希望/さいごのくに
世界が終わるなら、海へ行こうよ。
こいしは軽薄な笑顔でそう言った。
「…………? うん」
こころは仰向けに寝ころんだまま、しばらくゆらりと思案して、やがて曖昧に頷いた。こいしの言葉の意味がよく分からないのはいつものことだった。
命蓮寺の宿坊は狭い。ふたり分の布団を敷いたら、それだけでいっぱいになってしまう。だから、深夜の闇の中、蝋燭ひとつの灯りだけで浮かび上がった空間はふたりだけの世界だった。反対の壁まで光が届かないから、闇の中をどこまでも布団が広がっていくように見えるのだ。
こいしもこころも、普段からここに寝泊まりしているわけではない。在家のまま寺に世話になっているふたりは、普段は妖怪らしく気ままに暮らしている。なんとなく勤行をする気分になったときにだけ、なんとなく寺を訪れるのだ。今夜はそのタイミングがたまたま重なったために、こうして窮屈な夜を過ごすはめになっている。
「世界は終わるんだよ」
自分の枕にまたがってこいしは座った。
部屋灯の薄暗い灯りを背に負った彼女は、濃くて黒い陰に染め抜かれている。その闇の奥底から、なんだか饐えた臭いが漂ってくるように感じた。こころは行儀悪く、畳まれたままの掛け布団の上へ両脚を投げ出した。
「それで、どうして海に行くの?」
「そりゃあ私が、こころちゃんと海に行きたいからだよ」
「世界が終わるのに?」
「世界が終わるから!」
きゃらきゃらと笑いながら、こいしは身体をゆらゆらと揺らす。
「崩壊した世界を、ふたりで旅するんだ。女の子はみんなそれをやるんだよ」
「そんな簡単に世界が崩壊してたまるか」
「簡単だよ。ほら」
こいしの胸元から紫の触手が伸びたかと思うと、室内灯がふっとかき消えた。そのまま彼女はひとの毛布をひっ掴んで、何がなんだか分からないままのこころを上から襲った。突然羽毛布団に圧し潰された世界の中で、こいしの瞳だけが若葉色にぼんやりと輝いている。
彼女のネグリジェから、薄い石鹸の匂いが漂ってきた。
「はい。これで世界は終わり」
すべてを闇に葬った魔王は、鼻と鼻が触れ合いそうな距離でくすくすと笑った。
くたびれた冷たい羽毛布団が、ふたり分の体温のせいで、じんわりと温まっていく。その熱が世界に向けて放射され、あまねくすべてを灼き尽くして、布団の外を阿鼻叫喚の地獄へ変えていった。
命蓮寺が砕け散る。
幻想郷が灰と化す。
世界を丸ごと粉まで砕き、死と破壊を無差別にまき散らす。
こいしの腕が、こころの背中にするりと回った。
「じゃあ、やろっか。海へ行くごっこ」
「寝なくてもいいの? 明日も早いのに」
「だってまだまだ全然眠くないんだもん」
「この不良め」
「妖怪としては健康だと思うけどなぁ。夜に遊んで昼寝するのがお化けじゃない」
「はぁ……。それで、どうするんだ」
「じゃあ出発しまーす」
ふたりはごみ屑になった世界へと旅立った。幻想郷を覆う結界だって関係ない。博麗の巫女も死んでしまったので結界が維持できるはずもないし、そもそもこころとこいしの他は皆が死んでしまっている。内と外を隔てる必要が無くなれば、結界などあって無いようなものだ。
「そういえば、海ってどこにあるの?」
「さぁ。よく分からないけど、ずぅっとどこまでもまっすぐ歩き続ければ、いつかは海に当たるはずよ」
頬を撫でる甘ったるい吐息に胸が急かされる。頼りにならない相方に代わり、こころは仕方なく思考を巡らせる。
こころは海を見たことがない。けれど能楽にも海を扱ったものがある。海と言われて思い出すのは、演目『海人』の海だった。竜宮に奪われた珠を取り返すため、藤原房前の母たる海女が命を賭して潜った暗黒の海だ。竜や鮫などの怪物が水底より襲い来る、恐ろしい場所である。
それに、寺で水蜜から海の話を聞いたこともある。彼女はずっと昔に舟幽霊として海で猛威を振るっていたそうで、今でもときどき、そのときの話を大仰に語って聞かせるのだった。彼女が舟を沈めると、すべての希望を絶たれた人間は、それでも必死にもがきながら、けれどついには海へ飲まれていくのだという。
ずぅっとどこまでも歩き続けると、そんな地獄のような場所へ行き当たるというのか。
「それにね」
こいしがくすくすと笑うと、こころの膝と膝の間でこいしの脚が震えた。
「誰の心の中にもねぇ、海はあるんだ。見たことがあるよ、ずぅっと昔にだけど」
「それは…………」
ずぅっと昔、というのはこいしが第三の瞳を閉じる前の話だろう。それに気づいたこころはどきりとした。こいしが瞳を閉じたときの話を聞いたことがなかった。尋ねていいものかどうかも分からないことだったから、口にしたことすらなかった。
ふたりの胸の間で、閉じた第三の瞳が窮屈そうに圧し潰されている。沈黙した器官は不平のひとつも口にはしない。
「ほら、瓦礫の街に出たよ」
口を噤んでしまったこころに構うことなく、ふたりの旅は続いた。外の世界の街も、もちろん残らず崩壊している。布団の中ではそういうことになっている。
立ち並ぶ摩天楼。夜も明るい科学世界。こころもこいしも、それを直接見たことはない。ただ話に聞いたことがあるだけだ。オカルトボールに絡む異変の折に結界の外へ出た者や、自由に結界の内外を行き来できる者。彼女らからの伝聞が、ふたりの持つ情報のすべてだった。
「ここにも人間がいっぱい住んでたんだけど」
「滅んじゃったのか」
「世界の終わりだからねぇ」
「滅ぶ前の街も見てみたかったな。ねぇ魔王様、どうして私だけを残したの?」
「こころちゃんは、私のかみさまだからです」
瞳の真円が、緑色の熱を持って迫る。こころは目を逸らした。けれど、抱き合うようなこの距離では、逃げることなど叶わない。
「なんで逃げんの」
「だって怖いんだもん……」
「じゃあ、もっと怖くしてあげよう」
こいしは鮮烈に笑って、こころの背に回した腕をさらにきつくした。額どうしがこつんと当たり、視界のすべてが、こいしの瞳で塞がれた。長い睫毛がこころの瞼を撫でる。
身体と吐息、そのふたつの熱のせいで息苦しくなった。こいしの作り出す新しい幼い地獄。けれど、そこから逃げ出したいという気持ちも失せてしまっていた。
行く場所など、他に無いからか。
それとも、その苦しさが、本当は心地良いからか。
「えへへ、怖いでしょ」
瓦礫の街が燃えている。炎がそこらじゅうで立ち上がり、その巨体で夜を焦がし続ける。ひとを焼き尽くし、ものを焼き尽くした破滅たちは、そして残ったふたりをも灰にしてやろうと、赤い瞳で世界中を舐め尽くすように探している。
こころはこいしの手を離さないように懸命に走った。
「怖いよ。だけど」
指が絡む。こころの身体は鈍い熱に浸される。
こいしの唇のとんがったところが、こころの鼻を擽った。驚きとともに首を竦めて逃げるけれど、容易く追い付かれてしまう。何度も何度も、こいしはこころの鼻を啄んだ。
慈しむような闇の中。広大な毛布の下。ふたりだけの小さな小さな世界。
「だけど、怖くないんだよ」
こころは言った。引き離されたくなかった。だから両の手の指を、こいしの背中の向こうで、固く、けれどどこかぎこちなく結んだ。
世界の熱を受けて、こいしの瞳は煌めきを増す。
「あは。私とおんなじだ。私もね、何も怖くなんかないよ。だけど同時に、何もかもが怖くて仕方がないんだ」
炎の巨人たちの足下をすり抜けて、ただただ前へと駆け抜けていく。灰燼も瓦礫も、ふたりならひとっ飛びで越えてしまえるから、この逃走を邪魔できるものなんてない。
けれどもしも、奴らに見つかってしまったら終わりだ。
こころとこいしを壊したくて、殺したくて、うずうずしている連中が、地平線の果てまで、見渡す限り、そこらじゅうに。
「だから、海に行きたいんだ。こんな世界は終わらせて、こころちゃんとふたりだけで、海に行きたい」
「海は、怖いの、それとも怖くないの?」
「海は、怖くないけど、とても怖いよ」
「そりゃあ、まるで貴方みたいだ」
「そうだね。まるでこころちゃんみたいだよ」
こいしは猫みたいに笑って、こころよりふた周り小さい身体の、しなやかな重みのすべてを遠慮なく預けた。のっぺりとした腹どうしが密着して、互いの呼吸のリズムを伝え合う。こいしの呼吸が、自分のそれよりも速くて浅いことを知る。
ふたりは海を目指して駆け続けた。どこまでも真っ直ぐ駆け続ければ、いつかは海に辿り着くはずだった。見たことのない景色を、行ったことのない場所を、ただひたすらに求めていた。
だって、そのために世界を滅ぼしたのだから。
ふたりの他に誰もいない世界にしたのだから。
空に光は無い。月も、星も、太陽もいらない。
互いを照らす光なんて、互いの瞳だけでいい。
あの忌々しい炎さえ消えてしまえば、海に辿り着きさえすれば、その後に残るものは。
頬と頬と擦り合わせる。唇と唇を触れ合わせる。首筋に伝う汗を、こいしの舌が掬い取る。その行為の意味なんて知らない。分からなくてもいい。世界は滅んだのだから、やりたいことをただやるだけだ。
こいしは落ち着く場所を求めて、もぞもぞと動き続けた。やがて、こころの顎に額を乗せるような位置でようやっと止まった。
しばらくの間、ふたりは闇の中で身を潜めていた。はしゃぎ続けた夜の、一瞬の静寂。駆け続けた逃走の狭間に、ふと止まる脚。そんな風にして唐突に訪れた沈黙だった。ただ呼吸の音だけが聞こえる。こいしの吐いた息が、広大な世界を対流したのち、こころの吸気に混じる。
「あ」
こころは鼻をひくつかせながら声を上げた。海の香りがした。そんな気がした。
「海に着いた。のかな」
こころは海に行ったことは無い。けれどその匂いは知っていた。海を離れて久しいはずの舟幽霊が、いつも微かに漂わせている香りだ。けっして芳しいものでもなく、覚えがあるはずもない匂いだけれど、どうしてだか郷愁を呼び起こす。潮の香りとはそういうものなのだと、雲居一輪がなぜか自慢気に説明していたのを思い出す。
匂いはすぐに消えてしまった。気のせいだったのかもしれないし、本当に海に着いたのかもしれない。あるいは布団のすぐ傍に、水蜜が気配もなく立っているのだろうか。
「だめだよ」
こいしの言葉にどきりとする。毛布をどけようとしていた手が止まる。まるで、心を読まれたかのようなタイミング。
鎖骨の間、無防備な肌の上で、こいしの唇がもぞもぞと動き回った。
「壊しちゃ、だめだよ」
その声はすっかり消え入りそうだった。今にも途切れそうな懇願だった。
こいしは世界を滅ぼした魔王のくせに、小さな虫みたいな声で囁いていた。指先どうしが触れる。支柱を求める蔦のように、こいしの指はぐいぐいと絡みついてきた。それしか触れ方を知らないような、あまりにもぎこちない暴力。
耳の中で波がざあざあと泡立った。水の寄せる音だ。もっとも、本当の波音を聞いたことはない。こころが知っているのは、小石を箱の中で揺すって立てる、芝居用の環境音だけだ。
目を閉じる。見渡す限りの巨大な水を、緩やかな弧を描く水平線を、大きな大きな海を思い浮かべる。星空の下を揺蕩う海には、もはや怪物すらも存在しない。大量の海水が無表情に波打つばかりだ。
「……壊さないよ」
ひときわ大きな波が寄せる。抗う暇すら許されず、ふたりはあっという間に海へと飲み込まれる。温い水塊はふたりから上下も左右も前後も奪う。荒々しい水流の中、ただ指先の絡み合う感覚だけが実存として残り続けていた。
こころはなんとか、こいしの身体を脇へと下ろした。その小さな猫みたいな身体は、やっぱり猫みたいに丸まって、こころの胸元に収まる。ししし、とこいしは笑った。背に手を回すと、ネグリジェがじとりと汗で湿っていた。
「海に着いて、それで、どうするの?」
「さぁ?」
「お前は本当に、いっつもそればっかりだな」
「そうかな」
「そうなんだよ」
かっかと燃えるこいしの身体は、こころにとっては熱すぎたけれど、それでもその手は離さなかった。離しちゃいけないものだった。たった今、そう決めた。
海の中なら、あの恐ろしい炎の巨人たちだって追いかけてはこれない。あの街のように、森のように、ひとのように、木々のように、燃やされてしまうことはない。溺れ死んでさえしまえれば、焼き殺されることはない。
指を絡めたまま、互いに相手の重石となって殺し合うんだ。ただそれだけでいい。それだけでこの世界は完結する。布団の中の小宇宙は、生まれた意味がある。
やがてどちらともなく、ふたりは眠りへと落ちていった。朝が来て陽が昇るまで、誰かが布団を剥がすまで、光が世界を壊すまで、こころはこいしの指先を離さなかった。