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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
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塔影/エンパイアステートメント

 梢の上端を抜けると、山肌が一面の紅だった。

 こころはその果てを見つけようとして、できなかった。霞にぼやけていく遠くの山の端まで、まるで燃え盛るような紅葉が続いている。雛から話は聞いていた。秋には御山が真っ赤に染まるのだと。そのときのこころにはまったく意味が分からなかったけれど、いざ目の当たりにすると目を疑う光景だった。

「今年も静葉はいい仕事をしたわね」

「そりゃあ、一番の塗り手でなきゃ御山の紅葉を任せられませんからね。あのひともちょいと難しい御方ですけど、この職人芸には代えられません」

「モミジを、任せる?」

「えー、あぁ、うん。私のことじゃなくてね。あの赤い葉っぱの植物をモミジというんだ。私の名がそこからとられているのは確かだけど」

「我々と同じだ!」

「……同じかなぁ? うーん、同じかもしれない。いや、どうだろ」

「ほら、椛ちゃんもこころちゃんも、紅葉狩りは後でもいいでしょう? 早く神社へ向かいましょう。八坂様をお待たせする訳にはいかないのよ」

 急かす雛に、こころはついと追随する。

 それにしても、なんと美しい光景だろう。こころは感嘆したまま飛んだ。そしてこの大仕事を成し遂げた秋神、秋静葉のことを思い返す。

 雛の友人だという彼女と会ったことは何度かある。快活で人好きのする妹の穣子と違って、静葉はいつもおどおどしていた。話しかけてみても慌てるばかりでまともに返事をしないし、そのくせに姉妹喧嘩をすぐにおっぱじめては大声で口論するのだ。秋の価値が葉っぱと収穫のどちらが上かなんて決められるはずがない、とこころは思った。それは雛や天狗たちも同意見なのだけれど、当事者たちにとっては退くことのできない大きな話題らしい。

 こころは感情の移り変わりを肌で感じることができる。静葉の心は、喩えるなら青天の霹靂みたいなもので、いつ稲光が走るのかがまったく分からない。だからこころは、彼女のことがあまり好きではなかった。

 そんな彼女の作り上げた一分の隙もない紅は、まるで御山をひっくり返して、そのまま紅入りの桶に丸ごと浸したような迫力だ。それなのに一枚の葉っぱを間近で見ても、針のような葉先のひとつひとつまで丁寧に塗られているのである。こんな繊細で圧倒的な光景が、あの嵐のような神から生まれるだなんて、こころには信じられない。

 葉っぱをつまんでしげしげと眺めていたこころだったが、後ろから肩をがばりと掴まれ、驚きに身体を震わせた。

「こころちゃん。さっき私はなんて言ったっけ?」

「はい、ごめんなさい」

「謝れ、と言っているんじゃないの。私は貴方になんて言ったかしら?」

「……早く神社へ行こう、って」

「そうね。神社はどこにあるのだったかしら?」

「山の上、湖の傍」

「よくできました。それじゃあ向かいましょう。あぁ、それと――」

 雛の手がくるくると、糸巻きのような仕草をした。

「また感情が漏れちゃってるわ。ほら、しゃんとしなさい」

「……はい、ごめんなさい」

 姥面を引っ張り出して、こころはぴょこんと頭を下げる。

 周囲に感染してしまう感情を、自分で制御できるようにすること。誰かを巻き込まないで済むように、迷惑をかけないように、感情を外へ漏らさないこと。こころが一番最初に教わったことはそれだった。とはいっても、そんな訓練に前例はない。こころが意識的に出そうとしているものではないのだから、止めろと言ったところで止められるものでもない。呼吸を可能な限り静かに行うみたいに、絞る訓練が必要だった。幸い、眠るときに感情汚染が起きづらいことは分かっている。夢の中で得た感情は、何故だかこころから放射されないのだ。

 雛が頭を捻っていると、ある朝、目覚めたこころがおかしなことを言った。

――溢れる感情を、夢へ向けても良いと言われました。

 曰く、夢の主というひとに許可を貰ったのだという。雛はさらに訳が分からなくなったけれど、確かにその日以来、こころの感情放射は劇的に少なくなった。どうやら放射に指向性を持たせ、あり余った感情を夢に廃棄しているらしいのだ。謎の原理だけれど、こと幻想郷でそんなことを言っても始まらない。まだ急激な感情の変化の際には、少しだけ感情が漏れてしまうことがあるけれど、とにかく状況は改善したのだ。

 しかし、今度は別の問題が生じた。それまでは漏れていた感情でこころの心境を測ることができたけれど、それが無くなってしまうと、こころ自身の感情が分からなくなってしまうのである。こころの顔には表情が無い。これも理由は判明していないけれど、彼女は笑うことも泣くこともない。いや、涙は流すけれど泣き顔というものを作ることがないのだ。だからこれは、彼女の本体である無数の能面を用いることで解決した。雛はこころに、自分自身が思っていることを対応する面で表現するように教えた。楽しいときには火男の面を、悲しいときには姥の面を。

 これで、なんとか他人と同じような生活を送ることができるようになった。ただ、生まれて半年も経たない付喪神が学ばなければならないことは、他にも山のように残っている。

 こころは先を行く椛に並んで、尋ねた。

「八坂様というひとは、どんな神様ですか?」

「……それは、私よりも鍵山殿の方が詳しいはずだ」

「なぜ?」

「なぜってそりゃあ、同じ神様だから」

「同じ付喪神でも、私は他の付喪神のことを知らないです」

「……面識あるみたいだし、少なくとも私みたいな下っ端よりは詳しいよ」

「メンシキ?」

「あぁ、えぇと、会ったことがあるってこと。ほら私は分からないから、鍵山殿に聞いてくれって」

 あからさまに迷惑げな顔をされてしまい、こころは仕方なく雛の方へ向かう。怒られたばかりだから、本当はちょっと怖いのだけど。

 雛は笑って教えてくれた。

「とっても偉い神様なのよ。私なんかとは比べものにならないくらいね。何千年も昔、いまの世界ができあがったころ、その確立に力を示された方なの」

「世界を、作ったひと?」

「社会を完成させた、と言った方が正しいかしら」

「ほぁ」

 こころはよく分からないまま、曖昧な声を出した。

 八坂神奈子が妖怪の山の頂上へ、守矢神社ごと移転してきてから数週間が経っていた。強大な神の遷座に、天狗たちは上を下への大騒ぎとなったが、結局は大きな後ろ盾を得たということで万々歳の結末となったらしい。鬼を頭に戴いていた頃よりずっとマシだと、鴇などは大笑いしたものだ。似ても焼いても食えない天狗社会だが、柔剛相備わる守矢はそれをあっさりと受け入れてしまった。それに留まらず、神奈子は御山に散住する雛や秋姉妹のような八百万の神々にも、その後見となることを約束したのである。細々と自前の神徳をやりくりするしかなかった彼女たちにとって、これは朗報だった。

 その神奈子が、厄神に保護されている面霊気の話をどこからか聞きつけ、ふたりを呼びつけたのである。雛は喜んだけれど、こころにはいまいちピンと来ていない。よく知らない相手から、理由も分からずに呼び出されたのだ。驚きよりも困惑が勝っている。

 紅い山の中にあって、守矢神社の鳥居はなお赤い。山の風もすっかり秋の色に染められている。こころがここまで遠出したのは久しぶりだった。少し浮ついている彼女は落ち着きなくふらふらと飛んでいたが、気が付くと雛と椛はすでに地へ降り、いままさに鳥居を潜ろうとするところである。

 こころは慌てて、鳥居を飛び越し、ふたりの進路上へと降りた。

 しかしそこでまた、雛の雷が落ちる。

「駄目じゃない、鳥居を飛び越えるだなんて。ちゃんと潜って入り直しなさい」

「え、どうして?」

 目をぱちくりとさせる。こうした方が早く追いつけるのに。

「鳥居は神社の玄関なの。それを無視して空から入るのは、窓や壁を破って家に入り込むようなものよ。八坂様に対して失礼でしょう」

「でも、窓も壁もないですし」

「でも、じゃない! いいからこっちにいらっしゃい」

 手を無理矢理に引いて、雛はこころを鳥居の外へ連れ出す。そして改めて、一礼させたうえで入り直させた。

「はい、よくできました」

「……うん」

 どうして怒られたのか、こころにはまだよく分からない。

 真っ直ぐに伸びた参道の先で、巫女が三人を迎えるために立っていた。こころはどきりとする。人間だ。

 巫女――風祝、東風谷早苗は、ほんとうの碧い風のような微笑みを浮かべ、一礼した。

「お待ちしておりました。鍵山様にこころ様、そして、えーと……」

 順番に名を呼びながら、しかし最後に椛の顔へ視線を留めた風祝の表情は、客を迎えるための愛想笑いではなかった。明らかに噴き出しそうなのを堪えている。

「柴犬様、でいいんですか?」

「いい訳ないでしょうが無礼者め! 喧嘩を売っているなら買うぞ!」

「いえいえ、とんでもありません。いや、私も珍しい名前だなー、おかしいなー、って思ったんですけど、でも先にお越しの烏天狗の方がそう言えって」

「烏天狗……。まさか」

 牙を剥いていた狼の顔に、苦々しいものがさらに混じる。

 すると拝殿から、あからさまな高笑いが聞こえてきた。

「あっはははは! いいのよ東風谷さん。そいつの犬っぷりはまさしく柴犬。思いこんだら融通が利かないところまでそっくりそのままなんだから。あぁ、白いのに柴犬なのか、って疑問はもっともですけどね。この山に住み着いている犬はどれもこれも真っ白なのよ。トイプードルも土佐犬も、みんな真っ白」

「射命丸……殿」

 こちらへ歩いてくる烏天狗、射命丸文に、椛はまるで親の仇を見るような目を向ける。雛は天を仰いで嘆息した。なにもいつもの喧嘩を、こんなところでおっ始めなくても。

 烏天狗と白狼天狗は仲が悪い。というより、得手とする分野が違いすぎると表した方が正しい。情報戦を得意とする烏と、白兵戦こそが戦場である白狼。両者の間には考え方から趣味嗜好、仕事のシフトや金銭感覚に至るまで、ものの見事に相違がある。ゆえに長きに渡っていがみ合ってきたが、妖怪の山が幻想郷に組み込まれて外界と切り離されてからは、狭い場所でぶつかっても仕方がない、と互いへの干渉を控えるのが通例であった。

 しかし文と椛だけは例外である。文が人目をはばからず椛を煽れば、椛も即座に噛みつき返す。ふたりが顔を合わせれば、即座に喧嘩開始の鐘が鳴る。そして決まって、口げんかにキャットファイト、我慢大会に大食い勝負と、なにがしかの対決が始まるのだ。

 それを今さら仲裁しようという物好きは少ない。むしろ周囲でやんやと囃し立て、酒の肴にするのが常であった。文と椛の勝敗を専門に、賭けを仕切る胴元まで存在する始末である。

「……なんで貴方がここに?」

「そりゃあお呼ばれしたからよ。先の異変での功労者を労いたい、という八坂様のお心遣い、まさか無碍にするわけにもいかないでしょう。むしろ、どうしてここにいるのかは私が貴方に聞きたいくらいだわ。貴方も八坂様に呼ばれたのかしら。巫女の御札と魔法使いの魔砲にあっさりと撃墜された柴犬を慰めるために? 流石は八坂様、相手が犬であってもお優しくあられる」

「ぐぬぬぬぬ……」

 唸る椛の前に、雛がそっと立った。

「文ちゃん、もうそれ以上は止めておきなさい。巫女さんも困っているじゃないの。えぇと、東風谷さん、でしたっけ。ごめんなさいね。このふたりはいつもこうで」

「あぁ、いえ、違うんです。困っているんじゃなくって私、感動しているんです」

 きらきらした瞳で白狼天狗を見つめる巫女に、全員の目が点になった。

「……獣耳に尻尾が付いている女の子、まさか本物にお会いできる日がくるだなんて」

「えっ」

「ちょっと撫でさせてもらってもいいですか?」

「えぇ、えぇ、どうぞ心ゆくまで」

「いまなんでそっちに許可を求めたんですかね? いい訳ないでしょうが。よくないですって。ちょっと寄らないで、それ以上寄らないでください! あっ助けて! 厄神様!誰か!」

「きゃー、本当に耳がぴこぴこしてる! あぁ、尻尾も珠玉のもふもふ具合!」

「えぇと……」

「放っておきましょうよ、厄神様。番犬の役目も果たせず、飼い主の言うことも聞けずでは、あぁして愛玩動物になるのが関の山なのですから」

 愉快で堪らない、という風の文が拝殿へ戻っていくので、雛とこころはそろそろとその後に従うことにした。

 文の辛辣な物言いには理由があった。守矢神社が遷座してすぐのこと、天狗の不可侵境界を越えて人間たちが殴り込んできた一件で、椛は失態を犯したのである。

 博麗神社の紅白巫女。

 魔法の森の白黒魔法使い。

 山へ飛び込んできたふたりは、たまたま出くわした秋姉妹をはっ倒し、警告に現れた雛を圧倒して、異変を察知した谷河童を撃破した。その時点で御山は厳戒態勢に入った。天狗たちからしてみれば、山を侵した人間を許す道理はない。しかし守矢神社から届いた通達には、彼女たちを通すようにとあったのである。

 これには上層部もほとほと困り果てた。侵入者はすぐそこに迫っている。相反するふたつの題目を共存させる方法が必要だった。それも今すぐに。

 白羽の矢が立ったのが射命丸文である。彼女がふたりの行く手を阻み、そして撃破されればよい。文は烏天狗の中でも相応の実力者であり、御山の天狗たちを代表する身分に不足はない。加えて件のふたりの人間と交流があり、腹芸を使いこなすだけの技量もあった。さらに弾幕決闘に慣れているときており、これ以上の人材はない。わざととは言え人間に敗北することは癪だが、もはや致し方なかった。

 しかし、この事態に黙っていなかったのが哨戒天狗たちである。巫女と魔法使いが天狗の領域へ侵入してきているというのに、迎撃命令がなかなか下りない。即座に殲滅すべし、という椛の上奏は無視され続け、業を煮やした彼女は独断で飛び出してしまったのである。退魔の心得があるとはいえ所詮は小娘ふたり。刀の錆にするのは容易いと、彼女は高を括っていた。

 確かに、ルールのない命の獲り合いであったなら、椛に大きな有利が付いただろう。問題は、幻想郷の調停者たちとの戦闘が、強制的に弾幕決闘とさせられてしまう世界の機構を、彼女が知らなかったことだ。

 ふたりと接敵した椛は早速つむじ風を起こそうとして、それが見慣れぬ光弾へ変換されたことにパニックとなった。慌てて刀を抜き払うも、その軌跡すら弾幕となって宙を舞う。きりきり舞いとなった憐れな天狗に、巫女の御札と魔女の魔砲は容赦なく突き刺さった。対処方法が分からないまま撃墜された椛を、使い魔の烏を放ち、間一髪のところで救出したのは文であった。

 異変はその日の内に御開きとなったけれど、椛にとっての災厄はそこからが本番だった。待機命令を無視した彼女は諸方面からこっぴどく叱られた上に、あろうことか文に借りを作ってしまったのである。いったいこの先何年間、このネタでからかわれ続けることだろうか。そのことを考えるだけで、椛の表情は分厚い雲に覆われるのであった。

「それにしても」

 愛玩動物の情けない悲鳴を無視して、文はこころへと振り返った。

「まさか貴方が八坂様の興味を引くとは。いや、かねがね取材をさせていただこうと思ってはいたんですよ。かの鞍馬のお嬢様を泣き寝入りさせたっていうので、こころさんは天狗の間では有名人ですからね」

「そうなの?」

「そりゃあもう。しかし、貴方は此度の騒動にはまったく関わっていない。なのに今日はどうして……」

 顎を抓んで文は考える素振りをしている。困ったこころが雛へ視線を移すと、少しだけ微笑んで首を振った。気にするな、というサインだ。

 確かに、こころはふたりの人間とは会っていない。庵の中に閉じこもったまま、嵐が過ぎるのをじっと待っていたからだ。

 巫女と魔法使いに負けて這々の体で戻ってきた雛は、こころへ大人しくしているように言い含めた。紅白と白黒に手を出してはならない。なぜならば、彼女たちは妖怪や付喪神を退治したくてうずうずしているからだ。下手に手を出せば、生半可な実力のものはあっという間に退治されてしまうだろう。見たこともない真剣な眼差しで雛が言うので、こころはあまりの恐ろしさに膝を抱えっぱなしであった。その恐怖の感情を、周囲へ漏らさないようにすることだけで精一杯だった。

 雛と椛、そして文は人間たちと戦った関係者として呼ばれてもおかしくはない。では、いったいどうしてこころは呼ばれたのだろうか。

「はぁー、最高です。これ以上にないもふもふ具合でした」

「…………触られた。……尻尾…………根本から、先っぽまで……」

 追いついた風祝はとても良い笑顔をしていた。白狼天狗の目は死んでいた。

「お楽しみいただけたようで何より。ところで東風谷さん、そろそろ八坂様をお呼びいただいても?」

「あ、そうですね。いっけない、私ったら」

 早苗は改めて一行の先頭に立ち、拝殿の奥へと案内を再会する。

 守矢神社の構造は、一般的な神社とはまったく異なっている。拝殿とは祭祀を執り行うところであり、本殿は御神体を奉る場所だ。だがこの神社は、まさしく神の住む家そのものなのである。つまり参拝客を迎える拝殿を過ぎると、そこには本殿ではなく、居間に寝室、台所に風呂場といった普通の住居があるわけだ。

 五十人は迎え入れられそうな、ただっ広い客間に通され、四人は下座へ腰を下ろした。風祝が一礼とともに場を辞すると、秋の肌寒さが急に身に沁み始めた。

 こころはあたりをきょろきょろと見回す。

「……八坂様ってひと、どこにいますか?」

「まだいらっしゃっていないわ。巫女さんがこれからお連れするのよ」

「どうして?」

 首を捻るこころに、雛は溜息を吐いた。

「お偉い方はね、客を呼んでもそれを待ち受けていたりはしないの。あくまでも私たちが呼んだからそれに応えるという形をとるのよ。八坂様みたいな神様ならばとくにね」

「呼ばれたのは我々なのに」

「そういうものなのだから、きちんと覚えておきなさい」

「こころさんは素直なのね。妖怪にしては貴重なくらい」

 文がくすくすと笑う。

「それに、子育てをしている厄神様というのも新鮮ですね。こんな光景にお目に掛かる日がくるなんて」

「おかげで毎日がてんてこ舞いよ。何をしでかすか分からないし、気を抜くとすぐ『どうして?』『なんで?』が始まるし」

「子供とはそういうものでしょう。身の回りのもの、そのすべてが初めて見るものばかりなのですから」

「他人事みたいに言ってくれちゃって……。私がこんなに苦労しているのも、元はと言えば貴方たちの不始末が原因じゃなくって?」

「我々と鼻高を一緒にしないでくださいよー」

 手をひらひらと振って、烏天狗は話を打ち切ってしまった。

 こころはそれをなんとも言えない気分で見ていた。どうしてだか、見えない棘が心臓に刺さったみたいだった。今抱いているこれがどういう感情なのか、自分でも分からない。だから面も変えられない。

 ただ、周囲にこの痛みを覚られてはいけないような気がした。それだけは強く、はっきりと分かった。

 木戸が開き、風祝が主の到着を告げた。文が、椛が、雛が頭を下げる。こころも慌ててそれに倣った。重厚な足音と荘厳な重圧が、上座を横切っていくのが感じ取れる。

「頭を上げなさい。皆、よく来てくれました」

 八坂神奈子は、満面の笑顔であった。希望に満ちあふれたひとだ、というのがこころの第一印象だった。それゆえに、その存在は実際の身体よりも大きく見えた。自らを信仰するものに自信を持たせ、心の強さを与える。それを生業とするためには、希望をたくさん持っていなければならないのだろう。

「私はとても嬉しい。先の異変での、お前たちの活躍は聞きました。遷った先でこのような皆と出会えたことは、良き未来の兆しに違いないでしょう」

「勿体ないお言葉です。我ら山に住まう者一同、八坂様のような神格をお迎えできることはこの上ない喜びであります」

 淀みなく文は言い切り、再び頭を深く下げる。

「申し遅れました。私めが烏の従三位、射命丸文でございます」

「山間哨戒隊、第三十三番隊所属。白狼の勲八等、犬走椛でございます」

「流し雛、鍵山雛と申します」

「えぇと……こころです」

 四人を順番に見渡し、神奈子は満足げに微笑む。

「今日は皆の話を聞きたいのです。私たちはまだこの郷へ来たばかりで、右も左も分からない。この世界で信仰を集めるため、そしてそれに応えるために、まず必要なのは情報なのですから」

「それであれば、私を呼び立てていただいたのは正解ですね」

 居住まいを正し、文が議論の口火を切る。

「天狗は確かに強大な社会を築いていますが、御山の中へ籠もるばかりで外界へ目を向ける者はなかなかおりません。私は常より、その考え方に疑問を提示しておりました。我らはもっと、御山の外へ、幻想郷の外へと視線を向けるべきだと」

「ほう、面白い子ね」

「まぁ、それで上からは煙たがられているんですがね。しかしそこに、外の世界をよくご存じであられる八坂様が遷座された。これは我々にとっても大きな飛躍のチャンスであります。幻想郷は外面こそ平穏な隠れ郷ですが、水面下では様々な勢力が覇権を賭けて睨み合いを続けているのです。この御山に住まうは、我ら天狗を始め八百万の神々に妖怪たち。けっして他に引けを取る勢力ではございませんが、ここに八坂様の多角的な御加護が加われば、体制は盤石となること間違いありません」

「いきなりぶっちゃけてきたわね。そういう素直な者は好きですよ」

 神奈子は呵々と高く笑った。

「ではお前は、守矢がまずここで始めるべきことは何だと考える?」

「御山の信仰の確保です。しかしそれは、大天狗たちが帰順を表明した時点でほぼ完了したと考えて良いでしょう。次なる目標を定めるのであれば、人間の里。そこには幻想郷のほぼすべての人間が住んでおります。人間こそがもっともか弱く、しかし幻想郷にもっとも多く住まう者。八坂様の御神徳を示しやすく、また見返りも大きい。布教先としてはこれ以上ありません」

 満足そうに頷く神奈子だったが、しかし同時に、苛立ち気味に尻尾を床へ打ち付けた音も聞き逃してはいなかった。視線を集めた椛は、無意識の癖が出ていたことに顔を青くしたけれど、それでもその眼は上げたままだった。

「そちらの白狼は不服そうだけど?」

「……私は一介の哨戒天狗の身。政に口を挟める立場にはございません」

「構いません。聞かせなさい。そのために呼んだと言ったでしょう。私は皆の話を聞きたい。天狗のトップから最前線に立つ警備隊員まで、ほんとうの意味での皆の話を」

 きょとんとした椛の顔に、神奈子は眦を下げる。

「軍規よりも信念を優先するような、無鉄砲な若者の話はとくにね。お前の行動は当然褒められたものではないけれど、そうせざるを得ないほどの強い想いがあるのでしょう。それの理解こそ、政には必要不可欠なことなのです」

「下命を無視した私を罰するために呼んだのではないのですか?」

「どうして私がお前に罰を与えるのです? それはお前の上司の務めで、そしてもう済んだことなのでしょう。私が追い討ちをする必要などありません」

「追加の辱めは先ほど喰らってましたけどねぇ」

「……早苗のことは堪忍して。あの娘は誰に対してもあぁだから」

 全員の視線が風祝に向いたが、当人はそっぽを向いて知らぬ顔をした。

 ほとんど伏せるように平身低頭して、椛は声を張り上げた。

「私は、腹を切れ、首を差し出せと、そう言われることを覚悟して参上いたしました。そしてその命があれば素直に従い、しかしその今わの際に、我が思いの丈だけは八坂様へお伝えしようと」

 こころはどきりとした。椛が死の覚悟を決めて今日を迎えていただなんて、まったく気づかなかった。思えば、今朝がたから彼女が纏っていたどこか淋しげな色は、覚悟の色であったのか。

「申せと仰られるならば申し上げます。私には許容ができませんでした。人間が御山を踏み荒らしているという事実が。ここは神聖な山です。人間が畏れ、敬わなければならない山であるはずです。だからこそ我らが護っている。その御役目は、人間と天狗の間にある絶対の前提である。私はそう信じて、これまで務めて参りました。この御役目は、この御山は、確かに我らの誇りです。しかし、それ以前に存在理由なのです。それを、貴方様は、捨てろとお命じになった。そして、あろうことか、上層部がそれを認めた」

 声に涙が混じる。椛を見つめる神奈子の瞳は深く、そして深かった。こころはそれを、海のようだと思った。そう思って、はて、海ってなんだったかしら、と首を捻った。

「私は、もはや居ても立ってもいられなかった。だから飛び出したのです。そして、私は負けました。完膚無きまでに、叩き伏せられました。私は……弱かった」

 独白はそこで途切れた。客間の静寂を、秋風と啜り泣きだけが満たしていた。こころにはいま、はっきりと分かった。あれは覚悟の色ではなかった。悔恨だ。自分の無力さのせいで、世界の無情さのせいで、深い絶望の淵へ追いやられてしまったときの感情だ。

 やがて静かに、神が口を開いた。

「私はここに神社を遷した。そしてこれから、人間たちに信仰を求めるでしょう。それがつまりどういうことか、お前には分かりますね」

「…………人間がやってくる。参拝のために。それもひとりやふたりではなく」

「その通り。いまお前のいる、この神社まで。毎日毎日、数え切れぬほどの者たちが訪れるでしょう。では、それは神聖な山を侵す行為か? 天狗たちの名誉を毀損する訪問者か?」

「それは……」

「私はそうは思いません。確かに、禁足地とすることで守られる権威もあるでしょう。外部の者を受け入れるということで起こる衝突もあるでしょう。ですが私はこうも思う。人間たちに我らの脅威を、恩恵を、能力を、信念を、間近で体感させることで湧き起こる畏敬の念がある。相手の側にいるからこそ、本当に心の底からの尊敬を覚える。私が必要とするものはそういった信仰です。そしてそれは、天狗にあっても当てはまるのではないですか?」

「我らに、人間と馴れ合えと?」

「そうではありません。彼らと我らの間には、毅然として隔たりを維持しなければならない。礼儀は思い知らせなければならない。しかしその手段は、闇雲に追い返すばかりではないということです」

 椛の纏う色が変わった。深い絶望の底無しの谷を覗いてばかりだった彼女が、ふと背後を、ここまで歩いてきた道を振り返ったのを、こころは感じた。

「博麗霊夢、そして霧雨魔理沙。あのふたりは私を目指してここまでやってきた。言うなれば、最初の参拝者なのです。奉られている者が、詣でる者を拒む道理はありません」

「え、神奈子様。それは商売敵であってもですか」

「分社をきっちり建てさせたでしょう。だからもう不問よ。弾幕勝負では向こうに分があるでしょうけど、神社経営の勝負はこれからだわ」

「おや、これは面白いことになりますね。今代の博麗の巫女は、参拝客のない現実を一向に気にかける様子がありませんが、ライバルが現れたとなれば話が変わるやも」

「試合に負けても勝負には勝つ、というやつよ。……こほん。ですから、若き犬走よ。いま一度考えるときです。貴方がほんとうに護るべきものとはいったい何なのかを」

「……はい」

「さてさて、お次は厄神ね。お前もふたりを追い返そうとしたそうだけど」

 大いなる神に見つめられても、雛は揺るがなかった。

「私はただ、危険から人間を遠ざけようとしただけです。八坂様が遷られたのは歓迎すべきことですが、その後の御山は多少混乱していましたから。そんな場所に人間が踏み込んだとあっては、トラブルは避けられないと思いまして」

「その心がけ、誠に天晴れ。秋の姉妹神にも会ったけれど、この山の神々は皆、きちんと自分の本懐を果たそうと奮闘しているようね。そういった者たちの住まう場所へ遷ってこれたことを、私はとても嬉しく思います。そして――」

 とうとう、その視線がこころを捉えた。思わず背筋を伸ばす。正座していた足に、じん、と痺れが上乗せされる。

 どうして自分が八坂神奈子に呼ばれたのか。彼女は先ほど、話を聞きたいと言った。これまでの三人には、異変のことや御山の今後のことを語らせた。しかし、それでは自分に何を聞きたいというのだろう。こころは異変には関わっていない。御山の事情なんてぜんぜん分からない。話せることなんて、何ひとつありはしないのに。

 神奈子は暫し、無言のままこころを見つめた。穏やかな、それでいて恐ろしい視線だった。神奈子にはずっと楽しみの感情しかない。これから起こることにわくわくして仕方がない。そういう色に一片の曇りもないのだ。そんな大いなる神が、こころを深く、どこまでも深く観察している。幼き者のすべてを見通そうとしている。

 文と椛と雛はそっと互いを見合った。早苗も奉神の沈黙に首を傾げた。

「――お前は、自分を何だと思っているのですか?」

「ほぁ?」

 慌てて猿面を取り出し、頭に張り付ける。その仕草に、神奈子は少しだけ噴き出した。

「面白い子ね。神も妖も、己が何者なのかは生まれついて知っているものです。私はお前のような者を初めて見ました。だからまずは、お前が自分をどう思っているのかを知りたい」

「我々は……私は、付喪神です。能面の」

「ほう、能面の付喪神。それはまた。先ほどまでの女面と、いま着けている猿面と、他にも面はあるのですか?」

「はい」

 こころは、大きなスカートからすべての面を空中へ引き出した。六十六の面。ありとあらゆる感情の面。それらすべての顔が、空中から一斉に神奈子を見た。まるで品定めするように見下ろした。

「……なんと。秦河勝の面か」

「何ですって?」

 文が素っ頓狂な声で驚きを示す。

「これ、そんな大層なものだったんですか……」

「はたのかわかつ、とは誰ですか?」

「古代の英雄です。能楽の祖でもある。成る程、まさかそんな由緒ある付喪神と出会えるとは」

「はぁ、我々はそんな凄い面なのですか」

「凄いも何も。この世にあるすべての能面は、これを手本にして作られたようなもの。河勝がこれらの面を聖徳王より下賜されたとき、即興で舞ってみせたものが能楽や猿楽の原型なのだから」

 こころは大飛出の面とともに息を呑んだ。まさか、自分にそんな事実が隠されていただなんて!

「そうなると、それが付喪神となったお前も、きっと素晴らしい舞い手に違いありません。いやなに、私も舞を観るのは大好きでね。昔は神社に舞殿を拵えさせて、祭のときには盛大にやったものです。あぁ、懐かしくなってきた。射命丸、天狗たちの中にも能楽師はいるのでしょう? この子に手解きを受けさせなさい。見目も良いし、きっと楽しいことになるわ」

「それは楽しみですねぇ。では私の伝手を当たってみましょう」

「私が、能楽を……」

 なんだか自分の知らないうちに話が進んでいるけれど、こころには悪い気はしなかった。能楽に猿楽。不思議と耳に馴染む言葉であった。面がそれらの舞のために作られたものなのであれば、かつての自分がそのために生まれたものなのであれば、それも当然のことだろう。こころは火男の面を引っ張り出して、ぱちぱちと手を叩いた。

「では、お前がいつかこの神社で舞ってくれるその日を待つとしましょう」

「はい、やってみます。頑張ります。あ、そういえば。ずっと気になってたんですけどー」

「何かしら?」

「こんな大きな神社、どうやって引っ越ししたんですか?」

「こら、ちょっと……」

「なに、厄神よ。構いません。子供の聞くことには答えてやるのも年長者の務め」

 雛は決まりが悪そうに肩を竦める。神奈子は優しく語りかけた。

「私は神ですから、望むところに望む形で現れることができます。それは私自身のみでなく、私を祀る神社であっても同じことなのです。もっとも、事前準備はたくさん必要になりますが」

「じゃあ、どうしてこの山に引っ越ししたんですか?」

「私に対する信仰を確保できる場所で、私の象徴でもある大きな山のあるところは、もはやそれほど多くありません。細かい条件を含めても、この山がうってつけだったのよ」

「信仰ってさっきから言ってますけど、それっていったい何なのでしょう?」

「簡単に言うと、神を求める願いの力よ。ひとは願いがあるから祈り、神を求める。そして私は、それが無ければ応えることもできない。反応が無ければ、人々は神がいるのかいないのかを判別できなくなってしまうのです」

「成る程。でも、信仰を得るために引っ越した、ってことは――」

 風が、戸を強く鳴らした。

「――元の神社じゃあ、貴方はもう信仰されていないの?」

 誰かが息を呑む音がした。

 文の表情は変わらない。

 椛は口元を強く引き結んでいる。

 雛の冷や汗が頬に筋を作った。

「そうでもなければ、わざわざ引っ越しなんてしない、ですよね」

「……………………」

 神様は、目を瞑ってしまった。こころは首を捻る。なにかおかしなことを質問しただろうか。気になったことを順番に尋ねただけなのだけど。

 悲痛な色を感じて、こころは風祝を見た。わずかに目を伏せた彼女から伝わってくる悲しみは、深く透き通っていて、それが心の奥底に刻まれた傷であることを理解した。

 場は完全に凍り付いた。

 忍び込んできた隙間風が、こころと彫像たちを撫ぜる。生きた心地のしない者がいた。事の成り行きを見守ることしかできない者がいた。そして、それを尋ねてしまったことの意味を未だに理解しない者がいた。

「――そうね」

 重々しく口を開いたのは、神様だった。

「私を信仰する者は、もう外には少ない。神社も祭祀も、ただの観光資源になってしまった。確かに人間たちはたくさん参拝にやってくるわ。賽銭も投げるし絵馬だって奉じる。でもね、神様が存在するということを心の底から信じている人間は、もはや数えるほどになってしまったのです。それでは、私はやっていけない」

「だから、引っ越ししてやり直すんですね」

「えぇ。幻想郷ならば、神の存在は自明の理なわけですから」

「よく分かりました。ありがとうございました。今後ともよろしく」

「はい、よろしく。貴方の舞、いつか観せてちょうだいね」

 神奈子は和やかに立ち上がり、慌てて三人が頭を下げる。こころは急にお辞儀をした皆にびっくりして、どうしたものかとあたふたしている間に、祭神は退出してしまった。

 ほっと胸を撫で下ろす。何を聞かれるのかが分からなくて、不安で不安で仕方なかったけれど、終わってみれば簡単なことだった。こころと会ってみたかった、ただそれだけの話だったのだ。立ち上がってスカートをはたいて直し、足の痺れにひっくり返る。愉快な気分だから、火男の面を被ってごろごろと転がって遊んだ。緊張の糸がすっかり切れてしまっていた。

「……死ぬかと思った」

「えぇ、本当に。まさか、一日に二度も腹を切る覚悟を決めることになるとは」

「あんたの尻尾にもヒヤヒヤさせられたけど、最後のは本当に心臓に悪かった……」

「尻尾の件はマジですいませんでした。無意識のうちについ」

「あんたはいい年なんだから堪えなさいよ……。あぁ、疲れた。どっと疲れた」

 天狗の両名は、まるで亡霊のように立ち上がった。

 足の痺れも収まったので、こころは両脚を高く上げ、それを振り下ろす反動でひょいっと起き上がる。真新しい客間の匂いがふわりと巻き上がった。

「雛、帰ろうよ」

 声をかけたときに、こころはそれに気が付いた。厄神の感情は、苛烈な鈍色のマーブル模様を形成していた。初めて見る色。初めて見る雛の姿。こころは不安になったので、姥面を額に、音を立てないように張り付けた。俯いたその表情は窺えない。嫌な予感がするから彼女の表情を見たくない。

 だから帰り道の間じゅう、こころはできるだけ、雛の後ろをそろそろと飛んだ。陽がとぷりと沈むと、こころの身体に当たる風は刻一刻と冷たくなって、時折大きく身が震えた。衣服を着ることに慣れて、凍えるなんて感覚を久しく忘れていた。

 帰り際、天狗たちと分かれてから、雛がようやく口を開いた。

「……貴方は」

 背中越しの声も、どろどろの心も、氷のように冷たくて。

 こころは、その怪物みたいな姿に釘付けになってしまった。

「貴方は、感情が何のためにあるのかを、もっときちんと理解しないと」

「雛、どうして怒ってるの?」

 問いかけに、背中はもうそれ以上答えなかった。ずんずんと先へ行く彼女に、着いていくだけで精一杯だ。どうしたらよいのか分からない。頭の中がもやもやして、どの面を被ったらよいか、ぜんぜん分からない。ならば夢に向けている感情を、わざとこちらへ漏らしたらどうだろうか。それならば、皆にこの気持ちを伝えられるだろうか。こころは首を振った。駄目だ。そんなことをすれば、雛はもっと怒るに決まっている。

 空は紅かった。毒みたいな紅だ。

 そういえば、静葉が怒ったときもこんな色の感情だった。だから、こころにもようやく、あの仕事があの気むずかしい神によるものだということが理解できた。






「……それで?」

「それで、って?」

「例の子の話に決まってるだろ。使えるの?」

「うーん」

 頬を掻き、神奈子は相棒の神から視線を外し考え込んだ。

 洩矢諏訪子は、卓袱台に置いたコップの清酒に長い舌を浸した。いかにも祟神らしい、こういう行儀の悪い呑み方を彼女は好むのだった。

 お猪口を干し、神奈子は首を振る。

「あれは無理ねぇ……。私が想像していたものよりも数段、こう、なんと言うかヤバい力だ」

「ヤバいの?」

「ヤバいよ。とてもじゃないが転用できない」

「我らの語彙力もヤバいことになってないかい」

 にはは、と諏訪子は控えめに笑う。すでに眠っている早苗を起こさないように。

「ってことは、神奈子もやっぱり本物と見たか。いやぁ、長生きはするものだね。あんなモノにお目にかかれるとは」

「河勝の面ひと揃い、科学世紀であっても国宝級の扱いだからなぁ。というか、あれってどこかの博物館に収蔵されてなかったっけか?」

「そうじゃなくてさ」

 言葉の間に、諏訪子は素早く舌で酒を掬い上げる。

「『感情を操る』っていう、あの子の能力だよ。天狗から聞いたときは、騙されているか、連中が勘違いしたかのどっちかだと思ってたんだけどね。まさか本当に言葉通りの力だとは恐れ入った。うちらの生き方が馬鹿馬鹿しくなるね。こちとらなけなしの神徳でなんとか威厳を見せつけて、民草を恐怖させたり喜ばせたりするのに苦心してるっていうのに。あの子はちょっと考えるだけでそれが簡単にできる」

「考えて、というよりは、自分の感情を押しつけているという方が正しいな」

「今はそうだ。けど、いつか成長してあの能力を使いこなすようになったら、あの子は滅茶苦茶をやるぞ。人間や妖怪だけじゃない。感情を持つものすべてを影響下に置ける。つまりは神も仏も、あの子に逆らえない」

「そんな悪い方に考えなくても」

「あんたが楽観的すぎるから、私がバランスとってやってんでしょーが」

 諏訪子は野沢菜漬を抓み、口に放り込んだ。しゃくしゃくと美味そうに食べる様を肴に、神奈子は杯を傾け続ける。

「……やっぱり、アレを発電のエネルギー源にするのは無理か。山を鳴動させるほどの感情の力。使役できれば産業革命を起こせると思ったんだけど」

「おや、簡単に諦めたね。革新好きの神奈子が諦めるってのは相当だ。ま、私は最初っから言ってたじゃないか。そんな碌でもない力は当てにするな、って」

「そうすると、どうやって発電所を作ろうか」

「水力なら谷河童たちを動員すればなんとかなる、かなぁ」

「そういえば諏訪子、天狗から面白い情報を聞いたよ。なんでも地獄まで続くどでかい縦穴が、この山のどこかに口を開けているらしい」

「地獄ねぇ。あぁなるほど、地熱発電」

「いやいや。もっとロマンのある話さ。もっとも、ここからは噂話レベルなんだけど。その地獄の最奥じゃあ、灼熱の闇より地獄烏が生まれ出ることがあるらしい」

「灼熱の烏……。あんたまさか」

「似たような奴がちょうどいるだろう。霊を分けてその烏に取り込ませれば、ひょっとしたらひょっとするかもね」

 神奈子が満面の笑みでお猪口を差し向けたので、諏訪子は溜息と共にグラスをそれと打ち鳴らした。

 ふたりの関係は複雑だ。長年の親友であると同時に相容れぬ宿敵であり、正反対の神格を持ちながらも目指す場所は同じである。幻想郷へ遷座するという神奈子の独断に、諏訪子は腹を立てていないという訳ではない。現実主義の祟神は、夢見がちな国津神の思い描くエネルギー革命を半ば呆れ顔で眺めている。けれど、多面性を持つ神の習性だろうか。お互いに、そういう相方のことを堪らなく面白いと感じるのである。

「……あのこころって子にさ、洗いざらい吐かされたよ。いや、もちろん山の連中は皆言わずとも分かっていることだとは思う。だけど自分で口にすると、ちょっと堪えるな」

「そこで神罰を下さないとこが、またあんたらしいよ。私だったらひと飲みで喰ってる」

「子供の言うことにいちいち目くじら立てたって、仕方がないだろ」

 畳の上に仰向けに転がる。神奈子の上気した頬を、秋の夜風がさらりと撫でる。

「子供、ねぇ。あんな途方もない力を持っているのが、ただの子供か。可哀想に」

「あの子は、この先どうなると思う?」

「あぁいう奴の行く末はふたつにひとつと決まってるさ。何ひとつ成し遂げずに終わるか、それとも――」

 空になったコップの底を、諏訪子はちろりと舐めた。

「――それとも、取り返しのつかないことをしでかすか、だ」

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