からない。
それが彼女にとってやり易いことならば否定すべきではないのだろう。素直に笑った方が良いのに、とは思うけれど。
とはいえ、彼女が膨大な感情をその内に秘めていることも、また揺るぎない事実である。それは最初に出会ったその日の、妖怪の山の惨状を目にして知っている。「苦しい」とただ思うだけで、周囲一帯に甚大な被害を与える、今目の前にいる彼女とは正反対の特性。
それが途絶えていることに鈴仙が気付いたのは、ここに通院を始めてからしばらく経ってからのことだ。
「えぇと……お薬はきちんと飲めていますか」
「はい。朝ごはんの後に一錠、お昼ごはんの後に一錠、夕ごはんの後に三錠」
「薬が合わなくて、気分が悪くなったりはしないですか」
「大丈夫です。ぐるぐるしてるのがふっと楽になります。八意先生は凄いです」
面がくるりと火男の面へ変じた。鈴仙は失言を恥じた。師匠の処方が間違っているわけがない。科学だろうと薬学だろうと、あるいは魔法であろうと、こと薬について永琳が分からないことなど無いのだから。
秦こころは感情の制御を覚えて成長しているのだろうか。
確かにこれは、一般的な子供の成長過程を形だけなぞってはいる。通常、どんな生物でも、生まれたばかりの赤子ほど感情を垂れ流し、成長するに従ってそれを抑えられるようになっていくものだからだ。喩えるなら、コップを適度に満たすための蛇口の捻り方を徐々に覚えていくようなものである。
だが、こころのそれは桁と程度がまったく違う。彼女の場合、コップへ水を注ごうとしているのに、選択肢がナイアガラの滝を流すか止めるかの二択しか無いわけだ。そして膨大すぎる水量が周囲に破滅的な被害をもたらすことを学び、その一切を止めてしまった。原理は不明だけれど、感情を操る妖怪だというのならそれも可能なのだろう。
自分の心を、常に強く縛り抑え続ける生活。
現実の何処にも、感情を廃棄できない生命。
それは。鈴仙は思う。それは、あまりにも。
「最近は、感情爆発も観測されていないと聞いています。頑張っていますね」
貼り付けた作り笑いが、きちんと機能することを鈴仙は祈った。
こころの面が狐に戻る。
深海みたいな、猫みたいな大きな瞳がこちらを真っ直ぐ見返す。
自分の言葉の薄っぺらさを、鈴仙は痛いほど理解している。こころが自身の感情を堰止め続けていることを、「頑張っている」だなんて簡単な言葉で評せるわけがない。けれどその苦労を理解できる者が、おそらくこの世界にはいない。ひとり孤独に、誰の手も借りずに耐え続ける彼女の努力を、認めることのできる誰かがいないのだ。師匠の薬すら、思考能力の補助はできても、感情そのものの重さを軽減できているわけではない。
だから、自分がそうならなければならない。それも鈴仙には充分に分かっている。分かってはいるのだけれど、そんなことは無理だとも思う。こころの抱える重荷は、担ぎ手がひとりからふたりに増えたところでどうにかなるようなものではない。それを軽減できるのだとしたら、それはもう神の奇跡だ。一介の月兎に過ぎない自分には、彼女にしてやれることなんて思いつかない。
どんな言葉をかければいいのか、自分には分からないから。
それを表す適切な言葉が、そもそも世界には存在しないから。
「――この調子で、頑張っていきましょうね」
だから、こう言うしかないのだ。
軽率に、残酷に。
不躾に、冷酷に。
頑張れ、と言うことしか。
――分かってるよ。
――分かってるんだ。
これが最悪に近い対応だなんてことは、言われなくたって理解している。もしも従軍していた時分に、こんな言葉をかけられていたら手が出ていたかもしれない。
分かってるよ。頑張ってるんだよ、こっちは。もう今にも潰されそうなくらいに頑張ってるっていうのに、まだ足りないのか。私が頑張ってないっていうのか。
だけど、いざ自分が声を掛ける方に回った途端に、これだ。
毎回、カウンセリングの後は無力さに打ちひしがれる。だからこの仕事は嫌だった。彼女のほんの僅かな助けにすらなれていないということを、痛いほどに思い知らされるから。
「何か、私にできることはありますか」
欠けそうな笑顔を必死で補修しながら、鈴仙はまたお決まりの文句を吐く。会話の糸口を掴むための、相手の本音を知るための、ありふれた定型句。
その言葉に、こころは首を傾げた。それは鳥が警戒する様子によく似ていた。
彼女の思考する時間が、鈴仙には永遠にも思えた。手元の書類の端が、指で触り過ぎたせいで皺が寄っている。
「――夢を見たことを覚えています」
「え」
「いつ見たんだったかは忘れてしまいましたけど、覚えています。夢の中で、私は象でした。広い草原の中で不自由なく生きている若い象でした。でも彼は、どこまでも遠くへ旅に出ることを夢見たのです。だから夢の中で、疲れない脚で、彼はどこまでも歩き始めました」
鈴仙は、その言葉にじっと耳を傾けた。こころが長く話した例はあまり無い。
「山を越えて、野を越えて、川を渡り、海を渡り、夢中になって彼は旅を続けました。そして、やがて、ひどく寒い場所までたどり着きました。一面が真っ白で、背の高い樹々に囲まれた場所です。そこで、彼は大きなヘラジカと出会いました。遙か遠く離れた二匹の夢が、なにかの拍子で繋がってしまったのです。見たこともない、得体の知れない大きな化け物。象は恐れました。ヘラジカもまた、彼を恐れていました。二匹は互いに、相手の逆鱗に触れることだけはいけないと、機を窺い合っていました。相手が恐れるから、自分も恐ろしいのです。そして自分が恐れるから、相手もこちらを恐ろしく思うのです。彼らには、それを自覚することまではできなかった。二匹は睨み合い、そしてどちらともなく突進し、牙と角がぶつかり合いました。大きな音が響いて、骨は砕けて、肉は潰れました」
ほとんど一息で語り終えると、こころは傾げた首を真っ直ぐに戻した。
「その夢のことを、思い出しました」
「はぁ、それはまた、どうして」
「同じだと思ったのです。私は、貴方を恐れている。それは、貴方が私を恐ろしいと感じていることが分かるから」
そんなことは。
ぱちん、という瞬きの音が部屋に響いた、ような気がした。
そんなことは、あるわけが。
視線が思わず手元に落ちる。顔写真のこころと目が合う。そんなことはありません。そのたった一言で良かった。言葉にするのはただそれだけで良かった。けれど。
「だから、私が貴方に望むことがもしあるとすれば、その恐怖を解いてほしい。貴方の感情、私の感情、どちらでもいいのです。どっちかが、恐れなくなれれば、たぶん」
気が付いたときには、唇を強く噛んでいた。寒かったのだ。真冬を通り越して、極点すらも追い越して、鈴仙は世界で一番寒い場所にいた。
恐ろしくないわけがない。
怖くて怖くてたまらない。
「分かるんです。雛もそう。怖がっているんです。天狗も、神様も、河童も、私のことを恐れている。世界中の恐怖を、私は肌で感じている。だから怖い。私は、世界のすべてが恐ろしい。ねぇ、どうしたらいいでしょうか。我々は感情だ。恐怖もまた我々だ。でも私には、どうしたらいいか、分からないのです」
そうだ、恐ろしくないわけがない。彼女は得体の知れない化け物だ。他者の感情を容易く染め上げ、強制的に同調させる能力。それは使い方を誤れば、人間も妖怪も、世界さえも牛耳ることを可能にする力だ。そんな強大な存在の一番近くに鈴仙は今座っている。これで恐怖せずにいられるのなら、彼女は月都から逃亡なんてしなかっただろう。
月兎の紅瞳には、やはり一切の揺らぎも観測されない。こころがこれだけ自身のことを話してくれたというのに、彼女はその吐露に際してさえ、まったく感情を漏らさない。
「……私の感情も、見えるのですか?」
震える声で問うと、面霊気はこくりと頷いた。
息を細く、長く吐く。こころが他者の感情を直接感じ取ることができるのであれば、鈴仙の波長感知能力とほぼ同等のことができるということになる。あらゆる者の仮面を無効化する能力。彼女には痛いほど分かる。嘘偽りは無駄などころか、逆効果だ。
そうか。
だから、師匠は。
「私もね、分かるんです。他の人の感情が。貴方の能力ほど正確じゃないでしょうけど」
能面が大飛出へと入れ替わる。早業すぎて、まるで面そのものが変化しているようだ。
「怒っているひとは激しく鋭い波。安らいでいるひとは緩やかな波。誰もが世界に波を立てながら生きている。私にはそれが感じ取れる。感じてしまう。えぇ、微笑む目の前のひとが、その背後で悲しんでいることも。口では私を許すと言いながら、本当は憎しみがぜんぜん消えていないことも」
栄転を祝福してくれた友人たちの、心の裏で爆ぜて膨らむ巨大な嫉妬が。
逃亡を笑顔で許してくれた隊長の、心の裏で鎌首を擡げる強烈な軽蔑が。
「――感じ取れてしまうんです。何もかも。かつて私を指導してくれた教官は言いました。それはお前の才能なんだ、って。確かにそうかもしれない。この力が無ければ私はとっくに死んでいたかもしれない。でもね、大抵の場合、この力は呪いでしかなかった」
不思議と淀みなく、言葉は続いた。必死だった今までが嘘みたいだった。
「私の力で、波を感じ取れないひとを、私は初めて見ました。こころさん、貴方のことです。貴方は世界に波を立ててはいけないと、必死で感情を溜め込んでいるのでしょう。私がそれに気が付いたとき、私は――そう、貴方の言う通り、恐ろしいと思った。私の培ってきた感覚で視ることができない貴方を、不気味に思った。そしてその本音を、そんなことではいけないと、隠し通してきたつもりだった。それで上手くいくと、本当にそう考えていたんです。だけど、違ったんですね。私がやったことは、今まで私を足蹴にしてきたひとたちと、同じことだった。そして私の呪われた力は、私の思っていたよりもずっと、私の根幹を成していた」
何度も、こころの瞳が瞬いた。何度も、何度も、何度も、何度も。
「同じような境遇で生きてきた先達として、言わせてもらいます。ねぇ、こころさん。貴方は世界が嘘偽りで満ちていると感じ、失望しているのでしょう。それは確かに真実です。世界は貴方を恐怖するでしょう。かつて私にそうしたように。そこに希望なんて持てないでしょう。だから私は世界を恐怖した。そして貴方もそうしている。分かります。本当によく分かる。でもね、それは必要なことなんです。感情というものは、本当は色も形も無い。誰もが持っているものなのに、その本当の姿を誰も知らない。私にだって分かりません。表情も、声色も、動作も、音楽も、文章も、絵画も、感情を表現するために生物が試行錯誤して会得した一手段に過ぎない。けれどきっと、その根底にあるものが、想像を超えた大いなるものであることは、皆理解している。そう思うんです。誰もがそれを、なんとか目に見える形にして、隣人に伝えている。貴方が好きだ、貴方が嫌いだ、愛している、疎ましい、殺したい、助けたい。それを伝えることが、世界を、社会を作った。そうやってひととひとが繋がって、ひとりはひとりじゃなくなった。そんな世界のままなら、私たちみたいな存在だって、何も恐れる必要は無かったんです。でも、いつしかその立場が逆転した。肥大して固まった社会が、それを上手に伝えることを必要とするようになった。ひとりがひとりじゃないことが当たり前になってしまったから、ありのままの感情をさらけ出すことは悪だと定義された。だからひとは建前の仮面を被るんです。そうしないと社会から弾き出されてしまうから。感情は伝えなければ意味が無い、なんて言われたりもします。それは裏返せば、伝わってしまった感情にはどうしたって意味が含まれるということ。でも、感情の本当の姿は、きっとそんなものではないと思うんです。だってそうじゃないですか。誰にも伝えない自分だけの感情が、無意味だなんて言えないじゃないですか」
ずっとずっと、誰にも言えなかったこと。
本当は、昇進なんてしたくなかった。戦争なんて行きたくなかった。
それを秘密にするだけで無意味にできたなら、どれだけ幸せだったことだろう。
「ひとが心を揺さぶられたとき、それへの対処はふたつしかありません。それを受け入れるか、拒絶するかです。そして揺れが予想外の角度からであるほどに、また振動の幅が大きいほどに、ひとは拒絶の傾向を強めます。こころさんの感情同調は、それを意識することなく、継続してやってしまう。貴方の感情、ひとつひとつに意味は無い。イライラも喜びも、いちいち意味を考えながら感じたりしないでしょう。けれど受け取った方は、揺さぶられた方は、必ず意味を見出してしまう。それも不快な方に。貴方はそれを理解したから、ずっと堪え続けている。でもそれは、貴方の巨大な感情の、本当の意味を無視し続けるということに他ならない。貴方が本当にしたいことが、貴方の感情が真に望んでいることが、このままでは永遠にできないんです」
はたり、と滴が落ちた。顔写真の端に、銃創みたいな跡が付いた。
深い水の底から、ようやく水面に辿り着いて息を吸った。そんな気分だった。そして飲んでしまった水をえづきながら吐き出して、無様な呼吸を繰り返す。
そうか、そうだったんだ。鈴仙はようやく知った。自分も今まで、堪え続けていたんだ、呼吸を。
「……今の私の感情、どんな風に見えますか?」
「なんと表せば良いか、分かりません。星空を百倍の早さで回した映像を見たことがあります。少し、それに似ています」
一介の月兎が、こんなに辛いのだ。ならば、比べものにならないほど膨大な感情を堪え続ける面霊気の苦痛は、いったい、どれだけの。
「――私の」
こころの顔が、猿面の向こうへ隠れる。
「私の、ほんとうに、やりたいこと」
虚空を見つめながら、ひょうきんな表情の猿が、何かを思案して。
その時だった。鈴仙は直感に顔を上げた。
波が、来る。
「私の、希望」
その波長は、細かく小さなものだった。拍子抜けしてしまうほどに。白く泡立つような波、こんなものを誰かが発するところを、鈴仙は見たことがなかった。いや、違う。これはどこかで体験したことのある波だ。ずっとずっと昔、どこかで。懐かしさすら覚えるほどの記憶の向こう側で。
あれは。
あれは確か、入隊時の儀礼で一度だけ入った、月都の最奥部。最高権力者、月夜見様に拝謁した、あの瞬間に微かに感じた波長。
何かの間違いだ。そう思ったことを思い出した。月の民とはいえ、あれはひとりの生命が発するもののはずがなかった。あれは。あの波長は、あまりにも――。
(――長すぎる)
鈴仙は目を見張った。
そう、その波は、細かくも、小さくもなかった。あまりにも長い波長だから、そう視えるだけなのだ。長周期地震のような、いや、それどころではない。恒星が銀河系を公転する波長、そのクラスだ。
面霊気の奥底に、いったい何が潜んでいるというのか。
「こころさん!」
思わず立ち上がり、肩を揺する。猿面がひょいと脇にずれ、彼女の無表情が覗いた。
「……今日は、ここまでにしましょう」
こくこくと頷く。波は引いていく。何事も無かったかのように。
こころは立ち上がり、手袋とマフラーをいそいそと着けて扉へ向かったが、ふと立ち止まって言った。
「ひとつ、間違っています。私は感情を堪えているのではありません。現実世界ではなく、夢の世界に吐き出しているのです」
「えっ?」
鈴仙がその意味を問う前に、こころは深く一礼し、部屋を辞してしまった。
後に残された新米カウンセラーは、しばし目を丸くしていたが、やがてぱたぱたと去っていく足音が聞こえなくなると大きく息を吐いた。一歩間違えたら、とんでもないことになっていたかもしれない。幸か不幸か、漏洩した感情波はその規模の大きさ故に、逆に気づいた者はいなかっただろう。同じ建物内にいる、永琳や輝夜でさえも。
全身をどっと冷や汗が覆った。謎は深まり、危険は強まるばかりでしかなかった。
思い違いをしているのかもしれない。彼女は山ひとつを確かに大混乱に陥れた。だからそれだけの力を持つ妖怪だと誰もが警戒している。
しかし実体は逆だったのかもしれない。
もし秦こころが月夜見様と同等の何かを抱え込んでいるのであれば、あの一件は、奇跡的に山ひとつだけで済んだ案件なのではないだろうか?
そして、それ以上に。何よりも惨いことは。
そんなものを抱え込む面霊気が、「怖がられたくない」と願うただの少女であるという、その一点。
「冗談じゃないわよ……」
跳ね上がった鼓動はなかなか元に戻らなかった。鈴仙はしばし、窓越しの蒼い冬空を無為に眺めていた。仕上げなければならない今日の報告書のことは、なにも考えたくなかった。けれど、どうしてだか、今日はよく眠れそうな気がした。




