超越/ビューティー
月の都の空は、いつも真っ黒だった。昼と夜との違いといえば、空に太陽があるかどうかだけである。黒い空にぽつんと輝く太陽は地上から見るよりギラギラとしていて、博麗霊夢にとっては不気味で仕方がなかった。
こんなへんてこな世界では、本気を出せないのも仕方がないことである。霊夢は自分にそう言い聞かせた。
「――はっ!」
迫り来る剣気を横回転でかわし、視線で対戦相手を捉えながら反撃の機を伺う。
けれど頭の中では、神社に帰ることを常に考えていた。縁側でのんびりとお茶を飲みたい。戸棚には安物の茶葉と湿気た煎餅しか残っていないけれど、それでも月都での味気ない食事よりずっとマシだ。
御札を真似た霊力弾を放って牽制しながら、霊夢はなんとか神々との接続を探っていた。いつもは適当にその場の流れで行っているだけなので、いざ自分からやろうとすると勝手がよく分からない。しかし、やれと言われたのだから仕方がなかった。
御札のストックは、もう手元に残っていない。その場凌ぎに作り上げる紛い物の霊力弾では、強度はたかが知れていた。
だから、案の定。
「温い攻撃ですね」
一閃。それだけですべての弾が斬り捨てられた。
綿月依姫は涼やかな笑みで、真っ直ぐに霊夢を見つめ返す。
「さぁ、巫女よ。貴方の全力をもってかかっていらっしゃい」
「あーはいはい。今やってる。今やってるところだからちょっと待ちなさいって」
「早くしなさい。皆が待ちくたびれているではないですか」
待ちくたびれているのは観客ではなく依姫に決まっている。けれど反論するだけ無駄な労力なので、口には出さなかった。
「……簡単に言ってくれるけどさぁ」
剣のわずかなひと振りで、投網のような光条が生み出され、霊夢の周囲の空間を引き裂く。それを必死で躱しながら、霊夢は神々への糸口を未だに探し続けていた。
普段なら、霊夢は弾幕勝負で神を降ろすことは無い。彼女がそれをするのは必要なときだけ、それも気分が乗っているときに限られる。霊夢が神々の手助けが欲しいと思ったときには、気が付いたら向こうからの手が伸びてきているイメージだ。だから今みたいな、気分が乗らないときには苦労する羽目になる。
――修行不足なのよ。もっと精進しなさい。
八雲紫のしたり顔が浮かんで、霊夢は舌打ちした。
確かに、その糸口を探り当てる精度は、修行によって上げることができる。気分が乗らないときであっても、しっかりと神をその身に手繰り寄せるだけの力。修行嫌いのぐうたら巫女が、必要無しと切り捨てて、身に着けることを怠った能力だ。
それがまさか、敵に勝つためじゃなく、誰かに見せるために必要になってしまう時が来るなんて。
のらりくらりと気の無い回避を続け、適当な反撃で時間を稼いでいると、神の方もようやく霊夢を憐れんだのか、慈悲の手が差し伸べられた気配を感じた。事の発端でもある住吉様が降りてこようとしている。この機を逃す霊夢ではない。その手を取り、自分と重ね合わせ、その状態を手から腕へ、そして胴へと連鎖させていく。心身ともに準備は万端だったので、そこからはスムーズに事が進んだ。ほっと胸を撫で下ろす。
そして漲る力を形に変える。
神降ろしの準備とは何か、と尋ねられることがしばしばあるが、霊夢は「客を迎えるための準備のようなもの」と考えている。自室に客を呼ぶときには、散らかったものを片づけ身形には気を使うものだろう。それを身体と心で行うというだけのことだ。同業者であっても、早苗によるとこの辺の感覚も異なるらしいけれど。
住吉の三神。底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の総称である。三段の筒の表象が多段式ロケットにぴったりだったため、ここに来るまでに大いに力を借りた。今一度、その神威を借り受けてスペルカードに落とし込む。その表象は、今度は筒ではなく。
――《瀬符「三層の禊」》
依姫はスペルカード宣言に気付くと、空中へと躍り上がった。その後を、洪水のごとく青い輝弾が追う。取り囲んだ青は三種類の明度に別れており、それぞれ依姫の頭上、周囲、足下を埋め尽くしていた。水流は霊夢をその源として、依姫を蛇行しながら追尾し続ける。
川の流れと、その三層の水。伊弉諾の禊の際、川の表層、中層、底層からそれぞれ住吉三神が生まれ出でた場面を表現したスペルカードだ。三つの層はまったく異なる速さで流れ、ときおり隣層へ移ることを強制するような配列が生まれる。その度にテンポの異なる弾幕流へ身を投じなければならない。
勝ちは譲れ、と依姫には言われたが、しかし加減しろとは言われていない。ゆえに霊夢は一切の手を抜いていなかった。被弾して狼狽える依姫の顔を拝めたなら儲け物だ。
当の依姫は踊るように躱し続ける。こちらも一切の妥協は無い。押し寄せる無数の水塊の直中、彼女のひとつ結びの髪が淡い残像を残す様は、早瀬を自在に駆ける岩魚のようだった。当たった、と霊夢が思った瞬間には、針の穴を通す精緻さで依姫は一瞬だけ加速し、弾と弾の間をすり抜けているのである。
間違いなく、彼女はいかれた使い手であった。
舌を巻く霊夢の、その視線が依姫の瞳とほんの一瞬、交錯する。彼女は笑っていた。その笑顔にはあまりにも穢れが無かった。
無作為な弾幕が薄くなった隙を突き、依姫は掌を掲げた。
そこに輝く符型のエネルギーを認め、巫女は息を呑む。そう、なんと依姫がスペルカードを宣言したのだ。
――《海符「ワタツミインルナマリア」》
清浄なる姫の周囲に、蒼く昏い輝きが満ちる。見覚えのある影の形、兎のような蟹のようなあれは、月面の海を象ったものだ。それがゆっくりと形を崩していき、音の無い波濤となって霊夢へ襲いかかる。
なるほど、こちらが川ならば、向こうは海というわけか。
急流と大波、それらは衝突することなくすり抜けて、対戦相手めがけて押し寄せる。派手な激突に、眼下の月の民たちはやんやと喝采した。
このデモンストレーション勝負にあたり、依姫が霊夢へ求めた条件はふたつだ。まず、勝ちは依姫に譲ること。これ自体は、まともに勝負したところで万にひとつも勝ち目は無いのだから、別段労力を要するものではない。問題はもうひとつの条件、神を身体に降ろした状態でスペルカードを使うことであった。
少し前、霊夢たちは住吉三神の力を借り、幻想郷から月までロケットでやってきた。それに端を発する一件自体は終わった(と思う)のだけれど、それが依姫の手助けによる事件なのではないか、と偉い人が疑っているらしい。その嫌疑を晴らすため、依姫は霊夢を月都へと留め、その神降ろし能力を広く公開しているという訳だ。最初はただ力を使って見せるだけでよかったのだけど、今日はなんと実際に弾幕決闘をやりたいと依姫が言い出した。神降ろしを勝負の中で披露しろというのだ。
慣れない弾幕勝負中の神降ろしは、霊夢の勝負能率を明らかに下げていた。神の性質や逸話を色濃く反映した紋様は、やはり霊夢の趣味とは少々ずれている。生成される弾幕は、確かに見てくれは良いのだけど、その神の本質を知り尽くし、使いこなせなければ十全とは言えない。
相手に届かないと分かり切っている、ただ派手なだけの弾幕。少しでも慣れた者であれば、即座にそれが張りぼてであることを看破するだろう。
しかし、周囲の観客たち――ほとんどは月兎たち、そしてほんの一握りの月人――は楽しそうに見入っている。こんな退屈な勝負の何が面白いんだかまったく理解できないが、娯楽の少ない月都ではこれでも十分に楽しめるらしい。
空が変で、街も変で、住人も変。
酒だけがやたらと美味いけれど、食事は味気が無い。
早く帰りたい、という思いばかりが募り、霊夢は思わず溜息を漏らして。
「あ」
煌めく波飛沫の、その一端に浚われた。
世界の上下がぐるりと入れ替わり、それっきり意識が暗転する。
命の係累。
底の無い、深い海から伸びる。
巨大な手。
遙か遠く、地の果てまで届く。
狂った愛。
何もかも、溶かし込むような。
永遠の涙。
温もりを、ただ湛えつづける。
無数の命。
巨大な、輝く、何かが。
霊夢をぬっと覗きこむ。
星が降る。
波が砕ける。
耳が鳴る。
心だけが、意識だけが、一瞬で何光年もの距離を行く。
「――疲れているのですか?」
「え、いや、別にそんなことないけど」
「そう。ぼうっとしていたものだから」
「連日引きずり回されちゃ、疲れもするわよねぇ。依姫、明日は霊夢をゆっくりさせてあげなさいな」
「う。確かにここ数日、ちょっと気合いを入れすぎたかもではありますが」
「気合いを入れた貴方に付いてこられる地上の民なんていないわよ。可哀想に」
綿月豊姫は微笑みと共に、手の甲で霊夢の髪を撫でる。
目を細めた。こんな扱いを受けるのは初めてのはずなのに、どうしてだか懐かしい。
豊姫の膝を枕にしながら、霊夢はされるがままにしていた。撫でられることを愉快には思わなかったけれど、さりとてその手を振り払う気にもなれなかった。豊姫から香る仄かな甘い匂い、それだけはやたらと心地良かった。
綿月姉妹の家は都の閑静な地区にあった。といっても、月都の大抵の場所は閑静である。月に住まう貴人たちは騒ぎ立てることなどしない。喧噪が起こるとすれば、それは月の兎たちの仕業だ。穢れを拭い切れぬ獣たちがいなければ、この都は住人がいるかどうかの判別すら付かなかったことだろう。
月人と月兎、そのどちらによりシンパシーを感じるかと問われれば、霊夢は即座に後者を選ぶ。それほどまでに月の民は、彼女にとっては別次元の生き方をしていた。
「……あぁもう。何よ」
「あら、ごめんなさい。可愛いから、つい」
豊姫は霊夢を撫でる手を止めようとしない。ごめんなさいと言いながら、反省する素振りなどまったく見せないまま、ついには霊夢の顔を両手で撫で繰り回し始める始末だ。そして手を掴んで、上げて、二の腕をつつく。魔理沙が膝の上で野良猫を弄くり回すときみたいだった。
だんだん腹立たしくなってくる。けれど下手な抵抗は許されていない。豊姫の力も霊夢とは比べものにならない。その気になれば、膝の上の人間ひとりを痕跡すら残さず処理することなんて朝飯前だろう。もしも何かの振る舞いが、彼女の逆鱗に触れてしまいでもしたら。
息を細く吐く。女神の満面の笑顔。贄にでもなった気分だ。
「そろそろ、貴方への嫌疑も晴れそうなんじゃないの、依姫?」
「霊夢が神降ろしの主犯であるということは、どうやら認知されてきたようです。まったく、要らない手間をかけさせて……」
依姫は静かに茶を啜った。霊夢のあまり好きでない、薬みたいな味がするやつだった。
「〝ツクヨミ〟は、何か仰っていましたか? 今回の騒動について」
「まったく何も。あの御方がこんな問題にいちいち口を出す訳が無いでしょう」
「まぁ、月の内紛はおろか、八意様の出奔にすら興味の無い御方ですからね」
「そうそう。貴方の濡れ衣になんていちいち目を向けてないわ」
訳が分からないふたりの会話を、霊夢はぼうっと聞き流していた。
そのときだった。耳朶を揉んでいた豊姫の手が、不意に霊夢の胸へ伸びた。
心臓が跳ねる。凍り付いた身体を、微かな脂肪の膨らみを、女神の手はこれまでと変わらない調子で弄び続ける。感触を楽しむように捏ね回す。
怖気がした。恐怖とはまた違った意味で、全身を鳥肌が駆け抜けた。
「あら」
思わず、身を翻していた。両腕で胸を庇いながら。
何をされたのか、理解できない。いったい今のは何だ? 豊姫は何を考えているのか?どうして自分は、咄嗟に逃げたのか? 頭は無意味に回り続ける。答えの出ない問いを繰り返し続ける。
豊姫は暫し、ぽかんと口を開けたままだった。彼女の方も、何が起こったのかを理解していない風だった。けれど自分の手がどこを触っていたのかをようやく思い出し得心したらしく、手をぱちんと打ち鳴らす。
「あぁ、あぁ、そうよね。ごめんなさい。貴方は人間だものね。そうよね。私ったらつい、月兎にやるのと同じ要領で」
依姫は呆れた顔で首を振る。
「お姉様ってば……。仕方ないですね。手は洗っておいてくださいよ、一応」
「んもう、ちょっと人間の身体のことを失念してただけじゃない。厳しい妹だわ」
「お姉様がいい加減すぎるのです」
頬を膨らませながら、豊姫は部屋を後にする。
霊夢はどぎまぎしたまま、依姫の隣へ腰を下ろし、薬みたいな茶に口を付けた。何でもいいから、喉を潤したかった。あまりに急な事態だったものだから、思考が纏まらない。やがてぐるぐるした感情は、怒りとなって頭を占める。
「何よ、勝手に触っておいて、ひとを黴菌みたいに」
「人間も菌も、穢れという意味では何も変わりありません」
依姫はしれっと無体なことを言い放った。
さんざん月の都を連れ回されて理解したことだが、月人たちの穢れ嫌いは相当なものだった。霊夢を傍に置いているというだけで、依姫に非難がましい目を向ける者もいた。
「それなら月兎はどうなのよ」
怒りの収まらない霊夢は、依姫に噛み付いた。
人間が地上の生命だから穢れている、というのなら、月兎だって元を辿れば同じ地上の生まれだ。そう聞いたことがある。こっちに来てから聞いたんだか、それとも迷いの竹林で聞いたんだかは忘れてしまったけれど。
僅かに微笑んで、姫君は霊夢へ向き直る。
「確かに、あれらも地上から持ち込まれた外来種です。しかし徹底的に品種改良を施してありますから、月都で生活する分には問題ない程度には穢れを抑えられています。まぁ、地上に戻すと途端に元通りに穢れてしまうのですが。その結果は貴方も目にしたことがあるんじゃないかしら」
「月兎は……その、胸を触ってもいいの?」
「問題ありませんよ。女の乳房に生殖と養育の機能が集約されているのは、サルを起源とし二足歩行へ進化した人間くらいのものです。それはつまり、誤差の範囲とは言え、穢れが濃い部位だということ。月兎ならそんなことはありません。そもそも生殖も養育もすべて人工的に行われていますからね」
依姫の涼しい顔から放たれる言葉たちの意味が、なにひとつ理解できない。それがまた霊夢の怒りを助長させた。
「穢れ、穢れって、そもそも何のことを言っているのよ? あんたたちの独自の理論がそれを徹底的に嫌っていることはよく分かったわ。じゃあその理論によれば、私の胸も大禍津日も同じだってこと?」
「程度は違いますが、端的に言えばそうなります」
「信じられない!」
「でしょうね。地上に生きる貴方たちには、理解は困難でしょう」
依姫は急須を傾け、しかしその中身が空だと知り、そのしなやかな指で印を切った。するとみるみるうちに湯気が立ち昇りだす。急須へ虚空から湯が満たされていっているのだ。月の都では、こんな得体の知れない技術がそこかしこに用いられている。
「では分かり易くするため、ひとつ尋ねましょう。髪や耳を触られても我慢していた貴方が、どうして胸に触れられた途端、逃げ出したのですか?」
「どうして、って当たり前じゃない、そんなの」
「その『当たり前』を、もっとよく考えてみることです」
「そんなこと言われても、駄目なものは駄目なんだとしか」
頬が熱くなる。そんなことは言葉にしたくない。いやそもそも言葉にできない。
しかし、月人は構わずにずけずけと斬り込んできた。
「貴方は触られた瞬間、全身が粟立つような感覚に襲われませんでしたか? そして鼓動が早まり、思考は溶けて、身体は熱を帯びた」
「……な、な、な、何を」
何を言っているのか。
何を考えているのか、この女は。
「恥じ入ることはありません。これは一般的な人間の、健全な反応です。敏感な部位を撫でられると、発情して生殖の準備に入ってしまうこと。これは貴方が、少女の皮を被っていても、所詮は穢れた生物であることを示す証拠でもあります。お姉様が貴方の胸をうっかり触ったとき、無意識のうちに生命のスイッチが入った。そしてそれが貴方の意志と衝突したから、逃げ出してしまったのよ。貴方の生命は、その意志に反するとしても、生存しようと、生殖しようとする方向へ貴方を導く。そしてそのバイアスを、生命の力を、私たちは穢れと称するのです」
淹れ直した茶を、依姫はやはり音を立てることなく啜った。
開いた口が塞がらない。言葉が見つからなかった。霊夢が今まで聞いたこともない明け透けな言説。恥ずかしいとかはしたないとか、そんなことを感じる以前の問題だった。
「貴方たちは穢れにより、どんな手段を用いてでも生存しようと、子孫を残そうとする。生存のための食餌は、どんな形であれ他の生命を殺す。繁栄のための侵略は、どんな形であれ他の種を脅かす。あの地球上において、それらの殺し合いが行われていない場所など存在しません。あらゆる生命は罪を負い、生に穢れ、そしてそれを当然のことと考えて疑いもせず、受け入れている。これを呪いと言わずして何と言いましょうか」
「じゃあ……じゃああんたたちはどうなの? 私と同じ形をした身体で、ここで生きているくせに」
沸騰した頭でただ言葉を吐くだけになったの霊夢のことを、依姫の大きな瞳が慈愛とともに見下ろした。それがまるで母が子を見る目のようで、霊夢は心の底からぞっとした。自分に両親の記憶は無い。こんな風に見つめられた覚えなんて無いはずなのに、どうして今、これを懐かしく思ってしまうのだろう。
「私たちが、『人間の形をして』『生きて』いると。成る程、貴方はそう考えているのね」
「え、だって……じゃあ、あんたたちは……」
「そのどちらも真実ではないと、貴方はいずれ知るでしょう」
「月の民は……地上で生まれた神様の……あれ? だって、玉依姫は……」
「私たちは確かに〝地上〟の生まれですが、地球で誕生したわけではありませんよ。貴方が呼ぶ名も、人間たちが付けた仮初めの名に過ぎない。その神格も同じこと。私たちはけっして、貴方たちの神話における神そのものではない。地上の神霊が私たちの力に魅かれ、同じ様な姿形を取って生きることはあるでしょうけど」
「じゃあ……じゃあ……」
すっかり困惑した霊夢の手を取り、依姫は彼女を抱き寄せた。手が、頬が、依姫の豊かな胸に押し当てられる。
刹那、霊夢は理解した。理解してしまった。
「あ、あ、あ……嘘よ……」
「嘘ではないわ。目を閉じて、そしてしっかりと感じなさい」
依姫は、もはや先程とは別の存在になっていた。そこにいるという事実も、姿も形も変わらないのに。思い知らされてしまった。月人は、時間も空間も、別次元の存在だと。
その胸には鼓動が無く。
その胸には血流が無く。
その胸にはただ、無限の地層のごとく積み重なった、曲線だけが。
「美しいでしょう?」
遙かなる星々の囁きに、霊夢は同調した。
――なんてうつくしいからだなのでしょう。なんてうつくしいむねなのでしょう。なんてうつくしいかおなのでしょう。なんてうつくしいうでなのでしょう。なんてうつくしいゆびなのでしょう。なんてうつくしいあしなのでしょう。なんてうつくしいのでしょう。なんてうつくしいのでしょう。なんてうつくしいのでしょう。
――これよりもうつくしいものが、このうちゅうにあるでしょうか?
――あぁ、どうしたら、あなたのようにうつくしくなれるのですか?
酷く悪酔いしたときのような、どこまでも墜落していく感覚。事象の地平線へと、彼女の意識は落ちていった。依姫へと伸ばした手は、しかし何も掴めない。どこへも届かない。遙かな、決定的な断絶がそこにはあった。
すぐ側にいるはずの彼女は、実は気の遠くなるほど遠くに存在していて、ただその存在が天の川よりも巨大だから、手の届く距離にいるように錯覚してしまっているのだ。
「霊夢。私は、貴方のことが気に入っているわ。人間を気に入るだなんて、普段なら考えられないことだけれど」
一切の思考が蕩けてしまった少女の脳に、女神の言葉が柔いヴェールのように覆い被さってくる。
「だから、つい余計なことまで喋ってしまう。人間に言っても無駄なことまでね。ひとつ、預言を与えましょう。貴方に伝えたところでどうなるものでもないと思うけれど、もしかしたらそうではないのかもしれない。未来のことは私にだって未定事項なのだから」
その意志を、巫女はわざわざ手繰り寄せるまでもなかった。精緻な紋様が眼前に広がり、その中へと、広大な宇宙へと少女を引き戻した。
意識がどんどん拡張されていく。感覚がどんどん細分化されていく。極小から極大までのあらゆるスケール上において、霊夢は大いなる意志によって刻まれて、再配置されて、作り直されていた。
「これはいつか必ず訪れる未来。貴方が生きているうちにか、そうでないかは、分からないけれど」
宇宙の果てより遠い、耳元からの囁きが、少女の思考をいっぱいにした。その情報のあまりにも膨大な重圧に、意識が耐え切れそうになかった。
「ほんとうの月面戦争が始まります。今回の争いなど御飯事にすらならないほど、貴方たちにとっては残酷で、どうしようもない災害です。あらゆる備えは無意味でしょう。けれど覚悟は有用です。貴方たちがそれを生きて乗り越えようというのなら――」
だから彼女は、脳でないところで記憶して、肺でないところで呼吸して、心臓でないところで鼓動を繋いだ。そうしなければ壊れてしまいそうだった。だから。
「――けっして絶望に染まってはなりません。けっして希望を失ってはなりません。けれど、その逆もまた禁忌。希望のみでは、絶望無しでは、同じ結末となるでしょう。貴方たちに必要なものは――」
生命そのものに、必死で刻み込んだ。
精魂そのものに、懸命に埋め込んだ。
「――そう、必要なのは、すべてを失う覚悟です」
その言葉を最後に、巫女の意識は途切れた。磁気テープが終わるように。ノートの頁が尽きるように。あるいは、世界が終わるように。