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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
16/68

狂笹/パーフェクトガーデン

 希望に満ちた真夜中は、真珠貝のように滑らかだった。きらきらと輝いていて、少しも苦しくない。古明地こいしはぺろりと舌を出して、夜を舐めた。

 鳴り止まないワルツが、彼女の体を前へ前へと引いていく。頭の中にいっさいの曇りも無い。閉じた瞳にだって、天の川が映りそうだった。何だってできるような気がした。口ずさむのは出鱈目な歌。地獄の底から響く希望の歌。きっといつかは、朝が来てしまうけれど、それは今この瞬間のこいしにはどうでも良いことだった。

 なんて素晴らしい夜だろう!

 深く息を吸う。深く、深く、宇宙の蒼よりも深く。破裂しそうな胸が軋んで、それがなんだか可笑しくて仕方がなくて、少女は心の底から笑った。痛みだ。痛みを感じる。痛いと感じることができる。たったそれだけのことが、この上ない奇跡だった。まるで自分じゃないみたい。こいしは空中で、かぶと虫の幼虫みたく身を丸めて、笑い転げた。

 こんなに自分を自由に動かせるのは、瞳を閉じて以来、初めてのことだった。

 手を広げて屋根に着地した。いつだったか見たサーカス団の曲芸師の真似だ。だけどあんな風に美しいポーズを保つことができず、幼い身体はすぐさまバランスを失った。

「おっとっと」

 路地裏を蝙蝠みたく掠める。何も無い空を蹴って、彼女は空の高くを目指す。大きな大きな半月が大地を両断しようと、その弧刃の狙いを慎重に定めていた。震える。笑う。今ならあのギロチンだって、指先ひとつで受け止めてみせる。

 自分の内に漲る何かがあった。こいしはそれに気が付いていたけれど、あまり深くは考えなかった。

 思い返せば妙な一日だった。幻想郷のあちこちで弾幕決闘が行われ、気づけばこいしもそれに参加していた。偉そうな仙人を、そのリベンジに現れた部下を蹴散らすと、俄にこいしへと衆目が集まった。白黒の魔法使いに、大空の入道使いを打ち倒すと、感情を持たないはずの少女の胸に何かが灯った。それがあまりにも心地よくて、博麗の巫女と古臭い化け狸に勝利する頃には、完全に勝利に酔っていた。もっと勝ちたい。勝って注目を浴びたい。そうすれば、この暖かく煌めくものが、自分をもっともっと満たしてくれるだろう。

「次の対戦相手はいないかなー」

 ふわふわと浮遊しながら、辺りを見渡してみる。いつの間にか、人間が大勢住んでいるところに入り込んでいた。注目してほしい、という彼女の欲望が、大衆のいる場所へと導いたのかもしれない。けれど弾幕決闘を行っている者はいなかった。不気味なほどにひっそりと静まりかえっている。

 いつも通りの、いかれた世界だ。

 空中を駆ける少女は、足元の異変に気づいていない。希望を奪われた人間たちが亡者のように彷徨っている、異常な光景。いっさいの表情を失い、あらゆる意欲を削がれ、ただ徘徊するばかりとなった者たち。その目は、こいしはおろか、何も映していない。

「あれ? 静かねー。もしかして丑三つ時ってやつー?」

 首を捻る。こいしは時計を気にして生活するような妖怪ではないので、時間の区別は朝昼晩か夕方かくらいしか付けていない。ただ「丑三つ時」という言葉を使ってみたかっただけのことだ。確か、それは魑魅魍魎の跋扈する真夜中を表す言葉だったはずだ。それであれば、決闘の対戦相手に困ることなどなさそうなものだけれど。

 こいしは知らなかった。たとえ真夜中であっても、人間の里で暴れるような妖怪はいない。幻想郷では常識だけれど、彼女にとってはそうではなかった。

 そしてその無知が、無意識の覚を、彼女と結びつけることとなる。

「…………!」

「おや」

 遠くから、なにやら呪詛のような呟きが聞こえた。そちらへと目を凝らしてみると、負の念が大きく渦を巻いているのが見えた。誰かが丑の刻参りでもしているのだろうか。こいしは橋姫の毎夜の奇行を思い出しながら、そんなことを思った。

 こいし以外の者、感情を閉ざしきっていない者であれば、人里へ踏み入った途端に異常を察知できていただろう。里の中心部では、天を衝かんばかりの不可視の篝火が燃え上がっている。それは人間たちの持つ絶望を強烈に照らし出し、肥大化させている。

 あらゆる希望の絶えた世界。

 あまねく絶望に染まる世界。

 面白そうなことになっている。こいしは何よりもまず、この現象に興味を惹かれた。これは橋姫の趣味程度の話ではなかった。曲者揃いに嫌われ者揃いの旧地獄でさえ、ここまで酷いやつはそうそういない。怨念に取り込まれた最重度の患者であれば、これくらいにはなるかもしれないけれど。そういう可哀想な連中は、旧地獄のさらに奥底に佇む重度病棟へ隔離され、たいてい戻ってくることはない。

 躊躇うことなく、こいしはその炎の中へと飛び込んだ。

 そこにいたのは、ゴミ捨て場を乱雑に漁る少女だった。

「私の希望の面……」

 丸く広がった不思議なスカートが、深い藍色で輝いている。おそらくは彼女の妖力を受けてのことだろう。それが彼女の慟哭に呼応するように脈動していた。額にはどうしてだか、翁の顔をした面が貼り付いている。紐が海月の腕みたく浮遊しているということは、これもきっと不思議な力で顔に固定しているのだ。

 そしてこれだけの負の感情を放射しているというのに、その横顔はまったくの無表情であった。こいしには、そちらの方がお面のように思えた。

「無い……」

 少女は肩を落とし、汚れた手で目元を拭う。

 そして、傍らで自分を眺めるこいしの存在に気付いた。するとまるで手負いの獣のように気炎を上げて、長刀を具現化し、上段で構える。

「希望の面はどこだぁ!」

「わーい、次の対戦相手だー」

 こいしはぴょんこと飛び跳ねて喜んだ。こいつに勝てば、もっともっと満たされるに違いない。

 しかし、すっかりやる気になったこいしとは対照的に、目の前の少女はどこか焦燥していた。こちらに長刀を構えながらも、決闘に真剣に臨んでいるようには見えない。その瞳はそわそわと震えていて、心ここに在らずといった面持ちである。

「早く希望の面を取り戻さないと……」

「希望の面?」

 復唱し、首を傾げる。聞いたことのない言葉だ。けれど少女にまとわりつくように浮かんでいる能面たちは、こいしにひとつの情景を思い起こさせた。

「あー、貴方のお面のようなやつ見た事あるわー」

「なんだって?」

「真っ白い面が地割れで落ちてきてねー。不気味だったからよく覚えているわー」

「なんだと! そのお面はどんな表情だ?」

「真っ白い子供の顔だった。どこかしらお地蔵さんを彷彿とさせるような……」

「それは……まさしく希望の面!」

 額に張り付いた面がくるくると入れ替わると、少女はその声色や口調まで別人のように変わるのだった。面白いやつだ。こんな妖怪は旧地獄ですら見たことがない。

 白い面が地底に落ちてきたときのことを、こいしは鮮明に思い出すことができた。じめっとした闇の中をゆっくりと落下してくるそれは、まるで天使の降臨する場面を描いた西洋画のようだった。今までに見たどんな宝石よりも綺麗だと思った。そしてそれは、明らかに超自然の力で浮遊しながら、ふわりとこいしの掌へ収まったのだった。

 呪いの一種だろうか。こいしは首を捻った。誰かが自分を害そうと企んでいるのかもしれない。心当たりなどない。あったかもしれないが覚えていない。怪しいけれど、どうにもそれが暖かくて、こいしはそれを投げ捨てる気にはなれなかった。呪法だからなんだというのか。呪いとは感情に対する精神攻撃だ。感情を持たない自分に効くはずもない。

 だからこいしは、白い面を強く、強く抱き締めたのだった。

「今はいったいどこにある?」

 目の前の少女は、最終的に狐面を選んで被ると、こいしへさらにずいと詰め寄る。

「内緒。もう私の宝物だもん」

 にっ、と歯を見せて笑ってやった。たとえ白い面が、彼女にとっての何であろうとも、あのとき確かにこいしを目指してやってきたのだ。こいしが選んだのではない。面の方が彼女を選んだのだ。ならば、あれは自分のものだ。あの光を、あの温もりを、手放す必要なんてない。

「……ってあれ? なんでも忘れる私が、なんでそのことだけ覚えているのかな?」

「貴様、希望の面を返さないというのか」

「うん、返すつもりはないよ」

「偏ったお面の持ち主は必ず感情を破綻させる。そのままではお前の感情も暴走するぞ!」

「構わないもん。感情なんてもとより持ち合わせていないもん」

 閉じた瞳が、何かを言いたげに震えた。それがくすぐったくて、こいしはきゃらきゃらと笑う。

 能面少女が吼えた。声ではなく、感情が叫んでいた。断たれた希望が焦燥を呼び、そして当て無き怒りへと変わり燃え上がる。それは禍々しいオーラとなって、人里の夜闇を昏く照らす。絶望の群衆の、肉と穴だけの無表情がただふたりを見つめていた。

「哀れな奴め! 私のようになりたくなければ、今すぐ希望の面を手放すことだ!」

 少女が宙を蹴り、戦いの火蓋が切って落とされる。こいしをめがけて、一直線に迷いなく突進してくる。感情のままに振るわれる長刀を、一閃、二閃、こいしは蝶のように躱した。

「こわーい」

「おのれ!」

 さらに繰り出された扇での打擲。こいしは氷の上を滑るように後退し間合いを取った。

 しかしまだ面たちがこいしを捕捉している。上下、左右、背後、あらゆる方向からだ。奪われた仲間を取り返そうと、膨大な妖力とともに泥棒へと殺到する。ついにいなしきれなくなって、こいしは正面からの鬼面をまともに喰らって弾き飛ばされた。

 ぐるりと回転した視界が正常に戻ったときには、すでに長刀を振りかぶった少女が眼前に迫っている。速い!

「貰った!」

 なんて真っ直ぐな少女だろう。こいしは感動してしまった。攻撃のレンジに種類はあれど、攻撃の中身はどれもこれもがオーソドックスなものばかりだ。

――もっと、貴方のことを知りたい。

 だがそれでは、生き馬の目を抜く地獄は通用しない。相手を殺す技は、気付かれないよう死角から。それが定石、というより常識である世界で、こいしはずっと生きてきた。

 第三の瞳のつるが、長刀を振り下ろす直前の腕を絡め取る。綿のように柔らかい拘束、しかしその腕は時間を止められたかのように動かない。

「な、なんだ?」

「えーい」

 そして帽子を振り回す。ただそれだけの稚戯が、馬鹿げた衝撃で少女を吹き飛ばした。

 空中で体勢を立て直して、少女はこいしを睨みつける。しかし、そこを再びの衝撃が襲う。《リフレクスレーダー》、こいしの思念により放たれるサイキックレーザーだ。

 相手を理解したい、そう彼女が願うだけで発動する、拒絶の一撃。それが能面の集合体へと幾度も降り注ぐ。

「待ってよー」

 身を守りながら後退する少女へ、こいしは追い縋ろうとする。笑いながら手を伸ばす。

 その存在感が、ふと薄らいだ。こいしは相手の無意識下へと潜り込んだのだ。けっして肉体そのものが消失したわけではない。しかしそれを意識できなければ、接近を止めようがない。そうして相手の懐へ潜り込んでから、必殺の一撃をお見舞いする。こいしの得意技は、これまでの決闘でも大いに役立ってきた。

 だから、今回も同じ方法で――

「……そこかっ!」

 同じ方法で仕留めようとしたのに。

 長刀の柄で思い切り打たれ、こいしは弾き飛ばされた。天と地が、星と人が、ぐるぐると回る。そのまま民家の屋根へ無様に墜落し、背中を強く打つ。小さな身体が、水を切って飛ぶ石のように弾んだ。

――どうして?

 痛みも衝撃も、こいしにはどうでもよかった。あるのはただ、疑問のみだ。完全に無意識へと逃れたはずなのに、どうして捕捉されたのだろう。

 武道を極めた者であれば、あるいは可能かもしれない。意識より先に身体を動かすことのできるほどの達人なら、無意識へ潜んでいるこいしへ攻撃を当てることは理論上では可能だ。

 しかしあの少女は、お世辞にもそんな熟達者であるとは言い難い。妖怪としての高い地力である程度はカバーしているのかもしれないけれど、あれ以上の使い手は旧地獄になら大勢いる。

「すごい、すごーい!」

 立ち上がって、スカートを忙しなくはたいた。対する空中の少女は狐面だ。こちらをまっすぐ見据えたまま、長刀を水平に捧げ持つように構えている。

「ねぇねぇ、今のどうやったの?」

「え、何が?」

「無意識の私を見破るだなんて、どんな力を使ったのかしら」

「見破る? 何を言っているんだ?」

 こいしは返答を待たなかった。彼女のたいていの言葉は、会話のようであっても独り言なのだ。

 精神が独りよがりな感応を開始する。意識が外へと花開く。こいしは手を少女へ差し伸べた。とても届かない間合いで、けれどその相手を求める手を。

 するとその袖口から、薔薇の茎が伸びた。まるでカメレオンの舌のように、獲物めがけて射出された。あっという間に絡みついた茨の、鋭い棘が少女の長刀と両腕を刺す。

 振り払おうとしても、もう遅い。

 拘束がさらに強まったかと思うと、空中に薔薇の花が爆裂した。《グローイングペイン》。こいしの矛盾した精神が薔薇を象って現出した遠距離攻撃である。

「が……っ」

 慌てて距離を置こうとする少女だが、絡みつく茨はまだ解除されない。

 狐面は大飛出面へと入れ替わった。

 そして、前後左右が分からなくなった少女の、その耳元で。


――《本能「イドの解放」》


 古明地こいしは、スペルカードを宣言し、切った。

「貴様……っ」

「きゃー」

 無意識の少女が宇宙の中心となる。すべては拒絶され、弾き飛ばされていく。

 ふたりの距離が再び開いた。そして自分以外の何もかもを蹂躙するための、猛烈な弾幕が夜を埋めた。

 みんなみんな、大好きなのに。

 みんなみんな、大嫌いなんだ。

 斥力、そしてハートの圧。少女がその荒波に飲まれ、抗うこともできずに溺れていく。こいしはそれに、ばいばいと手を振った。

――助けてあげようかな。どうしようかな。

――あの娘のことは気になるけれど。

――勝利はもっともっと希望を与えてくれるし。

――別にいいか、殺しちゃっても。

 恋い焦がれるような殺戮を。

 忌み嫌われるような愛情を。

 ただ肉と穴だけの絶望たちが。

 見上げている。

 嘲笑っている。

 見入っている。

 波間に少女が消えてから、どのくらいが経っただろう。

 スペルカードの持続時間が過ぎ、辺りに静寂が戻る。こいしはちょっとだけ周囲を見回して、対戦相手がいなくなってしまったことに落胆した。

 そして、落胆した自分に首を傾げた。

――何だろう、この気持ちは。

 自分は感情なんて持ち合わせていないはずなのに。

 希望を集めたためだろうか。こいしは今までになく頭がはっきりしていたし、第三の瞳も緩んでいるような気がした。決闘の勝利を重ねたこいしは、絶望の世界から失われた希望を独り占めしている。さらに遡れば、希望を司る面も手に入れているのだ。

 希望の化身となったことで、感情が戻ってきている?

「…………そんな」

 そんな奇跡みたいなことが。

 そんな破滅みたいなことが。

 ほんとうに、起こっているのだとしたら。考えただけで、こいしの首筋はぞくりと粟立った。狼が羊を狙うとき、こんな気持ちになるだろう。襲う狼も、襲われる羊も。

 だから、これ以上、先へ進んでしまったなら。

――足りないよ。もっともっと、希望を。

 きっとまた、取り返しの付かないことになる。

 こいしは満面の笑みを浮かべた。感情なんて籠もっていないはずの笑顔。しかしそれも、今は何かの意味が付随しているような気がした。それが何であるのかなんて、こいしにはもちろん分からないけれど。

 そうこうしていると、ぼう、と篝火が立ち昇り、陰の気が渦を巻きながら現れた。

「そう来なくっちゃ」

 手を叩いて歓迎する。けれど先ほどとは様子が違った。額の面は姥面へと入れ替わっている。俯いた顔から、悲しみの塊が際限なく滴り落ちていく。

「……嫌だよ、お願いだよ、返してよ」

 その悲哀はあっという間に、眼下の里を覆い尽くした。絶望の人間たちが嗚咽を漏らし始め、慟哭の声はすぐに大波のごとき鳴動となる。

「早く、取り戻さなきゃ、いけないのに。どうして、意地悪するの」

 おぉん、おぉん。

 おぉん、おぉん。

 世界が、絶望と、悲哀と、共鳴する。もはや、希望を抱えているのは、正常な形の存在は、この世界にこいしただひとりであるようだった。

 衆生がこいしを羨んでいる。

 民草がこいしを求めている。

 蜘蛛の糸に縋る罪人たちのごとく。

 おぉん、おぉん。

 おぉん、おぉん。

 波に揉まれながら、それでも不動の少女が、スペルカードを静かに宣言した。


――《憂符「憂き世は憂しの小車」》


 ひょおう、ひょおうと悲しみが鳴った。それはあっという間に荒れ狂う風となり、絶望により空洞と化した人間たちの胸を吹き抜けた。

 姥面が人魂のように浮かび上がり、ひとつがふたつに、ふたつがよっつに、どんどん分かたれていく。妖力による複製だ。そして円を形作ったと思ったら、こいしに向けて緩やかな弧を描きながら飛来する。

 空中を駆け抜けながら、こいしは姥面を躱した。なんてことはない。ひ弱な姉でさえもう少しまともな攻撃をするだろう。そう拍子抜けしてしまうほど、派手さも強さも感じられない弾幕だった。

 しかし、それが僅かに掠めただけで、込められた悲哀が糸を引いてねばつく。

 刹那。何かが胸に刺さり、突き抜けた。

「……?」

 思わず胸を抑えてしまう。

 いや、何も刺さってはいない。物理的な損傷は被っていない。

 けれど今、確かに胸が締め付けられるように痛んだ。不可視の弾幕だろうか。こいしは相手の不正を疑ったけれど、それにしてはダメージが中途半端だ。何かのトリックがあるというわけでもないだろう。

 しかし姥面を至近距離で回避するたび、胸が軋み、鼓動が乱れる。被弾はまったくしていないのに、訳が分からないままこいしは翻弄されていた。

 事態をようやく把握したのは、流れ弾が群衆の真ん中へ着弾したのが見えたときだ。その瞬間に慟哭が激しくなり、人々は七転八倒しながら泣き叫ぶ。こいしは理解した。理解したその瞬間、思わず姥面の嵐の中心に立つ少女を見た。

 悲哀という感情を、こいしはあの少女と共有しているのだ。

 それは異常な事態だった。第三の瞳を閉じたこいしが、あらゆる感情の受け取りを拒み続ける少女が、悲哀を受け取ってしまった。共感だなんて。そんなことは、こいしにはもうできるはずがないのに。そのための器官は、とっくに失われているはずなのに。

 二度と起こるはずのなかった反応を。

 願い求め続けてやまなかった奇跡を。

 唾棄して踏み躙って決別した能力を。

「あの娘のせいで……?」

 取り戻しかけていると、そういうのか。

 飛び交う悲しみの塊が、どんどんその激しさを増していく。もはや眼下の里は、旧地獄ですら見ないほどの地獄絵図だ。絶望と悲哀に染め上げられ、人間たちはもはやどうすることもできず、ただ泣き喚くばかりである。

 しかし、それよりもなお深く、吹き荒れる感情の中心に立つ少女は絶望し、悲しんでいた。あまりにも壮絶な光景。その惨状に輪をかけて恐ろしいのは、そこに悪意を欠片も見て取れないことだ。

 こいしは息を呑んだ。感情を忘れて久しい身体には、涙がほとんど残っていないから、悲しくても泣くことはできなかった。

 そしてなによりも、彼女には希望が残されていた。だから前に進む。どんなときであっても。何があろうとも。

「負けるもんか!」

 一定の距離を保ちながら回避を続けていたこいしだったが、一気に術者へ向けて突き進んだ。ハート型の光弾で、迫り来る姥面を次々と撃ち落としていく。そして射線の途絶えた一瞬の隙に、袖口から触手が放たれた。

 能面の少女は、悲嘆に暮れるあまり動かない。避ける素振りすら見せない少女の全身を、こいしの第三の瞳は素早く覆い尽くした。

「捕まえたー」

 そして触手の固まりが、巨大な薔薇の蕾と化す。《キャッチアンドローズ》に取り込まれた少女を、無数の花弁による多重打撃が襲った。

 相手を捕まえたい。ただその思念のみで己の身体の一部を伸延し変形させる攻撃に、少女も流石に体制を崩した。

 普段なら捕まえたそのときには、もう相手のことはどうでもよくなっているが、このときばかりは違った。少女の顔面に貼り付く姥面本体を、こいしはひょいっと引き剥がした。

「…………!」

「わお」

 少女は泣いていた。泣く、という言葉が涙を流すことだけを指すのなら、だが。

 丸い目は、細い眉は、薄い唇は、いかなる表情をも持っていない。完全なる無表情、しかしその頬の上を、滝のような涙が流れ落ちていた。あんまりにも多いものだから、目玉が腐ってしまわないかしら、とこいしは心配になってしまった。

「な……何ですか、貴方は。我々、私の暴走した感情を受けて……どうして平気なんですか……?」

「ん、平気じゃないよー。だから確かめにきたんだ。感情の無い私に、どうやって悲しみを植え付けたのかを」

「感情が……無い……?」

 少女は慌てて猿面を引っ張り出す。ほんとうに面白い子だ。姥面のスペルカードは終了ということでいいのだろうか。

「そうなんだよ。昔ね、私は感情を捨てたんだ。かみさまにお願いしたんだよ。もう、感情なんて見たくもなかったから」

「そんな馬鹿な。動物や虫はおろか、草木にさえ感情はある。生きているものが感情を断ち切るだなんてこと、有り得ないのに」

 いきなり肩を掴まれ、こいしはどきりとした。

 驚く、だなんてことはいつぶりだろうか。もはや決定的だった。この少女は、こいしの無意識や無感情へ影響を与える、何らかの力を持っている。

 瞳で瞳を覗き込まれる。

 睫毛と睫毛が触れ合いそうになる。

 涙の匂い。遠い遠い、大海原みたいな匂い。

「……私は、お前のことを知っているような気がする。変だな。お前と会うのは初めてのはずなのに。いや、でも、そうか。お前は我々の希望の面を奪った。だからなのか?」

「痛い痛い。離してよー」

「それにしても、何かを忘れているような気がする。大切な、忘れちゃいけない何かを。この感情は、何だ? 六十六のどの面にも相応しくないような……。まぁいい。とにかく、希望の面がどこにあるのかを教えろ。それが戻ればすべては元通りなんだ」

「教えませんー。私に勝ったら教えてあげてもいいけど」

「えぇい、盗人猛々しい!」

 少女はこいしを突き飛ばすと、どこからか獅子面を取り出し、被った。隠し持っていたにしては大きすぎるけれど、妖怪に対してそんなことを言っても始まらない。

「この矛盾の塊め! お前が感情を取り戻しかけているというのなら、それは我々の希望の面のためだ。希望だって感情のひとつだから、それを取り込んだお前が感情を思い出すのは当然だろう。お前は感情など不要だと言ったな。ならば希望の面を返せばいい。そうすればお前の望み通りになるんだ。それなのに、お前は面を返してくれない。いったい何がしたいんだ?」

「さぁ、そんなの、私にも分からないよ」

「面倒くさい奴だ。だがやる気が湧いてきたぞ。お前みたいな腐った根性の持ち主は、ぎったんぎったんにしてやる」

 獅子が、天へと大きく吼えた。がちがちと歯を打ち鳴らしながら、めちゃくちゃな舞で宙を踊る。

 それを受けて、絶望の群衆たちの様相も変わった。悲嘆に暮れる者はひとりもいなくなり、代わりに誰もが拳を突き上げて興奮している。暴動の一歩手前、張りつめた風船のような雰囲気だ。

「目に焼き付けろ、我々の魂の咆哮を!」


――《喜符「昂揚の神楽獅子」》


 狂乱が渦巻く空を、熱線と化した獅子の雄叫びが引き裂く。光の大剣はゆっくりと、薙ぎ払うようにこいしを狙った。

 その追跡を全速力で躱しながら、こいしは世界を見る。感情無き冷たい星空と、興奮の坩堝と化した地上と、そしてこの光景を作り出した少女を見る。

 まるで舞台のようだ。そう思った。

 いや、そんな高尚なものではないかもしれない。少女の撒き散らす膨大な感情は、望む望まざるに関わらず、里の人間たちを道連れにしている。ここは絶望に染まった最悪の場所。地獄よりもなお凄惨な町。そんなことにも気付いていない人間たちは、夢の中で少しでも感情を揺さぶってくれるものを求めて彷徨うのだろう。

 その結果がこの忌まわしき愉快な光景ならば。

 その成果がこの愛すべき悲惨な世界ならば。

「かみさま」

 こいしは呟いた。そうに違いないと確信した。

 そう、ここは神殿なのだ。いかれた世界で、いかれた神様が、いかれた群衆によって崇められている。そこに、世界でただひとりだけまともなこいしが、迷い込んでしまったのだ。

 希望の面を手に入れなければ、こいしはその事実に気付くことはなかっただろう。

 希望の面を返してしまったら、こいしも狂った人々と同類になってしまうだろう。

 ならば、どうするべきか。こいしにとっては簡単な問題だった。旧地獄に住む妖怪にとっては当たり前の答えだ。

「あのかみさま、欲しいなー」

 自分があれを取り込んで、神の力を得れば良い。だって、いかれた世界を正せるのは自分だけだから。神とひとつになった、まともな自分ただひとりだけが、その権利を持つのだから。

 そしてそのためには、彼女を打ち負かして強さを示さなければならない。

「よーし、燃えてきたぞ」

 それがこいし自身の感情なのか、それとも爆発した感情に同調しただけのことなのか。本当のことは、誰にも分からない。

 けれど。

「貴方の死体も、私のコレクションに加えてあげる!」

 心の底から、欲しいと思えるものを、ほんとうに久し振りに見つけたのだ。

 これが奇跡でなければ、何だというのか。

 追い縋ろうとする熱線をくるくると翻弄しながら、こいしは負けじと赤と青のハートを放った。

 何度も何度も、あの少女へ届くまで。

 何度も何度も、覚えてもらえるまで。











 ふたりは、まだ何も知らない。

 この邂逅が悲劇の始まりであることを。

 この奇跡が必然でしかなかったことを。

 この希望が絶望に繋がっていることを。

 この感情も計算のひとつだったことを。

 このときは、何も知らなかったのだ。


 もしも。

 もしも、それを知っていたのなら。

 結末は、まだもう少しましなものだったのかもしれない。

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