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きみだけはぜったいに孤独じゃない  作者: しじま うるめ
13/68

臆面/レッドライト・グリーンライト

 そのタワーマンションはまるでこちらを威嚇するように高くそびえていて、鈴仙・優曇華院・イナバはぽかんと口を開けたまま、しばらくその見えない天辺を見上げていた。

 電車が鉄橋を渡っていく遠い轟音。小鳥が忙しない翼で電線に付いたり離れたりを繰り返す。交差点の信号が変わるたびに、自動車はエンジンを再起動して走り出していく。マンションのエントランスから出てきた母子連れが、立ち尽くす少女を怪訝な目で見ながら通り過ぎた。そこで我に返って、鈴仙は慌てて締まりかけた自動ドアに身を滑り込ませた。

 師匠より教えられた部屋番号をプッシュし、インターホンを鳴らす。

『……はいよ』

 小さなスピーカーから響いたのは不機嫌そうな老婆の声だ。臆病な兎はどきっと身を震わせたけれど、意を決してマイクへ口を近づける。

「あの、斑尾さんのお宅、ですか? 永遠亭より参りました、えぇとあの、月の兎です」

『はぁー、やっと来たよ。待ちくたびれた。エレベーターに入ったら一階を押して、扉が閉まってから五十二階を押すんだ』

「え、五十二階? 五三〇一号室じゃ……」

 ポ、と通信終了を示す電子音が鈴仙の言葉を切る。やがて堅固な金属ドアが音もなくスライドし、月兎を中へと招き入れた。そのままエレベーターへ乗り込み、言われたとおりのタイミングでふたつの釦を押す。奇妙な操作を受けても、エレベーターは何事もなかったかのように、最小限の振動で上昇を始める。小さな箱の中、階数表示が上がっていくのと同調して、鈴仙の鼓動は早まっていく。

 いよいよだ。鈴仙はごくりと喉を鳴らした。

 永夜異変の終結後、永遠亭は蓬莱山輝夜の魔法から解き放たれ、幻想郷との交流をスタートした。それに伴って、鈴仙が竹林の外での仕事を命じられることも増えたけれど、まさか結界の外へのお使いを頼まれるとは思っていなかった。

 しかも師匠の八意永琳は、この任務を八雲紫に勘づかれぬように完遂しろと言う。随分と無茶を仰るものだと思ったけれど、これまで師匠の言いつけを忠実に守った行動を貫いてきたところ、不思議なことに本当にばれていないようなのだ。夢心の秘薬、と名付けられた不気味な薬を飲まされて昏倒し、目覚めてみると結界の外だったという意味不明な出来事から今日で三日目。時空間を無視できる得体の知れないあの大妖怪から、接触の気配すらないということは、師匠の策は正しかったということだろう。これでも鈴仙は月兎兵の元エリート、そしてきっての臆病者だ。尾行や監視の類があれば即座に気づく。

 エレベーターがチンと鳴り、もどかしいほどゆっくりと、重たげに扉が開く。

 鈴仙はそろりと一歩を踏み出した。きょろきょろと辺りを見回したけれど、五三〇一号室を探すまでもなかった。そこはすでに巨大な部屋の玄関前であったからだ。五十三階には部屋がひとつしかないというわけだ。

 鈴仙がどぎまぎしていると、エレベーターが降りていくのを見計らっていたのか、十秒ほど待ってから玄関は開いた。

「さっさと入りな。お師匠様がお待ちだ」

 出てきたのは、先ほどインターホンへ出たと思われる老婆だった。直角に曲がった腰を、杖代わりにした竹の棒で支えている。小柄な身体が、その格好のせいで犬か何かくらいにさらに小さく見える。

「……お邪魔します」

「僕は丁礼田。お師匠様の、まぁ付き人みたいなものだな」

「鈴仙といいます。あの、師匠から……八意永琳から事前に連絡が?」

「お師匠様にね。何やら僕らもよく分からん方法で、あんたが来ると予示があったんだと。しかしまぁ、月の兎とはねぇ。もっとけったいな格好してるもんだとばかり思ってたけどね、僕は」

「こちらの世界で目立たない格好をしろと言われて、一応」

 鈴仙は苦笑した。そういう老婆は緑がかった灰色の狩衣姿である。そのまま外出したならば、それはもう目立つことだろう。おまけに「僕」と言ったか。声の波長は、目の前の老人が明らかに女性であることを示しているのだが。

 部屋の中に入ると、目に飛び込んできたのは瀟洒な日本家屋の内装であった。昨日宿泊した場末の寂れた旅館とは比べものにならない。床板は鏡のように磨き上げられ、壁は丁寧な漆喰塗りだ。廊下は入ってすぐに鉤型に二度曲がり、奥が見通せないようになっている。老婆はその廊下を、遠慮なく杖を突きながら進んでいった。よく見ると、杖の石突にはゴムカバーが被せられていた。

 ゆっくりした老婆の歩みの、その後から鈴仙もゆっくりと歩いた。紙のぱりっと貼られた障子戸が、奥までずらっと続いている。柔らかい陽光が廊下を満たしていた。見れば見るほどに、タワーマンションの五十三階とは思えない空間だ。

 中程の部屋で、老婆は障子を開けて声をかけた。

「里乃」

 曲がった背越しに部屋を覗くと、また別の老婆がいる。窓辺の日向に、正座したままうなだれていた。眠っているような、あるいは死んでしまっているような格好だ。竹杖の老婆とは色違いの、薄い桃色の狩衣を着込んだ老婆は、かけられた声にもまったく反応を示さない。

「おい、里乃よ。いつまで寝てるんだい。今日はお師匠様への客があると言っておいただろ」

「んん……あぁ?」

「まったく、いつもこの調子だ。四六時中昼寝しっぱなしなんだから。あれは爾子田。僕の片割れさね。ちょいと待っててくれよ。ふたり揃わんとお師匠様を起こせない」

「はぁ」

 畳の上にも容赦なく杖を突きながら――よく見ると、畳は杖の跡でぼこぼこしていた――、丁礼田は爾子田を引き起こしに行った。何やらむにゃむにゃと呟きながら、されるがままに立ち上がる。その背格好もやはり小柄で、いつ枯れ果てて消滅してしまってもおかしくないといった印象だ。その手に茗荷の枝が握られていることに鈴仙は気づいた。丁礼田に手を引かれて部屋から出ようというところで、爾子田はようやく客に気が付いたらしく、ぼんやりと会釈をする。老いた者の饐えた臭いが強くなる。

「お師匠様、っていうのが斑尾さんのことなんですか?」

「当たり前だろ。他に誰がいるっていうんだい」

 丁礼田は苛立ちながら答える。手を引いていても歩幅狭く歩く相方に四苦八苦しているのだ。

 斑尾希奈、それが鈴仙が接触を持つよう言い使った相手である。その名を知る者は、こちら側の世界であっても数少ない。その資産と影響力は莫大なはずだが、その正体を調べたとしても、顔写真のひとつだって分からないだろう。世論を二分した国家福祉統制法の成立時、その是非を問う衆議院選挙にて、議席数を完璧にコントロールした。そんな都市伝説が、政財界の一部ではまことしやかに囁かれている。姿を見せぬまま人と金を自由自在に操るその手腕は、まさしく正体不明の魔人であった。

 もっとも、外の世界で暮らしたことなどない鈴仙にとっては、そんな師匠の解説もぴんと来ない話ばかりであるのだが。

 前を歩く爾子田が振り向いた。腑抜けたように皺くちゃの顔を歪めるのは、おそらくは笑顔であるのだろう。曇った眼で鈴仙をじっと見つめるので、曖昧に笑い返す。この老婆はもう、痴呆の果てに自分のことすら分からなくなっているのだ。永遠亭の患者が増えるにつれ、鈴仙はこういった老人を何度も目にした。身に染み着いた習慣と、目の前のものに対する反応だけでしか生きられなくなってしまった人間を。

 廊下の突き当たりの戸を、丁礼田がするりと開く。

 その瞬間、空気が変わった。薄暗い奥の間から、不気味な気配が漂ってくる。まるで底の見えない大海原のように、潜む巨大な何かの存在を感じるのだ。

 ふたりに続きおそるおそる戸を潜ると、そこは不思議な空間だった。正方形の板張りの間の中心に、一段高い舞台のような場所が備えられている。天井には裸電球がひとつだけぶら下がっており、これが唯一の光源であった。陽光の溢れていたここまでの開放的な部屋とは大違いだ。

「ちょっとそこで待っててくれ。ここから上は、僕がいいと言うまで入るんじゃないよ」

 その言葉に、舞台へ上がりかけていた足を鈴仙は慌てて降ろす。丁礼田と爾子田は、それを尻目にゆっくりと灯りの真下まで進んでいった。

 するすると滑るように動くふたりの様子は、出来損ないのからくり人形のようだった。締まらない老婆たちとは裏腹に、辺りの空気は弾けば鳴りそうなほどに張りつめている。鈴仙は固唾を飲んだ。

 舞台の中央に辿り着いたふたりは向かい合ってしゃがみ込み、そしてそのまま微動だにしない。目を瞑ったまま指の一本すら動かさないでいるので、死んでしまっているようにもあるいは見えただろう。しかし鈴仙には分かる。事物の波長を感知する術に長けた彼女には分かる。先ほどまでバラバラだった丁礼田と爾子田の波長が、目に見えない誰かの調律によって同期を始め、あっという間にひとつの巨大な波となっていた。加えてよく見れば、ふたりは口を開かないまま、何事かを口中で呟いていた。

 灯りが肥大した。そのように鈴仙には見えた。まるで空間そのものがレンズとなったかのように、ふたりの姿が膨らんでいく。思わず伸ばした手の、指の先端がどんどん短くなっていく。経験したことのない力場が形成されていた。ここが戦場であったなら、臆病な兎は即座に逃げの一手を打っただろう。

 そしてふたりは立ち上がった。丁礼田と爾子田は、もはや先ほどまでの老婆ではなかった。緑色の巫女の腰はしゃきっと伸び、桃色の巫女の瞳には焦点が戻っている。驚く鈴仙をよそに、ふたりはゆっくりと舞い始めた。捧げ持つ竹と茗荷を規則正しく上下させ、時折交差させるように打ち鳴らす。その四肢は音もなく滑るように動き続けた。とても人間の動きとは思えない。アンドロイドと言われた方がまだ納得できる。

 音なき音楽はどんどん厚みを増し、空間のレンズ化は進行する。舞台の中心に立つはずのふたりが、もはや目と鼻の先にいるようだ。鈴仙の呼吸は止まった。いや止められた。僅かでも息を吐けば、力場の緊張の反作用で吹き飛ばされてしまいそうな気がした。

――シシリシニシシリシ

――ソソロソニソソロソ

 その呟きにようやく気が付く。ゼロの音を無限に重ねられた交響曲に合わせて、虚無の囁きを数億人分もオーヴァーダビングしたような、耳に届くはずのない無波形の音。静寂が五月蠅くて仕方がない。耳を塞ぎたくても、指先ひとつすら動かせない。鈴仙は拘束されていた。実体のないぴったりとしたガラス容器に詰め込まれているようだった。

――シシリシニシシリシ

――ソソロソニソソロソ

 空間のレンズ化、すなわち膨張が極限に達し、球体となって切り離された。いや、何を言っているのか鈴仙は自分でもよく分かっていないが、そう形容するしかなかった。舞台はこの世界とは異なる次元と化し、ふたりの踊り子はその内部にいた。そのダンスは何よりも近くに見える。その世界はおそらく自分の眼球の中に在る。ふたりはもう老婆ではなかった。瑞々しい少女の姿となってそこにいた。何も不思議なことはない。彼女たちはもはや別の宇宙にいるのだから、時間の流れがこの宇宙と同じはずがない。

――シシリシニシシリシ

――ソソロソニソソロソ

 そして。

 交響曲の爆発。反響が固形化し、衝撃が起爆剤となって、弾けたゼロが無限大と化す。

「……………………は」

 呼吸の方法を思い出して、鈴仙はびくりと身体を震わせた。

 目を擦る。舞台は何の異常もなくそこにあり、ふたりの老婆も元の姿だ。ゆらゆらと揺れる裸電球だけが、そこで何かが舞っていたことの残滓を物語っている。

「はぁ、しんどー」

 丁礼田は竹杖に縋るようにして、直角に曲がった腰をさすった。傍らの爾子田はまたもや我を忘れており、虚空に舞う何かをぼうっと目で追っていた。

「これでお師匠様は起きた。あの先におわすから、用件を果たすといい。ただ三十分が限度だ。それ以上は意志疎通できないから、手短に済ますように」

 指し示された先には両開きの鉄扉があった。鈴仙は再び目を擦った。あんなところに扉なんてあっただろうか。

 いや、考えても仕方ない。あそこに目的の相手がいるというのなら、自分の採り得る選択肢は「進む」の一択だ。舞台へ上がらないようそろそろと回り込みながら、鈴仙は自分を鼓舞した。

 扉に手をかける。かけようとしたところで、それは勝手に向こう側へと開いた。その先は暗黒ばかりで、床すらも見えない。流石に躊躇した。足を踏み出したら宇宙の果てにさようなら、では洒落にならない。

――バタン。

 背後で扉が閉まる音。ぎょっとして振り向いた鈴仙は、自分がすでに暗闇の直中に放り出されていることに気づく。あの鉄扉がどんどん遠く離れていく。自分は一歩も動いていないのに!

――バタン。

 また背後で扉が閉まった。再び振り向くと、鉄扉の錠ががちゃりと閉まるところだった。

「えぇ……?」

 困惑とともに辺りを見回す。地下室のような密閉空間だ。一辺が十歩ほど、コンクリートが打ちっ放しになっている殺風景な部屋のその中心に、いくつものディスプレイが備え付けられている。そしてその前に、彼女はいた。こちらに背を向けたまま微動だにしない。薄暗い空間に作り上げられた蛍光のドームは、先日映画館で観たSF映画の、宇宙船の船長席を想起させた。

「あの」

 声をかけるも、目に見える反応はない。眠っているのだろうか。赤い瞳を凝らしてみる。身体が発する波長は、しかし睡眠中のそれではなかった。だが丁礼田は師匠を起こしたと言っていたし、時間も三十分しかないという。無駄にできる時間はあまりないけれど、勝手に近づいてよいものかどうかも分からない。だって永琳によれば、斑尾希奈とは……。

 微かな駆動音に我に返る。羽虫の歯軋りのような、耳にひり付く甲高い音。彼女の腰掛けた椅子そのものが回転を始めていた。真っ白な電光に照らされた横顔を見たとき、月の兎はすべてを覚った。

「やぁ、君が月の賢者殿の遣いか」

 振り向いたのは怜悧な顔立ちの少女だった。北斗の意匠が施された荘厳な狩衣。

 その前に機械式のアームが伸ばされ、首辺りに装着されたレバーを顎で操作している。彼女は完全にこちらへと向き直ると、顎を顔ごと突き出してレバーを前へ倒す。すると椅子が前進を始めた。

「歓迎しよう。私が斑尾、もとい魔多羅だ」

 鈴仙はあまりの衝撃にしばし固まっていたが、自分の来訪目的を思い出すと慌てて頭を下げた。

 彼女こそが魔多羅隠岐奈。日の本を裏から牛耳り続ける魔人。

 しかし、鈴仙の疑問は消えない。目の前の少女は、鈴仙の目視でも波長感知でも、十五かそこらの人間にしか見えないのだ。

 師匠の言葉によれば、この者は人間ではない。斑尾の名は少なくとも明治の時代には見え隠れしており、それを行使する者もずっと同一人物であると永琳は推理している。永琳の推理はすなわち真実の看破であるのだから、彼女が神か妖怪の類であることは自明だ。

 事実、魔多羅隠岐奈から受けるプレッシャーに、鈴仙は明確な危険を感じている。ただの人間の娘相手ならば、こんなことはあり得ない。

 情報を集める必要がある。師匠の言葉通りにメッセンジャーとしてだけ動いたのでは、きっと失望させてしまうだろう。鈴仙は必死で思考を回転させた。

「あの、そのお身体は……」

「君は、私と雑談をしに来たのか?」

「いえ、あの、その。師より何も聞かされていなかったもので」

「当たり前だ。たとえ八意殿であっても、私の現状を知るはずがない」

 電動車椅子が停止し、隠岐奈の冷たい視線が鈴仙を正面から見上げた。袖から除く手は骨と皮ばかりで、まるで枯れ枝のようだった。

「無礼者め。こんな愚か者が弟子では、月の賢者も苦労するだろうな」

「し、失礼しました」

 平身低頭の平謝りを見せつつ、感情の波長を探る。自身を尊大に見せたがるタイプは、表出させる感情も飾ったものであることが多いが、これは本心からの不快だ。意外と直情型であるらしい。

 向こうがこちらを見下しているというのであれば、とことん愚か者を演じるべきだ。特殊部隊の情報収集訓練で叩き込まれた基本を思い返す。愚かだと思われたなら、それを利用しろ。

「しかし、貴方が人間だなんて知りませんでした。てっきりもっと仰々しい何者かかと」

「そんなことはどうでもいい。用件を」

「でも貴方、本物なんですか? 人間を影武者に仕立ててるとか、そんな可能性だって」

「……あのねぇ」

 影ができそうなくらいに濃い溜息を、隠岐奈は吐いた。

「話にならん。会いたいと申し入れてきたのはそっちだぞ。それでなぜ私を疑う?」

「私の預かった使命は重要なものです。コンタクトした相手がもし別人だったとなれば、私も師匠に面目が立ちませんので」

「見た目でしか判断できないとは、月の都もたかが知れるな。なら分かるように喋ってやる。この身体は……」

「――生まれつき頸椎を損傷しておられる。つまり貴方は、首から下をまったく動かすことができず、また感覚も通っていない」

 鈴仙はじっと黄金の瞳を見つめ返す。狂気の呪こそ籠めてはいないが、月兎の赤い視線はただその色だけで相手を圧倒する、彼女たちの立派な武器かつ交渉手段である。本心はと言えば、今すぐ尻尾を巻いて逃げ出したいのだけれど。

 あえて神経を逆撫でし、心のガードが下がったところに全力の直球を投げ込む。相手の波長を見ながらコミュニケーションができる月兎ならではの、相手の口の滑りを良くするための技術だ。そこから引き出される反応は、高確率で相手の本質を示している。

 隠岐奈は瞼を少し震わせたきり、その表情を変えない。上手くいっただろうか。

 とはいえ診察眼自体には自信があった。目の前の少女は発話、すなわち自発呼吸は問題なくできているが、車椅子を手ではなく顎でコントロールしている。もし首から下がまったく動かせないのだとすれば、異常があるのは高確率で第四頸椎である。これより上の部分の損傷では自発呼吸ができず、逆に損傷部位が下なら肩や腕が多少は動かせるはずだからだ。また手の筋肉は痩せ衰えたというよりはそもそも発達していない形状であり、生まれたときから動かしていないと考えるのが自然である。つまり後天的な頸椎損傷ではなく、生来の身体障碍、おそらくは奇形脊髄の持ち主というわけだ。

 ここまでは人間の身体構造を知っていれば判断できる話だ。月兎軍学校に永遠亭、叩き込まれた知識は伊達ではない。

 問題なのは。

「人間でないはずの貴方が、なぜそのような状態に?」

 魔多羅隠岐奈が神、あるいは妖怪であるのなら、動かせない人間の身体を甘んじて受け入れているというこの現状は、非常に奇妙であり理解できない。人外の者たちは、自分の身体を時代や環境に合わせて改変していく能力を持っているものだ。それをしていない理由は、永琳さえ「よく知らない」と言った、魔多羅隠岐奈の正体に迫る鍵となる事実だろう。

 隠岐奈は目を閉じ、息を吐いた。おそらく、鈴仙の赤い瞳の影響を排除するために。

「私は千年を超える刻を生きてきたが、同一の身体は持っていない。人間の身体を持って生まれ、そして死ぬ度にまた別の赤子の身体へ転移し、産まれる。それを何回も繰り返してきたのだ。その過程で、私は実に様々な神格を己に付与してきた。私は地母神であり、能楽の神であり、星の神であり、養蚕の神であり、被差別民の神である。そして障碍の神でもある。その神格を得たときに、私はひとつの制約を自身に課した。私が別人として生まれ変わるとき、重き障碍を負った赤子を選ぶ、とね」

 究極の絶対秘神。すべての背に潜む者。背後に追いやられたあらゆる者たちの神。

 光の射す場所には必ず影が生まれる。その影に隠れる者もいれば、影へ隠される者もいる。魔多羅神は影の神なのだ。太陽の神でも月の神でもない。それらの光によって生まれる、昏き場所の神なのだ。

「障碍は大別すれば身体のものと精神のものとなる。私はそのどちらを負ってもよいように、常にふたりの童子を従えることとした。お前も丁礼田と爾子田に会ったな? あれは私の身体と精神を補佐するためにある。今の私はどちらにも重い障碍があるから、あのふたりには苦労を掛けるが……。まぁ、治療が進めば、二童子への負担もいくらかはましになるだろう」

「治療……?」

 鈴仙は首を傾げる。損傷した状態が固定されてしまった脊髄を、治す方法は存在しないはずだ。

「確かに、現代の医療技術では不可能だ。だが私は古今東西のあらゆる魔法、秘術に通じている。それを応用すれば、このように――」

 言いながら、隠岐奈は車椅子をするりと蛇のように抜け出した。空中を波打つように泳いだかと思うと、軟体動物のように足先だけで着地、そのままぐるりと直立姿勢まで立ち上がる。明らかに人間の者ではない身体捌き。鈴仙は眼をぱちくりとさせた。

「――このように、私は自分の障碍を無視して行動することが可能というわけだ。手足が筋肉では動かずとも、魔法で操作できるのであれば、それは動かせると言ってよいだろう? まぁ、今はまだこの程度しかできないんだが」

「なるほど。それは考えたこともありませんでした」

 自分で自分を操り人形のように操作したわけだ。器用なことを、と鈴仙は舌を巻く。

「それにこの身体の症状はかなり特殊でね。脊髄を囲む血管に奇形があり、ぎちぎちに膨れ上がった血管瘤が脊髄を締め付けている状態なんだ。手術では如何ともし難いだろう。しかし念動力を使ってやるのなら話は別だ。今は精密な力の行使のために、血管の精密なスキャニングをしているところでね。君の言う通り、ようやく第四頸椎までの血液流が正常化した。この作業を完遂すれば、この身体を自在に動かせる。二童子に楽をさせるどころか、逆に力を分け与えてやれるだろう」

「なるほど。これは確かに究極神の御業。お見逸れいたしました。これまでのご無礼をお許しください」

 最敬礼を返すと、車椅子へ元通りに収まった隠岐奈は得意気な顔をした。

 まずは目標を達成したことに安堵する。ここまでの話が本当なら、永琳の元へ重要な情報を持ち帰ることができるだろう。

「あぁ、疲れた。本題に入るか。八意殿からの伝言だったな」

 隠岐奈は首の座りを確かめながら肩の位置を直した。鈴仙は頭の中で師匠の言葉をあらためて思い起こす。同時に、あの往診で見た不思議な少女のことも。

「貴方が聖徳王より賜わった六十六の能面。それが今、幻想郷にあります。しかも付喪神、妖怪となって身体を得ているのです」

「……何だって?」

 俄に気色ばんだ隠岐奈に、鈴仙は反射的に顔を伏せた。感情の波長の切り替わりが素早い。先ほどの成功がただの幸運だったことを知る。苦手なタイプだ。

「我が師、八意永琳は彼女を診察する機会がありました。彼女は面の群体をその身体とし、常に引き連れている奇妙な様相でした。師は即座に、それらの面が聖徳王の手により彫り上げられたものであるということを、そしてその本来の持ち主が貴方であるということを見抜いたのです。ゆえに私が遣わされました。面の所在、および来歴を確かめてくるようにと」

「ふむ……」

 暫しの思案に会話が途切れる。四方にから空調設備の囁くような唸りが響く。

 永遠亭に往診依頼があったのはひと月ほど前のことだった。一度は断ったものの、やってきた白狼天狗は「受けてもらわなければ困る」の一点張りで、永琳が折れるまで帰らなかったのだ。

 妖怪の山へ一歩踏み入ったとき、鈴仙はその強大な感情放射の波長に、思いきり殴られたような衝撃を受けた。痛い、苦しい、助けて。声が聞こえなくとも、その意志は痛いほどに伝わってきた。何かとんでもないものが、理解を超えたものが山にいる。

 びくびくしながら師匠へついていった先、厄神の住処だという質素な庵に、その少女はいた。全身を擦過傷まみれにし、あちこちで化膿が酷いことになっている付喪神の少女だった。奇妙なことに、本体であるのだろう無数の面たちが、少女の身体の上で円錐型の回転体を構成していた。その頂点には鈴仙も見たことのない白と黒の面。色違いのそれらが背中合わせに貼り付いて、周囲を威圧するように見渡していた。まるで何かの警戒装置かのようだった。動けない少女の身体を、面たちが護っているようにしか見えなかった。

 保護者だという厄神は疲れ切った顔で、永琳の問診に答えた。無理もない。庵に入って十分しか経っていない鈴仙ですら、すでに全身がひりひり痛むかのような錯覚を覚えている。体調が悪いときの、身も心も重たくて仕方ないあの感じ。少女の放つ強大な放射が、近づく者たちへ影響を及ぼしていることは明白だった。その少女の傍にずっといるのだとしたら、厄神の受けた影響がどんなものであったのかは想像に難くない。

 そして永遠亭に戻ったその日の夜、永琳は自室に鈴仙を呼びつけ、自らの懸念を弟子に伝えたのだった。あの少女の周囲を睥睨していた面は、千四百年ほど昔、聖徳王が自ら彫ったものに違いない。それが付喪神と化してあぁなったのだ、と。しかしそれには、幾つかの大きな矛盾点がある。

 最も単純な矛盾は、国宝級の丁重な扱いを受けていたであろう聖徳王の面が、付喪神化するはずがないという点だ。付喪神は、忘れられた道具に神霊が宿るというパターンが最も多い。人々に敬われてきた物体が、神格を宿すならまだしも、妖怪となるだなんて聞いたことがない、と永琳は言った。

 さらには、付喪神が大怪我で寝込んでいるという事実がそもそもおかしいものだ。妖怪は精神に重きを置く生命であり、何か曰く付きの武器で攻撃されでもしなければ傷に意味などない。だから付喪神がダメージを受けるとすれば、それは本体である道具が破損したときであるはずなのだ。なのにあの少女の状態はその逆だ。ぼろぼろの肉体が、面たちに護られているのだから。

 それらの異常に、永琳は何かが起こったのだと推察し、鈴仙を隠岐奈の元へ遣わせることを決めた。聖徳王より面を下賜された秦河勝、その神格は魔多羅神と合一してしまっていたからだ。師匠と秘神の間にどんなコネクションがあるのか、そもそもどうして永琳がそんな秘神を知っているのか、鈴仙にはまるで分からなかったが、言われるがままに大結界を抜けて隠密行動を開始したわけである。

「……八意殿には隠し立ては通じないか。仕方ない、恥を忍んで打ち明けよう。実はな、あの面は収蔵場所から盗まれたんだ」

「盗まれた……。それはいつ頃のことですか?」

「ちょうど一年くらい前、中秋の月の頃だ」

 永夜異変と同時期である。鈴仙の耳がぴくりと震えた。

「私もほうぼう手を尽くして捜索させていたんだが、そうか、幻想郷に入ってしまったか。この世界から消え失せていたのでは、そりゃあ見つかるはずもないな」

「ちょ、ちょっと待ってください。盗まれたときにはもう付喪神だったんですか?」

「いいや。これといって防止手段を講じているわけではなかったが、この科学世紀じゃあ、物置の古道具だって物言わぬまま朽ちていくさ。ましてや博物館へ預けて適切な処置の元で保管されていた面だ。勝手に動き出すなんてこと、間違ってもあり得ない」

「それじゃああの子は……」

 たった一年で妖怪に変じ、そしてあれほどまでの力を得たというのか。事実だけを並べてみても、俄には信じ難い事態である。何を食べればあんな風になるんだろう、と鈴仙はどこか呑気に考えた。

 ふと、隠岐奈の瞼が、少し緩む。

「君は直接、その子と会ったんだな。何でも構わない、君の印象を聞かせてほしい」

 瞳の奥から発せられる怜悧な金色の光に射抜かれ、月兎は再び顔を伏せる。

 今はっきりと分かった。やはりこのひとは苦手なタイプだ。自分自身に絶対的な信頼を持ち、他人を従わせるカリスマに満ち溢れている。だから判断は早く、そして厄介なことにその結論はたいてい正しい。このひとに着いていけば安心、このひとのためなら死ねる。誰にでもそう思わせる類の天才的人たらし。自分とは相反する存在だ。生まれ持っての下っ端根性で、誰かに着いていくことしかできない自分とは。

「……とにかく、異常な力場でした。誰彼構わず、自らの苦しさをひたすらに発信するだけで。ただそれだけなのに、あまりにも力が強い。我が師が気疲れするところなんて初めて見ました。でも、本当にそれだけなんです。あの子は悪意とか害意があってそんな力を使っているんじゃない。酷い怪我をして、痛くて仕方がないということをただ思っている。ただのそれだけ。それだけで誰かを苦しめるだなんて、きっと夢にも思っていない。自分の力について何も知らない。そう、あれは、まるで駄々をこねる赤ん坊のような……」

「ような、ではないな。本当に赤子なのだ。訳の分からぬまま生まれ、泣き叫ぶ代わりに感情爆発を起こしている。赤子がどうして泣き叫ぶか分かるか? 恐ろしいからさ。吸い込む空気が、肌に触れる産着が、自分を取り囲む得体の知れない大きな生き物たちが、いったい何なのか理解できないから泣くのだ。妖怪の山の天狗たちから聴取しただろう。それの誕生が見込まれる時刻、おそらくは唐突に、全員が強烈な恐怖に襲われたはずだ」

 図星に驚愕を押し殺す。装った冷静が剥がれていないことを祈る。

 隠岐奈は口元のストローで、いくらか水を吸った。

「さて、そうなるといろいろと厄介だな。我が面は明らかに通常とは異なるプロセスで生命を得た。しかも、僅か一年で比類なき力と感情を身に付けたときている。そんなものが自然発生するとは考えづらい。面を盗んだ者が、あれを生み出したのだ」

「ど、どうやって?」

「さぁなぁ。そこまでは見当も付かない。碌でもない手段ではあろうがな。それよりも気にすべきは、誰が、何のためにやったのか、だ」

 車椅子のモーターが駆動して、背もたれが倒れていく。リクライニングが七十度ほどに達したとき、秘神は目を閉じて深く息を吐いた。

 そろそろ三十分が経過しようとしている。脳内の波長時計を確認した鈴仙は歯噛みした。時間制限があると、丁礼田は確かに言っていたが。

「……八意殿の見解は?」

「ほぼ貴方と同じです。付喪神のように見える、何か別のものだろう、と」

「やはりな。それでは八意殿に伏してお願いする。私はこの通り、あと数年間は幻想郷に干渉できない。その間、我が面の成り果てた何かを注視しておいていただきたい。それと――」

 言葉を切った隠岐奈は、ふと遠いものを見る目をした。

「――それと、この話は他言無用としたい。とくに八雲紫には」

「えっ」

 唐突に出たその名に、思わず耳が縮んだ。あの胡散臭い大妖怪が、あの事態に気が付いていないはずがない。

「あいつは気づいていないさ。察知していたら、いの一番に私の元へ式神を寄越すだろうからな。いやもしくは、気づいていてもお前たちを泳がせているのかもしれないが。いずれにしても、この問題を紫に話せば、その瞬間からこれを自身の問題としてしまうだろう。あれは優しすぎる。無用な心配はさせないに限る」

「優しい……?」

 相対したときの言動、表情、そして弾幕を思い返し、鈴仙は身震いした。優しくなさで言えば、師匠と同じレベルかそれ以上だと思うけれど。

 隠岐奈は弱々しく口角を上げて、笑った。

「賢者の優しさというのは、そうでない者には理解できないものだ」

 それっきり隠岐奈は目を閉じて、まるで死んだように動かない。

 鈴仙はきょどきょどして、何か対処するべきかを迷った。別れの挨拶すらしていないけれど、このまま退出してしまっていいものか。そもそも、どうやって戻ったらよいのだろう。

 そうこうしているうちに、扉が彼女を追い越していき、再び宇宙遊泳が始まった。

 動転しているうちにあっという間に闇から放り出され、気づくとそこはもうマンションのエントランスである。行きにすれ違った母子連れが、へたり込んだ少女をやっぱり怪訝な目で見ながら、マンションへと帰っていった。

「乱暴だなぁ、もう」

 土を払って立ち上がる。なんだか有耶無耶なうちに終わってしまったが、兎にも角にも目的は果たした。五体満足で戻ってこれたということは、大きな粗相もなかったはずだ。それに魔多羅隠岐奈の重要な情報も手に入れたときている。きっと師匠は喜ぶだろう。少なくとも怒られることはない、はずだ。

 秋晴れの空の下へ、帽子を深く被った月兎は、帰途を一歩踏み出した。

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